「理想の形図 -異なる世代と交わる目線-」




…んん。
ガタンゴトンという規則的な、そして眠気を誘発する音。
僕はそんな電車の中、春の日差しを背中に浴びていた。

「…あ、寝ちゃったんだ…」
首筋にうっすらかいた汗を拭いながら、まだ半分眠ったままの頭で状況を把握しようとする。
周囲を見渡すと、乗り込んだときはガラガラだった車両内も適度な混み具合になっていた…というか座席は全て埋まっていた。

…ああ、座れてよかった。
少々大袈裟だが、僕は心からそう思う。
自分はまだまだ「若者」に分類される年齢だが、近頃は体力の衰えを痛感する機会が多くなってきた。
不規則な勤務時間に加え、慢性的な運動不足…。正直なところ、身体能力に関しては完全に若者のそれではなく、片足どころか腰までどっぷり中年の域に浸かっているような状態だった。

「…うう」
バキバキバキ…
呻き声と共に鳴る骨の音。軽く首を曲げ、腰を伸ばしただけでこの有様だ。
…もはや中年を通り越して初老だな、そんな事を本気で思う。

ガタンゴトン、ガタン、ゴト…ン
ちょうどその時、車両がゆっくりと減速。そしてドアが開き、数人の乗客の出入りが。
「…」
まだ頭の回転は正常に戻らず、夢の世界との決別を嫌がっている状態の自分。
そんな中で僕は何を見るでもなく、その数人の乗客の動きを目で追っていた。

…ん?
特に対象物を定めていなかった視線が止まる。
そこに映っていたのは1人の老人。やけに体格のいい、見るからに健康そうなお爺ちゃんだった。

何か…、アンバランスだな。
最初に抱いたのはそんな感想。そして何人かいた乗客の中からこの老人に目が止まった理由もそれだった。
足先から首元までを見るなら30代半ば、それも肉体労働を生業としているような身体なのだが、その上に乗っかっている顔は「お正月は孫の顔を見るのが何よりの楽しみ」と言わんばかりの好々爺。

…う〜ん、僕より全然健康そうだなあ。
世の中のお年寄りがみんなこのお爺ちゃんのように元気なら、これからやって来ると言われている超高齢化社会も何とかなるんじゃないかな、と無責任ながらに思う自分。
そんな事を考えてしまう程、僕の目の前にいる老人には生気と活力がみなぎっていた。

…ホント、見習いたいくらいだよ。
こっちは毎日のように栄養ドリンクのお世話になってるんだから…って、目の前?

ここでようやく気付く、「目の前」という単語。
そう、知らないうちに老人は僕の目の前まで来ていた。
どうやら何気なく見ていたつもりが、いつのまにか凝視になっていたようだ。

…寝ぼけていたとは言え、これは失礼な事を…
僕はそう思い、おそらくこちらの視線に気付いていたであろう老人に詫びを入れる。…勿論それは心の中で、なのだが。

「…」
と、その時だった。
どことなく残る申し訳ない感から、一度外した視線を再度老人に向けた僕。するとタイミングが悪いというか何というか、またしても老人とバッチリ目が合ってしまう。

…うわ、どうしよ。
電車が止まって老人が乗り込んで来てからまだ1分強、その間に2回も目を合わせてしまった。
しかも今、僕は反射的に目を逸らし、下を向いてしまっている。これは正直かなり失礼だし、何より気まずい。

まいったな…
このまま下を向き続ける訳にもいかない、狸寝入りを決め込むのも不自然極まりない。
う〜ん、何かいい案は…

「…あ」
思わず小さく声を漏らす。
…そうだ、この手があった。
僕はこの状況をごく自然に、そして自分の株を下げる事なく打破する手段を思いつく。

それは何てことのない、普通の所作。
スッと立ち上がり、この老人に席を譲る…というもの。
そうすれば先の視線も、「乗り込んできた時から迷ってたけど、やっぱり席を譲ることにしました」みたいな意味合いを持たせる事が出来る。

そこに「…ほら、やっぱりお年寄りには優しくしないといけないけど、周囲から偽善っぽいなあと見られたくないじゃないですか?判りますよね、判ってくれますよねおじいちゃん?」的な見せかけの葛藤をプラスすればアラ不思議、気は弱いけど心優しい青年の出来上がりである。
…何かメチャクチャ姑息だなあ。

いや、この際そこには触れないでおこう。
僕はそう言い聞かせ、立ち上がる体勢に入る。
…が、その時になってふと疑問が生じ、浮かび上がる間際の腰がピタリと止まる。

「…」
ちょっと待てよ、こんな健康そうで身体もがっちりしているんだ、席を譲るなんて言ったら「年寄り扱いするな」と怒り出すかも…
うん、あり得る。っていうかその可能性の方が高いかもしれない。

…ああ、もうどうしたものやら。
持ち前の心配性を存分に発揮し、一度起こしかけた行動を引っ込めてしまう。きっと近い将来、この性格が災いして頭部が寂しくなるに違いない。

こうして悩んでいる間にも時間は過ぎ、結局席を譲るタイミングまで逃してしまう自分。
さすがに発車してからしばらく時間が経った今になって「どうぞ座ってください」と言って立ち上がるのはおかしい…というか違和感がある。
せめて次の駅で降りるのであれば一応の説明や格好は付くのだが、残念ながら自分が降りるべき駅はまだまだ先だったりする。

「…」
そしてここから僕の頭の中で本気の葛藤が始まる。
古典的な表現を使うなら、天使と悪魔の囁きあい、というやつだろうか。

…タイミングなんてこの際どうでもいい。余計な心配などせず、さっさと席を譲ればいいじゃないか。

…いや、もしそれで説教や愚痴をこぼされたら、それこそヤブヘビだ。ここは何も動かずやり過ごした方がいい。
ほら、このおじいちゃんだって平気そうに吊革に掴まってるじゃないか。

…でも世間体みたいなものもあるだろ?一応こっちの方が若いんだし、見てみぬふりはよくないって。

…だったら他の座ってるやつも一緒だろ。偽善者ぶってるんじゃねえよ。
それにこのくらいで何を真剣に悩んでるんだ。スルーでいいんだって。

ガタンゴトン、ガタンゴトン…

春の陽気が差し込み、心地良い暖かさに包まれた車内。
しかし、その中で自分だけは陽気が原因ではない嫌な汗をかき、この何気ない日常生活の合間で生じた、これまた日常生活レベルの危機に頭を悩ませていた。

「…」
無言のまま、そして下を向いたまま。
…本当に僕はさっきまで気持ちよく寝ていたのだろうか、そんなどうでもいい事にまで疑問を抱き始めた時だった。
それまで熱心に携帯電話をいじってメールを打っていた隣の乗客がすっ…と立ち上がり、自動ドアの前へと歩いていった。

…あ、この人、次の駅で降りるんだ。
そういえばこの辺、大学とか多いもんな…
僕はさっきまで隣に座っていた乗客、おそらく女子大生であろう女性の後姿を見ながらそんな事を考える。
「…おっと」
危ない危ない、これで視線が合ったら、また面倒な事になるかもしれない。
最近はちょっと見ただけで痴漢扱いされるからな、気をつけないと…

僕は心の中でそう呟き、慌てて視線を正面に移す。
するとそこには先程からの悩みの種、健康そうなおじいちゃんが立っており、またしても目が合ってしまう。…ひどい悪循環だ。

ああ、もうどうでもいいや。
偽善者だろうと冷たい若者だろうと好きに思ってくれ、そう開き直ろうとした時だった。
それまで吊革に掴まっていた老人が手を離し、ゆっくりと動き出す。
そして…

「…」
コクリ。
無言ではあるが、老人は軽く微笑みながら僕に会釈を交わし、そのまま空席となった隣の座席に腰を下ろす。

…え?
その行動に対し、思わず固まってしまう僕。
本来であればこちらも会釈を返すか、それに代わる挨拶をするべき場面なのだが、とっさの事で何も出来なかった。

うわ、また気まずくなる状況に…
この電車に乗って何回目になるか判らない後悔と自責の念に苛まれる自分。
しかも今度は老人との距離がさらに近くなった…というかほぼ密着状態である。これは精神的にもかなりよろしくない。

…どうしよう、隣の車両にでも移ろうかな。
でも今動いたら間違いなくこのおじいちゃんを意識してると思われるし…
と、ついさっき開き直りを見せたとは思えない女々しさを露呈してしまう自分。
しかしここは何とか平常を保つ事に成功、そしてさっきまでの非礼を詫びる意味も込め、僕は身体を横にずらして最大限のスペースをおじいちゃんに譲る事にした。

よいしょ…と。
モゾモゾと動き、反対側の乗客に睨まれない程度の距離まで近付く。
勿論この行動は自然に、さりげなく行わなくてはいけない。
もし露骨におじいちゃんとの幅を開けようものなら、それこそ避けているように映ってしまう。
幸い、幅を詰めた側に座っていたサラリーマンは熟睡中だったので、こっちには気兼ねなく動く事が出来た。

「…大丈夫ですよ、このままでも十分座れますから」
もう少しスペースを開けれるかな、という時だった。隣に座っていたおじいちゃんがおもむろに口を開き、僕の目を見ながら優しくそう言ってきた。
「…あ、そ、その…。そうですか…」
と、あまり返答になっていない言葉を返す自分。…そこまで慌てなくても、と思わなくもないが、心にやましい部分を持っている時の反応なんてこんなものだろう。
しかし、そんな自分の心境とは裏腹に、おじいちゃんはさらに言葉を続ける。
「…重ね重ねのお気遣い、ありがとうございます」
今後はお礼、しかも丁寧なおじぎ付きである。
「え、ええっと…」
…重ね重ねの気遣いって…何かしたっけ?
またまた返答に詰まる自分。だが今回は先のそれとは違い、おじいちゃんの言葉が何を指しているのかを把握出来ていない事による曖昧な返事だった。

「先程から席を譲る、譲らないでかなり悩んでおられたのでは?」
僕の返答や仕草から心境を察したのだろう、おじいちゃんはナイスなタイミングで助け舟を出してくれる。

「…あ、いや、結局見るだけで終わっちゃって、その…」
確かに今の言葉でおじいちゃんの言わんとする事は理解出来た。
…が、それと同時に自分が当初抱いていた情けない打算やら姑息な思惑も思い出してしまい、これまた言葉の歯切れが悪くなってしまう。

「…正直な方ですね」
そんなグダグダ感満載な自分の受け答えに、おじいちゃんは目を細めて頬を緩ませる。
「…え?」
「目が合ったので席を譲ろうとするも、色々と頭の中で葛藤があり、結局タイミングを逃してしまった…。どうです?当たらずしも遠からず、といった所では?」
「は、はい…。ほどんど当たってます」
まるで心の中を覗かれたかのような的確な読みに、僕は素直に頷くしかなかった。
…そんなに自分は思っている事が顔に出てしまうタイプなのだろうか?

「それに加え、目の前にいるのがこんな身体の老いぼれですからね。…怒られると思ったのでは?」
と、おじいちゃんはさらに話を続ける。そしてやっぱり…というか何というか、この言葉も的を射ていた。

「…すいません、その通りです」
もはや頷くか同意する事しか出来ない状態に、小さくなりっぱなしの自分。
だが、不思議とそこに息苦しさや責められている感覚はほとんどなく、少し照れくさい程度の思いがあるだけ。
それはこの老人の眼差し、叱るでもなければ諭すでもない、とても自然で澄んだ目がそうさせている…ような気がした。

「いやいや、そんなに謝らないでください。今さっき言ったとおり、こちらにも責任はありますから」
会話が始まってから終始言葉に元気がない自分を気遣ってか、おじいちゃんはそう言って再度優しい目を向ける。

「…」
ああ、これが年の功ってヤツなんだろうな。
僕は久し振りに触れた「年長者ゆえの余裕」に対し、そんな事を考える。
上手くは言えないが、こういう態度やスタンスで人と接せれるというのは本当にすごいと思う。しかもそれが自分のような他人、年齢もかなり離れた相手にもそのスタンスを崩す事なく立ち振る舞うのは容易ではないだろう。
…自分の間合い、とでも言えばいいのか、とりあえず自分の横に座った老人にはそれが明確に見受けられた。

「…ん、少し喋りすぎましたかな。もし気分を害されたのであれば―」
「や、大丈夫です。全然そんな事ないですから」
またしても何も喋らない時間を作ってしまい、おじいちゃんに気を遣われる僕。しかし今回はすぐに、そしてしっかりと自分の意思を伝える。
…まあ勢い余って言葉を途中で遮るような形になってしまったのはご愛嬌、という事で。

「そうですか。それはよかった」
と、僕の言葉に心底安心したような表情を見せるおじいちゃん。
…ここまで相手に配慮をするお年寄りは珍しい…というか、年齢の概念を抜きにして考えても、こんな丁寧な喋り方をする人は少ないように思える。
そのため僕も極力丁重な言葉遣いで喋ろうとする、のだが…

「すいません、かえってこちらが気を遣わせてしまっていてるような事になっていまして…」
こうして見事に日本語が乱れてしまい、あえなく撃沈。
もはや丁寧語うんぬんではなく、言語自体がおかしくなっていた。

…しまった、これじゃあ「普段から敬語を使っていないヤツ」だと思われてしまう。
これでも一応社会人、同年代の中ではそれなりに礼節をわきまえてるつもりでいたのだが、今の言葉を聞かれては全く説得力が無かった。

「あ〜、違うんです。オレ…じゃなくて私が言いたかったのはですね…」
すぐに先の至らない言葉遣いを挽回しようとするも、のっけから簡単につまずいてしまう。
…別に自分の事を「私」と呼ぶのに慣れていない訳でもないのだが、どうもさっきから言動・行動共に上手くいっていない。

「いいんですよ。言葉遣いの正しさと誠意は必ずしも比例しません、普段の話し方で気楽に話してください」
と、これまたナイスなフォローを入れてくれるおじいちゃん。
さっきもそうだが、この人が出してくれる助け舟は本当に上手い。しかもそこには高圧的な部分、こちらが負い目を感じるような事も無く、あくまで対等な関係で接している。
その喋り方は丁寧そのもの、手本とするべき言葉遣いなのだが、それ以上にもっと根幹となる部分がしっかりしている…、だからこそ年齢や言葉の差分なく、いい意味での対等という関係を築けるのではないか、と僕は思った。

「…そうですね、それじゃ遠慮なくいつもの喋り方にします」
「ええ、お願いします」
微笑みながらそう言うと、おじいちゃんは嬉しそうに言葉を続ける。
「いやはや、話がわかる方で助かります。しかも聡明なだけでなく、優しい心もお持ちのようで…」
「まさか、そこまで人間出来てませんよ。本当に優しかったらすぐ行動に移せますって」
明らかに褒めすぎなおじいちゃんの言葉に、笑いながらもそこだけはしっかり否定する自分。
しかし、おじいちゃんは「いやいや」と首を振り、少し真面目な顔を見せる。
「言葉遣いもそうですが、取るべき態度や行動もまた状況によりけりですよ。…確かに席を譲る行為はよい事かもしれません。しかし、必ずしもそれがベストではない時も往々にしてあるのです」
「はあ…」
「それをあなたは判っていた。判っていたからこそ、しっかり考えてくれたんだと私は思っています」
「…」
そりゃあ確かに色々と考えていたけど…と、心の中で呟く自分。
でもその考えの中には邪推であったり勝手な解釈もあった訳で、決して褒められたものではないのだが…

…ガタンゴトン、ガタン…、ゴト…

電車がゆっくりと減速し、そして完全に止まる。
ちらりと乗車口に目を向けると、さっきまで隣に座っていた女性が我先にとホームへ降り立り、足早に階段へと向かっているのが見えた。

「…別に悪く言う気はありませんが、あの女の方は私を見ないようにしていた。それにもし目があったとしても、席を譲るか譲らないかで悩む事はなかったでしょう」
僕の視線を追っての事か、それとも自分の意思か、おじいちゃんはそう言いながら横目で女性の後姿に目を向け、軽く息を吐く。
その「ふう」と漏れる声はそれまでと変わらない穏やかなものだったが、やはりどこか冷めているように見えた。
「あ〜、そんな感じはしましたねえ」
と、おじいちゃんの言葉に頷く自分。確かにあの人はそういう空気を漂わせていた。
「最初に言ったように、それをダメだと言ったり、マナーについて深く掘り下げて話す気もありません。…私はただ、ああいった対応が一般的になりつつある中で、しっかり相手を見て考えてくれたのが嬉しい、という話をしたいんです」
「そうでしたか…」
僕はそれだけ言うと、改めてこの老人が放つ真摯な態度に身を引き締める。
感心や感動とは少し違うが、やはりこの人からは学ぶべき点、感じ取らなければならないものが多々あるな、と思う。

「それにしても…」
と、ここで初めて自分から話題を切り出す自分。
実は先の会話の中にとても気になった…というか気に入った言葉があった。
「はい?」
「いいですね、さっきの言葉。「言葉遣いの正しさと誠意は比例しない」ってヤツ。僕もそう思いますよ」
…ま、しっかり敬語を使えなかった自分が何を言っても説得力はないのだが、それでも心から同意出来る名文句だと思う。
「そうですか、それはよかった。…どうも最近は上辺だけはよくしておこう、みたいな風潮がありますからね。やはりそれは違うんじゃないかと」
「ええ、何となく判ります。とりあえず年寄りを見かけたら優しくしとけ、席を譲ってやれ、荷物を持ってやれ…、そんな認識でいる人が多いように思います」
「勿論それらの行為も嬉しい事、される側から見れば喜ばしい事ではあるんですが…」
「肝心の気持ちや意思の疎通が希薄になる…ですか?」
「はい」
その通り、と言わんばかりの顔になるおじいちゃん。今回ばかりは僕ではなく、向こうが大きく頷く番だった。

「…ホント、その辺のライン引きは微妙ですよね」
これに関しては自分もついさっきまで悩んでいた事なので、ちょっと訳知り顔で喋る事が出来た。
「する側とされる側、どちらも難しいとは思いますが…、こういう部分を上手に推し量れる事が出来る人間になりたいものです」
「ですねえ」
双方の意見がぴったりと一致し、僕とおじいちゃんは「お互い頑張りましょうね」という顔になる。

「…ははは」
「ふふ」
その意見と表情の合意がなぜか面白く、この状況に思わず笑ってしまう2人。
どちらもまさか電車内で、それも初めて会う年齢の離れた相手と意気投合するとは思っていなかったのだろう。
しかし、僕とおじいちゃんはこうして分かり合い、先の会話で言うところの「する側」と「される側」の垣根を越える事が出来た。
これはきっと貴重な体験になるだろうし、何より純粋に嬉しいという思いが強かった。

「…でもよかったです」
ひとしきり笑顔を見せた後、僕はこれまでの流れをまとめるように話し始める。
「はい?」
「今だから言いますけど、結構揺れてたんですよ。面倒だから隣の車両に移ろう…とか、開き直ってドンと座ってよう…とか」
「ははは、そうでしたか」
「あ、もしかして気付いてました?」
おじいちゃんの微妙な笑い方の違いから、何となくそう感じた自分。素直に聞いてみると、向こうも素直に頷いてくる。
「はい。それはもう」
「え、そんなに判りやすい反応してたんですか?」
「そうですね、さすがにあれは…というのは冗談ですが、かなり落ち着きがないようには見えましたね」
「そうっすか…」
半ば予想していた事ではあるが、やっぱり少し恥ずかしい。僕は頭をポリポリと掻きながらそう言うと、自分から振った話題にも関わらず、すぐさま別の話にシフトしようとする。

「あ〜、そういえばシルバーシートってあるじゃないですか」
「はい、ありますね」
「前にテレビか何かで「シルバーシートなんてものがある時点で日本の恥だ」って言ってる人がいたんですよ」
「ほう」
この話に興味を持ったのか、おじいちゃんは少し身を乗り出して聞く体制に入る。
「その人が言うにはですね、「本来であればどの席もシルバーシート、つまりお年寄りに譲るべきものだ。それが『ここはシルバーシートです』みたいに区分すると、じゃあ普通の席は譲らなくてもいいのか?という話になる。それはおかしいじゃないか」っていう事なんですよ」
「…なるほど」
おじいちゃんは僕が喋り終えた後、少し間を置いてからそれだけ言うと、納得顔で何回かゆっくりと頷く。
「僕もこの話を聞いた時、「ああ、確かに」って思いました。それまでは何の疑問もなくシルバーシートってものを見てたんですけど、よく考えてみればおかしいですよね」

「…本来であれば全ての席がシルバーシート、ですか」
ポツリと呟き、おじいちゃんは「ふう」と軽く息を吐き、どこか遠い場所を見るような目になる。
「…その考えがたくさんの人に浸透し、受け入れられたらどんなに素晴らしい世の中になるんでしょうね」
「…」
言葉を失ってしまう僕。
おじちゃんの口から発せられた言葉は、その言葉から受ける印象は、まるで叶わない夢でも語っているような感じだった。

…ああ、そうか。
きっと僕らの目線からでは判らない、知り得ない事があるのだろう。
それはこのおじいちゃんの顔をあそこまで曇らせるだけの事、おそらく「悲しい」というより「嘆かわしい」や「憤り」といった言葉で表現される事象をたくさん目にしてきた、実際に体験してきたに違いない。

「高齢化問題という言葉を頻繁に耳にするようになってかなり経ちましたが、語られるのは年金の額であったり医療負担の割合であったり…と、お金の話がほとんどでした」
「…」
と、まだ僕は黙ったまま。
最初は軽い気持ちで、それこそ思い出したついでに…みたいな感じで切り出した話だったが、今は違う。
そう、シルバーシートの話はきっかけでしかなく、既に話はもっと深くて複雑なものになっていた。

「それがようやく、ほんの少しですが、日々の生活についても考えられるようになってきたと思います。…本当に大事なのは目に見えない部分、心の領域ですからね」
「…そう、ですね」
声を搾り出すように、そして申し訳無さそうに答える自分。
途中からおじいちゃんの表情は元の優しい顔に戻っていたが、僕はどうしても
さっきの物悲しそうな顔が頭から離れないでいた。

「…どうしたんです、そんな顔しないでください」
おじいちゃんはそれまでと変わらず、明るく接してくれる。
「…」
しかし、いくら頑張って頭を回転させても、僕に返せる言葉は浮かばなかった。
…いや、浮かばなかったというよりは、そもそも持ち合わせていなかった、と言った方がいいかもしれない。
今の僕にはこのおじいちゃんと対等に話す資格など無い、そう思えてならなかった。

「あなたが困った顔、悲しい顔になる必要はどこにもありませんよ」
「…いえ、いいんです。僕は、反省しないといけません」
「反省…ですか」
ピクリとおじいちゃんの眉毛が動いた…ような気がした。
もしかしたら気分を害したのかもしれない。でも、僕は言葉を続ける事を選んだ。
「…ええ、僕はまだまだ認識不足でした。それが今、ようやく実感する事が出来ました」
「だから反省…ですか?」
さっきとは少し言葉のニュアンスを変え、聞き返すような喋り方になるおじいちゃん。
その声は強い口調にも聞こえたが、どこか消え入りそうな脆弱さも持ち合わせていた。
「そうです。…もし僕の話を聞いて不機嫌になったのであれば謝りますが、それでも僕の考えは変わりませんし、自分の至らない部分を―」
「…では」
僕の言葉を遮るようにおじいちゃんが口を開く。
「あなたに可能性を、これからの社会がよりよくなっていく可能性をあなたに見出した私はどうなるんです?」
「…え?」
虚を突かれたかのような感覚に僕は思わず声を漏らす。おじいちゃんから発せられた言葉は完全に予想外だった。

「…私は嬉しかった。あなたのような若い人がいるのであれば、これからの生活もまんざらではない、世の中まだまだ捨てたもんじゃない、そう思っていたのです」
「…それは、過度の期待です。とてもじゃありませんが、僕には重過ぎます」
僕は正直に答える。…無理だ、と。
出来れば「任せておいてください」くらいの事を言いたかった。言ってあげたかった。
「…いえ、そんなに重く捉えないでください。私たちにとって何より嬉しいのは、地に足が付いていない机上の空論より、肌で感じれる繋がりや何気ない心遣いなんです」
しかし、それでもおじいちゃんは優しく、言い聞かせるように言葉をかけてくれる。
「…」
「あなたはそれを自然に行っていた。相手を見て取るべき行動を考え、その場での最良を出そうとした。…それがどれだけ相手からしてみれば嬉しいか、そこをどうか考えてみてください」
「…」
僕は何と言えばいいのだろう、どんな回答が出来るのだろう。
その言葉の破片すら見付けられない僕はやっぱり無言。何も言えないもどかしさだけが自分の中でくすぶっている…、そんな感じだった。

…でも。
不思議な事に、さっきまで同じくらい強く感じていた「自分は無力である」という負の意識は薄れ、息苦しさはかなり和らいでいた。
勿論もどかしい思いはあるのだが、その中にはどこかくすぐったい感覚も混じっていた。
自分の短所を長所を交えて指摘された、自分を認めてもらった上で説教されている、例えるならそんな感じだろうか。
とりあえず僕はそれがとても嬉しく、また救われた気分になっていた。

「あの…」
遠慮がちにではあるが、ようやく口を開く自分。
「はい」
それを待ち望んでいたのか、おじいちゃんは穏やかに、ゆっくりとした口調で返事をしてくれる。
「ちょっとネガティブに考えすぎてましたね、自分」
「そのようですね」
すんなりと同意するおじいちゃん。その表情は優しいだけでなく理解力にあふれ、僕が何を言いたいのかを全て判った上での頷きである事が見て取れた。

「…上手くは言えないんですけど、何か考えが変わる事が出来たように思います。ありがとうございました」
「いえいえ、私は大した事は言っていません。変わったのはあなたの意思によるもの、あなたの心がそうさせたのでしょう」
「でも、それには何かしらの契機が必要だった。その直接的な要因を与えてくれたのはおじいちゃん、あなたなんです。もしこうやって話をしていなければ、僕は何も気付けなかったかもしれない…。だから今、僕はすごく感謝しているんです」
「…」
おじいちゃんは目を細め、嬉しそうに僕を見ている。
そんなおじいちゃんの反応が嬉しくて、僕はこれまでにないくらい饒舌になっていた。

…こうして僕はその後も自分の考えであったり思った事をたくさん語り、おじいちゃんもそれに対してしっかり意見を言ってくれた。
それはとても有意義で充実した時間で、これまでに感じたことのない満足感を味わう事が出来た。

ガタンゴトン、ガタンゴトン…

電車は走り続け、変わらず規則的な音を鳴らす。
その中で僕とおじいちゃんは2人、長い座席に並んで座り、正面を見たまま遠くて近い将来の、理想となる形をそれぞれ思い描いていた。
ちなみにさっきまで続いていた会話は、僕が言いたい事をあらかた喋り終えたため、今はちょうど一段落ついた、という所だった。

「…今日は、いい天気ですね」
「ええ、実はさっきまで眠ってました」
「お疲れ、ですか?」
「そうですね、結構大変だったりします」
…と、口にする話題は普通のやり取りなれど、その心の中には共通のビジョンが展開されていた。

若者とお年寄り、両者にとって最良の関係とは何か。両者にとって適切となる接し方とは何か。
そのスタンスに、コミュニケイトの方法に明確な形はなく、また決まった答えも存在しない。

しかし、どんな場合でも必ず正解は存在する。正解が1つも用意されていない程、これらの問題は意地悪ではない。
考えればきっと判る、相手の側に立ったものの見方が出来れば、理想となる関係を築くのは決して難しい事ではない。

「…今日は、いい日になりました」
「ええ、僕もそう思います。…でも」
「でも?」
「まだ今日は終わってません。「なりました」じゃなくて「なりそうです」の方がいいんじゃないですかね」
「…はい、そうですね。今日は、いい日になりそうです」

描く理想のビジョン、それはこの会話のような、何気ないものでいいと思う。
かしこまらなくても、何かの型にはめようとする必要はない。お互い、適度な自然体で接すれば、きっと分かり合える部分が見えてくる。
そこを足がかりに、判らない事や難しい事を埋めていけばいい。

…そう、考えれば正解は見えてくるのだ。意外と簡単な事なのだ。

「いつか、近い将来…」
噛み締めるように、最大限の期待を込めるように、おじいちゃんが口を開く。
しかし目線はそのまま、正面を向いたまま、流れる景色を見つめたまま。
「…」
僕はその言葉の続きを待つ。
同じく正面を向いたまま、背中に暖かい陽の光を浴びたまま、その陽の光に照らさせて輝く小さな埃を見つめたまま。
「こういうやり取りをしている若者と年寄りが、たくさんいるといいですね」
「…はい」

僕は短く、でもはっきりと返事をする。
そこには決意であったり、大袈裟に言うのであれば誓いのような意味合いも含まれていた。
でも、そこに妙な気負いもなければ、プレッシャーになるような使命感も無い。
あるのは期待感、そして軽い自信めいたもの。

「…あ、そろそろ降りる駅です」
「そうですか」

今日、この出会いで僕はそれまで抱いていたお年寄りのイメージを、近い将来訪れるであろう高齢化社会についての考えを改める事が出来た。

「…あの、今日はどうもでした」
「いえいえ、こちらこそ」

ゆっくりと減速を始める車内の中、僕はお礼を言って立ち上がる。
そして、淡い希望を込め、1つ言葉を付け加える。

「…また、会えるといいですね」
「ええ、そうですね」

おじいちゃんは最後もやっぱり笑顔。
勿論、僕も笑顔だった。

こうして僕はホームへと降り立ち、背後から発車のベルを聞く。
振り向きはしなかったけど、やはり名残惜しさがあり、一瞬その足が止まった。

だけど、僕は再び歩き出す。
きっとあのおじいちゃんも、僕の姿が見えなくなるまで見送るような事はしないと思うから。

だから、僕も振り返る事なく、さり気ない別れを選ぶ。

「…ホント、また会えるといいですね」

そう、言いながら。





                                 「理想の形図 -異なる世代と交わる目線-」 END









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