「キキメシ」



夕暮れの部活帰り、俺は友人の隆也(たかや)と2人で歩いていた。
今日の練習はなかなかにハードで、俺も隆也もヘトヘト。
そんな厳しい練習を終え、普段より重く感じるバッグを背負い、普段より重い足を引きずるように家へと向かっていた。

「うおー、ハラ減ったー」

グランド脇の蛇口から流れる生ぬるい水道水ですら美味いと感じれる状態だ、相当な空腹具合に違いない。その証拠にさっきから――

ぎゅるるるる

ほら、このありさまだ。
もう何回腹の虫が鳴ったか判らない。

「……ちっ、うるせえなあ」

しかも豪快に鳴るものだから、隣を歩いている隆也にも丸聞こえ。
俺と同じくらい空腹の隆也にしてみたら不快以外の何者でもないだろう。
だが空腹というのは呼応するらしく、今度は彼の腹から「ぐうぅ〜」という音が。

「……」

「……」

鳴ったよね、今間違いなく腹の音が鳴ったよね? 今俺に注意したのに!
そんな感じで顔を覗き込み、無言の圧力をかける俺。対する隆也は目線を逸らし、知らぬ存ぜぬで通そうとする。

「……」

「……しかし腹減ったな」

「うわ、何もなかったように話し始めた!」

まさかのスルーに思わず声を上げてしまう俺。これは普通にズルいと思う。
だが不思議と怒る気にはならなかった。だってもっと腹減るしね。

「うー、そろそろ歩くのもキツくなったきた……」

そう言って歩き方がそれまで以上にダラダラ&ブラブラになる隆也。
しかも道の真ん中だから始末が悪い。いくら住宅地の中の交通量少ない道だからってそれは危険だぞ。車来たら轢かれるぞ。

「ああもう、だらしねえなー」

「何だよー、お前だって腹空かしてるんだろー? だったらこの辛さも判るだろー?」

「そりゃあスゲー判るよ。俺だってもう腹減りすぎてちょっと痛いくらいだもん」

「そうそう、何だろうなアレ」

典型的な空腹あるあるに隆也が過剰に反応する。そんな大賛同する話でもねえだろ。

「とりあえずもう少しで家に着くんだ、どうにか頑張って歩け」

「なんだよー、キャプテンじゃねえんだから偉そうに指図すんなよー」

「……キャプテンだよ、俺は」

「うるせー、今は部活関係ねえだろー」

「お前が言い出した事じゃねえかよ……」

もう何がなんだか判らなくなってきた。
俺は文句を吐き続ける隆也を軽くあしらい、適当に相手をしながら帰路を急がせる。このままだとじきに地面に座り込んで動かなりそうだ。


――数分後。

「つうかお前の練習メニューはダメダメなんだよー」

「あれ決めてるのは監督だっての」

「知るかそんなの。明日はもう腹筋背筋腕立て5回くらいにしろよ」

「それじゃ筋トレになんねえよ……」

……と、こんな感じでしばらく歩いても隆也の不平不満は止まらない。
何で俺がグチを聞かないといけないんだ、そう思い始めた時だった。

「ハイもう決定、明日はプールに乱入して水泳部と石拾い勝負だか――」

「……?」

急に隆也が黙り、ピタリと足を止めて周囲を見渡す。その表情は真剣で、何かを探っているようだった。

「どうした、何してんだ隆也?」

「……」

俺の問い掛けにも答えず、隆也はクンクン、クンクンと鼻をひくつかせている。
その様子はこの前テレビで見た捜査犬が逃亡犯を追う時の仕草そのものだった。

「……ああ、いいなあ」

そしてしばらくの沈黙の後、心底羨ましそうに&どこか消え入りそうにそう言い、すううう〜っと大きく鼻で息を吸う。

「おい、だから何してるんだよ?」

「あれ、お前は全然匂わない? 鼻悪かったっけ?」

キョトンとした表情で俺を見る隆也。まるで俺が鈍いヤツみたいな扱いだ。
別に鼻は悪くない……というかむしろ良い方なのだが……いきなりどうしたのだろう?

「ちょっと俺のトコまで来いよ。そしたら判るから」

イマイチ状況が掴めていない俺を見かねるように、隆也が自分の方へ来るように手を振る。
俺は素直にそれに従って近付き、あと数歩で隆也の隣に並ぶというところまで進む。

「……ん」

ピクリと動く俺の眉間。そして同時に反応する嗅覚。
……ああ、隆也が言いたかったのはこの事か。
俺は「なるほど!」と心の中でポンと手を叩く。さっきまでの場所だと風の流れか何かで判らなかったが、ここまで来ると鮮明に感じる。

「カレー……だな」

「ああ、空腹には堪えるぜ。いい匂いすぎる」

そう言って生唾を飲み込む隆也。
確かに今こんなカレーの匂いを嗅がされたら立ち止まりもするだろう。大きく鼻から匂いを吸い込みたくもなるだろう。

……ここは住宅地。それもこの時間はジャスト夕飯時だ。
そりゃあ台所の近くを通りかかれば匂いも流れてくるし、今晩はカレーだというお宅だってある。

俺は食欲をそそりまくられる匂いの中、隣で軽くトリップしかけている友人が何を言いたかったのかを知ると同時に強く後悔する。

「おい、隆也のせいで今日はもうウチもカレーじゃないと嫌な気分になっちまったじゃねえかよ」

我ながらひどい言いがかりだとは思うが、カレーの匂いはそんな傲慢な意見を正論化するだけのパワーを持っていた。

ぎゅるるるるる……

ここで今日一番の音量で腹が鳴る。
……ここにいるとヤバイ。もう動きたくない、ずっと嗅いでいたいという意識に負けたらお終いだ。
そう感じた俺は匂いだけで丼飯3杯はいけそうな状態の隆也を引っぱり、何とかカレーの匂いが立ち込めるエリアから脱出。断腸の思いでその場を後にする。

「まさかこんなトラップが待ち構えてるとは……」

「今の俺達にはちょっとした拷問だよな」

少し進んだところで俺と隆也は立ち止まり、この夕飯時の宅地という強敵にどう立ち向かうか考える。
ちょっと大袈裟に捉えている感もあるが、まあそれは空腹時のおかしなテンションという事で勘弁してもらいたい。要は楽しくやりたいのだ。

「しかしアレだな、一回漂う夕飯の匂いを嗅ぐと、変に意識しちゃうな」

「ああ、それに何か嗅覚が鋭くなったみたいだ」

さっきまでは何も感じなかった普通の道だが、今は少し違う。
別に嗅ぎたくないのに、何を作っているのか当てる気もないのだが、どうしても僅かな匂いを察知しては料理をイメージしてしまう。これは大変だ。

「……ん、そこの家は煮魚だな」

「カレイの煮付けとかその辺じゃね」

「あー、それっぽい! 確証はないけど多分カレイだわ!」

……と、こうして俺達は道を進む度、台所の前を通る度にメニュー予想を始めてしまう。
まあさすがに家の中を覗く事は出来ず、正解を確かめる術はないものの、何となく「俺の予想が近いな」とか「これは隆也が当たってるだろう」みたいな感じで話が進む。

「お、この家は中華だな。……エビチリ?」

「それか酢豚とか?」

「いやいや、甘酢とチリソースは全然違うだろー」

「そ、そうか……。じゃあそこの角の家は?」

「……くんくん、これは煮物か? 肉じゃがっぽいな」

「同感。ちなみにウチは牛肉使う派」

「あー、ウチは豚肉だわ。そしてジャガイモとニンジンがほぼ同量」

「それはちょっとイヤだな」

「あとたまに玉コンニャクが入る」

「マジ? 普通は糸コンニャクとかだろ」

……と、途中で「我が家のローカルルール」みたいな話になったり……

「……お、そこの家から漂うのは……」

「焼肉だ!」×2

「さすがにこれは簡単だよな」

「もうタレの銘柄まで判るね」

「黄金の甘口だろ?」

「おうよ」

……と、まさかの焼肉のタレまで一致するという見事なシンクロ率を示したり……

「じゃあそこの青い屋根の家は?」

「そうだな……、この醤油とショウガの香り、それに少しの脂の匂い……豚ショウガ焼きじゃね?」

「おおー、なるほどー」

「ついでに言うとその隣の家、同じく脂の匂いがするけど……これは豚じゃないな。焼き鳥かな?」

「……くんくん、言われてみれば確かにスーパーの前とかにいる屋台の前と同じ匂いだな」

「だろ? そういや屋台といえば2丁目の生協の前にいる焼き鳥屋、あそこ美味いよな?」

「あー、食った事ねえや」

「一回食ってみ? 軟骨とつくね最強に美味いぜ」

「オメー今この状態で焼き鳥とか奨めんなよ。胃液逆流して鼻から出すぞ?」

「それは勘弁。つか俺も自分で話しててスゲー食いたくなった。失敗だわー」

……と、自分で墓穴を掘ってしまったりと、利き酒ならぬ利きメシで話が盛り上がる。

「しかしどうだろう、今のところ正解率は一歩俺がリードってトコかな?」

「いやいや、俺の方が当ててるだろ。何言ってんの?」

「はあ? お前が答えれたの焼肉と肉じゃがくらいじゃん。味オンチは黙ってろ」

「何だと? チリソースと甘酢の区別も出来ない嗅覚障害者のクセに」

「あ、それちょっとカチンと来たわ」

「じゃあ次からしっかり正解数をカウントしていくか?」

「おうよ、白黒ハッキリつけてやらあな」

「よーし、そんじゃあそこの石塀の家から始めんぞ」

「ああ、上等だ」

「ぜってー勝ってやる」

そして次第に2人はヒートアップ、そんな事したら余計に腹が減るのにも関わらず、ちょっとしたクイズ形式というか、「どちらの鼻が優れているか対決」に発展していく。

「くんくん、くんくん、くんくん」

「フンフンフンフンッ!」

……が、俺も隆也も威勢良くタンカを切ったのはいいが、その手段に問題が。
勝ちたいがために2人が取った手段は、お互い鼻を広げて吸えるだけ空気を吸う、というもの。
きっと……というか間違いなく傍から見ればアホか変態だろう。

「この家はウナギ!」

「ぬぬぬ……そこの家はミートソースだ!」

「じゃあその向かいの家、あそこはサンマ!」

「その隣は――」

こうして次々と匂いから料理名を予想して答えていく俺と隆也。
ルールとしては基本的に交互に家を指定し、回答していく。
そしてその答えに異論がなければ正解とみなし、もし食い違いがあれば協議開始。
どうしてもお互いに譲らない場合は窓を覗き込んででも料理を特定する……つもりでいたのだが、真剣勝負が始まってからは全て両者同回答。
別に何かを賭けている訳ではないのだが、負けなくないという意地がそうさせるのだろう。
2人はそれまで以上に嗅覚が研ぎ澄まされ、次々と料理名を当てながら道を進んでいく。
勿論こうしている間も腹は減りに減っているし、さっきから更に涎が出まくりグーグーぎゅるぎゅる鳴りまくりだ。
しかし今はそれよりも利きメシ対決に勝つ事が優先。
俺は隆也に完全勝利し、気持ちよく晩飯をたらふく食う事を目標と定め、鼻を広げて匂いを嗅いでいく。
……ああもう、全然カッコよくねえ。さっきから鼻穴全開じゃねえか。

「ここもカレー! 簡単すぎる! そしてカレーの家多すぎ!」

隣では隆也が「もっと答えるのが難しい料理を作れ」と言わんばかりに名前も顔も知らない家に向かって悪態を吐いている。
……コイツも全然カッコよくねえなあ。やっぱり鼻穴開ききってるし。

「次、お前の番だぞ!」

「おうよ、それじゃあ……そこの家、ホタテバター!」

「くそっ、次! ホタテの向かいの家……って、ここもカレーかよ! なんだよもうー!」

まさかのカレー2連。楽に正解を引いたのだから喜んでもいいと俺は思うのだが、隆也的には納得いかないようだ。
とても悔しそうに地団駄を踏んでいる。

「うーん、このままだと決着つかねえな……」

その後も何ターンか利きメシを行なうも、見事なまでに両者全正解。
まあ隆也は驚異的なヒキであれからさらに2回カレーの家を引き当て、「ここはもうインドだ!」とか訳の判らないキレ方をしていたが、それでも正解は正解。2人の間にポイント差は生じない。
そのため俺は「ここは1つさらに難度を上げるべきでは?」と考え、ある追加条件を課してみる事にした。

「なあ隆也」

「ん、どうした?」

「これから俺、目を瞑って歩きながら答えてくわ」

「はあ?」

「立ち止まらないで進む事から匂いを嗅ぐ時間を短くなるし、偶然チラッと料理が見えた、なんて事もない。……どうよこのストイックさ、俺はこの条件で勝負を続けるぜ?」

そう言って俺は隆也の反応も見ず、また返答も聞かずに即実践に移る。
まずは前方から車が来てないか安全確認し、目を瞑る。
一応ズルしてないぞアピールとしてしっかり瞼が閉じているのを隆也に見せ、前進開始。
正直何も見えないのは不安があるが、これを成功させればさすがに俺の勝ちだろう。
……まあ根拠は全く無いのだが。

「よーし、ここから始めるぞ。……まず1件目、このソースの匂いはお好み焼きだ!」

「お、正解。何気にスゲエかも」

この挑戦には隆也も素直に感心し、「やるなあ」といった感じの声を漏らす。
……よーし、この調子でどんどん行くぞ。

「そしてこの家! ……クリーム系の匂いの中に魚介の香り、クラムチャウダーだ! でもやっぱ前が見えないのは怖い!」

気合を入れ、最大限まで鼻から匂いを吸い込む俺。
しかし少し張り切りすぎてしまったようで、歩くスピードが若干早まっていた。
真っ暗な中での突進はさすがに恐怖感が先行、俺は思わず本音を漏らしてしまう。

「お前……アホだな」

「何だと?」

「別に目を閉じなくても下向くとかでいいんじゃね?」

「あ……」

なんという盲点。確かにその通りだ。
俺はまさかの的確指摘に言葉を詰まらせ、ピタリと足も止めてしまう。
しかしこのまま黙ってしまうと隆也に負けたようで何か癪だ。
なので俺が取った行動はと言うと……

「う、うっせえ! その恐怖も込みでの条件縛りだっての!」

「いやいや、完全にそれ負け惜しみだろ、今思い付いた言い訳だろ」

「違わい!」

と、無理矢理&強引に「それくらい気付いていた」的なスタイルを取り、そのまま勢いで押し流そうとする。
これに関しては自分でも凄まじい力技だと思う。でも反省はしていない。

「それじゃ次、この家は……ハンバーグ! いいね、俺も食いたい! そしてこっちは親子丼か? ビバ半熟卵! 俺も黄身に包まれたい!」

「……うわ、こいつとうとうアホになりやがった。いちいち自分の意見まで解説として入れ始めたぞ」

「出た、この家はキングオブ晩飯のカレーです! この匂いは家庭料理の一大革命やー!」

「パクッた! 完全に今の「料理の宝石箱やー!」をパクッてるだろ!」

「……え?」

知らない知らない、ボクには何も聞こえない。ナントカ麻呂とかいう人なんて存じ上げません。
俺はそんな態度で華麗にスルー、おかしなテンションでおかしな解説を続ける。

「おおっと、この家は小生意気にもステーキのようです! 焼肉とは微妙に違う香りを私は嗅ぎ逃しません!」

「見逃さないとかはよく聞くけど、嗅ぎ逃さないって初めて聞いたわ……」

「そしてこの立派なお宅! 建物は豪華だが今日の夕飯はキンピラのようです! 意外と質素だ! 実は生活厳しいのか!?」

「余計なお世話だろそれは……」

「もー、いちいちうるさいなー」

軽快な語り口でポンポン言葉を発していくも、俺が一言喋る度に後からブツブツ言ってくる隆也。
ツッコミを入れたい気持ちも判らなくないが、せめてもう少し長いスパンで見て欲しかった。

「はいはい、悪かったよ。じゃあもう黙って聞いてるわ」

そんな俺の気持ちを察したのか、半分呆れ気味でそう言う隆也。
これは実質的な敗北宣言、と捉えていいのだろうか。
……まあ多分面倒になっただけだとは思うけどさ。

「さあて、気を取り直して再開です。……おや、こちらのお宅はギョーザですかねえ。冷凍のクソ不味くて危険な材料なのか、はたまた手作りなのか、とても気になるところです」

とりあえず好きにやっていいのであれば遠慮なくやらせてもらう事にしよう。
俺はそれまで以上に饒舌に、スポーツの実況中継の如く利きメシを続けるのだが……

「そしてこちら側のお宅! ……むむっ、これはいけません。この生臭い匂いはイカです、俺の大嫌いなイカであります。おそらくダイコンか何かと一緒に醤油で煮てるんでしょうが、そのくらいではイカの臭いは消せません!」

「……なあ」

と、ついさっき黙って聞くと言った隆也が口を挟んでくる。
しかし俺はそれを完全に無視。だってまだまだイカの悪口言いたいんだもん。

「いやーそれにしてもこのお宅は可哀相です。どこの誰かは知りませんがワタクシ同情致します! イカは食い物ではありません、あれはゴム製品です! 何かの間違いで生まれたゴム生命体なのです!」

「……なあってば」

また話しかけてくる隆也。しつこいヤツだ。
当然俺は相手にせず、まだまだ憎むべき軟体生物へ罵詈雑言を吐き並べる。

「あーもう! イカなんてこの世からなくなればいいのに! そうしたら世界は平和になるのに! 再三申し上げますが私はこのお宅に住む方が不憫でなりません! ご近所にはカレーや焼肉といった料理を食べているのに、この家は臭いゴムを食べるのです! ああ悲しいっ!」

「……おーい」

「何だよ、黙って聞いてるって自分から言ったクセに……」

さすがに3回目の妨害となると俺も黙ってはいない。
俺はここでしばらく閉じていた目を開け、隆也を睨むように見つめる。

「あのさ、1ついいか?」

「なに?」

しかし隆也は怯む様子も無く、どちらかと言うと逆に俺を哀れむような目で見てくる。一体何だと言うのだろう。

「マジで気付いてないみたいだから言わせてもらうけどさ」

この時、俺はまだ気付いていない。
これから隆也が喋ろうとしている事も、その後に絶望が待ち構えている事も。
しかし彼は言う。少し申し訳なさそうに、でも口調はキッパリと。

「……今ボロクソに言ってる家、お前の家だぞ?」

「……え?」

俺は、そう聞き返す事しか、出来なかった――




                                           「キキメシ」 END




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