「幸せの食卓」




午後9時半、今日も少し遅めの帰宅となった。
俺は疲れた身体引きずりつつ、暗い玄関を抜け、これまた暗いリビングへ。

…パチン

明かりを点け、ネクタイを緩めつつリビングの奥へ。
そして俺はテーブルに向かい、自分のイスの背に上着をかける。

「…ふう」

ちょっと疲れた…かな。
漏れる息は大きく、また疲労の色が見て取れる。

慣れないスーツ、慣れない革靴、そして慣れない言葉遣い…
俺を疲れさせるに十分なそれは肉体的にだけではなく、精神的なものも大きかった。

「……」

チラリとテーブルを見る。
そこには逆さに置かれた茶碗と味噌汁椀、そして数枚の皿が並んでいた。
皿には料理が乗っているが、これは何も俺に用意された夕食ではない。
青海苔入りの玉子焼き、程よい焼き色が付いた紅鮭、ほうれん草のおひたし、そして味付き海苔…と、並んでいたのは完全なる朝食メニュー。

寝坊して朝食抜きになった、とかいう事ではない。
今日の朝、俺はこれと全く同じものを食べて家を出ていた。
というかそもそも、この料理を作ったのは俺だ。

「…今日も、か」

まあ仕方ないさ。
それにこうなると思って夕食はノープラン、冷蔵庫の中にも目ぼしい食材は無いし、買物もして来ていない。
…そりゃあこの料理が無くなっていれば、少しでも食べてもらえていたら、こんな嬉しい事は無い。
その時は財布を逆さにして寿司でも取るさ。トロだって頭に「中」とか「大」とか付いてるヤツを頼むっちゅうねん。

「…はあ」

何を言ってるんだか…
俺はため息と共に「フッ」と力なく笑い、キッチンへと向かう。

「…」

カチャ、チチチチ…ボッ

ガスコンロに火を点け、味噌汁を温める。
その間に夕食になってしまった朝食をレンジに入れ、こちらも同様に温める。

だがいくら味噌汁が温まろうと、紅鮭から湯気が上がろうが、この食卓の空気は冷め切ったままだ。
…何かスゲーつまんねえ事ほざいてるな俺。しかも全然上手くねえし。

「…アホくさ」

残り温め時間2秒、チンと鳴る間際にレンジを開け、ドンとテーブルに置く。
そして茶碗に米をよそい、箸を並べた所でちょうど味噌汁の鍋が噴き始める。

…はいはい、今止めますよ。だからそんなに鳴んな。

カタカタ…カタ

火を止め、それまで適度に暴れていたフタが大人しくなる。
味噌汁の具は豆腐とネギ、そしてワカメというオーソドックスな組み合わせ。
本当は味、風味共に落ちるため、味噌汁というのは沸騰させてはいけないのだが、別にそんな事はどうでもいい。
豆腐が硬くなろうと、ネギがグデグデになろうと、水分が飛んで塩辛くなっても味噌汁は味噌汁だ。

「っていうか元からそんなに美味くねえっつうの」

そう吐き捨てるように言いながら、俺はイスにドスッと腰掛ける。
米を研いで炊いたのも俺、インスタントではなくわざわざ手作りで味噌汁を作ったのも俺、料理を作ったのも俺。
しかし、俺の趣味は料理ではないし、職にしている訳でもない。

作る人がいなかったから仕方なく自分が作る。
それが長くなれば多少は作れるものは増えるし、要領だってよくなる。
ただ、それだけの事だ…と言い切りたいが、正直自信が無い。

肉は水曜日に買うと安く済むし、魚は夜の8時半以降に値引きシールを貼られるの待つべき、卵は金曜日に3000円以上買物をすれば1パックくれる…
これがこの1年で俺が覚えた生活の知恵、いつも行くスーパーにおける買物術。

別に覚えたくて覚えたのではない。今だって買物に行くのは億劫だ。
しかし、日々の食事のため仕方なくと思っていたこれらの所作も、今では生活の一部となっている。

「…ま、正確には「なってしまっている」なんだけど。…ング」

醤油たっぷり、嫌でもご飯がすすむほうれん草のおひたしを一口食べ、直後に茶碗の中身を一気にかきこむ。
大して美味くはない食事だが、空腹という名のスパイスが加わるとこんなもん、俺はそのまま炊飯器に手を伸ばし、3杯目に突入する。

その後、茶碗の半分は鮭で、もう半分は味噌汁をぶっかけて流し込み、夕食は終了。
時間にして5分強、TVを見ながらでもなければ一切の会話もない状態、さらに元々早食いなのを加味すると、食事に要する時間はこのくらいで十分足りる。
俺は一服することもなく食器を持って立ち上がり、そのままシンクへ。

「さて、洗い物洗い物…っと」

蛇口を捻り、まずは水の勢いで食べ残しを洗い流す。
そしてスポンジを手に取り、液体洗剤をたっぷりかけて何度か握りしめ、程よく泡立たせた所で洗い物開始。水はずっと豪快に流しっぱなし、食器の枚数にそぐわない洗剤量…と、地球に厳しい事この上ない洗い方をする俺。
やはりどうしても皿洗いは好きになれなかった。



時刻は11時半、食器を片付け終えた俺は続いて洗濯を済ませ、それからシャワー。さっぱりした所で自室に戻り、ビール片手にテレビを点けながらパソコンを開きながら時折音楽を聴きながら…と、時間を怠惰に、そして贅沢に使う。
本来ならこのダラダラした時間はもうしばらく、睡魔にノックアウトされる寸前まで続くのだが、今の生活リズムになってからは自重。
まあ朝が早くなった事に加え、格段に忙しくなったので仕方なくこうなったのだが、生活リズムが規則正しくなって困る事は無い。それに実際の所、起きているより寝ている方が楽、何も考えずに済むというのがここまで素晴らしい事だというのが最近になってようやく解ってきた…というか痛感するようになっていた。

「…ふわ」

…ねむい。
大きなあくび、涙ぐむ瞳、そしてフワフワのベッドに横になりたい衝動。
それらを遺憾なく感じつつ時計に目を向けると、思っていた以上にいい時間になっていた。

「…2時半、か。5時間眠れりゃ大丈夫だろ」

俺はそう言いながら半分閉じかけた瞼で、やけに重く感じる身体を引きずり、愛しの寝床へダイブ。起き上がるのが面倒なので部屋の明かりも消さず、そのまま寝る。
今日一日の疲れの他、蓄積された疲れも加わり、俺は羊を数えることも無くすぐに眠りの世界へ。

こうして俺の淡白極まりない、無味無臭とも面白味に欠けるとも若さを感じないとも思われる1日は終わる。
そして残念ながら、このあっさりした1日はほぼ変わる事無く明日も続くのであった。



「……」

とりあえず…起きてるな。
俺は布団から顔を出し、今この状況がリアルの世界である事、夢の世界でもなければ、夢の中で今起きた夢を見ている訳ではない事を理解。意外と素直に起き上がり、音が鳴り出す5分前となっていた目覚ましのアラームを消す。
そして静かにドアを開け、静かに階段を下り、静かにキッチンへ。
そういえば朝刊を取りに行くの忘れたな…と思いながらも玄関に向かう事は無く、冷蔵庫を開けて朝食の準備を始める。

……ハム、卵……くらいしか使えそうなモンがねえな。
決して冷蔵庫の中はガラガラでないのだが、他の食材は朝食に使うには少しヘヴィすぎた。
朝から豚肩ロース、しかも厚切りはさすがにキビしいよな。…中学生とか食べ盛りの頃なら全然いけたんだけど。

「まあコレは弁当に使うとして、朝は何にしようかな…と」

そう言いながらも、この材料で俺が作れるものなんて限られている。それでも冷蔵庫の中身としばし睨めっこを続けてあがいてみるも、やはり何も思い浮かばない。
俺は仕方なくそのハムと卵を取り出し、続いて戸棚から食パンの包みを手にする。そしてシンク横に移動し、まな板を用意。包みから食パンを4枚並べ、内2枚の上にハムを乗せ、塩コショウを振りかける。

ガチャガチャ…
ここでボウルを取り出し、卵を割り入れてかき混ぜる。続いてフライパンに火を付けて油を適量注ぎ、その間にパンをサンドして卵の入ったボウルに通してフライパンに並べる。
この後少ししたらひっくり返し、半分に切って皿に乗せれば適当フレンチサンドの完成。後はマヨネーズなりケチャップなり好きなものをかけて食えばいい。

「…ひゃへと…」
自分の中では「さてと」と言いたかったが、まだ口の中に残るパンがそれを阻む。
まあそんなのはどうでもいい。俺は立ったままで、そして30秒で朝食を摂取。すぐさま昼食作りに入る。
使うのは先程の豚肉。これに市販の焼肉のタレをぶっかけ、まだ熱いプライパンの中に投げ込んで再度点火。そして弁当箱を手にしながら炊飯器を開け、全体に米を敷き詰める。
一度肉をひっくり返し、焦げないようにしたら今度は冷凍庫。そこから冷食の1口コロッケを取り出し、小皿に移してレンジに投入。
ちょうどそこで肉が焼けたので、弁当箱に敷かれた米の上に並べ、タレも豪快に垂らす。そして温まったコロッケを隅に無理矢理押し込め、その上から今度はフタを無理矢理はめて弁当完成。中身は大半が米という、見た目以上の重量を誇る弁当箱をカバンに入れ、俺は家を後にした。
…2つ作ったフレンチトーストの内、1つはキレイに皿に盛って食卓に並べたまま。



その夜。
大体昨日と同じ時間帯に帰宅。手には朝持っていったカバンの他、スーパーの袋とたこ焼きの包みがあった。

「…ただいま、と」

静かにリビングのドアを開け、俺はそのままキッチンへ。
そして食卓に並んだまま、朝と全く同じ状態のフレンチトーストを見て軽くため息を吐き、おもむろに皿を手に取る。

「…今日は、パンの気分じゃ、ないんだ」

詫びを入れるようにそう言うと、俺はキッチン横のゴミ箱を開け、皿に乗ったそれをバサッと捨てる。
さっきの言葉にもあったように、夕食にこれを食べようとは思わなかった。
というか自分で作ったものを食べたくなかった。

食べなくても味は判っている、同じようなものしか作れないので飽きた、そんな理由から俺は本日の夕食を出来合いのもの、スーパーで割引になっていたおにぎりとマカロニサラダ、そしてスーパーの前で店を出していた屋台のたこ焼きにしようと考えていた。

…プシュ
ペットボトルのお茶を開け、まずはおにぎりの海苔を付ける作業に取り掛かる。
今日買ったのは昆布、おかか、そしてもう1つ昆布…と、そりゃ売れ残って30円引かれるよね、という地味な具のおにぎり。
そりゃあ1つくらいはメジャーというか定番品、ツナマヨとか明太子が食べたかったが、まあ別にどれも嫌いじゃないからいい。そう思ってカゴに入れていた。

「…何だ、タコよりチクワの方が多いじゃねえか。気前いいなと思ったら…」

おにぎりを1口、そして少しお茶を飲み、たこ焼きを1つほおばる…。
途中で文句も出たが、最後までそのローテーションを崩さず順番にクチに入れて夕食終了。
俺はここから昨日と全く同じ時間の使い方、全く同じ行動を取る。

食器を洗い、風呂に入り、適当に自室でダラダラして、適当な時間に布団に潜る…
俺はそんな変わり映えのしない、ある意味規則正しい時を過ごし、次の日を迎えようとしていた。

…が、今日は寝ている途中で一度目が覚め、起きたついでにトイレに行く事に。
昨日と唯一違う行動が夜中起きてトイレ、というのも寂しい話だな…と思いながら暗い廊下を歩き、トイレに入ろうとした。
…と、その時だった。

ガタ。

廊下の奥、リビングとは逆方向から物音が聞こえた。
そこは両親の、いや、今は母親の寝室。
暗闇の中、その少し開いた寝室のドアから見えたものは…

「〜〜〜ッ、〜〜〜!!!」

「母さん…」

唸り声とも、荒い息遣いとも取れる音。
それは俺よりも全然小さく、華奢な身体から発せられているとは思えない程の大きなもの。
そして何より、正常な人間が発するものではなかった。

「フーッ、フーッ、フーッ!!」

警戒心丸出し、まるで威嚇するかのような母の声。
…いや、「まるで」ではない。その暗闇の中から微かに見せる母の顔、母の目からは完全に俺を怯え、また敵対心をむき出しにしていた。

「大丈夫、近付かないし何もしない。すぐにいなくなるから・・・」

「〜〜〜ッ、〜〜〜!!!!」

努めて穏やかに、精一杯相手の感情を逆撫でしないよう喋ったのだが、残念ながらその俺の気持ちは通じなかった。
まあ頭の中ではこうなると、こういう反応が返って来るとは思っていたが、やはり実際に睨まれると気分は滅入る。
この常に口を開き、涎を垂らしながらハアハアと息をしてこちらを睨んでいるのが自分の母親だという事実。
出来れば信じたくない、認めたくない、現実ではないと思いたいが、これが俺のリアルだった。


…母は、精神を病んでいた。
何度か正式な病名は聞いたが、あまりに長くて覚えていない。そして覚えたくもなかった。
発症の理由は…不明。おそらく色々な要素が組み合わさったのではないか、というのが診断した医師の見解だった。

しかし、俺も父も、その原因を、原因だと思われる要素の1つも解らなかった。それは今でも変わらない。
近所付き合い、仕事、夫婦間の問題…、どれも精神を来たすような事例、事柄はなかった。
…ただ、あの人はとても神経質な面があり、些細な事でも気に止めては心配していた。
しかし、その神経質な面を発揮する、発揮せざるを得ない場所、点がどこにあったのか、それが全く解らなかった。



「…ふう」
母に会い、逃げ帰るように自室に戻ってきた自分。
時刻は朝4時少し前、だが眠気は完全に吹き飛んでいた。

…さっき起きてたって事は、最低でも今日の夕方までは眠ってるな。
俺は今までの母の行動、生活のリズムからそう察し、朝食の時間に顔を合わせる可能性がまず無い事を確認。とても不謹慎な事だが安堵の表情を浮かべ、そのまま朝食のメニューを考えていた。


…昨日、そして今日、勿論その前からずっとずっと作っていた2人分の食事。
それは当然自分と母の分。
父親は仕事の関係でほとんど家には戻らず、たまに母の様子を見るため、俺に変わった事はなかったどうかを聞きに来るだけ。

だから俺は毎朝早く起き、好きでもない料理を作っていた。
そしてその母のために用意した朝食を夜に自分が食べる…というのをずっと繰り返していた。
いつか食べてくれると思いながら作る食事。しかし今まで母が食事を摂った事はなかった。
一応自分で薬を、病院から渡された栄養錠剤を飲む事は出来る母。そのため命を落とす危険性はないが、やはり一般的な食事を摂るのが好ましい、との事。

だから俺は毎日食事を作り、「その日」が来るのをずっと待っていた。
この生活が始まった当初は特にその思い入れが強く、頑張って、そして期待を胸に秘めながら食事の用意をしていた。

しかし、その頑張って作った料理が1週間、1ヶ月、半年…と一切手を付けられず、さらに家の中で会う度に睨まれ、唸り声を上げられる内にその思いは萎み、今では新たにレパートリーを増やそうと思う気すら起きなくなっていた。

…が、それでも俺は今まで一度も食事を作らなかった事はない。
それは意地にも似た挑戦。諦めない、決して諦めないという意思表示の何物でもなかった。


…この生活が始まってから、もうどれくらい経つのだろう。
そんな事を、ふと考える。
いつからだったのか、思い出せないし思い出したくない。
ただ、願わくばこの日々に、一見出口のない螺旋回廊のような生活に、いい形で終わりを告げたかった。
それだけを思い、俺は生きていた。



次の日。
朝食はご飯、ジャガイモの味噌汁、玉子焼き、さつま揚げの醤油炒め。
そして夕食も、ご飯とジャガイモの味噌汁と玉子焼きとさつま揚げの醤油炒めだった。



次の日。
朝食はシイタケとネギの雑炊、白菜のおひたし、朝食用ホテルウインナー。
そして夕食も雑炊とおひたしとウインナーだった。



次の日。
朝食はトースト、コーンポタージュ、焼いたベーコン、ホールコーン、そして適当にちぎったレタス。
夕食はそれらを捨て、コンビニで買ったカツ丼とウーロン茶で済ませた。



次の日。
朝食はご飯、納豆、冷食のミニハンバーグ。…実はちょっと寝坊した。
さすがに少々物悲しいメニュー構成だったので、母の食事には目玉焼きをプラスした。
その結果、夕食は目玉焼きバーグになった。ミニハンバーグに普通の目玉焼き、というアンバランス極まりない状態に苦笑いしつつ、それを丼飯の上に乗せてかき混ぜて食べた。



…そんな夕食にミニハンバーグ目玉丼を食べた日の夜中の事だった。
咽喉の渇きを覚え、何か飲物でも…とリビングに向かった所、TVが付きっぱなしになっているのを発見。
ここ最近はリビングでTVを見ないため、多少不思議に、そして怪訝そうに近付くと、何やらビデオテープが数本散らばっているのが見えた。

これは…
TV台の下には20本近くのビデオテープがあったのだが、手を付けていた…というか散らばっていたのは全て映画を撮ったもの。
自分がこれらを見た記憶がない、という事は必然的に見たのは母になる。

「…どうしたんだろ、急に」

そう言いながら散らばっているテープを、その状態から1度はデッキに入れて再生したであろう事が見て取れる数本のテープを拾い上げてみる。

「…」

棚に仕舞っていた時は全て最後まで巻き戻していたテープ。しかし手に取ったものは全て途中まで再生されていた。
しかしその再生時間はまちまち、開始後10分も見ていないであろうもの、半分くらいまで見たもの、最後まで見たもの…と、タイトル毎に視聴状況に大きな差があった。
これは見ていて面白くない、つまらないと判断した時点で見るのを止め、次のテープに手を伸ばしていった…という事だろうか?
とりあえず俺は散らばったテープを元の棚に戻す事に。その途中、全てのテープをしっかり巻き戻そうかとも思ったが、面倒なので今日はヤメ。後で時間とやる気があったら手を付ける、という事にしてリビングを後にした。



次の日。
朝食はツナサンド、コーヒー、バナナ。
夕食はそれらを捨て、スーパーで買ってきた惣菜の白身フライ、きんぴらごぼう、肉団子を食べる。



次の日。
朝食は生卵かけご飯、ワカメの味噌汁、玉子焼き。あまり食欲がなかった。
そんな訳で母親の食事には1品プラス、冷食の鶏ササミ野菜巻きを2本つけた。
…今になって思えば生卵に玉子焼きというのはバランスが悪いような気がする。


そしてその日の夜、帰宅後リビングに戻るとTVの前にまたビデオテープが散乱していた。
それを見た俺は夕食の前に片付けをしながらぼんやりとタイトルをチェック、すると先日は手を付けなかったテープの中に、この前最後まで見たと思われるタイトルが2本混じっていた。

「…何だろう、そんなに気に入ったのかな…」

その2本のテープを見ると、今回も最後まで見たような状態になっていた。
勿論先日のまま、ただ手に取っただけで見ていない、という可能性もあったが、巻き戻して再度見た可能性だったある。
俺はそのどっちか判らないテープをデッキに入れ、最初まで巻き戻す。
もし今後、またこのテープに入った映画を見ていたら、そのタイトルに内容の近い映画でもレンタルしてこよう。
別に映画を見せる事が病気の症状緩和、回復に繋がるという訳ではないだろうが、少しでも気が落ち着くのであれば、それだけでもやってみる価値はある。
俺はそう思い、テープのラベルに書かれたタイトル名をしっかり覚えた。



次の日。
今日は休日、という事で朝の慌しさと弁当はナシ。
とりあえずピザトーストで簡単に朝食を済ませ、昼はインスタントラーメン、夜はカレーにした。



次の日。
朝食は肉じゃが。ちょっと重いメニュー、そして朝っぱらから肉じゃがを作ったのか?と思われるかもしれないが、実は昨日のカレー、仕上げにルーを入れる前に鍋の一部を別容器に移しておき、今日の朝はそれに醤油と砂糖と酒を入れて肉じゃがにしていたのだ。
こうすれば調味料を入れ、軽く煮立てば完成という簡単肉じゃがの出来上がり。
どちらもあまり大量に作ると後が大変…というか数日は続いてしまうため、飽きるのを避けるために考えた自分なりのテクニックである。
そして夕食は昨日の残りのカレーを全て片付けた。



次の日。
朝食はご飯、油揚げの味噌汁、玉子焼き、そして残り物の肉じゃが。
そして夕食はそれら朝食メニューにスーパーから買ってきたジャンボチキンカツを加え、ボリュームを増した構成にして炊飯器に残っていた米を食べ尽くした。


…その日の夜。
風呂から上がると、脱衣所前の廊下で母に会ってしまった。
どうやら母も風呂に入りたかった…というか、ちょうどその前に自分が入ってしまったらしく、俺が出てくるまで廊下で待っていたようだった。

「フンッ、〜〜ッ!!」

俺を見るなり、この世のものとは思えない形相で俺を睨みつける母。
ボサボサした髪、乱れた衣服もあいまって、その姿はもはや鬼女の類。
そこには以前、年齢より5歳以上は若く見られていた母の面影はなかった。

必死に昔を、「これでも他の人よりは使っている化粧品の数は少ないのよ」と言っていた母を思い出し、投影し、今の母に照らし合わせ、何とか共通点を見つけては「きっと戻れる、病気さえ治ればあの頃の母さんに戻れる」と思い続ける…
それが俺を正常に、この行為と手順を踏む事で俺は何とか気持ちを繋げる事が出来ていた。
言い聞かせ、思い込みの呪文になってきた感もあるが、そこはあえて目を伏せ、決して掘り下げないようにしていた俺。

…まだこれが出来ている、言葉は悪いが自分を騙せている間は大丈夫だ。

…目の前にいるのは、たった1人の、俺の母なのだ。

そう思い、俺は目の前で肩を大きく上下させながら小刻みに震える母の前から立ち去る。
向かう先は自室。俺がこの家で唯一気を使わずにいれる空間だった。


「…」
ここ数ヶ月、症状は小康状態を維持している。
よくもならないが悪くもならない、それが果たしていい事なのかどうかは判らないが、それでも悪化していないのならいいじゃないか…

俺はカレンダーに目を向け、そろそろ母の服用している薬を貰いに病院に行く日が近付いてる事を把握。次の休みにでも足を運ぼうと思い、そのまま眠りについた。



次の日。
朝食はフレンチトースト、牛乳、レタスとハムのサラダ。今日はマーガリンとハチミツの甘いバージョンにしてみた。
そして夕食。フレンチトーストは当然甘い。朝の時点では「大丈夫、晩も食べれる」と思っていたが、気分というのは常に変化を見せるもので、いざ夕食になると微妙に手が止まる。
結局完食はしたが、しばらく甘い系の朝食はやめようと思った。



次の日。
朝食はご飯、豆腐の味噌汁、ハムエッグ。
夕食は牛丼屋に寄って持ち帰りで買った肉をおかずに米をたらふく食べた。
…ハムエッグ牛丼はアリだ。

そしてその日の夜中、寝床に潜り込んでしばらくした時だった。階下から何やらガサゴソという音が聞こえ、その後から音楽と人の声が微かではあるが聞こえてくる。

「…映画、見てるのかな…」

さすがにこの小さな音量、何と言っているかも判らない声から映画のタイトルを把握する事は出来ないが、とりあえず母がリビングでビデオを見ている事は確か。
漏れ聞こえてくる音が不自然に途切れたり、また急に声の調子や音質が変わらない辺り、途中でテープ交換をしている様子は見受けられない。

…という事は、また同じ映画を見てる…のか?

俺は母がそこまで連続で同じ映画を見る理由、そしてどんな映画を見ているのかが気になり、そっと部屋を出る。
別に見つかる危険を犯さなくても、明日になってデッキを確認すれば済む事ではある。
しかし、なぜか俺は今すぐ知りたかった。

…何か、母の状態がよくなる要素、手がかりが隠されているかもしれない…

直感的?本能的?どっちかは知らないし、そんなのはどっちでもいいのだが、とりあえず俺はそんな感覚を受け、それを信じて、半ば操られるように行動を開始していた。

…、…、…ミシ。

うわ、鳴るなよ。
ったく、このボロ階段が…

ゆっくり、そして一歩一歩慎重に。
まず指先を下ろし、続いてそっと足裏全体を付いた所で一旦停止。
そんな牛歩戦術でリビングに向かうこと数分、俺はようやくドアの前に辿り着く。

…さて、ここまで来たのはいいけど。
どうする?中に入るのか?
俺はドアノブに手をかけたまましばらく苦悩。一応音を立てずにドアを開け、そっと近付く事は可能だが、それでも母に見つからないという保証はない。

もしここで見つかってしまい、以降一切ビデオを見なくなったら…
そんな後ろ向きに傾いた、ネガティブ一直線な思考に囚われる俺。
確かにリビングの中に入らなくても、聞き耳を立てていればここからでも十分に音は聞こえる。
しかし、タイトルを確認する事なら明日でも出来る。俺が確認したい事は、母がどんな様子で、何を考えながらその映画を見ているか、の1点。
そのためにはここではなく、中に入って母の顔を見るしかない。

「…」

…よし、いこう。
俺は覚悟を決め、今のところ人生最大級のスニーキングミッションに挑む。

…カ…チャ。

まずは最小限の音量でドアを開ける事に成功、続いて潜入を開始する。
ここからTVの前まで行くには最低でも10歩近く歩かなくてはいけない。おそらく母はTVの正面、しかもソファに座ってではなく、床にそのまま座って映画を見ているはずだ。
俺は先日、先々日のビデオテープの散乱具合、TV前の床に円を書くように置かれた状態からそう判断。気持ち腰を低くしながら歩き出し、ソファの後ろを通って母の横顔が見える場所まで移動する。
母は俺がリビングに入った時から画面に釘付け、微動だにせず映画を見ていた。

…何か、時代を感じさせる映画だな。

見ていたのはかなり昔の洋画。俺は見た事のないタイトルだった。
自分はあまり映画は見ない方だが、それでも有名どころ、良作とされている作品はそれなりに知っている。
だが今母が見ているのは、この前の片付けで始めて知ったタイトル。もしかしたら内容を見れば何か判る、忘れていたのを思い出すかも…という考えがあったが、残念ながら主人公とヒロインらしき役者を見てもピンとこなかった。

「……」

そんな俺の全く知らない映画を食い入るように見ている母。
その横顔は普段俺に見せる敵意を顕にしたものではなく、久しく見ていなかった普通の顔だった。

……母さん……

食い入るように映画を見る母を食い入るように見る俺。
明かりの点いていないリビングの中、画面から漏れる光の中、それはきっとおかしな光景に映るのだろうが、そんな事は関係ない。

俺はその真剣な眼差しで、まるで自分が出演しているかのように固唾を呑んで話の流れを追っていく母の様子から、やはりこの映画には何かあると確信。
本当はもう少し映画を見る母を見ていたかったのだが、見つかる危険を考慮してリビングから立ち去る事に。
…いや、きっとそれは建前。本音はおそらくあれだけ真面目に映画を見ている母の邪魔をしたくないから、だろう。


「…」

部屋に戻った俺はボーっと天井を眺め、何かを考えているような、それでいて何も考えていないような状態でいた。

何かしらの手がかりのようなものを掴めたのは確か、と思っていいだろう。
しかし、いくら鍵を見つけようとも、鍵穴を発見しなければ意味が無い。

今のところはここで手詰まり、か。
…仕方ない、こんな不確定要素満載、もしかしたら見当違いかもしれない状態ではあるが、一度親父に話してみるか。
俺はそう結論付け、そのまま毛布をかぶって瞳を閉じた。



次の日。
朝食はご飯、麩の味噌汁、玉子焼き、焼き鮭。
昨日の一件、久し振りに母の素顔を見たから…かどうかは知らないが、俺は母が玉子焼きが好きだった事を思い出していた。
別に常日頃から大好物だ、と言っていた訳ではない。
ただ、いつも母は朝食の時1つだけ玉子焼きを残し、最後にゆっくり食べていた。
そして、父の弁当に入れる玉子焼きを作っている時、本当に楽しそうな顔をしていた。

…どうして忘れていたんだろう。
俺はその何度となく見ていた光景、鼻歌交じりに卵をひっくり返している姿を、まだ幼い自分が母の皿に残った最期の玉子焼きをねだり、「これはお母さんの」と優しく断られた事を忘れていた事に、そして今日になってそれが鮮明に思い出された事に疑問を抱く。

「まあ…、そんな事を考えている余裕なんかなかったもんな」

焼き鮭の身をほぐし、骨をどかしながらそう呟く俺。
確かに母が病気になってからしばらくは慣れない家事と母の状態で大忙し、昔の日常の一コマを思い出している余裕はなかった。
こうやって以前の生活を思い出した、という事は今の生活に完全に順応したからななのか、それとも無意識の内に昔を懐かしんでいる、もしくは当時に戻りたい願望があるのか…

「知らねえよ、そんなの」

だから無意識っていうんだろ、自覚がある訳ねえだろ。
そうバッサリと斬り捨て、豪快に味噌汁椀をすする。
これで朝食終了、俺は急いでカバンに弁当を入れ、家を後にした。

ちなみにその日の夕食は朝と同じ。
いくら俺が何かを思い出したからといって、母が朝食に手を付ける事には当然ながら繋がらないのだ。



次の日。
朝食はクロワッサンにレタスとハムを挟んだサンドイッチと紅茶、そして玉子焼き。
何か効果があるとは思えないが、今日から必ずメニューに玉子焼きを加える事にした。
…自分でもよく判らないが、この玉子焼きには何かある、ただ単に母の好物だった事以外にも何かある…、そんな気がしていた。

その夜、夕食はそれらを捨て、スーパーで割引になっていた「おかずセットA」を買って済ませる。
おかずセットはABCと3種類あり、Aが一番高かったのだが、手羽先の揚げたヤツがあったので迷わずチョイス。アレは美味い。もうどこで売ってるものでもいい、それだけ好物だった。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、缶詰のさんま蒲焼、そして玉子焼き。
味噌汁は具ナシ、缶詰も皿に移さずそのまま…という事からも判るように、今日は時間がなかった。でも玉子焼きだけはちゃんと作った。

夜はそこに焼肉が追加。1人でホットプレートを出して焼肉、というのもいかがなものかと思うが、セール品の牛カルビの誘惑には勝てなかった。混じってるニンニクの芽が美味いんだよな。



次の日。
今日は休み。朝からいなり寿司なんかを作ってみる。勿論玉子焼き付き。
市販の寿司酢に市販の味つき揚げで作るいなりだが、味はそれなり…というか自分で最初から作るよりは全然マシだろう。
夜はあまった寿司飯の上に適当なものを乗せて散らし寿司にした。



次の日。
朝食はご飯、ネギの味噌汁、目玉焼き、そして玉子焼き。
最近、当然ながら卵の減りが早い。特に今日は目玉焼きもあったので使用量は純粋に倍。W卵料理もいいものだ。…ラクだし。
夜はそこに適当に作った肉野菜炒めが追加。

その日の深夜、また階下から物音が。
今日はリビングの中には入らなかったが、廊下から聞こえる声、音を聞き、前と同じ映画を見ている事を確認。本当に好きなんだな、と思う。



次の日。
朝食はご飯、ネギとワカメの味噌汁、ほうれん草のおひたし、味付け海苔、玉子焼き。
夜はそれらに惣菜のエビフライが追加。

…やはりどうしても玉子焼きが気になる。
何か中に入れたものが昔、食卓に並んでいたような気がするのだが、それが何なのか、どういう時に並んでいたのか判らない。
おめでたい時、という訳ではなかったと思うのだが、かといって普通の日に出ていたとも思えない。なんだったのだろう…



次の日。
朝食はたっぷりイチゴジャムを塗ったトーストと牛乳、そしてハムと玉子焼き。
構成的は玉子焼きよりスクランブルエッグなのだろうが…
夕食はそれらを捨て、最近出来た弁当屋で買ったから揚げ山菜弁当を食べる。
…もうあの弁当屋で食事を買いに行く事はないと思う。

ちなみに今日、夕食の買出しをいつものスーパーではなく、その弁当屋にしたのには少し理由がある。
先日から何度となく母が見ている映画、もしかしたらあれにも何かしら現状の好転に繋がる要因があると思い、俺は普段の帰路を少し外れてレンタルビデオ屋に寄っていた。
そして母が見ていた映画のタイトルを店員に告げ、いつ撮られてどこの国で創られたものかを聞く。その上で今日は同じ監督の作品を2本借り、そっとリビングのビデオデッキ前に置いてみた。
果たして母は見てくれるのか、そして何か変化はあるのだろうか…



次の日。
朝食はご飯、豆腐の味噌汁、豆腐と野菜の炒め物、玉子焼き。
豆腐の賞味期限がデンジャーな事になっていた…というか3日過ぎていたので、強制的に今日は豆腐がメイン食材。
夜は朝食メニューの他、スーパーで買ってきたササミフライをプラス。

…その日の深夜、リビングから物音が。
おそらくだが昨日借りてきた映画を見ているようだ。明日速攻で確認しよう。



次の日。
いつもより30分早起きして階下へ向かう。そして真っ先にキッチン…ではなく、TVの前に。
借りてきたビデオは確かに母に見られた形跡があったのだが、テープを見るにどちらも完走まではしなかった様子。
1本は開始数十分、もう1本も半分を過ぎた辺りで見るのをやめていた。

「…ま、監督で選ぶほど映画好き、って訳でもないからな」

俺はそう言いながらテープを巻き戻し、返却の用意をする。
監督で統一したのはビデオ屋でこの監督でコーナーを組んでいたから。何やら最近ヒット作を撮ったらしく、その絡みで昔の映画も並べていた…、そういう理由で借りたのだが、それはやはり失敗だった。
…次は主演の役者で統一だな。

と、こうしてビデオの巻き戻し&片付けをしてから朝食作りを開始。
メニューはご飯、大根の味噌汁、納豆、玉子焼き。
大根は味噌汁に使った他、すりおろして玉子焼きの上にちょこんと乗せてみた。
醤油を垂らして食べると結構美味かったが、特にピンとくる事はなかった。
玉子焼きに何かひっかかるのがある、というのは俺の勘違い、思い込みなのだろうか…

その日の帰り、ビデオを返却に行く。そして今度は主役の男優が出ていて、母が見ていた映画と同時期に撮られたものを数本借りて帰宅。この前と同じようにビデオデッキ前に並べておく事に。

夕食は朝のメニューに加え、適当に焼いた豚肉の上に余った大根おろしとポン酢をかけたものがプラス。まあまあ美味かったが、茹でてしゃぶしゃぶ風にした方がよかったと思った。


…夜中。少し遅めの風呂を済ませ、廊下に出た所で母とバッタリ会う。
部屋からリビングに向かう途中だったようだったのだが…

「ウウウ…、ヴァアッ!」

「ゴメン、すぐいなくなるから!」

「フ〜ッ、フ〜ッ!」

慌てて階段を昇り、その場を立ち去る俺。
終始背後からは母の唸り声、警戒心と威嚇が入り混じった声を浴びながら部屋に戻る。
やはり俺の言っている事は信じてもらえない…というか伝わらないのだろうか。
そう考えるとどうしても気が滅入るし、母に対して何もしていない、何もしてあげられていない自分が悪者に思えてしまう。…俺は無力だ。


「……」

もしかして今のでもう映画を見るのを止めてしまうんじゃないか。
部屋に戻り、早々に明かりを消して寝床に潜りこんだ俺はそんな事を考えては不安に陥る。

不用意に風呂に入ったから、いつもと違う時間帯に階下に降りたから…
おそらくこれらは自分を責めるような事ではないかもしれない。しかし、普段どおりの生活パターンを送っていれば回避出来ていた事だけに、どうしても後ろめたい気持ちが勝ってしまう。

結局、この日はほとんど眠れずに朝を迎えてしまった。



次の日。
朝食はトースト、ベーコンエッグ、玉子焼き。
食欲がなかったので、ベーコンエッグと玉子焼きは母の分だけ。俺はトーストにマーガリンを塗ったもの1枚で朝食を済ませた。

夜はそれら母の朝食がそのまま俺の夕食に。焼いて半日以上経ったトーストにおいしさなど無く、俺はただ淡々と、黙々とそのボソボソしたパンを口に入れ、半熟に焼き上げたはずが黄身まで固まっているベーコンエッグと共に水で胃に流し込んだ。
固く、下手をしたら口の中を傷付けてしまいそうなベーコンと不味くぬるい水道水のコラボレーションは不快極まりなかったが、俺は何一つ言葉を発する事無く食事を終えた。

…そして、今日帰ってきた時点でも借りてきたビデオは手付かずのままだった。



次の日。
今日は休みなので遅めの朝食。メニューはピザトーストとコーヒーと玉子焼き。
玉子焼きは少し手を加え、溶いてフライパンに流し込んだ後、ピザトーストにも使ったスライスチーズを乗せてからクルクルと巻いてみた。この前の大根おろし乗せと同じくらい美味かった。

そして朝食を済ませた後、俺は母の薬をもらいに病院へ。
バスで20分、少し市街地から離れた場所にある目的地に着いた俺はすぐに受付カウンターに向かい、いつもの手続きを済ませる。
しばらくして名前を呼ばれ、続いて向かった先は会計カウンター。ここで今回受け取る薬の種類、個数が書かれた紙を貰って会計を済ませ、今度は病院の隣にある薬局センターへと移動。
何やら面倒な手順だが、これでも多少は取るべき工程を飛ばしている。
本来は薬をもらうだけでも医師の診察が必要、その上で処方箋を出してもらわないといけないのだが…

「…こればっかりは親父に感謝だな」

病院を出て別棟の薬局センターに向かう途中、そう呟いて今出てきたばかりの建物を見る。
何やらここには親父の古くからの友人がいるらしく、その人が結構なお偉いさんらしい。
そのため、母が精神を病んだ時も色々とよくしてくれたし、こうして本来必要な医師の診断ナシでも薬をもらえるようになっている。
もしこれが薬を貰いに行く度に母を連れていくとなると、かなり大変だったろう。

…と、そんな事を考えている時だった。

♪〜〜、〜〜

「…ん、電話か」

そういえば病院の中にいる間、電源を切るのを忘れてたな…
次来た時はちゃんと切らないと。そう思いながらディスプレイを見ると、そこには父の名前があった。

…ピッ

「もしもし」

『もしもし、今話せるか?』

「ああ、ちょうど病院を出たとこ。これから薬局に向かう」

『そうか。…いやな、ついさっき小森から電話があって、一応俺の所にも症状の変化は無いかどうか聞いてきたんだ』

「症状の変化って…、親父ここ1ヶ月ウチに帰ってきてねえだろ」

『まあそうなんだが…』

言葉に詰まる親父。さすがに少しは悪いと思っているのだろう。
だが彼も仕事で大変な身、別に俺はこの状況を責める気もないし、「たまには帰って来い」とか言う気もなかった。
言葉は悪いが、親父が家に来たところで意味は無い。事態が好転しないのは既に実証済みだった。
…ちなみに親父の言葉に出てきた小森という人物がこの病院のお偉いさんだ。

「…で、電話の用件は?」

『なに、いつもと同じだ。…母さんの様子はどうだ?』

「病状は変わらねえよ。…ただ、この前からちょっと変わった事が起きてる」

『変わった事?』

「…ああ、実は―」

こうして俺は親父に映画の話、最近になって急に母がリビングでビデオを見るようになった事、そして見るのは決まって同じタイトルである事を伝え、何か思い当たる節はないかどうかを聞く。
しかし返って来た父の言葉は「聞いた事はあるが、特に母との関連や思い出はないはず」というもの。
昔一緒に観に行った気がしないでもない…という曖昧な言葉がその後に続くも、記憶力のいい親父が覚えていないという事は、きっと2人の共通の思い出ではなさそうだった。

『…すまんな、力になれなくて』

「気にすんなって。それにこの事が何かに役立つとは限らねえんだから」

『そうか?お前の勘は鋭いからな。意外と的を得ている…というか真意に近い所を突いてるんじゃないか?』

「う〜ん、まあそうだといいけど…」

『…何にせよお前が母さんのために頑張っているのは確かなんだ。俺はそれが嬉しいし、何より感謝している』

「はいはい。…で、「悪いがもうしばらく母さんを頼んでいいか?」に続くんだろ?」

『…ふう、かなわんな』

「ま、あんま期待されても困るけど、とりあえず俺がやれる事は全部やってみるよ」

『…頼む』

「おう。…そんじゃま、俺はそろそろ薬をもらってくるよ」

『分かった。…今週末には一度家に帰ってこれそうだ、その時に一度ビデオを確認してみよう』

「ん」

『…大丈夫だ、別に無理して帰る訳じゃない』

「ならいいけど。…あ、そうだ親父」

電話を切る間際、ふと俺は映画とは別の気になってた事を思い出し、一応聞いてみる事に。

『どうした?』

「母さんって玉子焼き、好きだったよな?」

『そうだな』

「…聞きたいんだけど、特にその中でも好きな具ってあったっけ?」

『具?』

「一緒に巻くのでも卵に混ぜるのでも上に乗せるでもいいんだけどさ」

『青海苔を混ぜるとか、そういう事を言っているのか?』

「ああ」

『…ふむ、俺の弁当に入れてくれたのはいつも普通のだったが…、本人は何か入っている方が好きと言っていたな』

「それ、具体的に何か知ってる?」

『特にコレ、というのは聞いた事が無いな。…それがどうしたんだ?』

「いや、なんでもない。悪いな、急に変な事聞いて」

『そうか。…それじゃあ俺もそろそろ仕事に戻らないといけない。すまんがもう切るぞ』

「おう」

…ピッ

こうして久々の、実に2ヶ月近くなかった親子の会話は終了、俺は母の薬を貰いに、父は仕事へと戻る。
その後、いつものように薬を手にした俺は寄り道もせずに帰宅。適当に夕食を済ませ、その他の家事も適当に行い、風呂に入って自室へ。
決してたくさん身体を動かした訳ではなかったが、変に疲労感があった。

…結局映画も、玉子焼きも脈はナシ、か。

俺は昼間の親父との電話の内容を思い出し、ふうと大きく息を吐く。
病院から帰って来た時にも一度ビデオデッキを見たが、借りてきたテープは相変わらず手付かず。まだ返却日時には余裕があるが…

「もう返そうかな…」

明日、それじゃなければ明後日にも返却に行こう。俺はそう決めつつ目覚ましをセットし、そのまま布団に潜り込んだ。



次の日。
いつもより早く寝た事もあり、疲労感はかなり回復。それなりに清々しい朝を迎えていた。

「…さて、今日は玉子焼きにほぐした焼き鮭でも入れるかな…」

そんな事を呟きながらリビングに入ると、昨日は一度も触れていないTVが点きっぱなしになっているのが目に入ってくる。
画面は外部入力1、つまりビデオを見る状態になっていた。
という事は…

「…見てる、な」

数日間放置され、そのままになっていたビデオテープ。しかし今はそれらが散乱し、1本はビデオデッキに入ったまま…という状態。
それを見た俺は急いで映画がどのくらい見ていたかを確認、テープを見ると1本だけ最後まで見られていたタイトルがあった。

「…何か、家にあったのとは違う感じの映画だな」

最初に母が何回も見ていた映画は落ち着いた雰囲気の、いかにも昔の恋愛映画、といった感じの話。
しかし今回母が最後まで見たと思われる映画はどちらかといえばコメディ寄り、ビデオ屋で見たパッケージにもそんな説明文が載っていた。

…ん?そういえば…

パッケージで思い出したが、確かこの映画には家にあったビデオでヒロイン役を演じた女優がいたはずだ。
俺は映画の簡単な紹介文の横、パッケージ裏に書かれたキャスト欄に並んでいた配役に主役の役者以外にも共通点があった事を発見する。
これは偶然か、それとも…

…よし、これはもう一度借り直すとして、今日はこの女優も競演している映画を探して借りてみよう。

俺はテープを巻き戻す作業をしながら帰宅前にすべき事を決める。大した事ではないかもしれないが、よく考えるとこういう予定を立てた、という行為は久し振りのような気がする。
今まではその日だけ、それもすぐ先の出来事を考えるだけで終わっていた感があった。友人も俺の境遇…というか現状を知っているため、結構頻繁にあった遊びの誘いもなくなった。
その結果、俺は知らず知らず殻に閉じ篭るようになり、実際に出不精にもなっていた。
まあそれでも気が滅入るまでは追い込まれていなかったし、やらなければならない事が山積みだったので何とも思っていなかった。

…どうしてだろう、状況は相変わらずなのに、変に冷静になって自分の事を見れているような気がする。本来なら慌てたり息苦しさを感じてもおかしくないのに…

「…ま、悲観的になるよかマシか」

俺はそう言って心配を一蹴し、キッチンに戻って朝食の準備に入る。
そしてさっき喋っていたように焼いた鮭の身を入れた玉子焼きをメニューに組み込んだ朝食を作り、パパッと平らげて家を出た。

その夜、俺は予定通りビデオを返却&新たに数本の映画を借りて帰宅。もはや定位置になりつつあるデッキ横にテープを置き、母が見てくれるのを待つ事に。
夕食はいつものように母が手を付けなかった朝食、ワカメの味噌汁と鮭入り玉子焼き、それにキャベツとタマネギとニラの炒め物で済ませる。
以降の行動もいつも通り、食器を洗い、風呂に入り、自室に戻ってしばらくまったりしたら電気を消す…という流れを経て床に就く。



そして次の日、早朝の事だった。
目覚ましが鳴る数分前に目を覚ました俺はそのまま起床、朝食を作るためにリビングへ。そしてドアを開け、中に入るとそこには母の姿があった。
どうやら母は昨夜からずっとここで、しかも何本も映画を見ていたらしく、リモコンを握ったままソファーで眠っていた。

「おいおい、風邪引くって…」

俺はソファーの中、うずくまるように丸まって寝ている母を見ながらそう言うと、すぐに毛布を取ってきて母にそっとかける。

「…さてと。このまま朝飯を作る訳にもいかないし、かと言って寝室に運んでいる最中に起きたら大変な事になるし…、どうしよ?」

どうしよ?とは言ってみたものの、そんなのどうする事も出来ない。
仕方なく俺はそっとリビングを抜け出し、一旦自室に戻って私服に着替え、24時間営業の牛丼屋へ向かう事に。そしてそこで朝定食を食べ、帰りにコンビニへ寄って母の朝食を買う。
米は炊けているし味噌汁もインスタントものがある、という事で買ったのは小さいパックに入っているきんぴらごぼうと漬物、そして真空パックに入っている出汁巻き卵。
こうして母の朝食を調達した俺は急いで自宅に戻り、買ってきたものを食卓に並べて早々にリビングを立ち去る。幸い母はまだ寝たままで俺には気付かなかった。

「…おっと、あんまうるさくしちゃ意味ねえな」

階段をダッシュで駆け上がろうとした自分に注意をしつつ、俺は自室に戻ってスーツに着替え、そのまま家を出る。
今日は外で昼飯を済ませないとな…、そんな事を考えながら俺は1日の始まりを慌しく過ごし、そのまま慌しい1日へ突入して行った。



その日の夜、手にスーパーの買物袋を抱えながら帰宅。夕食のおかずの他、冷蔵庫の中が寂しくなっていたので大量に食料を買い込んでいた。
今日の夕食は半額シールが貼られていた太巻きのセット。何か無性にピンクのヤツが食べたくなったので買ってみた。

「…さ、メシメシ」

俺は買ってきた他の食材を冷蔵庫に詰め込み、ペットボトルのお茶を手にしながら食卓へ。今日は寿司という事でお茶もいつもより濃い目のものをチョイス、これで気分は寿司屋…という訳にはいかないが、とりあえず相性のいい組み合わせの食事となった。

容器を捨てるだけの後片付けを終え、俺はいつものように風呂を浴びてから自室へ。そして適当に時間を潰した後で就寝、眠りの世界へ飛び込む。
…が、明かりを消して間もなくした所で階下から物音が。最初は今日も母が映画を見ているのかな、と思っていたのだが、どうも少し様子が違う。
聞こえてくるはずの音楽、役者のセリフはなく、代わりに通販番組と思われるテレビの音と砂嵐が交互に聞こえるだけ。そしてそれらの音に混じってガチャガチャという音とバンバンという何かを叩く音が。

これはおかしいと思い、俺は駆け足&忍び足でリビングへ。そしてほぼ無音でドアを開け、中の様子を見てみると…

「〜ッ、ンン〜ッ」

砂嵐、深夜の通販番組、外部入力、砂嵐…
母はリモコンを一生懸命操作してはその度に悲しそうな声を上げ、まるで子供のように足をバタバタさせていた。

…ビデオが見れなくなった…のか?

俺はそんな母の様子から、おそらく何度もテープの入れ替えをしたであろうデッキ周辺の状況からそう察し、原因を探る。
考え始めてから数秒、俺はその原因を特定。おそらく母が間違えて操作した…というか押してしまったと思うのだが、ビデオデッキに表示されているチャンネル数がおかしな数値にセットされていた。
これが合っていないといくら再生ボタンを押してもビデオの映像は流れないのだが、母はそれに気付く事無くリモコンを操作し続けては癇癪を起こしていた。

「…かあさ―」

と、ここで母を呼ぶ声が途切れる。いや、慌てて止めたと言ったほうがいいかもしれない。
本当は声をかけ、ビデオが見れるようにしてあげたい。しかし、俺の姿を見たらきっといつものように奇声を上げ、俺を正面から睨みつけるだろう。

…睨まれるのは、嫌だな…

もう何度となく睨まれ続け、慣れているはずの母の視線。だがやはりあれは習慣化する事は決してなく、多かれ少なかれ俺の気分を滅入らせるし、何より心が傷付く。
母のために何かしてやりたい、今この場面で言えばビデオを見れる状態にしてあげたいのだが、その経緯の中で母に睨まれ、唸り声と荒い息遣いを聞く事が明白…となると、どうしてもその1歩が踏めない。

…それは俺の心が弱いから。本当は避けて、逃げて、何も考えたくないから。
でも、何があっても母が母である事は確か。昔の記憶が、優しく俺に話しかけ、微笑みかけ、頭を撫でてくれた幼少の記憶が激しくフラッシュバックを繰り返し、俺の判断を、正常な思考の妨げとなる。

昔の記憶、今ここにある現実、そのどちらを基準にするかで悩み、揺れ動く俺。
…ダメだ、わかんねえよ。どうすりゃ、いいんだよ…

ガタッ
その時、俺はタイミングの悪い事に物音を立ててしまう。
意外と大きなその音に当然母は気付いてしまう訳で、バッと振り返って俺の姿に驚く素振りを見せる。
そしていつものように睨まれる…かと思ったのだが、そうではなかった。

「…ウ、…ウウ…」

その声は怯えとはまた違う、ひどく弱々しいもの。
見ると母は困った時の子供のような目を俺に向け、何か言いたそうな、それでいて言い出せないようなもどかしい表情になっていた。

…ビデオが、見れないの。

…ビデオが、見たいの。

母の表情が、母の目が、そう言っているように感じた。
だから俺はゆっくり、安心させるように大きく頷き、その1歩を踏み出す。
俺が動くのと同時に母は一瞬身体をビクッと萎縮させるが、何とかその場に踏み止まる。
俺はそんな母を正面から見つめ、危害を与える気はない事をアピール。そしてTVの前まで進み、パパッとボタンを操作してデッキの中に入っていた映画を再生させる。

「…ッ!」

その瞬間、母の表情がパアッと明るくなる。本当に嬉しそうな顔に俺もホッと胸を撫で下ろし、TVの前からどけるように部屋の隅に移動する。
そしてこのまま部屋を出て、母の映画鑑賞の邪魔にならないよう早々に退散しようとするのだが…

…クイッ

「…え?」

思わず声を上げてしまう俺。何か引っ張られる感覚に振り返ってみると、母が俺の服の裾をチョコンと掴んでいた。

「…かあ…さん?」

「………」

全くの予想外の出来事にただ母の名前を呼ぶだけの俺と、無言のままじっと俺を見つめる母。その表情はかなりぎこちない様子ではあったが、感謝の気持ちがこめられているのが見て取れた。

「あ、あう…、あ…」

「…ん、いいよ。無理しなくても」

「………」

「映画、ゆっくり見てね」

「う…」

母は短く、漏らすような声を上げて頷く。
それは久し振りの、人らしい意思の疎通。俺はもうそれだけで十分と何度も頷き、リビングを後にした。
本当はもっとたくさん喋りかけたいし、出来れば会話もしたい。
でも、焦ったり急いだりするのはかえって逆効果、こういう場合の歩みよりは自分が思っている以上にゆっくりと…という担当医師の言葉を思い出し、俺はギリギリの所で踏み止まっていた。


「……」

部屋に戻り、無言でずっと天井を見続ける俺。それは考え事をする時の習慣となりつつある行為で、特にここ最近はその頻度が高くなっていた。

…さっきの出来事、あれは多少なりとも俺に対する警戒心が弱まったのか、それとも映画を見たい一心で取った行動なのか…

それが全く分からない、どう判断していいのか判らない。というかそもそもどうして俺に警戒心を抱いているのか、そしてさらにその前、大前提としてどうして母がああなってしまったのか原因が特定されていないため、俺は何も動けない状態でいた。

今まで結構な時間の経過があった中、何度となく考えていた進展の瞬間。
しかし、現実に起きた時、結局俺は何も出来なかった。
それはきっと心のどこかでまだ先の事、とても不謹慎だが起きる事はしばらくない、と考えていた節があったからかもしれない。

よく分からない…いや、何も分からない。
急に母が精神を病み、急に生活の全てが変わり、そして今日、急に進展を見せた…
いつも急すぎる展開に俺はいつもついていけず、取り残され、常に追う側だった。

…だから…

「どうすれば、いいんだよ…」

結局、何も出来ない自分が、そこにいた。

…事態は変わりかけているのに、好転の兆しが見えたのかもしれないのに。

俺は、ここにきて急に怖くなっていたのかも、しれない。



次の日。
目が覚めると俺はすぐに階段を降り、リビングへ。
そしてTVの前へと急ぎ、周辺の様子を探る。
どうやら母はあの後ずっとビデオを見ていたらしく、前から家にあった映画、前に借りてきて再度借りた映画、そしてこの前新たに借りてきた映画の中から1本が最後まで再生された状態になっていた。

…これでお気に入りは3本、か。
確かまだレンタルビデオ屋には何本か同じ役者が出ている映画があったはず…
俺はこの前ビデオ屋に行った時の事を思い出しながら、今日新たにそれらの映画を借りる事を決めた。

その後、散乱したテープを片付けたり巻き戻しをした俺は朝食の準備に取り掛かる。
あまり食欲がなかったので、今日のメニューはトースト1枚と牛乳のみ。だが母の分はいつものようにしっかり作り、カリカリに焼いたベーコンとウインナー、そしてバターコーンと玉子焼きを1つの皿に盛り付け、それを食卓に置いておいた。

「さ、行くか…って、そうだ、ビデオを持っていかないと」

着替えを済ませ、家を出る用意を整え、玄関に向かおうとした所で俺はTV横に置いていたビデオを思い出す。
せっかく巻き戻して店の袋に入れておいたのに…と思いながらリビングに入ると、そこには寝起きと思われる母の姿があった。

「……うう」

以前程ではないが、それでも唸り声を上げて俺を見つめる母。
すると俺の視線の先にビデオテープが入った袋がある事を察知し、母はその袋をガバッと両手で抱え、俺の手に渡らないよう必死に守ろうとその場にうずくまった。

「…いや、母さんが見たいのは返さないから。ただ、一回店に持って行かないと新しいのが借りられないから―」

「フーッ!ガアッ!」

「…ッ!」

俺の言葉を掻き消すような母の声。その勢いというか気迫は相当のもので、いくら説明しても聞いてもらえないのは明白。無理してビデオを回収するのは得策ではなさそうだった。

…もしかしたら今から映画を見たいのかもな。
俺はそう思い、その場は黙って立ち去る事に。だが、その前に一言だけ言っておきたい事があった。

「…あのさ母さん、朝ごはん、作ったんだ。よかったら食べてね。…それじゃ」

ガチャ、バタン!

俺はそれだけ言うと母の反応も見ずにリビングから飛び出し、そのまま家を出た。
本当は母の顔を、表情に何か変化があるか見たかったのだが、「誰がお前の作ったものなんか食うか」みたいな目をされるのが怖くて、俺は逃げるようにその場から離れてしまっていた。

「…はあ」

朝の清々しい空気の中、ひどく似つかわしくないため息を吐く俺。
せめて曇り、それも今にも雨が落ちてきそうな天気だったらよかったのに…
そんな事を考えながら俺は駅へと向かって歩いていった。



その夜、帰宅するとリビングの電気は点けっぱなし、TVも外部入力画面のまま電源が入っていた。
しかし母の姿はそこにはなく、どうやら自分の部屋で寝ているようだった。

「…ま、いつもは寝てる朝の時間に起きてたもんな」

呟くようにそう言いながら俺は上着を脱いでキッチンへ向かう。
そして母の朝食を捨て、買ってきた弁当とペットボトルのお茶という組み合わせの夕食を摂る。

その後、洗い物、ゴミの分別、リビングの掃除…と適当に家事を済ませてから入浴。サッパリした所で缶ビールを1本持って自室へ向かい、いつものようにダラダラした時間を過ごす。
しかしここ数日の出来事、それに起因する俺の行動を考えると、どうにも落ち着かず、俺はもう2本程ビールを持ってきてはガブガブと飲み、そのまま酒の力を借りて眠った。



次の日。
普段からあまり回らない頭だが、今日はいつにもまして回転が鈍い。
俺は昨日のビール一気飲みを悔いながらもゆっくり身体を起こし、朝食を作るために下の階へと降りる。

今日のメニューはご飯、味噌汁、ほうれん草のおひたし、玉子焼き。俺はそれにふりかけを加え、あまり味わう事無く豪快に胃に流し込む。
そして昨日は母に奪われ返却できなかったビデオテープを持って家を出ようとしたのだが、TVの前にあるはずのテープは袋ごとなくなっていた。

…まさか母さんが…?

昨日の様子から考えればあり得ない事はない、というか母さんが持っている以外に紛失のしようがない。
おそらく自分の部屋に置いているか隠しているとは思うのだが、さすがにそれを取りに行く気にはならない。

「まいったな、明日が返却期限なのに…」

仕方ない、滞納追加料金を払うしかないな。
俺は結構すんなりと諦め、レンタルの延滞を決める。

こうして俺は今日もビデオの入った袋を持つこと無く家を出た。



次の日。
朝食はトーストとコーヒー、そして冷食のミニハンバーグと玉子焼き。
今日は色々あって昼過ぎには帰宅出来る事になっていたので弁当は不要。そのため、とても余裕のある朝を迎えていた。
普段は夜に行うゴミの分別やペットボトルのラベルはがしなんかを行い、適当な時間に家を出る。
そして何事もなく昼になり、俺はどこにも寄り道せずにそのまま自宅へと帰って来た。

…ガチャ

…ただいま、と。

母が眠っている可能性が高いため、心の中で帰宅のあいさつを済ませる俺。
そして静かに廊下を歩き、そっとリビングへと入る。
するとそこには…

「…かあさん?」

「ッ!?」

食卓の前、母はそこに立ってじいっと用意された朝食を見ていた。
だが、俺に声を掛けられた事でその場から飛び退き、そのまま警戒の眼差しを向けながら自室へと走っていく。

…まさか、料理に手を付けようと…?

俺は母がいた場所に立ち、そこから食卓に置かれていた皿を見る。
それは朝に置いた時とは少し違い、皿の上に並んだ料理が動かされていた…ように見えるのは俺の気のせいだろうか。
確信は持てないが、確か玉子焼きは切り口を上に向けていたような…

「だとしたら、タイミング悪ぃな、俺…」

食べる、食べないを別にして、母が興味を持ちかけていたものを潰してしまったのはかなり痛い。
せっかく今まで欠かさず作ってきた朝食なのに…

「…」

悔しさでもない、怒りでもない。ただ、やり切れない思いだけ。
俺は力なく料理が盛られた皿を手に取り、そのままゴミ箱へ中身を捨てる。
そして皿も洗わずに自室に戻り、着替えもせずに寝床に倒れこみ、そのまま目を閉じた。


…夕方。
俺を起こしたのは階下から鳴る電話の音だった。
まだ意識がしっかりしない中、それでも急いでリビングに向かって受話器を取ると、電話の相手はレンタルビデオ屋の店員だった。
内容は勿論ビデオの返却日時が過ぎている、というもの。俺は一応すぐ返しに行きますと答えて電話を切るが、TVの横に置いていたはずのテープは今日になってもなかった。

そして夜中。
さすがに昼から寝すぎたせいもあり、午前2時半という微妙な時間に目が覚めてしまう。
このまま朝を迎えるには長すぎる、という事で俺は2度寝を決め込むも全く眠くならず、暗い部屋の中でじっと目を瞑っていた。

すると遠くから…というか階下から、いつものように映画を見ているであろう音が聞こえてくる。
何を見ているのかは知らないが、どの映画にしろ結構な回数は見ているはず。どうしてそこまで連続で見れるのだろう…と、考えを巡らせるも残念ながら答えは出ず。
俺はその遠くから漏れ聞こえる音に聞き耳を立てている内にまた眠くなり、そのまま意識を夢の世界へと運んだ。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、焼き鮭、玉子焼き。
今日の玉子焼きは板海苔を乗せて巻いた「年輪巻き」という玉子焼き。切ると黄色い卵に黒のうずまき模様が見える、なかなかキレイなものが出来た。

しかし年輪巻きは母の口には入らず、その夜の俺の夕食になって終わった。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、チクワの梅干詰め、玉子焼き。
チクワは穴に潰した梅干を詰めてワサビ醤油で食べた。意外と美味かった。
今日の玉子焼きはほうれん草のおひたしを巻いたもの。緑と黄色のコントラストがイイカンジだった。

その夜、再度レンタルビデオ屋から催促の電話が。
俺は「借りた映画がメチャクチャ面白いので延滞料金を払う事覚悟で毎日見ています。だからちゃんと返すので電話はもうしないでもらえますか?」とダメ元で頼んでみると、本当はダメだけど旧作で他に借りる人も少ないのでOK、という返答が。
これで催促の電話が来る事はなくなった。後で払う事になる追加料金は怖いが、母に気兼ねなく映画を見てもらう事が出来るのであればまあよしとしよう。

そんな訳で今日の深夜も母はリビングで映画鑑賞。ちょっと降りてその様子を見てみたが、相変わらず電気も点けず、TVのすぐ正面に座り込んで食い入るように映画を見ていた。


…母にとってあの映画は何なのか…

部屋に戻った俺は暗闇の中、母の見ていた映画について考えを巡らせていた。
昔の思い出、誰かと一緒に見たとかいう記憶を追っての事なのか、それともあの映画に出ている役者を好いているのか、もしくはあの映画のような展開を日常生活に求めているのか…

どれもあり得そうだが、どれも的を射ていない可能性もある。今の俺が入手した情報片からは満足な仮説すら構築出来ない、そんな状況に俺はただうなだれるばかりだった。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、アジの干物を焼いたもの、玉子焼き。
今日の玉子焼きは何も入っていないノーマルの物。
夜はそれらに加え、惣菜の唐揚げをプラスした食事になった。

「………」

…その日の深夜から夜明けにかけ、俺は妙に生々しく、また懐かしさ溢れる夢を見ていた。

詳しい経緯は分からない…というか、そこは夢らしく唐突に始まっていた。
俺はどうやら小学生の低学年辺り、そして俺以外の登場人物は両親が当時の若さのまま出てきていた。
具体的に何を話していたのか、どんな会話があったのかは聞こえなかったが、場面は俺が両親と一緒に旅行から自宅に帰って来た…という状況。大きな荷物を抱えた父が玄関を開け、そこをすり抜けるように俺が家に入っては「1番乗り〜」とはしゃいでいた。

そして夢はここで唐突に場面チェンジ、母と俺の2人でどこかの海岸線から海を見ながら話をしている所に変わった。
ここでの会話もはっきりとは聞こえなかったが、それでも断片的には双方のセリフが聞こえてきた。

「キレイね」と母。
「うん」と素直に頷く少年の俺。
「この海はね、お父さんとも来た事があるのよ」と俺に語りかける母。

だがここからしばらくの会話は無音。聞こえていなかったのか、それとも途中で俺が忘れてしまったのかは分からないが、お互いに2〜3言喋った後から再度声が聞こえてきた。

「どうして?」と聞く俺。きっとその前に何か母が言ったのだろう。
「この海の向こうには、お母さんの好きな場所があるの」と母。
「好きな場所?」と俺。
「ええ。…行ってみたい場所って言った方がいいかな?」と母。

そしてまたしてもここで声が途切れ、聞こえるようになった時には会話はあらかた終わっていた。

「そうなんだ、まねっこしたいんだ」と俺。
「お母さんの夢はね、その場所で好きな映画のまねっこをする事なの」と母。
「じゃあみんなで行こうね」と俺。
「そうね、その時はどっちにお相手してもらおうかしら」と母。その表情はとても穏やかで、本当に楽しそうに微笑んでいた。

…ザッ
ここで一瞬、夢の映像が歪み、砂嵐のような音と共に場面が一変する。
そこは自宅のリビング、食卓を挟んで俺と母が立って何か話をしていた。

だがこの場面は先の2つ以上に映像が曖昧、そしてセリフと映像が全く合っていなかった。
そんな中、聞こえてきたのは母の声。それもどういう状況で発せられたのか全く分からない一言だけ。その一言とは…

「おいしくないわね、これ」

それだけ。
この言葉から母の感情を読み取る事は出来なかった。
怒っているのか、笑っているのか、それとも悲しんでいるのか…
それら喜怒哀楽は全く感じ取れず、まるで機械の自動ガイダンスのような抑揚もあまりない、ひどく人間味の薄い言葉だった。


「……んん」

ここで夢は終了。
目を覚ました俺は頭を手で抱えながら、前髪付近をボリボリ掻きながら身体を起こす。

…今の、変な夢だったな…

妙にリアルな、それでいて哀愁めいたものを感じさせる一幕があり、でもどこか幻想的な部分もあった今の夢。俺は必死になって直前まで見ていた夢の内容を整理しようとするが、新たに何かを思い出す事は結局なかった。

…ただ、この夢を真実とするなら、過去に実際起きていた出来事だとしたら、とりあえず映画については一応の説明がつく事になる。

確かに母が好んで何度も連続で見ていた映画は、演者の共通点以外に舞台となる場所にもどこか通じるものが多かった。
別にどこの国の何と言う地名、ではないのだが、全体的な地形なり風景がよく似ていた。
勿論その映画を全編通して見た訳でも、全てのシーンを覚えている訳でもない。
だが雰囲気と言えばいいのだろうか、感覚的に近いものはあるな、というのが見て取れた。

…もしかしたら母は演者以上に景色を見入っているのかもしれないな。
まあ連続視聴、それも最初から最後まで見ている事を考えれば、演技や話の面白さも十分兼ね備えているとは思うが、ストーリーだけ、演技だけではなく、他の要因もあると推測するのが普通だろう。

思わず話の流れを聞き逃す、名シーンを見逃してしまうだけの綺麗な風景、鮮明に脳裏に焼きついた景色があってもおかしくないし、母がそういう部分に憧れを抱いている可能性は決して低くない…

だから話の内容的にはあまり似ていなくても構わずに見ているのだろう。俺はそう判断し、母が映画を見続けているのは舞台となった地への憧れが顕著に顕れたから、という一応の理由を確定させる。

…しかし、だ。
夢の最後、母のセリフだけは今の所解明出来ないし、前後の繋がりも読めない。
一体どういう場所で、どういう経緯を踏んで出た言葉なのか、それが一切分からない。

さらに読めないといえばあのセリフの言い方もそうだ。全く感情が篭っていないように感じた「おいしくないわね、これ」というセリフ。
それは実際に昔言われた言葉なのか、完全に夢の中だけの出来事なのかも分からないし、もし過去に俺がそう言われていたとしても、本当にああいう抑揚のない喋り方だったのかは知る由もない。

少し進展を見せたと思うと、新たに複数の、それまで判明した事より多くの謎が浮上してくる…
そんな状態の中、果たして何をすればいいのか。何が正解となり、母のためとなるのか。
俺はその明確な答えの無い問いに対し、ただただ正面から向かっては返り討ちに遭う、という行為を繰り返していた。
…今までずっと、ずっと、ずっと。

「…ダメだ、考えてても仕方ない」

俺はそう言って抱えた問題を投げ出すように、一度その手から離して後回しにするように立ち上がり、普通に1日を始めようとする。

普通に、普通に。
言い聞かせるように、何度も、何度も。
この時点で何ら普通ではないのだが、今置かれている俺の状況自体普通ではないのだ、俺にとっての「普通」は常にそれを意識し、演じていなければならかった。

映画の中で与えられた役を演じる役者を見る母と、そんな母を見ながら現実世界の中で演じる事を選んだ俺。
皮肉というか奇妙、そして多少こじつけの感もあるが、俺はここでも映画と母に翻弄されている、という事になる。

「…だからさ、そういうのは考えないで行こうぜ?」

俺はまたしても思考の迷宮に迷い込もうと、自ら無駄に事を厄介な方向に持って行こうとする自分を止めるため、わざと思った事を声に出す。
そして頬を両手でパチンと叩き、俺はリビングへと向かった。

その日の朝食はトースト、牛乳、ヨーグルト、ハム、玉子焼き。
夜はそれらを捨て、買ってきた弁当で済ませた。

…今日も母は昼間に映画を見ていた。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、焼き鮭、玉子焼き。
夜はそれらに加え、惣菜のコロッケを足した夕食になった。

…今日も母は昼間に映画を、そして夜中にも映画を見ていた。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、昨日食べ残したコロッケ、玉子焼き。
夜はそれらを捨て、テイクアウトしてきた牛丼を食べた。

…母は昼こそ映画を見ずに寝ていたようだが、代わりに夜中から明け方にかけて映画を見ていた。



次の日。
今日は休み。そして親父が家に帰って来た。
旅行用のトランク一杯に不要となった書類、着なくなった冬物のスーツやコートを詰め込んできた父はそれらをドサッと物置に仕舞い、衣服類を中心に荷物の入れ替えを行った。
そして俺と一緒に簡単な食事を済ませ、母の顔を少し見た所で家を出て行く事に。
当然ながら母は父にも唸り、怯え、吼えた。だが親父は一切の表情を崩す事無く、また一切ひるむ事無く母に近寄り、一方的にではあるが1言2言話しかけては颯爽と寝室を後にした。
その姿は夫としての立ち振る舞いである以上に、1人の人間としての立ち振る舞い。そんな印象を受けた。
いい事なのか悪い事なのかは分からないが、俺はその父の振る舞いに責任を、母がこうなる前に何も出来なかった事に対しての自責や後悔の念を感じた。

親父は親父で、俺以上に苦しみ、傷付いているのかも、しれない。
俺は一連の親父の行動を見て改めてそう思った。


「…それじゃあ俺はもう行かせてもらうぞ」

「ああ」

「…お前、料理上手くなったな」

「別に。毎日作ってれば誰もあれくらいにはなる」

「いやいや、立派なもんだ」

「…褒められても嬉しくねえな」

「ふう、そうか」

やれやれ、といった感じの親父。
するとここで少し表情が変わり、思い出したように言葉を発する。

「…そうだ、母さんが毎日のように見ていると言っていた映画だがな、やはりあれは俺と一緒に見に行ったものではないな。もしかしたら独身時代に見たんじゃないか?」

「独身時代…」

「俺が映画の名前を覚えていたのは、結婚後に母さんの口から聞いたからだと思う。…確か好きな映画の話になった時に喋っていたような…」

「…そうか」

「ま、映画に関して俺が知っているのはそのくらいだな。…あとこの前お前が言っていた玉子焼き、あれに関しては全く分からん。俺には特別な思い入れがあるようには思えないんだが…」

「ああ、俺も正直どうなのか分からない。…ただ、この前俺の作った朝飯にちょっと興味を持ったっぽい時があってさ。その時、もしかしたら玉子焼きを食べようとしてたかもしれないんだ」

俺はそう言って先日の話、昼に帰宅してきた所、母が食卓に置かれた料理を見ていた時の事を話す。

「…なるほど、確かに何かありそうだな」

「映画にしろ玉子焼きにしろ、きっと少なからず意味はあると思うんだ。でも、それが何なのかまでは分からない…、だから悩んでるんだ」

「……すまんな、そういう所まで気を遣わせて」

「あ?今更何言ってんだ、気にすんなよ親父」

「…そうだったな、許せ息子よ」

親父はそう言うと俺の顔をじいっと見つめ、やがてふっと息を吐く。
それは自嘲にも似た、少し陰のある悲しい笑顔だった。

「…苦労は耐えないと思うが、無理だけはするな。何かあったら遠慮なく俺に連絡しろ。必ず駆けつける。…約束しよう」

「ん」

短い返事で済ませる俺。
多少不本意、いくら父親であっても少しは遠慮するよ、という気持ちもあったが、それでも大部分は了承した…という意味合いが今の返答には込められていた。

その後、親父はやや急ぎ気味に家を後にし、残った俺もいつもの生活に戻る。
夜にはカレーを作り、それを食べて風呂に入り、部屋に戻って適当に時間を潰す…という1日を送った。

…この日も母は深夜から映画を見ていた。



次の日。
俺が朝食の準備をするためリビングに入ると、母がTVの前にいた。
眠っている訳でも、俺に向かって奇声を発する訳でもなく、母はずっと映画を見ていた。
おそらく俺に気付いていない…という事は無いだろうが、それでも母はその場から動こうとはせず、ただじっと画面を見ていた。

俺はそんな母を見て自分もいつも通りに行動する事を決め、朝食作りに入る。
メニューはトーストとインスタントのコーンポタージュ、それにいつもの玉子焼き。
今日の玉子焼きは少し牛乳を加え、サラダ油ではなくマーガリンで焼いてみた。味はまあ普通、といった所だろうか。

その後、俺は朝食を終えるとすぐさま出かける準備を整え、そのまま家を出る。
結局母は終始TVの前で映画を見ていた。途中で1度スタッフロールが流れたが、母はそれも最後まで見た上で別のテープをデッキに入れていた。


…帰宅後。
リビングに入るとそこに母の姿は無く、ビデオテープがTVの前に散乱していた。
その中には延滞を続けているタイトルもあったが、俺は返却しに行く気にはなれなかった。
確かに今、母が寝室で寝ている間にビデオ屋に行き、返却&再度レンタルをする事は可能だろう。しかし、もしその間に母が目覚め、ビデオを見ようとしたらどうなる?という事を考えると、どうしても行動には移せない。

…ま、店には延滞OKを貰ってるんだし、いざとなったら買い取るさ。
その時ばかりは親父にも少し出資してもらわないとな。

俺はそんな事を考えながらビデオデッキ周辺の片付けに着手。キレイになった所で夕食作りに取り掛かる。

今日の夕食は牛肉が安かったのですき焼き。1人焼肉も結構寂しいものがあるが、すき焼きも1人は少し寂しい。
それでも久し振りに食べたい、という思いが勝り、俺は1人でガスコンロを用意し、1人で肉を入れ、1人で食べては野菜を追加、生卵につけてその甘辛い肉を堪能した。



次の日。
朝食は昨日食べ切れなかったすき焼きにうどんをいれ、うどんすきに。
そこにいつもの玉子焼きを加え、朝から牛肉たっぷり、なかなか豪華な食事を摂った。

そして夕方。
…今日の夜はバランスを取るため、質素に野菜炒めと豆腐の味噌汁と冷奴で済ませよう。
俺はスーパーで買物をしながら夕食のメニューを決め、帰宅。そのままキッチンへと向かい、さっき決めた通りの料理を作ろうとしたのだが…

「…ん?」

それはいつものように、母のために用意した皿に目を向けた時だった。
うどんすきの横、ちょこんと置かれた小さめの皿。そこには確かに今日の朝、玉子焼きを3切れ、それも中央部分の厚い所を乗せていた。

「………」

…3切れの玉子焼きの中、1つだけ歪な形になっているものがあった。
俺は無言で、そして少し震えながらその玉子焼きを、母が少しだけ、ほんの一口だけかじったであろう玉子焼きを見る。

…食べて、くれた…?

これまで毎日、母が手を付けようと付けまいと、必ず食卓に乗せてきた玉子焼き。それが今日、たった一口ではあるが、母が食べてくれていた。
そしてそれは何も玉子焼きに限定せず、今まで作ってきた全ての料理の中で初めての事。もしかしたら母が精神を病んでから初めて口から摂取した食べ物かもしれなかった。

「……」

最初は実感が沸かなかったが、次第にこの事実を把握し、嬉しさと喜びが込み上げてくる俺。
そして次の瞬間、自然と出てきた「よかった」という言葉が俺の口から漏れた。


…十分後。
俺はこの出来事を親父に報告、その知らせに親父も電話の向こうで何度も「よかったな」という言葉を口にしていた。

やはり玉子焼きには何か特別な意味合いがあるのかもな。
これは電話を切る間際、親父がふと漏らした言葉。
確かにそうかもしれない。俺は今日の出来事をきっかけに、これまで以上にしっかりと、工夫を凝らした、美味しいと思って食べてもらえる玉子焼きを作っていく事を決めた。

…そうすれば前に俺が思い出した「特別な玉子焼き」の全景が判明するかもしれない。そして母の回復にも何らかの形で役に立つかもしれない。
それはまだ「かもしれない」の範囲だが、明確な目標を見つけた俺は明日からの朝食作りにやる気を漲らせていた。



次の日。
朝食はご飯、味噌汁、焼き鮭、そして玉子焼き。
今日の玉子焼きは中心にカニカマを置いて巻いたカニカマ卵焼き。
切ると卵の黄色、カニカマ外部の赤、そして内部の白…というキレイな色合いになっていた。

…夕方。
俺はスーパーで色々と買物を済ませてから帰宅。家に着くなり真っ先に食卓へ向かい、皿の様子を見てみる。
するとそこには昨日同様、一口だけかじった後があった。しかしその食べ方は中のカニカマを避けている様子。どうやら「特別な玉子焼き」はこれではないようだった。

その日の夜、俺が風呂から上がり、飲物を取りにリビングに向かうと、母が映画を見ていた。
俺が入ってくると一瞬顔を強ばらせ、ビクンと身体を動かすも、結局何もせずにまた映画を見始めた。
どうやら少しずつではあるが、確実に敵意は薄れているようだった。



次の日。
昨日の買出しのおかげで、今日はかなり手の込んだ玉子焼きが作れた。
ちなみに他のメニューはいつものご飯、味噌汁、ほうれん草のおひたし。
今日の玉子焼きは和風だしを使った出汁巻き卵。寿司屋の卵焼き…とまではいかないが、なかなか上品な味と仕上がりになった。

そして夜。家に帰ってくるなり向かうは食卓、そこに乗っている皿を見ると、昨日よりは多く食べられている玉子焼きがあった。
まだ1切れの半分程だが、今日で3日連続で母は俺の作った玉子焼きに手を付けている。

…これはいける。残念ながら今日も「特別な玉子焼き」を作る事は出来なかったが、このまま頑張れば何とかなる。俺はそんな自信を得ていた。



次の日。
今日の玉子焼きはツナマヨを中に巻き、溶き卵にもマーガリンとコショウを少し多めに入れた洋風に。
しかしこれはあまり好評ではなく、帰ってきて皿を見ると、初日くらいの量しか減っていなかった。



次の日。
今日の玉子焼きは和風だしを入れて作った玉子焼きの上に、刻んだネギと削り節をかけたもの。
昨日はちょっとこってりした出来だったので、今日はあっさりめにしてみた。

…が、食べてくれる事を楽しみに帰宅してきた俺を待っていたのは、ネギと削り節を完全に取り除いて玉子焼きだけ食べられていた。
量は1切れの半分と昨日に比べれば増えていたが、ちょっと悲しかった。



次の日。
今日の玉子焼きは卵黄のみを使い、さらにそれをザルでこして滑らかさをアップしたものを作ってみた。
結果は今までで一番、1切れ全てを食べてくれていた。

その夜、俺が洗い物をしていると、母がリビングに入ってきた。いつものようにビデオを見るのだろうと思っていると、母はTVに向かうより先に食卓の前に立ち、俺をじいっと見つめてきた。

「…どうしたの?」

洗い物の手を止め、俺は出来る限り穏やかな口調で母に話しかける。
しかし母は何も言わず、自分から話しかけたのにも関わらず、少し困ったような顔になる。

「………」

「大丈夫、ビデオはずっと借りてていいから。母さんは好きなだけ見てもいいんだよ」

…と、俺は沈黙を嫌い、多分母が言いたい事ではないと判っていながらもビデオの返却期間について話す。

「…あ、…う……」

「?」

なるべく優しく、ゆっくり首を傾げて俺は母の言葉をゆっくり促す。

…何か、子供と母って感じだな。
この状況に思わずそんな事を考えてしまう俺。
恐る恐る何か(こういう場合は悪戯だろう)を報告しようとする子供と、怒らないから言ってみなさい、と言う母。立場は完全に逆転している形だが、何となく俺はそういう光景を思い描いていた。

「…あ、あう……うぅ……」

一旦何かを言いかけ、やっぱりいいや、という顔になる母。そして悲しそうな声を上げ、そのままTVの方向へと母は歩いていった。

「……」

…ま、焦らずじっくり、と。
それにあっちからコンタクトを取りに来てくれたなんて初めての事だ、ここはまた一歩前進したと思って喜ばないと。

俺はポジティブにそう捉え、洗い物に戻る。
そして背後から聞こえてきた映画のテーマ曲を鼻歌交じりに口ずさみ、俺はさらに機嫌をよくしながら皿を拭き始めるのだった。



次の日。

そしてまた次の日。

そしてまた次の日…と、母は俺の作った玉子焼きを食べてくれた。
同時に向こうからコンタクトを取ろうとする回数も増え、次第に発する言葉も一般言語に近いもの、つまり会話として成立する間際まで喋れるようになっていた。

今日の玉子焼きは中に茹でた三つ葉を入れ、薄口醤油で味を付けた和風の玉子焼き。
母はそれを俺の前で2切れ食べ、その後でコクリと頭を下げた。

これは「ごちそうさま」と捉えていいだろう。
俺はそんな母に対し、出来る限りの笑顔を返す。
だが、頭を上げた母の顔にはまだ笑顔は戻らず、代わりにこの前からずっと続く、申し訳ないような、それでいて残念そうな顔を見せる。

俺にはその顔が「この玉子焼きじゃない」と言っているようにしか映らず、母へ見せる笑顔とは裏腹に、心の中では結構落ち込んでいた。

「……」

母はすでに俺の前から離れ、奥でビデオを見ている。
そんな母の後姿を見ながら俺は「ふう」と大きくため息をつき、食卓に置かれた皿を見つめる。
今日は調子に乗っていつもの3切れから少し数を増やし、5切れにしていた玉子焼き。それが普段以上に”残っている感”を出してしまい、俺は余計にヘコんでしまう。

…その夜、帰って来た俺は元気なくリビングを開け、母の姿が見えない事を確認すると夕食も摂らずに自室へ。
そしてそのまま眠りにつき、次の日の朝を迎える事にした。



次の日。
今日から俺は3連休に入っていた。
色々と疲れも溜っていたし、この休みはちょうどいい…というか正直かなり助かる。

「ん、んんっ…」

昨夜は早々に寝床に潜り込んだおかげで、ここ最近で一番とも思える清々しい目覚めで朝の日差しを浴びる事が出来た。
俺は大きく背伸びをしてからゆっくりと身体を起こし、しばらく好きな音楽を聴いてから階下へと向かう。
そしてキッチンで朝食の準備を開始、今日の玉子焼きはシンプルに青海苔を少し入れただけのものにした。

母はまだ寝ているらしく、リビングにその姿は無い。
俺は自分の食事を済ませると、母の分の食事をテーブルに置いて買物へと出かけた。
今日の朝に気付いたのだが、冷蔵庫の中はほぼカラ、卵だけはあるという状態。さすがにこれではいけないという事で俺は近所のスーパーへと向かった。

肉、魚、野菜、そして今日の昼に食べようと思って買った惣菜のメンチカツなどを積んだカートを押し、スーパー内を歩く俺。
するとその時、精肉コーナー前でウインナーの実演販売をしているおばちゃんが見えてきた。
小さなホットプレート、小さなプラスチックトレー、そしてたくさんの爪楊枝…と、いかにも実演販売といったアイテムが並ぶ中、おばちゃんは1人の客にその小さなトレーを渡し、購入を勧めようとするのだが…

「おいしくないわね、これ」

返って来た言葉はとても冷たく、素っ気無いものだった。

「……」

その客の言葉を聞き、固まってしまう俺。

「おいしくないわね、これ」

以前見た夢の中、断片的に紡がれては唐突に展開する夢の中でも特に前後が不明、ただ1つ鮮明に覚えているのがこの言葉だった。

…どうだったのだろう、俺が夢で聞いたのはこういう言い方だったっけ?

…違う、確かに同じように感情はこもっていないように聞こえたが、あんな冷たい、突き放したような言い方じゃなかったような気がする…

…いや、きっとあんな感じだ。しかもそれは母さんの声で、俺に向かって放たれた言葉だ。その昔、お前は何か母の気に触る行動を取ってしまい、愛想を尽かされた事があるんだ。それをお前は都合よく忘れてるんだ。そして彼女はああなったのも全てお前だ。

…そんな事は無い!俺は…僕は今までずっと、母さんが病気になる前から…

…前から?前から何をした?何をしてきた?さあ、答えろよ、答えてみろよ!?

………


「………」

繰り返される自問自答。その結末は自分の中にある負の感情、今まで考えないようにしてきた暗く黒い意識が勝り、俺は急激に息が切れ、いくら呼吸をしても空気が取り込めないような感覚に陥ってしまった。

「…ハアッ、ゼエ、ゼエッ…」

そして冷や汗、脂汗の類が流れ始め、続いて頭痛、吐き気、視界不良が俺を襲う。

…ダメだ、しっかりしないと。
俺は、僕が、俺の、僕は…

ガシッ!

俺は正気を保つため、思いっきり前髪を掴んで必死に自分を落ち着かせる。
決して客の多くはないスーパーの中、それでも俺は通路の中心で立ち止まっては不審に思われると踏み、俺はあまり客が通らない通路へと逃げ込んだ。

「………」

乱れる呼吸、そして心臓の音。
これがひどくなり、自分で静止が出来なくなり、自我が崩壊しようとする…
精神を病むステップというのはこういう事なのだろう、俺はまだギリギリ残っている正常な脳をフル回転させ、そんな事を考える。
そして同時に俺はその正常な脳で正常となるよう全身に命令を下し、呼吸困難一歩前まできていた自分を落ち着かせる事に成功した。

「……」

…自我の崩壊を避けるために自ら思考能力を切る事で事態の軽減を図る。
…それが母の今の状態。

息を整えるため、目を瞑りながら深呼吸をしていた俺の頭の中に、ふとそんな言葉が浮かび上がる。
それは以前、母が病を患った直後に医師から聞いた母の容態についての説明だった。

結局その時から、そして今になってもその自我の崩壊についての直接的原因は掴めていない。
それなのに今度は俺までその傾向が現れてきた…

…いや、違う。
俺はまだ正常だ。ただ、少し弱気になっているだけだ。
それもすぐに直る。
俺が、母を、母さんを助けるんだ。

キッと目を見開き、ギリギリと歯を噛み、俺はこの世界に、リアルという名の世界にしがみつく。

「おいしくないわね、これ」

それは俺を追い込んだ言葉。
しかし、同時にこの言葉は重要な意味を持つ。
今の母を知る上で、そして母を救うために必要不可欠…
俺はこの言葉にそこまでの力があると確信し、その謎を解く決意を新たにする。

…おそらく映画に関してはほぼ解決済み、若かりし頃の母が抱いた憧れや幻影が何らかの形で急に再燃したと俺は思っている。
だがそれは母がああなってしまった主たる原因ではなく、後から付属したもの、精神を病んでしまったが故に表面化したものだろう。

…そう、解決の糸口は、この家族が以前の形に戻るには、この言葉の意図を汲み、真意に辿り着く事が必要なのだ。



何とか買物を無事に終え、俺は自宅へと戻る。
この短い間に色々とあったせいで、早くも俺は疲労困憊。変に重い身体を引きずるように俺は玄関のドアを開け、リビングへと歩いていった。

「……」

そこには母の姿があり、いつものように映画を見ていた。
…もう何回見たのか判らないが、それでも母は真剣にその画面の中で繰り広げられる物語に、時折メインとして映り込む綺麗な景色に目を向けていた。

…バタン

俺はしばらくリビングの中で、何をする訳でもなくその場に呆然と立ちながら母を、そして母が見る映画を見ていたが、その後無言でドアを開け、自室へと向かって歩いていった。

「…かなり、参ってるな」

俺はそう呟きながら階段を上り、自分の部屋に入るなりバタンとその場に倒れた。

…少し、寝よう。そうすれば、少しはよくなるかもしれないから。

誰かに言い訳するように、報告するように俺は心の中でそう言うと、そのまま瞼を閉じた。



次の日。
目を覚ましたのは俺がいつも起きる時間だった。
習慣というのは恐ろしいもので、昨日があんな状態だったというのにも関わらず、定時に起きるようになっていた。

「…」

俺はのっそりと起き上がると、何かを考えるでもなく普通にリビングへ。
そしてキッチンへと入り、朝食の準備をする。
勿論作るのは玉子焼き。
…だが、まだ朦朧とする頭で、完全には目覚めていない状態で作る料理が成功する訳が無い。

「…あ」

俺は今まで何度も作ってきた、たくさんのアレンジをしてきた玉子焼き作りを失敗してしまう。
少しでよかった砂糖を大量に入れてしまい、よく見ると小さな卵の殻まで混じっている。

…おいおい、どうしたんだよ…

俺は溶いた卵が入ったボールの中に指を入れ、殻を取り出しては指先に付いたそれをシンクに投げ入れる。
そして卵が付いてしまった指を布巾で拭く代わりに口へと運ぶ。

…やっぱ、少し甘いかも…

そう思いつつも、ここで塩を大量に入れても味は調和しない事を知っていた俺は作業続行。その少し甘すぎる感のある溶き卵を熱したフライパンに流しいれ、玉子焼きを作る。

「…っ」

調子が悪い時というのは色々と不運が重なるもので、俺はここ最近全くやらかさなかった火傷を負ってしまう。
慌てて水道水に患部を当てて冷やすも、その間にフライパンの卵は大変な事になっていた。
それでも何とか焦げる前に取り出すも、それはいつものしっかり巻かれた玉子焼きではなく、ただ1枚の卵シートのようになっていた。
少し厚めのクレープ生地、と言えば聞こえはいいかもしれないが、その正体はただの玉子焼きの出来損ない。
俺はそんな料理とも呼べない失敗作をしばらく見つめるが、結局皿に盛る事無くゴミ箱へ捨てる事に。
そして火傷の治療をするため、ここで一旦料理を中断。水ぶくれに効く薬が自分の部屋のどこかにあったはず…と、自室に戻った。


…20分程過ぎただろうか。
俺は何とか薬を発見、その後「少し大袈裟かな?」と思わなくもない治療を施し、再びリビングへと向かう。

ガチャ…

ドアを開け、さっきまで自分が立っていたキッチンへ歩き出す。
…と、その時だった。

「…かあ…さん?」

キッチンの奥、ゴミ箱の前に母がいた。
しかも何故かしゃがみ込み、まるで見つからないようにするように。
…だが、俺が声を上げたのはその状態に対しての事ではなかった。

「…っ、何してんだよ母さん!」

「…ッ!」

俺の声に身体をビクリと震わせ、母はオドオドした表情で、そして泣きそうな目でこちらを見る。
これまでずっと声を荒げる事無く、出来る限り柔らかな喋り方をしていた俺だが、今だけは違っていた。

怒り、とも少し違う。諭す、でもない。
…だが、叱っている事には間違いないだろう。


…母は、俺が捨てた玉子焼きを、拾って食べていた。
ゴミ箱を開け、失敗した不味い玉子焼きを、素手で口に運んでいる母。
俺はその光景があまりにも衝撃的で、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような感覚に包まれていた。

しかし、唖然や呆然とする前に理性…というか人としての何かが働き、その母の行為に対し、俺は声を荒げていた。
…どういう理由であれ、捨てた食べ物を拾い食いしている母は見たくなかった。

「う、うう、ああ…」

どうしよう、どうすればいいんだろう。そんな心境が顔に表れる母。
だがそれでも手に持った玉子焼きの切れ端は決して離そうとせず、むしろ取られないよう一層大事にしようとする節まで見れた。

「…そ、そんなの早く捨てろよ!ゴミ箱なんか漁らなくても、俺がいくらでも母さんの食べたいものを用意するか――」

と、ここで言葉が途切れる俺。

「……」

ふるふるふる。

必死に首を横に振り、涙目で俺を見つめる母の姿が、そこにあった。
そして、やめさせようとする俺の手を振りきり、母は手にしていた、失敗作以外の何者でもない玉子焼きを口に入れた。

「……」

何回も咀嚼し、ゆっくりと味わう母。
やがてゴクリと咽喉がなり、捨てられた玉子焼きは完全に母の胃の中へと入っていく。

「…お、いしい…よ…」

「…え…?」

必死に、かなり無理をしているようにではあるが、母はしっかりとした言葉を発する。
しかも表情は笑顔、母親が子供に向ける、優しさに溢れた笑顔だった。

「…かあ…さん…?」

「……」

俺の問いかけに母は何も言わず、ゆっくり近付いてくる。
そして、す…と手を伸ばし、俺の首元に回して抱きつき、ポンポンと優しく俺の背中を叩いた。


…ありがとう。

…いい子にしてたね。

…嬉しかったよ。

そんな声が、聞こえた気がした。

「……」

母さん…

きっとそれは聞き間違いでも、幻聴でもない、母の心からのメッセージ。
俺は母のなすがまま、絶えずポン…ポン…という優しいリズムを刻んでは背中から伝わってくる母の手の感覚を受け、涙を流していた。


それは何年も、何年も前の事。

転んで足に刷り傷を作り、血を流していた俺にしてくれた時もそうだった。

些細な事で友達と喧嘩をしてしまい、どうすればいいのか判らず泣いている時もそうだった。

誤って家のガラスを割ってしまい、父に怒られるのが怖くて怖くて仕方のない時もそうだった。

…母は、こうしていつも、俺の首元に手を回しては、俺が安心するまで、俺が泣き止むまで、背中を優しく叩いてくれていた。

「…ありがとう、もういいよ母さん…」

「……」

俺の言葉に「いいの?まだこのままでもいいのよ?」という顔を見せる母。
まあ別にもう少しこのままいてもいいのだが、俺もそれなりの年齢なので丁重にお断りさせてもらう。
そしてお互いゆっくりと離れた後、俺は再び先程の行動について聞く事に。

「…どうして、あんな事したの?」

「…?」

「玉子焼き。捨てたものを食べなくてもいいでしょ」

「…あ、う…」

一生懸命説明しようとするのだが、やはりまだ上手く喋れない母。
だが俺は焦らず、急かす事無くその続きを、例え言語としては不完全なものであっても気持ちで理解する気でいた。

「…うう、う…」

言葉での伝達は困難と踏んだのか、母は表情と身振り手振りを加えて俺に考えを伝えようとする。
どうやらその様子から察するに、「せっかく作ってくれたのだから食べないと申し訳ない」、「食べたら喜んでもらえると思った」といった理由によるものである事を何となくではあるが把握した。

「…そっか。ありがと、母さん」

「……」

ふるふるふる。

また首を横に振る母。しかし先程とは違い、そのスピードはかなり緩やかだった。
それは純粋な否定とは異なる意思表示。きっと母は「気にするな」と言いたいのだろう。

「わかったよ。…でも、これからはもうやらないでね」

「う」

母は短い言葉を発して頷く。その表情には「もったいないよ…」という気持ちも混じっているように見えたが、それでも何とか同意してくれた。

その後、俺は母に食事ならいつでも作ってあげる事、リクエストも自分が作れる範囲なら応じる事、そして見たい映画があれば借りてくる事を約束した。
まあ食事と言ってもあまり食欲のない母の事なので、食べるのは基本的に玉子焼きオンリー。しかしそれでも俺はこれまでと変わらず、他のおかずも作って配膳する事を決めていた。

…いつか、同じ食卓を囲み、一緒に食事を摂る。

これが、俺の次なる目標。
そして、ささやかな夢となった。



次の日。
朝食はご飯と味噌汁と納豆と玉子焼き。
玉子焼きは中に海苔を巻いた年輪巻きにした。
これは以前作るも母の口には入らなかったもの。今日はそのリベンジを果たすため作ってみた。
結果は3切れ中2切れを完食。それなりに満足のいくものとなった。



次の日。
朝食はトースト、インスタントの野菜スープ、焼いたウインナーとハム、そして玉子焼き。
今日の玉子焼きはフライパンに油ではなく、少量のマヨネーズを入れて焼いたもの。こうすると油で作るよりふわっとなるらしい。
出来たてを食べてみると、確かにふんわり具合がいつもよりアップしていた。
この玉子焼き、母も気に入ったようで、3切れ中2切れ半まで食べてくれた。

その夜、俺が食事を摂っていると、映画を見ていた母がひょっこり現れ、対面のイスに座って俺の食事の様子をじっと見始めた。

「…どうしたの?」

「……」

ふるふる。

俺の問いかけに首を振るだけの母。
どうやら特に用事やお願いがある訳ではなく、ただこの場にいたいだけのようだった。

…何か、1人だけ食べてるようで悪いな…

本日の夕食はコンビニで買ってきた中華弁当。チャーハンと酢豚に惹かれて購入したのだが、あまり美味しくはなかった。
悲しい事にこの弁当で一番の当たりは、隅に置かれていた数切れのザーサイ。それ以外は残念ながら俺の好みにそぐわない…というか人類の好みにそぐわない、とまで言ってもいい程のクオリティだった。

「あ〜、ゴメンね」

「…ごめ…ん?」

「この弁当、少し母さんにもあげようかな…って思ったんだけど、美味しいおかずがもう無いんだ」

「…あは」

俺の言葉を聞き、母は子供のように笑う。
そして残り少なくなった弁当に視線を向け、「君、美味しくないんだ」みたいな表情を浮かべた。



「……」

…今日はいつもより円滑にコミュニケーションが取れたな。

深夜。
俺は明かりを消した部屋の中、横になりながら夕食時の出来事、母とのやり取りを思い出していた。

確かにこの数日、母との距離が狭まった…というか意思の疎通は上手く出来るようになった。
睨まれる事も、唸り声を上げて威嚇される事も、常軌を逸した行動を取る事もなくなった。

しかし、果たしてこの状態、今の母の様子は回復に向かっているのか。
俺はこの部分に大きな疑問と、そしてそれ以上に大きな不安を抱えていた。


…著しい幼児化。

これがこの数日、母と接して感じた事。
言動はまだ通常の会話が出来ていないので判断材料に挙げていいのか判らないが、一連の行動はまさに子供のそれ…というのが引っかかっていた。

最初はコミュニケイトが取れた事の嬉しさ、母と正面から向き合える喜びが勝り、そこまで考えが回らずにいた。
その上、俺がこれらの事象を「微笑ましい」と捉えてしまい、親子の立場が逆転しているような状況に安らぎを感じてしまった事も、この状況に気付くのを遅くしてしまった。

「……」

一度、医者に聞いてみるか。
俺はそう思い、明日にも病院に足を運ぶ事を決めた。


…そうする事で、少しでも不安が晴れるなら。

…この、嫌な予感が杞憂で終わるよう。


そんな思いが、俺の中にはあった。



次の日。
いつものように朝食を作り、俺は診療が始まる時間に合わせて家を出る。
おそらく病院はそれなりの混雑が予想されるが、俺は受付を通ること無く担当医に会える事になっていた。
あまりいい事ではないのだろうが、父を通して病院に話を付けてもらい、母の容態を事細かに説明し、医師から詳しい見解を出してもらえるだけの時間を割いてもらっていた。

「…」

この前、父が家に戻ってきた時に話した事は一応医師の耳に入っているらしい。
しかし、ここ数日の変化は知らないだろうし、それ以前の出来事だって詳しくは把握していないだろう。
俺はどんな些細な事でも、素人目にはどうでもいいと思われる事でも、しっかり話そうという意気込み、決意があった。




……

………


病院に着き、担当医に会い、特別な来客室に通され、状況を説明。
その説明に要した時間は2時間を越え、またその後に返って来た医師の見解を聞くのにも相当の時間を費やした。

俺はその見解を一生懸命、必死に聴いていたのだが、途中から冷静さを失い、激しい動悸と吐き気に見舞われていた。

何度も「もうやめようか?」「少し時間を置こうか?」と医師に言われたが、俺はそれを頑なに断り、全ての情報を引き出す事を望んだ。
例えそれが自分に多大なダメージを与える事になろうとも、立ち直れないだけの不安に、現実を直視出来なくなるだけのショックがあろうとも、俺は最後までその見解を、予想されるであろう今後を聞く事にした。


…結論から言うと、非常に危ない状況と言わざるを得ません。

それが話の切り出し方、俺の状況説明を聞いた医師の第一声だった。
一連の容態の変化、症状の緩和であったり感情のコントロールが出来るようになったのは確かにいい事ではあるらしい。
…が、ここ数日特に顕著に見られる幼児化に関しては、医師の顔を曇らせる結果を招いてしまった。


…このまま快方に向かう可能性もありますが、全ての記憶を失ってしまう可能性もあります。…確率的には後者の方が圧倒的に高いでしょう。

…この時期に見られる幼児化は快方と悪化、どちらの兆しでもあるのです。
精神が虚弱になってしまっている状態の中、脳が以前の正常な状態に戻ろうとする判断を下すのか、それともこれ以上の負担を課すのを避けるため、完全に情報をシャットアウトしてしまうか…
そのどちらかでしょう。

…残念ながらもう経過を見守るしかありません。
何かの契機を経て記憶を取り戻し、それまでの状況が嘘のように回復して健常に戻るか、それとも…


「………」

病院からの帰り、バスの中。
俺の頭ではそれら医師の言葉がリフレインしては離れず、その度にどうしようもない悲しみと憤りが高速で駆け巡っていた。

こうして家に着く頃には意識朦朧、真っ直ぐ歩く事もままならない状態になっていた。
こんなザマを母には見せたくない、自分が悪化要因になってはいけない、それだけはしっかり持ち、俺は自室に入るまで平然を装おう事を決めて玄関を開ける。

廊下を歩いていると、リビングのドアが開き、母が顔を出す。
俺はその「おかえり」と言わんばかりの瞳を何とか平然とした表情で、いつものように「ただいま」と答えて階段を上がる。
本当は一気に、3段飛ばしくらいで駆け上がって部屋に戻りたかったのだが、足音で不審に思われないよう、何とか我慢して普段の歩調を維持する。

しかし我慢もそこまで、自室のドアに手が伸びた次の瞬間、俺はまるで押し込みを働くかのような勢いで部屋の中へと入る。

そして俺は布団に倒れ込み、肩に掛けたバッグもそのまま、靴下も履いたままで目を閉じる。
もうこのままずっと寝ていたい。そんな思いも頭をかすめたが、今は何も考えず、ただ眠りたかった。



真夜中。
さすがに外出用の格好で、しかもうつ伏せの状態で長時間いると嫌でも目が覚めてしまうようで、ずっと眠っていたいという俺の思いはここで止まってしまう。

「…」

まだ定まらない視界の中、俺はまずポケットの中に入っていた電話を取り出す。
そして今は何時なのかを見ようとするのだが、そこには何回もの着信と何通ものメール着信の表示が。
見るとその全てが父からのもので、一番新しいメールから数件は「連絡をくれ」という内容のもの。その後も俺は順に送られてきたメールを開き、父も担当医から連絡を受けた事、それを聞いた俺への心配や配慮が書き連なった文面に目を通していく。

「……」

だが、その父からのメールを読んだ俺の反応は皆無。それは無反応というより、まるで他人事のような感じがした。
寝起きで頭が回っていない事も少しはあるかもしれないが、それ以上にまだ俺の中では現実味がない事のように思えてならなかった。

…全然腹も減らないな…

真っ暗な部屋の中、もそもそと起き上がりながら俺はそんな事を考える。
今日は朝に軽く食べてから何も口にしていないのだが、空腹感は全く無かった。
あるのは気だるさと疲れ、それも肉体的な疲労ではなく精神的な疲れが全身を支配していた。
一切の気力が湧かない、とでも言えばいいのだろうか。とりあえず今の俺は脱殻のような状態だった。
…残念ながら、立ち直る気配は見えない。というか立ち直りたいとも思わなかった。

…ああ、腐ってるな、俺。

本当は色々頑張りたいのに、諦めずに足掻き続けたいのに、自分の中の弱い部分と天邪鬼な部分が結託し、その気持ちを強制的に制している…
それを分かっていながら、十分に自分でも気付いていながらも動けない自分。それは今の俺が吐いた言葉通り、完全に腐っていた。

…明日、どうしよ…

…いいや、後で考えよう。

…朝飯は作る?

…知らね。

「………」

繰り返される自問自答。
いや、もしかしたらもう自問ではないのかもしれない。
もはや問題提起をする気力さえ失いかけていた。
また、同様に問いかけに対して答える気も、すでに薄れ始めていた。

…もういいって。

吐き出すように、投げ捨てるように漏らした言葉。
これが今の俺の本音、全てなのかもしれなかった。


そして、俺は再び現実逃避に、全ての考慮を放棄するように眠りについた。





……

「おいしくないわね、これ」

……



それは夢だった。
いや、厳密に言うとまだ確証は持てないのだが、まあ間違いなくこれは夢だろう。
何にせよ俺はまたしても母の言葉、以前にも夢に出てきたセリフを耳にしていた。

今回も前後の情景であったり、時間軸であったりと、経緯の類は一切不明。
ただ、どこかで俺が母にそう言われているだけ。本当にそれだけの夢だった。

勿論、俺はその夢を見ながら、必死に情報片を集めようとした。
しかし、夢は真っ暗で、その声以外は無音で、暖かいのかも寒いのかも判らなかった。
一体いつ頃の出来事なのか、そもそも過去に事実としてこういう場面があったのか、それすら微妙な所だが、それでも感じるこのリアリティーと懐郷にも似た胸を締め付ける感はそれが事実であったと思わせるに十分な力を持っていた。

…早く、早くしないと夢が覚めてしまう…!

暗い夢の世界の中、俺はどこからか近付いてくる現実世界、つまり目覚めの気配を直感的に察し、慌てふためきながらもそれを回避しようと狼狽の様を繰り返す。

…そして、まるで長いトンネルから抜け出す間際のように、遠くから光が見えてくる。
その光は躊躇う事無く、何ら遠慮を見せる事無く近付き、大きくなる。

…ああ、目が覚める。
これで次の瞬間、ガバッと起きる俺がいるんだ。寝汗でべとつく額を拭う事になるんだ。

俺はそう考えていた。
しかし…

「おいしくないわね、これ」

目覚めの間際、ほんの一瞬ではあったが、もう一度だけ母の声が聞こえてきた。
それは今までの感情を読み取れなかったものとは違い、しっかりと母の意思なり感情が見て取れるもの。

…このセリフを口にした時、確かに母は、笑っていた。

バカ笑いではない、何かを蔑むような卑下た笑いでもない。
かといって心からおかしい訳でもなく、例えるならそれは半ば予想した事が当たってしまった時の笑い方のようなもの。
それは「ほら、やっぱりね?」とか、「だから言ったじゃない」に近いものに俺は思えてならなかった。

「……」

そしてこの後、俺は目を覚ます事になる。
これはよい目覚めなのか、それともまだ結末がハッキリしないもどかしい目覚めなのか、当の本人も判らない。
…が、こうして目覚めてしまったのだから仕方ない。それでも唐突に、自覚の無いまま眠りから覚めるよりはいいだろう。

俺はさっきの目覚め、家に帰ってきてすぐ倒れるようにして眠った時よりは冴えている頭でそう考え、気持ちよく大きく伸びをしてから立ち上がる。
昨日の昼からカーテンを閉めずにいた窓からは眩しすぎる程の光が差し込み、俺を後押しするように階下へと向かわせる。

背中に暖かい陽の光を受け、まるで何らかの加護を受けたような気分になる俺。
現状は何も、それこそ昨日の昼、絶望と共に逃げるようにしてこの部屋に入って来た時と変化は無い。

母の具合は快方に向かうか悪化するか依然不明、そしてこちらが取れる有効手段は、無い。

…何かしらのきっかけが、お母さんの心を元の状態に戻すだけの出来事があればいいのですが…

昨日聞いた医師の言葉が頭に浮かび、そして消える。

…精神世界の奥底に追いやられてしまった正常な心を呼び起こし、お母さんの心を引き戻す出来事、例えば印象深い思い出であったり、約束事のようなものを思い出させれば…

その確率は低い、僅かな可能性しかない…と言わんばかりの説明をする医師の顔が脳裏をよぎる。
だが、こうして医師が匙を投げたに等しい見解を出した以上、俺が何とかするしかない。

そう、俺がやるしか、ないのだ。

「…ふっ」

これが昨日までウジウジしてた奴の吐くセリフかよ。
俺は自嘲気味に笑い、ふんと鼻を鳴らす。

喜んで、落ち込んで、また些細なことで喜んで、そして落ち込んで。
時折それは至福、後に絶望。
それは本当に神経をすり減らし、感情をこれでもかと激しく起伏させる。

「…ったく、これじゃ俺の方が先にやられちまうぜ」

口元を歪ませ、もう一度鼻で自分を笑い飛ばす。
が、それも一瞬の事。俺はすぐに真剣な、朝の清々しさにも負けない表情で階下へと向かった。
その先にあるのはごく普通の、それこそ一般的な家庭の食卓。
今までずっと食事を摂ってきたその場所は、残念ながら昔のようには機能していない。
家族が揃う事が無くなり、一時はその食卓に並ぶ料理を作る者さえいなくなってしまった食卓だが、今は暫定的に自分がその役目を担っている。

しかし、いつまでも自分がそれを続ける訳にはいかない。
この場所に料理が盛られた皿を乗せ、食事を摂る際に中心にあるべき人物は他にいる。

…ガチャ

俺はドアを開け、自室と同じく朝日の差し込むリビングの中へと入っていく。
その直後、俺は外からの光を正面から浴びてしまい、一瞬目の前が真っ白になる。

パアッと広がる白い光。俺は思わず顔を手で塞ぎ、その眩しさに目を瞑る。
…すると次の瞬間、俺の頭の中である光景が突然浮かび上がり、続いて無数のフラッシュと共にその光景の全てが、時間軸やバックグラウンドといった要素も漏らす事無く頭の中に飛び込んできた。




……

…ああ、そうか。

それは連続でシャッターを切るかのような、少し粗めのコマ送り。
パシャ、パシャという音こそ聞こえないが、完全なフラッシュバックとして情景の断片が矢継ぎ早に頭の中で展開していく。

その断片は全て次の情景と繋がり、順番に思い起こしていくだけで容易に記憶のパズルが完成していった。
さらに途中からはしっかりと音声も、俺と母のやり取りも漏らす事無く伝わり、集まったコマは映画のフィルムのように1つのものへと姿を変える。


「おいしくないわね、これ」

そして思い出された映像はこの言葉、母が発したこのセリフで終わりとなる。
決して映画の大オチ、ここからスタッフロールに繋がる…とまではいかないが、俺にとってこのワンシーンはどんな名作映画のエンディング、そしてエピローグよりも意味深く、また比類なき重要性を持っていた。



……

そう、確かあれは俺が小学生の頃、キッチンに立ち始めた頃だった。
別に料理が好きだった訳ではない、興味を持った訳でもない。
ただ、空腹を満たすため、自分で何か簡単なものを作って食べたいと思っていただけだった。

それは日曜日。
たまたま早起きした自分がリビングに向かうと、母はまだ寝ているのかキッチンには誰もいない。
このままでは朝食までかなり時間がある。
だが、お腹は空いていて、とてもそれまで待てない。
しかし、お腹が空いたと言って母を起こすのは申し訳ない。
そうなると当然浮かび上がるのは自分で作る、という選択肢。

俺がキッチンに立った理由、立つきっかけはそんなものだった。

始めはパンに何かを乗せてトースターで焼くだけ。
ケチャップとハムとチーズでピザトーストを作るのが俺にとって唯一の料理だった。
それがだんだんと他の料理にも手を出し始め、自分の好きな具を入れたオリジナルのおにぎりやサンドイッチ、そして火を使う目玉焼きやインスタントラーメン…と、少しずつその幅を広げていった。

そんな簡単料理、お子様料理を始めてしばらく経った時の事だった。

確かその日も日曜の朝だったと思うが、とりあえず俺はいつものようにキッチンに立っていた。
ただ、この日はいつもと違う事が1つあり、料理をする俺の背後に母の姿があった。

いつもより早く目が覚めたという母はキッチンに立っていた俺に興味津々、「せっかくだから私の朝ごはんも作ってもらおうかしら」とお願いしてくる。
俺はその母の申し出を受け、なぜか自信たっぷりで料理を開始。
きっと頼られた事、お願いされた事が嬉しかったのだろう。俺は少しでも美味しいものを食べさせるんだと意気込み、自分の腕前に見合わない料理を作る事にした。

それまで俺が作ってきたのは味付けにコツを必要としないもの、ピザトーストならケチャップ単体、ラーメンなら一緒に入っている粉末スープの素を入れるだけ…というものばかり。
それなのに俺は自分は料理が出来ると思い込んでしまい、また母にいい所を見せようと、いつも作っていた目玉焼きをやめて玉子焼きを作る事に。

この時が初挑戦となる玉子焼きだが、普段母が簡単そうに作っているのを見ていたため、自分にも出来ると判断。しかも玉子焼きは母の好物とくればもう迷う余地はないだろう。

こうして俺は見よう見まね、それも曖昧で適当な記憶を頼りに玉子焼き作りを開始する。
まずフライパンに火を点け、油を注ぐ。しかしここで卵を割っていない事に気付き、慌ててボールを取り出す。

いつも作ってる目玉焼きならもう焼き始めているのに…と思いつつ、さらに卵をかき混ぜる箸も用意していない事に気付く俺。
するとここで後方から母の手が伸び、煙を上げ始めたフライパンの火を止める。
そして軽く注意が入り、俺はちょっとへこんでしまう。

だがまだ挽回のチャンスはある、俺はそう気持ちを切り替え、割り入れた卵を勢いよくかき混ぜる。しかし、勢いというのは程々にしないとかえって逆効果になってしまう訳で、俺はボールから少し卵を床にこぼしてしまった。

それを見て「あ〜あ」という俺、そして母。
…が、こぼしたのは少量、俺は後で拭くから大丈夫と言い、構わず味付けに入る。

確か砂糖と塩と醤油を入れてたな…
俺は微妙な記憶と勘を頼りに、砂糖と塩が入った容器を取り出し、軽量スプーンを使って卵の入ったボールに入れていく。
…まあ使ったのは軽量スプーンだが、一切軽量はせずに普通のさじとして使う自分。しかも量はフィーリング…と言えば聞こえはいいかもしれないが、要は適当極まりないもの。
それを見た母はさすがに口を挟もうとするが、どうしようもない子供の俺はそれに反発、ちょっとした癇癪を起こしてしまう。

これには母も黙るしかなく、仕方ないわね…と軽いため息混じりで俺の様子を見守る事に。…勿論それは渋々ながら、完成した料理を食べるのは他ならぬ自分のため、中々に複雑な表情を浮かべていた。

そんな母の表情、不安な様子は俺にも伝わり、何とかしようという意気込みだけは十二分に沸くのだが、意気込みだけで玉子焼きの味付けが美味くなるなんて事は無い。
そりゃあ出来ればいつも母が作っているくらい美味しい玉子焼きを作りたかったが、それはかなりの難易度である事をその時の俺は知らなかった。

砂糖を…ドバッ。
塩も…ドサッ。
でも醤油は少量という事を知っていたのでチョロ。

反応を見るのが怖いので、味付けの間は一切後ろにいる母の顔を見ようとしない俺。
…が、そんな事をしなくても、振り向くまでも無く、これは失敗に向かって爆走しているのが嫌でも判る。しかしもうここまで来てしまっては後戻りは出来ない、もしかしたらそれなりに美味しいかも…という淡すぎる期待を抱き、俺は再度フライパンに火を点け、溶いて味付けを施した卵を流し入れる。

ジャアアアアアッ!

一度消したとは言え、ついさっきまで煙を上げていたフライパン。相当の熱をまだ持っていたらしく、卵を入れた瞬間油が跳ねまくる。

予想外の大きな音、そしてこれまた予想外の油に驚き、慌てる俺。しかしそこは男の子、喉元まで上がってきていた情けない声を何とか飲み込み、さも平然を装ってガスコンロの前に立つ。

そして卵を均一に広げるため、フライパンを斜めにしながらグルグル回すのだが、既に割り入れた卵はあらかた固まってしまい、フライパン全体には行き渡らない。
元々十分すぎる程の熱を持っていた上、再度点けた火もバリバリの強火だったため、一気に焼き固まってしまった玉子焼き。

…もう玉子焼きと呼んでいいのかも判らないそれは早くも裏面から香ばしい匂いが立ちこめており、フライ返しで少しめくってみると、ホットケーキなら合格というキツネ色に変わっていた。

この時点でもう玉子焼き失格、固まりすぎて巻けない状態になっていたのだが、それでも俺は無理矢理たたむようにして卵を折り曲げ、そのまま豪快に皿に盛りつける。

…と、こうして味付けも焼き方も大失敗となってしまった玉子焼きのようなものが完成。
このひどすぎる出来にショックを隠しきれず、俺は以降の料理を作る事を断念。後は母が引き継ぎ、冷蔵庫に入っている食材でパパッと朝食を作り始める。


10分後、食卓には俺の作った玉子焼きもどきの他、母の作った見ため十分、美味しそうなおかずが並ぶ。

「さあ、食べましょ♪」と言いながら食卓に座る母と、「う、うん…」と少し元気の無い返事をする俺。
その対照的なテンションは表情にも現れ、俺はかなりしょんぼり、母は柔らかい笑顔。
母の表情は落ち込んでいる俺を励まそうという意味合いも含まれていたが、それ以上に純粋に楽しそうだった。例え出来はどうであれ、初めて子供に料理を作ってもらったのが嬉しかったのだろう。

そして2つの「いただきます」という声が重なり、俺と母はまだ寝ている父を差し置いて朝食タイムに入る。
まずはご飯を一口、ボイルされたウインナー、油揚げの味噌汁と続き、もう一度ご飯、ウインナー、味噌汁のサイクルを繰り返す。
次に箸をつけるのはいよいよ玉子焼き…ではなく、俺も母もシーチキンサラダに手を伸ばす。
この時点ではまだどちらも玉子焼きを食べていない。一応2人共意識はしている…というか食べる気ではいるのだが…

「……」
無言の俺。やっぱり作った人が最初に食べないとマズイのかな、と思いながら。

「……」
同じく無言の母。ああ、この子ったら責任感じちゃって…と思いながら。

スッ…
するとここで母がおもむろに玉子焼きもどきに箸をつける。
それを見た俺は思わず「あ…」と声を出し、母に負けじと素早く玉子焼きに手を伸ばし、一気にバクリと口に頬張る。

「……」
ふんわり要素はゼロ、代わりにもっさりした食感。
ほんのり甘いではなく、「ん?」と首を傾げてしまう味。

しょっぱいと甘いだけでは説明の付かない不思議な味…ではあるが、決して美味しいとは言えない玉子焼き。
しかし、食べれない程の不味さではないし、身体が受け付けないといった事も無い。
どう例えたらいいのか判らないが、とりあえず一言で表現するのであれば「微妙」という言葉が相応しいような気がする。

「おいしくないわね、これ」

と、母が言う。
だがその言葉に嫌味や冷たさはなく、「頑張ったんだけどねえ」といった労いの意味合いが含まれていた。
そして母はにっこりと俺に笑いかけた後で言葉を続ける。

「…でも、嬉しいわ。お母さん、ちゃんと食べるからね」

それは今まで見た夢、甦ってきた記憶にも無かったセリフだった。

リビングに入り、眩しい太陽の光を浴びた事を契機に飛び込んできた映像。確かにその時、最後の場面、最後のセリフは「おいしくないわね、これ」だった。
しかし回想を重ね、甦った記憶を解きほぐしていくうちに映像はさらにクリアとなり、終わりだと思われていた場面のさらに続きを思い出させてくれた。

…本当に、どうしてこうまで忘れていたのか、記憶の奥底に埋もれていたのか。
確かに思い出として取っておくには少々弱い出来事かもしれない。特にほろ苦い思い出、恥ずかしい思い出は忘れるように脳が働く事もあるだろう。

だが、この出来事は料理を作って失敗して母に慰められた、では終わらない。
これにはちゃんと続きがあり、思い出として、しかも大事な大事な思い出として残るだけの出来事に繋がるのだ。

最初にこの場面を思い出すきっかけとなった夢、それは映画の話はメインで、あのセリフは全く独立したもの、違う場面でのものだと思われていた。

どこかの海岸と自宅の食卓、それでは同じものと認識するのは難しいだろう。
だが、2人で朝食を摂った日、あの後に俺と母は一緒に出かけていた。
行き先は勿論あの夢に出てきた、母と映画の話をしていた海岸。
どことなく外国の雰囲気漂うその海、その空は、母が好きだと言っていた映画、この数日母がずっと見ていた映画によく似ていた。

だが、母が本当に見たかったのは、ずっと夢見ていたのはこの海ではなく、もっともっと遠い海。
それは母が大好きな映画の舞台、そこに出てくる海にこそ、母は思いを馳せていた。

そして、母はその映画が撮られた地で、自分がヒロインとなり、映画と同じシーンを演じたいと夢見ていた。
しかし残念ながらその夢は叶う事無く、十年以上の月日が流れていた。
この間、母はどういう思いでいたのか、今となっては知る由はない。
もしかしたらずっと、ずっと夢を見続けていたのかもしれないし、忘れてしまったり、思いが薄れてしまい、「昔の思い出」程度になってしまったのかもしれない。

だが、精神を病んでからの母の行動を見るに、おそらく心の奥底で変わらず夢見ていたように思えてならない。
色褪せることの無い当時の記憶。だが現実は歳を取り、そんな他愛も無い夢を抱き続けるには無理が生じてくる。目の前には日常の生活があり、その中で生じる様々な出来事に対処していかなければならない。

こうしてますます遠ざかる夢と現実世界、そしてどうしようもないギャップが生じてしまう状況に、母は精神を病んでしまったのかもしれない。

よく笑い、よく人の話を聞き、あまり怒らず、ほんわかした印象を家庭の内外問わず与える母。
その一方でどこか夢見がちな面があったのも事実。おそらくこの部分が本人も知らない間に圧迫され、心の隅に追いやられ、結果としてその反動、反発で精神のバランスを崩したのではないか。


「……」

今までにも幾つか仮説は浮かんできたが、きっとこれが正解だろう。
俺は甦ってきた記憶と自分で掘り起こした記憶、その2つを元にして出した最後の仮説に自分でも驚く程の自信を持っていた。

…ならば。
自分の立てた仮説が正しいと思うのであれば、やるべき事はおのずと決まってくる。
リビングの中、朝日に照らされる中、俺はピシャンと頬を叩き、まずはキッチンへと向かう。

するとその時、ナイスなタイミングで母が登場。まだ少し眠そうではあるが意識はハッキリしており、俺の姿を見つけるなり母は挨拶(といっても言語ではなく、表情とゼスチャーで表現)もそこそこに食卓の自分のイスに腰掛け、いつものように玉子焼きを食べる体制に入る。
これで箸を両手に持ち、ピシピシとテーブルを叩いて食事をねだると完全なお子様になってしまうが、さすがにそこまではせず、母は大人しくイスに座って玉子焼きを待つ。

「…はいはい、少し待っててね」

挨拶を返す間もなく俺はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
そして卵を取り出し、続いてその他の材料に手を伸ばすのだが、そこで俺はピタリと手を止める。

「……」

冷蔵庫を開けたまま頭の中で考えを巡らせる事十秒弱、ようやく俺はパタンと扉を閉め、キッチンの前へと立つ。
その手に持っているのは卵のみ。使おうと思っていた食材には結局手を付けず、そのまま冷蔵庫の中に置いてきた。

トントン…カパッ

軽く亀裂を入れ、用意したボールに卵を割り入れる。
俺は他に何も具の入っていない、シンプルな玉子焼きを作ろうとしていた。
…が、それは普通の玉子焼きではない、懐かしさとほろ苦さが同居した、思い出のある玉子焼き。

「…ねえ母さん」

「?」

「覚えてるかな、俺が初めて母さんに料理を作った時の事」

「…う、う〜?」

「あ、いいんだ。別に無理して思い出さなくても」

「…うう」

あからさまに声のトーンが下がり、「…ごめんなさい」と言わんばかりの顔になる母。
…まあ「うん、覚えてるよ」という流れになるとこっちがビックリ、今後色々と格好がつかなくなるので、ここはその反応であってくれた方が助かったりする。

「俺は覚えてるんだ。…ちゃんと思い出したのはついさっきなんだけどね」

「……?」

十分に卵を溶き、続いて俺は味付けに入る。
各種調味料が並んでいる中から取り出したのは砂糖、塩、そして醤油。

「…今になってはあまり思い出したくない、大失敗な結果に終わっちゃったんだけどさ、あの時の悔しさはやっぱ忘れられないんだ」

「……」

ボールの中に砂糖を…ドサッ。
そして塩を…ドバッ。
でも、醤油は適量のチョロ。

「…そう、忘れられないし、何より忘れたくないんだ」

「?」

熱しすぎたフライパン、煙が出そうなフライパンに溶いた卵を一気に入れる。
すると当然、ジャアアアァァッという大きな音が鳴り、卵は熱された面に触れた先から焼かれていく。

「…その忘れられない思い出には、母さんも含まれてるんだ」

「…??」

過剰な火力により、卵はフライパン全体に行き渡る前に固まり、焼き上がる。
ここで俺はフライ返しと菜箸を使い、無理矢理玉子焼きの形に整える。

「…俺は、この玉子焼きを通して、その時の事を母さんに思い出して欲しい。…そして、出来るなら一緒に、元の母さんに戻って欲しいんだ」

「わ…たし?」

「うん。…さ、出来たよ母さん」

…コト。
出来上がった玉子焼き…いや、玉子焼きのようなものが乗った皿を母の前に置く。
それは十数年前、俺が初めて作った玉子焼きであり、初めて母に作った料理でもある。

「…う、…うう…」

「……」

その世辞にも美味そうといえない、どう見ても成功したように思えない玉子焼きを覗き込む母。
何か引っかかるものがあるのか、思い当たる節や記憶の断片があるのか、母はじいっと玉子焼きを見つめ、時折鼻を近付けては匂いの確認をする。

「…食べてみる?」

「う」

コクリと頷く母。
本当は美味しくない旨を伝えたかった、伝えるべきなのだろうが、先にそれを言ってはいけないような気がした。
だから俺はあえて何も言わず、そのまま箸を母に手渡す。

「……」

「……」

玉子焼きを掴み、口に入れようとする母。
その様子を母が怖がらない程度にじいっと見つめる俺。

「…ん」

…そして、母が玉子焼きを口に頬張り、ゆっくりを咀嚼を始める。
噛みしめて味わうような大層なものではないのだが、母は一口、また一口と噛み砕いていく。
何もそれは玉子焼きが焦げて堅くなっていたからではなく、最初にまじまじと見ていたように、今度は味覚から何かを思い出そうとしていた。

「……」

口の中にあったものを飲み込み、再び箸を伸ばす母。
この間、特に不味そうな表情を浮かべるでもなく、勿論吐き出すこともなく母は玉子焼きを少量ずつではあるが黙々と食べていく。

その様子を見つめる俺は終始無言。
何かを口にする事もなければ、自分も続いて箸を伸ばそうともしない。
ただ、母が食べている様を見ているだけ。それ以外にやるべき事は無かった。

玉子焼きだけ、それも意図的に失敗したもの1品だけが並んだ朝食。
さらに食べているのは母のみ、という普通の食事とは異なる点多々の光景ではあるが、当の本人達にとって第三者の視点など関係なかった。


…母は気付いているのだろうか、この「初めての玉子焼き」が俺の最終手段である事、病んでしまった母の精神を戻そうとする必死の策である事を。

…母は判ってくれるのだろうか、この「初めての玉子焼き」が意図するもの、そしてその先にある夢のビジョンを。

…母は、俺の知っている母に、なってくれるのか。


願う事、思う事、望む事は1つ。
気持ちは背水の陣、もうこれに替わる策や案は無い。
持てる手持ちの術は、既に使ってしまっていた。
これが駄目なら、もう…

「……」

「……」

無言の母と、無言の俺。
母は皿に乗っていた玉子焼きを食べ終え、最後の一切れを口に含んでいる。
俺はそんな母の様子に、次に取る母の行動、言動を固唾を呑んで見守っていた。

「……」

「……おいしくないわね、これ」

「…っ」

「…でも、嬉しいわ」

「かあ、さん……」

「…本当、嬉しい、わ…」


ポツリ、そしてまたポツリと零れる涙。
それは俺の瞳から流れるものでもあり、母の瞳から流れ落ちるものでもあった。


…母は、泣いていた。

…俺も、泣いていた。

そして。

…母は、記憶を取り戻していた。

今、目の前にいる母は、俺の知っている母だった。

その目、その眼差し、その喋り方、その抑揚の取り方…


全てが、母だった。




「…さ、いただきましょうか」

「そうだな。…いただきます」

「………」

…日曜日。
自宅のリビング、食卓の前。
確かにそこには、家族3人の姿があった。


「…どうしたの?」

「…おい、食べるぞ」

…母が記憶を取り戻した朝から、何日かが経過していた。
あの後、俺はしばらく母の容態が本当に治ったのかどうか、泣きながら質問責めをした。

俺の名前、そして父の名前から始まり、たくさんの問いかけを矢継ぎ早に投げつける俺。
それは執拗とも取れる確認作業。
だが、そうでもしないと、俺は怖くて、不安が消えなくて、ぬか喜びになるのが嫌で、完全に確証が持てるまで質問を続けた。

そんな俺の連続問いかけに対し、答える側の母も、泣きながらその全ての問いに正解を述べていった。


「……っ、……っ」

「…おいおい、泣くやつがあるか。せっかくまた3人で食卓を囲めるようになったんだ、もう悲しむ事は何も無い。…そうだろ?」

「…ええ、お父さんの言う通りよ。…もう、誰も辛い思いはしなくていいの」

それから俺は何とか涙をこらえ、高鳴る鼓動を必死に抑えながら父に連絡を入れる。
後から聞いたのだが、その時の俺は興奮のあまり呂律が回っておらず、父は始め何を言っているのかよく判らなかったらしい。

だが、父は俺の発言から必要な語句、重要なワードを抜き出しては組み直し、その完成した言葉が吉報である事を知って喜んだ。

それからはもう目まぐるしい展開、急にも程があるだろうと言いたくなるような展開が続き、病院に行ったり双方の実家に顔を出したり…と、怒涛の数日間を過ごす事となった。


「…わかってるよ。…でも、わかってるから余計に…」

「…そうか」

「…もう、朝からしんみりしちゃダメでしょ。この後お出かけするんだから」

…そして今日。
ようやく慌しさから開放された俺達は、こうして実に久し振りとなる家族揃っての朝食を迎えようとしていた。

そのメニューはごく普通、一般的な朝食として食卓に上がるものばかり。
勿論、その中には母が得意とする玉子焼きも入っている。


「…ゴメン、もう大丈夫だから。ちゃんと朝メシ、食べれるから」

「よし、それじゃあ食べようか」

「そうそう、冷めたら美味しくなくなるもの。…さ、2人共たくさん食べてね」

母は笑顔でそう言い、適度な量の米が盛られた茶碗を差し出す。
俺はクシャクシャになってしまった顔を上げ、その茶碗を丁重に受け取る。

そして箸を取り、俺は真っ先に手元の皿へと箸を伸ばす。
掴んだのは母が作るのを得意とし、また母の大好物である玉子焼き。

何も入っていないシンプルなそれは柔らかく、ほんのり甘かった。
その味付けは絶妙かつ完璧。今まで俺が作ってきた玉子焼きでは出せない味だった。


…俺は以前、玉子焼きに何らかの秘密があると判断し、色々と工夫を凝らしては日々の食卓に並べていた。
それは半分正解で、残り半分は不正解。

中に何か入れたものが特別、その具材を見つける事こそ解決に繋がる…
そう思っていた。

だが、正解は「何も入れない事」だった。
それもただ単に何も入れない、ではなく、具材以外のものを入れなければならなかった。


…あの日、十数年前の朝に作り、母に食べてもらった「初めての玉子焼き」
それは決して褒められたものではない、世辞にも美味いとは言えないもの。

しかし、こうしてまた家族揃って朝食を摂れるようになったのは他ならぬ、大して美味しくもない玉子焼きだった。

それは母が何度となく見ていた映画、思いを馳せていた風景に繋がり、埋もれかけていた記憶を呼び覚ますきっかけとなる。

心の奥底に仕舞い込み、長い年月の経過を経て歪んでしまった夢は姿を変え、母の心を蝕む事になってしまった。

…だが、もうそんな悲しい結果を迎える事は無いだろう。


「…やっぱ美味いな…」

「そうでしょ?」

箸に挟まれた母特製の玉子焼きをまじまじと見つめる俺と、得意気に話す母。
…まあ別に俺は料理が好きな訳でも、興味を抱いている訳でも無いので、全然悔しくはない。
そんな事より俺はこれからずっと母の料理が食べれる嬉しさ、一時は戻れないと思っていたこの食事風景を再び迎えれた事への喜びで一杯。悔しいなんて感情はどう頑張っても生まれてこなかった。


「さあ、ご飯を食べたらすぐに出かけましょうね。今日は天気もいいし、きっと海も綺麗だと思うの」

「…ああ、今日はどこへでも付き合わせてもらうよ。…あ、その前におかわりもらえるかな」

「ん、俺も」

そう言いながら俺と父は空になった茶碗を母に渡す。

今の会話からも判るように、朝食後の予定はもう決まってた。
行き先は勿論、母が夢見ていた映画の舞台…という訳にはいかず、以前夢に出てきた海岸へ向かう事になっていた。

そこで映画のシーンを再現するのかどうかは知らないが、もし母がやると言ったら俺も父も頷くしかないだろう。
どんな場面を演じるのか、また俺と父のどちらが選ばれるかは判らない。

とりあえずかなり恥ずかしい事になるのは必至、それなりの覚悟が必要だろうが、それ以上に楽しい事になるのは間違いないだろう。

「…はい、どうぞ」

そんな事を考えている間におかわりが運ばれ、俺は母から茶碗を受け取っては再び箸を動かし始める。

勿論、2杯目も最初に手を伸ばすのは玉子焼き。
ご飯のおかずにするのは少し塩辛さが足りないが、あのほのかな甘みを俺は欲していた。


…今日も食卓には眩しい朝日が差し込み、そこに並ぶ料理をより一層美味しく見せてくれる。

また、その陽の光は料理だけでなく俺達家族も照らし、朝の清々しさと共に幸せを運んでくれる。

その幸せは毎朝差し込む光と同じ、ささやかなれど美しいもの。
日々の活力となり、食卓を彩る笑顔となり、料理をいつもより少し美味しく感じさせてくれる力になり、また眠気を吹き飛ばしてくれる効果もある…かもしれない。


…今日からこの食卓は、以前と同じ幸せが舞い込む場所となる。

幸せの食卓、それはどこにでも存在し、今日も明日も明後日も変わらず幸せを運んでくれる。

…そう、幸せの食卓は、些細なきっかけとそれを望む思いさえあれば、どの食卓もそれに姿を変えてくれるのだ。





                                          「幸せの食卓」 END 






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