「忘れない事が」




――日曜日。
私は前々から取り掛かろうとしていた押入れの掃除をしていた。

「……ええっと、これはもう捨てる、と」

仕事の忙しさにかまけ、とりあえず何でも押入れに詰めていたツケは大きく、押入れはなかなかに大変な事になっていた。

どうして取っておいたのか判らないもの、どうしてこんなに大事なものを無造作に放り込んでいたのか判らないもの……、私はそれら全てのものを一旦取り出し、細かく分別していた。

「……わ、中学校の文集とか出てきちゃった……」

それまでは高校の制服が一番の古株だったが、さらにその上をいく一品が登場。
どうやら私は昔から整理整頓が下手、その上ものを捨てられない性格だったようだ。

……う〜ん、お昼前には終わると思ってたんだけどなあ。

時計を見ると時刻はすでに2時近く。
しかし作業はやっと半分終わったかな? という状態。これはうかうかしてると夕方になってしまうかもしれない。

「……ああっ、ダメダメ!」

ブンブンと首を振り、私はページをめくりかけていた文集を閉じる。
こんな事ばかりしてるから時間だけが過ぎるのに……

……バサ

「ん?」

と、その時だった。
押入れの中でも特に古いものが密集している場所から一冊の本が落ちてきた。

「……」

あれ? この本は……

私はそのどこか見覚えのある本を拾い、表紙を見る。
そこに書かれていたタイトルは「ダムに沈む村」、私の祖母が住んでいた村の写真が集められた本だった。

……こんな所に、あったんだ……

そう呟き、私は表紙の写真を見つめる。
山に囲まれた小さな集落、それは紛れもなく私の祖母の村、毎年夏休みになると遊びに行っていた村に間違いなかった。

「懐かしいな……」

私は写真の中の風景から昔の記憶を、古くて大きな家や近くの川、そして祖母の顔を思い浮かべ、遊びに行っていた頃を懐かしむ。

「……」

……そして、今はもうこの風景を見れない事に、大好きだった祖母ももういない事に悲しい気分になる。


今から10年以上前、祖母の住む村はダムの建設計画により、移転を余儀なくされた。
まだ景気がよかった頃に発案され、50年に一度あるかないかの水害防止のために作られたダム……
そんなものに祖母の村は、そんなもののために私の大好きな田舎はなくなってしまった。

子供心ながらにおかしいと思った。不必要だと思った。
……でも、私がダム建設の話を聞いた時にはすでに全てが決まってしまっていた。

……だから。

だから私は、自分の出来る最大限の努力として、抵抗として、どんな事があっても祖母の村を忘れないよう心に決めた。

……でも。

「……」

私は無言でページをめくり、今は無き村の風景を写した写真を食い入るように見つめる。

見覚えのある山、田んぼ、古いバス停、小さな神社……

そのほとんどを実際に見ている私だが、中には記憶の曖昧なものも混じっていた。

それが、どうしようもなく、悔しかった。

……昔は、少なくともこの本が発行された直後は、この本に載っている全ての風景を知っていたというのに……

「……」

そんな思いが、私の胸を締め付ける。
昔あれだけ忘れないようにしていたのに、あれだけ強く想っていたのに……

そう考えると、自分が情けなくて仕方なかった。

記憶の中に埋もれ、忘れかけている風景……
このままどんどん曖昧になっていくのか、そして最後には完全に忘れてしまうのか……

そんな事は思いたくない、考えたくない……
でも、そうなってしまいそうで、実際にそうなりかけているのが怖くて……

「……」

私は、震えていた。

怖かった。色んなものが怖かった。そして許せなかった。

……ペラリとページをめくる度、知らない風景があるのが怖かった。それが昔は覚えていたであろう風景である事が許せなかった。

「……どう、して……?」

力なく、消え入りそうな声。
どうして、と言うのが精一杯だった。

わからない、見覚えがない、思い出せない……

まるでそれは罪であるかのように、幼い頃の自分に問い詰められ、睨まれているような感覚に、私は苛まれていた。

……思い出さなきゃ、思いださなきゃ……

……忘れちゃダメ、忘れちゃダメ……

強く、言い聞かせるように。
でも、そう言っている自分の心はこれ以上ないくらい弱く、脆く。

……ごめん、ごめんね……

そして、私は謝る。
もういない祖母に、昔の自分に。

「……ッ、……ッ」

押入れの前、ものが散乱する中、1冊の本を両手に持ちながら。
私は泣いていた。ただただ嗚咽を漏らしていた。

……そして、そのまま私はしばらく泣き続け、その場にずっと立ち尽くしていた。



――20分後。

「……」

……少し、落ち着いたかな……

私は自分に言い聞かせるように、確認するようにそう呟き、大きく息を吐く。

「……」

まるでそれまでの間、一切呼吸をしてなかったような感覚。
勿論それは錯覚でしかないのだが、私は普通に息が出来る事にどこか特別な思いを抱いていた。

……それだけ、私は思いつめていた。

「……」

涙が頬を伝った跡はすでに乾き、咽喉の奥がジンジンする事もなくなっていた。

しかし、後悔の念は、自分を許せないという想いはまだ心の中で燻り続け、表現し難い感情が、焦燥感にも似た感覚が未だ胸の中に色濃く存在していた。

……どうしたら、いいのだろう。

それは先程からずっと、ずっと考えていた事。

懺悔、という言葉が一番相応しいだろう。
今の私に出来る事は何か、一体どんな事をすれば気が晴れるのか、昔の自分に向き合えるのか、私はそれをずっと考えていた。

「……うん」

と、声に出し、軽く頷く。

実はもう答えは、やるべき事、なすべき事は頭の中に存在していた。

それは決して難儀でもなければ、苦しくもない事。
だから、かもしれない。それでいいのか、その程度の事でいいのか、自問自答が繰り返されていた。

……でも。

他にやるべき事も見当たらない中、これしか出来る事はないだろうから。
私はそれを実行に移すべく、足の踏み場もない部屋を後にする。

「……」

ハンガーに掛かっていた上着を取り、車の鍵をポケットに。
こうして私は簡単な身支度を、これ以上ないくらい簡単な準備を済ませ、車に乗り込む。

ここから祖母の村までは、いや、祖母の村があった場所までは3時間もあれば着く距離にある。

今はもう家も取り壊され、木も切られ、雑草が生い茂っているだけかもしれないが、それでも山はそのままだし、道も残っている。
橋もあるだろうし、その他にも様々な名残が、当時を思い出させてくれるたくさんのものがあるだろう。

……私が出来る事、それは祖母の住んでいた村を、私が大好きだった田舎を忘れない事。

たったそれだけ、と思うかもしれない。
現実が何か変わる訳でもない。

でも、それでも。

「……おばあちゃん、今行くからね」

私はそう呟き、アクセルを踏む。

大好きだった祖母のいた村へ、思い出がたくさん詰まったあの村へ向かうべく、私は動き出す。

部屋は散らかったままだけど、押入れの中が綺麗に整頓されるのはまだまだ先になってしまうけど。

……私は、動き出す。

忘れないために。曖昧にならないように。記憶を風化させないために。

……そして。

その忘れないという事が、忘れないと思い続ける事こそが大切であると気付いたから。答えを見つけれたから。

……私は今から、記憶を取り戻しに、行きます。



                                    「忘れない事が」  END








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