「突撃 みんなのキーボード」



「なあ、判ったー?」

「うーん」

「……曖昧な返事だなあ。どっちだよ」

「うーん」

返って来たのは同じ言葉、しかもこれ以上ないくらいの生返事だった。

「だからどうなの? 何か判ったの?」

「んー? うーん」

答える気のない返事、再び。ここまで相手にされないと逆に清々しく……なるわけねえ。俺は痺れを切らし、直接声の主の元へと向かう。


――ここは俺の家。……いや、俺の部屋といった方がいいか。

仕事の絡みで数日前に引越しを行い、少しは落ち着いてきた感のある最初の日曜。俺は地元の友人を招き、部屋の中を見せたり掃除を手伝ってもらったりしていた。
初めての一人暮らしは予想外の事も多く、すぐに片付くと思っていた小物の整理が大幅に遅れたり、荷物に入れたと思っていたものがなかったりで大苦戦。
それでも一応は暮らせる部屋になり、人を入れてもいい状態になったので友人を呼んだのだが、結局は色々と手伝わせるハメに。

まあ手伝ってもらっている部分には非常に感謝しているのだが……

「なあってば!」

「うーん?」

友人の隣に腰を下ろし、至近距離から呼ぶも返事は変わらず。
俺の顔を見るでもなく、正面に置かれたパソコンのモニタ……ではなく、キーボードを見つめていた。それも顔を横にして頬をくっ付けるように。

「……?」

え、何してるの? ネット繋いでくれてるんじゃないの?

てっきり接続の設定やら何やらが上手くいかなくて唸ってるかと思いきや、キーボードを凝視している友人。
確か俺は彼にパソコンのネット接続をお願いしたはずなんだけど……


――とりあえずここで少々補足をば。

引越しと同時にネット回線を引くよう頼んだ俺。まあそれ自体は何の問題もなく工事は終わったのだが、自宅で使っていたプロバイダとは別のところだったので、前の設定を丸々引き継ぎでは繋がらない。勿論俺だってすぐに諦めたわけではなく、色々と手を付けてみた。しかし元々こっち方面は不得意な自分、ぶっちゃけネットも仕事で使わないなら引いてないんだけど、ネット環境必須って言うんだから仕方ない。
そんな訳でちょうどよくパソコンに詳しい友人が来てるので頼んでみる→「うんいいよ」と二つ返事で了承、という流れになっていたのだが……見ての通り友人はキーボード鑑賞中。何だそりゃ。

「なあ……ネットは?」

「んー? 繋いだよー」

ああ、そんな事? とっくに終わったよ、みたいな感じでさらりと答える友人。
いやいや、それが本題だろ。それが目的だろ。っていうか繋がったら呼ぶって言ったじゃん。

「だったら一言声かけてよ」

「うーん」

と、またしても判ってるんだがどうだか微妙な返事。
だから俺を見て喋れって。あとキーボードは見るもんじゃなく押すもんだっての。
そんな思いを非難の視線として友人にぶつけるのだが、悲しいかな友人は俺に目を合わせる事もなくキーボードを眺め続けていた。

「なあ、もう繋いだんだろ?」

「うーん」

モニタを見ると確かにブラウザが開き、適当なサイトが表示されている。何の問題もない……はずだ。少なくとも俺にはそう見える。もしキーボードが壊れているのなら眺めるではなく分解するだろうしね。

「だからさっきから何見てんのさ」

「いやー、面白いなあって」

……あ、やっとまともに返答した。
ここでようやく顔を上げ、俺の問いに答える友人。その表情はどこか満足気というか何かを発見したような顔だった。

「は? 何が?」

「ん? ああ、キーボード」

「……?」

思わず問い質す俺、さらりと答える友人、その回答では何ら理解出来ない俺。
……え、これは何? 俺がバカって事なの? 今ので判んないといけないの?

「ゴメン、全くわかんねえ」

だって普通のキーボードだよ? パソコン買った時に最初から付いてきたヤツだよ? 特殊な機能もないし高くもないよ?
友人の言う「面白い」の意味が判らない俺は早々にギブアップ。外見を見る限りでは何の変哲も無いキーボードなのだが……

「いやね、横から見ると使用頻度が丸判りでさ。そのあからさまな差が面白くて」

「使用頻度……?」

どういう事? たくさん使うと凹んできたりするの? いやいや、そんな事はないでしょ?

さっきから喋る言葉、思う事の全てに疑問符が付いてしまう。別に文字キーのどれかが凹んでいる訳でもないし、字が掠れてもいない。さすがに使い込むと角が丸くなるとかいう事もないし、どこに差が出るんだよ?

「ほら、よーく見てみ。使用頻度が高いキーは表面がつるつるなの。元々は少しざらついてたんだけど、それが擦れて消えてるの」

「……???」

マジ? そんな変化が?
友人の言葉を聞き、どれどれと自分のキーボードを覗き込む俺。そういやこうして間近で見る事なんてなかったな……

「どう、わかる?」

「……あー、言われてみればそうかも」

友人の言う通りだった。キーボードは文字によって光沢のあるキー、そうでないキーに分かれており、そして確かによく使うキーがつるつるになっていた。

「でしょ。シゲっちの場合、KとOが一番つるつるだね」

「そうだな。あいうえお(AIUEO)が同率でもいいかな? と思ったけど、微妙な差があるな」

顔の角度を変え、キーボード自体を持って傾かせながら、ざっと全ての文字キーを確認。同じ母音でもAやOに比べて少しではあるがEの方がざらつきが残っていた。


――ここでもう1つ補足説明。まあ言わずがもなかもしれないが、さっきの友人の言葉にあったシゲっちというのは俺のあだ名。本名は徳田重美(とくだ しげみ)という。ついでに言っておくと友人の名前は柄本拓磨(えもと たくま)、あだ名は特になく、普通にエモトとかタクとか呼んでいる。……っていうか俺の事をシゲっちなんて呼んでるのはコイツしかいないんだけどね。

「うーん、あとはTとSがつるつるだね。それと当然ながらNも」

「まあどれもよく使う……というか使わないといけないキーだもんな」

「エンターやスペースみたいな大きなキーは一部分だけつるっつるだ」

俺の横からキーボードを覗き込みながらエモトはそう言い、エンターキーを撫でる。大の男2人が顔を近付け合ってキーを見つめたり撫でたり、という図は相当に気持ち悪いだろうが、まあこの際気にするもんか。

「……あ」

「? どうしたんシゲっち」

「つかさ、これって誰でも同じくなるんじゃねえの? よく使うキーはみんな一緒だろ?」

ふと抱く疑問。何か今の流れだと俺だけKとOとNがつるつる、みたいな感じになってるけど、誰だってこの3つのキーはよく押すだろ。それはパソコンに詳しい詳しくない関係なく、目の前にいるエモトだって同じはずじゃないか?
俺はそう考え、急にこの”使用頻度の高いキーつるつるの法則”(今勝手に命名)への関心が薄れていった。

「そうかな? 一概にそうは言えないと思うけど?」

「どういう事?」

そう考えるのは早いよ、短絡的だよ、みたいな言い方をするエモト。当然俺はどうしてそう言えるのか聞き返す。

「確かに長く使えばつるつるになるキーはみんな似てくると思う。でも同じタイミング、同じ押した回数ではなんじゃないかな?」

「ん?」

「だって1回つるつるになったら、それ以上の変化は無い訳じゃん? だから使い始めて最初にNがつるつるになり、その次にスペースが……みたいに、順番はきっとあると思う」

「まあ……確かにそうだな。俺はこのキーボード使ってもう3年以上経つけど、1年目の時からもう今と同じ状態のキーもあれば、つい最近つるつるになったキーもあるはずだもんな」

「それに押す力も関係してくるでしょ。エンターなんか文章打つときの最後に押す事が多いから、ターン! って力込めて打つ事が多いだろうし」

「あー、エンターキーをターン! ってのはやるよな」

エモトの言い分に同意するしかない俺。確かにそうだもん。力入れちゃうキーとそうでないキーってあるよ。

「勿論シゲっちの言う通りな部分もあるかもしれないけど、やっぱ使う人によって特色は出てくると思う」

そう言ってエモトはキーボードの中からLを指差し、「どう、わかる?」みたいな顔で俺を見る。……すいません、判りません。

「???」

「うーん、わかんないか」

「何? Lがどうしたよ?」

エモトが指差したのは紛れもなくLのキー。確かに結構なつるつる具合だけど、周囲のIやOやKに比べれば大した事ないぞ?

「これ、俺だったら何年経ってもここまでテカテカにならないよ」

「言い切るね」

「だって俺、ちっちゃい文字打ちたい時にL使わないもん」

「……あ」

そうか、わかった。俺はようやくではあるがエモトの言わんとする事を理解する。……うん、そうだよ。俺っていまだに小さい「つ」とかL使うもん。っていうかもはやそれで固定しちゃってるし。

「別にL打ちが悪いとは言わないけど、慣れてくるとみんな同じ文字キー2度押しになるじゃん? でもシゲっちは……」

「何か知らんけど頑なにL使うんだよな」

どうして? と聞かれれば「さあ?」としか、その打ち方だと遅いでしょ? と言われると「そうですね」としか答えられないのだが、俺は今の打ち方を変える気はない。きっとそんなのどっちでもいいじゃん、的な考えがあるんだと思う。別にタイピングの速度に不満感じてないしね。

「そりゃあもっとカタカタ早く打てるに越した事はないけど、今のままでいいって思っちゃってるしなー」

「うん、本人がいいならそれでいいと思うよ?」

決して馬鹿にしてるでもなく、突き放すでもなく。そんな口調でネモトは俺に同意する。人は人、自分は自分、それでいいじゃない。きっとヤツはそういうスタンスで物事に接しているのだろう。……じゃなきゃ人の呼びかけ完全シカトしてキーボードは眺めねえわな。

「しかしこう見てみると……怠けてるキーも結構あるなあ」

と、ここで話題転換。俺はよく使う文字キー意外、個人的にはあまりお世話にならない系のキーを触りながらそう呟く。……スクロールロックなんて1回も使った事ないんじゃないか?

「そうだねえ。いざ使ってみると意外と便利なものあるんだけど……なければないで何とかなるもんね」

「俺の中ではショートカットもその部類だわ。たまに「それマウス使わなくてもこれ押せばいいんですよ」とか言われるんだけど、覚える気あんまねえんだよな。便利だろうけどさ」

こちとらロクにCtrlやらAltも使わないっちゅうねん。つか正しい呼び方も知らねえのな。コントロール? クリス? アルト? オルト? 頼むからその辺統一しろ!

「それにしても……怠けてるって言い方、シゲっちらしいね」

「ん、そうか?」

頭の中で勝手に呼び方統一論を唱えていたが、ネモトの言葉でハッと我に返る俺。まあ確かに「怠けてる」よりも的確な言葉はあるよな。……例えば何だろう、ヒマしてる? それじゃ大差ねえか。

「普通に「使わない」とか「使用頻度が低い」とか言わない辺りがいかにもシゲっちな感じがする」

「うーん、別にそういうのは意識してないだけどなー」

自分が全く思っていないところでイズム、らしさを感じられても困るよ。俺は何とも言えないもどかしさを感じ、それを誤魔化すよう適当なキーに指先を合わせる。……何だこのデリートの横にあるエンドって。これも使った事ねえぞ。

「あ、それも活躍の場が少ないキーだよね」

「悪い、多分一回も使った事ねえや」

そう言いながら俺はおもむろにエンドキーを押してみる。すると適当に開いていたページが一番下まで移動した。……なるほど、こういう効果か。

「ふーん、やっぱりデリートとBSだとBSの方が使ってるみたいだね。あとこれは……」

と、俺が初めて押したキーの効果に感心している一方、エモトはエモトで色々と比較&検証をしては頷いたり首を傾げたりしている。キーボードにしてみれば今まで使った事のないキーを押されたり凝視されたりで大変だろう。

「いやー、何か面白いなー」

数本の指で全文字キーをペタペタ触り、それまで意識しなかったつるつるかざらざらかの感触を確かめながら素直に思った事を喋る。……うわ、ZとかXなんか超ざらついてんじゃん。アルファベット的にはカッコいいのに。

「……俺も家に帰ったら自分のキーボード見てみようかな?」

そんな俺を見ながら独り言のようにエモトが言葉を漏らす。……うん、俺も見てみたい。急に人のキーボードに興味が湧いてきた。

「……よし」

「へ?」

意を決したように頷く俺、聞き返すエモト。
この時俺の頭の中にあったのは、言うなれば「突撃となりのキーボード」とでも銘打てばいいだろうか。つまり友人知人、片っ端から家に押しかけてキーボードを観察する、というもの。さっきエモトが言った通り、キーボードを見れば所有者の性格や使用環境が判るはず……。俺はそれを調べてみたい衝動に駆られていた。

「行くぞタク、まずはオメーの家だ」

「は? 何で?」

説明もなく、いきなりゴーサイン。エモトの反応も当然、そう言うのも致し方なしだろう。

「いいから、詳しい事は車に乗ってから!」

「え? え? パソコンは?」

「そのままモニタ切って放置でいいよ、ほら早く!」

俺はそう言いながら車のカギをポケットに突っ込み、エモトを待たずして玄関へと向かう。
引っ越して1人暮らしを始めた、と言っても住んでる街は変わらない。まあ街の向こう側、端から端へ移り住んだ形にはなるのだが、それが逆に住んでる場所が近くなる友人だっている。
俺はこれから訪ねる予定でいる友人数名の家の位置を頭に思い描き、どういう順番で巡るかの順番を決め、部屋の外へと出る。やや遅れてエモトが「なんなんだよ……」とブツブツ言いながら登場、2人はそのまま車へと乗り込んだ。


――そして車中、俺は運転しながらようやくエモトに目論みを簡単に説明する。
とりあえず最初はエモト宅へ向かい、彼の使用しているキーボードを観察した後、他のキーボードとの比較対照としてエモトのを引っこ抜いて持っていく……という事を話した。

「いやいや、何で俺のなの? シゲっちのキーボードでいいじゃん」

当然ながらエモトからは何故自前のを持って行かないか聞かれるが、それに関して特に意味はない。多分面倒なのもあるだろうが、なんとなくエモトのキーボードの方が基準として使うに相応しいような気がした。なので俺はそれを理由として話すのだが……

「納得出来ないなあ。この企画自体は賛同するけど……」

と、やっぱり浮かない顔。しかしもう車を走らせてしまったのだからしょうがない。エモトには諦めてもらうとして、さっさと彼の家に行こうじゃないか。
俺はそう思い、キーボードの持ち出しに関してはもう決定した体で雑談を始める。

「そういやエモトの家に行くのも久しぶりかもな」

「そうだね……」

まだ機嫌はよろしくないが、元来グチグチした性格ではないし、こういうアホイベントは大好物のはず。それに俺にはエモトを釣り上げる秘策、彼にしてみれば大きく美味しいエサを用意してるのだ。

「で、俺のほかに誰の家に突撃すんの?」

「ああ、まずオーフナの家に行ってマンガ読み散らかしてCD漁っていいのがあったら強制的に借りて、その後は小岩のアパートに華麗に参上。次は若ハゲの家かなー?」

「華麗に参上って事はまた窓から勝手に入るの? メチャクチャ驚くからやめろって」

あんま迷惑かけないようにしようぜ? 的な表情を浮かべ、俺のアグレッシブな行動を牽制しようとするエモト。結構身のこなしには定評があるのだが、それ以上にクレームが多いのも事実。それを十分に、身を持って知ってるからこその発言だろうが、俺は動じない。だって相手は小岩だもん。アイツはそういう扱いでいいんだって。勝手に部屋に侵入されて「びやあぁぁぁぁぁ!!」とか驚いてりゃいいんだって。超本気のエアギター演奏をベランダから見られて真赤になって悶絶してればいいんだって。

「まあそんな固い事言うなって。俺も毎日の堅苦しい仕事で鬱憤溜ってるんだって。少しは発散させてくれよ?」

「だからってそれを大船君とか小岩で発散しなくてもいいでしょ?」

一応は擁護するも、エモトだってオーフナは君付けなのに小岩は呼び捨てにして差別している。だから小岩はそういう役回りなの。最近は本人もちょっとオイシイとか思い始めてきてんじゃねえか。

「まったく……、じゃあ行くのは3人だけだね?」

「いや、まだ回るよ。その方がエモトにとってもプラスだと思うけど?」

ニヤリと含み笑いを浮かべる俺。……うーん、いい質問だ。誘導しなくても自分から聞いてくるなんてエモトらしくないなあ。

「え? どういう事?」

「俺としてはその後、エリカちゃんの部屋にも行こうかなー? なんて思っちゃってるんですけど」

「……!?」

はい、引っかかったー
俺は予想通りすぎるエモトの反応に心の中で小さくガッツポーズ。勉強やパソコンの知識では俺を含め周囲の期待をいい意味で裏切るエモトだが、女の子関係となると「そりゃあもう!」ってくらい単純になる。
……ええ、俺が訪問予定に挙げたエリカちゃんってのはエモトの10年来の想い人なんですねえ。中学高校と彼女一筋だったのにも関わらず何のアプローチもしないで今までずっと「いい友達」の関係でいるんですねえ。本人にはナイショなんですが他の友人サイドと会う時はいまだにこの話で盛り上がるんですねえ。

「別にいいよな、そんな遠くもないし」

「あ、ああ」

「エリーも今日は休みだろうし、どうせ1人で部屋にいるだろ?」

「そう……なのか?」

っていうか馴れ馴れしくエリーとか呼ぶなよ。エモトの反応からそんな思いがアリアリと見て取れた。……この普段とのギャップ、面白すぎる。

「意外とボーッとしてるの好きだからな。この時間人が多い場所には出かけてないと思うで?」

「ふーん……」

あ、情報インプットしてる。脳内エリカちゃんデータの充実計ってる。
どこまでも判りやすいエモトに思わず微笑んでしまう俺。これに関しては下衆な思いはなく、純粋に微笑ましい光景だなと思っているのだが、エモトにしてみれば面白くないだろう。……あ、普段のモードに戻ろうとしてる。

「じゃあ寄るのは……俺の家を含めて5人だね?」

「そうだな、あとニッシーと八百屋のトコにも行けたら行こうかなと」

「オールスター勢ぞろいだね」

「しょっぼいオールスターだけどな」

今挙げた名前は全員学生時代から付き合いがあるメンツ、当時はいくらでもつるんで遊べたのだが、今集まるとなると結構豪華かもしれない。……でもまあオールスターはちょっと言いすぎだろ。


――こうして懐かしい名前も飛び出しつつ、俺達は最初の目的地であるエモトの家へと向かう。幸い日曜のこの時間にしては道も空いていて、特に渋滞に巻き込まれることもなく到着した。


「おじゃましまーす」

もしかしたら自宅の次にくぐった回数が多いんじゃないかと思われる柄本家の玄関を通り、俺はこれまた自室の次にくつろいだ時間が長いと思われるエモトの部屋に入る。

「あ、その辺は触れてくれるなよ?」

「了解」

比較的綺麗に片付けられた部屋の中、一部分だけ書類やら何かの箱が積まれた混沌としたエリアがあるエモトの部屋。きっと仕事で使うものなのだろう、俺はヤツの言う通りカオスなゾーンには近付かず、パソコンデスクがある横に移動。早速エモト愛用のキーボードを眺める。

「あれ? 新しく買い換えた?」

「え? もう買って1年以上になるよ?」

「マジか……」

確実に1年以内には彼の部屋に入っている、それも1回や2回ではないのだが、キーボードの変化には全然気付かなかった。そういや他にも何か色々増えているような……

「そうそう、ついでに言うとキーボードの他にドライブもHDDも増設した。外付けだから判ると思うけど」

「あ、やっぱり?」

うわー、ヤバイなあ。どれが新しく増えたヤツなのかわかんねえ。っていうか前使ってたキーボードってどんなんだっけ?
俺は最後にエモトの部屋に来た時の事を思い出そうとするも、部屋の全体像は浮かんでくるのだが、詳細は全然出てこない。人のPC環境なんてあんま気にしないのかなあ? 昔はよく使わせて貰ってたのに……

「で、どう? シゲっちのキーボードと比べて何か差とかある?」

「え? ああ、もうちょっと見せてくれよ」

いけないいけない、肝心な事をすっかり忘れていた。自分から言い出したのにまだ全然見てねえや。俺は慌ててキーボードに触れ、文字キーを指でなぞったり顔を近付けたりして自分のと違う部分を探す。

「やっぱアレだな、Lは全然つるつるになってないな」

「でしょ?」

基本的につるつるになっているキーは同じなのだが、さっき俺の部屋で喋っていたようにLだけは明確な差があった。そしてこれもやっぱりというか納得せざるを得ないというか、俺よりもパソコンに向かう時間が相当長いのだろう、買ってから1年程度の割にはざらつきが消えたキーの数が多い。3年以上使っている俺のキーボードと大差ないんじゃないか? と思うくらいだ。

「つかキレイだな、エモトのキーボード」

「そうかな? まあ定期的に掃除はしてるけど……」

エモトと喋りながらもじっくりキーボードを眺めていて気付いた事が1つ。それはキーとキーの間や奥に見えるホコリの量だった。俺のには毛なのか綿なのか判らないホコリかゴミのようなものが少し付いていたのだが、エモトのキーボードは新品に近い状態だった。

「掃除ってホウキみたいなやつで掃いたり、スプレーでブシューッ! って吹き飛ばすの?」

「うん、あとそれに細い綿棒を使う時もあるかな」

「几帳面だなー、俺はそこまではしないわ」

っていうかこんなのキーボード逆さまにしてバンバン叩けばゴミ落ちるじゃん。基本それだけでいいんじゃねえの? という考えの俺にはちょっと真似出来ない。やっぱエモトはエモトだわー

「こういうのでも性格とか判るね」

「ああ、そうだな」

確かにエモトの言う通りだ。キーの使用頻度だけでなく手入れの具合や徹底度でもかなり差があるに違いない。俺はこの後やるであろう友人達のキーボードチェックに新たな項目を増やし、エモトのキーボードチェックを終わらせる。
ちょっと早い感もあるが、コイツの場合は特に意外な部分もなく、また意外性もないだろうと思っていたのでこの程度でいいだろう。まあだからこそ基準になるのだが。


――キーボードチェック。エモトの場合。

・つるつる度の高いキーは一般的な使用頻度に比例。
・キレイ。手入れバツグン。
・あんま面白味はない。

――以上。


俺はエモトのキーボードを手早く外し、それを裸のまま抱えて車へと向かう。何か後ろから「せめてビニール袋でいいから入れろ」とか言って来る人がいたけど気になんかするもんか。……っていうか乱暴にも扱わないし汚さないから心配すんなっての。


――再び車内。目的地はオーフナこと大船祐(おおふな ゆう)の自宅。
彼はエモトとはまた少し違ったタイプのパソコンヘビーユーザー、仕事ではなく趣味と遊びのためにパソコンを使い、快適に遊ぶためだけに性能アップをしている男だ。

キッ……バタン!

オーフナの家の前に到着。車を玄関先に停め、そのままインターホンを押す……事もなく、ドアを開けて「ごめんください」と言う……事もなく、そのまま庭の方へ。彼の部屋は1階の玄関脇にあるため、こうして回り込んで窓をノックした方が都合が良かったりする。だってオーフナ、居留守使うし。

コンコン

「おーい、オーフナー」

手馴れた感じで窓を軽くノック、おそらく部屋の中にいるであろう友人を呼ぶ。
するとしばしの間の後、ブラインドが少し揺れ、どこぞの刑事ドラマのボスのように隙間からこちらを覗く目が。

「何だ、エモシゲか」

「や、久しぶり」

「何だって言うな。それから勝手に混ぜんな」

社交的に挨拶するのは勿論エモト、いきなり突っかかるのは勿論俺。2人はそれぞれ声を掛けると、その場で靴を脱ぎ始める。それを見てオーフナは別に驚くでも笑うでもなく、窓を開けて俺達を招き入れる。この侵入方法は中学の時から確立されたもので、俺らの中では普通の事になっていた。

「……で、どうしたいきなり?」

2人を自室に入れたオーフナだったが、そう言うとすぐにイスに座って視線をモニタに向ける。予想通り彼はゲーム中だった。

「ん、いつもの用件プラスアルファ」

「……あんま一気に持ってくなよ?」

いつもの用件というのはエモトと喋っていた時に言っていた、マンガを読み漁る&CDを借りていく事。オーフナは友人サイドで一番本とCDの所有数が多いのだ。しかも色んなジャンルが揃ってるので、新規開拓にはもってこいである。

「何か新しいの入った?」

「……俺の部屋はレンタルショップじゃねえ」

「ははは、ごめんごめん」

そう言って笑顔交じりに謝るエモト。しかしその目は早くも本棚に向いており、新刊がないか確認していた。……まあ俺ら内では当然の行為だわな。

「じゃあ俺は新譜を漁らせてもらおうかな……っと」

「……なあ、プラスアルファってのは?」

「ああ、それ後。っていうかオーフナ、あと5分でゲーム一旦やめてね」

CDラックから聞いた事のあるアーティストのアルバムを1枚取り出し、収録曲を見ながらそう告げる俺。……何という暴君。しかしそんなの関係ねえ。

「はあ? 今パーティー組んで討伐出てるから無理」

「休憩しなよ。お友達にはウンコって言えばいい」

……よし、これ借りよ。移動の車内で聴くにはちょうどいいや。
俺はアルバムを1枚手に取り、オーフナの座る机に向かって歩く。

「……チッ、わかったよ。ちょっと待て」

カタカタカタカタッ、タン!

素早くキーボードを打ち込み、モニタの向こう側の友人に離席の旨を伝えるオーフナ。軽く舌打ちはしたが、まあこれはいつもの事。どうせ1日15時間くらい遊んでるんだ、リアル友人が来た時くらいこっちを優先しろよな。

「で、どうしたよ……って、おいエモト、お前何でキーボード持参なんだ?」

イスをくるりと回転させ、ようやくしっかりと俺達2人を見るオーフナ。なのでエモトのキーボードにも今気付くという体たらくだ。

「……遅いよ、気付くの」

「いや、何かコードみたいなのがプラプラ揺れてるなーとは思ったんだけど、まさかそんなもん抱えてるとは」

オーフナの言い分はもっともだ。俺もいまだかつて友人がキーボードを小脇に抱えて遊びに来られた事はない。しかし今日はそのキーボードが主役なのだ。

「まあまあ、それは今に判るって」

「そそ、だからとりあえずオーフナ、お前はちょっとそこからどけ」

「はあ? ちょっ、押すなって!」

何をするのか一切説明もしないまま、ほぼ強制的というか超強引な流れで俺とエモトはイスに座るオーフナごとパソコンの前からどかし、持って来たエモトのキーボードとオーフナがたった今まで使っていたキーボードを並べる。

「おい、何するかくらい言えって」

いきなり珍妙な事をやらかし始めた俺達2人を見て、不安そうに覗き込んでくるオーフナ。何のために来たのか、そんな基本的な情報すら与えられていない側からすれば、キーボードを並べて観察を始める行為は相当に謎に映るだろう。

「どうだエモト?」

「やっぱりつるつるなキーは俺達と変わらないね」

「ふーん、つまんねえな。……オーフナ、このキーボードってどのくらい使ってるん?」

「あ? そうだな……もう2年以上は経つんじゃねえか?」

きっとこの段階でも俺達が何を考え、何を調べているのか判ってないと思うが、それでも質問にはちゃんと答えるオーフナ。
そろそタネ明かしをしてもいいかな? 俺がそんな事を考え始めた時だった、エモトが何かを発見したらしく、グッと顔をキーボードに近付ける。

「ん? どうした?」

「見て見て、ファンクションキーが少しつるつるになってる。これはシゲっちにも俺にもない特徴だね」

エモトが指差したのは文字キーの上、1から12まであるファンクションキー。言われてみると確かに総じて初期のざらつきは消え、それなりに使い込まれた跡が見て取れた。

「あー、ネトゲだねー」

「確かコマンドのショートカットがファンクションに振り当てられるんだっけ?」

俺もエモトもやってないので詳しくは知らないが、ネットゲームはファンクションキーを比較的よく使うはず、というのは何となくの知識で知っていた。全てのゲームが当てはまる訳ではないだろうが、色んなゲームに手を出しては現実世界そっちのけでプレイに熱中しているコイツの事だ。各ファンクションキーがつるつるになっていても不思議ではない。というか多分そうなるだろう。

「なあエモト、他には何かあるか?」

「……うーん、そうだねえ、目に付くのはそれくらいかなあ」

じっくりと自分とオーフナ、2つのキーボードを見比べ、エモトが結論を出す。俺も同じ見解だった。

「それじゃ行くか」

「だね」

まだまだ寄るべき場所、会うべき人、見るべきキーボードはある。それにオーフナだったら平日休日、朝昼晩問わず会いに行こうと思えば会えるし、大した発見もなかったので長居は無用だ。
俺は結局オーフナに何の目的で来たのかすら教えず、やる事をやって帰る事にした。エモトも特に説明する気もないようで、早々に自前のキーボードを小脇に抱えていた。


――キーボードチェック。オーフナの場合。

・ファンクションキーの使用頻度が高め。
・あんま面白味はない。

――以上。


「何かつまんねーな」

「もう1つくらい大きな特徴があればね」

「おい、どうしてちょっと俺が空気悪くしたみたいな雰囲気になってるんだよ。っていうか何しにきたかくらい教えろ!」

「うっせえこのニート!」

「ネット廃人!」

「ぐ……」

こういうのを逆切れというのだろう。俺達はオーフナにしてみれば聞いて当然、ここに来た目的を問う質問には一切答えず、ヤツにしてみれば相当耳が痛いであろう言葉を吐き、そのまま靴を履いて窓から出て行く。
……悪いなオーフナ、今日はこの辺で勘弁してやってくれ。つーか無理矢理にでも納得しとけ。

「……一体、何だったんだ……?」

と、俺達が帰ろうとする間際、背後からオーフナの呟きが聞こえてくる。
まあ局地的な台風一過、とでも思ってくれればいいんじゃね? 俺はそんな無責任極まりない結論を付け、車へと乗り込む。
次の目的地は先の会話でも色々と言われまくった小岩が住むアパート。ここからだと10分もかからないで着く場所にあるため、エモトもキーボードを手に抱えたまま到着するのを待っていた。


――車を走らせてから10分弱、俺とエモトは小岩が住んでいるアパートの前に立っていた。山を切り崩して造成した土地の一番奥、すぐ裏にはまだ手を付けていない山が岩肌むき出しで迫ってきている場所に建つため、小岩の部屋は2階にあるにも関わらず、窓の外に広がるのは土と岩と斜面に生える木々のみ。
そんな目の前が切り立った崖、という環境を俺達が見逃す&活用しない訳がない。加えて小岩がリアクション芸人顔負けの何にでも驚く性分、比類なきビビリ性、だったら遊びに行く時は常に極秘裏に侵入した方が面白いに決まってる。
という事で俺は小岩の部屋に入るのに階段は使わず、斜面に生える1本の木に手を伸ばす。そして慣れた手つきで太い枝に掴まり、幹を蹴り上がってスルスルと登って小岩の部屋のベランダを目指す。

「よっ、ほっ……と」

横に伸びる枝にぶら下がり、そのままけん垂の要領で昇り上がる。ここまでくれば後は建物に飛び移るだけ、俺は距離にして50センチもない隙間を軽いジャンプで難なく侵入成功。続いてエモトも手馴れた様子で木を登り、程なくして俺の横にスタンと着地する。

「いやー、最近運動してないなー。腕の力が落ちた落ちた」

「おいおい、まだ老け込むには早いっての。何そのオッサン発言」

「そういうシゲっちも昔に比べて登るスピード落ちてるよ?」

「……マジ?」

エモトの言葉に軽くショックを受ける。そういや俺も最近身体動かしてねえかも。……うわー、へこむわー

「ほら、目に見えて落ち込んでないでさっさと入る!」

そう言ってエモトは腰に挿したキーボードを抜き、先に行けという感じで俺の肩をポンと叩く。
……はいはい、行きますよ。華麗に忍び込みますよ。俺は気持ちを切り替え、足音を殺しながら窓の横に移動。カーテンの隙間から部屋の内部を伺う。


――この部屋に住む男の本名は小岩猛(こいわ たけし)
名前に獰猛の猛が使われているのに全然荒々しさがない、「名は体を現さない」を地で行く男だ。ちなみ間取りは小癪にも2DK、普段は俺が今覗き込んでいる部屋の隣にいる事が多いのだが、以前この部屋で蛍光灯のヒモ相手にシャドーボクシング(しかも超本気)をしていたり、等身大のお人形さんと寝ていたりした前科があるので油断は出来ない。さすがに勝手に侵入する間柄でも気まずい瞬間、見てはいけなかったと後悔する事もある。
てな訳で俺は慎重に確認を行い、この部屋には誰もいない事、そして奥の部屋で小岩らしき人物が動いているのを把握。音を立てないようゆっくり窓を開け、靴をベランダに置いて部屋の中に侵入。奥の部屋から死角になる壁際まで移動し、続くエモトに手で合図を送る。

スッ……タタタタタ

忍び足はエモトもお手のもの、隠密として生きれるんじゃね? というくらい静かに俺の隣へと歩いてくる。当然小岩は全く気付いていないだろう。

『……で、これからどうすんの?』

『そうだな、メールでも送って外に出てもらおうかな、と』

『あ、今回は驚かせないんだ』

小声でこれからどうするかを話し合う2人。俺としては「今からどっか遊びに行こうぜ。もう着くから下に降りてろ」というメールを送り、ヤツが外に出た所でキーボードチェックを始め、ついでに冷蔵庫の中身を漁って腹ごしらえでもしようかな、という考えでいた。ありったけの食材を使ってテーブルの上を料理だらけにしたまま帰ったらさぞ驚くだろう。

『じゃあメール送るよ?』

『頼むわ』

普段から俺の運転で動く事が多いので、こういう連絡メールはエモトの役割になっている。まあ俺からのメールでも問題はないと思うが、変に警戒されても困るのでエモトにお任せだ。

ギィ……

「!?」(×2)

まだメールを打っている時だった。小岩が立ち上がったのか、向こうの部屋から床の軋む音が聞こえてくる。……まさかこっちに来るのか?

まあいい、こっちに来たら大声で驚かせ、そのままオーフナ同様一切説明ナシでキーボードを調べて「無用心なんだよ!」とか捨てゼリフ叫んで帰ればいいさ。
俺はそう思いながらいつ小岩がこの部屋に入ってきてもいいよう構えるのだが……足音が向かう先は反対側だった。

バタン!

「……トイレだね」

「だな」

ドアの閉まる音、聞こえてくる方向から小岩が向かったのはトイレであることが判明。俺もエモトもほっと息を吐き、その場にペタンと座り込む。

「……そうだ」

待てよ、せっかくだからこの機会を生かすのもいいな。俺はここで計画の変更を決意。スッと立ち上がり、それまで小岩がいた部屋に普通に入っていく。

「え、ちょっと何してんの?」

「いいよ、普通にくつろいでようぜ? その方が面白いかもしれん」

「……かもね」

携帯をパタンと閉じ、メール作成をやめて立ち上がるエモト。その表情は何かを企んでいる時のニヤリとしたものだった。うーん、ある意味ナイススマイル。

「さて、と」

「あ、俺にも何かちょーだい」

部屋に入り、最初に俺が手を付けたのは冷蔵庫。とりあえず何か飲物が欲しかった。……勿論食事もここで済ませるつもりだ。まあ小岩よりは俺の方が料理上手だし、あいつの分まで作ってやれば文句は言わないだろう。

「ええっと、あるのは麦茶とコーラとオレンジジュースだな」

「どうせコーラは聞いた事ないメーカーのでしょ?」

「正解。1箱1000円でお釣が来るやつな」

しかも缶には大きくカリフォルニアコーラって書いてるのに、製造地は思いっきり東北でやんのな。西海岸線要素ゼロじゃねえか。

「じゃあオレンジジュース」

「俺もオレンジかな」

そんな訳で俺もエモトも安いだけのコーラを回避、缶に聞き覚えのあるメーカーのロゴが書かれたオレンジジュースを選択する。

……プシュッ

「よし、そんじゃまず先にキーボード見てみるか」

「了解」

ジュースに口を付けながら俺は小岩のキーボードを引っ張り出し、その横にエモトのキーボードを並べる。パッと見た所、どの文字キーも変化はないように感じるのだが……

「小岩、あんまパソコン使ってないのかな?」

「どうだろうな、結構前に「ブログ書いて金を稼ぐ」みたいな本買ってたくらいだから使ってるんじゃねえの?」

「うわー、そんな本買っちゃったの? っていうか小岩、「個人情報を漏らさずに巡れる安心アダルトサイト集」って本買ってウイルスに感染した事あったよね?」

「ああ、あったあった」

それは俺も覚えてる。何か小岩から「Re:Re:Re:Re:」って件名のメールが来た事があった。俺はもうこの時点でウイルスに感染したなと思って読まずに捨てたけどね。……だって俺、小岩と2件以上のメールのやり取りなんかしねえもん。

「どうしてこういう残念な行動ばっかり取るのかなあ? きっと今に「1日で15万楽して稼ぐ方法」とかいうのに引っかかるよ?」

「……あり得そうで笑えないな」

俺はそう言いながらふう、と1つ息を吐く。ちなみに小岩はまだまだトイレから出てくる様子はなかった。

「どうする? これ以上騙されないためにもパソコン壊すか?」

「それはやりすぎ」

「だってアイツ、パソコン買って得した事なんかないだろ? 騙されてグロ画像踏まされてメシ食えなくなったりとか、オークションで入金詐欺に遭ったりとかさ」

「でもそれはパソコンじゃなく、携帯でも同じ事やっちゃってるんだよね……」

「もう救い様ねえじゃん」

そういえばかなり昔、電波の入りが良くなる金属シールをバカ高い値段で買った事があったな……
ああもう、どんどん小岩の負組ヒストリーが出てくるよ。てかあいつ、バカにも程があるだろ。学習しろってんだ。

「……あ」

「どうした?」

俺が小岩のアホ加減に怒りと心配の思いを抱いている中、会話はしつつもしっかりキーボードを眺めていたエモトが何かを発見。どこか残念そうな表情でエンターキーを指差す。

「見て、エンターだけやけにキーがぐらつくのね。あと微妙につるつるになってる」

「うわ、本当だ。ちょっと外れそうじゃん」

「きっとカッコ付けてエンター強打したせいだと思う」

「……ええー」

超棒読みでそう言い、俺は更なる小岩の残念っぷりに軽くヘコむ。
何か容易に小岩が「ふふん、俺ってパソコン詳しいー! ハッカーなっちゃう!?」とか言いながら得意気にエンターをスターン! と叩いている画が想像出来るぞ。……だから発想がイタイんだって。思春期真っ只中の中学生が妄想内でやる事なんだって。

「イタいねー」

「……そうだな」

勿論これは2人の予想、推測でしかないのだが、おそらく見事に的中しているだろう。だって小岩だもん。理由はそれで十分だ。

……ジャー! ガチャリ

「ふう、スッキリ……って、うわああああぁぁぁゃああぁぁ!!?」

と、その時あまりにも微妙なタイミングでトイレから小岩が出てくる。当然俺とエモトのヤツを見る目は同情と哀れみに満ち満ちた、残念な子を見つめる表情そのもの。さすがにそれには小岩も戸惑いを覚えたようだ。

「え? なんで? どうして?」

俺達がここにいる事よりも、さも普通にくつろいでいる事よりも、自分に投げかけられた視線の意味が判らない様子の小岩。そのうろたえようは完璧に弱った小鹿のそれだった。

「あ、邪魔してるぜー」

「小岩も何か飲むー?」

「……え? じゃあコーラ」

挨拶もそこそこに、やっぱり何をしに来たかの説明はされず。でもそれが普通の事のように振舞う俺達2人に対し、小岩も自然とそれに合わせ――

「……って、そうじゃないでしょ!」

うーん、残念。流れに従うかと思いきや、乗り切る寸前の所でツッコミが入る。傍から見ればノリツッコミにしか見えないだろうが、本人にその気は一切ない。小岩は天然なのだ。もはや国家クラスで保護しないといけない存在なのだ。

「お、珍しい」

「自分で流れを修正したね」

「だっておかしいでしょ? カギかけてたでしょ? 何でいるの?」

冷静に小岩の反応を見る俺とエモトに対し、当の本人は口調を荒げて質問攻め。玄関を指差しながらカギの事を言う辺り、どうやら俺達は正面から入ってきたと思っているようだ。……今までに何回も裏から侵入してるのにどうしてベランダから入った線を疑わないのだろうか。

「何でだろうなあー?」

「どうやって入ったんだろうねー?」

問い質そうとする小岩を尻目に、俺とエモトはそれを華麗にスルー。答える素振りも見せず、小岩完全シカトで2つのキーボードを見比べる作業に戻る。

「……ねえ、何してるの?」

「あれだねシゲっち、他は何も特徴ないね」

「だな。つまんねー」

「っていうかまともに使ってないんじゃない?」

「何? もしかして電源も入れず、エンターだけ延々押してると?」

「うん。シャドーボクシングにエアギターもやるくらいなんだもん、エアータイプもきっとやってると思う」

「あー、ありえるなー」

俺は適当にカチャカチャとキーボードを叩きまくり、カリスマプログラマごっこをしている小岩をイメージし、まるで自分が恥をかいたかのようにサブイボを出してしまう。さっき同じような事を想像していたのだが、より鮮明で詳細なイメージが湧いた事に加え、それを小岩がやっていたであろう可能性が増したため、俺のこのサブイボ発生に繋がったのではないだろうか。

「……ごめん、さっきから何の話してるの?」

「うっせえこの妄想野郎!」

「はあ?」

「小岩ー、もういい歳なんだからさ、そういうのはやめなよ。な?」

「ちょ、ちょっとエモトまで何言ってんの?」

諭すように小岩に語りかけるエモト。すぐに反論しようと口を開く小岩だったが、それを遮るように早くエモトが言葉を放つ。

「認めな! やってたんでしょ!?」

「はあ?」

「イタいんだよお前は!」

「はあ!?」

途中から俺も参戦し、一方的に&徹底的に小岩を攻め立てる。
その後も俺とエモトは小岩が電源も入れずにキーボードを叩いて悦に浸っている事を確定事項として話を進めていったのであった。


――キーボードチェック。小岩の場合。

・エンターのみつるつる。
・そしてキーが外れそう。
・妄想って怖い。
・そしてイタい。

――以上。


こうして小岩の部屋でのキーボードチェックは終了。かなり手抜きな感じはあるが、実際変わっている所が見当たらないのでは仕方ない。そんな訳で俺とエモトはキーボードチェックというよりは小岩弄りに重きを置く事にしたのだが、その中の会話から本当にエアータイプをしていた事を小岩が吐露。存分にバカにし、存分にキモイを連発し、ついでに冷蔵庫の中身を漁って大量のチャーハンを作って食って一息ついてから部屋を後にする。……ベランダから。

「次はちゃんと玄関から来てよー?」

「はいはい」

「あと勝手に入るのもナシだからね」

「じゃあねー」

「……うう、全然聞いてない……。2人共鬼だ……」

食い下がるように注意をする小岩、それを全く聞かず全てが平和に事が運んだかのように満面の笑みで立ち去る俺とエモト。そんな泣きそうな彼の背後には山盛りのチャーハンが残っていた。……調子に乗ってありったけの米使っちゃった。テヘ。

「そんじゃチャーハンはラップに包んで冷凍庫に入れとけよー」

「作りすぎだよー」

「でも美味かったろ?」

「それはそうだけど……」

「じゃあ問題ナッシング! あばよ!」

「それじゃあね、小岩」

そう言って俺はベランダに足を掛け、登って来た木に向かって勢い良くジャンプ。エモトもそれに続く。小岩はまだ何か言いたそうというか、恨めしそうな顔をしていたが、知らん顔でスルスル降りていく。……ここでチャーハンが美味いとか同意しちゃうから強く出れないんだよ小岩は。

「よっと」

……スタッ

「あ、ちょっとコレお願いね」

「おう」

無事地面に着地し、すぐ上にいるエモトからキーボードを受け取る。そしてエモトも普通に降り立ち、ベランダからまだブツブツ何かを呟いている小岩に向かって笑顔で手を振り、車に乗り込む。

――次に向かうのは若ハゲこと伊藤寿樹(いとう としき)
あだ名からも判るように、若くして頭皮方面が残念な事になってしまった気苦労の多い男だ。

「さて、腹は膨れたし、車の中はさっきオーフナから借りたCDもあるし。快適じゃないかねエモト君?」

「そうだね。……チャーハンは作りすぎだけど」

「あれはすごかったな。対大食いファイター用だよな」

「また人事みたいに……」

と、そんな感じで楽しく会話をしながら車を走らせる事10分強。目的地である和歌ハゲ宅に到着した所で電話をかけ、玄関先に出てくるように言う。さすがに前の2人のようなノーアポイントメントな事は出来ない。あれは俺達サイドの友人でも特殊な部類だ。

「ういっす」

「よう」

「突然ごめんねー」

「ま、入れよ」

若ハゲはすぐに現れ、挨拶もそこそこに俺達を家に招き入れる。最後に会ってから1ヶ月も経っていないが、彼は俺の記憶からさらにもう一段階ハゲが進行していた。……不憫だ。

「で、どうしたよ? キーボードなんか抱えちゃって」

「まあちょっとした調査ってトコかな?」

「相変らずだなあ。休日にいい歳した男が2人で何やってんだよ。どっちでもいいから浮いた話とかねえのか?」

廊下を歩きながらの雑談というか世間話。確かにたまの休日、それも俺に至ってはまだ部屋の片付けも完全に終わってないというのに何をやってるんだ? という感じはある。……でもいいじゃん、本人達は結構楽しんでるんだから。

「浮いた話ねえ。……それをエモトさんに振る?」

「ああ、そうだったな。すまんすまん」

「……うわ、なんかひでえ」

エモトがシャイ&ピュアボーイで10年来ずっと同じ想い人でいる事は当然この若ハゲも知っている訳で、今の質問もこの流れに持っていくフリでしかない。
まあ本人を前にしてもこのくらいは突っ込んだ話をしてもいいだろう。いない所じゃ「さっさとコクれよ」とか「三十路なってもあのままだぜ?」とか言ってるけど、それも全てエモトを心配しての事。みんな何だかんだで気にかけるのだ。……多分。

「まあそれはさておき、と。……なあ若ハゲ、パソコン見せて」

「あ? 別にいいけど?」

当然のように若ハゲと呼ぶ俺と、特に苛立つ様子もなく普通に受け答える伊藤寿樹こと若ハゲ。一般的には悪口にしか聞こえないあだ名だが、俺達の間では何でもないただのあだ名。事情を知らない人を交えてこの呼び方をすると何か勝手に慌てたりするから注意が必要だ。

「もしかしてそのためにエモトはそれ持って来たの?」

「正解」

「……はぁ、よくやるよ」

相変らずだなあ、と言わんばかりの表情を浮かべる若ハゲ。……そんなため息ばっか吐くと抜け毛増えるぞー(根拠ナシ)

「でもいいのか? 俺のパソコン古いぞ? お前らが使ってるのより相当性能劣るぞ?」

「あ、いいよ。別にスペックとか関係ないし」

「そうそう」

「ふーん」

お前らが何したいのかわかんねえ。でも聞く気もねえや。そんな反応を示す若ハゲ。……もっと興味持てよなー。オーフナも小岩も何してるか超聞いてきたのに。つまんねー

「ほらよ、そこにあるから勝手にやってくれ」

と、そんなやり取りをしている間にパソコンの前に到着。あまり使っていないのか、半分物置として使っている部屋の片隅に若ハゲのパソコンはあった。

「おー、変わってない。懐かしいなー」

「俺もこれ使ってたんだよねー」

この反応から判るように、若ハゲのパソコンはそこそこの年代物。その昔マルチメディアだ何だで騒がれていた時代の頃のもので、彼もその一過性というか流行に乗って購入。しかし所詮は流れで買ったもの、購入目的も使用意図もなかったので使いこなすまで行かなかったようだ。……まあよくあるパターンだ。特にあの時代は多いだろう。

「よし、じゃあエモト、並べて比べてみようぜ」

「あいよ」

若ハゲのキーボードの隣にエモトが自分のキーボードを置く。どちらも一般的な白系の色のキーボードなのだが……若ハゲの方は微妙に色がくすんでいた。

「うわー、日に焼けてるなー」

「これだけで買ってからどれくらい経ったか判るよね」

「一応布かけたりしてた時期もあるんだけどな」

「ずっとかけてあげようよ……」

少し黄ばんでしまったキーボードを前に、もっと手入れやアフターケアしてやれよという立場の俺達と、そんなのどうでもいいじゃん的なスタンスの若ハゲ。
やはり普段からパソコンを使い、ある種の愛着を抱いている人間とそうでない人間では結構な温度差があるようだ。

「それで? 並べてどうすんの?」

「んー、まあ一言で言うと「キーボードで判る癖と性格判断」ってトコかな?」

なかなかに的確な事を言うエモト。色々と経緯や自分達の例を挙げての説明をするよりいいだろう。コイツみたいに興味のなさそうな相手なら尚更だ。

「ふーん、それで何が判りそうなんだ? っていうかそんなの調べなくてもお前らなら俺の性格くらい知ってんだろ?」

「うるさいなー」

「パソコンを使う中で出てしまう癖って、結構本人も知らないでやってる時が多いんだよ。それに使用意図なんかも判るしね」

「使用意図ねえ……」

相変らず関心ゼロ、俺達のやっている事に理解は示すも賛同はしかねる、といった感じの若ハゲ。どこまでも協力意識のないヤツだ。……1本残らず抜けちまえ。

「ま、気の済むようにやれば? あんま得るものはないと思うけど」

「はいはい、そうさせてもらいますよー」

なぜか自信ありげな若ハゲを尻目に、俺は並んだ2つのキーボードを見比べる。
それまでの傾向と対策から、まずは使用頻度の高い文字キー、エンター、スペースと見ていくのだが……

「……あれ」

「おかしいね」

と、早々に首を傾げてしまう俺とエモト。予想外な事に若ハゲのキーボードは今まで見てきたものとは異なり、つるつるになっているキーは1つも見当たらなかった。

「どのキーも一緒だね……」

「ああ、差が見当たらねえ」

「だから言ったろ? お前達とは違うんだって」

勝ち誇ったように……とはまた少し異なる、やる前から結果は判っていたような表情の若ハゲ。……何だこの余裕っぷり。ハゲ散らかしてるくせに生意気な。

「そうか……、全然使ってないんだ」

「はあ?」

ポンと手を叩き、なるほどそうかといった感じでエモトが口を開く。俺はすぐにはその言葉の意味が判らなかったが、聞き返そうとした直後に理解する。……はいはい、そういう事ですか。

「なるほどな、そりゃ全然使ってないなら変化は出ないわな」

「買ってからかなり経ってるけど、実際に使った期間はメチャクチャ短い、と」

「正解。はいよく出来ました」

そう言って若ハゲはモニタの上に手を乗せ、ポンポンと軽く叩きながら型遅れとなったパソコンを見つめる。

「ま、そういう事だ。お前らみたいにパソコンを多用してねえから特徴なんて出ないんだな」

「いやいや、偉そうに言うんじゃねえよ。使ってないだけじゃん」

それに特徴はないって言うけど、色が変わるくらいまで長く持ってるけど使ってない、ってのも十分な特徴だろ。
俺はそう思って反論をしようとするが、言っても何も変わらない気がしたので自重。でも黙りっぱなしも癪なので、皮肉を1つ吐いてみる事に。

「……つるつるになりかけてるのは頭皮だけか」

「ははは。上手いねシゲっち」

「もうじき若ハゲから単なるハゲになるんだよなあ。このパソコン買った頃に戻りたい? あ、その当時から変わってないか」

「うっせえ!」

執拗な攻撃にさすがの彼も少し口調を荒げる。……よし、一矢報いたぞ。


――キーボードチェック。若ハゲの場合。

・古くて色が変わってる。
・でも使ってないからざらざら。
・頭はつるつるなのにね。

――以上。


「でもあれだね、こういうケースもあるとはね」

「だな。何かしら変化があるとは思ってたけど……、逆に「何も変わってない」っていう特徴もあるんだな」

「これから向かう先に、持ってるけど使ってないタイプの人っている?」

適度に若ハゲをおちょくり、ポーカーフェイスを崩した所で俺達は家を後にし、次なるキーボードを求めて車を走らせてる。残る3人の家は総じてここから遠く、俺とエモトはまったり雑談モードに入っていた。

「あー、どうなんだろうな。八百屋は自分の店のホームページ持ってるから活用してる思うけど?」

「でも八百屋のとこに来る客層はサイトなんて見ないんだよね」

「そうそう。インターネットクーポンとかの割引サービスやってるのに、使われた試しがないとか言ってたもんな」

「残念だね、結構マメに更新してるのに」

「なんつっても開設4年目でアクセス数1800だからな。多分俺とエモトで400くらい回してるんじゃねえか?」

「うわ、ありえる……」

今話題に上がっている八百屋というのはもうこれもそのまんまで、実家が青果店を営んでいるヤツの事。本名は岸涼太(きし りょうた)といい、この後寄る予定のニッシーこと西崎修二郎(にしざき しゅうじろう)とは超ご近所さん。三軒隣に住んでいるため仲も良く、2人の事をキッシー&ニッシーとまとめて呼ぶ事もある。まあ基本は八百屋なんだが。

「で、ニッシーはどうなの? 前に何回かパソコンショップで会ったけど」

「あいつは微妙なんだよなー。無駄に新しいもの好きで飽きっぽいから」

「わかるわかる、熱しやすく超冷めやすいんだよね」

「何か買う時も少し様子を見て安くなるのを待つ、が出来ないんだよな」

「ケータイにDVDにデジカメに音楽プレイヤーに……あと何に飛びついたっけ?」

「……液晶テレビ。しかもバカでかいやつ」

「ああ……そうだったね」

やたら高いの買っちゃったよね、と気の毒そうな表情を浮かべるエモト。
このやり取りで十分判ると思うが、ニッシーは周りのみんなが持っていない物、買うか買わないか迷っている物を真っ先に買うタイプ。例え失敗しても損しても自分は先駆者でいたい、流行の最先端でいたいと思っている節がある。……これはこれで厄介な性格である。
そのためパソコンも性能大幅アップの新モデルが出るとすぐに購入、俺もエモトも知らない間に最新機を所有していたりする。もし新しいのを買ってたら検証は出来ないな……

「どうなんだろうね、またひっそりニューマシン買ったりしてるのかな?」

「わかんねえ」

昔から散々よく考えて買え、少し待つ事を覚えろと言っていたが、彼は一度も耳を貸した事が無い。それどころか逆にムキになって買ったりもする。そんな前科とも呼べる過去があるため、俺としても完全にお手上げなのだ。もうこれはニッシーの家に行って部屋の中を見てみるまで判らない。

「浪費家って怖いね」

「そうだな」

これまでに何度も出た結論に今日もやっぱり辿り着く。もうこれに関しては議論するだけ無駄なのかもしれない。
そんな事を考えながら、通りの向こうに見えてきた昔ながらの青果店に向けて車を進ませる。幸い数台しかない駐車スペースにはまだ空きがあり、俺はそこに車を停めさせてもらう事にした。帰り際にダイコンやキャベツの1個でも買っていけば許してくれるだろう。

……バタン

「ついたー」

「道路、ちょっと混んでたな」

腰に手をあて、ぐいっと胸を反らす俺。一方のエモトは首を捻ってポキポキ音を鳴らしている。お互い意外と長かった道のりにややお疲れモードに入っていた。……やっぱ野菜じゃなくて果物でも買ってその場で食おうかな。

「店の中、混んでなければいいねー」

「さすがに商売の邪魔はできんからな」

「はいらっしゃーい! ……って、何だシゲっちにエモトか」

「……うん、大丈夫だね」

「この場合、喜んでいいのか心配した方がいいのか悩むな」

店に足を踏み入れるかどうかというタイミングで早くも聞こえてくる威勢のいい挨拶。それは店がヒマで客が来るのを待ち構えていたかのよう。実際八百屋の店の中に人影はなかった。……おいおい、客ゼロかよ。

「なんだ? 今2人してスゲー失礼な事考えてないか?」

「いや、別に……」

「そうだよ、失礼な事は考えてないよ」

「勘違いすんな。客がいないのはたまたま。さっきまで結構賑わってたんだぜ?」

商売成り立ってる? という俺達の疑問、心配の念を察したのか、八百屋はそう言うと自信たっぷりにポンと自分の腹を叩く。コイツは嘘をついたり見栄を張ったりする事はないので本当なのだろう。

「それならいいんだけどな」

「じゃあ景気はそこそこなんだね」

「おう、近場にでかいスーパーが来ても常連はウチで買ってくれるからな」

「……でもネットクーポンは常連は利用してくれない、と」

「うるせえな、黙れ」

痛い所を突かれたのか、「そこは触れてくれるな」的な表情を見せる八百屋。言い方は多少カチンときたようにも見えたが、すぐに肩を落としてため息を吐く。

「客に全然浸透しないどころか、ウチのばあさんにも覚えてもらえなくてなー。この前珍しくクーポン使おうとした客が来たと思ったら、ばあさんが「何だこれ?」とか言い出してな」

「うわー」

「完全なる失敗キャンペーンだな」

やっぱり個人営業の青果店でホームページを介したクーポンというのは定着しないのだろうか。……まあ直接店名入れないと検索に引っかからないし、近所の八百屋を調べてみようと思う人もいないか。

「せめて携帯のメルマガくらいだったら登録してくれる人もいると思うんだけどね。店で登録の手続きなんかしてあげれば利用者も増えるんじゃない?」

「あー、そうか。なるほどなー」

エモトの言葉にやたらと頷く八百屋。どうしてもこの手のサービスを成功させたいのか、今にもメルマガ製作に取り掛かりそうな勢いだった。

「よーし、やってみるか。……っと、そういえば2人して何しに来たの? 野菜買いに来た訳じゃないでしょ?」

「ああ、ちょっと調べて回ってる事があるんだ」

「そうそう。だから家の中お邪魔していいかな?」

「ん? 何だ、2人してマーケティングの仕事でも始めたのか?」

「まさか、そんな大した事じゃねえよ」

俺はそう言って苦笑いを浮かべ、エモトの小脇に抱えられたキーボードを指差す。さすがにそれだけでは何の説明にもならないので事情を話そうとするのだが……

「はいらっしゃいませー!」

「ニンジンもらえるかしら? それとキュウリも」

「へい毎度!」

と、ここで軒先に常連らしきおばあちゃんが1人現れ、八百屋は即座に接客モードに。そして今日のオススメやら世間話やらが始まってしまい、説明したくても出来ない状況になってしまう。

「……おっと。悪ぃな2人共、勝手に家の中入っててくれ!」

「うん、わかった」

「あいよ。商売がんばれよー」

このままずっとここにいても邪魔になるだけだろう。俺達は言われた通り、店の奥へと進んで住居スペースへ。店との仕切りになっている暖簾をくぐり、廊下を少し歩いてすぐの八百屋の自室へと入っていった。

「うわー、何か前より混沌としてるね」

「半分事務所っていうか仕事場になってるな」

ドアを開けてすぐの場所にはチラシ作成に使うであろうプリンターやコピー機が、そしてその隣には仕入帳やら伝票が置かれた机があり、奥にはバナナやみかんの段ボールが積まれている……という状態の八百屋の部屋。個人的な空間はほんの一部分で、しかも以前来た時よりそのエリアは狭くなっていた。

「仕事熱心なのは判るけど……住み分けせえよな」

「あと掃除もした方がいいね。相変らずお菓子の袋とペットボトルが散乱してる……」

「もはやペットボトルに関してはちょっとしたオブジェクトだな」

俺とエモトは呆れ顔でそう言い、パソコンデスクとベッドの間にあるこの部屋一番のカオススポットを見つめる。そこには確か小さなテーブルがあったはずなのだが、その姿は一切見えず、大小様々なペットボトルとスナック菓子の袋が開封未開封問わず置かれていた。

「あいつ、八百屋のクセにスナック菓子が主食みたいなもんだからなー」

「トマトとレタスを丸かじりしながらポテチって、身体にいいか悪いか微妙なとこだよね」

「で、不精かと思いきやカボチャの煮付け作ったりトウモロコシ蒸かしたりすんのな」

「そうそう。……まあ料理しても一緒に食べるのはお菓子だけどね」

俺もエモトもこれまで何回も八百屋の家には遊びにきており、一泊した事もあるのだが、その度に彼の特殊な食生活を目撃していた。今言った通り彼は自分の家が八百屋にも関わらず、食生活のメインとなるのは菓子類。しかもその食べる量が半端ないのだ。……そりゃ太るよ。朝早くから起きて重労働しててもブクブク肥えるわ。

「うわー、半分くらいしか飲んでないジュースがこんなに……」

「見るな見るな、またトラウマになるようなのが出てくるぞ」

「そうだね、もう青汁色になったイチゴオレは見たくないよ……」

出来れば軽く掃除でもしてやりたいが、たまに生物兵器並のブツが出てくるので手は付けれない。俺はもうこれにはノータッチ、完全無視の方向でキーボードを見る事に。メモの切れ端や付箋が貼られまくっているパソコンデスクに腰を下ろすのだが……

「うわっ、汚ねえ!」

まずはエモトからキーボードを受け取って並べ、お約束の文字キー比較から……と覗き込んだ時だった。俺は八百屋のキーボードのあまりの汚さに大声を上げてしまう。何と彼のキーボードは文字キーの大半に脂が付着し、ベットリと指紋が浮かび上がっていた。しかもそれだけでなく、何か小さな破片がこびり付いている。

「……八百屋のやつ、菓子食いながらパソコンしてるね」

「酷いな、キーボード全体からポテチの匂いすんぞ」

俺は目をしかめながらも八百屋のキーボードを観察し、スナック菓子の破片や袋の奥にたまる粉のようなものを爪の先でツンツンと突付く。乾燥してポロポロと落ちるものもあれば、妙に湿気ているものもある。おそらく後者は一旦口の中に入ったものが落ちたと推測される。……もうどのキーがつるつるだとか、そういう事を調べるレベルではなかった。


――キーボードチェック。八百屋の場合。

・汚い。とにかく汚い。
・ポテチ臭が漂う。
・他はもう知らん。

――以上。


「おーう、お待たせ。ヒマになったから来たぜ」

と、八百屋のキーボードの汚さにドン引きしている真っ最中に当の本人が登場。勿論俺達が発する言葉はただ1つ。

「汚ねえんだよ!」(×2)

「ヒッ!?」

見事に息の合った口撃にたじろく八百屋。何の事を言われているのか判らないらしく、自分の着ているシャツや被っている帽子を取って見始める。

「違う違う、オメーの格好じゃねえよ」

「ん? じゃあ何だ?」

「……ねえ八百屋、いくらなんでもこれはないよ」

そう言ってエモトは2つ並べられたキーボードを指差す。こまめに掃除されたエモトのキーボードと、汚れた指で触られまくりスナックカス落ちまくりの八百屋のキーボード。これ以上ないくらい比較対照として相応しいものもないだろう。

「ああ、それか。別にそこまで大騒ぎするようなもんじゃないだろ」

「いやいやいや、さっきから何人も見てきたけど、これは相当ヒドいよ?」

エモトの言う通り、この汚さは尋常ではない。きっと見えている部分以外、つまり文字キーの奥の方にはさらに大量のスナックカスが溜っているだろう。

「お前は几帳面すぎるんだよ。使う俺が気にしないなら問題ねえだろ」

これぞまさにザ・大雑把な発言をする八百屋。まあそう言われると返す言葉はないのだが……エモトは納得しないだろうなー。
どうしようもないと言いつつも、心境的にはエモト寄りな俺。確かにこの汚さは何とかした方がいいだろう。そうじゃなくてもキーボードは雑菌やら何やらが付きやすいんだからさ。

「ふーむ……」

俺はどうにかして上手く八百屋を言いくるめる……というか、どうすれば多少は気にかけるようになるかを考える。しかもそれは出来ればこの場で、即効性のある方法で。……そうじゃないとこれから几帳面VS大雑把の延々平行線な論議を聞かさせる事になる。そんな不毛な話聞きたくねえよ。

「そういえば八百屋はゲームのコントローラーもそうだったよね。何回ベトベトにされたか……」

「菓子食いながらだとそうなるだろ?」

「せめて拭こうよ。自分のじゃないんだからさ」

……よし。

ここは強烈なインパクトを与えたもん勝ちだな。そう考えた俺は今にも口論に発展しそうな2人の間に割って入り、八百屋のキーボードを手に取る。そして適当な高さまで持ち上げ……

「ちょ、何する気だ?」

「……?」

「ていっ!」

バンバンッ!

不思議そうな視線を投げかける2人の前で俺はキーボードをひっくり返し、裏側に手刀を数発叩き込む俺。すると当然文字キーに付着していたスナックカス、奥に落ちていた年代物のスナックカスがボロボロボロボロと。

「うげえ、汚ねえええ!!!」

降り注ぐように落ちてくるスナック菓子の残骸。ポテチの破片もあれば青海苔のようなもの、粉チーズのようなもの、そして元が何か判らないもの……と、よくもまあここまで溜ってたなという量だった。
そしてこの事実に一番驚いたのは何と八百屋。俺もエモトも相当な量だろうという予想があったので叫ぶまではいかなかったが、認識の甘さからか八百屋の驚きは相当なものだったようだ。

「……どうだ八百屋、さすがにこれ見りゃ考えも変わるだろ?」

「ああ、こりゃひでえ。何だこりゃ」

素直に頷く八百屋。こういうヤツには実際に見せたり体感させるのが一番手っ取り早い。……な、そうだよなエモト?
俺はそう思い、「ナイスアシストだろ?」という感じでエモトを見るのだが……なぜか表情が冴えない。というか軽く震えてる。なんで?

「……シゲっち、俺のキーボードにかかってるよ」

「へ? ……あああああっ!?」

そうだった、ひっくり返した下にはエモトのキーボードがあったんだ。すっかり忘れてたわ。……やっちまったー

「悪い、マジですまんエモト!」

「うう……いいよ、悪気があった訳じゃないし……」

口ではそう言ってくれているが、落ち込んでいる様子は痛いくらい伝わってくる。俺はとりあえず「お前のせいだ!」と八百屋に逆ギレし、その後エモトのキーボードを一生懸命キレイに掃除。何とかスナックカスを取り除くと、俺は早々に次の目的地であるニッシーの家に行こうと提案。八百屋に「ここに居づらいだけだろ」と核心を突かれつつも適当にはぐらかし、去り際に果物と野菜を買って店を出る。なんだかんだあったが、最後は3人共普通に笑顔でいた。……友達っていいね。

「ニッシーの家に行くならここに車置いて行っていいぞ?」

「マジ? 助かるわー」

「一応ウチの商品買ってくれたお客さんだからな」

「サンキュ」

「ありがとー」

「じゃあ帰る時は一言かけてくれよな?」

「ああ、そうする」

そんなやり取りをすませ、俺とエモトは八百屋の店を後にし、ここから徒歩45秒の場所にあるニッシーの家へと向かう。そんな近い距離にあるため、俺達は特に会話もないまま西崎家に到着。インターホンを鳴らし、ニッシー母に出迎えられ、「あのバカ息子の浪費癖と飽きっぽい性格をなんとかしておくれよ」→「無理です」という長年繰り返している会話(もはやお約束。というかネタ)をしてニッシーの部屋へと入る。

ガチャッ

「おいっすー」

「やほー」

「おー、シゲにエモだー」

事前連絡ナシ、ニッシー母も「勝手に入っていきな」と俺達の訪問を告げなかったのだが、ニッシーは特に驚く様子もなく即歓迎ムード。しかしその手には何か精密機器のようなものが握られていた。……根拠はないが最新の匂いがした。買って間もないから自慢と説明したい感満載だった。歓迎ムードの訳はコレか……?

(ねえ、何かまた買ってるっぽくない?)

(ああ、俺もそう思った)

瞬間的に交わされる、俺とエモトのアイコンタクト。遠目からパッとしか見ていないが、どうやらニッシーの手に握られているのは来月に日本上陸となるポータブルプレイヤー。おそらく海外経由か怪しい通販で先行入手したのだろう。

(どうする? こっちから触れる?)

(いや、面倒だからスルーで)

(了解)

……つかアレ、初期不良起きまくりのバッテリー消費量激高の地雷品だろ。国内対応してない機能もあって、誰もが様子見・静観の構えしてる品だぞ? 持ってたら逆にバカにされんぞ? 「へー、スゴイっすねー(笑)」とか言われてお終いだぞ?

(ねえ、アレって確か「今世紀最大の地雷」でしょ?)

(シーッ! 触れるな、俺も気付いてる)

流行にそこまで詳しくない俺でも色々と悪評を聞くというのに、この「自称最先端を行く男」はどうしてフライングまでして買うのだろう。……まあどうせ俺が「こういう良くない評判立ってるよ」と言った所で、「ふん、そんなの定価で買えない貧乏人や冒険出来ないヘタレの言い訳さ」とか「国内メーカーが結託して悪評を流しているんだ」とか言って来るに違いない。それを聞くのもタルいし、やっぱここは必殺”空気の如く”の発動だな。

「……(チラッ)」

「……(コクリ)」

俺からエモトに目線で合図、それを受けて小さく頷くエモト。そして次の瞬間、ニッシーが口を開きかけた所で間髪入れず喋りの妨害を入れる。

「なあ、コレなんだとおも――」

「ねえニッシー、ちょっとパソコン見せてもらうよ」

「はいはいごめんよ、ちょっと前通らせてもらうぜー」

「あ、ああ……」

上手く出鼻を挫く事に成功。ニッシーは少し残念そうな顔を見せるものの、「まあそんな焦んなくても自慢はいつでも出来るさ」みたいな思いでいる模様。まだまだ余裕が見て取れた。

「何だ、キーボードなんか持って来たのか? それだったら俺の使ってる――」

「よいしょ。ねえシゲっち、これでいい?」

「オッケー、それじゃあ始めるか」

今度は自分のキーボードの自慢を始めようとするニッシー。しかし例え品が変わろうと俺達には関係ない、全て出がかりを潰すという基本姿勢は揺るがない。

「……なあ、それより見てくれよ、これ――」

「どうだエモト? 何か判るか?」

「ちょっと待ってね、今調べるから」

「……」

今度は少し不機嫌そうというか拗ねた表情を見せるニッシー。だがまだ「いいさ、まずは君達のやりたい事をやればいい。とっておきは最後だ」みたいな意図が見え隠れしていた。……残念だな、お前のとっておきは永遠にとっておく事になるんだよ。

「なあなあ、何しようとしてるんだ? 俺にも教えてくれよ?」

「ん? まあちょっとな」

「……調べ物。これにはニッシーの協力がいるんだよ」

「そ、そうか。なら仕方ないな」

上手いぜエモト。さも「特定の人じゃないとダメ」的な言い方をして相手を持ち上げる……、完全に術中にハマッてるなニッシー。

「でも話くらいしてもいいだろ? 実はこれなんだけ――」

「さてと。俺もやるかなーっと」

「あ、それじゃあシゲっちは向こうね」

「はいよ」

「………」

3度目となる出だし潰し。さすがにニッシーも苛付いてきたようだ。……うーん、狙い通り。もう数回で怒り爆発かイジけて何も喋らなくなるかのどっちかだろう。

「……あ」

「どした?」

と、ここまで順調に来ていた俺達だったが、いきなりエモトが予想外な声を上げる。何やらキーボードを見て何かを発見したようだが……って、そういや俺全然キーボード見てねえや。

「このキーボード、新品だ……」

「なに?」

そういえばさっき、ニッシーが自分のキーボードを自慢しかけたが……もしかして最近いいのに買い換えたのか? じゃあ肝心の比較検証出来ないじゃん。何余計な事してくれてんだよ!

「ふふん、やっと気付いたか。このキーボードはすごいんだぜ? 実はここを――」

「うっせえこの新品マニアがぁ!」

「ええっ!?」

「説明なんか聞きたくねえんだよ!」

自分でもちょっと声を荒げすぎかな? と思うも、何かその場のノリでキレてみる俺。ちなみに今のはそれまでの意図的な出鼻叩きではなく、反射的に出たもの。しかしそんな事はニッシーに違いが判る訳もなく……

「……何だよさっきから、どうして俺に喋らせないんだよ?」

と、完全にイジケモードに移行してしまう。ああめんどくせえ。そういう流れだって事を察し、その上でノッてくれればいいじゃねえかよ。

「わかったわかった、じゃあそのキーボードのすごい部分ってのを教えてくれよ」

ああもう仕方ねえな。そんな感じで俺は嫌々ながらもニッシーに解説を求める。まあ使用状況での比較対照が出来なくなった以上、機材環境でも知っておくか。

「おう、これが個性的な機能満載でさ。この端の部分を引っ張ると……あれ? どうするんだっけ? こっちだったかな?」

「使い方覚えてないの……?」

意気揚々と実演を交えての説明に挑んだものの、いきなりつかえてしまうニッシー。それを見ていたエモトが冷たい視線を送る。

「いや、買ってからあんま使ってないんだよね。……ええっと、確かこうして……違うな、こうか?」

「……使おうよ。せめて機能くらいは把握しようよ」

呆れ顔のエモト。きっと色々な機能があるキーボードという事で関心を持っていたのだろうが、説明する側のニッシーがこんなグデグデでは興味も失せるだろう。

「なあエモト、もう得る物もなさそうだし、もう行くか?」

「そうだね……」

この流れでは当然とも思える俺の提案に、エモトも力なく頷いて同意する。さすがに異議はないだろう。


――キーボードチェック。ニッシーの場合。

・新品なので使用状況は不明。
・でもきっと特徴が出る前に買い換えるに違いない。
・っていうか使え。

――以上。


「ああっ、ちょっと待てよ。このキーボードよりもっとスゴイのがあるんだって。それを見てくれ、な?」

そんな言葉が聞こえてくるも、俺もエモトも聞き耳持たずでニッシーの部屋を後にする。ドアを閉めた後も俺達の興味を引こう、戻って来てもらおうと「ほら、コレまだ日本にないんだぜ?」とか言っていたが、それでも俺達の足は止まらない。……まあその説明はまたいつか、気が向いたら聞くよ。どうせその時はもう別の新製品に夢中になってるだろうけど。

「何かハズレが続いちゃったね」

「そうだなー、どの文字キーが使い込まれてるか、みたいなのを俺達は求めてるんだけど……」

「それ以前というか、別のトコに大問題があるんだもんね」

ニッシー母に帰る旨の挨拶をすませ、再び八百屋の家へと向かう2人。確かにエモトが言うように、若ハゲ以降の3人は使用頻度を調べる以前の問題だった。
果たして次に訪問を予定している人物はどうなのだろうか。……ちょっと不安だ。

「よう、早かったな」

「……まあ、な」

その時、ちょうど店先に立っていた八百屋が俺達に気付き、声を掛けてくる。
商売中の延長のような感じで威勢の良い声の八百屋に対し、歯切れも覇気もない俺の返事。これには八百屋もすぐ気付き、ニッシーの悪い癖が出た事を察したようだった。

「何だ、ニッシーのパソコンからは何も収穫ナシか?」

「ああ、そんなトコだ」

「これだったら八百屋のキーボードの方がまだ特徴があってよかったよ」

エモトはそう言うと、さっきまでの出来事を簡単に説明する。それを聞いていた八百屋は「あーあ」とか「やっぱりな」という相づちを打ち続け、最後はやっぱり俺達と同じような表情になってしまう。

「まあ……その、なんだ。もう仕方ねえって」

「そうなるよな、結論としては」

「だね」

こうして話がまとまった所で俺とエモトは八百屋に別れを告げ、車へと乗り込む。そして運転を始めて数分、紙袋の中からさっき買ったリンゴをかじりつつ、次の行き先をどうするか話し合う。

「さて……、残るはエリカちゃんくらいか」

「そ、そうだね」

「一応あの子には事前連絡しとくかな」

「うん、その方がいいさね」

いいさねって……どこの方言だよ。俺は冷静を装いながらもやっぱり名前が出ると平常さを失うエモトに苦笑い。まあ今日一日連れ回した上、八百屋のスナック食べカスをこぼしてしまった分の侘びもあるし、そこには触れずに会わせてやろうじゃないか。俺はそう考え、エリカちゃんこと本名須崎恵梨香(すざき えりか)嬢が住むアパートへと向かうべくハンドルを切る。

「そんじゃ悪いけどさ、電話かけてくれよ」

「え、俺!?」

「当たり前じゃん。こっちは運転中なんだから」

「そりゃそうだけど……俺あんま電話した事ないんだよ」

……だから電話かけさせようとしてんだよ。
ったく、こっちの配慮も知らないで何尻込みしてるんだ。俺はせっかく出したパスを生かさないエモトにふう、と軽くため息。おそらくこのまま強引に電話をかけさせようとしても首を縦に振らないと思うので、俺は仕方なくどこか車を止めれる場所はないかと周囲を見渡す。

「ええっと……ついでに飲物でも買うかなーっと」

「じゃあそこ曲がってすぐの自販機のとこで止まろうよ」

「そうだな」

あそこなら車を置くスペースもあるし、ちょうどいいだろう。……ええっと、電話はどこだったかな……と。
ズボンのポケット、ダッシュボードの上と、俺は運転をしながらどこかにあるであろう携帯を探す。しかしすぐに見つかると思っていた携帯はどこからも発見されず、自販機の前に着いても出てこない。……あれ、マジでどこいった?

「大丈夫?」

「ああ、間違いなくどっかにはあるんだ」

「それならいいけど……。それじゃ俺はジュース買ってくるよ、シゲっちは何がいい?」

「ウーロン茶で」

「りょーかい」

俺がジュース買ってる間に探しててね。そんな感じでエモトはドアを開けて外へ出て行く。出来ればワンコールしてくれると嬉しいんだが……まあいいや、とりあえず自力で探そう。俺はシートベルトを外し、ドアと座席の間や脇に落ちていないか念入りに探し始める。

「……お、あったあった」

こんなところにあったのか。俺は自分の足元に程近い、座席シートの下から携帯を発見。すぐさまエリカ嬢に電話をかける。

……トゥルルルル、トゥルル――ガチャッ

『もしもし?』

「あ、エリカちゃん?」

『珍しいね、徳田君が電話かけてくるの』

「そう? ちょっと前にも電話しなかったっけ?」

『あれはかなり前って言うんじゃない?』

……あれ、そうだっけ? 俺は彼女の言葉を受けて最後にエリカ嬢と電話したのはいつだったか思い返す。……うん、軽く3ヶ月は経ってるね。そりゃ「ちょっと」じゃなくて「かなり」前になるわ。

『それで今日はどうしたの?』

「あ、うん、実はさ――」

と、こうして俺は友人でありエモトの想い人でもあるエリカ嬢に経緯を説明し、今から2人で向かってもいいかを聞く。突然の申し出ではあったが、彼女は即答でオッケーを出してくれた。これで晴れてエモトは憧れの女性の部屋に入れる、という訳だ。……よかったねエモト。

『それじゃあ待ってるね。……何分くらいで着きそう?』

「うーん、15分くらいかなー」

『わかった。気をつけてきてね』

「はいはーい」

……ピッ

大体の到着時間を確認した所で電話を切り、俺はもう落として探したりする事がないよう携帯をズボンのポケットへ。訪問の確約も取ったし、後はもう彼女のパートに向かうだけだ。……それにしてもエモト遅いな。ジュース買うだけなのに何してるんだ?

「……って、あれ?」

ふと自販機の方向を見ると、そこにはエモトの他にもう1人立っている。まあ自販機の前なので他にジュースを買いに来る人がいても不思議ではないのだが、そういう事ではない。そのもう1人はエモトと並んでこっちを見ていた。そして2人で手を振っていた。そのもう1人と俺は面識がある……どころか思いっきり顔見知りだった。

ウイィーン……

「ようロッキー、久しぶり」

「ちっす」

すぐに窓を開け、手を振り返す俺。エモトの横にいたのは2人の共通知人、ロッキーこと斉藤弘樹(さいとう ひろき)だった。

「何か今日、そのセリフ何回も言うし聞くよね」

「そうだな」

確かに今日は「久しぶり」を連呼しているような気がする。しかしロッキーの場合は本当に久しぶり、他の友人は長くて2〜3ヶ月ぶりだったのに対し、彼の場合は1年近くも会っていなかった。しかも会いに行く予定に入っていた訳でもなく、完全に偶然の再会だ。

「どしたん? そんなに色んな人と会ってんの?」

「ん、まあな」

別に隠す必要もないが、1から説明するのも長くなる。俺は普通にエモトと2人で遊んでた、という感じで話を流す事に。ここは素直に久々の出会いを楽しもうじゃないか。互いに近況でも語ろうじゃないか。

「それよりもロッキーはどうしてここに? っていうか歩き?」

「うん、それは俺も気になってた。家のある方向と全然違うよね?」

エモトの言う通り、ここはロッキーの家からかなり離れた場所にある。せめて車にでも乗っていれば判るのだが、ロッキーの移動手段は徒歩の模様。これは一体……?

「ああ、実は引っ越したんだよ。このすぐ近くなんだ」

「へー、そうなんだ」

「ここスゲー住みやすいわ。よく行く店が全部近くなった」

「それはいいな」

俺も最近引越しをして実感したのだが、実家暮らしの時は遠かった場所や店が近付くというのは非常に嬉しい。それがよく利用するものならなおさらだ。……まあ俺の場合、逆に遠くなってしまった店も結構あったりするのだが。

「そういやこの辺、パーツ扱ってるお店も何軒かあるもんね。いいなあ」

と、住環境の良し悪しを「近くにパソコンショップがあるかないか」で決めるエモトが本気で羨ましそうに口を開く。……うん、確かにこの辺はよく行く店が何軒かあるな。

「でしょでしょ、エモトならそう言ってくれると思ったよ」

エモトに負けず劣らず、もしかしたらそれ以上のパソコン知識を持つロッキーはそう言ってうんうんと頷き、賛同者の出現に満足そうな表情を浮かべる。俺はそこまで詳しくないのだが、まあこの気持ちは判らなくもない。どんな趣味、好みでも同志の存在は嬉しいものだろう。

「……あれ? もしかして今も買物の帰り?」

「ああ、古くなったからキーボード買い換えた」

俺も気付いていたが、ロッキーの手には大きめのトートバッグが握られ、その中からよく行く店のビニール袋が。エモトはそれに今さっき気付いたようで何を買ったか聞くのだが……って、キーボードかよ!!

「ねえシゲっち……」

「ああ、偶然もここまで来ると気味悪いな」

たまたま電話をかけようと車を止めた場所で、偶然しばらく会ってなかった友人に遭遇し、その友人が買ってきたという品が偶然にも俺達が見て回っているキーボード……
その出来すぎな状況、重なるにも程がある偶然に軽く引いてしまう俺。きっとエモトも同じような気持ちでいるだろう。

「ん? 何が気味悪いって?」

俺達の会話を聞き、何かあったのかとロッキーが聞いてくる。まあひた隠しにするのもおかしな話なので、俺はごくごく簡単に経緯を話す事にした。パソコンに詳しい彼のキーボードも見てみたいとは思うのだが……どうしよう? エリカちゃんに少し遅れるって電話してロッキーの家にも寄るべきか?

「ふーん、そういう事かー」

「ね、ビックリでしょ?」

「じゃあついでに俺のキーボードも見てく?」

「いいね。シゲっちも別に構わないよ……ね」

最初はロッキーの提案に乗るも、途中から俺が電話していた事を思い出し、「あー、どうしよう?」みたいな顔になるエモト。……おいおい、そういう状態で俺に判断を投げるなよ。

「そ、そうだな、じゃあ少し寄らせてもらう……か」

ほら、こう答えるしかないじゃん。もしこれで断ったら何か俺が付き合い悪いヤツみたいになるじゃん。損だわー
俺は心の中でそうボヤき、この流れに乗るしかない空気を作った男に非難の目線を送る。エモトは小さく手を合わせて必死に「ゴメン」というアピールをしていた。

「……あ、でもダメだな」

「どうして?」

まあ別にロッキーの部屋に遊びに行くのが嫌な訳でなし、エリカちゃんにはもう一回電話するかメールで事情説明すればいいだけの話だ。よし、ロッキーのキーボードを見よう。そう決めた矢先、今度はロッキーが難色を示し出す。

「いや、今日買ってきたのも前のとほぼ同じキーボードなんだけどさ」

そう言ってガサゴソとビニール袋を開け、中身を見せてくるロッキー。当然そこにあるのはキーボードなのだが……

「ほら、キーに一切文字が書いてないタイプなんだよ。しかも表面はツルツル仕様。だから変化は見れないと思う」

ロッキーの言う通り、箱に描かれた本体画像には全てのキーに文字が書かれていなかった。どういう用途なのかは知らないが、確かノープリントキーとかいう名前だったと思う。色々とカスタムしたいから使うのか、単純にシンプルデザインが好きなのか……とりあえずブラインドタッチが完璧じゃない俺には使うのは無理だな。

「ん? じゃあどうして買い換えたんだよ」

「使い込んで壊れたとか?」

もしそうだとしたら印刷文字の磨り減りと同様に、壊れたキーで使用者の特徴が判る事になるので、俺達の調査対象には十分なるはずだ。しかしロッキーは軽く首を振って故障の類を否定、キーボードが入った箱の裏面を指差す。

「こっちはワイヤレスなんだよ。俺の理想は何も書いてない&ワイヤレスなんだけど、今までこのタイプはどこのメーカーのやつも有線でさ。それがこの前、やっとワイヤレス仕様が出たから買ってきたんだ」

「へー、そうなんだ」

納得顔で頷くエモト。そういえば前にワイヤレスに変えようかな? みたいな事を言っていた記憶がある。俺は別にどっちもでもいいんだけどなー。マウスだって昔のコロコロボール付きでも不便さ感じないし。

「でもそれじゃあロッキーの言う通り、見に行ってもあんま収穫ないかもね」

「ああ、今使ってるのもそこまで古くないしな」

「どうしようシゲっち、ロッキーの部屋にはまた今度、キーボードとは関係なく遊びに行くって事にする?」

「んー、そうだな」

「了解。まあいつでもヒマしてるから好きな時に来てくれや」

ロッキーはそう言うとキーボードの箱を袋に入れ直し、バッグにガサガサと突っ込み、そのまま手を振りながら部屋のある方向へと歩いて行く。それを見ていたエモトはよほどこの環境が羨ましく感じたのか、「家がこの辺っていいなー」という顔になっていた。……こりゃいつか引っ越すかもな。


――キーボードチェック。ロッキーの場合。

・さすがはフリーク、ノープリント仕様。
・キーボード自体が新しい事もあり、変化は特になし。
・まあ実物は見てないんだけど。

――以上。


「さて、そんじゃ俺達も行くか」

「そうだね」

と、まあこんな感じでまさかと偶然が重なった友人との出会いを経て、俺とエモトは車に乗り込みいざ正規の目的地へ。少しロッキーとの会話で時間が経ってしまったが、それでも電話で喋った通り15分そこそこでエリカ嬢が住むマンションの前に到着。一応無事着いた事を知らせるべくワンコールを入れた後、2階にある彼女の部屋へと歩いて行く。

「おまっとさんでした、待望のエリカちゃんの部屋ですよー」

「……何その言い方、いまどき「おまっとさん」なんて言葉、どっかの街の宣伝本部長くらいしか使わないよ?」

階段を上がりきった所で先を歩いていた俺はクルリと振り向き、エモトの心境を探るべく話しかける。……どうして彼の口調を真似したかは俺にも判らない。

「じゃあ俺が2人目だな。ギンギンって名乗るわ。イエーイ」

「……うわー、絡みにくいテンションだなー」

何を仰いますエモトさん、こっちはあなたの為を思ってわざとウザイ感じでいるんですよ? 自分では気付いてないだろうけど、ちょっと緊張してますぜ? ニヒヒヒヒ。

「ダメ?」

「うん」

「あー、残念。ハイ消えたー!」

「……それ、どこかで言おうと狙ってたでしょ?」

「さあて、どうでしょう」

それでも適切なツッコミは出来ているエモト。終始この状態のままならエリカちゃんとも楽しい話が出来るんだけどなー

……ガチャ

「あ、徳田君と柄本君、もう上がって来てたんだ」

もう少し歩けばエリカちゃんの部屋、という時だった。俺達を出迎えようとしたのか、彼女が部屋の入口から姿を現す。おそらく下まで来てくれるつもりだったようだ。

「よ」

「よ」

軽く手を上げ、1文字で挨拶をすませる俺と、それをそっくり返すエリカちゃん。一見おしとやかで物静か、でも仲良くなると意外とフランクな部分を見せる彼女らしい挨拶の返しだった。
ちなみにこのエリカ嬢、エモトが長年想いを寄せているだけあってなかなかの美人。おそらくエモトは彼女の笑顔にズッキューン! とハートを射抜かれたと思うが、俺が思う彼女の魅力はギャップではないかと考えている。まあギャップ萌えなんてよくあるパターンなのだが、いいものはいい。出来れば今日もそれが見れればいいのだが……乞うご期待。
普段はサバサバした彼女が何かのきっかけで見せる変化が!! って、1人でで何言ってるんだ俺。

「よ」

続いて彼女は同じようにエモトに向かって手を挙げる。しかし挨拶をされたエモトは「あ、どうも……」といった感じでペコリと頭を下げるだけ。……うーん、なんだかなあ。

「ええっと、どうしよう?」

「どうしよう、じゃねえよ。キーボード見せてもらうんだろ?」

「お、おう、そうだな」

……はあ。こりゃ先が思いやられるぜ。さっきは「これなら少しは大丈夫かな?」と思ってたのだが、俺の見当違いだったようだ。……そうだな、この状態を一言で表現するなら……「ひどい」だな。

「うん、じゃあ上がって」

「あいよ、邪魔するぜ」

「おじゃまします……」

案内されるように部屋の中に入る俺とエモト。「ちょっと散らかってるけど気にしないでね」とエリカちゃんは言うが、まあそれは女の子が自分の部屋に入れる時の枕詞みたいなもんだろう。普通にキレイで整理整頓されていた。

「へー、さっき行くって言った割には片付いてるじゃん」

「……何か嫌味のスパイスが効いてるような気がする」

俺はジョークで靴棚の上に指を這わせ、「なんなのこのホコリは!?」という継母ごっこでもやらかそうと思ったが、ここでエモトに「そんな失礼な事言うな」とかマジ対応をされてしまっては場の雰囲気が悪くなるのでヤメ。……だって本気で言いそうなんだもん。

「ホント失礼だよねー、そう思わない柄本君?」

「うん、思う」

と、この問い掛けには即答するエモト。いいさいいさ、今だけは君のために悪者でいようじゃないか。ピエロでいようじゃないか。

「ええっと、それでキーボードが見たいんだよね?」

「ああ。パソコンどこに置いてたっけ?」

「こっち」

彼女が指差した先には専用のパソコンラック、そこにはいかにも女の子が好みそうなカラー&デザインのPCがあった。確かパステルなんちゃらとかいう色の名前だったはず。無骨なデザイン好きのエモトが前に否定的な事を言ってたけど……

「可愛いでしょ?」

「うん、すげーいい」

この変わり様だよ! いつものように「マザーボードは大きいほどいい」理論を振りかざせよ! このヘタレ!

「ん? どうかした徳田君?」

「いや、別に。……さ、始めようぜエモト」

「そうだね」

いやいや、実は以前エモトが「こんな色のパソコンはないわー」って言ってましたよ? なんて事は言えるはずもなく、俺はエモトに持って来たキーボードを並べるように言う。

「へー、それは柄本君の?」

「う、うん」

興味深げにエモトのキーボードを見ながら質問をしてくるエリカ嬢、至近距離まで近付かれ照れ始めるエモト。……お前中学生か。そんなツッコミを入れたくて仕方ない俺だったが、ここはグッとガマンの子である。

「これって高いの?」

「そうでもないよ、6000円くらいかな?」

「えー、それは高いよー」

「そ……そうなのか」

出た、価格観の差! これはエモトさん大ピーンチ! 自分は普通だと思った事が向こうにしてみれば普通じゃない、これはショックか!?

「でもそれだけいいもの、なんでしょ?」

「うん、使ってると違いがよくわかる」

「へー、すごいねー」

おおっと、エリカちゃんナイスフォロー! 質問の返しも反応も満点だぁ! エモトもホッとしてるぞ! そして何実況してるんだ俺! これじゃただの邪魔者じゃねえか!

「徳田君も高いキーボード使ってる?」

「俺? 俺のはそんなでもないよ」

詳しい値段は忘れたが、確か俺が使ってるのは3000円もしなかったはず。今は愛着を持って使っているが、元は正月セールでたまたま買っただけ。まさか文字キーに変化が出るまで使うとは思ってもいなかった。

「ふーん、そうなんだ」

「でもシゲっちのキーボードも使いやすい方だと思うよ?」

「へー、あるんだね、そういうの」

エリカ嬢は感心したようにそう言うと、自分のとエモトのキーボードを見比べる。彼女がパソコンを買った時期は詳しく判らないが、並んだ2つのキーボードはパッと見たくらいではどちらが長く使っているか判らない。つまり彼女のキーボードもそれなりに使い込まれている、という事だ。

「……で、どうよエモト? 何か発見はあったか?」

「うーん、まだちょっと判らないなー」

会話はしつつも、しっかり本来の目的は忘れずにキーボードを見ていたエモト。そろそろ何か判った事はないかと聞いてみるのだが、返事は芳しくないものだった。遠目から全体を見ればどちらも使い込まれているので、1つくらいはすぐ見つかってもいいと思うのだが……って、俺も一緒になって探さないと。いつからか俺が「どう?」とか聞いて、エモトが見つける役目になってるし。

「……ん? なあエモト、何か違和感なくね?」

本腰を入れて探し始めてすぐ、俺は2つのキーボードを交互に見つめながら、ふと思った事を口にする。上手く言い表せないが、どこか今まで見たきたものとは違うような感じがした。

「うん、シゲっちの言いたい事は判る」

「そうか、エモトもか……」

俺が感じた事はエモトも同じく感じているようで、それが何かをずっと考えているようだった。そしてしばしの間の後、「ああ!」とエモトが声を上げる。

「判ったかのかエモト?」

「うん、意外と簡単な事だった。でもある意味盲点だったよ」

「?」

何だ、ある意味盲点ってどういう事だよ? 俺はその言葉だけでは全く理解出来ず、さらなる詳しい説明を求める。そんな2人のやり取りを後ろでエリカちゃんも見ていた。それまでずっと「え? なになに? 私のキーボードおかしいの?」という表情をしていたのだが、今は「なになに? 早く教えて?」という顔。……あんま変わってねえな。

「シゲっちも気付いたと思うけど、このキーボード、つるつるな文字キーがない訳じゃない。あるけど俺達とは違うキーがつるつるなんだよ」

「……そういえば」

言われてみるとなるほど納得、俺やエモトのようにあからさまにNやOがつるつるという状態ではなく、やや使用頻度が高いレベルの文字キーが幾つかあった。しかしそれはエモトも言っているように、俺達とはかなり違う。これは一体……?

「多分だけどさ、エリカちゃんってもしかして……かな入力してる?」

「……え、うん」

「かな……入力?」

予想外、というか全くの想定外だった。まさか文字入力方法自体が違うとは……
俺はエモトにそう言われた後、改めてエリカちゃんのキーボードを見てみる。彼女のキーボードでよく使われている文字キーはO、I、N、A……などではなく、EやT、それに3や6といった上段の数字列だった。

「そうか……」

今まで俺はローマ字入力での見方、つまりアルファベットのみで考えていた。しかし各キーにはアルファベットだけでなく、ひらがなや記号もある。そしてエリカ嬢のタイプ入力方法はかな入力、あいうえおはAIUEOではなく、このキーボードでいうなら3E456がそれに該当するのだ。

「ええっと……もしかしてそれってヘン?」

驚きの発見、みたいな表情を浮かべている俺達2人を見て、かなり不安そうに聞いてくるエリカ嬢。……これはまた答えにくい質問だぞ。

「いや、まあ、ヘンって事はないかもしれないけど……」

「でもかなりの少数派だぞ? とりあえず俺の周りにはいねえな」

「……」

そんな、知らなかった……みたいな顔になるエリカちゃん。そういえばパソコンは1人で購入を決意し、使い方等の知識は全部独学で覚えたと言っていたな。
まあ彼女がパソコンでやる事は日記書いて音楽聴いてネットやるくらいなので、今までずっとかな入力だったとしても支障はない……だろう。多分。

「まあ学校の授業やパソコン教室なんかじゃローマ字入力が基準だろうから、直した方がいいかもな」

「うん、慣れてるのを変えるのは大変かとは思うけど――」

「うわーん」

エモトの言葉を遮るような形で漏れるエリカちゃんの声。それは「やっちゃったー」という感じに加え、「知らなかったー」という感情も混じっている様子。今まで疑う事なく行っていたものが圧倒的少数派だった、というのは結構へこんでしまうだろう。

「……はずかしぃ〜」

両手で頭を隠し、もうイヤ! 的なリアクションを取るエリカちゃん。普段は結構ミスも平気というか、軽く「ゴメンゴメン」で流すのだが、たまにこうしてとても女の子な仕草をする事がある。さっき言った俺の中での彼女の魅力、可愛いポイントはこういう所にあると思うのだがどうだろう。……あ、エモト悶えてる。ぽわわーんとしてやんの。

「かーわーいーいー」

「やめてー、からかわないでー」

一度こういう風になると元に戻るまで結構時間がかかるエリカ嬢。俺はここぞとばかりにイジり倒し、彼女が照れまくる様子をエモトに大公開。間違いなく俺の株は下がるだろうが、友のためなので仕方ない。……つかマジで感謝しろよエモト?

「いやー、耳まで真っ赤じゃん。別にそこまで恥ずかしがる事ないって」

「ううん、違うの。ちょっと前に私、友達の前でパソコン使ったんだけど、みんなしてヘンな反応したのね。その時は全然わかんなかったんだけど……」

「あー、そりゃハズい。やっちまったな」

彼女の友達がどういう子なのかは知らないが、きっと「……あれ?」とか「うわー、この人かな入力だよ」とか思ったに違いない。……ヘンな反応って相手に判られるくらいなら言ってあげようぜ?

「あううぅぅぅ……、もうやだ〜」

「うわ、かーわーいーいー」

アクセント的には↑↓↑↓、完全に頭の悪そうな子の喋り方でエリカちゃんをからかう俺。隣ではエモトが今にも鼻血が出そうなくらいの恍惚な表情を浮かべていた。……まあ確かに可愛いけどさ、なんで「我が一生に一片の悔い無し」みたいな顔になってるんだよ。そこで満足するから先に進めないんだよ。


――キーボードチェック。エリカちゃんの場合。

・まさかのかな入力。
・なので使用頻度の高いキーは全く別。
・リアクションが可愛い。

――以上。


……と、この後しばらく俺がからかう→エリカ嬢赤面→エモト悶える、という流れを繰り返す。そしてあらかた恥らわせ、ようやく彼女が普段の状態に戻った所で軽く雑談モードに入る。

「いやー、それにしても最後に大オチが用意されてたなー」

「八百屋の汚いキーボードの印象が完全に薄れたね」

「ホントもうこの事は言わないでよー?」

「はいはい、言わないって」

「約束するよ」

一応周囲には「出来る女」で通っている(らしい)エリカちゃん。今日のこの事は自分にとって相当のイメージダウンだと捉えているようだ。……別にそこまで大したもんでもないと思うんだけどなあ。さんざんからかっておいて言うのもなんだけどさ。

「柄本君は信じれるとして、徳田君は怪しいんだよねえ」

「うわ、何その信頼度の差」

「だって今も散々言われたし……」

そう言ってエリカちゃんはじぃぃ〜と非難の視線を俺に向ける。いじけてる感じがアリアリと見れてこれまた可愛い。……ほーら、エモトの口元また緩んでる。

「……さて、そんじゃま俺達はこの辺でおいとましますか」

「うん、そう……だね」

時計を見て時間を確認しながらそう言うエモトだったが、残念そうな想いがひしひしと伝わってくる。そりゃあまあもっと居たいだろうけど、もういい時間だぞ?

「えー、まだいいじゃん。ついでにご飯食べてけば?」

「あ、いいの?」

「ごはん………ご飯!?」

やった、メシにありつける。ラッキー! という感じの俺に対し、エモトの反応は「夢じゃなかろうか」と言わんばかり。何度もその言葉の意味を反芻し、「エリカちゃんの手作り料理が食える」と理解した時の反応は一見の価値があった。こんなベタで判りやすい反応、今時コントでも見ねえぞ。

「よかったなエモト、メシ代一食浮くぞ」

「ああ、生きててよかった……」

俺はファミレスでおごってもらう程度の感覚なのだが、エモトにしてみれば高級懐石といった所か。きっと船盛りなんか目じゃないくらいの価値なのだろう。まさか「生きててよかった」まで言うとは。もしこれで「はい、あーんして」とか言って食べさせてくれるオプションが付けば、某世界陸上の人よろしく「地球に生まれてよかったー!」とか言いそうだ。

「じゃあ2人の分も作るね」

「頼むわ」

「お、お願いします……」

早くもドッキドキなエモト。きっと今の彼なら石鹸をハンバーグだと言って出しても気付かず食うだろう。そういうのやってくれないかなー? エモトが「おいしいです」とか言いながらシャボン玉吹くとことか超見たいんだけどなー

「……そうだ。なあかな入力、八百屋のとこから野菜買ってきたんだけど使う?」

「かな入力って呼ぶな!」

ごくごく自然に、サラッと言ったつもりだったのだが、エリカちゃんはその呼び方に敏感に反応&拒否。本人としてはかなり嫌なのだろう。

「……で、野菜って?」

「ええっと、キャベツとナスが安かったから買ってきた。あとリンゴも」

「あ、いいね。じゃあ使わせてもらおうかな?」

「了解、そんじゃ車から取ってくるよ」

俺はそう言いながら立ち上がり、今晩の食材となる野菜を持ってくるべく玄関へ。そして去り際、エモトに向かって「2人きりにしてやったぜ、上手くやれよ!」と親指を立てる。まあエモトは「え? 困るよ!」みたいな顔をしていたのだが、知らん顔で外に出る。

「……さあて、どうなる事やら」

車に戻り、野菜の入った袋を手にしながら俺はエリカちゃんの部屋の方向を眺める。どうせ進展はおろか、ほとんど会話もしないで俺待ち……みたいな事になってるとは思うが、それでも俺は僅かな可能性に期待している。近い将来、2人がくっ付いたりなんかして、そのきっかけに自分が絡んでたら何となくいいじゃないか。

「……ま、そんなの夢見るだけ無駄なんだけどさ」

そう呟き、俺はゆっくりとアパートに向かって歩き出す。俺としては不自然に遅くならない範囲で時間を作ったつもりだ。それを生かすも殺すもエモト次第、いい加減そろそろアクションやアピールの1つくらい起こして欲しいんだけど……

ガチャ

「お待たせー」

「あ、来た来た。ごめん徳田君、キャベツすぐ使うからこっち持ってきてー」

「……」

淡い期待を込めて俺が部屋に戻ると、エモトはさっきと同じ場所から微動だにせず、キッチンに立っているエリカちゃんから見えない所に座っていた。

「ほらやっぱり!」

「え、何?」

「うっせえ、くたばれこのヘタレ!」

「ええええ!? ……いたっ!!」

俺はキッチンへ入る前に座っているエモトに蹴りを入れ、あまりにも予想通りな展開に軽く絶望する。そして存分に失望する。……もう知らん、色々考えるだけ無駄だ。今日はもうヤケ食いだ。ナスも生で食ってやる。それで腹壊したらエモトのせいだ。

「はいよ、野菜。……ついでに何か手伝う?」

「えー、いいよー」

「そう? でも黙って待ってるのは悪いじゃん。……まあそんな事お構いナシで座ってるやつもいるけどさ」

と、嫌味のスパイスまみれの言葉と共にエモトを見る俺。手のひらを返すようで悪いが、このくらいの事はしないと気が収まらない。一応エモトが手伝いを名乗り出るきっかけの意味合いもあるが……どうせこのヘタレには伝わるまい。挑発に乗る形で手伝い参戦、自然じゃないか。ああ、何て優しいんだ俺!

「うーん、それじゃあリンゴでも切ってもらおうかな? 柄本君もお願い出来るー?」

「あ、うん……大丈夫」

ここでまさかのエリカちゃん本人からの手伝い要請。さすがのヘタレもこれには頷くしかなく、何とかキッチンの中に入る事に成功。俺の用意周到かつ巧妙な手口が全くの無駄になってしまったが、まあ結果オーライという所か。……やっぱり俺ってピエロだよなー

「で、今日は何を作るのかな?」

「ハンバーグとコンソメスープとリンゴサラダ……なんだけどいい?」

「いいんじゃね? おかずに果物は認めない主義なんだが今日は特別だ!」

「なにそれ、偉そうだなー」

半分笑いながら、でも少し不満気に口を尖らせるエリカ嬢。メニュー構成としては問題ないが、俺としてはそのサラダの組み合わせは無しの部類だ。

「いやいや、おかずに果物入れるのを嫌う男は結構いるぞ?」

「それ、よく聞くけど本当なの?」

「あたりめーだろ、リンゴにドレッシングやマヨネーズとかおかしいだろ? もしスイカに味噌塗って出されたら食うか?」

「えー、それは極端すぎない?」

「そうかー? 同じようなもんだろ……って、お前も会話に入ってこいよ!」

「へ? ああ、ごめん」

ここでエモトに話を振る俺。別に入りにくい会話じゃないし、いつか自分から口を開いてくるかと思っていたが……結局俺がきっかけ作ってるじゃねえか。っていうかエモトも黙々とリンゴ剥いてるんじゃねえよ!

「うわー、柄本君リンゴの皮むき上手だねー!」

「そ、そうかな?」

「すごいよー、もしかしてかなり得意?」

「いや、ほとんどやった事ないんだけど……」

「ホント? そうは見えないんだけどなあ。……ちょっともう一回やって見せてよ」

「あ、うん……」

おやおや、なんだかんだでいい雰囲気になりつつあるじゃないですか。黙ってリンゴ剥いてた甲斐があったな。
俺はそんな事を考えながらこそっと数歩後ろに下がり、2人のやり取りを眺める。……あーあ、さっきまで上手く剥けてたのにエリカちゃんに見られた途端グデグデになってんじゃねえか。もうこうなったら指でも切って舐めてもらえば?
完全に野次馬状態でエモトとエリカちゃんを見つめる俺。展開次第では知らない間に消える、という手もあるのだが……って、あれ?

「なあエリカちゃん?」

と、ここで俺はある事に気付き、思わずエリカちゃんに声をかけてしまう。……野暮な事しちゃったような気がしないでもないが、俺は構わず話を続ける事に。

「今気付いたんだけどさ、エプロンとかしないの? そこのイスに掛かってるみたいだけど……」

「!? ……え、あの、今日はいいの! うん、いいのいいの」

俺が指差した方向には普段彼女が食事をする時に座っているであろうイス。その背にはエプロンらしきものが見えるのだが、エリカちゃんは台所に立っているのにも関わらず、それにはスルー。せっかくエプロンがあるんだったら使えばいいのに。

「怪しいな……」

「あっ、ちょっと勝手に見ないで!」

制止しようとするエリカちゃんだったが、位置的にイスの近くにいた俺の方が先にエプロンを手にする。別に汚れているようにも見えないし、どうしてそこまで慌てているのだろう。俺はその理由を探るべくエプロンを広げてみるのだが、そこにはファンシー極まりないキャラクターが描かれていた。

「……はろうきて――」

「いやー!」

「しかもピンクのフリフリがついて――」

「言わないでー、見ないでー!」

描かれたキャラクター自体もなかなかにエリカちゃんのイメージから遠いのに、さらに輪をかけて遠のかせるピンクのフリフリ。しっかりした大人の女性と思いきや可愛いもの好き、というのはよくあるパターンなのだが、まさか彼女がそれに当てはまるとは思わなかった。服も身に付ける小物もカバンも落ち着いたデザインのが多かったけど、家で料理する時は可愛さ炸裂のエプロン着用っすか。……それならもうこの言葉を言わずにはいられないだろう。

「かーわーいーいー」

さっきと同じ、1文字ずつアクセントが上下する言い方に加え、腰もくねらせてみる俺。これだけ見たらオネエ系に間違われるかもしれないキモさを発揮してみるのだが、エリカちゃんはそれどころではなかった。

「うう、みられた……」

これ以上ない脱力感、とでも表現すればいいのだろうか。とりあえず肩のガックリ具合は相当なものだ。あまりにもだらんとしているため、着ている服がずり落ちそうになっている。かなりのショックなのだろう。

「気にすんなって、別におかしくねえっての」

「……うそだ」

「本当だって。ほらエモト見てみ? 全然笑ってないだろ?」

「笑ってはないけど……何か危ない顔してるよ?」

そう言ってエリカちゃんが指差した先にあるエモトの顔は……確かに危ない顔だった。ベリーベリーデンジャラスだった。一言で片付けるなら変態だった。通学路にこんなのが歩いてたらPTAが黙っちゃいない顔だった。

「おおう、おおう……」

きっとエモトの脳内では恥ずかしがるエリカちゃんと涙ぐんで落ち込んでいるエリカちゃんが交互に再生されているのだろう。そしてそれを見ては幸せを感じているのだろう。行ってはいけないお花畑に1人で旅立ってしまったのだろう。

「何か一昔前のシャンプーのCMにこんなのあったよな」

「あったけど……今このタイミングでやる事じゃないでしょ?」

「違うんだって、エモトはエリカちゃんのギャップに見も心も奪われてちゃったんだって。今ちょうど骨抜き状態真っ盛りなんだよ」

「……」

「引いた?」

「若干」

「あらま」

よほどエモトの恍惚な表情が強烈だったのか、素直にそう答えるエリカ嬢。しかし幸いな事に言われた本人はまだお花畑の中でイメージエリカちゃんと戯れているらしく、今のやり取りは耳に入らなかった模様。
よかったよかった、これで聞かれてたらショック死してたかもしれない。……ま、かなり好感度は下がっただろうけど。

「よかったよかった、じゃねえじゃん」

「ん? 今なにか言った?」

「いや、何でもない。……さて、料理再開といきますか」

「そうだね」

こうして俺とエリカちゃんはプチ廃人となったエモトを放置して夕食作りに取りかかる。その後しばらくしてエモトもようやく夢から覚めるのだが、寝起き状態というか何というか、しっかりと正気は取り戻していない様子。それは料理が出来上がり、アツアツのハンバーグを囲んでの食事になっても続き、食後のデザート辺りでようやく戻る。
ちなみに食事中、一応ながらも味覚はあったようで、ハンバーグを食べている時も「おいしい」を連呼。まあどうせ脳内補正がかかり、エリカちゃんに食べさせてもらってるor新婚生活イメージでも湧かせていたのだろう、とても幸せそうな表情で皿まで食べようとしていた。……もうここまでくると愛は盲目ってレベルじゃねえな。狂気だわ。

「……なあかな入力、エモトみたいな純粋で想像力豊かなヤツってアリ?」

「難しいなあ。いい人なんだけどねー。……あとその呼び方やめて」

「そう、か。上手くいかないもんだなー」

「なんのこと?」

「……独り言。気にすんな」

結局何も手伝わなかったエモトへの罰として、後片付けを命じた俺とエリカちゃん。まあほとんど俺が独断で決めたようなものだが、エモトは文句を言う事もなく皿洗いに志願。俺とエリカ嬢はそんなエモトの背中に見ながら会話をしていた。

「で、ハンバーグ美味しかった?」

「ああ」

「ほんとに?」

「ウソはつかねえよ。それにエモトのあの笑顔見れば判るだろ」

「うん……。あそこまで美味しそうに食べてもらったの初めてだよ」

「まあ半分トリップしてたけどな」

「それなんだよねー。どうして柄本君、急にああなっちゃったんだろ?」

「……気付きませんか」

「え? なになに?」

「……独り言。気にすんなって」

このお嬢さんも相当にニブイな……。これじゃよっぽど強烈なアピールされない限り好意には気付かないだろう。そういう意味ではよかったなエモト、しばらくは誰ともくっ付かないぞ。その間にお前はもっと自分磨いとけ。

「よし、おわったー」

と、ちょうどその時だった。エモトが全ての皿を洗い終え、一仕事終えた顔でこちらを振り返る。さっきまであれだけ不気味な表情を浮かべていた人物とは思えないが、いくら今が爽やかでも過去は変わらない。エリカ嬢は「ごくろうさま」と声をかけるも、どことなく作り笑いのような顔だった……ように見えるのは俺の見間違いだろうか。

「改めてごちそうさまでした。本当においしかった」

「うん、ありがと」

「もう皿洗いくらいじゃ釣り合い取れないよ。何かお返ししたいくらい」

「それは大袈裟だよ」

エモトの賛辞に普通に受け答えするエリカちゃん。まあ作った料理をここまで褒められれば悪い気はしないだろう。これで気をよくしたのか、それとも作り笑いは俺の思い過ごしだったのかは判らないが、ナチュラルな感じだった。……まあドン引きさせたのは紛れもない事実なのだが。

そしてその後、3人で軽くお喋りを楽しんだ所でお開き。なんだかんだでかなり彼女の部屋にお邪魔してしまった。俺としては色々楽しいものが見られたし腹も膨れたのでよかったのだが……エモトにしてみれば得たものも多ければ失ったものも多いような気がする。プラスマイナスゼロなら……いいわけないよなあ。

「それじゃあ気をつけてね」

「おう、また何かあったらメシ食わしてくれ」

「お邪魔しましたー」

外まで見送りに来てくれたエリカちゃんと簡単な挨拶を済ませ、俺は車を走らせる。助手席では満面の笑みでエモトが手を振っている。彼女の家に来た当初に比べれば相当成長した……というか、それなりにナチュラルに接せているようだった。これに関しては素直に評価したい。……まあ恋愛関係にまで持っていけるかどうか、という事になると話は別なのだが。っていうかまだそれ以前の問題だっての。

「いやー、楽しかったねー」

「……そうだな」

快適に大通りを飛ばす車の中、これ以上ない満足気な感じでエモトが話しかけてくる。……俺としてはもう今日の目的、本題がどれだったのか判らないくらいなのだが、エモトにしてみればもうキーボードなんてどうでもいいのだろう。

「ご飯、美味かったねー」

「……そうだな」

「ハンバーグってのがいいよね!」

「ああ」

「スープもサラダもよかったー」

「だな」

相槌を打つだけ、短い言葉で同意するだけの俺。どうせ今何か話しても聞く気もないだろう。……うーん、一歩間違えるとマジで気持ち悪いの域に入りそうな純粋さだなあ。こんなにはしゃいでるエモトを見るのは久々なのだが、出来ればそんなに頻繁に見たくはない。色々疲れるし心配になるっての。

「それにしてもキーボードだけどさ、何か周りにロクなのいないねー」

「……お前も含めてな」

ひとしきりエリカちゃん絡みの事、料理が美味かっただとかエプロンが可愛かっただとか部屋にあった小物のセンスがよかっただとか、そんな事を喋った後、取って付けたかのようにキーボードの事に触れるエモト。俺はそんなヤツの問い掛けにチクリと嫌味を放つのだが、全然効いていない様子。……いや、効いてないというよりは聞いていないの方が適切か。

「キーボードは少なからずその人の性格なり環境なりが判るね」

「……使用者のパソコン関係の知識もな」

「そうそう、まさかの展開もあったよねー」

……はいはい、エリカちゃんのかな入力な。もうそれしか頭にねえだろお前。
俺は「はーあ」とわざとらしいため息を吐き、窓の外に視線を移す。……当然の事ながらエモトは俺のため息に気付いていなかった。

「最後は和んだなー」

「……ほとんどお前だけな」

「ああいう一面も持ってるんだねー」

「……そうだな」

「しっかりしてて料理も出来て、でも意外性もあって……いいなあ」

「……」

「シゲっちもそう思うよね? 思わない訳ないよね?」

「……ああ」

うわー。このテンションは絡みにくいなー。
鬱陶しい事この上ないエモトの質問攻撃。頷く以外に選択肢の無い不自由な誘導尋問に対し、俺は力なくそう答えて再びため息を吐く。

「何だよー、素っ気無いなー」

「……」

……俺は軽く悩んでいた。
ご機嫌で今日をいい日として思い出にしようとしている友人に対し、このまま「好きな人の手作り料理食べれてよかったな」と同意の姿勢でいるべきか、それとも1人妄想に浸っている姿を嫌悪感丸出しで見られていた現実を伝えるべきか。

「……」

もし包み隠さず全部話したらどうなるだろう。そしてどちらが彼のためになるだろう。
俺はそんな事を考えながら、相も変わらず続く問い掛けに頷きながら、友人の腕に抱えられたキーボードをチラリと見る。

……まさかエリカちゃんの真似して、かな入力に変えたりしねえよな。

あれだけ本人を前にして言ったのだ、きっと彼女はすぐに入力方法を変えるに違いない。しかしエモトは彼女と話を合わせたいがため、共通項を作りたいがために少数派である入力方法に乗り換えるような気がしてならない。

もしかしたら今後、彼のキーボードにおける文字キーの使用頻度が一変するかもしれない。もし彼女と同じようなキーの磨り減り方になっていたら俺は突っ込むべきか否か。

と、俺はそんな「もしも」の事で悩み始める。勿論そんな事は実際に起きてから考えればいいし、そもそも俺が悩む事でもない。勝手にやらせておけばいいだけの話だ。もしそうなったとしても俺には関係ない。さすがに俺にもかな入力を薦めてきたら対策は練らないといけないのだが。

……うーん、なんかイヤーな予感がするんだよなあ。
俺はまだ起きてもいない、兆候すら感じられない事に過剰とも言える警戒を取り、予防線を張り巡らせる。こういう時の俺の危機レーダー、感度抜群なんだよな……

「ねえシゲっち」

その時だった。エモトが何やら真剣な顔付きで話し出す。

「さっきは散々おかしいって言ったけど、別にかな入力も悪くないよね? だってほら、全部1回のキー操作でひらがなが打てるんだよ? って事は極めればタイピング速度は2倍に――」

……ほらきた。




                                 「突撃 みんなのキーボード」 END






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