「寒天」



……信じられなかった。

この状況を信じろ、という方が無理があった。
もし今の自分の状況をこれ以上ないくらい詳細に、自分の全ボキャブラリィを駆使して判りやすく説明したとしても、きっと誰も信じてくれないだろう。
そんな状態に自分はいた。

……風呂に入っていたら、いつの間にか浴槽のお湯が固まっていて抜け出せなくなった。

言葉にして改めて判るこの不可思議さ。そして不条理。全く理解出来ないし、しようとも思わない。しかしそれは現実に起きており、自分はその渦中にいる。
理解出来ない。どこをどう考えても理解出来ない。

「……」

それでも、それでももう一度、冷静になってこの状況を把握しようとする。まだ現実として受け入れていない、受け入れたくないであろう自分に言い聞かせるため、頭に叩き込むため。
それはもしかしたら冷静になる事で事態が解決――例えばこれが夢であって、そこから覚めるだとか、そういう淡い期待があっての事かもしれない。だがやはり一番の目的はどうしてこうなったか、その経緯を探り、今に至る流れを知りたいからだと思う。
本当に、本当にいきなりの事だったから。

「……」

――やっぱり、どう見てもこれはお湯じゃねえな。
俺は眼下に広がる浴槽、そしてそこに溜っている元お湯、もしくはさっきまでお湯だったものを見る。
確かに風呂に入る前、入浴剤で鮮やかな緑色になった浴槽を見て、メロン味のゼリーみたいだな、とは思った。だからといって自分が思った通りにお湯が変化していい、なんて道理はない。自分はマジシャンでもないし、超能力者でもない。普通の人間だ。

では何故そんな普通の人間が、普通に家に帰り、普通に飯を食い、普通に風呂に入っていただけなのに、このような普通とは真逆も真逆な状態になってしまうのか。何度も言うがそこが本当に理解出来ないし、理解したいとも思わない。
だがこれまた何度目か判らないが、今自分の身体は浴槽の中、緑色の固形物によって固められたまま動けないのも紛れもない事実なのである。

「……あー、やべ。頭おかしくなりそうだわ」

あまりの超現象にパニックを起こしかけているのか、頭が状況を飲み込もうとするもやっぱり違うだろと跳ね除けているのか、はたまた自分が異世界に飛んだとかいう方向に考えを無理矢理もって行こうとしているからか、俺は頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。
しかしその欲求は緑の固形物によって阻止される。左手は完全に湯船の中で身動きが取れず、右腕も手首から先が辛うじて水面から出ている状態なので頭が掻けない。ああ掻き毟りたい。頭を髪ごとグシャグシャして落ち着けと念じたい。そしてこれは夢だ、何かの間違いだ、悪い冗談だ、ドッキリだと言い聞かせたい。そうでもしないと頭がパンクしてしまいそうで怖かった。

「……っ、……んんっ」

浴槽の底に手を付いた状態のまま固まった左腕を動かそうと試みる俺。しかし悲しいかなメロン色のそれは若干プルンと表面が揺れただけでビクともしなかった。

「ぐ……があ……っ!」

続いて全身運動。もしこれが普通の湯船の中ならお湯が大きく波打ち、浴槽からジャバジャバこぼれるくらいの暴れっぷりなのだが、やっぱり結果は変わらない。左腕を動かそうとした時よりは多少表面の揺れは大きかったが、やはりこのブヨブヨした物体が小刻みに揺れるだけだった。

「……ダメだ、こりゃ抜け出すのは無理だわ」

ガクリと首を落とし、俺は力任せに動いて脱出するという案を断念する。そんな下を向いた俺の視界に映るのは緑色の物体越しに見える自分の身体。まるで自分が寒天寄せか丸ごとゼリーの具になったかのようで気味が悪い。……あ、「まるで」じゃなく本当の事か。

「しかし……どうなるんだコレ?」

首から上だけは自由に動かせる状態の中、俺はもう一度グルリと浴室全体を見回し、そして浴槽内をじっくり見つめる。それはやっぱりおかしな状況であり、どうしてこうなったのか判らなかった。

それでも一応というか仕方なくというか、おかしな状況ではあるが現実である、という事は次第に認識してきたようで、ここに至るまでの経緯は不明のままではあるが、お湯が固まった事に関してはもう「どうしてこうなったのだろう」とは思わず、「いやあ、参ったなあ」くらいの認識に変わっていた。もしかしたら俺は意外と順応性が高い、もしくは相当の楽天主義者なのかもしれない。
だってこの状態否定してもどうしようもねえじゃん、そんな感じだった。

「うーん、どうしたもんかねえ」

俺はそう言って自分の身体の自由を奪っているこの物体――、ゼリーというよりは寒天に近い感触の物体(以降面倒なので「寒天」と呼称)をまじまじと見つめる。緑色の寒天越しに映る自分のスネ毛がラーメンの中に入ってしまった髪の毛を連想させて嫌だが、今はそんな事どうだっていい。別にこの入浴剤入り寒天を食う訳でなし、好きにスネ毛と密着してもらって構わない。……いや、さすがにそれは構うか。

「脱出、しないとな……」

今はまだお湯だった名残か、寒天も程よい温度で俺の身体を温めてくれているが、じきに冷えるだろうし、そうなったら今後は逆に体温を奪われてしまうだろう。全裸だしそれは風邪を引いてしまう。そうなる前に何とかしなければ。

俺はそう思いながら視線を右腕の先、首から上を除いて唯一寒天の支配を受けず自由に動かせる右手を見る。寒天の湯船から出ているそれは長さにして40センチ強、手のひら部分全体と手首から先の約15センチが貴重な稼動可能箇所であり、これから先自分がこの状態を打破出来るかどうかが懸かっている部位である。
しかし……

「ほとんど動かせねえんだよな、コレ」

まあ前から判ってはいたんだけどね、と半ば突き放すような言い方をする俺。
ええ、自覚はありましたよ。このくらいの稼動域じゃ一気に問題解決にはならない事くらい。せめてこれが肘まで出てたら、腕を曲げて動かせる状態なら寒天を掘るなり掴むなりが出来たのに……

「ん……よっと」

しかし諦めてはいけない。投げ出してはいけない。俺はそんな少ししか動けない右手をあらゆる角度、あらゆる方向に曲げ、実際にどの程度の範囲まで手が届くかを試してみる。

スッ、スッ……、チッ……、スッ、スッ、チッ……

手首のスナップを利かせ、「シッシッ、あっちいけ」みたいな動きを繰り返す。上方向、そして左右は虚しく空を切るだけだったが、水面……ではなく寒天に向けて振ると、数回に一回は爪先が届いた。その後俺は他にも色々な動きを試したが、結局この最初に試した方法以外、何かにタッチ出来るものはなかった。

「……」

スッ、チッ、スッ……チッ

しばらくこの動作を繰り返していると、数回に1回だった寒天へのタッチ成功率が2回に1回くらいまで上がる。やはり人間積み重ね、繰り返し繰り返しの努力が成長に繋がるようだ……って、こんなの上手くなっても嬉しくねえよ。

「……うーん」

コツのようなものを掴み、確実に寒天の感触を得る回数が増えた爪先。しかしこれでは根本的な解決、つまり浴槽内からの脱出には全く近付いていないだろう。俺はそう考え、唸りながらも同じ動作を繰り返す。他にいい案が出てこない以上、とりあえず続けておいた方がいい……のか?

「あー、何かこう……スポーン! って抜けねえかな?」

イメージ的には大砲からヘルメットを被った人間が飛び出してくるような、もしくはペットボトルロケットが勢いよく発射されるような光景を描き、それを自分に投影させる。
寒天の中から全裸の男がニュポン! と飛び出してくる画は想像するだけでシュール極まりないのだが、このまま身動きが取れずに力尽き、死因が「寒天死」になる方がもっとシュールだろう。それは避けたい。というか誰にもこんな姿は見られたくない。

「このまま何も食わないでいたら痩せて抜け出せるかな……? いやいや、何だその長期計画」

と、自問自答なのかセルフツッコミなのか判らない事を考え始め、いよいよ万策尽きたかのように感じた時だった。

「……ん?」

先程までとは微妙に異なる爪先の感覚。見るとそこには数センチくらいではあったが線のようなものが見えた。地道なスナップ運動の繰り返しが功を奏したのだろう、引っ掻き続けられた事で寒天に切れ目が生じたのだ。

「おお」

思わず声を上げてしまう。そして「この一歩は一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ」という人類初の月面着陸に成功した宇宙飛行士の言葉が頭に浮かぶ俺。……何を寒天ごときで大袈裟な。

「よし、ここを起点に何とか裂け目を大きく広くしていこう」

何はともあれ少しだけ希望が見えてきた。俺はそれまで以上に強く右手を振り、それまで以上にスナップを効かせて寒天に爪先チョップを繰り出す。するとその振動も手伝ってか、最初は1本の線程度にしか見えなかった裂け目がどんどん大きく深くなっていく。
そして数分もしない内に裂け目は溝に変わり、寒天の破片がポロポロと崩れ落ちては飛び散っていくようになった。

「お? おお?」

もっと溝を深く! もっと長く! 日本海溝も真っ青の寒天海溝を我が家の浴槽に! そんな思いで更に手を大きく振っていると、それまで完全に腕を固定していた部分が突然緩くなった。おそらく掘り進めていた溝の部分、生じた隙間が腕の動きの自由度を上げたのだろう。

――よし、これでもっと効率が上がるぞ。
俺はそれまでの「引っ掻く」から「掻き出す」に動作をシフトチェンジ。指先が届く範囲が広がった事で切り崩せる寒天の量が増え、溝は細長い穴へと姿を変える。裂け目から溝、そして溝から穴。とても順調なランクアップだった。

「うは、掴める!」

とうとう手はショベルカーが岩肌をえぐるように寒天を掴めるようになり、俺は崩れた寒天を集めては握り潰していく。テンションが上がりきっていたせいか、この動作が楽しくて仕方なかった。もはや病である。

「ふふ、ははっ、いける、いけるぞ!」

不気味な笑い声を上げ、寒天風呂からの脱出を確信したような表情を浮かべる。勿論この状態からでは自分の顔は見れないのだが、きっと放送コードギリギリの狂気に満ちた顔に違いない。股間と同時に顔にもモザイク必須である。
まあモザイク云々はさておき、俺はそのまま力任せに腕を振り上げ、まだ暖かい緑色の寒天を掴んでは投げ、掴んでは投げ、という作業を繰り返す。

――そして数分後。

「ふう……はあ……」

俺は手の届く範囲全ての寒天除去作業を終了させ、大きく息を吐いていた。
それは達成感というよりは純粋な疲労から来るもの。身動きが満足に取れない中での作業というのは意外と疲れるようだ。というか今も基本的な体勢は何も変わってないんだけどね。

……そう、体勢はほぼ変わっていないのだ。
俺は数分前と変わらず、浴槽の中にいる。好きでいる訳ではない。浴槽の中にいる理由も数分前から変わっていないのだ。

「ふう……はあ……」

再び息を吐く。しかしその吐いた息はため息へと変わっていた。

……確かに手の届く範囲にある全ての寒天は切り崩した。だが肝心の身体は未だ大半が寒天に包まれている。今までハイテンションで広げていた穴は決して小さくはないが、所詮は右手の肘から上という限られた稼動範囲内での作業。寒天から突き出た手の位置が身体から遠い事もあり、結局は脱出においてあまり重要ではない部分の寒天が消えただけである。

この状況を例えるなら……そうだな、某25枚のパネルをめくるクイズ番組の最終問題、何かの映像が流れるけど見れるのは自分が取ったパネルの部分だけってヤツで、自分の取ったパネルが全部端の部分で映像の大事な部分がほとんど見れない……みたいな? 答えが有名な建物の画像とかだと空とかしか見れないのな。
ハッハッハ、結構いい例えだけど全然嬉しくねえや。てか笑ってる場合じゃねえよ。

「つか細かすぎて判る人あんまいねえだろ……」

と、ここで俺は自身の状況をパネルクイズで例えた事に対してツッコミを入れる。少し、いや、かなり寂しかった。というか寒かった。自分で言って自分でドン引き、というやつである。
もしかしたら純粋に寒天が冷たくなってきて体温が奪われているのかもしれないが、どちらにしろもうアタックチャンス的な思考はやめようと思った。

「さて……と」

ほとんど振り出しに戻ったような現状を自覚すべく、俺はもう一度浴槽を見渡す。最初と違う点は突き出た右手の近くに大きな穴がある事、そしてほんの少し右手の稼動域が増えた事、そして少し寒くなってきた事くらいだった。本当にさっきまでのテンションは何だったのだろう。

「ムダ、だったんかなあ……」

当初はまっ平らに広がって固まり、まるで超巨大なカップゼリーのようだった湯船。しかし今は子供が食い散らかしたかのように穴が開き、破片が散らばっている。
こうなると何もしていない方が見た目もいいし、余計な事をしてしまった感すら覚えてしまう。決してそんな事はないのだが……

――いやいやいや、何をヘンなところで自信失ってるんだよ。

俺は心の中でそう呟き、自分に喝を入れる。そして普段のクセで両手で頬を叩こうとするのだが、固まった寒天に見事に阻止される。……しまった、何をやってるんだ俺は。

「……ん?」

いい加減この身動き出来ない状況に慣れろよ、みたいな事を思った時だった。
俺はさっきよりもさらに少し右腕の自由度が上がっているような感覚を感じ、視線を右腕の肘から少し先、寒天から突き出ている部分を見つめる。
肩から完全に寒天内に埋まっている左手が動かないのは当然というか仕方ないが、右手は比較的浅い部分にあり、さっきからずっと動かし続けている。

――そういえば裂け目を広げようとした時以降、穴が出来てから力を込めて腕を伸ばしてないな……

もしかしたら今なら、穴を開けた事で少し稼動範囲が増えた今なら、全力でアッパーを繰り出せば周囲の寒天を引きちぎれるかもしれない。
俺はそう思い、出せる限りの力を右手に込める。そしてギュッと拳を握り、その先に一番嫌いなヤツの顔をイメージして思い浮かべる。

そして――

「ふんぬあぁぁっッ!!!」

ブン! と右腕を振り切る。正確には振り切ろうと拳を突き上げる、になるのだが、脳内イメージでは完全に嫌いなヤツの顔面を捉えていた。というか右手が顔に突き刺さっていた。そのまま貫通していた。その姿は某超人漫画に出てくる、胸に「BH」と書かれた四次元レスリングをする超人のようだった。……うん、ちょっとスッキリ。

「お……?」

顔に穴が開いている超人の話はさておき、俺の放った渾身の一撃は寒天を大きく震わせ、穴の周囲に入っていた数本の裂け目を広げる事に成功。その内の1本は上手く右手が突き出ている方面に伸び、さらに稼動範囲を広げる結果となった。

「やった、さっきより手が遠くまで伸ばせる! それに肘や肩の辺りに隙間が出来たっぽい!」

右腕を動かすとカポカポやピチピチという音が聞こえる。その音は特に肘の辺りを動かすとよく鳴り、そこが音の発生源であり、隙間が多く生じたポイントである事が伺えた。

「とりあえずどのくらい伸ばせるかな……っと」

そう言いながら俺は隙間を最大限生かせる腕の角度、伸ばし方を探り、捻りや回転を加えながら右手を伸ばす。
それまでは横方向に稼動域を広げようと考えていたが、この状態からでは多少範囲が広くなっても無駄。その事をついさっき思い知らされたのにも関わらず、まだこの右手に執着し、望みを託しているのには訳があった。
俺はその訳を、今はまだ「もしかしたら」程度の期待値でしかない手段に賭けていた。

――くっ、もう少し、何とか伸びないか……!?

普段使う事のない筋肉を使っているからか、腕のおかしな部分が痛み出す。
決して我慢出来ない程の痛みではないが、身動きを取れなくしているのは柔らかい寒天だという事を考えると、もしかしたら相当な負荷がかかっているのかもしれない。……まあ寒天に腕を固められた時の負担値を叩き出す計算式なんて知らねえけどさ。

「ぐ、ぐぎぎぎぎ……」

少しでも押し出ようとする腕、そうはさせまいと反発してくる寒天。傍から見ればおかしなせめぎ合いに映るだろうが、俺は至って真剣である。
脳裏に一瞬だけ乳首相撲で悶絶している若手芸人が浮かんだが、もしかしたら今の俺はそれに近い状態かもしれない。……う〜ん、嫌すぎる。

「も、もう少しは伸びる……はず……」

寒天の弾力性から考えて、力さえ入れればまだ腕は上がるはず。俺は乳首相撲というカオスイメージを払い除け、全神経と力を右手に集中させる。
しかし右手は上にしか伸びず、その方向には自分の身体も取り除くべき寒天もない。だが俺はそれでも指先を震わせ、何もない空間のもう少し先を目指す。

そこにあるのはタイル張りの壁……に設置された「湯わかしくん」と書かれたタッチパネル。浴槽内の温度を設定したり、タイマーで風呂を沸かしたりする事が出来るアレだ。

……スッ、シュッ

「くそっ、えいっ!」

精一杯の力を込め、パネルに触れようと一番長い中指を伸ばす。しかし押したい箇所には届かず、俺の指はギリギリのところで空を切るだけ。それはまるで十数分前、爪で寒天を傷付けて裂け目を作ろうとしている時と同じような状態だった。

――何、やってるんだろうな、俺。

相変らず触れそうで触れない、タッチ出来ないタッチパネルに苦戦している中、深く考えたくない事に疑問を抱いてしまう俺。考えたら負けという事は知っている、むしろ重々承知と言ってもいいくらいなのだが……、この情けない姿を見てしまうとやっぱり自問自答が始まってしまう。

……ああもう、こうやって何でもかんでも考え込んでウジウジするから、おかしな事ばっかりイメージするから風呂のお湯が寒天になるんだぞ!

根拠はないが俺はそう心の中で叫び、自分に言い聞かせ、今はまずパネルに触れるんだと意識と視線を指先に集める。すると不思議な事もあるもので、それまで爪先1つ届かなかったパネルに指がぴとりとくっ付いた。

「……!!」

触った! と感じるのとほぼ同時、ピッという電子音が鳴る。
苦労の末俺が押したのは「追い焚き」と書かれたパネル。電子音が鳴った後、少しの間を置いて今度はブーンという低い音が聞こえてくる。それは僅かな振動と共に、浴槽の向こう側、足の先から伝わってくる。

……やった、これで何とかいける……よな。

それまで全力で伸ばしていた右手から力を抜き、ふうと大きく息を吐く。まだこれで全てが解決した訳ではないが、そこそこの勝算めいたものはある。

「……きっと、上手くいくさ」

誰に向かって言うでもない、半ば自分に言い聞かせるように呟く。
何かちょっとカッコイイ感じのセリフだが、首から下の大部分を寒天で固められている時点でアウト。説得力の欠片もあったもんじゃなかった。

……ブーン……

鳴り続ける低い音。それは言うまでもなく風呂釜の音。追い焚き機能が作動し、次第に浴槽内が温められていく事こそが俺の策であり、勝算であった。

俺の考えが正しければ、また予想が当たっていればだが、この追い焚きによって浴槽内の寒天が熱を持ち、一定の温度になった時に溶け始める……のではないだろうか。

寒天やゼリーの類は確かお湯に素を入れて冷やして固めて作るはず。うろ覚えだがどちらも再加熱すればそこまで高い温度でなくても解けた……と思う。俺はそれに賭けていた。

ゆっくりでいい、普段の追い焚きより時間がかかってもいい。水と寒天の熱伝導率の差なんか知らないが、熱を通さないなんて事はない。だからきっと寒天は溶け、俺は浴槽から上がる事が出来る。

……ああそうさ、これで脱出だ。これでこの理不尽な状況から抜け出せるんだ。

心の中でそう呟き、自分で自分の考えに自信を持たせる。
もしこれでダメだったら将棋でいうところの詰み、もう何も思い浮かばないだろう。そうはなりたくない、絶望はしたくない。だから俺はこれが最後の策だと、最良の策だと、これで成功するから大丈夫だと言い聞かせていた。

……ブーン……

特に変わった事もなく追い炊きは続く。風呂釜が急に調子悪くなったり、いきなり止まったりもせず、風呂釜の音だけが聞こえる。俺はそれをじっと、息を殺すように黙って見ていた。

「……」

溶けろ、早く溶けろ。

溶けろ、というか溶かせ。

自分から見て浴槽の向こう側、熱いのが出てくる部分(名前は知らない。何か出っ張ってるヤツね)を凝視する。そして数分後……

「ん?」

見間違いか、それとも俺が待ちに待ち望んだ結果が出たのか、凝視していた先にある寒天の表面がゆらりと揺れた。
それはロウソクに火を灯した時の、芯のそばから溶けてゆらめく感じそのもの。

いやいやいや、待て待て待て。

これで見間違い、もしくは過度の期待から来る幻覚の類だったら精神的ダメージは計り知れない。バンザイなしよで片付けれる状況ではないのだ、慎重に見極めなければ。

「……」

俺は揺れたように見えた表面部分を見続ける。何となく固形の時と色つやが違うような、周囲の固まっている部分とは感じが異なるような、そんな気がしてならないのだが……

――あー、わからん! 早く確認してえ! つーか溶けてるだろ!? 溶けてるっていってくれ!

自分でもイライラしているのが判る。まあそれも仕方ない……というか焦って当然なのだろうが、早く結果を知りたい。黙って見ているのはもう嫌だった。

「……あ」

そうだ、溶けてるなら息吹きかければ揺れるよな。

何でそんな単純な事を思い付かなかったのだろう。俺は自分の頭をポカポカ叩きたい衝動に駆られながらも、まずそれは後回しにして思いっきり息を吹きかける。

フーーッ!

肺活量検査でもやっているかのように、全力で息を吐く俺。すると溶け始めていると思われた部分が微かにだが確かに揺れ、追い炊きによって確実に寒天が溶けている事が判った。

「よっしゃあッ!!!」

俺は数少ない自由が効く部分である右手で最大限の喜びを表現。これ以上ないというくらいのガッツポーズを決める。

……いけるいけるいけるいける! これはもう勝ったも同然、俺は寒天から抜け出せる!!

不安混じりの予感から、確証へと変わる瞬間。俺は確かにそれを感じていた。
ようやく、本当にようやくこの意味不明でストレンジ極まりない寒天風呂ステージをクリア出来るんだ。俺はしばらく拳を突き上げたまま動かず、喜びを噛み締めていた。

「〜〜〜〜〜っ!!」

まるで激しい運動後、冷えたビールを飲んだ時のような感覚に浸る。今なら各ビール会社がこぞってCMのオファーに来るだろう。見えないけどきっと俺はそんな顔をしているに違いない。そうなったらとりあえず累計1億本突破の時も俺を起用して欲しい。

……何を言ってるんだ俺は。

と、浮かれまくっている自分にセルフツッコミ。しかしニヤニヤは止まらない。おかしな妄想を膨らましている自分を注意する気はこれっぽっちもなかった。第1回脳内俺祭りはとどまる事を知らなかった。サンバと神輿と餅撒きと獅子舞と盆踊り、そしてその他世界各国の奇祭が一緒になって行なわれていた。卑猥なご神体に跨る女の子、丘からチーズを転がす人々、爆竹を鳴らしまくる人達、トマトを投げまくってる人、牛を追う集団が脳内にわんさか湧いていた。

……よし、後は全部溶けるのを待つだけだ。

俺は脳内ワールドフェスティバルが繰り広げられている中、それでも一定の冷静さを持って溶け始めた寒天を見ていた。……まあ頭の中の俺は半被にふんどし姿なのだが、これは御愛嬌という事で。

――それから数分後。

追い炊きによって溶け始めた寒天は順調にその固体面積を減らし、そろそろ足の先が自由になり始めそうな常態になっていた。

……そろそろ、そろそろ足が動くぞ。

さっきからワクワクしまくりの俺。何もこれは希望的観点ではなく、もう少しで足が自由になるであろう確証があった。

それは温度。最初は僅かながら、そして今は確実に足の先にある寒天が暖かくなっていた。すでに表面は液体部分がかなり広がり、元のお湯が張られた浴槽に戻りつつあった。この上の方から暖まるというのは水も寒天も同じようだ。

「あー、いいねー」

身体がかなり冷えていただろう、次第に暖かみを増す足元が気持ちよくてたまらない。俺はまるで足湯に浸かっているような気分になっていた。……元々風呂に入っていたのに足湯って。

「ま、それもいいさね」

もう今の俺なら何があっても笑顔で許せちゃう。それくらいテンションが上がり、これ以上ないくらいのご機嫌でいた。もはや菩薩の域に俺はいた。

……が。

「……ん、そろそろかな?」

足元の温度からそう感じる俺。試しにグッと蹴るように足を伸ばすのだが、まだ周囲の寒天は固まったまま。確かに蹴りを入れた奥の方からはプヨンというかボヨンというか、液体がそこにある感じはするのだが、蹴破れるようになるにはもう少しかかりそうだった。

……あれ、もしかして……この溶けた寒天ってかなり熱い?

何か、イヤーな予感がした。

それまで行け行け押せ押せムード一色、脳内で世界のふしぎを集めたクイズ番組が放送出来るくらい様々な国の祭りが行なわれていたのだが、ここにきて祭りは急遽閉幕。言葉では表現出来ない不安が忍び寄っている……ような気がしてならなかった。

そして、その嫌な予感は当たる。

次第に「暖かい」から「熱い」に変わる足元。しかしまだ足に触れている部分の寒天は溶けていない。この温度で固体のままだとしたら、溶けたらどれだけ熱いのか……

「って、うわっ熱っ!」

ブニョリ、という感触。溶けた寒天はもうすぐそこまで迫って来ており、足先に到達するまであと数センチもないくらいになっていた。本来であれば嬉しい事、待ちわびた寒天からの脱出なのだが、この高温っぷりは予想外だった。

もっとこう……いい湯加減くらいの温度だと思ったんだけどな……

額に滲んできたのは冷や汗か、それとも純粋に足元が熱いからか。俺はここにきて目算に誤りがあった事を察し、またしても不安の度合いが大きくなっていく。……何この七転八倒っぷり。

じわぁ……

そして足元を固めていた寒天が溶け、熱によって液体となったものが足の指先に到達する。お湯とは違うそのローションのような感覚は常温であれば気持ちよい、もしくはくすぐったいのだろうが、いかんせん熱すぎた。

「いやいやいやいや、熱いって、やべえって!!」

これはまずい。どこぞの熱湯コマーシャルなんて比較にすらならない熱さだ。まあ実際にアレに出た事がある訳ではないが、自分の意思で逃げ出して氷水に入れる事を考えると、完全固定につき回避不可な俺の方が間違いなく辛いだろう。……辛さ自慢で勝っても全然嬉しくねえけど。

「ぐああ、溶ける、俺が溶けるぅぅ!」

溶けた寒天は足の指先を全て飲み込み、続いて土踏まずも侵食しようとしている。皮の固い部分はまだ何とか我慢出来たが、指の間や土踏まずのような場所は熱の感じ方が違う。もう熱いというより痛いに近かった。

「おおおおおお、ごごごごごご、ぐぐぐぐぐぐ……」

悶絶。これぞ悶絶。まさに悶絶。THE・悶絶。
俺は両足をバタバタさせ、首を上下左右に振りまくって暴れる。しかしこの行為は逆効果、足でかき混ぜた事で余計熱い部分が流動し、固まっていた寒天をより早く溶かす結果になる。

「ノーゥ! オーウ、オオーウ!!」

もはやこの溶けた寒天は溶岩だ。溶岩のようだ、ではなく溶岩そのものだ。
これはマジでヤバイ。足まで溶けるというのはさすがにあり得ないが、結構な火傷を負う可能性は高い。いや、確実に火傷する。つーかもうしかけてる。

「ぐなあぁぁぁ、うごぉぉぉぉ……」

そうこうしている内に溶けた寒天はくるぶしも通過、スネにまで上がってくる。

「はぐぅぅ、毛が、スネ毛がぁぁぁ!!」

某国民的有名アニメの大佐の名台詞、「目が、目があぁ!」のような感じで叫ぶ俺。それまで海に漂う海藻のごとく浮かんでいる状態のまま固められていたスネ毛だったが、今度はアツアツドロドロの溶けた寒天にまみれている。悲惨としか言いようがなかった。

「ぎぎぎぎぎぎぎ……」

ブンブンッ、バタバタッ!!

逆効果なのは判っているが、熱さに耐え切れず両足を振りまくってしまう。するとそのバタ足の練習としか思えないレベルの足の動きによって溶けた寒天が飛び散り、ペチペチと俺の顔に付いてくる。

「あちちちちっ、あじじじじッ!!」

頬、デコ、唇近くに付着する溶けた寒天。これは何かの拷問だろうか。
……というかもはやロウソクプレイだろ。俺は痛みで快楽得るタイプじゃねえっての。

「うう、ガマンだ、ガマンして暴れるのをやめろ……」

もう足は太ももより上、そろそろ股の付け根及びとってもデリケートで大事な部分に達しようとしていた。

上半身はまだ固定、でも下半身の大部分は自由。
上半身は固まって冷めた寒天なので肌寒いが、下半身は火傷一歩前。
何この上下の差。イタリアの南北格差なんて比じゃねーぞ。

「アアーッ、やばいやばいやばい、股間はマズイ!!!!」

もう男性シンボルが焼け爛れるのも時間の問題、すでにジワジワと熱を感じている時だった。

「ぬあああああああああっ!!!」

俺は今までで一番の大声を上げ、動かせるようになった両足を浴槽の底に並べて付け、思いっきり踏み込んで立ち上がろうとしていた。
これは全くの予想外……というか、自分でも驚きの行動だった。
おそらく生物として危機を感じたのだろう、上半身がまだ固められているにも関わらず、無理と無茶を承知で立ち上がる事を選んだに違いない。

ダンッ! という浴槽の底を蹴り上げる音。そしてその直後、飛び上がろうとする下半身と、固まって動けない上半身の間で運動エネルギーの行き来があり、腹の辺りに引っ張られるというか、大きな負担がかかる。

……頼む、このままスポン! と、上半身に寒天の塊を身に付けたままでいいから抜け出してくれ!

全身を固められていた時はどう頑張っても無理だったスポッと抜け出す作戦。しかし今なら、脚力を生かせるこの状態なら何とかなるかも……

俺はそんな淡い期待を込め、最大限身体のバネを使って飛び出ようとする。最初は無意識の内に始めた足で蹴り上げての脱出だったが、今は頭も身体も理解しての行動に変わっていた。

――いけっ!!

ス……

一瞬だが宙に浮かぶ感覚。
俺の全力の踏み込みはそれまでぴったり浴槽に付いていた寒天を剥がず事に成功。底に穴を開けてカップから取り出すプリンのように寒天は浴槽から外れ、やがてまだ固まっている部分全てが剥れる。

――離れた!

浮く感覚は続き、とうとう一番深い場所にある尻も浴槽の底から離れる。
このまま立ち上がる事が出来れば、そのまま横に倒れ込んで脱出完了だ。まあこの手段だと頭から風呂場の床にぶつかる可能性もあるが、そこは何とかこの身にまとった寒天でショック吸収すればいい。で、その衝撃でどっかに大きな亀裂が入って、そこから力任せに裂いていけば寒天からも抜け出せる。これは一石二鳥だぜ。

「ふんぬぅぅぅぅぅッ!!」

しかしそうは言っても身体に付いている寒天の量はまだ多く、重量だって相当なものだ。それは例えるならダンベルや中身の入ったペットボトルを全身に撒きつけている状態と同じ、と言ってもいいだろう。
そんな中で俺は下半身、それも座った状態から両足の力のみで立ち上がらないといけない。

今はまだ腰が浮き始めただけの状態、俺はここから一気に背筋を伸ばし、そのまま直立不動の体勢に入ろうとするが……

「ふあっ!?」

最大限に脚力を反映させようと上半身を伸ばそうとした瞬間だった。俺はその力を入れて胸を張った分だけ、寒天に押し戻されてしまう。そして中腰体勢まで浮かんでいた身体はバランスを崩し、情けなく元の浴槽底に尻を打ってしまった。

「痛ッ!!!」

尻の下に寒天はなく、直接浴槽に打ち付けられる。幸い打つとヤバイ尾てい骨ではなく、一番肉厚な部分だったのだが、それでも結構な衝撃だ。これは痛い。普通に痛い。

――くっ、失敗したか。よし、もう一回……って、熱ちぃ!!!

体勢を立て直し、再度チャレンジを計ろうとする俺。しかしその脱出に必要不可欠である脚力を生み出す元、つまり両足は溶けた寒天の中でも一番熱い部分に伸びており、俺は思わず足の先を溶けた寒天の外に突き出す。
その格好は痴態と呼ぶしかない、不恰好極まりない体勢。M字開脚ならずV字開脚……とでも言えばいいのか、それとも某八つ墓村の名シーンのオマージュか、といった状態である。
いや、足が伸びてるだけで、完全に水面に突き刺さってる訳じゃないから八つ墓じゃないな。半分の四つ墓ってとこだろう。

……って、そんなくだらねえ事考えてる場合か!

俺はこの状況を何とかしよう、どうにかして対策を練ろうと周囲を見渡す。
しかしこれまで何度となく見た浴室内、何か物が増えていたり変わっていたりする事はない。

……畜生、何の因果でこんなV字開脚しながら股間火傷しねえといけねえんだよ!

熱さを増す急所付近、もうこれは今後の全ての生殖活動を諦めなければならないかもしれない。
そんな事まで考え始めた時、ふと視界にタッチパネルが飛び込んでくる。そこには「追い炊き中」の文字が表示され、ブーンという風呂釜が作動している音も変わらず聞こえてきていた。

そうだった、とりあえずコレ消さないと!

今止めたからといって、即寒天が冷えて固まる訳ではない。しかし何の策もなく追い炊きを続けていてはいつか全身火傷だ。
そう思い、俺はタッチパネルに手を伸ばそうとする。しかしさっきはどうにかながらも指が届いたパネルにどうしても触れる事が出来ない。

それもそのはず、さっきとは体勢が違いすぎた。パネルを押せた時に比べ、足をV字にして突き出している今は腰の位置が深く、いくら伸ばしても指の関節1つ分足りてなかった。
……これは厳しい。出来た事が出来ないというのはショックだ。追い打ちをかけられたような気分になる。

「あがががががが……」

俺は再びアツアツの溶けた寒天に両足が浸かり、もう気が気でない。ヒザの上からは外に突き出しているが、それ以外の部分は火傷必至の灼熱ドロドロエリアにどっぷりである。

――何とか、何とかしなければ。

そろそろ本気で股間が焼け爛れる。足の付け根から男性シンボルまで水ぶくれだらけなんて嫌過ぎる。
俺はそう思い、それまでピンと天井に伸びていた両足を曲げ、浴槽の淵に足の裏を乗せる。そしてグイッと腰を突き出し、一気に下半身を溶けた寒天ゾーンを突破。
この体勢、例えるならM字開脚しながらブリッジをしている、もしくは某ハードゲイ芸人のあまり流行らなかったギャグ、「わしょーい!」のポーズ、とでも言えばいいだろうか。とりあえず全裸でやっていいような姿勢ではない。

「はあ、はあっ……」

誰かに見られたら弁解の余地なし、ゲイバーにいるダンサーの決めポーズのような体勢のまま、ぜいぜいと大きく息を吐く俺。超絶情けない格好ではあるが、これで何とか股間周辺の火傷は回避出来た。幸いウチの浴槽は側面が厚く、しばらくは足を乗せていても大丈夫。滑って落ちる可能性は低いし、一見無理のある体勢だが、意外と長時間このポーズをキープ出来そうだった。……まあこんな破廉恥ポーズ、一刻も早く解きたいのだが。

「ふう……」

熱を持っていた両足が外気に触れて冷めていくのが判る。風呂場の中だって結構暖かいはずなのだが、溶けた寒天の中に比べれば夏場の外とクーラーの効いた部屋の中くらいの差がある。

「お、おお……?」

と、ここで両足にくすぐったいというか、奇妙な感覚が。見ると溶けて足に付いていた寒天が冷めた事で再び固まり始めていた。そして数分もしないうちに寒天は薄い膜となって両足をコーティング、人間リンゴ飴のような状態になってしまった。当然というか何というか、残念ながら美味しそうには見えない。

「うわ、変な感覚……」

子供の頃、工作に使うのりを薄く腕に塗り、乾いたらペリペリと剥がす遊びをしたが、あれの上級編とでもいえばいいのだろうか。ああ剥がしたい。きっとベロンと一気に剥がれるに違いない。うわ、モゾモゾしてきた。

「……って、今はそれよりこれからの事を考えないと」

俺は透明版チーズフォンドュ状態となった両足を見ながらそう言い、未だすっぽり寒天に埋まっている上半身をどうするか考える。半火傷と引き換えに、俺の身体は腰付近まで浮かび上がり、残るは首から背中、そして左腕の肩から下の部分、という状態。最初に比べればかなり進展したといっていいだろう。

――さて、これからどうする……?

再び溶けた寒天の中に両足を突っ込み、立ち上がるように底を蹴り上げる作戦をもう一度試すべきか。それとも自由に動かせる右手で寒天を液体・固体関係なく浴槽の外に掻き出すか……

前者は一発逆転タイプの手段、後者はコツコツタイプの堅実な手段だが……どちらも確実性に欠ける。またあの熱い寒天に足を突っ込んで失敗したら、何かの間違いで足が抜けなくなったら怖いし、掻き出す作戦だってまた大きな穴を開けるだけで結局ダメ、なんて事もある。追い炊き機能を使って少し溶かす→掻き出す→手が届く範囲に寒天がなくなる→追い炊き、と繰り返せばいけるような気がしないでもないが……

――うん、追い炊き機能を上手く使うのはアリだな。

具体的にどうする? と聞かれれば今はまだ何も浮かんでいないのだが、脱出のカギになるのはやっぱりこの追い炊き機能だろう。
そう考え、追い炊き時に熱いのが出てくる部分をぼんやり眺める。相変らず正式名称は判らないが、出っ張ってるヤツとか栓の上にあるヤツとか言えば判るだろう。

……ん、まてよ?

何気なく心の中で呟いた「栓の上にあるヤツ」という言葉にピクリと反応、その玉状の鎖で繋がれたゴム栓をまじまじと見つめる。

「そうだ!!」

閃いた! そうだよ、これでいいじゃん!
と、俺は解決の糸口、新しい脱出手段を発見。このアイデアの出現に俺は今まで以上の手応えを感じつつ、さっそく行動に移る。

「よいしょ……っと」

まだ冷え固まらず、液体と固体の中間のような状態になっている寒天の中に右足を入れる。そして指で玉鎖を掴み、そのままグイッと引っ張って栓を抜く。
以上、行動終了。ミッションコンプリートというやつだ。

ゴボ、ゴボボッ……

栓を抜くと同時に溶けた寒天の表面から気泡が出現。粘性があるため、まるでマンガによくある毒薬を作る魔女の大釜のようだった。

ゴブッ、ゴボボボ……

――よし、いいぞ。このまま全部流れちまえ。

俺は普段の残り湯を流す時よりは遅いものの、確実に排水溝に流れていく液状寒天。
こうやって排水溝に流し、ある程度のところで追い炊きを開始し、少しずつ寒天の固まりを溶かし崩していけば、いつか身体から外れるはず。俺はそう思い、自分の目論見通りに流れていく寒天を見ながら勝利を確信する。
勿論追い炊き時は少し熱いだろうが、熱する時間と流す量を調節すれば溶けた寒天に触れる部分を極力少なく&短く出来るはず。それくらいは何とか我慢出来るだろう。

ゴボ、ゴゴ……

――うんうん、いいんだよ。ゆっくりでもいいから確実に流れていきなさい。

ゴボ……

――そうだ、これプラス自分の手で外に掻き出せばもっと早く脱出出来るかも。

ゴ……

――いいぞ、好転の連鎖ってやつだ。こういう時はどんどん物事が上手く……

「って、アレ?」

勝利を確信してまだ1分と経っていない時だった。ふと気付くと寒天表面に気泡がない。そして排水溝に流れていく音も聞こえなくなっていた。

……え、何で?

まだ浴槽内の溶けた寒天が冷えて固まるには早い。というか目の前にはまだトロトロ状態の寒天がある。それなのにどうして……?

「ああっ!」

そうか、しまった!
自分で投げかけた問いに速攻で答える俺。こんな解決までが早い自問自答もないだろうが、判ってしまったものは仕方ない。
おそらく流れていった寒天はしばらく排水溝の中を順調に進んでいくも、冷えて固まってしまったに違いない。浴槽のように広ければ熱が奪われる速度も遅いが、狭いし冷たい排水溝の中だとすぐに固まってしまう。……どうしてこんな事に気付かなかったんだ俺は。

「うわああ、やっちまった〜〜!」

ショックを受ける俺。脳内で勝利宣言まで出していた手前、このショックは大きい。つーか何回このぬか喜び→失敗してガックシ、の流れを繰り返してるんだよ……って、あれ? 何か聞こえね?

ブーン……

「ぬあっ! そういや追い炊きはしたままだったんだ!」

ゴボゴボという音に掻き消されていた&すっかり忘れていたが、ここにきて再び聞こえてくる風呂釜の音。
さっき好転は連鎖するとか、何か物事が上手く行くとどんどん良くなる的な事を言っていたが、それは逆も往々にしてありえる。

さらにこれまたすっかり忘れていたが、今の俺の体勢では追い炊きを止めれない。どう頑張ってもタッチパネルに手が届かなかったのだ。

「あああああ、何でそんな大事な事を忘れるんだよ……」

これじゃ排水溝が詰まらなくても遅かれ早かれ計画は失敗じゃないか。何であんなバカみたいに喜んでたんだよ俺は……

さっき一瞬見せたかのような好転の連続の比ではない、アンラッキーと失敗と失念のコンボ技。俺の心はその負の応酬にズタボロ、それまで上がったり下がったりを繰り返してきたテンションだが、ここにきて最下層まで落ちてしまう。そしてもう上向く気もしなかった。

ブーン……

そんな絶望にひしがれている中、無情にも止まる事なく聞こえてくる追い炊きの音。一定の温度に達したら自動的に止まるようには出来ているが、その止まる温度に達する頃にはもう大火傷確定だろう。

「ああ、熱くなってきた……。ああ、ずっと固まってた部分まで溶け始めて来た……」

忍び寄る恐怖というのはこういう事を言うのだろう。しかもそれは目に見えて……というか眼下で起きている。これは精神的にくる。本日何度目かの拷問タイムだ。

そしてこの後、俺は股に溶けた寒天が流れ込み、デリケートな部分だけは死守しようと周囲のまだ固まっている寒天を引きちぎっての大ブリッジをかます。
しかしこれで何とか一時しのぎは出来るだろうと思った矢先、それまでずっと下半身を溶けた寒天ゾーンから守るべく、浴槽の淵に乗せていた足が疲労によりガクガクと震え出し、最終的にツルッと滑って勢い良く浴槽にドーン!
あまりの熱さにそれまで以上のエビ反りを見せ、凄まじい早さでまた両足を浴槽の淵に置くのだが、そうすると今度は腹筋が限界となり、腹の部分がブルブル震え出し、腰から尻が溶けた寒天に触れ、「熱ッー!」と叫びながらまた大ブリッジ……という流れに。

ガクガク……ツルッ

「あ゛ち゛ぃー!!」

ガクガク……ポチャッ

「ふんぬあぁぁぁ〜〜〜!!」

ガクガク……ツルッ

「ほぼぼぼぼぼぼ!!!」

この足が限界→寒天に落ちて絶叫→何とか戻る→今度は腹筋限界→寒天に落ちて絶叫→何とか戻る→足が限界、を何セットとなく繰り返す俺。
幸い落ちてもすぐに安全ゾーンに復帰するため、大火傷を負う事も水ぶくれが出来る事もなかったが、肌はもう真っ赤。茹でたタコやカニのようだった。

ガクガク……ツルッ

「あがががががッ!!」

ガクガク……ポチャッ

「し、しぎぃ〜〜〜!!」

ガクガク……ツルッ

「んばあぁぁ!!!」

……地獄。阿鼻叫喚の世界がそこにあった。
しかもその地獄は自分の家の風呂場というのだから恐ろしい。
俺はまるでそうプログラムされたかのように同じ動作を繰り返し、踏ん張りに負けては熱さに叫び、一応は逃げ出すもののまた力尽きて熱い寒天の中に……という動きをしながら体力を削っていく。

……きっとこのまま、浴槽の中に沈んで戻ってこなくなるまで同じ動作をアホみたいに続けていくんだろうな……

まだもう少しは体力的に持つものの、抜け出す糸口すら見つけられずに俺は諦めモードに入り、そんな事を考えてしまう。
と、そんな時だった。

ガクガク……ポチャッ!

「……びやあああぁぁぁ!!!!!!」

ここまで来ると最初は辛うじて腰元くらいまでだったドロドロ寒天の最前線も背中まで進んでおり、ブリッジはさらにその高さと角度を増していた。
もうこのまま行くと腰から真っ二つに割れ、折りたためるようになるんじゃないかという状態。というかそこまでしないと熱さから逃げられなかった。

――くっ、このままじゃ首筋、髪に溶けた寒天が付くのも時間の問だ……ひっ!

……ツルッ、バシャッ!

ブリッジが崩れ、またしても滑った足からドロドロ激熱ゾーンへ転落してしまう俺。しかも今回は休めた時間も短く、また普段とは違う体勢で落ちてしまった。
いつもであれば背中から平行に溶けた寒天に沈んでいくのだが、今回は捻りが加わってしまい、側面から豪快に落ちてしまう。
すると……

メリ……ニュルッ

そんな今まで聞いた事のない音が聞こえる。しかも耳のすぐ後ろから。
この時の俺はまだ気付いていないのだが、何と横から落ちた事により片側一方だけに力が加わり、それまで身体とくっ付いていた寒天が端から一気に剥がれたのだ。
まあ近付くドロドロ寒天の熱により、半分溶けかけていたのかもしれないが、これで俺の上半身も寒天から離れた事になる。

――ああ、そうか! よし、これなら……!

しばしの間の後、ようやくその事に気付いた俺は一旦それまで同様、両足を浴槽の淵に乗せて体勢を整え、何度か深呼吸。そして意を決し自ら溶けた寒天の中にダイブし、思いっきり身体をねじらせて反転。残った唯一の自由がきかない左手は浴槽の底につけたまま、ザバアアッと立ち上がる。

「ぬばああぁぁ!」

本当は「やったあぁ!」と叫んだつもりなのだが、今の動作で顔中に溶けた寒天をかぶってしまい、口にも膜のように張り付き、その結果何を言っているのか判らない呻き声になってしまう。

……くそっ

このままじゃ叫ぶ事はおろか、呼吸にも影響が出る。
俺はブンブン顔を降って付着している寒天を飛ばし、さらに右手で口と鼻の気道を確保。まあ少し飲んでしまった&鼻穴に入ってしまったが大丈夫だろう。

「ぐあ、熱ぃっ!!」

両足から伝わる熱さ、そして痛さ。
俺は再び浴槽の淵に逃げ出そうとするのをグッとこらえ、未だ固まった寒天に突き刺さる左手を抜きにかかる。

グッ、グググ……

真っ直ぐな腕は問題ないのだが、どうしても手のひらや甲の部分が引っかかってしまい、そうすぐには抜けない。その間も両足は熱い寒天の中にあり、もう踏ん張る力も残っていない状態だった。

「ふんぬあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!」

もう脱臼しても構わない、というか途中で折れてもいい。そんな思いで俺は畑に埋まる大根を掘り抜くように全力で引っ張る。もう足での踏ん張りは期待出来ないので、俺はそのまま浴槽の隣、風呂場の床に飛び込むように跳ねた。

ニュルルル……スポン!

――抜けた!

もしこれで左手が抜けないまま、浴槽を飛び跳ねるようにして脱出していたら確実に大きな損傷があっただろう。しかし偶然が偶然を呼んだのか、それとも上手く力が伝わったのか、これ以上ないくらい良いタイミングで左手が抜けた。

「よっしゃああああ………あ?」

俺はその無傷で浴槽から抜け出した事を跳ねている途中で自覚し、勝利と喜びの雄叫びを上げる。
……いや、正確には上げようとした。

別に浴槽から風呂場の床まで大ジャンプをした訳でもなく、しかも着地の事など何も考えず、倒れこむように飛んだのだ。よっしゃあ! と言い終える前に目の前に床が飛び込んでくるのは自明の理である。

……!!

鈍く、イヤーな音。出来れば聞きたくない音。
ゴキッとベチッとメチャッという3つが合わさったような音が風呂場に鳴る。
言わなくても判ると思うが、顔面から床に落ちた音だ。

「……」

風呂場の床にだらしなく寝転び、そのままの体制で動けないでいる俺。
それは当然痛みからくるものもあったが、それ以上に脱出したという実感を味わうため、またそれ以上に火傷状態の身体に冷えた床が当たって気持ちよかった。

――ああ、生きてる。俺、いきてるー

うつ伏せになったまま、ピクリとも動かず床にへばりついたまま。
まるでここ数年の大晦日によく見る、リングの上で寝ている某元横綱を思わせるような姿勢のまま、俺は抜け出せた事より生きている事を実感するようになっていた。少々大袈裟かもしれないが、当の本人としては至って真面目である、

「……ふう」

しばらく床で身体を冷ました後、今度は仰向けに体勢を変える。身体の反対側も冷やしておきたかった。

「ああ〜、きーもーちーいー」

身体のあちこちにはまだ寒天が付着し、本来であれば鬱陶しく感じたり気持ち悪いと思うのが普通かもしれない状態の俺。しかし今はその身体に点在する寒天の欠片、プルプルしている緑色も平気だった。

「はあ……、ふう……」

天井の明かりを見つめながら息を整える。そして俺はゆっくりと起き上がり、今まで固められたりもがいたりしていた浴槽を見る。

改めて考えたくもないが、それでも原因は解明したい。少しでも納得したい。
そういう思いから俺はしばらく浴槽内の寒天を手に取ったり、匂いを嗅いだり、洗面器で掬ってみたりしたが、まあ当然というか致し方なしというか、何1つ判らず終いだった。

――そして10分後。

俺はほぼ真水に近い温度のシャワーを浴び、身体に付いたままの寒天の欠片を洗い流し、脱衣所で服を着ていた。一応身体をタオルで拭いた後、鏡で全身を見たのだが、真っ赤にこそなっているが火傷とまではなっておらず、心配していた肌の柔らかい部分の水ぶくれも今のところ出来ていなかった。

本来であればこれから浴槽に残った寒天の処分を始め、詰まらせてしまった寒天を流すべく排水溝に熱湯を注ぎ入れる作業をしなければならないのだが、さすがにもう全身ヘロヘロ&ちょっともう今日は寒天を見たくないので明日やる事にした。

「んぐんぐんぐ……プハァッ!」

Tシャツにトランクス姿で台所に向かい、冷えた麦茶を豪快に飲む。キンキンのビールという選択肢もあったが、何となく今日は麦茶な気分だった。
それというのも……

「いやー、ホント訳わかんなかったよなー」

コップに2杯目の麦茶を注ぎながら、俺は誰ともなしに口を開く。
浴槽の寒天を調べても何も判らなかったが、それでも今日の事を自分なりに纏める……というか少しは整理しておきたかった。

まず何といってもその原因。どうして気持ちよく風呂に入っていたのが、ふと気付くと寒天になっていたのか。やはりこれだけは知りたい。例えどんな非科学的なトンデモ理論だったとしても、それでもいいから知りたかった。

「今日は色々あって疲れてて、帰ってきてから色々ぼーっと考えてたんだよな……」

別に俺は寒天が好きな訳ではない。それなのにどうしてああなってしまったのか。
俺は寒天がキーワードになったのではなく、別に理由があるのでは……? と考える。こんな不思議体験に理論や建設的な考えが通用するとはあまり思えないが、やるだけやってみようじゃないか。

「……で、確かに風呂に入ろうとした時、緑色の入浴剤が入った浴槽を見て「ああ、なんかゼリーみたいだな」とは思ったんだよ……」

もし手がかりがあるならここか? 思い込み、脳内イメージが投影されて実際に起こったとでもいうのか? いやいやまさか。それが出来るなら今すぐ宝石の形したアメ買ってきて本物に変えるっての。大判焼きを本物の大判に変えるっての。5円チョコを5円に変えるっての。……あ、それだと得してねえや。

「でも……そういう事なのかなあ?」

意図してではなく、無意識にそう思ったから。だからいつの間にか変わっていた……と考えるのはどうだろう。

「いや、どうだろうって言ってもなー」

そんな仮説を提議されても答えようがない。自分で唱えておいて何だが、これには明確かつ納得出来る回答は存在しないだろう。

「……」

しばしの静寂。しばしの熟考。
俺は冷蔵庫の扉は開けっ放し、麦茶のパックを手に持ったまま、黙って今回の件についての結論を無理矢理にでも出そうとする。

「……うん」

軽く頷く。
もうこれしかない。

「……もうあれだ、考えたら負け。こんなん真面目に考えるだけ無駄だって」

と、これが散々考え、普段あまり使わない頭をフル回転させて出した答え。
丸投げと捉えてもいいし、ある種の悟りと思ってもらって構わない。つーかわかんねえもん。

「とりあえず1つ言えるのは、もう同じような事が起きないよう、アホな事は考えない、変なイメージを描かない事だな」

俺はそう言い、一連の寒天風呂の事をきれいさっぱり忘れようとする。まあこんな出来事をすぐに完全に忘れるのは難しいだろうが、極力考えないようにする事くらいは出来るだろう。俺だってもう寒天に全身固められたくねえもん。

……うん、それでいい。それでいい。

結論もまとまった(?)事だし、疲れたから今日はもう寝よう。
そう思い、俺はコップに残っていた麦茶を飲み干し、愛しの布団がある寝室へと歩いていく。

……何も考えない、おかしなイメージは抱かない。

そう肝に銘じながら、頭の中で何度も言い聞かせながら、俺は真っ白でフカフカの布団で寝る自分を思い描いてしまう。

……そしてふいに、ついうっかり、「とある事」を考えてしまう。

考えないように、考えないようにと言い聞かせてきたのだが、それが逆に色々考えさせてしまったのかもしれない。

――この後、俺は寝室のドアを開けたところでガクリとうな垂れ、その場にヘナヘナと座り込んでしまう。

俺の視線の先、いつもであれば布団を敷いている場所には、真っ白でフカフカの布団サイズのはんぺんが2枚、敷かれていた――




                                          「寒天」   END







<トップへ>



inserted by FC2 system