「うらはらはーと」



「……うん、うん。わかった、それじゃあね。……うん、バイバーイ」

――ピッ

電話を切る。ついでに時間も確認。時刻は夜の10時を回っていた。

……今日は少し長電話だったかな。

私は受話器を置くと、電話がかかってくるまで何をしていたのかを思い出す。

……お皿は洗ったし、お風呂……かな?

いや、その前に何かしようとしてたような……

「ま、いいか」

うん、思い出せないくらいの用事なら今やらなくてもいいわよね。
私はそう言って考えるのをやめ、冷蔵庫に向かう。

「ノド、乾いちゃったな……」

ビールにするか、それともスポーツドリンクにするかで悩む。

「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な、と」

自然と出る言葉。そして両方の缶を交互に指差す仕草。
最後に指が止まったのはビールだった。

実は2択の場合、この選択方法で決めると最初にカウントをはじめた方に指が止まる事を私は知っている。それを承知の上でやったという事は、私はビールを本能的に求めていたのかもしれない。

「あ……」

と、冷蔵庫の扉を閉めたところで声を漏らす。

……いけない、私ったらさっきから独り言ばっかりだ。

何かで聞いた事がある、『自然に独り言が出る一人暮らしの女は負け組』という言葉。

……ダメダメ、まだ負けてない! っていうか一応彼氏いるもん。

もうそんな口調で喋っていい年齢を超えている事は判っている。
でも心の中でくらい言ってもいいじゃない。そんな誰に述べるでもない弁明をする私はやっぱり負け組なのだろうか。

「……ふう」

ソファーに座り、ビールのプルタブを勢いよく開ける。プシュッ、という音が静かな部屋に響いた。

「……ん、んんっ」

まずは一口、ごくごくとノドを鳴らして多めに飲む。
ビールは味を楽しむものではなく喉越しを楽しむもの、という意見に私は賛成だ。

「……ぷは」

ん、おいし。
時代に逆行するように、私はあくまでビール派。発泡酒とかその他のナントカみたいなのは飲まない。

「……」

でもそれは私のこだわりって訳じゃないのよね。
そんな事を考えながら、ふと視線を横に向ける。
電話の横、家のカギや指輪を置く棚にそれは立てられていた。

「……アラスカ、か」

もう何年前になるんだろうな、これ。

私はそう呟き、お世辞にも出来がいいとは言えない写真立てを手に取る。
そこに映っていたのはかなり前の私と……私の彼氏。もしかしたら2人きりで映っている写真はこれ1枚だけかもしれない。ちなみにこの写真立ては彼のお土産。南の島で子供が売っていたのを気に入って買ってきた。

「撮られるの、苦手だもんね……」

つん、と人差し指で彼氏を押さえる。
写真だとこんなに簡単に出来るのに……と思い、少しヘコむ。
私の彼は捕まえておく事が非常に困難だから。

……私は普通の会社員。OLともキャリアウーマンとも呼べない、微妙なラインで仕事をしている。まあどこにでもいる結婚適齢期ギリギリの女だ。

でも彼は違う。まあどこにでも行く人ではあるが、どこにでもいる人ではない。
彼の職業はカメラマン。風景を主に撮っている。意外と有名で、街に出ると比較的簡単に彼の撮った写真を目にする事が出来る。彼の写真は看板やポスターによく使われていた。

でも、彼は人物を撮らない。人を撮るのは難しい、と彼は言う。
そして彼は写真を撮られるのが苦手。このツーショット写真だって私が彼に抱きつき、半ば無理矢理撮ってもらったもの。
それでも最終的には諦め、笑顔を浮かべてくれた彼はやっぱり優しいと思う。

「それにしても……」

さっきの電話の内容を思い出す。
相手は彼氏。これから撮影のため、ナントカっていう高い山に登るらしい。
予定では5日で山頂まで登って帰って来る、とは言っていたが、天候次第でその予定は簡単に、そして大きく崩れる。

”今回の仕事が終わればしばらく遠方の仕事はない”

電話で彼はそう言っていた。
彼の中で「遠方」というのはどの辺までなのか、私はその定義を知らない。というか常に変動しているので、きっとこれは彼本人にしか判らない。

「……海外の仕事はない、って言わなかったのがミソよね」

きっと彼はこれからのスケジュールをしっかり把握しているはず。そんな彼があんな曖昧な言い方をするという事は、きっと私の感覚だと「遠方」、彼の感覚でいうなら「近場」の仕事があるに違いない。

彼と付き合って数年、こういう部分に関してだけは鋭くなった。……もっと他によくならないといけない部分はあるのに。

「……はあ」

一応どの辺りに行くのか、彼が言う遠方の定義をもう一度考えるのだが、やっぱり答えは出ない。アジアは基本的に近場、という人の考えなんか判る訳がない。

どうせ地球の裏側以外は近場って言うんでしょ?

ふんっ、と鼻を鳴らし、私は残っていたビールを飲み干す。
実はこのビール、彼の大好きな銘柄。突然何の前触れもなく帰って来てもいいよう、冷蔵庫には常にこのビールが入っている。この辺は「私って結構健気じゃない?」と思わなくもない。

「……いつの間にか、私も大好きになっちゃったな」

自分に合わせてくれなくていい、彼はよくこの言葉を口にしていた。
確かに彼の生活に合わせようとすると、私の生活は成り立たない。彼はそれを言いたかったのだろうし、私もそう思っていた。
でも、やっぱり出来る限り合わせようと、一緒である部分は多いに越した事はないと思うのが女心。
私は無理をしない程度に彼に近付こうとした。そんな中にこのビールがあった。
このビールは重い。苦いともまた違う、飲み応えのある味だった。最初はちょっと苦手だったが、彼が上機嫌で「うまい」と言いながら飲む姿を見ているうちに、いつしかこの味に慣れていった。そしてこの味が一番と思うようになった。

……もうっ、最近は私ばっかり飲んでるじゃない。たまには飲みに来なさいよね。

写真の彼に向かって拗ねてみる。もう1ヶ月近く彼とは会っていない。その1ヶ月前だって、駅で会ってお昼ご飯を食べて駅で別れる、という素っ気無いものだった。だから一緒に飲んだのはもっと前、このビールは彼のために買っているのか、私が飲むために買っているのかもう判らない。

「……」

あの時食べたうな重、美味しかったな。
彼との外食はほとんど和食。海外にいる事が多い彼にしてみれば当然の選択になるのだろうが、私としてはたまにでいいからレストランに行きたい。でもやっぱり和食に飢えている彼を見ると、そのお願いは引っ込んでしまう。そして彼のために美味しいお蕎麦の店、親子丼の美味しい店を探している私はやっぱり彼の事が大好きなんだと思う。

「……アラスカは無理だけどさ」

きっとこっちが彼のいる方向だろうと決めつけ、私はその方向を見つめながらぼそりと呟く。

「……本当はずっと近くにいたいんだからね」

そして本音をポロリ。彼の前で言うと困らせてしまうから、無理なお願いである事くらい判っているから、1人の時に言うしかない本音。
早くも酔ってしまったのか、それとも酔ったふりをして言っているのか。そんなの答えは決まってる。私はそんなにお酒に弱くない。弱いのは心だ。

……判ってる。弱さを認めて、それを理由にしていい訳がない。
それに私は出来る限り彼に合わせたい、近付きたいと思っているはず。だったら強くならないと。

「……うん」

この頷きは自分を納得させるもの。そして言い聞かせるものでもあり、決意のような意味も含まれていた。

心の強さという点で言うなら、彼は相当に強い。
彼の職業はカメラマンではあるが、やっている事は登山家でもあり、冒険家でもある。そして彼はそれを苦と思わない。出来たばかりのインスタントラーメンが数分で凍る世界にいても、灼熱の砂漠で立ち往生してしまった事も、楽しく私に喋って聞かせてくれる。

彼は強く、そして優しい。さらにそれだけでなく、とても面白かったりもする。
何もそれは話術に秀でているとか、モノマネが出来るとかではなく、素の行動が面白い。本当は「面白い」なんて言うのは失礼なんだろうけど、純粋で一直線だからこその行動は周囲の人の心を和ませ、笑顔を誘う。彼はそういう面白さを持っている。

いつだったか海底に沈む遺跡を撮る仕事があり、彼はウエットスーツに身を包み、酸素ボンベに足ヒレと完全装備で現場へと向かった。天気は良く、写真を撮るべき遺跡はとても神秘的。その美しさに彼は大興奮。早く現像したくて酸素ボンベを背負ったまま、足ヒレを付けたまま陸に上がり、そのまま仕事場に戻ろうとしたらしい。こういう話を聞く度、私は彼の事を好きになる。これが惚れた弱みというのだろう、一生懸命な彼がたまらなく愛しく思える。

「……はあ」

ため息。でもそれは落ち込む時に出るものとは違い、潔い諦めの気持ちが大きかった。

あんなに楽しそうに仕事の話をされたら、嬉しそうに景色の話をされたら、「早く帰ってきて」なんて言える訳ないじゃない。

「……お仕事、頑張ってね」

うん、やっぱり彼には仕事を一生懸命頑張って欲しい。行きたいところに行って、撮りたいものを撮る。それが彼にとっての幸せなら、それは私にとっての幸せ。そう思わないとやっていけないし、そう思うべきだと思う。

「……ほんと、鋭いんだか鈍いんだか」

もう一度写真の彼を見つめ、次に電話に目を向ける。

『……あれ、何か怒ってる?』

『やっぱり何か言いたい事があるんじゃないの?』

大して長くもない電話の最中、何度か言われた彼の言葉。

きっと言いたい事はあって、今度彼から電話が来たら話そうと思っていた事はたくさんあったはず。

でもいざ電話が鳴り、彼の声を聞くと、私はそれらの思いをなぜか引っ込めてしまう。彼の話を聞きたいという思いの方が強いのだろう。
でも、いつもそれで私の喋りたい事は言えず終い、伝えたかった事、言いたかった事は2割も話せればいい方。
まあそれでもいいや、と思えれば何の問題もないのだろうが、やっぱり私も色々喋りたいし、その中にはワガママやお願いも含まれている。勿論彼を困らせようとは思わないけど、少しは自分の気持ちを判って欲しいし、妥協出来る事、変更出来る事があったらそうして欲しい。

「……そんな子供じゃ、ないんだけどな」

彼との電話の最中、そういった気持ちになると私はほんの少し無口になる……らしい。そして少しだけ彼の話を聞かなくなる。いや、聞いているが返答が少し的外れになる……らしい。以上、全て彼情報。
今日もそんな素振りがあったらしく、彼に心配……というか探りを入れられた。その辺はツッコまれないようにしようと思ってたのに。

「……」

私の瞳は彼がいるであろう方向を見たまま。思い描くのは彼の姿、そして仕事に打ち込んでいる横顔、美味しいお酒を飲んでいる時の笑顔、いつの間にかソファーで横になっている時の寝顔、高みを目指すがために見せる苦悩の顔、いい写真が撮れて満足そうな顔……
それらの顔のどれか1つを見た事のある人はたくさんいるだろう、2つ3つ見た事のある人もいるだろう。でもその全てを見た事のある人はまずいない。きっと私だけだと思う。これがささやかな私の自慢。
……でも、最近はそれらの顔を見ていないのも事実。まあ声を聞けるだけ、忙しいながらも定期的に彼から連絡があるだけマシかもしれないけど、やっぱり寂しい。

「私も、一緒に行きたいな……」

ぽつりと呟く。言ったらもっと寂しくなるって判ってるのに、口にしたところでどうにもならないのを知っているのに言ってしまった。嗚呼自己嫌悪。
でもそれが本音である事に変わりはなく、そのために彼には内緒にしている事だってある。もしかしたら徒労に終わるかもしれないけど、役に立つ事はないかもしれないけど、私は彼の為に、いや、彼と一緒にいたいと思う私自身のために頑張っている事があった。

「……実は鍛えてるんだからね?」

そう言って部屋の隅を見る。そこには3キロと5キロのダンベル、そして通販で買った筋力アップの機械が置かれていた。
どれも買ってからもう数年経つが、ホコリを被っている訳でもなく、別の用途で活躍している訳でもない。週に5〜6日、私はちゃんと身体を鍛えている。

「……4年前、だったかな」

あれは私達が付き合ってまだ間もない頃。
彼の仕事の大変さも知らず、撮影に付いて行きたいと言った事があった。
当然撮影の辛さ、過酷さを知ってる彼は「大変だよ? それでもいいの?」と何度も念を押した。私は大きく頷いた。大丈夫だと言い切った。
学生の時はずっと運動部だった。会社勤めを始めてからもよく身体を動かしていた。アウトドアも好きだった。キャンプだって何回もした。だから大丈夫だと思った。本当にそう思っていた。

……でも。

甘かった。甘いなんてものじゃなかった。
私が彼に同行したのは国内の撮影。梅雨明け後、まだ暑さが厳しくなる前の一番過ごしやすい季節だった。向かった先は飛騨の山奥、観光客や一般ハイカーは近寄らない、ガチの登山ルート。彼の仕事はその山頂から望む、雲海と朝日を撮る事。日程は2泊3日の予定だったが、色々あって4泊5日になった。
その”色々あって”には悪天候による足止めもあったけど、それ以上に私が足を引っ張ったという部分が大きい。
重い荷物、歩きにくい道、疲れの取れない岩場でのテント生活……。私は2日目、山頂に到達する前に根を上げてしまった。その結果、撮影に同行したスタッフ全員に迷惑をかけてしまい、直接的ではないにしろ、明らかに私の事を邪魔者扱いするような言い方をされた。そしてその批判は私を撮影に参加させた彼にも及んだ。公私混同、有名になればどんなワガママも言っていいのか、そういう言葉を少なからず聞いた。きっと彼の耳にも入っていたと思う。
……でも彼は私を責めなかった。私の前では笑顔を絶やさず、私の体調をずっと気遣ってくれた。

そして、そんな中で彼は最高の写真を撮った。

予定が大きく遅れ、撮影予定地の山頂に着いたのは3日目の夕方。私はキャンプ設営を手伝う気力も無く、建ててもらったテントに入ってすぐ寝てしまった。
彼はそんな私を気遣い、少しでも疲れが取れるようにと自分のフェラフを寝ている私の下に敷いてくれた。私は泣いた。そして何度も何度も謝った。すると彼は笑顔で私の頭を撫でた。まるでこうなる事は予測済みと言わんばかりの余裕が彼にはあった。

その後、私は疲れて寝てしまったのだが、寝具を失った彼は外で1人、焚き火の前で夜を明かしたらしい。そしてあくる日の早朝、私は彼に叩き起こされた。彼は興奮気味で私の肩を掴み、とてもいい写真が撮れた事を告げ、まだ寝ぼけて状況を把握していない私を力一杯抱きしめた。
私はこの時、彼の腕の中にいる事で、彼がいい仕事が出来たんだという事を察した。そして抱きしめに応じ、私も彼を強く抱きしめた。

後日、その時撮った写真を見せてもらった。涙が出た。今まで何枚も彼が撮った写真を、高い評価を受けた写真を見ていたが、一番いいと思った。理屈なんかいらない、本能がいいと言っていた。
彼が撮った写真はテレビのコマーシャルに使用され、その年の広告大賞を受賞。彼の写真はそれからしばらくの間、街中で見かけるようになった。

あの日、彼が山頂で1人、焚き火の前で夜を明かした日。予想ではもっと遅い日の入りだったらしく、その時間に合わせていたらあの写真は撮れなかったかもしれない、と彼に言われた。事実、その瞬間に居合わせたスタッフは1人もおらず、彼が最高の景色をフィルムに収めたしばらく後に起きてきた。当初の予定では彼もその時間に起きる予定だった。もしあの日、彼がスタッフと同じ時間に起きていたなら、あの素晴らしい写真は撮れていなかった事になる。
まあだからと言ってそれが私のおかげだ、なんて事は口が裂けても言えないし、そんな事は思っていない。たまたま、偶然、怪我の功名、そういった類のものだと私は思っている。

……そう、結果はどうであれ、私は彼と彼の仕事仲間に多大な迷惑をかけてしまった。いい写真が撮れたのも事実なら、それも紛れもない事実。
私はそれ以降、軽々しく彼の仕事に同行したいとは言わなくなった。もう彼を困らせたくないから。足を引っ張るような真似は、仕事の邪魔になる事はしないと決めた。

「……はあ」

ため息。今度は迷いを含んだ、煮え切らない時に出るため息だった。
……もうしない、もう言わない、そう決めたはずなのに。硬く心に誓ったはずなのに。

どうしてだろう、体力を付けるために身体を鍛え始めたのは。
どうしてだろう、登山を始め、彼が仕事で行きそうな場所で必要となる知識を得ようとしたのは。

きっとそれは私の意地、プライドと言ってもいいかもしれない。
確かに彼の迷惑になってはいけない。仕事の邪魔をしてはいけない。だけど一緒にいてはいけない、なんて事はない。迷惑にも邪魔にもならないのであれば、私は出来る限り彼の傍で、彼と同じ時間を過ごしてもいいはずだ。

そう考え、私は1人、密かに決意を固めた。世界の果てまで一緒、というのは無理かもしれないけれど、日本での仕事くらい同行したい。それはもしかしたらただの我侭かもしれないし、彼に余計な心配と負担をかけるだけになってしまうかもしれない。でもそれはやってみないと判らない。もう昔のような失敗はしたくない、失態も見せたくない。ただ彼に近付きたい。一緒にいたい。同じ空気を吸い、同じ景色を眺めていたい。例え彼のフィールドが私のそれと大きく異なっていたとしても、私がそのフィールドに入ればいいだけの話。勿論そこに足を踏み入れるには覚悟が必要で、それ以上に必要となるものもある。

「……大丈夫、かな」

少し弱気な言葉が漏れる。でもすぐに私はいつもの調子に、勝ち気な私に戻り、彼の写真と電話とダンベルを順番に眺め、大きく頷く。
手前味噌かもしれない、見当違いも甚だしいかもしれない。でも努力はした。我慢もした。だから……

「よし、決めた」

……うん、今度彼から電話が来た時、思い切って言ってみよう。

次は私も連れて行って、と。







                                   「うらはらはーと」 END




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