「カフェラッテはマグで飲む」



カランコロンカラン……

乾いた音、雰囲気のいい喫茶店にあるアイテムの上位にランクインするであろうカウベルが小気味良く鳴り響く。

決して広くはない店内、しかし客の入りは上々……という老舗の店だが、さすがに閉店間際ともなるとテーブル席、カウンター共にガラガラ。
だが軽く店の中を見渡すと、それでも1組の若い男女と初老の男性の3人がコーヒーに、とりとめのない会話にと楽しんでいた。

普通、閉店時間が近付くと、得も知れぬ非落ち着き感……とういうか、店側から「早く帰れ」オーラのようなものが感じられたりしてしまうのだが、この店に関してそれは皆無だった。

すでに雇われのウエイター、ウエイトレスの姿はなく、店側の人間はカウンターの中でグラスを拭いている男性が1人だけ。

「おや、いらっしゃいませ」

いかにも喫茶店のマスターという格好、そしてそれがとてもよく似合っている中年の男性は私を見るなり気さくに話しかけてくる。

そして今拭いたばかりのグラスに氷と水を注ぎ、コースターを用意。
私がいつもの席、カウンターの右から3番目の席に腰を下ろしたと同時にメニューと一緒に置かれる。

「……グアテマラ」

「はい、かしこまりました」

俺はメニューを開いて1ページ目、ストレートブレンドが並ぶ中からグアテマラを注文。
別に豆にこだわりはなく、この店に来る度にメニューの上から順番に頼んでいただけの事。
ストレート、ブレンドを合わせると結構な数になるのだが、それでも俺はもうメニューを3周はしていた。

「よく覚えていらっしゃいますね」

「ん、そう?」

どうやら俺の注文方法、メニューの上から順番に……というのはマスターも気付いていたらしく、順番を飛ばすことなく注文した俺に対し、そう言って微笑みかけてくる。

「はい。……確か最後にお客様がいらっしゃったのは半月近く前だったと思いますが?」

「……それを覚えてるマスターの方が凄いよ」

「まあそれが仕事のようなものですから」

そうか、最後に来たのはもう半月も前になるのか……

さすがにそこまでは覚えていなかった。俺はマスターの記憶力に感心しつつ、前に来た時の事を思い出そうとする。

「……」

ふと視線をカウンターに向けると、マスターがコーヒー豆を適量取り出し、ミルにかけていた。
普段は機械で挽いているのだが、マスターが取り出したのは木製の小さな手動式のミル。
小さなハンドルを回す度に聞こえる小気味良い音と、ほのかに香ってくるコーヒーの臭い。
それらは俺の記憶を、前にこの店に来た時の事を思い出させてくれる役割を果たしてくれる。

……ああ、そうか。

浮かぶ光景、交わされた言葉、抱いていた感情……
今まで断片的だったもの、独立したピースだったものが、頭の中で上手く繋がり、1つの明確なビジョンとなって甦る。

「……」

今から半月前、確かに俺はこの店に来ていた。
確かにあの見慣れたドアをくぐり、乾いたカウベルの音を聞いていた。

しかし、いつもと違うのは座った席がカウンターではなく、奥のテーブル席だったという事。
そして、普段であれば1人で来るのに、仕事の打ち合わせやら待ち合わせでは使わないのに、偶然あの時は仕事を持ち込んでの来店だったという事。

「そうか……」

呟くように、小声で小さくそれだけ言うと、俺は戯れにメニューを再び開いてはパラパラと捲っていく。

特に追加で何かを頼む気はなかった。
別にメニューのラインナップが気になった訳でもなかった。

ただ、気まずさに近いものを、思い出してしまった事から目を背けるため。
それが、メニューを手に取ってみた理由だった。

「秋の新メニュー、増えたんですよ」

もうすぐ湧くであろうケトルを見ながら、マスターが声をかけてくる。
おそらく俺がメニューを再び開いたが故、軽い話題提供とほんの少しのセールス心から出た言葉だろう。
だが申し訳ないマスター、季節感たっぷりの新メニューが増えようとも、今の俺に注文する気はない。

……そう、例えどれだけ魅力的なメニューだとしても――

「美味しそうだね、このモンブラン」

と、直前まで思っていた事はどこへやら。俺はそのマロンクリームに、上に乗った色鮮やかな栗に心奪われ、素直に思った事を口に出していた。
……俺はモンブランが好きだった。ケーキの中では文句なしに一番好きだった。

「でしょう? 隣町にある人気のケーキ屋に頼みましてね。ウチでしか食べれないオリジナルなんですよ」

「側面にクラッシュアーモンドを散らしてあるのがいいね。しかもよく見ると3種類のマロンクリームを使っている」

くそう、的確にツボを突いて来やがる。
俺は何故か自分の好みをピンポイントで攻めてくるモンブランに対して悔しがる。
それはある種の賛辞、作り手に向けられた俺なりの敬意の表し方……なのかもしれない。

「お詳しいですね」

「まあね。好きなものには最大限の注意と観察を、そうでないものは完全スルー。どうやらそれが俺の性分らしい」

「いい事です」

コポコポコポ……と、適度な温度に達したお湯を注ぎながら答えるマスター。
そして俺の顔をチラリと見つめ、少し悪戯っぽい顔で言葉を続ける。

「マロンクリーム3種、それぞれどう違うと思います?」

「……見事正解したら?」

質問を質問で返す俺。
勿論、俺の表情もマスター同様、悪戯心に満ちた顔。
本当に見返りを求めている訳ではなく、このやり取りを楽しもう……
そんな思いが俺にはあった。そしてそれはマスターも同じくあったに違いない。

「そうですね……、では残りのコーヒー全種、1周するまでタダというのはどうですか?」

その証拠に、マスターも俺に話を合わせてくる。
だがその報酬の度合い、正解の見返りの大きさからして、このクイズの難易度は相当に高く、またもしも当てる事が出来たら本当に報酬が支払われる事が伺い知れた。

自信あり、という事か……

俺はマスターの顔を見据えつつ、小さいながらも確実に首を縦に振る。
それは挑戦を受けて立ったという事に他ならない。専門的な知識など全く持ち合わせていないが、それでも俺はあえて勝負に乗ったのだ。

もはやこのクイズは頼んだコーヒーが出されるまでの余興の範疇を大きく越え……というのは少々大袈裟だが、とりあえず楽しい事になるのは、それなりに盛り上がりを見せるのは間違いなさそうだった。

「……もし俺が外したら?」

「その時はもう一杯お飲み物を頼んで頂きます」

「……このオッズの差、相当自信があると捉えても?」

「ええ、構いません。それではごゆっくりお考え下さい」

そう言ってマスターは淹れたてのコーヒーを、白と青を基調とした趣味のいいデザインのカップを俺の前にそっと置く。

砂糖もミルクも使わない、コーヒーが来たら水にも口を付けない事を知っているマスターは、そのまま黙ってコップを回収。それをシンクに置くと、カウンター内で何をするでもなく、こっちが気にならない程度に俺を見続ける。
つまりそれはクイズ開始、今から俺の熟考時間が始まった、という事だ。

「……」

まず熱い内にコーヒーを一口、静かに啜る。
同時に鼻から香りを吸い込み、しばらくその余韻に浸りつつ、舌と鼻でコーヒーを堪能する。
それは気持ちを落ち着かせる、集中力を高めるのに十分な効果を発揮。俺はじっくりと秋の新メニューに、大きな写真が添えられたモンブランに目を移し、その微妙に色の違う3本のラインの正体を、差異を考える。

「……ちなみにお手つきは?」

「そうですね、2回までにしましょうかね」

「了解」

視線は変えず、マロンクリームを見たままルールの確認。
我ながら子供っぽい、ちょっと必死な感も見え隠れする質問だが、難度の高いクイズにおいてお手つきの回数は重要だ。
俺はマスターの言葉に頷くと、再び無言になって写真との睨めっこを開始する。

……時刻はもうすぐ午後の9時、正規の閉店時間が迫っていたが、俺を含めて客は全員、まだ帰る素振りを見せていなかった。



――10分後。

「……」

未だ熟考タイム中の俺。
とりあえず3種類のマロンクリームの内、見た目で判るもの、細かく砕いた栗を混ぜたものは当てる事に成功。残る2種類も、片方は何となくではあるが予想が付いていた。

「……あえて渋皮を入れる事で適度なビター感を与え、さらに色合いにも変化を付けてみた……?」

「……正解です。すごいじゃないですか」

「最初はココアパウダーかと思ったんだけどね」

ふう、と息を吐きながらそう答える俺。
どうやら直感が当たったらしい。答える寸前までココアパウダーの線で行こうと思っていたのだが……

「味見が出来ない中、お手つきなしで2問正解、ですか。……参りましたね」

これは少し予想外だったのか、マスターの顔が微妙に曇る。
しかしそれはあくまで苦笑いの範囲。やはり両者は共にこの状況を、『閉店後のお楽しみ』といった状況を楽しんでいるようだった。

「出来ればこの調子で残る答えも、と言いたい所なんですが……」

そう答え、カップに残っていた僅かなコーヒーに口を付ける。
すでに熱を失い、舌を火傷する心配がなくなっていたそれを飲み干す俺。
そしてゆっくりと空になったカップをソーサーに乗せると、今までじっくりと、それこそ穴が開くのではないかと思うほど見ていたページをペラリと捲る。

「……?」

どうしました? と言わんばかりの顔になるマスター。
俺はそんなマスターに対し、「お気になさらず」という意味合いで右手をそっと出し、少し待ってもらう事に。

……ふ〜ん、結構色んなのがあるんだな。

と、感心しながら見ているのはメニューの最後、ウインナコーヒーやホットココア、キャラメルマキアートといった、コーヒーに何かを加えて作る系、総じて甘めのメニューが並んでいるページだった。

普段頼むのはストレート、もしくはブレンドのコーヒーのみ、それもブラックで飲むのが好きだったせいか、それらのメニューはずっとあったのにも関わらず、俺の目にはどこか新鮮に映った。
そして妙に美味しそうに、妙に飲んでみたい衝動にかられていた。

「……よし、決めた」

「はい?」

1人で勝手に納得、勝手に何かを決定した俺を見て、頭上に「?」を浮かべるマスター。
俺はここでようやく経緯なり何なりを話そうと、マスターの顔を見ながら口を開く。

「マロンクリーム、あれは俺の負けでいいです。……お手上げ、という事で」

「いいのですか? まだお手つきが残ってますが……」

「あまり下手な鉄砲は撃ちたくないんだ。全く答えが見えない以上、いくら数を撃っても当たらないような気がしてね。……それより何より、格好がよろしくないじゃない。僕はハッピートリガーではないからね」

「……そうでしたか」

格好を気にするという発言が面白かったのか、ハッピートリガーという単語のチョイスが面白かったのか、それとも別の要素・要因だろうか。とりあえずマスターは目元を緩ませてクスリと笑うと、空になったカップを下げながら「お粗末さまでした」といった感じで頭を下げる。

「一応、正解を聞いてもいいかな?」

「ええ、構いません。……3種類のマロンクリーム、残る1種類はサツマイモを混ぜて作っているんです」

「サツマイモか……」

「糖度の高い品種のようで、栗との相性もいいようです。ただ……」

「ただ?」

少し言葉の歯切れが悪くなるマスターに対し、続きを促す俺。
決して怒っている訳ではなく、その先の言葉が気になっていたのだが、マスターはどこか恐縮気味だった。

「これはクイズとして反則ですよね。モンブランだと言っているのにサツマイモ……、今になって思うとかなり意地悪な問題だったような気がします」

「ははは、確かに」

別に反則ではないと思うが、少々捻りの効いた問題ではあった。
まあだからと言って怒る気はさらさらないし、答えを聞いて憤慨、なんて事も勿論ない。
それによくよく考えれば、サツマイモをベースとしたお菓子はたくさんあるし、それこそサツマイモのモンブランだってある。
俺がそこに気付いていなかっただけの話であって、マスターは何一つ悪くないと思う。

だから、なのだろう。
俺は答えを聞いてただただ納得するだけ、むしろ逆に「いいことを聞いた」くらいの感覚でいた。
そして何より、勝負を持ちかけたのは俺の方から、「正解したらどうする?」と言ったのは自分からである。
これがマスターの方からの提案、向こうから仕掛けてきた事なら別だが、今回は違う。

……そう、だから俺はメニューを開いたのだ。

「ま、そんな訳で最初に決めた通り、もう一杯注文させてもらうよ」

「いいのですか?」

意外そうな顔をするマスター。
しかし俺は真面目な顔で、さもそれが当然という表情で言葉を返す。

「いいも何も、そういう条件で始めた勝負だろう。答えられなかったからもう一杯注文する、それだけの事さ」

「……ありがとうございます」

少し間を置いた後、そう言ってマスターは頭を下げる。
深々と、ではないお辞儀。でも、してもらって嬉しいお辞儀だった。

……何かいいよな、こういうやり取り。

ふと、そんな事を考える。

俺も大人になったというか、色んな会話の楽しみ方を覚えたというか、とりあえずマスターと俺、2人だけの独自の空気を作り出せた事が嬉しかった。

「では先程の『決めた』というのは……」

「降参を決意したと同時に、2杯目は何を頼むのかを決定。その両方の意味での『決めた』だね」

「そうでしたか。……ではご注文を承ってよろしいですか?」

「ん」

コクリと頷き、俺は開いていたメニューから注文したい品が書かれた部分を指でなぞる。
そこに書かれていたのはカフェラッテ。何やら目の前でコーヒーとミルクをカップに注いでくれるらしく、その光景が映された写真に惹かれ、注文を決意。

まあその他にもカフェラッテを頼んだのには理由があり、たまには違うものを頼んでみたいという気持ちがあったり、2杯目は多少味に変化をつけたいという思いがそうさせていた。

始めはカフェラッテの前後に名を連ねるメニュー、よく判らないがとりあえず興味本位で甘そうなものを頼もうかとも思ったが、いい歳の男が喫茶店のカウンター席で、それも閉店後にマスターとサシで向き合っている状態で頼むのもどうかと判断。「これならあまり甘くもないだろうし、ホイップクリームやらバニラアイスで口の周りを白くするよりはマシだろう」という事でカフェラッテを頼んでみた。

「かしこまりました。カフェラッテですね」

「……」

……カフェラッテ、か。

そういえばあの時も……

俺はマスターの問いかけ、注文の確認に答えるのも忘れ、さっきも少し考えていた事、思い出しかけていた事に意識の大部分を持っていかれていた。

「? どうなさいました?」

「い、いや、何でもない」

少し心配そうにマスターが気遣いの言葉をかけるが、俺は努めて普通の素振りを、それが普段の反応であるかのような返事をする。

おそらく何ら誤魔化しきれていない、むしろ逆の効果を生むのではないか……
そんな事まで考えてしまうだけ不自然な俺の反応。それには色々と、面倒極まりない出来事が、願わくば勘弁したい、熨斗(のし)を付けて返してやりたい出来事があった。

……時刻は午後9時半近く、気付くと店にいるのは俺とマスターだけ。
どうやら他の客はすでに会計を済ませていたようだった。



――半月前。

「……」

「……」

俺は自分ともう1人、会社の部下にあたる男と共に、この喫茶店に来ていた。
勿論、優雅にコーヒーを楽しむためでもなければ、彼と特別で特殊な関係を築いていた訳でもない。

ただ偶然に目的地が、営業先が近くにあったから寄った。それだけの事だった。

「……」

「……」

無言。
それはこの店に入ってから、注文の時に口を開いた以外には何も言葉を発していなかった。

急遽入った仕事、得意先での打ち合わせを前に、少しでも快適で円滑なプレゼンテーションを行なえるようこの店に入ったのだが……

「……」

「……」

と、円滑なプレゼンテーションはどこへやら。
この場の空気を支配しているのは無言、そしてそれに起因する居心地の悪さだった。

「……とりあえず飲めば? 冷まると美味しくないだろ、それ」

「は、はい。そうですね……」

決して俺が部下を怒っている、何かを責めている訳ではない。
むしろ彼には労いの言葉を、褒めてやりたい気持ちの方が遥かに強かった。

……つまり俺達2人は何ら悪くない。この憂鬱な空気は今から向かう事になる、そして遺憾なく不機嫌になる事請け合い、打ち合わせという名の陰湿な虐めが待ち構えているからに他ならなかった。

「……しかし、まさかここまで露骨な吹っかけ方をしてくるとはな」

「ええ、向こうも相当切羽詰っているようですね」

「そんなの自業自得だろうが……」

……ったく、尻拭いは勘弁だぜ。
俺はここでようやくカップに手を伸ばし、中途半端に冷めてしまったコーヒーを啜る。これは気分的な部分が大きいのだろうが、正直あまり美味しいとは思えなかった。

「どうしましょう、経緯はどうであれ、受けてしまったのは自分です。もし責任を問われる事になったら――」

「やめい。それにオメエ1人でどうこう出来る問題じゃねえよ」

「す、すいません……」

恐縮、という言葉を絵に書いたような素振りを見せる部下。
仕事に関しての能力は申し分なし、見所も将来性もあるのだが、いかんせん経験が不足している。想定の範囲外の出来事、主にトラブルが発生した時、彼はあまりにも脆かった。

しかし、それは俺にも十二分に責任があると言える。
今まで厄介事、対処困難な出来事は俺が1人で片付けていたが、今回はそれが仇になってしまったようだ。
こういう時のワンマンと呼ばれるチーム形態は本当に弱い。俺はそれを痛感していた。

「……しっかしアレだな」

味わう事もなく、俺はカップに入っていたコーヒーを全て胃に流し込む。
色々あって昼食抜き、それなりに腹は減っていたが、今は何かを食べている場合ではない。というか満腹の状態であの場に向かったら吐くに違いない。
それだけ俺達がこれから向かおうとしている場は過酷で壮絶、精神衛生上とてもよろしくない場だった。

「今回は完全に不意打ちを食らった形になったな」

「はい……」

「どうする? ウチもどこかにバックアタックでも仕掛けるか?」

「だ、だめですよ!」

「じゃあ逃げるか。向こうだってウチとのラインが切れたくらいじゃまだ潰れないだろ」

「本気……ですか?」

困ったような、それでいて「信じられない」といった顔で俺を見てくる。

……おいおい、いくらなんでもさすがにそれはしないって。
俺は心の中でそう呟き、思わず苦笑い。しかし当の本人は未だ不安そうな顔をしているため、一応注釈を入れておく事に。

「冗談に決まってんだろ、そんなの。……まあ許されるのならやりたいトコだけどな」

「お願いですからやめて下さいね……」

「だから冗談だっつうの。……ホレ、それよりもう時間だ。こうなったらぶっつけ本番で行くぞ」

そう言いながら俺は立ち上がり、椅子の横に置いていたカバンを持って席を後にしようとする。
部下もそれに続こうと慌てて席を立つも、すぐに申し訳なさそうな表情を俺に向けてくる。

「……どうした?」

「あの、すいません。少しトイレに……」

「行って来い」

極力落胆っぷりは見せず、いつもの調子でそう答える俺。
しかし内心では「……おいおい、ガキじゃねえんだからさ」と力なくツッコミを入れ、何度か首を横に振る。

……と、その時、俺の視界にコーヒーカップが、まだ一口も飲んでいないであろう部下のそれが映り込み、思わず目線がそこに集中する。

俺が無理矢理飲み干したコーヒー同様、すでに熱はとっくに冷め、カップからは全く湯気が出ていない。
彼が頼んだのは確かカフェラッテ、この切羽詰った時に洒落たものを頼みやがって……とか最初は思っていたが、出てきたのは意外と普通の飲み物で拍子抜け。

これは後で知ったのだが、あの時店はかなり混んでいたらしく、本来は客の目の前で行なわれるべきパフォーマンスが省略されていた模様。

まあそれはさておき、部下のトイレタイム中ずっとその場に立っている事にした俺。
一度全ての荷物を手にして席を立ったのに再び座るのも格好が付かないし、かといって店の外で待っているのも癪。仕方がないので俺はそのまま直立不動、これもいい機会と無理矢理思い込ませ、これから起こってしまうであろう打ち合わせについて色々と考える。

「……しかし」

やっぱり勿体無いな。
俺は先程からチラチラと視界に入る……というか、自ら視線を向けている感もあるカップを、熱こそ失ってしまったが並々と注がれたカフェラッテを見ながらそんな事を考える。
きっと普段の状態、純粋に飲み物を欲して頼んだのであればとても美味しいものなのだろう。だがこうして口も付けられず、味わう以前の問題で終わってしまう事もある……

「……ふう」

それが変に物悲しく、妙にやりきれない想いを醸し出し、俺は大きくため息を吐いてしまう。
きっとそれはこのカップに注がれた飲み物を、何ら手を付けられず提供する側に跳ね除けられたカフェラッテに、今の状況を少なからず投影してしまった……のかもしれない。

「……やっぱ飲み物は飲まれてナンボ、商品も使われてナンボ、なんだよな」

俺はそう自分に言い聞かせるように言うと、おもむろにカップを手に取り、立ったままの状態でそれを飲み始める。
行儀が悪いのはご愛嬌、じっくり味わっているようには見えないかもしれないが、そこもまたご愛嬌という事で勘弁してもらいたい。
とりあえず俺は「商品」に対して最低限の礼儀、最低限の接し方として「実際に使用」、この場で言うなら「カフェラッテを飲む」という行為を取る。

……それが提供側への、作り手への礼儀だと、取ってしかるべき行為だと、俺は思っている。
それは逆の立場でも同じ、つまり俺の今の置かれた状況においても同じ事が言える……と思っている。
製作サイドからしてみてば、実際に出来上がったものを見ること無く判断されるのは非常に辛い。しかもそれが正当とは言い難い、「はいそうですか」と素直に受け入れる事が出来ないのであれば尚更だ。

「……」

そういった矛盾、不条理には慣れているつもりだったんだがな……

俺はそんな思いを、気を抜くと愚痴として吐き出してしまいそうな事を、カフェラッテと共に自分の中に流し込む。
その様は「押し込める」に近く、まるで子供が苦い薬を飲む状態に似ていなくもなかった。

正直、冷め切ったカフェラッテは世辞にも美味しいとは言えなかったが、それは本来口を付ける時に、一番美味しいであろう時に飲まなかったから。責任はこちら側にある。

だから、俺は例え美味しいと感じなくとも飲み干した。
それが、礼儀だと思っているから。
そうする事が、自分の理念であり信条だから。

「すいません、遅くなりました」

「ん、気にすんな」

「は、はい……」

「そんじゃ行くぞ。……戦場に」

「イヤな言い方をしますね」

苦笑いを浮かべる部下。しかし今の俺の言葉は彼の中でも的確なものだったのだろう、彼の顔はどこか戦地に赴く新米兵士のそれに見えなくもなかった。

「まあ骨は拾ってやる。……というか俺も死ぬかもしれん」

「いや、それは勘弁してください。散るのは自分だけで結構であります」

「……オメエ、意外とノリがいいかもな」

「そうですか?」

微妙に口調が軍人寄りになる部下に俺は軽くツッコミを入れる。
それに対する向こうの反応は微妙、出来れば微妙な軍人口調を続けてもらいたかったのだが……

「ま、特攻ごっこはこの辺にして、と」

「はい」

「……行くか」

「はい」

そう言って俺達2人は喫茶店を後にし、向かいたくない目的地に、合わせたくない打ち合わせの場へと向かう。

さっきまで結構減っていた腹はコーヒーとカフェラッテで大分満たされていた。
だがそれは心地よい満腹感とは程遠い、むしろ真逆のもの。

……ま、それでも空腹よかマシか。

俺はそう思いながら、胃をポンポンと叩きながら歩き続ける。
目的の場であるビルはもうすぐそこ、色々と鎬(しのぎ)を削る事になるであろう戦いの地は、もうすぐそこだった。



――夜。そろそろ真夜中になりつつある店の中。

「おまたせしました」

「……お見事」

すでに正規の閉店時間を大きく越え、どこか秘密空間にも似た雰囲気の中、俺は目の前でマスターからカフェラッテを注いでもらっていた。

メニュー写真にあった通り、いや、それ以上に高い場所から注がれるコーヒーとミルクは綺麗にクロスしながら見事にカップの中央へ。そして一滴もこぼれる事なく十分な量となり、俺の元へと差し出される。本当に見事だと思った。

「……それで、その後はどうなりました?」

「そりゃあ大変さ。とりあえず最初に不味いコーヒーを出された」

「はははは」

「まあ会議や打ち合わせの類なら当然出てくるものなんだけど、さすがに短時間に3杯は辛い」

「でしょうね」

「熱々ではあったんだけど、肝心の香りと味がね」

俺はそう言いながら目の前のカップに鼻を近付け、淹れたばかりのカフェラッテの香りを楽しむ。
半分がミルクで占められるため、コーヒーはやや濃い目に落としているのだろう。カップから漂う香りはストレートのコーヒーに比べるとやはり劣るものの、それでも十分に強く、芳醇な香りが鼻を楽しませてくれた。

「いいね、前に飲んだ時とはえらい差だ」

「そうでしょうね」

マスターには半月前の話、カフェラッテを注文した時にどうして少しおかしな反応をしてしまったのかをすでに話していた。
せっかくのコーヒーとカフェラッテを冷ましてしまった事に最初は少し話すのが躊躇われたが、その詫びを入れる意味合いも込め、俺は全てを喋っていた。

「うん、美味しい。これならもう1杯いけるかも」

「いいのですか? 短時間に3杯は辛いのでは?」

「それは飲んだ3杯の内、2杯が冷まっていたからさ。このカフェラッテなら全然余裕、何ならジョッキサイズでもいけるかも」

勿論それはジョーク、さすがにコーヒーの類をリットル単位で飲む気はないが、要はそれだけ美味しいという事、気に入ったという事を伝える表現だった。

「そうですか、ではジャンボパフェ用のジョッキがありますのでそれを……」

「……本気?」

「いえ、勿論冗談でございます」

ジョークにはジョークで切り返す……
そんなマスターの対応に俺は「参ったなあ」という顔になり、思わず苦笑い。
それを見たマスターはわざとすました顔を見せると、すぐにいつもの柔和な表情に戻る。

「……さすがだね」

「はい?」

「人の扱い方……って言うと語弊があるかもしれないが、上手く相手に合わせる辺りは本当にすごいと思う」

「ありがとうございます。ですが……」

「それが仕事ですから、かな?」

「ええ、その通りです」

頬を緩ませ、軽く頷き、目を細める……
マスターはいつもの穏やかな表情で俺の言葉に反応する。
別に格段小粋な話を、海の向こうのドラマのようなやり取りをしている訳ではないが、それでも俺はどこかこの会話に特有の面白さを感じていた。

きっと喫茶店のマスターというのは、こういった能力を有している人が多いのだろう。
例えそれが何の変哲のない普通の話でも、こうしてカウンターを挟み、店内に絶えず香るコーヒーの匂いの中で話をする事によって、不思議といい気分にしてくれる……
この状況をどう表現すれば的確となるのか俺には上手く説明出来ないが、とりあえず喫茶店というのはどこか不思議な、絶妙な度合いで日常世界を切り離してくれる空間のように思えてならなかった。

「……そういやさ」

「何でしょう?」

ふと疑問に思った事があり、俺は急に話題を変えて話し始める。
それは今さっきまで考えていた事に関係しているような、日常云々という件(くだり)で湧いてきた疑問だった。

「マスターは普段、自分で淹れたコーヒーを飲む事はあるのかい?」

「そうですね。私の場合は日に2回は飲むかと」

「……2回、ね」

決して多い数字ではないだろうが、それが毎日の事であるというのを考えると妥当な数……なのかもしれない。

「飲むのはまず開店間際、練習の意味合いもありますし、身体をしっかり目覚めさせるために淹れて飲みます。後はお昼過ぎ、店が空いている時間に軽く飲みますね」

「なるほど」

「でもどうして急にそんな事を?」

「いや、単に興味本位さ。毎日仕事で扱っているものを自分の生活に組み込めるのか、仕事と切り離して自然な接し方が出来るのか……、そんな事をふと考えてね」

「……お客様はどうなのですか?」

俺の返答に対し一瞬考え込む素振りを見せるも、マスターはすぐに口を開き、逆に質問をしてくる。

「……どうだろうな」

俺はマスターと違って、そこまで仕事に情熱を持っていない……
そんな言葉が喉元まで出掛かるも、それを言ってしまうと場がしらけるような気がしたので思わず飲み込んでしまう。

「難しいな……って、元はといえば俺がマスターにした質問か」

自分でも答えられない事を聞いてしまったのか……と、俺は苦笑い。
いや、自分で答えが出せないからこそ聞いた……のか?

「そうですね、確かに難しい質問です。……ですが、私の答えは決まっています。こればかりは揺るぎません」

「……」

「私はこの仕事に誇りを持っています。お客様がどういう経緯で今の質問を私にしたのか、その真意は知り得ません。もしかしたらご期待に添えない回答になるかもしれませんが、先の問いに対する私の答えは「自然な接し方は十分に出来る」と自信を持って言わせてもらいます」

「……そうか」

何となく予想はしていた。というかこうであって欲しかった。
今のはずるい質問だったのかもしれない、自分が望んでいる答えを誘導したのも同じのような気がする。

……いや、そもそも質問などではなく、ある種の確認だったのかもしれない。

俺はもやもやしてどうしようもない頭の中、自分でも結局何をしたかったのか、何を聞き出したかったのか判らないまま、無理矢理にでも結論付けようとする。
やはり自分の中で形に出来ていない、纏まっていないものは外に出してはいけないようだ。
この意味不明なやり取りに付き合わせてしまったマスターにはとても申し訳ない事をしてしまった、と思う。

「……すまない、どうやら知らない間に色々と切羽詰まっていたようだ」

「そのようですね」

「気付いてた、か……」

「ええ、それが私の――」

「仕事のようなものですから」
「仕事のようなものですから、か」

見事に重なった2人の言葉、そしてその直後に発せられる2つの笑い声。
それらは静まり返った店内を包み込み、とても穏やかで暖かみのある空気を作り出す。

もしかしたら喫茶店というのは、喫茶店という空間は、こういった人と人とが紡ぎ出す温もりのようなものを日々吸収し、還元を行う事で安らぎを与えてるのかもしれない。
……俺はカップを手にし、口元を緩ませながら、そんな事を考えていた。
気付くとさっきまで心の中で燻っていた感情、もやもやとした黒い感情はこの雰囲気の良い喫茶店と人のいいマスターのおかげで中和。それはまるでカップに注がれたカフェラッテ、調和の取れたコーヒーとミルクのよう。
俺の感情なり心境の素直な部分とそうでない部分、頑固なまでに強い部分とひどく弱い部分、そういった普段であれば相容れないものを上手く融和してくれている……

俺には、そう思えてならなかった。



――5分後。

「そうそう、言い忘れてましたが……」

マスターはそう言うと、ポットが置かれたコンロに火をかける。
さっき俺にカフェラッテを淹れるために使ったポットはまだ熱く、すぐに口から湯気が吹き上がる。

「お客様からの最初の質問、「日に何杯くらいコーヒーを飲むか」ですが、実は閉店後も自分のたまに淹れる事がありましてね」

「へえ、そうなんだ」

「一日の終わりに、その日あった出来事を思い出しながら、時には自分で自分を労いながら……。きっとそれは自分へのご褒美、他の方がビールで乾杯するのと一緒なんでしょうね」

「ビールの代わりにコーヒーで、か。……それもいいかもしれない」

「気分に合わせて、自分が今一番飲みたいものを、自分の手で淹れる……。良く考えるとかなり贅沢な事かもしれません」

「確かに」

素直に同意する俺。
マスターの言う通り、それはきっと贅沢な事、素晴らしい事だろう。
勿論仕事終わりのビールも十分魅力的ではあるが、美味しいコーヒーも捨てがたい……
俺は近い内に一度、冷たいビールの代わりにコーヒーというのを試してみようと思い始めていた。

「すまないマスター、カフェラッテをもう一杯もらえるかな?」

「……かしこまりました」

とりあえず「ビールの代わりに……」というのはまた今度にするとして、それより俺は今、妙に気に入ってしまったカフェラッテをもう一杯注文する。

さっきはジョッキで、なんて冗談を言っていたが、今回は本心から飲みたいと思っている。本日3杯目ではあるが、全然飲めるだろう。

「では私もご一緒させてもらいますかね」

「ん、マスターもカフェラッテを?」

「ええ、どうやら今日はカフェラッテの気分のようです」

そう言ってマスターは俺の分とは別のカップ、おそらく自分専用であろうカップを取り出す。
客に出すため使うカップは全てカウンター奥に飾るように並べていたが、そのカップはシンクの横にちょこんと置かれていた。

「へえ、マグカップか」

「ええ、たっぷり飲みたいものですから」

飾られているカップはどれも繊細、模様も柄も綺麗なものが揃っているが、なぜか俺はそのマスター愛用のマグカップが、少しすすけた年代物のそれで飲むカフェラッテに惹かれつつあった。

「いいじゃない、気取って飲むのもいいけど、大きなカップに好きなだけ注いで飲みたい時だってあるだろ」

「その通りです。……私が言うのもどうかと思いますが、マグで飲むカフェラッテもいいものですよ」

「ははは、まあマスターらしからぬ発言ではあるな」

「メニューの一部に「マグカップサイズ」を追加してもいいんでしょうが、その結果お客様が温くなってしまったものを……というのがネックでして」

「なるほどね。難しい問題だ」

「……まあたくさん飲めるお客様に関しては、もう一杯注文して頂ければいい話ですしね」

「ふ〜ん、商売上手な発言だけど……あまりそういう事は言わない方がいいんじゃない?」

「ええ、だからお客様にしかお話しません。……くれぐれもオフレコでお願いします」

「わかった。あまり口は固い方じゃないけど約束しよう」

「信じていますので」

「……もしかしてマスター、意外と人が悪い?」

「どうでしょうねえ」

いつもの微笑みとは少し違う、人間味溢れる笑い顔を見せるマスター。
初めて見るそれは客を相手にしている時とはまた別の魅力があり、そしてそんな普段見れない顔を見れた事が妙に嬉しかった。

「おっと、もうお湯が沸いてる。……さ、お客様のためにカフェラッテを作らなくては」

「うわ、逃げたよこの人」

「どうします? お客様もマグカップで飲みますか?」

「……いや、かなり惹かれる誘いだけど、今日は普通のサイズのカップでいいよ。マグで飲むのはまた今度、という事で」

「かしこまりました。……では私だけで楽しませてもらいますかね。マグのように背の高いカップに注ぐとまた別の美味しさがあるのですが……残念です」

「……マスター、それわざと言ってるでしょ?」

「いえいえ、そんな滅相もない」

「くっ……」

完全に手玉に取られている感があるやり取りに、思わず悪態を付く俺。
勿論それは演技でしかないが、マスターがそうであるように、俺もまた外で見せる顔とは別の顔になりつつあった。

「決めた、明日もまた同じ時間に来る。そしてマグでカフェラッテを飲む!」

「ありがとうございます。お待ちしておりますので」

こうして俺とマスターはどこか子供っぽい、しかし楽しくて仕方ないやり取りを続ける。

そのきっかけは、閉店後のカウンターで繰り広げられるやり取り。

そして、その決定打は、マグカップで飲むカフェラッテだった――







                               「カフェラッテはマグで飲む」  END



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