「わらしべ彼女」



 1

「あ、すいませんお客さーん」

「……はい?」

釣り銭を受け取り、その場から立ち去ろうとした時だった。
俺はレジを打っていたおばちゃんに呼び止められる。

……なんだろう、釣り銭の額はあってたし、買ったものだって持ってるのに……
そう思っていると、おばちゃんはレジスターの横にある棚から何か小さな包みを取り出し、手のひらに乗せて俺に見せる。

「これ、新製品の試供品。よかったら貰ってやって」

「あ、どもです……」

「中身はノド飴なんだけど、くしゃみや鼻づまりにも効くみたい」

「へえ、そうなんすか」

包みを見ると、確かに新製品を紹介する小さなチラシの中に2つのアメが入っていた。
まあタダでくれるというのであればありがたく貰っておこう。俺はおばちゃんからノド飴の包みを受け取り、軽く頭を下げる。

「お客さん、花粉症でしょ?」

「……はい?」

予想外の言葉に思わず聞き返してしまう俺。
……別に俺、花粉症じゃないんだけど……

「その目薬、最近よく売れるのよ。何でも花粉症の目のかゆみがよく取れるとかでさ」

「はあ……」

なるほど、これで納得した。
そういえば花粉症のシーズンだもんな、今。
……ま、そんな時に目薬だけ買えばそう思われても仕方ないか。
こうして俺はわざわざ呼び止められてまで試供品を貰った訳を理解、話の流れ的に否定する事もないと思い、あえて何も言わずに飴を貰う事に。
それにさっきの聞き返しの意味で言った「……はい?」がレジのおばちゃんには同意・肯定の「はい」に聞こえたらしく、すでに「大変ねえ、辛いでしょ?」という同情モードに入っている。だったら尚更違うとは言いにくい。

「ホントに効くかどうかは判らないけど、味は結構いいわよ?」

「それは嬉しいっすね」

はいはい、すでにおばちゃんは味見済みですか。まあ試供品が届けば少しは貰っちゃうよな。わかるわかる。
俺はそう思いつつ、人懐っこく笑うおばちゃんに笑顔を返し、「どうもですー」と言ってレジから去る。

「ありがとうございましたー」

背後から聞こえるおばちゃんの声を聞きながら、俺はもらったノド飴の包みを買った目薬と一緒にジャケットのポケットに入れる。


――ここは近所のドラックストア。
ここ数日、夜更かしする事が多く、目がショボショボしてきたので目薬を買いに来ていた。
特に種類にこだわりはない。今買った目薬もパッケージに「疲れ目に効く」とか「一滴でスッキリ」とか書いていたから選んだだけの話。値段も手頃だったし、たくさん並んでいる=売れている=効き目に期待出来る、という構図が働いたから。

買ったのは本当に偶然。そしてその目薬が花粉症に効き目のあるものだった、というのも偶然。同じくノド飴を貰ったのも偶然。

「……」

俺はその偶然の産物であるノド飴を早速舐めようとも考えたのだが、今はあまり甘いものを口にしたい気分ではなかったのでヤメ。
それにさっきも言ったように、俺は花粉症でも何でもない。今はいたって健康体、まだ少し眠い事を覗けば何ら問題のない身体の持ち主である。

「……コーヒーでも飲むかな」

飴よりは眠気も取れるだろう。俺はそう考え、店の外にあった自販機でブラックのコーヒーを買う。そしてその場で一気に飲み干し、「よしっ」と一言。
何に対して気合を入れたのかは本人もよく判らないが、それでも多少はスッキリしたのは事実。俺はパンパンと頬を叩きながら車に乗り込み、買物に来た時よりもハッキリした意識で家へと戻る。

「……あ、やべ」

車を走らせて30秒、駐車場から道路に出ようと左右を確認した所で俺は左右のサイドミラーが折りたたまれたままの状態になっている事に気付く。どうやらここに来るまでの間、一度もミラーを見なかったようだ。
……行く途中で事故らなくて本当によかったと思う。


 2

――ガラガラガラ

「ただいま」

玄関を開け、誰に言うでもない帰宅の報告。
これでエプロン姿の可愛い幼な妻でも出迎えてくれれば最高なのだが、悲しい事に返って来る言葉もなければ、誰かが姿を現す事もない。まあ実家だし。そもそも幼な妻どころか彼女すらいねえし。

「……何を考えてるんだ俺は」

今日は休日、誰かしら家族はいるだろうが、別に「おかえり」の言葉が欲しい訳でも出迎えが来て欲しい訳でもない。どんだけ寂しがり屋だよ、という話である。

「……ん?」

直で2階にある自分の部屋に行こうと階段を登ろうとした時だった。居間の方からゴホンという咳き込む声、続いて「ううんっ」という喉払いが聞こえる。
声の主はどうやらオカンのようだ。

「風邪……か?」

そういや今日はまだオカンと会ってなかったな。遅く起きたから朝飯も1人で食ったし。
そんな事を考えながらも、特に居間に向かう事もせずに階段に足をかける。
……と、そこで俺はジャケットのポケットの中にこういう時にうってつけのアイテムが入っている事を思い出し、くるりと回れ右。そしてノド飴の入った包みを手に取り、居間へと続く廊下を歩く。

――ガチャ

「うっす」

「あら隆志(たかし)、出かけてたの?」

「ん、ちょっとそこまで」

「……そうだ、アンタねえ、自分で使った食器くらい洗いなさい。それが嫌ならちゃんと朝起きてみんなでご飯を――ううんっ」

オカンはそこまで喋った所で言葉を止め、再度喉払い。声は普段のまま、風邪声ではなかったのだが、やはり喉の調子があまりよろしくないようだった。

「わかったわかった。茶碗は洗うよ。……それよかノド、大丈夫?」

「そうなのよ、急にイガイガし始めちゃってねえ。朝起きた時は何ともなかったのに……」

「ふーん、じゃあそんなノドの調子が悪いオカンにはこれをプレゼントしよう」

そう言って俺はドラックストアで貰ったノド飴をオカンに向かってポンと投げ渡す。するとオカンは上手くキャッチ、「何かしら?」といった感じで包みを開ける。

「……ノド飴?」

「ん、なんか貰った」

「くれるの?」

「欲しければ」

「じゃあ……ありがたく」

「どぞどぞ」

何ともぶっきらぼうな会話ではあるが、これが俺とオカンの普段のやり取り。
お互い長いセリフを言う時はさっきのような注意をする/される時と何か厄介なお願い事がある時くらい。ドライな親子に見えるかもしれないが、これはこれで気が楽でいい。

「まあ大した事なさそうだし、それ舐めてゆっくりしてれば?」

「んー、そうしようかねえ」

同封していたチラシには目もくれず、オカンはそう言いながら早くも飴を口の中に放り入れる。

「……あら、おいしいじゃない」

「ふーん、よかったじゃん」

「うん、よくなってきたかも」

「んな訳ねえだろ」

即効性にも程があるだろ。俺はオカンの本気ともボケとも取れる発言にそうツッコミを入れ、話に区切りがついた&用件も済んだので自分の部屋に戻ろうとする。

「あー、ちょっと待って」

「ん?」

居間のドアに手をかけた所で呼び止められる俺。振り向くとオカンはサイフを取り出し、ガサガサと何かを探していた。
一瞬「金でもくれるのか?」とも思ったが、よく見ると漁っているのはレシートやポイントカードの類を入れている場所。まあいくらあの飴が美味くても金銭の授与が発生するようなものではないだろう。

「何してんの?」

「ええっと、確かここに……あったあった」

そう言って取り出したのは何かのクーポン券のようなものが2枚。オカンはそれを俺に受け取るよう、ぐいっと目の前に突き出してくる。しかも何故かちょっと偉そうな表情を浮かべていた。

「なんすか、コレ?」

「映画の割引券よ」

「割引券?」

「駅前のシネマなんとかって所、半額になるみたいよ」

「はあ……」

ふふん、どうだ! と言わんばかりのオカンに対し、俺の反応は微妙というか曖昧。
確かに半額になるのはスゴイかもしれない。……が、映画とか全然観に行かないんだよね、俺って。

「何よ、もうちょっと喜んでくれてもいいじゃない」

「俺が映画好きなら喜ぶんだけどな」

「せっかくだから誰か誘って行って来なさいよ」

「そんな相手いねえっての」

「寂しい子ね」

「うっせ」

飴で頬をぽこりと膨らませながら俺を哀れみの目で見るオカン。ちょっと……いや、かなり小馬鹿にされてる感がひしひしと伝わってくる。
ちくちょう、飴取り上げるぞ。今舐めてるのも吐き出させるぞ。

「……ま、私の財布に入ってるよりはいいでしょ。持っときなさい」

「へいへい。それじゃありがたく頂戴いたします」

「1人で2回行ってもいいのよ?」

「だから行かねえっての」

……しつこいなもう。今どんな映画をやってるのかすら知らないヤツが2回も1人で行くかよ。
俺はそう心の中で悪態を吐きながらも、一応オカンの感謝の気持ちを受け取る形で割引券を貰い受け、さっきまでノド飴が入っていたジャケットのポケットにしまいこむ。

「そんじゃま俺は部屋に戻るわ」

「はいはい」

手を軽くひらひらと振り、適当に俺を見送るオカン。
いや、すでに視線はテーブルの上に置いてあったクロスワード誌に向いているので、もはや見送るでもない状態か。

「……ええっと、タテの21、『某巨大掲示板用語で「ksk」と言えば何?』か。答えは「カソク」、と」

「……何でそんなん知ってるんだよあのババア」

居間を後にする間際に聞こえてきた問題を読み上げ、即答するオカンの声。俺は思わずそれにツッコミを入れてしまうが、ここで戻って話をすると長くなりそうなのでそのまま立ち去る事に。
……っていうかそんなのクロスワードの問題にすんなよ。一般常識じゃねえんだから。


 3

……トントントン

「ん?」

部屋に戻る前にトイレで用を足していると、階段を下ってくる足音が聞こえてきた。その音は非常にゆっくり、そしてリズムも一定ではなく、途中で「ふああああ」という大きなあくびも聞こえてくる。

「姉貴か……」

2階にあるのは俺の部屋と親父の書斎、そして姉の部屋の3つ。玄関先に親父の車が無かった事、そしてあくびだけ聞けば色っぽい女性のそれだった事から、声の主は俺の姉である事を特定。そしてトイレを出た俺は、見た目は美人だが性格に難アリの姉と廊下でバッタリ遭遇する。

「よ」

「ん」

軽く手を上げ、俺の方から朝の挨拶。すると姉もまだ眠たそうな目を少し開き、返事をしてくる。……眠いのは判るし、相手は弟だからというものあるだろうが、とりあえずパジャマのボタン全開で胸元をボリボリ掻くのはやめた方がいいと思うがどうだろう。

「何? 今起きたの?」

「ううん、朝ごはん食べてまた寝てた」

「太るぞ」

「うっさい死ね」

「……寝起きっすなあ」

俺は姉の寝起き時特有の毒舌っぷりに苦笑い。言ってる事はかなり激しいのだが、微妙に舌が回っていないのでトゲはない。こういうキャラが好きな人には堪らないのかもしれないが、俺にしてみれば何の感動もない。実の姉に悶えるかってんだ。

「でも珍しいじゃん、2度寝してた姉貴が午前中にまた起きて来るなんて」

「まあ用事があるからね。髪洗って化粧しないと」

今度は頭をポリポリと掻き、ひどい寝癖の髪をつまんでは目の前に持ってきて枝毛のチェック。元々キレイでサラサラのストレートな髪だったのにパーマなんか当てるから痛むんだよ、と心の中で呟く俺。実際に口にしたら「黙れ小僧」とか言われるんだろうなあ。

「で、用事ってデート?」

「まあね。何かご飯おごってくれるってさ」

「へえ。それってこの前の人?」

あれは確か先月の始め、見慣れない車が家の前に停まったと思ったら中から姉貴が出てきた時があった。しっかりと運転席を見た訳ではないのだが、とりあえず姉貴と同じくらいの歳の男だったのだけは判った。今日もその人とのデートだろうか?

「あー、違う違う。あれはなかった事にして。アイツはこの世にいなかった、という事で」

「別れたんか……」

姉貴、結構コロコロ付き合う男変えるからなあ。今回も長続きはせず、か。
好みなり行動や思考パターンを把握してないと付き合うのは難しいんだよな、この人とは。
俺は下腹部丸出しで大きく背伸び&あくびをしている姉貴を見ながら、果たして今度の彼氏はどのくらい続くのかを考える。……2ヶ月持てば頑張った方かな。

「おごってもらうご飯って昼?」

「ううん、よるー」

この時すでに姉貴は廊下から脱衣所に移動、俺達はドア越しに喋っていた。ちなみに姉貴は最初ドアを開けたままでパジャマを脱ぎだしたので俺が閉めた。家の中だからって少しは恥じらいを持てよな……

「それまでの予定は?」

「しらなーい。会って決めるー」

「ふーん」

「どうしてそんな事聞くの?」

「いや、特に意味はない。興味本位」

「そうだね、アンタ彼女いないし」

「姉貴まで言いますか……」

何だ? 今日はオカンといい姉貴といい、妙にそこに突っかかってくるな。
別に俺がロンリーオンリーフォーエバーでも迷惑はかけんだろ。
いや、さすがにフォーエバーはマズいか。

「……ん?」

立ち話もなんだし、姉貴も風呂に入るみたいだし、いい加減俺も部屋に戻るかな。そんな事を考えながら何気なくポケットに手を突っ込んだ時だった。俺は指先から伝わる紙の感触、さっきノド飴と交換する形でゲットした映画の割引券に触れ、ピコンと頭上に豆電球を点滅させる。

「なあ姉貴」

「んー? なにー?」

「映画の割引券あげる、って言ったら喜ぶ?」

「うん、喜ぶー」

「じゃああげるよ」

「ホント?」

ガラッと風呂場のドアが開き、姉貴がにゅっと顔を出してくる。長い髪をまとめて束ね上げ、タオルで巻いている姿は完全に入浴臨戦体勢。という事は当然その下は全裸な訳で……って、だから恥じらいを持てよ。

「ちょ、そんなカッコで出てくんなよ」

「えー、別にいいじゃん。それより映画の話を詳しく」

「さっきオカンから貰った。俺はまず行かないだろうから姉貴にやるよ」

「うん、もらうもらうー」

「それじゃ風呂から上がったら俺の部屋まで取りに来てよ」

「らじゃー」

ピシッと額に手を当て、敬礼のポーズ。どうやらかなり喜んでいるようだ。
うん、何より何より。

「いいトコあるじゃん、彼女いないくせに」

「関係なくね?」

そして脈略もなくね? 俺はそんな思いを込め、姉貴に批難の視線を送る。
しかしそんな事はお構いなし、目の前の痴女(←ちょっとこれは言いすぎか?)は笑顔で話をまとめにかかる。

「じゃあお風呂済ませたら行くから」

「おう。……ちゃんと服着て来いよ」

「えー、ダメだよ、そういう時は『先にシャワー浴びてこいよ』でしょ?」

「いやいや、ボケかます必要ないし。それに俺、あのとっつぁんぼうやのマネとか出来ないし」

俺はそう的確にツッコミを入れ、妙にテンションの上がった姉貴に冷ややかな目を向ける。だが姉貴は他の代表的なモノマネセリフ(全然似てない)を言っては1人で笑い、俺の話を聞いていない。……ダメだこりゃ。張り合うだけ無駄だ。

「……さ、部屋に戻るか」

姉貴のモノマネはまだ続いていたが、それに付き合ってやれるほど俺は優しくない。これはもう放置でいいなと判断し、階段に向かって歩き出す俺。何か背後から「ちょ、待てよ」という某アイドルのモノマネをする声が聞こえたがスルー。だってこのままだと3年B組の担任までやり始めそうな勢いなんだもん。


 4

――バタン

「ふう」

自分の部屋に戻り、椅子の背にジャケットをかけ、ベッドに腰掛ける。
そしてそのままゴロンと横になろうとした所で俺は目のかゆみを感じ、同時にどうして買物に行ったのか、そこで何を買ったのかを思い出す。

「……なんのために目薬買ったんだよ俺は」

そう呟き、かけたばかりのジャケットのポケットに手を伸ばして目薬の箱を取る。ついでに映画の割引券も取り出し、いつ姉貴が来てもいいようにテーブルの上に置く。

「……ん」

再びベッドに腰掛け、さっそく買ってきた目薬を試す俺。差した瞬間に眼球がスーっとして気持ちよかった。これは当たりだと思う。

「さて、と」

これからどうするかな。今日の予定はさっきの買物だけ、それも終わってしまい、残りの休日をどう使うかを俺は考える。
買いたい物は他にない、行きたい場所も特にない、金はない訳じゃないがそんなたくさんもない。

「……何かつまんねえな、俺って」

普段はバイトに大学の講義にと結構忙しいのだが、今日みたいにどっちも休みだと何をするか悩んでしまう。

……う〜ん、誰かヒマしてそうなヤツでも誘って遊びに行くかな。
車は俺が出すからプランはそっちが考えろ、とか言えば退屈しのぎにはなるかもしれない。そんな事を考えながら俺は携帯を開き、アドレス帳に並ぶ名前を見ていく。

「んー、確かアイツはサークルのメンバーと遊ぶって言ってたし、コイツは家がめちゃくちゃ遠いからパス……と」

うわ、何か選択肢がどんどん狭まっていくぞ。
そんな登録人数が多くない俺の携帯のアドレス帳は早くも「は行」まで進んでいた。……残りわずか、というか「ら行」以降に入ってる人がいないんですが。

「あーヤメヤメ」

俺はそう言ってパタンと携帯を閉じ、枕元にポイと放り投げる。
誰かと遊びに行く案は計画の時点で頓挫……というか断念。仕方がないのでこのまま部屋でゴロゴロする事にした。

……うーん、この時間だとテレビはクソつまんねえし、やりたいゲームもない。
こりゃ本格的にヒマだな。

「……」

ピッ、ピッ、ピッ……

一応淡い期待を抱き、テレビを点けてチャンネルを回すのだが、やっぱり面白そうな番組は見当たらない。いい加減あんま見なくなった役者とタレントを組ませてどっかの市場行かせてマグロ食うような番組やめろよな。あと田舎の温泉宿行って混浴って聞いてドキドキ→先に入っていたのは「元美人」とかいう展開も勘弁な。

「ああもう、港に行ったら地元の猟師が採れたての魚を食ってる、とかありえねえだろ。自分で食わねえで売るっつーの」

……ピッ

捨てゼリフともツッコミとも取れる発言と共にテレビを消す。やっぱりこの時間帯にやってるテレビに見るものはなかった。
と、そんな本格的なふてくされモードに入る直前の事だった。

――チャラチャーチャーチャララ♪

「お」

枕元から軽快な音楽が鳴り響く。見るとさっき放り投げた携帯が光っていた。
俺はすぐさま手を伸ばし、ディスプレイに表示されている名前を見る。そこにあった名前は2つ下の後輩、今年大学受験を控えた高校生だった。

……ああ、そうか。

その名前を見た瞬間、用件を何となく察する俺。ヤツにはこの前、俺が高校時代に使っていた参考書とノートを貸していた。おそらくこの電話はそれを返しに行きたいけど大丈夫? みたいな用件だろう。

――ピ

「もしもし?」

『あ、先輩どもっす』

「何? 参考書とノート?」

『は、はい。そうです』

う〜ん、ビンゴ。予想通りの内容だ。
って事は当然、ヤツの次の発言は……

『先輩、これから家にお邪魔してもいいっスか?』

「ああ、かまわねえよ」

……まあそう来るよな。さすがにこれで「参考書取りに来い」とか言われたらキレるっちゅう話で。

『わかりました、今から行きますんで』

「ん、了解」

『それじゃ失礼しまーす』

そう言って電話を切る後輩。相変らず元気だなあ。
この辺はさすが運動部、といった感じだろうか。う〜ん、懐かしい。俺にも部活に明け暮れてた時代があったんだよな……

「ええっと、今から行くって事は……10分もすれば来るな」

俺は時計を見ながら後輩の到着時間を算出、それまで少しは部屋を片付けておこうと思い、立ち上がる。……あと飲物も用意しておくか。

「冷蔵庫に何か入ってたかな……」

ジュースの類があれば言う事なしなのだが……まあないならないでいいか。客といっても後輩なんだし、麦茶でもいいや。俺はそんな事を考えながら床やテーブルに置いてあったCDや雑誌をまとめ、見られたらマズイ系、先輩としての威厳が損なわれる変態アダルト誌をクローゼットに放り込み、超簡単な部屋の片付けを終了させる。

「……うん、上等上等」

それなりにキレイになった部屋を見回し、満足そうに頷く俺。後は台所で飲物とお菓子を物色して持って来ればいいだけである。

――ガチャ

「やほー、サッパリしてきましたー。そんな訳で割引券プリーズ」

ちょうど部屋から出ようとした時だった。いきなりドアが開き、「入るよ」の一言もないまま姉貴が入ってくる。やっぱり服は着ていなかった。

「だからバスタオル1枚でうろつくなと」

「違うよー、パンツは履いてるもーん」

ほらほらー、と言いながら身体に巻いていたバスタオルをたくし上げ、黒のひらひら付きを見せてくる姉貴。見せなくていいっての。

「悪ぃ姉貴、今から純情無垢な高校生が来るんだ。頼むからその格好でヤツの前には出るなよ」

「高校生? いつもの後輩クン?」

「そうそう」

「ふーん」

頷く俺を見ながら、姉貴は何かを考えるような仕草。これは主にイタズラ方面の考えを巡らせている時に見られるもの。危険だ……

「誘惑禁止な。姉貴はジョークのつもりでも相手によっては本気にするんだから」

「はいはい、さすがに私も高校生の彼氏はちょっと…………」

「?」

「いいかもー」

途中で何を想像したかは判らないが、急にうっとりし始める姉貴。まあバカな妄想をしてるんだろうが……って、ヨダレ垂らすなよ。

「いいかもー、じゃねえよ」

おそらく年下ハーレム計画でも脳内展開しているのだろう。俺は呆れ半分諦め半分でそう言うと、テーブルに置いていた割引券を掴んで姉貴に突き出す。

「ほれ、これもってさっさと部屋行って着替える!」

「なんだよー、押すなよー」

これ以上人の部屋でハレンチな妄想を膨らまされても困る。俺は姉貴が券を受け取るなり両肩を掴み、そのまま強制的に曲がれ右。押し出すように廊下に追いやる。

「いやー、隆志ったら強引ー」

「うっせえ」

「そんな、実の姉と廊下でなんて! 下にはお母様がいるのよ!?」

「黙れエロ」

どうしてそういう展開になる? それに姉貴だって普段はオカンって呼んでるだろ。俺はそう言いたいところをぐっとガマン、そのまま姉貴の部屋に閉じ込める勢いで押していく。

「ちょ、ちょっとタイムー、自分で歩くからー」

「ホント?」

「っていうかもう私の部屋の前だよー」

「部屋の中に入れるまでが遠足だからな」

「中に入れるって……うわー、隆志が昼からエロエロだー」

「……いやいやいやいや」

それオメーだろ、俺はいたって普通だっての。
もう今日に入って何回目になるか判らないツッコミ。オカンといい姉貴といい、ウチの女衆は話していてとても疲れる。……まあ俺がいちいちツッコまければいいのだが。

「ちょっとお願い、マジでタイム」

「ん?」

声のトーンが微妙に変わり、マジ懇願な姉に俺の手が止まる。
どうしたというんだろう。

「ねえ隆志、ここで少し待ってくれる?」

「別にいいけど……?」

多少腑に落ちない……というか理解出来ていないながらも頷くと、姉貴はそのまま自分の部屋へ。しばらく待っていると部屋の中から「あったあった」という声が聞こえ、姉が戻ってくる。

「いやー、探した探した」

「俺もあんま人の事は言えんケド……掃除せえよ」

「黙れ小童」

「……うわ、毒舌復活」

まあそこまで言うという事は自分の部屋の汚さに自覚があり、痛い所を突かれたという事だろうか。それだけ姉貴の部屋は混沌としている。せめて入口付近の空ペットボトルゾーンを片付ければかなり変わってくるのだが……

「そろそろ掃除の周期だからいいの!」

「なあ姉貴、その掃除周期ってもっと早いサイクルにならねえの?」

確か姉貴の部屋掃除は1ヶ月に1回、その時ばかりは超が付くほどキレイに片付ける。姉貴は掃除の出来ない女ではなく、ただ単にやらないだけなのだ。
……やれるならやればいいのに。そんな忙しい身でもないだろ。

「う〜ん、前に3週間周期でいこうかなって思ったんだけど、それだと張り合いがないのよねー」

「はあ」

「溜め甲斐がないってカンジ? 見違えるようなビフォーアフターが楽しいのよ、掃除って」

「ふーん」

まったくもって理解出来ないが、とりあえず話だけは合わせる俺。
う〜ん、なんて特殊な人なんだろう、姉貴は。

「……何よその「う〜ん、特殊な人だなあ」みたいな目は」

「姉貴ってスゲーな」

俺はそう言って難なく読心術をやってのけた姉貴を素直に褒める。
当の本人は「ほへ?」とか言って何を褒められたのか判ってない様子だが、まあ別にいいか。

「……で、服も着替えず俺を待たせた理由は?」

「あ、そうそう。コレあげる」

姉貴は俺の問いに対しそう答え、手にしていたCDを突き出してくる。こういう物の渡し方は俺もオカンも姉貴も同じだなあ、と思う。特に何かをあげる時は大体こんな感じだ。

「ん、これって結構新しいヤツじゃね?」

「そうだよ、まだランキング入ってたと思う」

CDは最近よく見かけるようになってきたアーティストのシングル。俺はあまり好きではないが、姉貴のような若い女の人を中心に人気があるらしい。

「何? 買ったの?」

「うん。でもいいんだ、聞いてみたけどやっぱ好きになれなかった」

「そういや姉貴、この人あんま好きじゃないって言ってたもんな」

好きでもないアーティストのシングルを買ったという事は……カラオケの席で歌う曲として覚えた、とかかな?
俺はそんな邪推をしながらも、姉貴からシングルを受け取る。まあ俺もそんな聴かないとは思うが……

「あーあ、わざわざ覚えて歌ってやるほどの男じゃなかったなー」

「……なるほど」

はいはい、そういう事ですか。
今の一言で俺はこのシングルを買った経緯、そしてなぜ俺にくれる気になったかを理解する。
おそらくこのアーティストは姉貴の元カレ、本人曰くなかった事になっている男が好きだったのだろう。で、話の流れか何かで自分も好きだとか言ってしまい、買って聴くもイマイチ姉貴の感性に合わず、そうこうしている内に彼氏とも合わなくなった……。そして今、こうして俺にプレゼントという形で処分しようとしている、という訳だ。

「あ、何か色々判ったぞ、って顔してる」

「まあな」

「多分それ当たり。だから貰って。返品は受け付けません」

「はいはい」

「それでも一応割引券を貰った事に関しては感謝してるんだからね?」

「はいはい」

まあそれもあるだろうし、多少は感謝している事も本当だろう。
俺は姉貴の言葉に素直に頷き、ありがたくCDを頂戴する事に。
……う〜ん、これでノド飴がシングルCDに化けたのか。順調に単価がステップアップしてるな。


 5

「そろそろ来る頃だな……」

裸族な姉貴(あの後も少し喋ったが、結局服を着ようとはしなかった)と別れ、俺は部屋で1人、後輩の到着を待っていた。

――チャララ

「お、着いたか」

一瞬だけ鳴る携帯。俺はテーブルの上に上がっていたそれを掴むと、そのまま部屋を後にし、階段を駆け下りて玄関へ。するとそこにはボーズ頭が2つの意味で眩しい後輩の姿があった。
う〜ん、部活やってますって感じだなあ。輝いてるなあ。

「ちっす」

「おつかれっす!」

運動部らしい挨拶、そしてキビキビとした動きで頭を下げる後輩。
若い、若いなー

「まあ上げれよ」

「あ、はい。お邪魔します!」

用事自体は玄関でも済ませれるし、30秒とかからないようなものだが、それでは素っ気なさ過ぎる。それに一応部屋も片付けたし。
てな訳で俺は後輩に家に上がるよう言い、そのまま自室に招き入れる。

――ガチャ

「ま、適当に座ってくれ」

「はい」

後輩はそう返事をするとテーブルの脇にちょこんと座る。一瞬正座にするべきか迷った辺り、コイツは本当に律儀なヤツだなと思う。

「……で、どうだった? 少しは役立ったか?」

「ええ、そりゃあもう! 先輩の時と同じ教科担任っすからね、このノートのまま授業してますよ」

「はははは」

「あとこっちの参考書もスゲー助かりました。これで苦手科目が1つ減りましたよ」

「ん、それは何より」

俺は後輩の感謝の言葉に対し、先輩らしい態度と言葉で受け答え。そして彼が目指してる大学に通う人間として、これからも頼ってくれていいのだよ的なオーラを発する。

「これ、どうもありがとうございました」

「いえいえ」

貸した時は裸で渡したが、何かいい袋に入って返って来たノートと参考書。要はそれだけ役立ったという事なのだろう。何より何より。

「……ん? 何かカバンに色々入ってるな。もしかしてこれから勉強?」

「あ、はい。ちょっと調べ物もあるんで図書館に行こうかな、と」

「ふーん、頑張るなあ」

「そ、そんな……。自分あんま頭よくないっスから」

チラリと覗いた後輩のカバンの中にはペンケースと大量のノートが入っていた。それを見た俺は普通に感心、早くも受験に向けて動き出している後輩に目を細める。

「おいおい、そういう発言はマイナスだぞ。……大丈夫だって、まだまだ時間はある。きっと受かるって」

「あ、ありがとうございます……」

「それにまだ部の方も現役だろ? 最後の大会までは部活優先でいいんじゃねえの?」

「そうっスかねえ」

「今年はどうなんだ? 県大会まで行けそうか?」

「うーん、それが難しいトコなんですよねー」

「どした? 強力な新人が入ったとか言ってたじゃねえか」

「いや、それがっすね……」

と、こうしてしばらく部活トークに花が咲く俺と後輩。
俺もまだ引退して2年、顧問も変わってないし、練習メニューも俺たちの頃のまま……となれば話は嫌でも盛り上がる。特に顧問の悪口、女子部との仲の悪さなんかの話は鉄板トークと言ってもいいだろう。


 6

「ん、結構喋っちまったな」

「そうですね」

後輩を部屋に招いて40分近くが経過、俺は「これから図書館で勉強」という彼の言葉を思い出し、この辺でお開きにしようと立ち上がる。

「悪いな、何か話に付き合ってもらって」

「いや、そんな事ないっすよ」

「……どうだ? またノートとか持ってくか?」

「あ、そうですね……」

後輩の反応に俺は机に向かい、今日返って来たノートを探した時に一緒に出てきた他の学参なんかを手に取る。

……ガシャ

「おっと」

その時だった。さっき姉貴から貰い受け、机の隅に置いていたCDが床に落ちてしまう。うわ、中身が出てきちまった。

「あ……」

落ちたCDを見て声を上げる後輩。見た感じかなり興味を惹かれている様子。このアーティストが好きなのだろうか?

「何? もしかして好き?」

「は、はい……。このシングルはまだ持ってないんすけど、かなり好きです」

「ふーん。じゃあ持っていっていいよ」

「貸してくれるんスか?」

「ううん、あげる」

「ええっ!?」

マジっすか? このシングルまだ新しいっスよ? 先輩も好きだから買ったんじゃないスか?
そんな感じで俺を見てくる後輩。まあ確かに部屋にあれば好きだとも思うよな。

「あー、いいんだ。俺はそんな好きじゃねえし。っていうか貰いもんだし」

「いや、でも……」

いくら先輩からでもタダでは貰えないっスよ……。後輩はそう言いたげな顔になり、何か急に焦り出す&悩み始める。

「エンリョなんかすんなって」

「だって悪いっすよ……」

そう言って後輩はズボンのポケットに手をあて、続いてカバンの中を物色。どうやら何かお礼の品になる物はないか探しているようだった。

「おいおい、何もいらねえっての。こっちはバイトして少しは金持ってんだから」

「そういう訳にはいかな……あ」

と、ここでふいに言葉が途切れる後輩。何か発見したのだろうか?

「あの、先輩……?」

「どした?」

おずおず、という言葉がぴったり、それ以上に今の彼の状態を表現する言葉はないであろう反応を見せる後輩。一体どうしたというのだろう。

「ノートっていります?」

「は?」

ノート? 俺が貸したヤツの事か? いやいやいや。
俺は後輩のいきなりな質問にその意図が汲めず、思わず聞き返してしまう。

「いや、実はですね、先輩から借りたノートを写そうと俺もノートを買ったんすけど、10冊入りのお徳用にしたんすよ」

「ああ、売ってるわな」

「たくさん書き込んだりするだろうと思って大量に買ったんすけど、何か数冊で間に合っちゃって……。だからこのカバンに入ってるノート、実はそんなにいらなかったりする訳でして……」

「はいはい、なるほどな」

これでようやく彼の意図するものが掴めた。そういう事か。

「うーん、ノートか。まあ持ってて困るもんじゃねえよな。でも受験生のお前の方が使うんじゃね?」

「あ、いや、実は家に親が買ってきたノートもあるんスよ。それもこれと同じ10冊入りのヤツが」

「はははは、被っちまったんか」

「ええ、そうです。だから……」

「わかった。そういう事ならありがたく貰うよ」

俺はそう言って後輩が差し出してきたノートを頂戴する事に。
1冊だとそれほど重さを感じないノートだが、まとめて手にするとなると結構な重量感があった。数えてみると計7冊あった。

シングルCDがノート7冊に。これはランクアップになる……のか? 非常に微妙なところだが、まあ何にせよこれでまた品が変わった事になる。

このままノートの冊数が増え続けたらそれはそれで面白いよな。
そんな事を考えながら俺は後輩を玄関まで見送り、1人になったところでこれから何をするかを考える。
はてさて、どうしたものか……


 7

――バタン

俺は片手にノート7冊、片手に車のカギ、という状態でドアを閉め、ロックをかけたところでダラダラと歩き出す。休みとはいえ、ふらっと立ち寄るだけであって働きはしないのだが、それでもこの従業員入口を見ると微妙な気分になる。

「……うわ、何か今日は荷物多いな」

従業員入口のすぐ隣、商品搬入通路を見て一言呟く。そこには本当にこれ全部倉庫に収まるの? という量の段ボールが山のように積まれていた。

「よかった、休みで」

心からそう思う俺。そしてやる事がなくて退屈、というのがどれだけ贅沢な事かを再認識する。

……後輩と別れてから1時間弱、俺はバイト先に遊びに来ていた。
用事は彼から貰ったノート、これを俺が考える限り最大限に有効活用するべく来た、というのが1つ目の理由。この他にもう完成しているであろう来週以降のシフトを貰いに行く、という理由もあった。


――1時間前、自宅玄関先。

「お邪魔しました。あとCD、ありがとうございました」

「ん、まあ俺の分まで聴いてくれ」

「はいっ」

そう言って大きく頷く後輩。思いがけないCDゲットが相当に嬉しいのだろう。
ここまで喜んでくれるとあげた甲斐があったというものだ。

「そんじゃま、近いうちにまた遊びに来いよ」

「わかりました」

靴を履き終え、すっと立ち上がった後輩はそう言い、玄関のドアに手を伸ばす。
……が、そこで急に動きを止め、代わりにこっちを振り返る。その顔は何かを思い出した、もしくは何かを思い付いたように見えた。

「どした? 忘れ物か?」

「いえ、違います。……ええっとですね」

「?」

「先輩、来月の一番初めの日曜って空いてます?」

「来月の……って事は2週間、いや3週間後か」

「はい」

「う〜ん、まだバイトのシフトを見てないから何とも言えないなあ」

「あ、そうなんですか……」

残念だな、という顔を見せる後輩。何かイベントでもあるのだろうか?

「その日がどうかしたのか?」

「はい、実は去年の全権覇者と練習試合があるんです」

「え、マジ? すげーじゃん。あの顧問にそんな行動力あったっけ?」

「ある訳ないじゃないですか。今回はあっちから申し込みがあったんです。何か本大会前に全県の学校と練習試合を組む気みたいっすよ」

「へー、さすが全県覇者、抜かりはないな」

まあそういう理由でもないとウチの学校がわざわざ練習試合を申し込まれるなんて事はないか。俺はそう思い、スポーツに力を入れている学校と「楽しめればいいや」でやってる学校の差を実感。……ちなみに言わなくても判ると思うが、ウチの学校はバリバリ後者である。

「そうですね。……で、まあ勝てないとは思うんすけど、出来れば先輩に応援に来て欲しいな、と思いまして」

「はいはい、そういう事か。じゃあバイトが休みなら行くよ」

「本当っすか? ありがとうございます!」

「やるのはウチの学校か?」

「はい、11時に試合開始です」

「オッケー、わかった。……よーし、それじゃあ今日にでもシフト確認してくるか」

時間はまだ午前中、どうせやる事もないし、早めにシフトが判ればそれだけ早く後輩に応援に行けるかどうかを伝えれる。
俺はそう考え、後輩を見送った後にバイト先に行こうと決めた。

……そして今、ノートをとある人物に渡すという理由も加わった俺はこうして職場であるスーパーに来ていた。

「うっわ、通路まで荷物で溢れてんじゃん」

俺のバイト内容は商品を搬入口から倉庫に運び、さらに売場に補充するというもの。多少の体力はいるがヒマな時は喋っていいという気軽さ、そしてまあまあ高いと言ってもいい時給が貰える事もあり、俺は部活を引退した直後からここでバイトをしていた。

「ええっと……あ、いたいた」

通路を進み、事務所の窓を覗き込む俺。するとそこにはお目当ての人物、ノートを渡そうと考えていた社員さんの姿が。
よかった、これで休みとかでいなかったらノート渡せないもんな。

――ギィィ

「お疲れ様でーす」

「あら、隆志君? 今日はお休みじゃなかったっけ?」

「休みっすよ。シフト確認に来ました」

「ふーん、珍しいわね。お休みの日にわざわざ来るなんて」

そう言って持っていたペンを止め、書類を書く手を休める社員の藤崎さん。この店の事務経理を任され、「この店唯一の良心」とバイト&パートさんに言われている人物だ。かなりの美人だが独身、その昔副店長を始め、数人の社員がアタックをかけたが見事に全員玉砕、という事があったらしい。ちなみに「どうして結婚しないのか?」という問いはしていけない事になっている。あと「胸でかいっすね」も禁句。毎日チカンとの戦いに明け暮れ、嫌になっているらしい。

「まあ……色々とありまして」

「そうなんだ。確かシフトはもう出来てるはずだから、コピーして持って行きなさい」

「はい、わかりました。……あ、あとそれからですね」

「?」

ここで俺は持っていた大量のノートを藤崎さんに見せ、机の上にドンと置く。

「……これは?」

「あげます。使ってください」

俺はそう言うと、事務所の入口付近に移動。そして隅にパンチで穴を開けて紐を通し、壁にかけられているノートを取り、また藤崎さんの机に戻ってくる。

「スタッフ連絡ノート、もうラストのページですから」

「あ、そうだったの?」

「それから藤崎さんの使う発注管理ノート、あれもなくなりそうだって言ってましたよね。さらにストックもないとか」

「え、ええ。そうなのよ」

ウチはそれなりに大きなスーパーのくせに文具類を一切置いていない。以前は扱っていたらしいのだが、近くの中学の生徒が大量に万引きをした事があり、それ以降売場を撤去。代わりに別の商品を置く事になったらしい。
そのため、事務用品やバイトが使うメモ帳やペンも自店で調達する事が出来ず、わざわざどこかで買う必要があった。

「でもどうしたの、こんなたくさんのノート?」

「貰いものなんですよ。実はさっき、真面目で律儀な後輩が来まして……」

と、こうして俺は藤崎さんに大量のノートを手に入れた経緯をドラックストアのノド飴のくだりから話し始める。
そして説明が終わる頃には笑顔になり、「ありがたく使わせてもらうわ」と言ってノートを受け取ってくれた。

「でも悪いわねえ」

「いやいや、気にしないで下さいよ」

「ううん、そうじゃなくて」

「はい?」

「や、勿論ノートを貰った事に対しても感謝と共に悪いなって気持ちもあるの。でもね、それより私でそのランクアップを止めてしまうのが申し訳ないなって」

そう言って藤崎さんは唇に指を当て、「んー」と考え込む。とても色っぽい仕草だな、と思った。

「私も何か隆志君にあげたいんだけど……」

「や、だからいいですって。俺だって別に物々交換をするつもりはなかったんですから」

「んー、でもねー。やっぱり何かお返しはしたいのよー」

……こりゃ経緯を最初から話さない方がよかったな。
そうだよ、あの話を聞かされたら誰だってお返ししないと、って考えるよな。
ああ、俺のバカ。何を軽率な事してるんだ……

ガチャ

机の引き出しを開け、さらには自分のカバンまで取り出して「んー、ないなあ」と言っている藤崎さんを見てオロオロしている時だった。勢いよくドアが開き、スタッフジャンパーを着た大男が事務所に入ってくる。

「お、なんだお前、今日は休みだろ」

「店長……」

俺をお前呼ばわりし、軽く睨みを効かせてきた(本人にその意思はないのだが、そう見えてしまう)のはウチの店長。一度に瓶ビールのケースを6箱運べるモンスター……じゃなくて頼れる御仁だ。

「お疲れ様です」

「あ? 疲れてねーよ」

「……いい加減その返し、やめてくださいよ。挨拶なんですから」

例え相手が素手でツナ缶を握り潰せるクリーチャー……じゃなくて少々荒っぽい御仁であっても、俺のツッコミ気質は変わらずそのまま。いつもの冷静な口調でそうツッコミを入れる。

「はっ、知らんわ。……で、何しに来やがった? 藤崎でも口説きに来たか?」

「出来たら是非とも挑戦したいところなんですけどね。俺には無理っすよ」

「賢明な判断じゃねえか。……でもな、その若さで無理とか言ってるんじゃねえよ。ガキ孕ますくらいの勢いで突撃しろってんだ」

「捕まりますから。間違いなく臭いメシ食わされますから」

「ガハハハハハ」

「もう、店長ったら……。それに隆志君まで……」

「あ、すいません」

ぷりぷりと怒り出す藤崎さんを見て、慌てて平謝りの俺。一方の店長はと言うと、我関せずの顔でボディビルのポーズを取っている。……あ、またジャンパー吹き飛んだ。

「店長も言いすぎです。それにバイトさんでもちゃんと名前で呼んであげてください。レジの女の子がまた泣いちゃいますよ?」

「わかったわかった、メス相手には気をつけるよ」

「メス呼ばわりっすか……」

やっぱこの人スゲー。真似したくねえしする気もねえけどスゲー。色んな意味でスゲー。そしてヤベー。
俺はこのノリで「じゃあオス相手ではどうするんですか?」とおふざけで聞こうとしたが、大体の答えは予想出来たのでヤメ。どうせ人間扱いしないに決まってる。コメツキバッタくらいにしか見てないに違いない。

「てんちょう〜? いい加減にしてくださいよ、隆志君はわざわざ店のためにノートを持って来てくれたんですからね」

「ん、ノート?」

「スタッフ連絡ノートがなくなりそうだからって……ほら、こんなに」

俺が持って来たノートを店長に向かって「どうだ!」と言わんばかりに見せる藤崎さん。マズイって、そんな事したら手刀で真っ二つにされるって。B5のノートがB6になるって。

「おお、そいつはありがてえ。何だオメー、いいとこあるじゃねえか」

「いえいえ、そんな……」

「お、いっちょまえに謙遜か? クソ小生意気な!」

クソ小生意気……。そこまで言いますか貴方は。
しかも俺、別に謙遜しようとした訳じゃねえし。

「よーし、それじゃあテメーにはノートの礼をしねえといけねえな」

「いや、あ、その……」

そんな、いいですよ、と言いかけたところで言葉が詰まる。今さっき謙遜するなと言われた手前、ここでそんなセリフを吐こうものなら何をされるか判ったものではない。
しかしここで「あざーす」とか言って何かを乞うように両手を出すのもどうかと思う俺。そんな事したら両手を掴まれて投げられるかもしれない。もしくは切断されるか。

「ああ? 何だハッキリしねえヤツだな」

「まあどっちに転んでもいちゃもんは付けれますからね。そりゃ考え込みますよ」

……それに自分の命もかかってますからね、と心の中で付け加え、俺は恐る恐る世紀末覇王……じゃなくて店長の出方を見る。

「ちっ、これだから頭の回るヤツは嫌いなんだよ」

「すいませんね」

……勝った。俺は店長の反応からそう考え、ホッと安堵の息を吐く。
だがそれは一瞬の事でしかなく、北の独裁者もビックリなこの御仁がいい負けたままで終わる訳もなく、そして最終的に理屈なんか関係ない訳で……

「よし、じゃあオメーには俺から「タダ働きさせられても訴えられない権」をくれてやらあ」

「……へ?」

「オメーも見て来たと思うが、今日は入荷が多くてな。そのくせバイトが使えねえチンカスばっかで全然倉庫が片付かねえ」

「はあ……」

何だ、スゲー嫌な予感がしてきたぞ。
っていうかもう抜け出せない逃げ出せない状況に陥っているような……

「そこでだ。他のチンカス共に比べれば仕事の出来るオメーには通路の荷物を倉庫に運ぶ仕事を与えてやる。いいな?」

「……いい訳ないじゃないですかこの脳内筋肉、って言ったら?」

「まあ明日売場に出すウインナーの材料になるだろうな」

「あー、それは勘弁です」

「じゃあやるしかねえな」

「そうなりますねえ」

羽織っていたジャンパーはさっき筋肉で破り捨て、上半身裸で胸をピクピク動かしながら俺の目の前で凄みを利かせる店長。しかし俺も気負いする事なく不敵な笑みを浮かべ、決して怯えた素振りは見せない。

「すごいわね隆志君。その状態でまだ店長と対等に話せる子は初めてよ?」

「まあ……退いたら負けですからね」

横で見ていた藤崎さんが半分感心、半分呆れ顔で俺に言葉をかける。……これは少しは褒められているのだろうか? それともバカだと思われているのか?

「ガッハハ、言うじゃねえか小僧」

バッチーン!

「……うっ」

大笑いしながら俺の背中をパーで叩く店長。この人間凶器にしてみれば軽いスキンシップのつもりなんだろうが、一般人が食らうとほぼ呼吸困難になるだろう。っていうか小学生は死ぬね。

「ま、そういう訳なんで通路空けとけよ小僧」

「……わ、わかりまし……た……」

ボロボロになりながらも何とか言葉を返し、完全に強制的にではあるが店長の命に頷く。きっと今服を脱ぐと俺の背中には赤いもみじが(いや、大きさ的にはヤツデか)出来ているに違いない。もしかしたら数本くらい骨がやられてるかも。

「大丈夫、隆志君?」

「ええ、生きてはいます」

「……もう、店長ったら加減ってものを知らないんだから」

と、藤崎さんは俺の背中を優しくさすりながらそう言い、事務所の入口の方を見る。すでに店長はここに出て行き、残ったのは2人だけ。美人の年上お姉さんに介抱されている、というシュチュエーションは非常に嬉しいのだが、いつ何時あの人間核弾頭……じゃなくて店長が戻ってくるか判らない。
俺は何とか1人で立ち上がり、ヨタヨタした足取りではあるが倉庫と搬入口を繋ぐ通路に向かい歩いていく。

「無理しちゃだめよ?」

「はい」

「夜になっても痛みが引かないようなら病院に行くのよ?」

「わかりました」

「あと……気を付けてね。荷物運びに集中して背後からの気配に気付かない、とかいうのが一番危険だから」

「ええ、その辺は俺も十分に注意しますよ」

まだ心配そうな表情の藤崎さんに対し、俺は笑顔を浮かべて無事をアピール。そのまま事務所を立ち去り、強制&無償労働へと向かう。
……が、その前に俺はくるりと振り向き、藤崎さんに話しかける。

「……それにしても藤崎さん」

「なあに?」

「今の会話、スーパーの倉庫で荷物整理する人間のやり取りじゃないですよね」

「……そうね」

クスッと笑い、藤崎さんはここでようやく少し安心した素振りを見せる。
本当に優しいんだな、と思う俺。

「……でも」

事務所を後にし、通路に出たところでポツリと呟く。
……実は藤崎さんも怒ると怖い事を俺は知っている。店長の持っている怖さとはまた別の毛色、違う系統の恐怖が怒った藤崎さんにはある。
これは俺も実際にその場面を見たのだが、以前ウチの店にコソドロが入り、事務所の金庫から売り上げを盗まれそうになった事がある。その時コソドロを最初に見つけた人物が藤崎さんだったのだが、自分が絶対の自信と誇りを持って管理している金銭が盗られそうになっているのを見て激昂。凄まじい闘気をまとってコソドロの前に立ち、罵倒する叫び声と共に殴る蹴るの猛ラッシュ。最終的に店長が止めに入る、という事があった。

「……で、ついたあだ名が「金庫守の戦女神」と」

誰が言い出した事か忘れたが、このネーミングセンスはなかなかいいと俺は思っている。まああだ名と言うよりは影のコードネーム、本人のいない場限定の呼び方ではあるが、コソドロ事件から結構な時間が経った今でもそう呼ばれているという事は、みんなこの呼び方が的確だと思っているのだろう。

「そう考えるとこの職場、すごいメンツだよな……」

店長はあんなだし、藤崎さんも秘めたる戦闘能力はかなりのもの。
そんな超人クラスが2人もいて、しかも両者共に普通に働いているスーパー……
この世というのは本当に不思議なものだな、俺はそんな事を考えながらその超人の一方、店長に命じられた仕事に取り掛かる。
そうやら今まで順調に続いていたランクアップ物々交換はここで終わりそうだった。


 8

――20分後。

「ふう、これでまあオッケーだろ」

俺は額の汗を拭きながらそう言うと、後ろを振り返る。そこには1本の道が完成しており、外の搬入口から倉庫まで真っ直ぐ伸びていた。
勿論これは俺が荷物意整理をした結果生まれたスペース。我ながらよく頑張ったと思う。

「さて、一応事務所に顔出して挨拶して帰るか」

しかしノートを渡して新しいシフトをコピーするためだけに来たと言うのに、えらい時間を食ってしまった。時計を見ると正午を少し回っている。それを見た俺は途端に腹が減り、店を出たらまずどこかで昼食を取ろうと考える。

――ガチャ

「おわりましたー」

「お疲れ様」

事務所にいたのは出て行った時と同じく藤崎さん1人。
……ちょうどよかった。鬼のいぬ間に何とやら、俺はこの隙にさっさと店を後にしようと藤崎さんに別れを告げようとする。

「そんじゃま帰りま――」

「あー、ちょっと待って」

と、藤崎さんはそう言ってすでに帰る気マンマンの俺を止め、電話に手を伸ばす。そしてどこかに内線を繋ぎ、何か短い会話を交わして受話器を置いた。

「3……2……1……」

「?」

今度は急にカウントダウンを始める藤崎さん。さっきから全然意図が掴めない。俺は首を傾げながらカウントがゼロになるのを待つ。
すると次の瞬間、藤崎さんが「はい、到着」と呟いた時だった。

ガチャアッ!!

凄まじい勢いで事務所のドアが開く。その音は「え? ドアってこんな音が鳴るの?」というレベル。というかドアの開閉で部屋中の空気が揺れるってどういう事だ。

「よう、お疲れ」

「……まあ、やっぱ店長しかいないよな」

入口に立っていたのは新しいフタッフジャンパーに身を包んだ店長、さっきの空気の揺れは彼がドアを開いた時に巻き起こした風だった。

「通路、見てきたぞ。まあまあじゃねえか」

「そらどうも」

そう言って俺は頭を軽く下げ、顔を上げると同時に店長の観察に入る。
何やら手に段ボールを1つ持ってるみたいだけど……?

「ほれ、駄賃だ」

ブンッ……

「うわっと」

バシッ!

いきなり段ボールを俺に向かって投げてくる店長。慌てながらも何とかそれをキャッチした俺はそれが中身の入っている段ンボールである事、未開封である事を確認した上で店長に話しかける。

「どうしたんですかコレ? バリバリ売り物じゃないですか」

「バカヤロ、箱の底をよく見ろ。思いっきりへこんでるだろ」

「ん? ……あ、ほんとだ」

確かによく見ると箱の底が一箇所、ぐにゃりと曲がっていた。

「ったく、あのクソバイトが……」

「誰かが落としたんですか?」

「ああ、それも客の前で豪快にな」

「それはダメっすねえ」

……なるほどな。俺は店長の話を聞いた後、持っていた箱を軽く左右に揺すって音を確認。箱全体からサラサラ……という音が鳴り、大きく息を吐く。
この段ボールに入っていた商品はステックタイプのチョコレート菓子、しかし落とした衝撃で中身が結構折れてしまい、まるで波の音を出す装置のようになっていた。これではさすがに店には並べれない。

「つー事でそれはお前にくれてやる。ありがたく思え」

「はあ……」

このチョコ菓子は1個88円、それが20個入ってるから……買えば結構な額になるな。俺はまず商品の総金額を算出し、次にその額をさっきまでやっていた通路整理の時間で割り、時給に換算する。……実にいい金額が出た。

「でもいいんすか? 一応メーカ返品も効く……」

「うっせえ。オメーはありがたくそれをもらってボリボリ食ってればいいんだよ」

「はいはい、わっかりました」

ここは素直に店長の好意(?)に甘え、ありがたく貰っておこう。
俺は自分の命が大事なので、まだ五体満足で楽しく生きていたいので、投げ付けられたチョコの箱を抱えながら頭を下げる。

「それじゃあ黙ってボリボリ食わさせてもらいます」

「ああ、そうしとけ」

店長はそう言うと俺に向かって「さっさと帰れ」と言わんばかりに手をパッパッと振る。まるで野良犬扱いだが、まあ生物として見てくれてるだけマシか。
俺はそう思いつつ、これ以上ここにいるとまた何を命じられるか判らないため、藤崎さんへの挨拶もそこそこに店を出る。こっちの事情を察してくれたのか、藤崎さんは笑顔で軽く手を振って見送ってくれたのが少し嬉しかった。ありがたやありがたや。


 9

「……さて、これからどうするかな?」

店を出た俺は駐車場に向かいながら次なる予定を考える。
両手にはチョコの箱、まずはこれを家に置いてから……いや、積んだままでもいいか。でもなあ、車の中に置いていて熱で溶けたら悲惨だよなあ。

「……ふむ」

運転席のドアの前で立ち止まり、空を見上げる俺。とてもいい天気だった。
この陽気で日向に車を停めておくと、おそらくすぐに温室化するだろう。そこに大量のチョコ菓子はマズイ。一回溶けて固まると味が半減する。見た目も悪くなるし。

「しかし腹減ったな……」

と、ここで俺は1つ息を吐き、店に入った時の比ではない空腹っぷりに自分の腹を手でさする。ぐるるる……といつ鳴ってもおかしくない状況だった。

う〜ん、どこかに食べに行くか、それとも買いメシで済ませるか。
それとも……

「一応食料はゲットした訳だしな」

そう言って目の前の段ボールに目を向ける俺。そこには量的には問題なしだが、カロリー的には問題アリのお菓子が。……いや、他にも問題はあるか。メシがチョコって。

「……うん、帰るか」

確か台所の戸棚にカップメンが残ってたはず。それにご飯を付ければ十分な食事、立派なラーメンライスの出来上がりだ。休日に1人寂しく混んでるメシ屋に行くより、家で食ったほうが安上がりだし何より早く出来る。

散々待たされてイライラ、よりはいいよな。
そう思い、家に帰ってメシを食う事に決定。俺は車のドアを開け、助手席に段ボールを放り込もうとするのだが……

「ん?」

ちょうど車内に入り込もうとした時だった。助手席側の窓に何かが映り、サッと消えるのを見つける俺。
黒くて丸みをおびたそれは子供の頭。やや低めの車高にも関わらず、髪の部分しか見えないという事はかなり小さな子供と思われる。

……何だ、近所のガキが遊んでるのか?

このまま車を発進させて死角にいる子供を轢いたら大変だ。俺はチョコの箱を助手席に置き、もう一度外に出て車の周囲を確認。すると後輪付近にしゃがんでいる子供が1人、何かから隠れるようコソコソ動いているのが見えた。

「……」

ったく、遊ぶならすぐそこの公園で遊べよな……
俺はそう思いながらも、自分も子供の頃は遊ぶと怒られる場所で遊んでいたため、優しく注意しようと子供に近付く。

「……よ、かくれんぼか?」

「っ!?」

本人は完全に気配を消していたつもりなのだろう。俺が話しかけると子供はビクッと身体を震わせ、驚いたように俺を見る。……よかった、怯えてはいないようだ。

「外で遊ぶのはいいけど、駐車場はちょっと危ねえな」

「に、にいちゃん誰だよ!?」

「ん? 俺か? この車の持ち主。……感謝しろよ、俺が気付かなきゃタイヤに巻き込まれてたぞ?」

「……」

子供は俺の問いかけに対し、すぐには返事をせずにじいっとこちらの目を見てくる。そして俺と車を何回か交互に見た後、ようやく申し訳なさそうな顔を浮かべながら口を開く。

「ご、ごめん……」

「へえ、意外と素直」

何か言い返されるかもしれないと思っていたが、返って来たのは普通に謝罪の言葉。今時のガキんちょにしては礼儀を知っているヤツなのかもしれない。

「……あ、あのさ」

「ん? どした?」

「ごめん、もうちょっとだけここで隠れさせて。お願いっ」

そう言って周囲を気にしつつ懇願してくる子供。まあ遊びの最中だろうが、子供にしてみれば真剣なのだろう。その気持ちはわからないでもない。

「かくれんぼか?」

「ううん、カンケリ」

「ああ、なるほどな」

かくれんぼならもっと見つかりにくい場所を選ぶもんな。
俺は一方からは完全に死角なれど、別角度からだと丸見えな場所にいる子供を見て納得。確かにこの隠れ方と気の張り方は缶蹴りだな。

「……おっと、じゃあ俺も隠れないとな」

「え……?」

いくらこのガキが見えないように隠れても、俺がいる事で鬼にバレる可能性もある。そう思い、俺はガキに合わせてしゃがみこみ、目線と立場を同じ高さにして再び話しかける。

「缶の場所は?」

「そ、そこの家の庭……」

「ふ〜ん。……で、鬼は1人?」

「う、うん」

いくらフレンドリーな口調でも、いきなりの事なので緊張気味に返答してくる子供。う〜ん、何て純粋。最近のガキにしては珍しいんじゃね?

「全員で何人いるんだ?」

「6人……」

「そか。……じゃあこれが終わったらルール変更、この駐車場に入るのナシな」

ん、結構多いな。そんな人数でこの辺を走り回られる&隠れられると危ないなんてもんじゃない。俺はそう思い、駐車場を遊戯エリアから外すよう言うのだが、やはりというか何というか子供は不満顔。

「えー、そしたら隠れるトコがなくなっちゃうよー」

「いやいや、そんな事ねえだろ」

「そんな事あるよー」

わかってないな、あこの兄ちゃんは……的な目で俺を見てくるガキんちょ。
やれやれ、ここは1つカンケリマスターと呼ばれた俺が軽くレクチャーしてやらないと判らないようだな。

「んー、そうだな……。例えばホラ、そこの電柱の脇に看板があるだろ?」

「う、うん」

「そこに隠れてだな、一旦わざと見つかるんだ」

「……?」

「でもな、ただ普通に見つかるんじゃない。全力で走る準備をしておくんだ。……で、鬼が「見つけた」って言ったと同時にダッシュ!」

「……!!」

「走る準備をして缶に向かって一直線なヤツと、覗き込むようにしてる体制から振り向いてダッシュしないといけないヤツ、どっちが早い?」

「そっかー、スゲー!」

盲点だったのだろう、子供は目を輝かせている。きっと脳内で俺の説明した画を展開し、見事缶を蹴る事に成功した自分の姿を思い描いているのだろう。

「それにあそこから缶までは道路を横切る必要もないからな。コケない限りケガする事はない」

「(コクコク)」

無言で首を縦に振りまくるガキんちょ。早くそれを実践したくてたまらない様子だった。……う〜ん、やっぱ子供は缶蹴りとか外で遊んでナンボだなあ。

「あと他に隠れる場所としては……すべり台なんてどうだ?」

「すべり台?」

「おうよ。寝そべった状態で滑る場所に隠れるんだ。両手と両足で踏ん張れば結構落ちずにいられるだろ?」

「うん」

「で、鬼が他のヤツを探しに動き出すのを隠れて見てて、缶との距離が鬼より近くなったら一気に滑り降りて缶を蹴りに行く!」

「おおー」

感嘆の声を上げ、子供は「その手があったか!」と言わんばかりの顔で公園にあるすべり台に目を向ける。見つかる可能性はちょっと高いが、鬼がいきなりすべり台から探す事はないだろうし、周囲に人が隠れそうな場所もないため、意外と死角になるような気がする。

「ま、これは少し賭けになるけどな。例え見つかっても鬼は驚くぞー」

「(コクコクコク)」

さっきよりも多く、そして早く頷きまくる子供。ワクワクしているのがよく判るリアクションだった。

「……な? 考えればまだ隠れる場所はたくさんあるんだ。だから駐車場はやめとけ。みんな大事な遊び仲間なんだろ? そいつらをケガさせたくねえだろ?」

「うん、わかった」

そう言ってガキんちょは俺の目を見つめ、「約束する」と言葉を付け加える。
真剣なその顔は純粋な子供特有の強い意思が見て取れた。

「偉いぞ、お前はいい子だな」

「えへへへ」

「よーし、それじゃあ看板作戦、やってみろ。俺もここで見ててやるから」

「うんっ!」

大きな返事と大きな頷き。子供は俺に向かってファイティングポーズを取ると、中腰体勢&忍び足で移動を開始。そして鬼が周囲にいないか常に気を張りつつ、10メートル程先にある電柱の陰まで無事辿り着く。

……よし、そこまで行けばもうほとんど勝ったようなもんだな。

俺はこっちに向かって小さくピースサインを送るガキんちょに手を振りながら、「いいからダッシュの構えに入っとけ」的な意味合いのゼスチャーを伝える。

「……ん、もしかしてアイツが鬼かな?」

電柱脇に隠れたガキんちょがダッシュの体勢に入った直後、俺は公園のある方向から1人の少年がこっちに歩いてきているのを見つける。
時折立ち止まっては周囲を見渡しているその様は間違いなく鬼の行動そのもの。隠れているガキんちょより2〜3歳は年上だろうか、鬼は慎重に隠れている他の子供を捜していた。

う〜ん、あのガキんちょにはちょっと荷の重い相手だな、コイツは。
ちょっとした動きや注目するポイントから、俺は鬼の少年の缶蹴り能力を把握。まあマスタークラスの俺にしてみれば全然大した事はないのだが……って、何様だよ俺は。

「……でも」

こういう慎重派な鬼であればあるほど、このダッシュ作戦は有効性を増す。
俺は経験上そう察し、ますますガキんちょの勝利を確信。躓いてコケるとか、靴が脱げるとかいうハプニングさえなければ缶を蹴れるに違いない。

「……」

次第に近付く鬼の少年、それを知ってか知らずか腰をグッと下ろし、いつスタートを切ってもいい姿勢を崩さないガキんちょ。それは缶蹴り好きとして思わず見入ってしまう光景だった。
そして次の瞬間、鬼の視線が電柱とその脇にある看板で止まり、そこへ向かって一直線に歩き出す。

ん、ターゲッティングしたな。

おそらく鬼の方からガキんちょは見えていないだろうが、何かを感じ取ったのだろう。鬼は完全に目標を定めた様子で電柱に近付き、あと数メートルというところで移動スピードを落とす。完全に忍び足になっていた。

……よし、あと2メートル、いや、1メートル近付いたら動き出していいぞ。

ああ、そういや見つかる前にこっちから「ワッ!」と大声を出して鬼を驚かせる作戦、教えてなかったな。
俺はそんな伝授ミス後悔をしつつも、視線は電柱を挟んで行なわれている駆け引きに集中。手に汗握る何とやらを存分に味わっていた。

……今だ、行けっ!

グッと握る拳。するとその動きに呼応するように隠れていたガキんちょがパッと姿を現し、そのまま公園に向かって猛ダッシュ。俺の目論見通り、鬼はそのガキんちょの行動に驚き、初動がかなり遅れていた。

よし、もらった!

俺はそう確信し、ガキんちょのウインディングランを見届けようとする。

……が。

「!!!!」

ごちん! という効果音が俺の脳内で鳴り響く。
それは俺が「これさえなければ勝ち確定」と思っていた「これさえなければ」に当たるもの。つまりガキんちょは急いで缶を蹴ろうと慌ててしまい、見事に転んでしまっていた。

「あーあ」

しかも派手にいったなあ。結構痛いんじゃねえか、アレは。
幸い、頭からアスファルトにダイブ、という最悪の転び方はしなかったものの、間違いなく腕と膝は擦りむいているだろう。もしかしたら結構血が出るかもしれない。

「……行くか」

こうなってしまったのも作戦を伝授した俺に責任がある。
そう思い、俺は車のカギも閉めずに走り出し、フェンスを飛び越えてガキんちょの元へと走り出した。


 10

「痛むか?」

「あ、にいちゃん……」

ガキんちょに駆け寄り、まず俺はケガの度合いを本人に聞き、同時に自分の目でも傷を探す。思った通り両膝が擦りむけ、うっすらではあるが血も出ていた。
腕の傷は右手だけ、おそらくとっさに顔を守ろうと伸ばしたのだろう。肘よりも手のひらを多く擦りむいていた。

「だ、大丈夫……?」

俺の背後から怯えたような声。振り向くと鬼の少年が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「頭は打ってないな?」

「う、うん」

「立てるか?」

「たぶん……」

そう言ってガキんちょは1人で立ち上がる。途中で少し顔を歪めたが、すっと普通に立てた事から見ても骨には異常がないように見えた。

「なあ、あそこの公園に水飲み場あるよな?」

「は、はい……」

突然の俺の質問に対し、驚きながらも何とか答える鬼の少年。缶蹴りの時はあれだけ慎重&冷静に動いていたのにまだアタフタしていた。意外と頼りないのかもしれない。

「よし、行くぞ。まずは傷口を洗わないと」

「そ、そうだね……わっ!?」

自分で歩こうとするガキんちょだったが、俺はその前にひょいと首元を掴み、そのまま両手で抱え上げる。

「このケガは俺のせいでもあるからな。……このくらいしないと」

「そんな、にいちゃんは悪くないよ」

「いいから黙っとけ」

「う……」

バツの悪そうな顔を浮かべ、そのまま黙りこくるガキんちょ。目に浮かべた涙は傷が痛み出してきたのか、それとも俺にきつく言われてヘコんでしまったのか……
もし後者だったら悪い事したな。

「そうだ、なあお前」

「は、はい?」

「他の隠れてるヤツらを探して「一旦中止だ」って言ってきてくれ」

「わ、わかりました」

「頼んだ。俺はこいつの手当てをしてる」

全くの初対面で命令するのもどうかと思うが、とりあえず俺は鬼の少年に缶蹴り中断を他のメンバーに伝えるよう頼み、ガキんちょを抱えたまま公園へ。
そして水道を見つけるなり蛇口を捻り、流水で血を洗い流す。

「うっ……」

「染みるか?」

「ちょっとだけ」

「そか。でも少しガマンしてくれ」

「うん」

「偉いぞ。泣かなかったし、ちゃんと立てたもんな」

「えへへ、まあね」

褒められて照れるガキんちょ。その仕草に不自然な点はなく、我慢している様子も見当たらない。
……よかった、手と膝以外痛みがある場所もなさそうだ。

「それにしてもさっきのは惜しかったな。転んでなければ確実に缶を蹴れたんだが……」

「うん、残念」

「1回やっちまったからな。さっきの子が鬼の時はもう使えねえな」

「そっかあ……」

「ま、俺が教えた事を応用すれば新しい隠れ場所を見つけれるって」

「ほんと?」

「それはオメエの頑張り次第だ。色々考えて缶を蹴りまくれ」

「うんっ」

ガキんちょはそう言って元気よく返事をするも、勢いが良すぎてバランスを大きく崩して俺の腕から落ちてしまう。抱きかかえられていた事を完全に忘れていたようだ。

「おいおい、大丈夫か?」

「うううう……」

あ〜あ、ビショビショじゃねえか。まったくもう……
俺は水しぶきを全身に浴びるガキんちょを見て苦笑い。っていうか俺もちょっと濡れてるんだけどな。

「……なあ、家は近所か?」

「うん、すぐそこ」

「そっか。じゃあ着替えて来い」

「そうする」

多少は暖かいとはいえ、さすがに濡れた服を着たまま外で遊ぶのには無理がある。俺はガキんちょの家が近い事を聞くと、すぐに着替えてくるよう言い、「ほら行け」的な感じで背中をポンと叩く。

「……」

いや、待てよ……
そうだ、そうだよ。

公園を出て自分の家に向かおうとしているガキんちょの背中を見ている時だった。
俺はふと思いついた事があり、慌ててガキんちょの元へと駆け寄る。

「おーい、ちょっとタンマ」

「?」

「なあ、チョコ好きか?」

「……へ?」

「チョコだよ、チョコ」

「す、好きだけど……?」

呼び止められた事も予想外だったろうが、それ以上にこの質問が予想外だったのだろう。だがガキんちょは頭上に「?」を浮かべ、首をかしげまくりながらも一応俺の問いに答える。……まあ完全にキョトンとはしているが。

「よし、じゃあ俺がプレゼントしてやろう」

「?」

「転んでも泣かなかったご褒美だ。……それにやっぱ俺にも責任あるしな、プレゼント兼お詫びの品だ」

「え、いいよう」

そこまでしてくれなくても……という困った顔を浮かべるガキんちょ。
いやいや、出来ればもらって欲しいんだって。なにしろ俺は箱単位でチョコ菓子を持ってるんだからな。

「あ、いたいた」

「おーい、大丈夫かー?」

「隣のオッサン、誰だ?」

ちょうどその時、道路の向こうから子供の声が聞こえてくる。
見るとさっきもいた鬼の少年の他、5人の子供の姿があった。年齢はバラバラ、男の子もいれば女の子もいるのだが……俺はちょっとした違和感というか、何か微妙な感覚をこの5人の子供達に覚えていた。

「……」

「あれ? どしたの?」

「いや、別に」

ガキんちょに不思議そうな目で見られ、慌てて平然を装う俺。しかし心の中ではまだ何か腑に落ちない感がくすぶっていた。

「……ま、いいか」

それより面倒だ、コイツら全員にチョコを配るか。
俺は頭を切り替え、ケガをしたガキんちょに渡すついでにチョコをここにいる全員に渡す事にした。このくらいの歳の子供なら喜んで食ってくれるだろう。

「あ、あの、ありがとうございます」

「ん? ああ、気にすんな」

5人の中で一番年上っぽい男の子が俺にお礼を言ってくる。さすがは年長者、立派に年下の遊び仲間の保護者役になっている。

「そうだ、なあ鬼のキミ?」

「は、はい?」

「コイツの家、知ってるだろ?」

「え、ええ。そりゃあまあ……」

「だったら念のため一緒に付いて行ってやってくれ。傷口を水洗いしたら服まで濡れてさ、着替えないと寒いだろ」

「あ、はい」

相変らずちょっとビクビクした感じで受け答えをする鬼の子供。特にガキんちょの家を知ってるか聞いた時の反応が微妙だった。

「おっと、その前に……と」

「?」

その俺の言葉に5人全員が同時に「ん?」という表情になる。ビックリするくらいの同じタイミングに思わず笑いそうになった。この5人なら「ちょっと、ちょっと!」も上手く合わせられるかもしれない。

「お前ら全員にお菓子をプレゼントしてやろう」

「え……」

「おかしー!?」

突然のプレゼント提案に喜ぶ者、不安な顔を浮かべる者……
見ると前者の反応を見せたのが年少組、後者の反応を見せたのが年長者だった。
まあそんなもんだろうな。見た事ないヤツがいきなり「お菓子をやろう」とか言ってきたんだ、誘拐犯だと思われても仕方ないか。

「あー、別に俺は悪いヤツじゃねえぞ。実は俺、そこのスーパーでバイトしててさ。箱が潰れて売り物にならない菓子をたくさん貰って困ってたんだ」

「……」

「……」

まだ半信半疑の年長組、そんな事はどうでもいいから早くお菓子をくれよ、という顔の年少組。まあそんなもんだろうな。

「……で、どうするかなーって思ってたらコイツが俺の車の横に隠れててさ。それから缶蹴りの様子を見てて、転んでケガしたから手当てして、いい機会だからお菓子をって思ってるんだけど……どうかな?」

「そうですか……」

俺にお礼を言ってきた最年長と思われる少年が口を開く。小学5〜6年生くらいだろうか、色々考えている素振りが見て取れるところから察するに、なかなかに聡明な子供のようだった。

「ま、キミらが警戒するのもわかるよ。学校からも言われてるだろうからな」

「……」

「確かに最近は物騒だもんな。やっぱ俺がガキの頃とは違――」

「……もらおうよ」

俺の言葉を遮る声。それは隣に立っていた膝を擦りむいたガキんちょの声だった。

「このにいちゃんはいい人だよ。カンケリのコツも教えてくれたし、公園まで運んでくれたんだよ?」

「そ、そうかもしれないけどな……」

「なんだよ兄ちゃんも姉ちゃんも疑うような目で見て……」

……兄ちゃん? 姉ちゃん?

俺はガキんちょの言葉を聞いて思わず「ん?」という顔になる。
さっきまで俺の事を「にいちゃん」と呼んでいたため、最初は俺の事を言ってるのかとも思ったが話が見えてこない。どういう事だと思っていたら……

こいつら……全員兄弟か?

そんな仮定を抱き、俺は改めて6人の子供の顔を見る。確かに全員どことなくではあるが似ていた。
……なるほどな、さっき俺が感じた違和感はこのせいだったのか。

「ね、ねえ兄ちゃん、俺も悪い人じゃないと思うんだけど……」

と、ガキんちょの次に会った鬼の子供が一番上の兄に進言。やっぱり少しオドオドというか自信なさげな様子だったが、それでも擁護に回ってくれたのは嬉しい。

「お菓子食べたいー」

そう言って駄々をこね始めたのはチビ2人。歳は俺の隣にいるガキんちょの下だろう。小学一年、もしかしたら幼稚園の年長さんかもしれない。

「……」

「……」

顔を見合わせる年上2人。そして次の瞬間、一番上の兄と姉はコクリと頷き、俺の方を見る。そこにあった顔はさっきまでの警戒心に満ちた表情ではなく、純粋に自分達の弟を助けてくれた人へ向けられる感謝の意が見て取れた。

「あの、じゃあ下のチビ達がうるさいんで、もらってもいいですかね?」

「はははは、そうだな。これで泣かれたら面倒だもんな」

「すいません……」

「いいって、気にすんな。それよりお兄ちゃんお姉ちゃんは大変だなあ」

「そんな、もう慣れました」

「ふ〜ん、そっか。……よし、そんじゃま車に戻ってチョコ持ってくるわ。少し待っててくれるか?」

「はい」

「ええ」

「まつー」

「早くチョコちょーだい!」

最初の2つは年長者の返事、後の2つはチビっ子チームの返事(いや、催促か?)
俺はそんな4つの返事を受け、軽く笑顔を浮かべながら一旦駐車場へ。そして助手席からチョコの箱を取り出し、すぐに6人兄弟の元へと戻る。チビっ子2人は俺の抱えた箱を見るなり、早くも狂喜乱舞を始めていた。
う〜ん、子供って素直でいいなあ。


 11

「よーし、それじゃ渡すぞ。1人2コずつなー」

「やったー!」

「チョーコ、チョーコ♪」

段ボールを空け、中に入っていたチョコの箱を取り出すと、子供達は一斉に喚起の声を上げる。一部ではチョコレートコールまで巻き起こっていた。

「お、みんなエライな。言われなくても一列に並んでるなんてすごいじゃないか」

思わず感心の声を漏らす俺。6人の子供達は一列に、しかも年齢順に並んでいた。いくら兄弟とは言え、この整列っぷりは見事だ。ウチなんか姉貴と2人なのに、いつも押し合いしながら熾烈な先頭争いをしてたってのに。

「はやくチョコちょーだい!」

「ん、悪ぃ悪ぃ。……ほれ、一気に全部食うなよ」

一番前に並んだ幼女に急かされ、そう言って俺はチョコの箱を2つ手渡す。
落とさないようにしっかり持たせようとしたが、幼女は手に箱を持つなりバンザイ。危うく俺の顔面にパンチが当たりそうになったところを何とか交わし、俺は次の子供にチョコを渡す。

「ほら、食ったらちゃんと歯みがけよ?」

「ありがとー!」

一番下の幼女同様、喜びのあまり俺にパンチを繰り出しそうになる子供。元気があって大変よろしい。

「……よ」

「うん」

そして3人目は転んで膝を擦りむいたガキんちょ。俺は右手を上げてフランクに挨拶、ガキんちょもそれ合わせて手を上げる。

「悪いな、気分的にはオメーに4箱くらいあげたいんだけど、それをやるとチビっ子が何て言うかわからん」

「いいよ、2つで」

「そか」

聞き分けの言い子で助かった。俺はそう思いながらチョコの箱を2つ手渡し、ガキんちょの頭をくしゃくしゃと撫で回す。ガキんちょの膝と手のひらにはまだ生々しい傷があり、これからかさぶたになるであろう箇所が見て取れた。しかしガキんちょは泣く事もなく元気そのもの。それを見て俺は本当にホッとする。

……と、こうして6人の兄弟にチョコを渡していく俺。全員に配り終えると残りのチョコは2箱だった。
さて、どうするかな。ジャンケンで争奪戦をしてもいいんだが、それで揉められても困る。せっかく下のチビ2人もご満悦な顔してるんだ、それをブチ壊す必要はないよな。

「……よし、これは俺がもらっておくかな」

ま、元々俺のなんだし、菓子の類は嫌いじゃない。
そう思い、俺は残った2箱を段ボールの中に戻し、この不思議な縁で出会った6人の兄弟に別れを告げようとする。

「なあ長男」

「はい?」

「さっきこのガキんちょにも言ったんだが、駐車場で遊ぶのは危険だからもうやめとけ。あそこはトラックも出入りするからな。轢かれてからじゃ遅いだろ?」

「ええ、わかりました」

「お願いな」

俺は一番上のお兄ちゃんの肩をポンと叩き、チビ達に危険な目に遭わせないよう頼む。そして今度は兄弟全員に向かって俺から注意を促そうと6人を見渡す。

「いいか、外で遊ぶのはいいが――」

「あ、いたいた。みんなー、ごはんよー!」

と、俺が注意を始めた直後だった。遠くから女性の声で子供達を呼ぶ声が聞こえてくる。その声がした方向を見ると、俺と同い年くらいの女の子が1人、エプロン姿で手にはお玉と菜箸、という超家庭的(?)なスタイルで立っていた。

「わ、姉ちゃんだ」

「そっか、もうそんな時間だったんだ」

「ねえねえ、今日のお昼はー!?」

「あのねあのね、わたしチョコもらったのー!」

女の子の登場にそれぞれ違う反応を見せる兄弟。チビっ子2人は早くも駆け出し、手にしたチョコを誇らしげに見せ付けていた。

「……姉ちゃん?」

「うん」

俺の質問に答えたのは膝を擦りむいたガキんちょ。その隣では鬼の子供も頷いている。

「って事は……お前ら7人兄弟か」

「そうだよ」

へえ、6人兄弟の時点でかなり珍しいと思ってたけど、さらに1人いたのか。スゲエな。
俺は初めて見る7人という数の兄弟(まあ6人の時点で初めてだったのだが)に驚きつつ、改めて最後に登場した女の子を見る。
それまで一番上だと思っていた男の子で小学6年くらいだったのだが、彼女はどう見ても高校生以上。彼女だけかなり歳が離れているようだった。

「……!」

「〜、〜〜っ」

「……」

少し離れた先ではその女の子とチビ2人が何やら会話をしている。ここからだと何も聞こえないが、身振り手振りから察するに、俺からチョコを貰った事、転んでケガしたガキんちょを手当てした事なんかを伝えているようだった。

「……なあ、一番上の姉ちゃんって何歳なんだ?」

「19歳だよ」

「ふ〜ん」

やっぱそのくらいか。
俺は鬼の子供の言葉に頷きながら、再度チョコを見せびらかすようにして喋るチビ2人の話を優しい笑顔で聞いている女の子を見る。

「……(ぺこり)」

「あ……(ぺこり)」

俺の視線に気付いたのか、彼女はこちらに向かって丁寧に頭を下げる。
19歳なら俺の方が年上なのだが、そのお辞儀はとても落ち着いている……というか大人びたというか、そんな印象を受けた。

「……いい姉ちゃんっぽいな」

「うん、優しいよ。それに料理も上手なんだ」

「へえ、いいなあ」

誇らしげに答えるガキんちょの言葉を聞き、素直に羨ましがる俺。
優しくて料理上手の姉がいたら誰だって嬉しいだろう。
ウチの姉は……美人かもしれんけど優しくはないし、料理も出来ないしなあ。

「……あ」

と、ここで俺は持っていた段ボールの中身を見て声を漏らす。そこにあるのは一度は自分の分として確保したチョコ菓子が2箱。

……う〜ん、ここはチョコを渡すべきなのか。
でもお菓子をあげるような年齢でもないし、喜ぶかどうかも微妙だよな。

「……」

いや、でも他の兄弟には全員あげた訳だし、ちょうどここに2箱残ってる訳だし、別に俺はそこまで食いたいとも思ってない訳で……

そんな事を延々と考え、チョコを渡すかどうか悩みまくる俺。
ああもうどうした事やら……って、彼女こっちに向かってきてるじゃん!

気付くと彼女はチビ2人と手をつなぎながら俺の方に歩き出していた。
というかもうほぼ目の前にいた。……うわ、可愛いぞ。

「あ、あの、この度はどうも……」

「い、いや、そんな……」

ほんのり頬を赤らめながら、そして少し緊張した面持ちでお礼を言ってくる彼女。それを見た俺は思わずドキドキ、こっちも微妙に緊張&声がどもってしまう。……何だこの初々しさ。

「それでこの子のケガは……?」

「ええ、膝と右手を擦りむいてますけど、骨に異常はないみたいです。さっき公園で傷口を水洗いしてきたんで、後はバンソーコーでも貼って下さい」

「わかりました、ありがとうございます。あとそれから下の子達にお菓子を下さったみたいで……」

「ああ、気にしないで下さい。商品にならないって事で貰ったものですから」

「……商品?」

「ええっと、実はですね……」

と、こうして俺は彼女にチョコの入手経緯を説明し、ついでに自己紹介も始める。最初は微妙に人見知りしているというか、硬い表情だった彼女も、俺がそこのスーパーでバイトしていると言うと少し態度が軟化する。
何やらいつも利用しているらしく、店の中で俺を見た事があるらしい。彼女はそれを思い出し、ここでようやく他の兄弟がそうしたように警戒心を解いてくれた。よかったよかった。


 12

「おかしー♪」

「チョコー♪」

相変らずチョコの箱を両手に持って喜んでいるチビ2人。
そんな中、俺は「他の子には全員あげたんで……」と前置きを入れ、彼女にもチョコの箱を手渡していた。

「ちょっとへこんでるし、中のお菓子もきっと割れてると思うんですけど、よかったらもらってやって下さい」

「ありがとうございます。……でも、本当にいいんですか?」

「ええ、構いませんよ」

「それじゃあお言葉に甘えてありがたく頂戴しますね。ふふっ、実はこのお菓子、兄弟みんな好きなんです」

「あ、そうだったんですか。それはよかった」

「一番好きなのは姉ちゃんなんだけどね」

そう言って会話に混じってきたのは膝を擦りむいたガキんちょ。さっき聞いたのだが、名前は俊太(しゅんた)と言うらしい。

「へえ、そうなんだ」

「も、もう、いちいちそんな事言わなくてもいいの。恥ずかしいでしょ……」

そう言って頬を赤らめ、俊太の頭をぐりぐりと撫で回す彼女。どうやら兄弟の中でこのお菓子が一番好きなのは本当の事らしい。っていうか照れ隠しが可愛すぎなんですが。

「ねえちゃ、これもう食べていいー?」

「ぼくもたべたいー。ね、いいでしょー」

「ダーメ。もうお昼ご飯出来たんだからチョコは後。3時のおやつにしなさい」

「……はーい」

一番上のお姉ちゃんの言葉にしゅんとなるチビ2人。すると彼女は「もう、仕方ないなあ」という顔でふうと軽く息を吐き、しゃがんで目線を2人に合わせる。

「じゃあご飯の後に1つだけ食べていいよ。その代わりご飯は全部食べること。……いい?」

「うんっ」

「たべるよ、ぜんぶたべるー」

彼女から示された折衷案にチビ達は大きく頷き、満点の笑顔を見せる。
う〜ん、子供をあやすの上手いなあ。

「ふふっ、約束よ?」

「はーい!」(×2)

笑顔に対して笑顔で返す彼女。チビ達2人は同時に返事をすると、トタトタと走り出す。おそらく家に向かっているのだろう。

「ちゃんと手を洗いなさいよー」

そんな2人の背中に向けてしっかり注意をする彼女。これはさっきから感じている事だが、とても19歳の女の子とは思えない面倒見と器量の良さだった。

「……」

そんな彼女に思わず見とれてしまい、アホみたいに顔を凝視してしまう。
すると当然の事ながら彼女も俺の視線に気付く訳で、自分が見られている事を知ると一気に顔を赤らめ、それまでとは一転してなぜか慌てまくる。
う〜ん、何だこの最強に可愛いギャップは。

「あ、あの、な、なんでしょうか?」

「ごめんごめん、つい見とれちゃってさ」

「〜〜っ!?」

俺の「見とれていた」という言葉を聞き、あわわわわわ……と言いながらオロオロする彼女。この辺は実年齢より少し若く見える。彼女の本性はどっちなんだろうか。

「……姉ちゃん、俺達兄弟以外と話するの得意じゃないんだよ」

そう言ってフォローを入れるのは鬼の子供。ちなみにコイツの名前は竜也(りゅうや)との事。

「ふーん、そっか」

「あの、その、すいません……」

「いやいや、謝る事じゃないって」

全然いいじゃないですか、それにそういうのって可愛いっスよ。そう言葉を付け加えようとしたのだが、何か超舞い上がりそうなので自粛。……まあ照れまくった彼女も見てみたいとは思うが、初対面でそこまで馴れ馴れしくするのも何か違うしな。

「……あ、引き止めちゃってますね、すいません」

「え?」

「これからみんなでご飯なんですよね。もう下の2人は走って行っちゃいましたし」

「は、はい……」

そう言って頷く彼女。
ご飯が出来たと言って現れた時からもう5分近く経っている。そろそろ戻った方がいいだろう。他の子達も腹減ってるだろうし。

俺はそう思い、これ以上引き止めておくのは失礼だと判断。「そんじゃま、俺はこの辺で……」と、挨拶もそこそこに立ち去ろうとする。

……が。

「あ、あのっ!」

「はい?」

彼女達に背を向け、駐車場に向かって歩き出そうとした時だった。
意を決したように、という表現が最適であろう口調で俺は彼女に呼び止められる。

「ええっと、その……」

「?」

「よ、よかったらウチでその……ご飯でもどうですか?」

「……え、いいの?」

まさかの展開、俺は彼女に食事のお誘い……というかお呼ばれされる。
優しくて料理上手、そんな下の兄弟の言葉を思い出し、俺はかなりその提案に惹かれるのだが……

「いや、でも悪いよ。お昼ごはん、もう出来てるんでしょ? だったらみんなの分が減っちゃうじゃん」

「い、いえ、大丈夫です! 今日はたくさん作ったし、その、やっぱりちゃんとお礼がしたいんです!」

「そ、そう?」

とても律儀な子だなあ。今時珍しいんじゃね?
俺は彼女の「お礼がしたい」という強い気持ちを感じ取り、考えを改める。というかここまでお願いされて断れるほど俺はドライなヤツじゃない。

「じゃあお言葉に甘えてお呼ばれしようかな」

「は、はいっ、ありがとうございますっ」

「いやいや、お礼を言うのはこっちの方だよ。誘ってくれてありがとう」

「〜〜」

俺がお礼を言うと、彼女はそれまで以上に顔が赤くなる。
俯いてモジモジしている仕草は破壊力バツグンだった。

「ええっと、あのその……、お礼と言っても別にそんな美味しくもないし、普通の料理で申し訳ないんですけど……」

ありゃ、完全に元に戻っちゃったな。
さっきまであんなに熱弁振るってたのに、また自信なさげ&どもり口調になってしまう彼女。何だか見てて楽しい。

「そんな事ないでしょ、弟さんも「姉ちゃんは料理が上手い」って言ってたし」

「だだだ誰がそんな事を!?」

「ん、まあ誰でもいいじゃない。それよりほら、みんな待ってるよ?」

そう言って俺は彼女の質問を適当にはぐらかし、他の兄弟を指差す。
……まあ実際に俺達待ちな部分もあるだけど。

「うう……」

全然納得はしていないが、下の兄弟達を待たせてはいけない。そんな考えが働いたのだろう、彼女は可愛い唸り声を上げると、やがて観念したように口を開く。

「あの、それじゃあ案内しますね」

「お願いします♪」

しっかり者なんだけど簡単に言いくるめられるなあ、この子は。
きっと冗談や嘘にも弱いんだろうな。俺はそんな事を考えながら、彼女の後を付いて歩き出す。ちなみに俺の両隣には俊太と隆也が並んで歩き、時折彼女の方に駆け寄っては何か言葉を交わし、またこっちに戻る……という行動を繰り返している。この2人はもう完全に俺になついたようだった。

「ねえ姉ちゃん、今日の昼ご飯は何?」

「チキンライスとナポリタンよ」

「やった、どっちも大好物!」

と、前方からそんな会話が聞こえてくる。
……そうか、チキンライスとナポリタンか。うん、実に家庭的でいい。
本日のお呼ばれランチのメニューを聞き、テンションが上がる俺。どちらも嫌いではない……というか好きな料理になるのだが、とく考えると最近口にしていない。家ではあまり出ないし、店に行くと他のメニューを頼む事がほとんどだったような気がする。

……チキンライスとナポリタン、確かに"定番すぎて逆に頼まない"の代表的なメニューかもな。
俺はペコペコに空いた腹を押さえながらそんな事を考え、きっと上手いであう彼女の手料理に期待を膨らませる。
減る腹とは逆に膨らむ期待……か。何か微妙に上手い事言ってるな、俺。

「あー、腹減ったー」

「うん、ぼくも」

思わず本音を漏らす俺、それに同意してお腹に手を当てる俊太。
その会話はついさっき知り合ったとは思えない、ごくごく自然なもの。年齢はかなり離れているが、もしかしたらコイツとはいい友達になれるかもな……

俺は隣を歩く未来のカンケリマスターにそんな思いを馳せながら、チキンライスとナポリタンが待つ彼女の家を目指して歩く。

……いやはや、それにしても貰ったチョコからこんな流れになるとはなあ。
どうやらまだノド飴から始まったランクアップ物々交換、言うなれば現代版わらしべ長者は続いているようだ。

う〜ん、一体この後どうなるんだろう。
かなりの空腹状態の中、俺はふとそんな事を考える。

「……ま、別にここがゴールでもいいか」

可愛い女の子の美味しい手作り料理が食えるんだ、これ以上のランクアップは高望みってヤツだろ。
俺はそう思い、これまでの経緯を振り返る。

色々あって最終的には美味い昼メシに……か。
うん、上等上等。

満足そうに頷く俺。気付くと彼女の家はもう目の前だった。


 13

「はい、それじゃあいただきます」

「いただきまーす」(×7)

たくさんの声が重なる食事の挨拶。その中には俺の声も含まれていた。
そして次の瞬間にはカチャカチャというスプーンやフォークの音。……大家族の食事って賑やかなんだなあ、と思いながらも、その中に自然に溶け込んでいる自分がいた。

……彼女の家にお邪魔した俺はすぐさま食事の運びとなり、テーブルの一番奥の椅子に通される。思いっきり主賓扱いだった。

すでに料理は完成、あとは盛り付けるだけという状態だったため、椅子に座って3分もしないうちに俺の目の前にチキンライスとナポリタンの皿が置かれる。
並べられると判るが、どっちも真っ赤というのは少々彩りに欠けるような気がしないでもない。しかし「下の兄弟は全員トマトケチャップが好きなの」という彼女の言葉を聞き納得。
確かにケチャップ好きの子供は多いよな。……まあ生のトマトは嫌いだったりする訳なんだが。

「……さてと」

まずはチキンライスから頂きますかね。
俺はスプーンを手に取り、小さく切ったタマネギと鶏肉だけのシンプルなチキンライスを口に入れる。

「……美味い」

「ほ、本当ですか?」

そう言ってさっきからチラチラと俺を見ていた彼女は胸に手をあて、ホッとした表情を浮かべる。心底安心したようだ。

「うん、マジでおいしいよ。やるじゃん、その辺の喫茶店で食うレベルは軽く超えてるんじゃね?」

「そんな……、それは褒めすぎですよぅ」

別に俺は世辞の類を言った訳ではなく、本当に思った事を口にしただけ。
しかし彼女は謙遜しまくり、フォークを持ったまま手をブンブン振っている。
……それはちょっと危険だろ。

「いやいや、こんな美味いチキンライスを食べたのは初めてかも」

と、これも本心からのセリフ。
まあ高級な店でチキンライスを頼んだ事が無い……というか高級な店にそもそも行かないので、一流の味というのは知らないが、それでも彼女が作ったこのチキンライスは存分に美味かった。このくらいの味なら店でも普通に頼むと思う。

「はうう……」

あーあ、真っ赤になっちゃった。
彼女は俺の言葉を聞き、料理に負けないくらい顔を赤に染める。
こんなに料理上手ならもっと堂々としていいだろ、と思うのだが……

「ほら、見てみなよ」

「……?」

「下の兄弟も全員美味しそうに食べてるじゃん? 少しは自分の料理に自信を持ちなよ」

「……」

何故かキョトンとする彼女。しかしそれも一瞬、すぐに元の大慌て&恥ずかしそうな表情に戻り、オロオロとアタフタを足して割らずにいる状態に。

「えと、その、あの……」

「ごめんごめん、さっきから困らせてばっかだね、俺」

「そそそそ、そんな事ないです! 私が一方的に舞い上がってるだけですからっ」

そう言ってブンブンと首を振り、「滅相も御座いません!」と言わんばかりに弁解を始める彼女。
……ああもう、そんなに慌てたらお姉ちゃんの威厳がなくなっちゃうだろ。

「……」

う〜ん、これはどうしたもんかなあ。
俺は褒めてる意識のないまま相手を褒め殺そうとしている現状に、何か打開策はないかと頭を働かせる。
下の兄弟を引き合いに出してもあれだけ慌てる&料理上手である事を否定するんだ、何か自信と共に大きなインパクトを与える事をしなければ……

「……」

おっと、長々と考えてるヒマはないぞ。
もしこのまま無言が続けば、また彼女が曲解を始めてしまう。
うん、それだけは避けないとな。そう考えた俺は普段はさせない頭をフル回転させ、どこかに妙案は転がっていないか考える。
そして目の前に置かれた2皿の料理を見た時、ピコンと頭上の豆電球が点灯。

……うん、こうするのが一番いいかもな。
一応浮かんだ考えを脳内でシミュレートしてみたが、何となくいけそうな手ごたえを感じた俺。その手ごたえを信じ、俺は考え付いた事を実行に移す。

「ええっと、礼子(れいこ)ちゃんだったよね?」

「は、はい……」

まずは第一段階、ここで俺は初めて彼女の名前を呼ぶ。
路上で挨拶をした時、お互い自己紹介的なものをしていたので名前は知っていたのだが、どうも上手く名前を呼ぶタイミングが掴めずにいた俺。

しかし今はどうしても彼女の意識を自分に向けたい、これからする行動を礼子ちゃんに見てもらいたい……
そんな気持ちから俺は恥ずかしいのをグッと堪え、あえて下の名前を呼んだ。
そして……

「俺には判らない。どうして礼子ちゃんがそこまで自分の料理を謙遜するのか」

「……」

「今、俺は礼子ちゃんの料理を一口食べて、「美味しい」って言った。でも礼子ちゃんは信じてくれてない」

「え、そ、そんな事は……」

「確かに言葉は偽れる。嘘でどうにでもなる部分もある」

「……」

「だから俺は行動で示す。礼子ちゃんの料理が美味しいって事、俺が嘘を言ってないって事を証明したい」

そう言って俺は一度皿の脇に置いたスプーンを握り、チキンライスを食べ始める。モグモグとしっかり噛みながら。でもペースはかなり早く、一切手を止める事もなく。

「……あ」

短く、そして小さな声を漏らす礼子ちゃん。
俺の取った行動がただの早食いではない事、無理矢理に腹に詰め込んでいるのではない事を判ってくれたようだ。

「モグモグ……うん、美味い。タマネギの炒め具合とか絶妙。……もぐ、んぎゅ、鶏肉も下味がちゃんと付いてるのな」

本当はマナー上よろしくないのだが、俺はチキンライスを勢いよく食べながら思いついた先から感想を言っていく。勿論どれもお世辞要素は一切なし、本当にそう思った事を誇張せずに実況していく。

「ズルズルル……あー、やっぱナポリタンもうまいわー」

続いてスプーンをフォークに持ち替え、ハムとピーマンが程よい割合で混じったナポリタンに手を付ける。本格的なパスタだと少し柔らかいであろう麺の茹で加減だが、ナポリタンに関してはこのくらいの硬さでいいと思う。

「……」

そんな俺の様子を見つめる礼子ちゃん。声に出して笑う訳ではないが、優しく頬を緩ませながら俺の食事風景を眺めていた。

「う〜ん、どっちも絶品だなあ。……んぐ、特にこの、んぐ、チキンライスの混ざり具合がいいよね。白い部分が全然ないの。……モグモグ」

「うふふっ」

さっきまでナポリタンを豪快にすすっていたかと思えば、今度はまたチキンライスを口一杯に頬張る……という俺の姿が相当面白かったのだろう。たまらずといった感じで礼子ちゃんが吹き出し、可笑しそうに笑う。

「……んぐ、もぎゅ、礼子ちゃんも俺ばっか見てないで食べなよ。ズルルル……いくら上手に出来ても、モグ、冷まったらおいしさ半減だよ?」

そう言いながら礼子ちゃんに自分も料理に手を付けるよう進言する。
ちなみにこの間、俺はナポリタンとチキンライスを2往復させていた。口の中は米とパスタが入り混じり、それらダブル炭水化物が空腹をどんどん満たしていくのが判る。至福の一時だった。

「もうっ、そんなに急いで食べなくてもいいですよ。……あの、その、隆志さんの言いたい事、気持ちは伝わりましたから」

「……そう?」

ナポリタンを咥えたまま、ダラリと麺を垂らしながらではあるが、ここで俺は少し真剣な顔になって礼子ちゃんを見つめる。そしてちゅるちゅるちゅる……と麺をすすり、軽く口の周囲を拭いたところで一旦フォークを置く。

「ありがとうございます。とっても判りやすかったです」

「それは何より」

「で、でも……残りはゆっくり食べてください。そ、その、下の兄弟にいつもお行儀よく食べなさい、って言ってるので……」

あ、あのっ、おいしく食べてくれるのは本当に嬉しいんですよ? ただその、もう少しキレイな食べ方をしてくれると……
と、そんなニュアンスを視線に込めて俺を見つめる礼子ちゃん。確かにこのがっつきっぷりは行儀が悪いだろう。教育的にはかなりマイナスかも。

「あ、そうか……。ごめんごめん」

ちょっとやりすぎたかもしれないな。俺はそう思い、素直に謝る。
そして今度は周囲に向かって、特に小さい兄弟に向かって弁明を始める。

「なあみんな、今のは悪い見本だからな? マネすんじゃねえぞ?」

「……はーい」

「うん、わかったー」

即答&速攻で了承するのは一番下のチビ2人。まあ返事は大変よろしいのだが、俺以上に口の周りがトマトケチャップで染まっているのはご愛嬌、といったところだろうか。

「苦しい言い訳だね、にいちゃん」

「先生とか大人が失敗した時によく使うよね、それ」

そう言ってニヒヒ……と笑うのは真ん中2人の転倒少年と鬼少年。
年長者2人はそんな下の兄弟が放つツッコミにくすくす笑っていた。

「いやいや、言い訳なんかじゃないって。それにな……」

俺はそこで一度間を置き、礼子ちゃんを含め兄弟全員の顔を見回し、全員がこっちを向いている事を確認してから再度喋り出す。

「料理を作ってくれた人に「おいしいよ」ってアピールするのはスゲー大事なんだぞ? そりゃあ毎回毎回今の俺みたいにアピールするのはよくない……っていうか、姉ちゃんにメチャクチャ怒られるだろうけどさ」

「……」

黙ってうんうんと頷くみんな。礼子ちゃんはそんな兄弟を見ながら別の意味も込めて頷いていた。
それは「このおにいちゃんの言う通り、おいしいアピールは大事よ」という肯定、そして「毎日やったら怒るからね」という注意の意味合いの2つ。もしかしたら後者の方が強いかもしれない。

「ま、話をまとめるとだ、こんな美味いメシを食えるみんなが羨ましいよ、という事だな。以上!」

俺はそう言うなり再びフォークとスプーンに手を伸ばし、皿に残っていた料理を食べ始める。
そのスピードはさっきに比べて少し遅め。礼子ちゃんに言われた事を守りつつ、それでもおいしさアピールは維持。最高の昼食に巡り合えた幸せと一緒に料理を噛み締め、もぐもぐ&んぐんぐ言いながらナポリタンを褒め、チキンライスに舌鼓を打つ俺。ふと気付くと他の兄弟もみんなこっちを見ていた。
「よく食べるなあ、このおにいちゃん」という目を向けているチビ達、「ね? 言った通りでしょ? 姉ちゃんの料理は最高なんだぜ」と言わんばかり、まるで自分が作ったかのように自慢げな真ん中の兄弟2人、そして上の2人は面白い親戚のおじさんを見るような目で俺を見ていた。

「……あ」

ただ、そんなまちまちな反応を見せている兄弟だったが、1つだけ全員に共通している事があった。俺はそれに気付き、思わず頭をポリポリ掻いてしまう。

「へへへ、何か照れるな」

兄弟は全員、笑顔を俺に向けていた。
いや、向けてくれていた、というべきか。
こんな急な来客にも関わらず、出会ってまだ30分そこそこの俺を昼食に迎え入れ、そして笑顔で接してくれる……
何かスゲーいい気持ちだった。心が温まるってのはこういうのを言うんだろうな、と思った。

「……さ、私達も負けずに食べましょ。ほら、もう隆志お兄ちゃんのお皿はほぼ空っぽよ?」

「はーい!」

「たべりゅ、たべりゅー!」

礼子ちゃんの言葉に真っ先に反応するチビ2人。きっといつもこんな感じなんだろう。他の兄弟も「そうだな、食べるか」的な表情で目の前の絶品料理に口を付けていく。

「……」

そんな下の兄弟の食事風景を穏やかな表情で見つめる礼子ちゃん。
自分が作った料理がどんどん減っていくというのは、きっとものすごい嬉しい事なんだろうな……
料理はまったくさっぱり、作るではなく食べるオンリーの俺だが、今なら何となく作る側の気持ちが判るような気がする。

そう思い、改めて礼子ちゃんの作った2品の料理を見つめる。
もう完食間近ではあるが、この残った分はしっかりゆっくり、超味わって食べよう。

「……」

俺は心の中で再度「いただきます」と言い、残りわずかとなったチキンライスとナポリタンを食べていく。
少し冷めてはいたが、やっぱりというか何というか、どっちも最高にうまかった。


 13

ピンポーン

「……ん?」

2度目の「いただきます」から5分ほど経ち、和気あいあいで昼食を楽しんでいた時だった。チャイムの音が鳴り、玄関の方からガラガラ……という音が聞こえてくる。

「お客さんかな?」

そう言って立ち上がり、エプロンを外しながら玄関に向かう礼子ちゃん。何かもうその辺は立派に主婦をこなしている感じだった。
……まあ礼子ちゃんの場合、主婦というよりは幼な妻と言った方がしっくりくるんだろうけど。

同年代の女の子がエプロン姿でいる様子を久しく、高校の調理実習以来見ていない俺はそんな事を考えながら、ぼんやりと玄関の方向を眺めていた。
ここからだと何も見えないのだが、それでも話し声は微妙に聞こえてくる。どうやら相手は2人組の男のようだった。

……何だろう、新聞の集金か? いや、だったら1人で来るよなあ。

すでに料理は完食、俺の目の前には1つに重ねた皿が置いてある。お礼に洗い物は自分が……とも思ったが、礼子ちゃんの妹さんに止められていた。
「お皿を洗うのはわたし達、上2人の仕事なんです。それにお客さんに洗い物なんて……」との事。
うーん、嬉しいなあ。ちゃんとお客さん扱いしてくれてるんだ。

「……それにしても姉ちゃん遅いなあ」

「ね」

俺に遅れる事数分、料理を食べ終わった竜也がそう言って礼子ちゃんの事を気にかける。すると他の2人の兄弟もコクリと頷き、玄関先のやり取りを聞こうと耳を澄ませる。

「……、……?」

「え……、あ、はい……」

かすかに聞こえてくる礼子ちゃんの声。相手がどんな事を喋っているかまでは聞き取れないが、俺は何となく嫌な予感がした。
礼子ちゃんの受け答え、そして敬語口調から察するに、相手はまず初対面といっていいだろう。この時点で客は親しい関係柄、例えばご近所さんとかではない事が伺える。

う〜ん、押し売りとかだったら大変だろうなあ。

礼子ちゃん、大人しいし優しいから、結構言いくるめられそうな……
と、俺は少々失礼ながらも、このまだ出会って間もない女の子の性格を考え、お節介な考えを巡らせる。

「……ねえ兄ちゃん、ちょっと見てきてもらえる?」

同じく礼子ちゃんの事が心配なのだろう、竜也が俺に様子を見てくるようお願いしてくる。見ると他の兄弟も同じ目をしていた。

「ん、やっぱそうした方がいいよな」

「お願い」

「……わかった」

別に強面という訳ではないが、もし相手が押し売りの類だった場合、礼子ちゃんよりは撃退能力に優れているだろう。
俺はそう思い、口元を手で拭いながら立ち上がる。そして来客がよろしくない相手だった時の事を想定し、何度か睨みを利かせた顔の練習。出来ればこんな顔をしなくていい展開を願いながら、俺は完全にこの家の人間という設定で玄関に向かって歩き出す。

「あ、ボクもついてこっと」

するとまだナポリタンをすすっていた俊太が興味本位丸出し、まるで楽しいものでも見に行くような感覚で立ち上がり、俺の後をついてくる。しかも食べかけの皿を持ちながら。

「こらこら、遊びじゃねえっての」

「えー、いいじゃん」

「ったく、オメエは緊張感とか危機感とかねえのかよ……」

「ほへ?」

もしこれで相手が厄介な押し売り、見た目からしてアレな方々だったらどうすんだよ。俺はそう思い、呆れながら立ち食いナポリタンをやってのけている俊太を見る。

……あー、ダメだ。いくら言っても聞かない顔だな、こりゃ。

未知のものにワクワク&ドキドキ、まるで冒険にでも行くかのような輝いた目。俺はそんな男の子ドリーム全開な俊太を見て早々に諦める。自分にも似たような経験があるため、何が何でもダメ的な事は言えなかった。

「仕方ねえな。超怖いオッサンに睨まれても文句ナシだぞ?」

「へっ!? う、うん……」

おいおい、この程度の脅しで揺らぐなよ。いざって時は俺が姉ちゃんを! って意気込みを見せろよな。
俺は結構ビビリだった事が判明した俊太に苦笑い。まあオメーよりは肝の据わったヤツがいるんだから安心しとけ、という意味を込めて頭にポンと手を乗せる。

「……さてと」

台所から廊下に抜け、すぐそこを曲がればもう玄関前というところで軽く息を吐き、適度に気合を注入。そして俺は俊太を一歩下がらせ、礼子ちゃんの元へと向かう。

「……どうした礼子?」

兄か、もしくは旦那か。そんな感じで礼子ちゃんを呼び、さもそれが普通であるかのように隣にすっと肩に手をかける。

「え、あ……隆志さん……?」

「……」

驚いた様子の礼子ちゃん。しかし向こうもピクリと眉を動かし、予想外な顔をする。
玄関先にいた2人の男は一方が作業着、もう一方がスーツという格好。どちらもパッと見は普通の大人、営業スマイル的なものを浮かべていた。

……が。

「……」

おかしいな、何か引っかかる。
バイト先でたくさんの出入り業者を見ているからか、それとも直感的なものが働いたのか、俺はその2人から得も知れぬ胡散臭さを感じ取っていた。
礼子ちゃんは何も感じていないだろうが、これは限りなく黒に近い。一体コイツらの目的は……?

「ええっと、旦那様……でしょうか?」

「ん、結婚してるとマズいのかな?」

早速探りを入れてくるスーツの男。俺はその質問を微妙にはぐらかし、礼子ちゃんの方を見る。

「なあ礼子、この人達はどちらさん?」

「ええっと、その、消防署の方だそうです……」

俺の態度、急に馴れ馴れしくなった接し方に不思議がりながらも、そう言って来客を紹介する礼子ちゃん。

……ふーん、消防署ね。

何か読めてきたぞ。
っていうかもし俺の予想がビンゴだとしたら、何て初歩的、何て判りやすい連中なんだろう。
俺は完全にこの2人組を黒と判断し、その上で相手の出方を見る事にした。
……さあ、どう出る?

「あのですね、先程奥様の方には一度説明させてもらったんですが、来月から消防に関する条例が厳しくなりましてね。家庭内での消火器の複数台設置が義務化されたんです」

と、スーツの男はそう言いながら名刺を一枚取り出し、俺に手渡す。
そこにはいかにもそれっぽい会社名と、役所公認業者的な文字が。

……はい、ビンゴ〜

俺は今にもその名刺をクチャクチャにするか、ピンと指先で弾いて相手の目に当てたい衝動を何とか抑え、とりあえず話を聞く体勢を維持。まあ次に続く言葉なんざ聞かなくても判るのだが……

「それで今さっき、奥様に消火器の設置状況を聞いたところ、来月試行の法律に引っかかってしまう事が判明いたしまして……」

するとここで後ろにいた作業服の男が玄関の外から消火器を取り出し、俺に見せてくる。どうやら自分は消防署の人間ですアピールもかねているようで、胸にある水道局のマークっぽい刺繍を微妙にちらつかせる。……何て姑息な。

「ええっと、そういう事らしいんですよ隆志さん。だから今、こちらの方に詳しくお話を……」

「そ、そうか」

マジ!? もしかして礼子ちゃん、コイツの話を信じてる!?
俺はそうツッコミを入れようとするが、慌てて平然を装う。
……うーん、まさかここまで純真無垢だとは思わなかった。

偶然とはいえ、今日この場に俺が居てよかったな。
俺はホッと胸を撫で下ろし、詐欺被害を未然に防げた事に安心する。

「では旦那様も一緒に説明をお聞き願いますか? 今回私どもが参りましたのは、消火器設置の徹底もそうですが、それ以上に防火意識を住民のみなさまに――」

「いや、いい」

スーツの男の説明を遮るように、それも失礼に当たる切り方をする俺。
やり口はベタ中のベタ、ずっと昔からある手段ではあるが、言葉の中に織り交ぜた良心めいた部分をちらつかせる喋り方は上手いと思う。
……しかし、俺には通じない。というかこんなん年寄りか世間知らずのお人好しくらいしか引っかからんだろ。

「え、その……」

口調は何とかキープしているが、その表情にさっきまでの笑顔はない。
スーツの男は何かを考えるように、おそらく次の一手をどうするかで躊躇っているようだった。

まだ優しい訪問販売員でねばるか、それとも本性発揮か……
まあどちらにせよ、次はこっちから攻めさせてもらうぜ。
俺はそう考え、男が口を開く前に質問をする。

「幾ら?」

「はい?」

「だから、そのオメーが売りつけようとしてる消火器は幾らするんだって言ってるんだよ」

「そ、そんな、売りつけるなんてとんでもない! だって来月から設置が――」

「俺の話、ちゃんと耳に入ってた? 今はそんな事を聞いてるんじゃねえよ。オメーはその消火器の値段を言えばいいんだよ」

「……1本1万2000円です」

たまらず助け舟、といった感じで作業着の男が間に入ってくる。
その落ち着いた声、「やるなら俺が相手になってやる」と言わんばかりの挑発に満ちた目。どうやらこっちの作業着が上役のようだ。

「ほう、ホームセンターに行きゃあ3000円で買えるのに?」

「機能が異なりますので」

「どんな風に?」

「一般市販品に比べ、消化能力に長けています。これは私達プロが実際の火災現場で使用する消化剤と全く同じ成分・配合で作られております」

「……で、その代わり配置期限が短く、定期的な交換が必要……ってか?」

「……っ」

明らかな反応を見せる作業着の男。すでに横のスーツ野郎は動揺を隠せないで居た。

「はい、図星と」

別にこれで勝ったとは思わないし、決定的なアドバンテージを取った訳ではない。本当に厄介な相手、頭の切れるヤツはここからが怖い事を俺は知っていた。

「……」

「……」

そんな俺と2人組のやり取りを、いつ本格的に衝突が始まってもおかしくない状況に、礼子ちゃんと俊太はただ黙って見ているだけ。それも様子を見守る、とかいうものではなく、完全に怯えモードでその場に固まっていた。
……まあ致し方なしか。

「で、でも、ほうりるがっ!」

「……!」

ここでそれまでオロオロしていたスーツが口を開く。
……が、興奮しているのか緊張しているのか、「法律」という言葉を噛みやがった。
これではかえって逆効果、作業着の男は「感情的になってまともに喋れないヤツは弁に立つな」といった感じでスーツの男を目で制止する。ここで怒鳴ったりしない辺り、こっちはそこそこの場数を踏んでいるように思える。
……まあそれでもさっき一瞬怯んだし、俺が太刀打ち出来ない相手ではない。
何といってもこっちは日々バケモノみたいな店長と命を張った駆け引き、腹の探り合いをしている身。もし2人が脅迫まがいの手段に出ても退く気は一切なかった。というかコイツら程度で驚いていたらあの職場では生きていけない。

「……店長サンクス」

やっと貴方とのやり取りが生きる場面に遭遇しましたよ。
俺はぼそりとそう呟き、礼子ちゃんと俊太が怯えている事もあり、早々に決着を付けようと再び先手を取る。相手の実力が判った以上、もう大人しくしている必要はない。後はもう徹底的にやるだけだ。

「見たところ貴方はまだお若い。……法律にはお詳しくないのでは?」

「まあ詳しくはねえわな。でも今は法律なんざ関係ねえだろ? オメエらが言ってるのは架空の法律なんだからな」

「おいテメー、何を根拠に言ってるんだ?」

スーツの口調が変わる。予想通り、品性の欠片もない下っ端のチンピラ丸出しの口調だった。

「……ひっ」

「……に、にいちゃ……」

しかしそんなベタな言葉遣いに礼子ちゃんと俊太は反応してしまう。
あーあ、俊太ったら俺の足に抱きついてるじゃねえか。頼むからズボンにケチャップ付けるなよ……

「何法の第何条?」

「はあ?」

「オメーは頭以上に耳が悪いんだな。こんなトコいないで病院行って直してもらったら?」

っていうかもうオメーは喋るな。何の意味もないから。
そんな侮蔑と哀れみの目でスーツの男を見ると、俺は「もう君は相手にしないよ」オーラを出し、作業着の男1人に対象を絞る。

「……消防法第4章、第17条の2の3に付加された。これでよろしいですか?」

「へえ、一応そこまでツッこまれた時の事は考えてるんだ」

「……どう仰っても構いませんが、これで納得頂けましたか?」

「いや。だって俺、法律詳しくねえもん。さっき自分でも言ったでしょ。すいませんね、まだ若くて」

「……チッ」

はい、相手に聞こえる舌打ち出ましたー
俺はそう心の中で茶化すように言い、呆気ないほど簡単にこっちのペースに乗ってくる2人の男を鼻で笑う。

何だよ、コイツも全然じゃん。もっとこうさ、信念とか命を懸けたやり取りしようぜ? オメーらも一応プロの詐欺師なんだろ?

俺はそう言いたいのを我慢し(ここにいるのが俺1人ならやるのだが、礼子ちゃんと俊太がいる以上、そろそろあからさまな挑発はやめないと)、さっさと退散してもらうよう、次の手段に出る。

「とりあえずアレだ、ウチは子供が多くてさ」

「……?」

「……?」

急に話を変え、そう言いながら俊太の頭を撫でる俺。そしてアイコンタクトで「ちょっと借りるぞ?」と、持っていたナポリタンの皿を手にする。

「しかもまだみんな小さくてな。家中走り回る訳だよ」

「そ、それがどうしたってんだよ!?」

噛み付いてくるスーツの男。そこにはもう威圧感など微塵もなく、小者臭をバリバリ漂わせている。これだから三下は……

「そんな中に消火器なんざ何本も置いてみろ? 家事が起きる前に全部倒れて中身が出ちまうっての」

「……そこまではこちらも責任は持てませんな」

「あ、いいよ。別に責任取ってもらう気ないし。っていうかそもそも消火器なんか買わないから」

「……」

今度は舌打ちをする事もなく、俺の言葉を黙って聞く作業着の男。
だがその目は鋭く、俺を睨みつけていた。

……うーん、残念。ここは平然とした態度を取るトコだよ。
あとそれからもうちょっと屈強な身体にしたら? 全然睨みが怖くないんですけど。

俺は鼻をほじるような感覚で、あくび交じりでケツをボリボリ掻くような心境でそう呟き、言葉を続ける。早いトコ決めておかないとバカな真似をしかねない。それは避けないと。

「そうじゃなくてもウチは危険でねえ。慣れない人間はこの家に近付かない方が身のためだよ?」

「はあ? 何ぬかしてんだコラ?」

スーツの男が再び噛みついてくる。
本当に頭の出来が不自由で仕方ないらしく、今にも俺に殴りかかってきそうな勢いな男。手を出してきてくれればこっちとしても楽、過剰防衛ギリのラインまで痛めつけてやれるのだが……

「……」

……やっぱそれはアカンか。うん、やめやめ。

俺は隣でガクガク震える礼子ちゃんを見て考えを引っ込める。さすがに人様のお宅でポリス沙汰はマズイよな。

「もうね、兄弟ゲンカも結構あるわけ。そうなると大変でさ、色んなもんが壊れるし、飛んでくる」

そう言って何気なく俊太の食べかけナポリタンの皿からフォークを取り、俺はおもむろにそれを握り直す。
人差し指をフォークの裏側に当て、残りの指は軽く添えるだけ。

そして……

「例えばこうな!!!」

ヒュンッ、スタッ!

言うが早いか、投げるが先か。俺は握っていたフォークを手首のスナップを利かせて勢いよく振り切り、スーツの男の足元目がけて思いっきり投げ込む。
すると次の瞬間、男の履いていた革靴の先端、足の指に刺さらないギリギリのところにフォークが刺さり、そのまま貫通する。

「……」

何が起きたのか、理解するまで少し時間を必要とするスーツの男。
しかし突き刺さったフォークを、そしてその場所を凝視していくうち、男の表情が見る見る変わっていく。

「あ、あ、ああああ……」

ガクガク、ブルブルと震え、男は声にならない声を上げる。その情けなさ、今にも失禁しそうな無様っぷりに、隣にいた作業服の男も一瞬引いてしまう。

「……さて、ウチは7人兄弟でね。ちょうど今、スパゲッティを食べてる訳だ。そうなると当然、まだまだフォークが飛んでくる可能性はあるだが……」

ここで俺は一旦言葉を止め、涼しい笑顔で2人の顔を交互に見る。
……が、それも束の間。俺はさっき何度か練習した表情になり、出来る限りの眼力を飛ばし、鬼気迫る勢いで2人を睨みつける。

「どうする? まだここにいたいか?」

凄みを利かせた低い声。その言葉には負の力、相手に強烈な恐怖を与えるパワーが宿っており、それに圧倒された2人は全身を震わせ、脂汗をダラダラを流し始める。

……さすがは店長直伝、「堅気相手には使うな」と注意されるだけの事はあるなあ。
俺は蛇に睨まれた蛙状態、今にも逃げ出しそうなチンケな詐欺師2人を見ながらそう思い、「俺もまんざらではないじゃん」と少し得意顔になる。
……が、まだ硬い表情のまま固まっている礼子ちゃんと俊太、そして廊下の奥で様子を伺っているであろう他の兄弟達の事を考え、俺は再度2人に睨みを利かせる。
もし自身の発する気のようなものが見えるのなら、今の俺からは相当禍々しいオーラが出ているだろう。

「……なあ、どうするよ?」

「ひぃっ」

怯えまくる2人の男。きっと彼らの目に映る俺は人を軽く数人は殺しているような目なのだろう。まあこっちもそういうモチベーションでいるのだが。

「……」

すぅっ……と息を吸い、ゆっくり顔を2人に近付ける。そして俺は怒気と殺気を存分に含ませた言葉を浴びせかけるべく、口を開く。

「さっさと失せろ! ブチのめすぞ!?」

「……!!!」

自分でも汚い喋り方だなとは思うが、それでも俺はあえてドスの効いた&巻き舌気味で怒鳴り散らした。その効果は覿面、2人は腰を抜かしながら大慌てで玄関を飛び出していった。これで逃走途中に交通事故にでも遭ってくれれば言う事なしなのだが……

「ふう」

まあそれはどうでもいいや。とりあえず世間のクズから礼子ちゃん達を守れたんだ、合格としようじゃないか。
俺はそう考え、「これにて一件落着」とばかりに大きく頷く。

「……もう大丈夫だよ、礼子ちゃん」

「え、あのその、ええっと……」

「ごめんね、何か馴れ馴れしい喋り方して」

「そ、それは、別にいいんですけど……」

頭の整理がついていない様子の礼子ちゃん。
まさかとは思うが、まだあの2人が消防署と役所公認の業者だと信じてる訳じゃ……?

いやいや、さすがにそれはないだろう。きっと恐怖が去った安堵感に包まれているか、俺の豹変ぶりにどう接していいのか判らずにいるかのどちらかだろう。

「ええっと……俊太も悪かったな。怖かったろ?」

「う、うん……」

「でも泣かなかったし、姉ちゃんを置いて逃げ出したりもしなかった。偉いぞ」

俺はそう言って俊太の頭をぐりぐりと撫で回し、恐怖と緊張をほぐすべく「うりうり〜と言いながら脇や腰をくすぐる。
すると俊太はすぐにそれまでの笑顔に戻り、掴んでいた俺のズボンを引っ張って抵抗。
……うん、コイツは素直でいいなあ。マジでいい友達になれるんじゃね?

「あ、そうだ」

ひとしきり俊太とじゃれあった後、俺は礼子ちゃんの元に近寄り、しゃがんで視線を彼女に合わせる。まだ礼子ちゃんはその場でぼ〜っとしていた。

「ごめん礼子ちゃん、もう1つ謝る事があった」

「……?」

「フォーク、1本なくしちゃった。ほんとにゴメン」

パチンと手を合わせ、申し訳ない気持ちを全面に出す俺。
まだ食べかけだった俊太のナポリタン、そこから半ば強制的に借りたフォークは革靴に刺さったまま男に逃走され、回収不能になっていた。
もし抜かれてその辺に落ちていたとしても、もう使えない……というか使いたくないだろう。

「あいつらを追い返して礼子ちゃん達を守らなきゃ! って考えてたらつい……」

「え……?」

俺の言葉にピクリと反応する礼子ちゃん。一体どの部分に対して何を思ったのだろう。

「あの、じゃあ今までのは私達を助けようとして……?」

「ん? ええっと、それはさっきまでの演技の事かな?」

「は、はい……。やっぱり演技でいいんですよね」

「勿論。もしかしてあれが地だと思った?」

「い、いえ、そ、そんな事は……」

慌てて否定する礼子ちゃん。その両手をパタパタ振る様子は限りなくプリティーなのだが、俺は多少なりとも疑われていた事に軽くショックを受ける。
……もしかして俺って結構怖がられたり、誤解されたりするタイプ?

「う〜ん、そっか。怖がらせちゃったか……」

「ああっ、ごめんなさい! 私、決してそんなつもりじゃ……」

「いいよ、わかってるって。……それにこっちとしても礼子ちゃんを騙せないようじゃ、あいつらにバレちゃうからね。俺は意外と演技派だった、と思う事にするよ」

俺はニコリと笑いかけ、「さ、もうこの話はおしまいにしよ?」と言って手を差し出す。礼子ちゃんは少しだけ俺の手を見て黙っていたが、やがて優しくその手を掴み、そのまま俺に引っ張られるように立ち上がる。

「……えへへへ」

「〜〜」

照れ笑いを浮かべる礼子ちゃんを見て思わず赤面してしまう俺。それをすぐ横で俊太がニヤニヤしながら見ていたので、軽くケツに蹴りを入れて照れ隠し。
すると俊太は「ああー、けられたー」とか言いながら廊下の奥に消えていく。

……ヤツめ、なかなかやりおるわい。

2人きりにさせるため、ふざけているフリをしていなくなった俊太に心の中で感謝し、親指をビシッと立てる。……ホント、いい仕事してくれるぜ、あのガキんちょ。

「……あの、やっぱりあの人達は悪い人だったんですね?」

「うん。さすがに礼子ちゃんもそれには気付いてた……よ……ね?」

次第に声のトーンが落ちるというか、最後まで聞けなくなりそうな状態の俺。
礼子ちゃんは俺の問いかけに終始「?」マークを頭上に浮かべ、可愛く首を傾げている。まさか……

「?」

「い、いや、何でもないんだ」

「そうですか……?」

うん、深く考えるのはやめよう。そして事実を確認するのもやめておこう。
俺はあえて言及するでもなく、そのままこの話題を流そうとするのだが……

「私ったら隆志さんが来てくれるまで全然気付かなくて……。すごいですね、隆さん」

「あはははは……」

そうですか、やっぱり判ってませんでしたか。
う〜ん、やり口はベタだし、こういう詐欺の手口はニュースか何かで見聞きしててもいいんだけどなあ。
……まあ事前に知ってたとしても、礼子ちゃんの性格を考えると相手の口車に乗せられて買わされてた可能性が非常に高い。

乾いた笑いを浮かべ、俺は改めて俺がいる時に押し売りが来てよかったと思う。
いや、そりゃあ押し売りなんか来ないに越した事はないけど。

「……あ」

と、急に声を上げる礼子ちゃん。彼女の視線を追っていくと、そこには作業服姿の男が忘れていった消火器が。よく見ると玄関先にはさらに別サイズの消火器が数本置かれていた。

「ははは、さすがにこれを持って帰るだけの余裕はなかったか」

「そうですね」

「これで一応なくなったフォークの元は取れたね」

「え、でもあのフォークはすごい安物で……」

「いいじゃない、怖い思いをしたんだからさ、このくらい得しないと」

「は、はい……」

素直に頷く礼子ちゃん。
うんうん、その方が可愛いよ……って、俺は何を考えてるんだ。

「あ、あの……」

「ん? どした?」

「……ありがとうございます、本当に」

「いえいえ、どういたしまして」

俺の目をしっかり見つめ、そして深々と頭を下げる礼子ちゃん。
まるで命を救ってもらったかのような大袈裟っぷりに苦笑いを浮かべつつ、俺は謙遜半分、おふざけ半分といった感じで返事をする。
……が、礼子ちゃんは真剣そのもの、どこか思い詰めたように言葉を続ける。

「ダメですね、私。しっかりしないといけないのに、お姉ちゃんなのに、1人じゃ何も……」

「……」

うーん、そうなっちゃうかー
俺は礼子ちゃんの何でも自分のせいにして背負い込んでしまう性分を見て残念そうに息を吐く。
こういうのって真面目で責任感のある子がなりやすいんだよな。礼子ちゃんは十分にしっかりしてるんだから、もっと適当でいいのに……って、そんな事考えてる場合じゃないな。よし、押し売り撃退と一緒にこっちも解決させるか。

「礼子ちゃん」

「は、はい?」

強めの口調で、俺としてはかなり真剣な表情で礼子ちゃんの名前を呼ぶ。彼女はそんな俺に少し戸惑いながら返事をする。その顔は叱られる事を覚悟したような、ひどく弱々しい表情だった。

「……ご飯を食べてる時は判ってくれたのに、また同じ事の繰り返し?」

「え……」

「自分の料理には自信を持ってくれたじゃない。これも同じ事だよ。今だって誰か礼子ちゃんの事を責めたりした? 少なくとも俺はそんな事してない。騙されなくてよかったね、って事しか思ってない」

「……」

「もしかして礼子ちゃんには俺が怒っているように見えるのかな? 責めているような態度に映るのかな?」

「そ、そんな事ありませんっ」

ハッキリと、そしてしっかりと否定する礼子ちゃん。
……うん、それでいいんだよ。俺は心の中でそう呟くと、俊太にしたように彼女の頭に手を乗せ、くしゃくしゃと撫で回す。

「ひゃっ!?」

「……頑張りすぎ。もっと気楽に行こうよ。自分の家の中でまで気を張ってたら大変でしょ?」

「は、はい……。たいへん、です……。わたし、わたし……っ」

そう言って礼子ちゃんは涙を一粒流し、その場で俯いてしまう。

……ああ、溜め込んでたんだなあ。1人でずっと頑張ってたんだなあ。
俺は彼女の流す涙からこれまでの努力なり、色々と耐えてきた事なりを感じ取り、彼女が落ち着くまで優しく見守る事に。

――誰もいない玄関先、普段ならあくびが出そうな柔らかな昼下がり。
俺は今日初めてお邪魔した家の中、今日初めて会った女の子の涙を見つめていた。

……泣き止んで話せるようになったら、たくさん彼女の話を聞いてあげよう。
そう思い、俺は優しく、それでいてかなり遠慮がちに礼子ちゃんの肩に手をかける。
彼女はその手を振り払う事なく受け入れてくれた。だから俺はとん……とん……と一定のリズムで肩を優しく叩く。

もっといい方法が、女の子を元気付ける方法は他にあるかもしれない。
でも、俺にはこれしか思い浮かばなかった。
だから、俺は今出来る事を一生懸命した。


 13

――それから数十分。俺は泣き止んだ礼子ちゃんから色んな話を聞いていた。
お母さんを早くに亡くした事、お父さんは子供達のために毎日遅くまで仕事をしているという事、そしてそのお父さんはかなり有名なコンピュータ技師で、俺も色んなところで彼女のお父さんが開発した機械を使っている事を聞いた。

他にも兄弟の事、学校ではどういう生徒だったか、料理を覚えたきっかけや得意なメニューなんかも聞いた。
礼子ちゃんはもうすっかり元気になり、また少しだけ強くなったように思えた。
「これからは詐欺師さんが来ても私が撃退します!」と言って意気込む姿は微笑ましく、また不覚にもその可愛さに言葉を失い、悶えてしまった。

「いや、でもホントよかったよ。今日は全てが上手く噛み合ってるような気がする」

「ええっと、それは最初に言ってたランクアップ物々交換の事ですか?」

「んー、それもあるけど、やっぱ一番はさっきの詐欺師撃退かな」

「あはは、何かそう言われると照れますねー」

照れ笑いを浮かべる礼子ちゃん。やっぱり変わったな。何か明るさがさっきまでと違うもん。
俺は感情を全面に出して喋る彼女を見て頬を緩ませる。礼子ちゃんの笑顔はこっちまで笑顔にする不思議な力があった。

「あのさ、こういうケースって初めて?」

ふとそんな疑問が沸き、俺は彼女の笑顔に対する照れ隠しの意味も含めて質問してみる。さすがにあのスマイルでずっと見つめられたらとろけてしまいそうだ。

「はい、消火器を売りに来た方は今日が初めてです」

「そっか」

……ん、何かひっかかる言い方だな。
消火器は初めてだけど、他のベタな詐欺にはもう騙されてたりして。

俺は妙に不安になり、とりあえずすぐ思いつく代表的な訪問販売詐欺を挙げて見る事に。

「ちょっと聞きたいんだけど、もしかして電圧の点検をしに電力会社の人が来たりした?」

「あ、はい♪ 何かブレーカーに異常があったらしく、すぐに修理してくれました」

「……ちなみに修理費は?」

「ええっと、4万円くらいでした。特殊な部品を交換しないといけないって……」

……アウーチ。
まずは電力会社を名乗る嘘故障&修理には引っかかってる、と。

「じゃあガス会社から地震転倒防止用のチェーンを買った事は?」

「ありますあります。前の状態だと震度4の地震でプロパンガスが倒れてくるって……。助かりましたー」

「……」

現在、ヒット率は100%か……。こりゃ胃が痛くなってくるぞ。
俺は以降も質問を続ける事にそれなりの覚悟を決め、水道局のメーターチェック、電話会社の盗聴器探しなどの詐欺に遭ったかどうかを聞いていく。
その結果、何とこの家は俺が挙げた全ての訪問販売詐欺に引っかかっている事が判明。合計するとかなりの被害金額なのだが、礼子ちゃんから返って来た言葉は「お父さんのお給料で全然支払えますから♪」という、被害者意識ゼロの回答。
……お父さん、お忙しいのは判りますが、少しは用途を聞いてあげてください……

「うううう、そうなんですか……。わたし、騙されまくりじゃないでしゅかー」

質問に答え終えた後、俺から「どうしてそんな事を聞いたのか」の種明かしを聞き、ヘコみまくる礼子ちゃん。
まあ俺から真実を聞くまでは正しい事をした、悪い箇所を直したと思っていたのだから落ち込むのも無理はない。
あまりにもそのショックが強かったのか、少し幼児言葉になっていた。……だから可愛いって。悶えるって。

「あうあう、あれが全部詐欺師さんだったなんて……」

「……」

後悔しまくりな礼子ちゃん。しかし俺はその横で少し真剣になって考え込んでいた。

「……? どうしたんですか隆志さん?」

「うん、いくらなんでも引っかかりすぎだよなーって考えてた。さすがにこの騙され回数と頻度はおかしいよ」

「……そ、そうなんでしゅか?」

また何かショッキングな出来事でも……? とでも思ったのだろうか、またしても幼児言葉になる礼子ちゃん。怯えてる表情もまた可愛い……って、いかんいかん、何を考えてるんだ俺は。

「何だろう、狙われる理由……か」

そういえばテレビか何かで見た事がある、こういう詐欺師グループというのは横の繋がりが強く、カモになりそうな家なり人物なりをリークしている……と。

だとしたらこんなに狙いやすい家はないだろう。何せ成功率100%だ、詐欺師どもが見逃す訳がない。

……ではどうやってその情報を流す?
優良顧客名簿的なものが存在し、それを売買しているのか? だとしたら打つ手がない。

「いや、全部が全部そうとは限らないだろ……」

そんな頻繁にやり取りを交わしていると、どこかのグループがヘマして捕まった場合、その繋がりを洗われて一網打尽になる危険性がある。
やはり何か別の手段、アナログかデジタルかは判らないが、他の情報経路があるはずだ。

……ん? アナログ?

適当に述べていただけの推理だったが、俺はその中から気になるワードを見つけ、そこから一気にある仮定を作り出す。

……目印。

そうだよ、間違いない。
俺はその単語が頭に浮かんだ瞬間、問題となる全てのピースがぴったりと一致する。某少年探偵風に言うところの「謎は全て解けた」というヤツである。

――簡単かつ昔からあるアナログな伝達手段、それは目印。
古くは童話「アリババと40人の盗賊」にも登場し、家のドアに「×」印をつけて仲間に知らせる……というアレだ。
まあ童話内ではその目印に気付いた主人公によってその目的を果たせないようにされたのだが、おそらくこの家に付けられているであろう目印はまだ誰にも見つけられていないハズ。

「……よし」

「え? あれ、どこに……?」

俺はその目印を探すため、急いで靴を履いて家の外に飛び出す。
隣にいた礼子ちゃんは何が起きたのか全く判らない様子ではあったが、とりあえずといった感じで靴を履き、俺を追って玄関を後にする。

「……」

「……あの、一体どうしたんですか?」

すでに怪しい箇所はないか調べ始めた俺。礼子ちゃんはその背後から恐る恐るといった感じで質問してくる。

「目印があると思うんだ」

「はい? めじるし……ですか?」

「うん。きっと「この家は楽勝だぜ」っていう事を知らせる何かがあると思うんだ。その目印を頼りにすれば、全ての家を片っ端から回るより断然効率は上がるだろ」

「そっか……」

コクコクと激しく頷き、礼子ちゃんは「よーし」と言いながら"目印を探すモード"にスイッチオン。俺以上のやる気を見せ、道路に面した壁や郵便受けなど、片っ端から調べていく。

「……じゃあ俺はこっちから探しますかね」

そう言って俺は必死に目印を探す礼子ちゃんを横目で見ながら、そして頼もしい捜索仲間が出来た事を嬉しく思いながら、彼女とは別の場所から探す事に。

「ふむ……」

目印を付ける場所、か。
その家の人間に気付かれないように、それでいて探す時にすぐ見つかる……
一見矛盾しているようにも見えるが、きっと目印はこの条件を満たす場所にあるはずだ。

俺は腕を組みながら玄関先と道路を何度も往復し、低スペックな頭をフル回転。
まるで古代遺跡の謎解きをしているような感覚で目印の在り処を、ヒントと成り得る事象を探す。

「……」

目印の場所、目印の場所……
聞こえるか聞こえないかの小声でブツブツと呟きながら、今度はひたすら周囲をキョロキョロ見渡す俺。
さっき挙げた目印をつける場所の候補、条件として考えたのは2つ。普段はあまり人の目に触れない場所にさりげなく付ける、という手段がまず1つ。そして残る1つは盲点を突くような場所、要はいつも見ているものの、それが目印であると気付かないよう、大胆かつ巧妙に隠しているものだ。

もし目印が前者に属するものであるなら、見つけるのはきっと家の外側をくまなく探している礼子ちゃんだろう。
そしてもし目印が後者に属するものであった場合、見つける可能性が高いのは俺になる。何しろこの家に来たのは今日が初めて、つまり目標となる家を探す詐欺師グループに近い条件下にあるのだ。見慣れているがために見落としがある住人とは違い、固定概念が働かない事が最大のメリットとなる俺。

「……」

だから俺はあえて目に付きやすいもの、普段よく家族が行き来し、普通に目にしているであろうものを重点的に調べていく事に。
表札のどこかに不自然なキズはないか、チャイムのどこかにおかしな機械が取り付けられていないか、そういう感じで俺は次々と目標物を定めては徹底的に調べていく。

――そして5分後。

「うう……、全然それっぽいのが見つからない……」

と、家の周囲をぐるりと回って目印を探していた礼子ちゃんがギブ宣言と共に玄関先に戻ってくる。

「……」

一方の俺も目印は勿論、手がかりになりそうな場所も物も見つけられず、かなり困っていた。
……もしかしたら何かしらの目印があるという仮説自体間違っていたのだろうか。
そんな不安が脳裏をよぎる。

……いやいや、きっと目印はあるはず。それも意外な形で。
だって俺も礼子ちゃんも、怪しいところはしらみつぶしに探したはず。それで見つからないのであれば、あまりにも堂々と「これが目印ですよ」とアピールするものがあるに違いない。
例えば……そうだな、「ここはカモの家だぜシール」みたいなものが貼られているとか。

「ははは、まさかな」

それまで俺は目印=小さなキズのようなもの、という構図で考えていた。
だがその予想の元で動いても一向に答えに近付けず、俺は半分ヤケでそんな事を考える。

……が。

「……」

ピクリと動く眉毛、そして一点に向けられる視線。
俺は今のジョークのような予想を一度しっかりと、本気の考察ラインに乗せて分析を始める。そして考察を始めて十数秒、俺は考えを確かめるべく、おもむろに歩き出す。

「もしかして……」

「え? え? どうしたの?」

俺の後を付いて来る礼子ちゃん。どうやら彼女も俺が何か掴んで動いた事を察したようだ。

「……」

「?」

ぴたりと止まる俺の足、どうしてここで? と言わんばかりの表情を浮かべる礼子ちゃん。
2人が立っていた場所、そこはあと一歩で家の中という玄関の扉の前だった。

「え、あの、まさかここに……?」

「もしかしたら、な」

「そんな、だってここには……」

ありえない、目印がこんな場所にある訳ないじゃないですか。
そんな目と口調の礼子ちゃん。しかし俺は彼女の言葉には答えず、ひたすら玄関ドア上部を見つめ、そこに貼られているシールを1枚ずつ調べていく。

国営放送、家屋調査済みシール、「水洗」と書かれた水道局のシール……

貼られたのが数年前なのか、もう見え難くなっているものもあれば、毎年貼り替えられているであろうキレイなシールもある。
……と、俺はその中に1つ、どこかで見覚えはあるが、ここに貼っていていいマークではないシールを見つける。

「……?」

何だ、どこかで見た事はあるのに思い出せない……
くそっ、一体いつ、どこで見たんだ、このマーク?

俺は頭を高速でボリボリと掻き毟り、その場でクルクル回り出す。
そして思い出せ、思い出すんだ……と言い聞かせ、記憶の引き出しを片っ端から開けていく。

……どこだ? どこなんだっ!

探せば探すほど、記憶を解きほぐせば解すほど、逆に曖昧になるマークの所在。
どうしようもない事だとは思うが、だんだんとイライラしていくのが判った。

ゴンッ

「……痛ッ」

と、その時だった。思い出せないもどかしさ、ノドの近くまで答えが出ていながらそれ以上進展を見せない自分に苛立っていた俺は、さっきの2人組が忘れていった消火器に爪先をぶつけてしまう。
効き足の、それも小指で勢いよく蹴るように当たってしまったせいか、その痛みはかなりのもの。

「だ、大丈夫ですか!?」

「くそがぁッ!!!」

物に当たるなんて最低、自分の程度の低さを露呈するようなもの……
普段はそう言ってる俺だが、このイライラの中で味わった痛みに怒り心頭。
思わず感情に任せて消火器を地面に叩き付けそうになるも、隣にいた礼子ちゃんの声で何とか思い止まる。
だが痛いものはいたいし、ムカつくものはムカつく。

くそっ、何でこんなトコに置いて逃げるかな、あのクソスーツとクソ作業着め……

俺は撃退した2人の詐欺師の顔を思い出し、やっぱり数発くらい殴っておけばよかったと拳を強く握ろうとする。
しかしそんな硬いグーを礼子ちゃんに見られるのは得策ではない。きっと心配してくるだろうし、それに何よりこれ以上カッコ悪い部分は見せられない。

そう思い、俺は握った拳を彼女にバレないよう、ジャケットのポケットに突っ込む。

……ん?

すると拳の先に何かが当たる感覚。
なんだろうと思い、それを掴んで取り出すと……

「あった」

「へ?」

ポケットから出てきたのはスーツの野郎が渡してきた名刺。
どうせ架空の会社だし、名前も偽名だろうから何の意味もない。だから投げ捨てるか相手の目に刺さるよう飛ばすしかない。そう思っていた。

「……ビンゴだ」

そんな利用価値ゼロ、得られる情報なんて何もないだと思っていた名刺だが、今の俺に必要な情報はこの名刺の中にあった。

ヤツが俺に渡した名刺、そこには架空と思われる社名の上に、会社のロゴと思われるマークが印刷されていた。

……そう、そのマークこそが礼子ちゃんの家の玄関先、公共料金やら電波受信を示すシールの中に紛れ込んで貼られていたのだ。

「あの、一体何があったんですか……?」

「ん、ほら」

「あ……」

何事かと聞いてくる礼子ちゃんに俺は名刺を見せ、ロゴを指差す。
すると彼女も見る見るうちに表情を明るくさせ、やがてパアアッと満面の笑みを浮かべる。

「目印っ、これが目印だったんですねっ!?」

「ああ、間違いない。よく見たらこの家に貼られてるシール、本来なら年号を書き込むスペースにアルファベットが書かれてる。きっとこれは各詐欺師グループの名前、もしくは詐欺内容を示す頭文字だ」

「頭文字?」

「そう。例えばこの「G」はガスだろうし、「W」は水の事だと思う。きっと消火器を売れば、ファイヤーの「F」って文字辺りが書き加えられるんじゃないかな?」

「そうだよ、きっとそうだよ!」

俺の言葉に何度も頷く礼子ちゃん。その首の傾け具合は今日見てきた頷きの中で一番だった。

「よーし、じゃあこれを剥がして……と。はい、これでもう集中的に狙われる事はないと思うよ」

「あ、ありがとうございますっ!」

そう言って心底嬉しそうに笑い、礼子ちゃんは俺の手をがっしり掴んでブンブン振りまくる。完全にテンション上がりっぱなしの彼女だったが、不思議と振り回されている感、嫌な感じはなかった。

「やりましたね隆志さん! 私達の勝ちですよねっ!」

「ああ、そうだな」

勝ち負け、なのかなあ。
あとまだ俺の手を握ったままだって事、気付いてるのかな?
何かこのままだと素に戻った途端に「きゃあ」とか言って顔を真っ赤して謝る、みたいなベタな展開になりそうな……

「うううっ、これでもう騙されなくてすみま……って、あれ?」

「……」

気付いたな。我に返ってるな。
という事は当然この後は……

「あ、すいません。それじゃあ戻りましょうか」

「え゛っ!?」

無反応!? どうして? この流れは間違いなく王道パターンでしょ?
え、何? これじゃあ俺が色々期待してたみたいじゃん。うわっ、カッコ悪!

「? どうしました?」

「い、いや……。この目印シール、何かに使えないかなーって」

あははは、と超乾いた笑顔を無理矢理作り、機械的な笑い声で誤魔化す俺。
正直これで誤魔化せたかどうかは微妙なところなのだが……

「う〜ん、どうでしょう。何かありますかね?」

あ、誤魔化せた。何か普通に俺の話に乗ってきたし。
……わからん、急に礼子ちゃんの性格が読めなくなってきた。もしかしてかなりの天然キャラ?

俺はそう思いながら、一方でシールの再利用方法もしっかり考える。
実はさっきの発言も完全に誤魔化し目的で喋った、いわゆる口から出まかせなのだが、よく考えると何かいい使い方が出来るかもしれない。

「あ、そうだ。この辺にめちゃめちゃ怖い人の家とかある? それじゃなければ凶暴な犬を飼ってる家とか」

「ありますあります! しかも両方の条件を兼ね備えてるお家がすぐ近くに!」

「へえ。じゃあそこにこのシールを貼れば……」

「面白い事になるかも、ですねっ!」

「その家の人、そんなに怖いの?」

「はいっ、すごい筋肉ムキムキで、すごい力が強そうなんです。前に気合で着ている服を破ったのを見た事あるんですけど、スゴかったですよ」

「ふーん、それはスゴいね」

「あとそれからですね、ボディービルダーみたいに胸をピクピク動かせるんですけど、その勢いがハンパじゃなくて、ちょっとした風が起きるんです」

「へ、へえー、そうなんだ……」

「ふふっ、きっと詐欺師の方もビックリしますよっ」

と、イタズラを仕掛けるノリではしゃぎ出す礼子ちゃん。確かに面白い事になりそうだ。さっきみたいな三下詐欺師なら簡単に返り討ちに遭うだろう。
とりあえずその近所に住んでいるという怖い人物にかなり近い人を知ってはいるが、ここではあえて触れない事に。
……すいませんけど店長、社会のゴミが来たら駆除の方、お願いします。

俺はそう心の中で1人呟くと、後で目印シールを一緒に貼りに行く約束を交わし、まだ「ごちそうさま」を言ってない&後片付けもあるため、一旦家の中に。


 14

――こうして仲のいい大人数の兄弟を詐欺師の手から救い、さらに完璧すぎるほどのアフターケアも施す事となった俺。

……これでもう大丈夫だな。

俺は玄関先で靴を脱ぎながらそう思い、もうトラブルの類は起きないだろうと判断。後はここで俊太達と軽く遊び、夕方前に家に帰ってメシを食い、フロ入ってテレビ見ながらゴロゴロしているうちにウトウト……という流れで久し振りの休日は楽しく終了だ。

そんなまったりプランを考えながら廊下を歩き、台所へ戻ろうとしている時だった。

「ひゃあっ!?」

「うおっ!!」

と、大きな声が台所の方から聞こえてくる。
悲鳴……とはまた少し違うが、何かあったのは間違いない。俺は隣を歩いていた礼子ちゃんと目を合わせ、お互い無言のまま同時にコクリと頷いた後、そのまま足早に台所へと向かう。
そんなとてもいいコンビネーションを見せて進む俺達だったが、最初に聞こえてきた大声以降、それに続く声も聞こえなければ物音もしない。

……何だ? 一体どうしたよ?

これでもう大丈夫だな、とついさっき思ったばかりだというのに、早くもトラブル発生の匂い。俺は呆れ半分、こうなったらもう何でもきやがれ! という諦め半分で台所に。
例え何が起きようと驚くもんか、さっきみたいにズバッと解決してやる! そんな意気込みを胸に秘め、俺は勢いよく踏み込んだ。

「おい、どうしたっ!」

「みんな大丈夫!?」

まるでヒーローモノの主人公のように颯爽と登場する俺と礼子ちゃん。
これが民家の台所ではなく、しかるべき場所ならそれなりに格好もいいのだろうが……2人ともスリッパとか履いてるしなあ。

いやいや、例え見た目が頼りなさそうでも、俺には詐欺師2人組を撃退させた実績がある。
……さあ、何が起きた? 泥棒か? それとも誰かケガでもしたか? どんな事でも任せておけい!
俺はそんな熱い思いを胸に台所にいた兄弟達を見るのだが、返って来た反応は予想外のものだった。

「……あ、ねえちゃん達だ」

「おかえりー、ちょうどよかったよ」

「……」(×2)

……へ? 何この微妙な歓迎ムード。
さっきの大声は一体何だったんだろう。俺は目の前の平和な光景に拍子抜け。横では礼子ちゃんも同じような表情を浮かべていた。
まあ別に助けを求められたい訳でも、トラブルが起きて欲しかった訳でもないのだが……

「ねえちゃ、ねえちゃ!」

「聞いてよ2人とも! すごいんだよ!」

「どうしたの?」

「ん? 何があった?」

そう言って俺達の元に近付いてくる一番下のチビと竜也。2人はどこか興奮気味、何かを報告したくてたまらない、という表情だった。

……あれ? よく見るとみんなそう?

改めて台所にいた兄弟の顔を見渡す俺。すると全員が何かを隠すような、それでいて早くネタばらしをしたくてウズウズしているような表情を浮かべていた。
最初に感じた微妙な歓迎ムードはそのせいかもしれない。

「にいちゃん、姉ちゃん、大ニュースだよ!」

「大ニュース……?」(×2)

俺と礼子ちゃん、2人は全く同じタイミングで聞き返し、さらに同じ方向&角度で首を傾ける。もはやコンビ芸の域だった。

「うん、聞いたらきっと驚くと思うよ。だって……」

「ああっ、もう教えちゃうの? もっと引っ張ろうよー」

「だーめ、もうしゃべるのー」

と、年長組も年少組も関係なく微妙に揉め出す兄弟達。とりあえず何かいい事があり、それを俺と礼子ちゃんに報告したがっている……という事は把握出来た。

「そうだな、もったいぶるのも何だし、教えてもいいよな。……おい俊太」

「うんっ」

長男に名前を呼ばれ、兄弟の中で一番ウキウキしていたように見える俊太が俺と礼子ちゃんの前に立つ。俊太は背中に手を回し、後ろに何か隠し持っているようだった。

「どうした俊太?」

「へへへ、実はさ、台所に戻った後、にいちゃんにもらったチョコを食べようとしたんだ」

そんな話の切り出し方をする俊太。何やら大きなオチが待っていそうな感じがするのだが、それがどんなものかまでは推測出来ない。
……別に食べてもいいって礼子ちゃんも言ってたし、あのチョコにそんな秘密もないだろ?

「で、箱を開けて食べようとしたら……」

俊太はそう言いながら背中に隠していたものを俺達に見せる。
それは俺がみんなにあげたチョコの箱。別に珍しくも何ともない、少し隅が潰れているだけの箱に見えるのだが、それは俺の目が節穴なのだろうか。
そんな事を考えながら俺は俊太の手にするチョコの箱をもっとよく見ようと顔を近づけるのだが……

「ジャーン! こんなの出てきちゃった!」

「うおっ!?」

そんな俺の行動などお構いなし、俊太は満面の笑みを浮かべながら大声を上げ、箱の内側を見せてくる。そこには何か文字のようなものが書かれていた。

「……おい俊太、どうでもいいけど急に大声出すなよ」

「そうだよ、鼓膜が破れたらどうするのよ?」

と、俺と礼子ちゃんは俊太にダメ出し。どんなサプライズがあるかは知らないが、俺の鼓膜が破れたらそれが一番のサプライズになってしまう。……そんな衝撃の展開いらねえっての。

「えへへ、ごめんなさーい」

「オメー、あんまり悪気ねえだろ」

ったく、反省の度合いゼロだな。
何があったか知らんけど、もう少し配慮というものをだな……

俺は心の中でそうブツブツと呟きながらも、俊太からチョコの箱を受け取り、それを礼子ちゃんと2人で覗き込むようにして内側に書かれた文字を読む。

「……ん?」

「当たり、って書いてますね」

「ああ。そういや何かプレゼントキャンペーンとかやってたな」

箱の裏側に印刷されていたのは「当たり」という大きな文字。その下に何やら説明文というか応募方法が書かれていたが、その辺はスルー。

とりあえず何かが当たったらしい。俺と礼子ちゃんはその程度の認識で当選を知り、そのままお気楽なノリで何が当たったのかを調べる。

「ええっとなになに、当たりが出たら……」

「あ、ここに書いてますよ」

そう言って礼子ちゃんはキャンペーンを知らせる広告スペースを見つけ、箱の一部分を指差す。そこにはテレビや学校の教科書なんかで見た写真が載っていた。

「……かいがい、りょこう」(×2)

またしても2人の声が見事に重なる。別に合図もなかれば、合わせようとした訳でもない。
ただそこに書かれている文字を読んだだけなのだが……って、海外旅行!?

「ちょちょちょ、ちょっと待った。マ、マジで!?」

「えとえと、その……マジ、みたいですぅ〜」

アワワワワワ……と慌てまくる俺と礼子ちゃん。まだにわかには信じられない……というか、しっかり実感していないのがよく判る。何か地に足が付いてない感じだった。

「で、で、で、どこに行けるの?」

「は、はいっ、ええっと……」

ワタワタと震え出す2人。一応さっきから礼子ちゃんが箱に書かれた広告部分を指差しているのだが、すでに震えてどこを差しているのか判らない。
っていうか箱を持ってる俺の手も震えてるじゃん。ダブルでブレまくりじゃん。

「……おーすと、らりあ」

「……」

「……」

「オーストラリア?」

「……」

「……」

「え……?」

「マジ……?」

間の抜けたスカスカのレスポンスを続ける俺と礼子ちゃん。
確かにチョコの箱には夕日を浴びて真っ赤に染まるエアーズロックの写真が載っている。地理は好きじゃない俺だが、この岩がどこにあるかくらいは知ってるが、どうもそれが今の状況と結びつかない。

……ええっと、もしかしてここに行けるのが当たったの?
うん、そうだろうな。箱にエアーズロックの写真載せて、当たりが出たらベネズエラ旅行をプレゼント、とかだったらおかしいもんな。

……でも本当に当たったの? いや、当たりって書いてるのは判るよ? でもさ、こういうのって普通は当たらないでしょ? っていうか会社の関係者が当たりを持ってくシステムとかじゃないの?

と、脳内フル回転で色々と考えを巡らす俺。まあその大半は余計な事を考えるのに使ってしまっているのだが、これはまだ俺が錯乱状態にあるからなのか、それとも本能が現実を認めようとしていないのか……
う〜ん、判らん。何も判らない。もしかしたら今ここで世界地図を出され、「オーストラリアはどこだ?」と言われたらテンパってハンガリーを指差すかもしれない。うわっ、オーストリアでもねえ!

「……」

「……」

相変らず無言のまま、その場で固まった状態の俺と礼子ちゃん。
おそらく彼女も必死に頭の中で状況を整理・把握しているのだろうが、果たして上手く頭は働いているのだろうか。俺はふとそんな心配を、疑問とも呼べる感情を礼子ちゃんに抱く。

「……パンダ?」

「いや、コアラ」

「あ、そっか……」

「……」

「……」

「カモノハシ?」

「そうだけど……普通カンガルーの方が先に出ない?」

「あ、そうかも……」

う〜ん、俺よりは近い事を考えてるな。
最初のパンダは大間違いだが、それ以降出てきた動物はオーストラリアを代表する種だった。……何だろう、もしかして礼子ちゃんは動物が好きなのだろうか?

「……って、オーストラリアっ!!?」

「ッ!?」

急に大声で国名を叫ぶ礼子ちゃん。どうやら完全に得た情報と頭の回転が一致したようだ。
……って、さっき俊太に鼓膜がどうのこうの言った人が、それより大声&近距離で叫びますか。

そんなツッコミを心の中で入れつつも、俺も今の礼子ちゃんの声で思考が正常に戻る。……うん、間違いでも夢でもない。この貰い物のチョコでオーストラリア旅行が当たったのだ。

「……うわっ、スゲー」

超遅れてその凄さを実感する俺。もっと叫びまくるかと思いきや、意外と冷静でいられる自分に少しビックリ。
まあすぐ隣であんなに驚いてる人を見たら嫌でも落ち着くか。

「どどどどど、どうしましょう隆志さんっ!?」

「どうするって……そりゃあ行くしかないでしょう」

「でもでもでも、全員は行けませんよぅ。ペア2名様って書いてますもん」

「そっか……」

まあそうだよな。普通こういうのってペア旅行だもんな。
俺は再びオロオロアタフタを始めた礼子ちゃんの手を取り、何とか落ち着くようぎゅっと握りつつ、そんな事を考える。
……う〜ん、こういう場合、兄弟が多いと大変だよなあ。

「あ、あとそれに元はこのチョコ、隆志さんのものですし……」

「いや、それは気にしなくていいよ。俺が自分の意思であげたものだし」

「そそそそんな、でも悪いですよぅ。オーストラリアですよ? グレートバリアリーフですよ? パシフィックハイウェイですよ? 首都はシドニーと見せかけてキャンベラなオーストラリアですよ?」

「う、うん……。それは知ってるけど……」

やけに詳しいな。パシフィックハイウェイはそんなメジャーって訳でもないだろ? もしかして礼子ちゃん、オーストラリアマニア?
思わずそんな妄想を広げてしまう俺。……いやいや、まさかそんな。

「どうしましょう、私オーストラリアに行ってみたかったんですぅ〜」

「そ、そうなんだ」

ビンゴ? やっぱりビンゴなの?
何だこの凄すぎる展開。もう今日という日は礼子ちゃんのためにあるんじゃね? ってくらいラッキーだろ。
……あ、でもさっき怖い思いしたしな。一概にそうとは言えんか。

「はうあう、オーストラリア〜〜」

「あーあ、トリップしてるよ」

俺は恍惚の表情を浮かべ、すでに脳内ではオーストラリア上陸を果たしているのでは? と思わずにはいられない礼子ちゃんを見ながら苦笑い。
……そんなに好きな国だったんだ。よかったじゃない。
心の中でそう呟き、俺は海外旅行ゲットを素直に祝福する……って、あれ? でもこのチョコの持ち主は俊太じゃなかったっけ?

「はううっ、そうだ俊太ゴメン! この箱は俊太のだったもんね」

あ、気付いた。
一応教えておいた方がいいよな……と思っていた俺だが、どうやら言わなくてもよさそうだ。

「いいよ、別にボク、姉ちゃんみたいにオーストラリア好きじゃないし」

「ええっ、どうして!? だってオーストラリアだよ?」

「いや、だからさ……」

うわ、俊太が困ってる。何かここだけ見たら俊太の方が大人だよな。
……う〜ん、すごいな、礼子ちゃんのオーストラリア愛。まさか「だってオーストラリアだよ?」っていう言葉が出るとは思わなかった。そんなの全然理由になってねえよ。

「だからさ、姉ちゃんとにいちゃんで行ってきなよ」

「え……?」

「は……?」

ちょ、ちょっと待った。もしかして今、俺って言った?
それまで完全に旅行とは無関係、「よかったね」もしくは「いってらっしゃい」な気分でいた俺。しかしここに来て急に名前を出され、礼子ちゃんと2人でオーストラリアに行けとまで言われた。

……いやいやいや、それは色々マズイだろ!?
俊太、オメーも何言ってんだ。いくら子供でも男女の問題くらい察せるだろ?
って、別に俺は礼子ちゃんと付き合ってる訳じゃねえんだし、そんな男女の情事に発展するなんてそんな……

と、1人で勝手に慌て、勝手にピンクな妄想を膨らませる俺。
うわ、何かもう行く気満々みてえじゃねえか。バカバカバカ、俺の馬鹿っ!

「さっき兄ちゃん達と話し合ったんだけど、みんな2人に行って来て欲しいってさ」

「え……」

「お、おい、マジか……」

「にいちゃん、さっき悪いやつらから姉ちゃんやボクらを守ってくれたろ? それにこのチョコをくれたのはにいちゃんだし……」

「いや、チョコは俺が自分の意思でだな――」

「らめえ、にいちゃはねえちゃとおーりとらりあにいくの!」

俺の弁明を遮る声。見ると一番下のチビが頬を膨らませていた。どうやらかなりご立腹のようすだが……俺が悪いのか?

「俺からもお願いできますかね? きっとその方が姉ちゃんも楽しいと思うんです。どうしても他の兄弟と行くと、そっちの面倒を見ようとするでしょうし」

「……」

非常に的確に、それでいて説得力のある事を言ってくる長男。さすがは年長組、といったところだろうか。

「あとやっぱり揉めると思うんです、私達から1人だけお姉ちゃんと一緒に旅行……っていうのは。だからお願いします、お姉ちゃんと2人でオーストラリアに行って来てください」

「……」

続いてもう1人の年長組、俺が皿洗いを申し出た時にきっぱり断った次女が口を開く。彼女もまた長男同様、言葉に説得力があった。

「行ってきなよ、にいちゃん」

「そうだよ、家の事ならボク達だけでも何とかなるし、一応父さんだっているしさ」

そう言ってきたのは俊太と竜也。もうこの2人の中では「姉ちゃんいない間の留守はボクが守る!」という意気込みが生まれているようだった。とてもいい目をしていた。

「……ど、どうしよっか?」

「え、あ、はい……」

下の兄弟全員に推される形で、しかもかなりの強力プッシュを受け、俺は礼子ちゃんに意見を仰ぐ。ここで彼女がどういう決断を下しても、俺はそれに従うつもりでいた。
もし礼子ちゃんが誰とも旅行に行かない、下の兄弟を置いて日本を離れるのはイヤだと言ったら、俺はみんなに礼子ちゃんの気持ちを判ってもらうよう、必死に説得する覚悟を決めていた。
……というかそういう流れになりそうな気がした。

「あ、あの……、よろしければ一緒に行きませんか?」

「え……、俺は別にいいけど……」

あら、予想外な展開。
いいんですか礼子ちゃん? いいですか俺と海外旅行なんて?

まさか「いってらっしゃい」の立場にいた俺が「いってきます」の側になるなんて……

俺はまさかの指名に驚きまくり。さっきの海外旅行当選判明の時に十分すぎるほど驚いていたのだが、今の気分はそれ以上だった。

「……」

でも……なんだろう、このホッとした気持ちは。

どうして俺、こんなにドキドキしてるんだろう。

どうしてこんなに、涙が出そうなほどに嬉しい気分になってるだろう。

と、そんな事を考える俺。
……いや、きっと本当は何も考えなくてよかった。考える必要なんか微塵もなかった。

「あ、あの、無理はしないでくださいね。い、いやなら断って――」

「行くよ」

「……え?」

遠慮がちな礼子ちゃんの声を遮り、力強い口調で俺は自分の意思を伝える。
彼女にお願いされたか行くんじゃない、みんなからお願いされたから行くんじゃない。

「行くよ。イヤなんて言う訳ないじゃん」

「……」

「っていうか行きたい。礼子ちゃんとオーストラリアに行きたいんだ」

「……あ」

「だからこれは俺からのお願い。……どうか俺を連れてってくれないかな?」

「……」

これは告白……になるのだろうか。
俺を選んでくれ。ペア旅行の相手にしてくれ。
確かにそれは告白に聞こえなくもない。パートナーにしてくれ、と言っているのだから。

ただ、いかんせん早すぎる告白である事も判っている。
俺と礼子ちゃんが出会ったのは今日。まだ数時間しか経っていないのだ。

……でも。

好きになったのは仕方ない。こういう事に、誰かに惹かれて恋する事に時間や距離や年齢なんて関係ない……と俺は思っている。というか思いたい。

……でも。

それはあくまで俺の意見であり、ある種のエゴである可能性も否定は出来ない。
この場合、判断を下すのは礼子ちゃん本人。俺の言葉に含まれた真意を、好きだという気持ちを汲んでくれたら、こんな嬉しい事はない。

……だから。

うんって、言ってくれると、いいな……

「……」

「……」

俺は礼子ちゃんの言葉を待つ。別にすぐに恋人のそれになろうという訳ではない。旅行先で本格的にお互いの事を知り、その上で帰国後もいい関係でいられるなら俺としては本望だ。

そんな出来すぎな、俺の求める最高の結果じゃなくてもいい。ただ俺は礼子ちゃんを――

「……はい、こちらこそ」

「あ……」

心の中で弁明を始めそうになったその瞬間、俺は礼子ちゃんの口から最高に嬉しい言葉を聞く。
その声は恥ずかしさもあって、照れもあって、まだちょっと恐縮してる感じもあったけど……

「わたし、隆志さんの事が好きですから。今日一日で好きになってしまいましたから」

「礼子、ちゃん……」

「だからお願いするのはやっぱり私の方からです」

そう言って礼子ちゃんはテーブルの上にチョコを箱を、オーストラリアへと繋がる大事なアイテムをそっと置き、俺の手にそっと自分の手を乗せてくる。

「隆志さん、私を……オーストラリアに連れて行ってください。お願いします」

ぎゅっと握られる手。そして静かに瞑る目、すっ……と伸びるつま先。
礼子ちゃんは俺にある行為を求めてきていた。

「……うん、連れてくよ。一緒に楽しもうね」

「はい……んんっ」

礼子ちゃんの返事が終わるや否や、俺はその可愛い唇に自身の唇を重なる。

その行為は勿論キス。それは彼女が求めてきたものであり、俺もしたかった事。

俺と礼子ちゃんは兄弟みんなが見てる前で、キスをした。
そして俺と礼子ちゃんはみんなの見ている前で、恋人になったのだった――


 15

……それから1ヵ月後。
初めて礼子ちゃんと出会い、その日のうちに付き合う事になり、さらには一緒に海外旅行に行く事まで決めた俺は、速攻で彼女を家に連れて行き、家族に報告を兼ねた挨拶を済ませた。そして手短に経緯なり何なりを説明し、オーストラリア行きを伝え、了承を得る。
こういう時、超物分かりのいい家族は本当に楽だと思う。話し合いは一瞬、「行く」「行ってらっしゃい」というクイックリーなやり取りで俺は晴れてオーストラリア行きを決めた。
まあ姉貴に「私と替われ」と言われたが、それは軽くスルー。その後、あっちで買うと安いらしいナントカという香水を土産に買ってくる事で和解した。

そして今度は俺が礼子ちゃんのお父さんに会い、挨拶と旅行の承認を得る事に。
彼女のお父さんは本当に忙しいらしく、俺は用件の全てを電話で済ませた。というか電話以外に手段がなかった。彼女のお父さんは施設の査察で日本にいなかった。

電話で初めての会話、お互い顔が見えない状態での挨拶というのは逆に緊張したのだが、礼子ちゃんのお父さんはかなり気さくな人で、すぐに慣れる事が出来た。さらに彼女のお父さんは理解力に長け、我が子への信頼もかなりのもの。2人の交際を快諾したのは勿論、海外への旅行も2つ返事でOKしてくれた。

……と、こうして全てが順調な運びとなり、俺と礼子ちゃんはこうして無事、出発の日を迎える事が出来た。

「ん、あと10分で搭乗か」

「いよいよオーストラリアだね♪」

「ああ。こっちも向こうも晴れてるみたいだし、絶好の旅行日和になるな」

「うんっ」

空港のロビーで2人、手を繋ぎながら飛行機を待つ俺と礼子ちゃん。
その近くにはウチの家族&彼女の兄弟全員、そして諸々の事情からバイト先の店長が見送りに来ていた。

お互いの親に挨拶を済ませ、何の問題もなく交際をスタートさせた2人。
バイト先から彼女の家まで徒歩3分という事もあり、俺はバイトが早く終わった日は基本的に彼女の家に寄り、下の兄弟達と遊んだりご飯をごちそうになったりと、ゆったりまったりなラブライフを送っていた。

……が、やはりオーストラリア行きが近付いてくると1つ問題が浮上する。
それは何と言っても幼い兄弟だけで家の留守を任せる、という事。
旅行は4泊6日。その間、2日はウチの親が子供達を招いて面倒を見るという話になっていたのだが、それでも4日は不安な日になってしまう。

下の兄弟達は「大丈夫だ」「心配するな」と言うものの、礼子ちゃんにしてみれば心配で仕方ない。俺も何かいい案はないかと考えを巡らすも、そう簡単に解決策は見つからず、悩みのタネとなっていたのだが、それを解決してくれたのは店長だった。

詐欺師2人を追い払い、目印シールを見つけた時に礼子ちゃんが言っていた「近所に住む怖い人」はやっぱり店長。俺はバイト中に何気なく彼女が出来た事を話し、その流れで住んでいる場所を喋ったところ、「それ、ウチの近くじゃねえか」という事に。その後、俺は店長に詐欺師の話や下に兄弟が6人いる事、そしてオーストラリア旅行を控えている事を話すと、「じゃあそのクソチビ6匹、ウチで預かってやろうじゃねえか」と言われ、礼子ちゃんとの協議の結果、お願いする事に。何でも一番下のチビ2人は外で遊んでいる時に何度か店長と会った事があるらしく、チビ曰く「おともだち」との事。
そういう経緯もあり、後日俺は礼子ちゃんと共に店長の家に行き、しっかりと頭を下げて留守中の事を頼んだ。

そして旅行当日、これまた店長がマイクロバス(店で使う送迎用)を用意し、全員を空港まで連れて行ってくれる、というサービスの良さを発揮。
おかげで俺達はみんなに見送られながら日本を経つ事が出来るようになったのだった。

「おい、一応もう動いた方がいいんじゃねえか?」

「あ、はい、そうですね」

店長にそう言われ、俺と礼子ちゃんは横に置いていたトランクに手をかける。
そして2人は俺の両親(+ヒマだから付いてきたという姉貴)、礼子ちゃんの兄弟、店長……と、見送りに着てくれたみんなの前に立ち、行ってきますの挨拶をする。

「ええっと、そんじゃま行ってきます。ここにいる方には全員、俺と彼女が真剣に選んで決めたお土産が渡される予定ですので、楽しみにしててください」

「はいはーい、待ってるわよー」

そう言ってひらひらと手を振るのは姉貴。この人のお土産だけは忘れてはいけない。

「ねえちゃ、にいちゃ、いってらしゃー」

「おかち、かってきてねー」

必死に手を振るのはチビ2人。どうやらあっちには本場の「コアラのマ○チ」があると思っているらしく、それを激しく所望していた。……それに近いお菓子を探さなくては。

「それじゃあね、にいちゃん」

「姉ちゃん、はしゃぎすぎるなよ」

「1回は電話が欲しいな」

「こっちの事はきにしなくていいからさ、楽しんできてね」

チビ2人に続き、礼子の兄弟達がそれぞれ口を開く。俊太辺りは寂しさで泣き出すんじゃないかと思っていたが、みんな笑顔で俺達を見送ってくれた。
その奥ではウチの両親、そして店長が無言で手を振っている。まあ両親からは旅行の一週間前からずっと「ハメをはずしすぎるな」「相手の娘さんに手を出すな」的な注意を受けていたので、さすがにもう言う事はないだろう。残る店長はさっきから「毎晩欠かさずにな!」という卑猥なアイコンタクトを送ってきている。……すいません店長、毎晩は無理です。

「それじゃあ行ってきます。おじさん、おばさん、店長さん、ありがとうございます。みんなも元気でね!」

と、最後に礼子ちゃんが挨拶をして、いってきますセレモニーは終了。
みんなに見送られながら俺と礼子ちゃんはぴったりと寄り添い、搭乗口へと歩き出すのだが……

「おい、せっかくだから空港にいる全員に見せ付けてやれ。何でもお前達、最初のキスは兄弟全員が見てる前だって?」

「ちょっ、店長、何言ってるんスか!?」

「〜〜〜っ」

いきなり公衆の面前でのキスをリクエストする店長。
あんたバカだろ! あーもう、礼子ちゃんなんか真っ赤になってるじゃねえかよ!

「どうもお前らは思い切りが足りねえんだよな。海の向こうは大胆豪快なヤツばっかだからな。負けずに張り合うには照れや恥じらいを捨てろ!」

「何を言ってるんだあの脳内筋肉は……」

まあ理解出来なくもない言い分だが、別にここでキスする必要はない。向こうに行ってみんながそうしてれば同じようにするだけ、やる時はやるっつーの。

俺はそう心の中で反論し、断固拒否の構えを取る。
しかし、そんな俺の気持ちとは裏腹に、なぜかやる気になってるのが隣にいた。

「……うん、そうかも。恥ずかしがってばかりいられない……」

「おいおい、何で信じきってるんだよ」

礼子ちゃんは店長の言葉に感銘を受けてしまったらしく、何やらさっきから様子が微妙におかしい。

……これはもしかするともしかするかも。
俺はそう思い、ある種の覚悟を決める。
もしここで礼子ちゃんに先手を取られるとなると、以降ここにいる人達に何と言われるか判らない。「甲斐性なし」とか「奥手ボーイ」とか言われるのは勘弁だ。

「なあ礼子ちゃん……」

「は、はいっ!?」

「その、キス、いい……かな?」

「はい……。私はいつでも」

くはっ! 何て健気で可愛い事を言ってくれるんだ礼子ちゃんは。
俺は彼女のその一言でノックアウト、理性の大部分と羞恥心を失い、周囲の視線も気にならなくなる。それに何といっても彼女のお許しが出たのだ、これはもうやるしか……っ!

……バッ

次の瞬間、俺はトランクを手放し、代わりに彼女を抱きしめる。
本当はずっとこうしていたい、トランクを握るより手を握っていたかった。

「……っ」

「ん、んんっ」

そして何より、俺はどんな言葉を囁くよりも、愛の言葉を口にする以上に、礼子ちゃんの唇に自分の唇を重ね合わせていたかった。

……だから。

俺は、礼子ちゃんにキスをした。

誰よりも大切で、大好きで、ずっとこうしていたいから。

俺は、礼子ちゃんにキスをした。

……見送りに来ていたみんなから「よくやった!」「このドエロ!」「いいぞバカ弟〜」という声が聞こえる中、周囲から冷やかしの口笛が鳴る中。

俺はとても数奇な巡り合わせで、色んな経緯を経て出会った彼女と熱い熱い口付けを交わす。

そう、全てはあの何気ない休日、たまたま貰ったノド飴から始まった。

言うならばそれは現代版の「わらしべ長者」

でも俺は長者にはならなかった。

でも俺は長者になるよりもっといいものを、素敵な人と巡り合えた。


――その日、俺はノド飴をもらった。

――そして、色んな事があって、その飴は彼女になった。

――もし今、俺の隣にいる彼女の事を「わらしべ彼女」って言ったら、彼女は怒るだろうか。

――ふと、そんな事を考える俺。

――とりあえず、色々言いたい事はあるけど……

俺、最高に幸せです――







                                       「わらしべ彼女」 END





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