「終わりの旅路」





序章「回想」

……今、俺の隣には1人の女の子が眠っている。
名前は……知らない。
俺が知っているのは「SAYA」というハンドルネームだけ。どうやら本名とは一切関係ないらしい。

彼女と知り合ったのは半年前、同じサービス元のブログ経由から。
最初は本当に偶然。新着日記とかサーチワードとか、そういうもので俺のページに辿り着き、よくある「足跡残しコメント」を付けたのがきっかけ。
それ以降も彼女はよく俺のページに来ては小まめにコメントを(でも時々微妙に噛み合っていない内容もあった)書き残してくれたので、相互リンクを貼り、フレンド要請も行い、ブログ上の書き込みだけではなく、少し踏み入った内容や自分の素性を明かすような内容の場合は直接メールでもやり取りをした。

俺は基本的に日常の事を面白おかしく、暗い話や怒りに満ちた内容を避けてブログを更新していた。別に日々の生活が順調だった訳でも、幸せ一杯な日々を送っていた訳ではないが、人が見て楽しくない内容を載せるのは気が引け(というか変に訳知り顔で慰められたとか、悲劇の主人公気取りすんな的なメッセージが来るのが嫌なだけ)、書かないでいた。

しかし彼女はそれを「いつも明るくて楽しい人」と曲解し、正直そこまで信頼されると逆に引くよ、というレベルで俺に接してきた。
ちなみに彼女のブログの内容は大半が喜怒哀楽で言うところの「哀」、ネタなのか本気でヘコんでいるのか判らないが、極度にネガティブな内容や、真面目に心配してしまう程の悲観的な文章が載る事が多かった。

変に訳知り顔で慰められるのが嫌いな俺だが、彼女のブログにはさすがに見かねて数回ほど本気で心配している旨の内容のメールを送り、お節介にならない程度の、変に負担をかけない、足枷にならないようなコメントを書き込んだ。

すると彼女は決まって自分が送った文字数の3倍のお礼メール&書き込みをし、俺が書いた普通の日記にも長文コメントを寄せるようになり、それが一番頻繁な時は、まるで2人の交換日記のような状態になっていた。……いや、実際ブログを読んだ友人にそう言われていた。

SAYAは18歳、地方に住む短大生。しかし学校の空気が合わないとか、本当は行きたくない学校だったとかで、世辞にも楽しいキャンバスライフを送っているとは言えない様子。その証拠にブログの1日の書き込み件数がハンパない回数になっており、1時間毎に更新をする事も珍しくなかった。

一方の俺はと言うと、更新頻度は2日に1〜2回。夜中に時間とネタがある時に書き込むくらいで、仕事(正確にはバイトだが)が忙しかった日はパソコンを開かずに寝る事も少なくなかった。

しかし、そのスタイルは先々月辺りから大きく変化。更新頻度こそあまり変わっていないが、ブログを開く時間、パソコンに向き合う時間は以前に比べて飛躍的に長くなった。

その理由はやっぱりというか何というか彼女にあり、最初は「しっかりレス付けをするのが少し面倒だな」とか「あまり深く関わるのはやめた方がいいかも……」と思っていたのが今ではすっかり変わり、「彼女の支えになりたい」だとか「せめてネット上では俺が優しくしてあげよう」と考えるようになっていた。

別に上からの目線で見ている訳ではなく、俺の方が少し年上だから結果そういう感じになってしまっただけで、俺はあくまで彼女とは対等の立場でいたいと思っている。
その考えは彼女も知っていて、当然さらに俺の好感度と信頼度が増し、それまで以上に頻繁にメール&書き込みを行い、さらに自分の細かい情報まで晒すようになってきた。

今までの人生、俺は彼女ほど寂しくつまらない生活を送ってきたとは思わない(どうやら彼女は学生時代全般にいい思い出がないようだ)が、だからといって極端にちやほやされるような、俗に言う「モテ期」のようなものも体験していない。

そんな俺が毎日のように女の子に、それも守ってあげたくなる要素満載の弱々しい子に頼りにされ、1日に何回も自分のページを訪れてもらえば、それは少しは意識してしまう。

弱気になっている日記に励ますコメントを書き込み、マジ感謝の返事を貰っては自己満足に浸る……
文面にすると非常にずる賢く、嫌なヤツ全開の行動にも取れるのだが、実際にやっている事を冷静に見ればそう思われても仕方ない。

どうやら俺も彼女に近い部分、似通った性質を持っているような気がする。ただその数本のベクトルが少し違う方向を向いているだけで、本質的には相当合致する部分があるように思えてならなかった。

後ろめたい事、つまらないと感じた事、辛い事を抱えながらも、極力それを出さない俺と、どうしても誰かに聞いて欲しくて発信し続ける彼女。
一見両者は正反対に見えるが、実はとても近いものが、それこそ表裏一体と言っていい部分が多く見受けられた。

同じような感性を持ち、しかしながらその感情を向ける方向が逆。
だからこそ、俺はなぜか彼女の気持ちをよく理解出来たし、彼女が望んでいるであろう言葉をかけてあげる事が出来た。
それは単純な、考え方の逆転。180度反転させて物事を考えれば、彼女の考えに限りなく近づけるのだ。それを知ってからというもの、俺はさらに彼女の心を読んだり掴んだりする事に長けるようになり、「自分は気遣いと優しさの達人ではないか?」という巨大な勘違いをするようになっていた。

しかし、現実はそう上手くはいかなかった。
彼女と波長を合わせる度、それまでの自分とは真逆な発想なり視点でい続けた結果、俺は彼女以外の全ての繋がり、属しているコミュニティとの関係が微妙におかしくなっていった。
冷静に考えれば当然だろう、それまでずっと円滑な付き合いが出来ていなかった子と同じ感性を持つようになったのだ、彼女が今までそうであったように、俺も彼女と同じような存在になりつつあった。

外に向いていたものが内に向き始めると、こうも人付き合いが困難になるのか。
まだ完全に染まりきっていない俺は、両方の立場を変に知ってしまい、その狭間で苦しんだ。
彼女と親しくなればなるほど、感情を共有していけばしていくほど、それまで築いていった別の繋がりが、大袈裟に言うのであれば俺の形成した社会が崩れていく……
そのどうしようもないジレンマに、両者を上手く取り持つ事が出来ない状況に、俺はかなり悩んだ。

本来であれば……というか少し前の自分であれば、何もここまで悩まずに明確な答えを出していただろう。
仕事であったり遊びであったり、実際に顔を見て触れ合う事の出来る複数のコミュニティと、相手の本名すら知らないネットだけの繋がりでしかない個人。どちらを取るのが有意義か、自分にとってプラスか、理詰めで考えればとても簡単な問題だった。
正解は勿論、実生活で接する上、その人数も比べ物にならないくらい多い前者。
少し前までの俺なら、迷わずその答えを出し、実践していたに違いない。

……しかし、今は違った。
これを手遅れと言ってしまうと彼女に失礼だが、俺の中での彼女という存在は、既に現実世界のそれと比べても何ら遜色の無いウエイトを占めるようになっていた。
もし俺がここで彼女との関係を切ったら、完全とまではいかなくとも、それまでより距離を置くような態度を取ってしまったら、きっと彼女は傷付くに違いない。それも半端ではないレベルの傷を追うだろう。

俺には判る。この半年間で彼女の脆さ、儚さ、そして心の優しさと弱さを十二分に知ってしまっていた。
そして、そんな彼女の一面に惹かれている自分がいる事も知っていた。

最初はおかしいと、自分がそういう領域に踏み入る人間だとは思えず、自分と笑い飛ばそうとした事もあった。しかし、結局笑い飛ばす事など出来ず、改めて自分が変わってしまった事を、明らかにベクトルがそれまでと違う方向を指し始めている事を実感させられるだけだった。

ネットゲームで知り合い、結婚へ。掲示板で仲良くなった相手を好きになり、本気で告白をする……
そんな話を聞く度、俺は「気持ち悪い」と、「到底真似出来ない、真似したくもない」と思っていた。そしてそういう人種を軽く嘲笑い、軽蔑していた。

だが、今は違う。例えどんな経緯であっても、どんな媒体を通して知り合おうが、思いが通じ合えばそれはそれでいい。そんな考えを持つようになっていた。

当然、考えが変わると言動も変わり、それまで同じ(もしくは近い)考えを持つ仲間だと思っていた人物にも違和感を覚える。例えそれがほんの些細な事でも、今までだったら何も思わない、感じないような事でも変に突っかかってしまい、喉に刺さった小骨のようにチクチクと痛み出しては止まらない。
そうなってしまうと後はもう何をやっても、何を見ても、何を話しても違和感は拭えず、むしろ逆に大きな溝や距離を感じてしまう。

こうしてやり切れない実生活を送り、疲れきって家に帰ると、俺の事をよく知ってくれる彼女がパソコンを通して待ってくれている。
それがとても嬉しかった。自分の事をよく知ってくれている、誤解することもなく、しかも俺に好意的な感情を持ってくれている女の子がいる事……
さらに俺もその子の事をよく知っているため、相思相愛に近い状態だと思い込む。
すると以前はマイナスポイントでしかなかった、一度も会っていない事、本名を知らない事が逆に神秘性や背徳感を助長し、まるで世界に考えを共有出来るのは2人だけ、という考えを抱いてしまう。
これを視野狭窄と言うのだろう。それは考えが変わってしまった今の俺でも判る。しかし、その視野狭窄が悪い事だと思わなくなってしまった点に関して言えば、やはり俺はおかしくなってしまったと言われても仕方なかった。

……が。例えおかしいと言われても、「お前変わったな」とか「最近変だぜ」と実際に言われたとしても、それらセリフを吐いた人間こそがおかしいと考えるようになった俺の脳は、彼らの言葉を記憶する事なく、気に止める事なく削除してしまう。……完全なる視野狭窄の螺旋回廊だった。

こうして彼女に近付く形となった俺は、重きを置く部分を実際の生活ではなく、彼女との繋がりに変え、モニタ越しのやり取りを、他の誰が何と言おうと最高で有意義なやり取りを行うようになった。
この完全なウエイトバランスの逆転が起こり、もう戻らない、戻れない、戻る気もない状態になったのが1ヶ月前。
……俺はバイトに入る時間を極力減らしてもらい、遊びの誘いも基本的に断り、彼女と過ごす時間に費やす事にした。

彼女との関係を大事にすればするほど、向こうも俺をより一層大事にしてくれた。それがとても嬉しかった。
住んでいる街の事、使っている携帯電話の機種、好きな音楽、好きなテレビ番組……
彼女は何でも俺に教え、そして俺の事を聞いてきた。お互いにデジカメを持っている事もあり、すぐに2人は自分の部屋やお気に入りの服、自分がどういう風にパソコンに向かっているかまで、全て画像にして送り合っていた。

別に顔を晒すのは嫌でもなかったし、タブーになっている訳でもなかったが、しばらくは顔出し写真を送る事も、またその話を出す事もなかった。というか自然と避けていた。
だが、それは相手の顔を見たからといってそれまでの関係が変わる、という低次元な事ではない。知り合った当初からお互いに「顔はそんな見れるものではない」とか、半分冗談交じりではあったが「顔見せした途端に疎遠、とかナシね(笑)」という約束を交わしていた。

……そして、その約束は時間を重ね、より相手を知っていく内にさらに強固なものとなり、俺も彼女も「どんな事があっても2人の関係は変わらない」と言うようになっていた。
もう、完全に彼女しか見えていなかった。そして信じれなかった。それはきっと彼女も同じ。だから俺達はまるで同棲しているかのような、それこそ長年連れ添った夫婦のような雰囲気さえ醸し出していた。
それはとても幸せな事だった。この幸せがずっと続けばいいと思った。そしてもっと幸せになる事を望み、今より関係が稀薄になる事を何より恐れた。

この辺りからである。彼女がしきりに「もし何かあって今の関係が維持できなくなったら怖い」と言ってくるようになり、見えない恐怖に泣き出してしまったとか、俺にも少し理解出来ないような内容の日記を書くようになったのは。

……と、それが10日程前の事。そして数日後、彼女の心配は最悪の形で実際のものとなってしまう。

それは彼女の短大退学、そして強制引越し。どうやら彼女の両親はかなり厳しい人らしく、今の彼女の状態を快く思っていなかったらしい。
それは彼女も直前になるまで、勝手に大学を辞めさせられていた事が判明するまで知らなかった事で、両親がいきなり彼女の部屋を訪れ、そこで初めて知らされたという。
それら両親の決定は既に決定済み、部屋も解約手続きをされており、さらには幾つか勝手に見合い話まで組まれている、との事。

俺はその事実を知った時、彼女の身を案じて、そして彼女の心情を考え、吐きそうになった。
……どうして両親なのに、自分の子供の気持ちを考えれないのか。どうしてそうも勝手に話を進めてしまうのか、俺には全く理解出来なかった。

当然、「助けて」という内容のメールが何通も届き、「死にたい」という内容の日記がブログの大半を占めるようになった。
この時点でかなり絶望的な状況だが、それでもまだ救いだったのが俺からのメールに返信がある事、そして内容はどうであれ、ブログを更新している事だった。

もしメールの返信が無く、あれだけ頻繁に書き込まれていたブログの更新が止まったりしたら、俺も彼女同様おかしくなっていただろう。
彼女もギリギリの精神状態だったが、俺も同じくらい精神をすり減らし、焦燥しまくっていた。

……そして、俺は彼女を心配するあまり、全ての物事が手に付かず、長く続けていたバイトもクビになった。
数ヶ月前まではあれだけ仲が良かった職場のメンツもすっかり変わり、事ある毎に集合しては遊び、誰かがバイトを辞めるとほぼ必ず行なわれていた送別会も開かれる事なく、俺は職場を去った。
別に悲しくはなかった。未練もなかった。というかもう彼らには構ってほしくなかったので、ちょうどよかった。

こうして俺は朝から晩まで、それこそ夜中から明け方まで、彼女の傍についてやる事が出来るようになり、全ての時間を彼女のために費やせるようになった。
そしてこの時になって初めて、俺は自分の今置かれたよろしくない状況を、バイトをクビになったとか、彼女を心配しすぎて気が変になりそうだという事など、それまで一度として漏らす事のなかった自分の弱い部分を晒した。……いや、晒してしまっていた。
それに対し、彼女から帰って来た言葉は「ありがとう」という、予想に反した感謝の言葉。どうやら彼女は今まで一度も弱音を吐かず、常に自分の話を聞いてくれていた事に負い目を感じていたらしい。
だからこうして俺も辛い状況を吐露した事が、隠さずに彼女に報告した事が、「やっと対等になれた」という思いを生み、先の「ありがとう」の言葉に繋がった。……その事を聞いた時、本当に嬉しかった。そして彼女をより一層愛しく思えるようになり、何があろうとも彼女を悲しませないよう、全てを犠牲にしても彼女を守ろうと決意した。
……そしてその2日後、事態は大きな転換を迎え、もう後には戻れないレベルの判断を俺と彼女は下したのだった。

……会おう。

そう切り出したのは俺の方から。しかし彼女も同じ気持ちでいた。俺もきっとそうだろうと思っていた。

……会おう。そしてずっと一緒にいよう。

これも両者共に考えていた事、望んでいた事。

……会おう。そしてずっと一緒にいよう。そしてお互いに元の生活を捨て、楽しく生きよう。

これも同じ。俺も思っていた事だし、彼女も全く同じ事を考えていた。

……会おう。そしてとびっきり楽しい生活を送って、最後に死のう。
一緒に、寄り添うようにして、死のう。

これも、全く同じ考えだった。
お互いの事しか考えられなくなった2人。だったら一緒に行ける所まで、2人で好きな事をたくさんやって、笑って、気持ちを確かめ合って。
それをずっと続けて、大変になったらそこで全てを終了。2人で最後まで仲良く生きていければ本望、誰にどう思われようが、それが俺と彼女が望んだ結末だった。

後悔は、ない。
むしろここで尻ごむような事があれば、行動に移さずに2人の関係が崩れるような事があれば、そっちの方が後悔するだろう。
例え短い間でもいい、そこに未来が無くても、絶望的な結末が待っていようとも、隣に大事な人がいればそれでいい。他には何も望まないし、必要ない。

……だから、俺達は話を切り出したその日に、お互いの家を出る事にした。

出発は夜、それまでに「新生活」の準備を整える事。
俺はまず旅行カバンを取り出し、気に入った服を数枚、以前彼女に「その服カッコいいね」と言われた服を詰め込む。そして生活雑貨やその他必要になるであろうもの、持っていたら便利だと思われるものを入れ、準備を済ませる。
そして今度は部屋中から金になるもの、売り払う事が可能なものを全てまとめ、ゲームであればゲームショップへ、本であれば古本屋へと売り払う。
その帰り道、俺は銀行に立ち寄り、通帳に入っていた貯金を全額引き落とし、さらにカードで借入額の限界まで引き落とし、金を作った。

家に帰り、まずはPCを起動。お互いに金策を済ませた事、出発の準備を整えた事を報告し、ここにきて初めてお互いの電話番号を教え合う。
何度か彼女の声を聞きたいと、自室以外からも彼女とコンタクトを取りたいと思った事はあったのだが、自分の中にある「彼女とのやり取りはモニタに向かって」というルールが、そうあるべきだと勝手に作った決まりが邪魔して結局出来なかった。
しかし今は違う。こうして番号を教え合わないと会えないし、何よりもうPCは使えない。俺も彼女も、家を出る前に行なう最後の行動として、PCに蓄積されたデータを消去する事を決めていた。これで2人の失踪が周囲にバレても、ワイドショーに的外れな事を言われたり推測されたりする事は無い。
きっと俺と彼女の失踪は関連性がないと、別件だと判断され、しばらくは自由に行動が出来るはず。その後の事はしっかり考えていないが、それはもうどうでもよかった。どうしようもなくなったら、俺達に残された選択は1つしかないのだから。

……そして午後10時、出発の準備を整えた俺はPCの前に座っていた。
モニタの奥には普段はあまり使わないプリンタの電源が入っており、印刷作業を行なっている。しばらくするとプリンタは1枚の用紙を、あまり大きくないサイズの画像が印刷された用紙を吐き出す。そこに映っていたのは初めて見る彼女の素顔。集合場所まで来てお互いの顔が判らないというのはマズイという事で、出かける前の格好で写真を撮り、お互いに渡す事にしていた。

「……」

メール作成を選び、件名の欄に『印刷完了』と入力、続いて素早くメール本文を打ち込む。

『送って貰ったSAYAの写真、プリントアウト完了。
……思っていた通り可愛かった。惚れ直した。会うのが楽しみ。
こっちはもうそろそろ出るよ。以降の連絡はケータイに。
ではでは。』

……送信、と。

俺はメールが無事送られた事を確認すると、そのまま次なる作業へ。
スタートメニューを開き、全ドライブに入っているデータを削除。しかしそれだけだと簡単に復元が出来てしまうため、結局俺はマザーボードを開け、中からHDDを取り出して持っていく事にした。途中でボコボコに叩き壊してから捨てよう、それが確実で安全だ。そう思っていた。

ヴゥーン、ヴゥーン……

無理矢理カバンにHDDを詰め込んでいると、上着に入れていた携帯がメールを受信して震え出す。開くと今日アドレスを登録したばかりのSAYAから『メール、届いたよ』という件名のメールが届いていた。

『こっちも準備オッケーです。少し早いけど私もそろそろ家を出ます。
お弁当を作ってみたので持って行きます。会う時お腹を空かせていてくれると嬉しいな。
……アキヒト君って背、高いんですね。ツンツンに立てた髪がカッコイイです。
私なんかが横にいると釣り合わないような気がします。頑張ってたくさんオシャレしてくるね。
これから会う事、そしてそれからの事、楽しみです。全然悲しくないです。全部アキヒト君のおかげです。

私、幸せだ。』

……ピッ

最後の数行を何度か読み直し、メール画面を閉じる。途中、やけに自分を下に置く文面が見受けられたが、それはいつもの事。どうやら今は落ち着いた精神状態にあるようだ。

「……こんな幸せでゴメンな、SAYA」

本当にこれでいいのか? もっと他にいい方法はなかったのか? これがSAYAを助ける事になるのか?
今までに何度も何度も考え、自問自答を繰り返した事がまた頭に浮かぶ。
しかし俺は自分の出した答えに、覚悟を決めて実行に移した事に迷いはなかった。
だってSAYAも同意してくれた。嬉しくて嬉しくて泣いたというメールを貰った。本当に私に付き合ってくれるの? という確認のメールもたくさんもらった。
もう消してしまったが、PCのメールボックスには彼女から送られてきた本音のメールで埋まっていた。俺に話してくれたのは、教えてくれたのは全て事実だろうし、SAYAが心を開き、全ての感情を見せてくれたのは世界で俺一人なのだ。だから、迷いは無い。俺の心の中には常にSAYAがいて、彼女の中には常に俺がいる。そう思えるだけで俺は満足だった。光栄だった。そして誇らしかった。

「……最後まで、ずっと俺が隣にいるからな」

決意。誓い。宣言。
どの言葉が的確なのかは判らない。しかし、その全ての言葉を合わせてもまだ足りないくらい、俺の心の中にあるものは揺るぎない強さをもっていた。

……午後11時、俺は家を出る。
まず向かうのは駅前のバスロータリー。そこで深夜バスに乗り、東京へ。SAYAと会うのは明日の早朝、同じく深夜バスに乗ったSAYAと落ち合う場所は東京駅。そこからとりあえず電車に乗り、どこか遠くへ、2人が行った事の無い場所へ行こう、という話になっていた。

「……」

玄関の前、ドアノブに手をかけた所で一瞬固まってしまう。
決意が変わるような事はありえないのだが、このドアを開けたらもうこの家には帰ってこない、戻ってはこれないのだと考えると、多少は感慨深くもなる。
しかし、俺が今向かおうとしている先は、そこで出会える大切な人は、それまでの生活を切り離し、全てを捨ててでも取るだけの価値がある。他人がどう思おうとも、今の俺には彼女が全てだった。俺の世界は彼女を中心にして回っていた。

……午後11時、正確には11時4分。
俺は、こうして家を出た。
後ろめたさは、ない。あるのは高揚感、SAYAに会える事が嬉しくて仕方なかった。
例えその結末が、最後に2人を待っているものが何であっても、俺に後悔はない。
そして、それはきっと、SAYAも同じだろう。そう思えてならなかった。




第1章「SAYAから沙夜へ」

 1

……俺が家を出てから1週間が経過、ちょこちょこ新聞やケータイのニュースサイトを覗いているが、2人共記事にはなっていなかった。ちょっと悲しい気がしないでもないが、このまま世界から2人だけ切り離され、元から俺もSAYAも存在していなかった事になってくれれば、それはそれで気兼ねが無くていいな、とも思っていた。

……出発の日、家を出た夜、俺は駅までの道のりを自転車で移動していた。近くのコンビニに置いてあった誰かの自転車を無断で拝借、つまり盗んだ訳だが、それは何も歩いていくのが嫌だったからではない。こういった行為に慣れる必要があったため、練習としてとりあえず難度と罪悪感の低いものから始めていた。

おそらくこれからの生活、法に抵触する事は多々あるだろう。別にそれについて心配はないし、むしろ失う物など何も無い俺達にとっては、旅を盛り上げる要素の1つ程度の感覚でしかなかった。

誰かの別荘に忍び込で勝手に寝泊りをするだとか、深夜のファミレスで食い逃げは可能かを実験しようとか、鍵のついている車をゲットしてガソリンがなくなるまでドライブを繰り返そうとか、そういう話を俺は彼女としていた。
そして、今挙げた内の2つはすでにやっていた。
……というか今、俺と彼女がいるのは誰かの別荘だった。

「……ん、んん……」

横で寝ていたSAYA、……いや、沙夜が眼を覚ます。
これは俺の頭の中での事、ニュアンスというかイメージの話なのだが、俺はハンドルネームではアルファベット表記だった「SAYA」から漢字の「沙夜」に脳内変換をしていた。
やはりリアルの世界で会い、話をするとなると、どうしてもハンドルに違和感を覚えてしまう。それはきっと俺が本名をそのままハンドルに使ってたからなのだろうが、とりあえず俺が出会ったSAYAという女の子は、その容姿から「SAYA」というよりは「サヤ」、そして出来れば漢字表記の方がしっくりくる、非常に日本的な女の子だった。

古風、とはまた少し違うが、沙夜は黒くて光沢のある髪と白い肌が特徴的かつ綺麗な女の子。流行を追うような部分はあまり見受けられず、それがまたアルファベット表記のイメージを遠ざけた。
別に本名を聞いてもよかったのだろうが、本人が「出会った時の名前で呼び合いたい」、「もし職質などで本名を明かさないといけない時はちゃんと話す」と言うので、漢字表記での「沙夜」になった。幸いな事に本人も気に入っているようで、この話を持ち掛けた時は2つ返事で了承してくれた。……本当にいい子だと思う。まあ俺の言う事を盲目的に聞くのがいいとは言わないが、こうして俺を立てるように、寄り添うようにいてくれる沙夜は正直とても可愛かった。ずっと横にいたいと思っていた。そして実際、出会ってからずっと手の届く場所に彼女はいた。

「あ、おはよう。……起きてたんだ」

「まあな」

「早いね……ふぁぁ」

まだ少し目がトロンとしている沙夜。それは有無を言わさず抱きしめたくなる程の可愛さ、凶悪とも言える破壊力を持っていた。
しかしまだ……というか奇跡的に、俺は沙夜に手を出していない。自分でもつくづく軟弱野郎だと思うが、何となく今の彼女にはそういう事をしてはいけないような、きっと近い将来、「今だ!」というガチなタイミングがあると思うので、その時まで紳士でいる事に。……沙夜には「いつでもいいからね(笑)」と言われているのだが……。やっぱり俺はヘタレかもしれない。ゴメンな、沙夜。

「ご飯、どうしよっか?」

「ん、テキトーでいいぞ。沙夜が作ったもんなら何でも食う」

「ありがと。じゃあテキトーに作るね……って、テキトーな料理しか出来ないんだけど」

テヘ、と苦笑いを浮かべる沙夜。
いや、別に沙夜が料理下手とかいう事ではないのだ。ただ、このシーズンオフの別荘にはガスや水道の類が止められており、まともに料理をする環境にないだけ。そのため、昨日から食事はレンジを使うもの(電気だけは使えた)がメインになっていた。

「いや、この環境であれだけ作れるのってスゲーよ。その辺はもっと自信もっとけー」

「あはは。はーい」

レンジがメインという事は出来合いのもの、インスタントの食べ物を温めてお終いと思うかもしれないが、沙夜は違った。彼女の荷物の中には調味料セットが入っていて、それとコンビニから買ったものだけでかなりの料理を作っていた。
中でも俺が気に入ったのが、冷食の唐揚げを温め、マヨネーズとバターを塗ったパンに挟んで作る「唐揚げチキンサンド」。料理としてはかなり簡単な部類に入るのだろうが、俺は1口食べてこれが大好きになった。バクバク食べる俺を見て沙夜は嬉しそうに自分の分から1つ、俺の皿にそっと置いてくれた。スゲー嬉しかった。そしてそんなさりげなさといじらしさに惚れ直した。リアルで会えるって素晴らしい、と心の底から思った。

「ねえ、アキヒト君って朝はごはんの方がいい人だったよね?」

「まあどっちかと言えば米、かな」

「わかった」

そう言うと沙夜は食パンの包みをコンビニ袋にしまい、代わりに真空パックのご飯を取り出し、レンジに入れる。そして温めている間に100円ショップで買った紙皿に卵を割り落とし、ペットボトルに入った水を数滴こぼす。

「なあ沙夜、それって何作ってるの?」

「目玉焼きだよ。こうして水をほんの少しかけてレンジでチンするの」

「え? 卵って加熱すると爆発するんじゃ……」

「えへへ、実はその手前で取り出せば大丈夫だったりします」

「マジか……」

以前、卵を爆発させて家のレンジを大変な惨劇に見舞わせた事がある俺としてはちょっと信じられない話だが、沙夜が言うのであれば間違いないだろう。

そうこうしている内にご飯が炊き上がり(?)、続いてレンジには問題の生卵が。沙夜は迷う事なく「温めボタン」を押し、グルグル回り始める卵をじいっと見つめる。
そして1分弱、レンジを開けて沙夜が中から取り出した皿には、確かに目玉焼きが出来ていた。外側のカリカリはないし、黄身がかなり半熟気味だが、見た目は完璧な目玉焼き。ファミレスで頼むハンバーグの上に乗っているヤツに近いのが出来ていた。

「スゲー! 沙夜スゲー!」

「す、すごいのはレンジだよぅ」

興奮気味に褒める俺を見て、沙夜はおかしそうに、それでいてどこか照れたようにそう言い、ご飯の横に目玉焼きを置く。
その後、沙夜は少し深さのある紙皿に水を張り、その中にウインナーを入れてレンジへ投入。ボイルウインナーを完成させ、目玉焼きの隣に盛り付ける。そして紙コップにインスタント味噌汁の素と水を入れ、これまたレンジでチン。
こうしてご飯に味噌汁、目玉焼きにウインナーという朝食の完成である。普通に家で食べるメシと何ら差の無いその出来栄えに、「もしちゃんとしたキッチン環境で沙夜に料理を作ってもらったら、どんなに美味いメシを食べさせてもらえるのだろう」と妄想を膨らませる。

……ああ、そういえば最初に食べた手作り弁当、あれも美味かったもんな。

俺はふと沙夜と初めて出会った日の事、家を出て2日目の事を思い出す。
確かあの時も今と同じくらい興奮していたような気がする。それだけ沙夜の弁当は美味かった。




間章「回想」

 1

……午前6時45分、東京駅構内。

「ああっ!」

「え、何? どうしたの?」

「ウインナーがタコになってる……。しかも黒ゴマで目まで入ってる……」

「ええっと……ベタすぎたかな? こういうの、嫌いだった……?」

「全然! 嫌な訳ないじゃん。……うわー、初めてだよ、タコの形してるウインナー」

そう言いながら俺は箸でタコを摘み、近付けてじっくり鑑賞を始める。

「わわわ、恥ずかしいよ。普通のタコさんウインナーなんだから……」

「さん付け! それだ! タコさんウインナー!」

「へ……?」

「くっ、女の子の口から発せられるその言葉、たまんねえものがあるぜ」

感無量と言わんばかりの表情を浮かべ、俺はタコさんウインナーを口に入れる。勿論味は普通のウインナーだったが、それでも俺はステーキを食べる時以上に大事に食べた。

「……ふふっ」

そんな俺を見ていたSAYAが笑い出す。それまでしばらく無言だったので、「……もしかして引いてる?」と心配していたのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。

「なあ、SAYAも食べなよ。この弁当、マジでうめえよ」

ウインナーを食べた後、俺はすでに箸を高速で動かし、早くも他のおかず&米に手を付けていた。家を出てから今まで何も食べていない俺の腹にとってこの弁当は最高のごちそうだった。

ベーコンのアスパラ巻き、ミニオムレツ、そして鶏そぼろが乗ったご飯……
どれも王道、ユアキングオブキングなメニューだったが、それがまた「弁当!」という感じがしてよかった。

「じゃあ、わたしも食べよう……かな」

「あ? もしかしてバスに酔った? 食欲ないとか? だったら無理して食べなくてもいいぜ?」

そういえばSAYAは俺より2時間以上も長くバスに揺られてたんだった……
弁当に夢中になっていた俺はここでようやくその事に気付き、慌ててSAYAの体調の心配をする。

「……あはは」

「……?」

しかしSAYAはそんな俺を見ておかしそうに笑うだけ。とりあえず具合が悪い訳ではなさそうだが……

「ありがとう、そこまで心配してくれて。……ふふっ」

「……今のセリフ、どこか笑うポイントあったか?」

「おかしいよ、だってほっぺにご飯粒つけながら質問責めだよ? すっごく嬉しかったけど、やっぱり面白いよ」

「……」

あ、本当だ。米粒付いてる……
俺はSAYAに指摘されると同時に手を口元に伸ばし、米粒を発見。恥ずかしそうにそれを口に入れる。

「……あ」

「ん?」

急に声を上げるSAYA。
何だ、まだ米が付いてんのか? と思い、さっきとは反対側に手を伸ばすのだが、そこには何もない。……一体どうしたというのだろう?

「あ、あのさ、こういう時ってわたしが取った方がよかったのかな?」

「なっ……」

「それとも食べちゃった方が嬉しかったりする?」

「……ななななっ!?」

そ、それはよくある……というかもはやベタすぎて逆に見かけなくなった、「いきなり顔を近付けてご飯粒をペロリ」というシュチュエーションの事か!?
俺は瞬時にその光景を脳内に投影、あまりの恥ずかしビジョンに思わずそこらを転がってしまいそうになる。

「……どうかな? そういう事されるの、すき……?」

「〜っ!?」

きききききき嫌いな訳ないじゃないでしゅか!
例え今はあまり見かけないと言っても、「王道」や「ベタ」と呼ばれたものというのは、相当数の賛同者が、それを「いい!」と思う人がたくさんいる、という事。で、恥ずかしながら俺もその「いい!」と思う方面の人間だったりする訳で、結論は「大好きっス!」という事になる。
……でも言えねえよ。まだ出会って1時間も経ってねえもん。そりゃあネットを介しての付き合いは長いけど……

「あ、やっぱり少し人の目が気になっちゃうか……」

俺が答えるのが遅いのを否定と取ったのか、SAYAはそう言って周囲を見渡す。まだ朝のラッシュには少し早い時間だとは思うが、その辺はさすが東京。すでにホームには結構な人通りがあり、明らかに手作りと思われる弁当を食べている俺達をチラリと見てくる人も少なくなかった。
……本当はあんま目立っちゃいけないんだろうけど、まだ捜索とかもされてないし、まあいっか。

「へ? あ、まあ……」

「……残念」

曖昧に返事をしてしまう俺だったが、少ししてから大変な事をしてしまったと、超残念な事をしてしまったと気付く。……もしかして肯定してたらやってくれた? っていうか「残念」って言ってるし! 少し頬赤いし!

「あ、いや、そうじゃないんだって! 俺も残念というかその……」

うわ、何を言ってるんだ俺。欲望に素直すぎるのもどうかと思うぞ俺。
……さっきから慌ててばかりだが、今の慌てっぷりは過去最高。というかこのままSAYAと話していると、すぐに慌て度の記録更新をしてしまいそうだった。

「……よかった」

「へ?」

「楽しい人でよかった。初めてメールした時から、初めて会った今日まで、全然イメージが変わらないの。それがすごい嬉しい」

「……」

弁当箱を持つ手は震え、顔はややうつむき加減で。
それはひどく弱々しいようにも見えたが、SAYAは笑っていた。俺にはよく判らないが、嬉しさとか、それまで抱えていた不安とか、そういうものがゴチャゴチャになっているような気がした。そして俺は再度、このSAYAという女の子がどれだけ儚く脆い部分を持っているのかを認識し、その上でこれからはずっと楽しませよう、不安な気持ちなんか抱かせてなるものか、と強く思った。

「……あ、あの、アキヒト君?」

「ん?」

「もしまた口の周りにご飯粒がついたら、その……」

「うん、俺は構わない。……まあメチャクチャ恥ずかしいだろうけどな」

「ありがと」

彼女はきっとこういう繋がりを求めていたんだろう、と思う。
そしてずっと前から望んでいた、欲していたんだと思う。
でも、少しだけその意思表示が下手だった。自分の思いや考えを人に伝えるのが苦手だった。多分それだけの事なんじゃないかと思う。
下手でも、苦手でも、その思いは他の人のそれより強く、とても強く。見えないものを、数や量で測れないものを求める場合、人はとても臆病になるのに、一部ではひどく貪欲だったりする。
SAYAは、そういう子なんだと思う。何となくだが、そう思えてならなかった。
……だって俺は、彼女と出会う前までは対極にいたのだから。以前の俺と、SAYAと同じ視点に立つようになった俺、その2つの視点、2つの立場でいられる俺なら、きっと……

「あ、でも不意打ちは勘弁かな。出来れば心の準備をさせてほしい」

「えー、こういうのって突然だからいいんじゃないの?」

「まあそうだけど……。だってほら、しっかり記憶していたし、その時のSAYAの顔とか見たいし」

「い、いやだよぅ。そんなのこっちが恥ずかしい……」

「いやいや、俺の方が恥ずかしいって。何もない所でつまずいて転ぶより200倍は恥ずかしい」

「……え、わたし、それ結構ある……」

「マジっすか……」

ドジっ娘属性まで兼ね備えてますかこの子は。お兄ちゃんワクワクしてきたぞ……って、何を言ってるんだ俺は。
う〜ん、それにしても意外だな。そういう所は結構しっかりしてそうに見えるのに。

「べ、別にそそっかしい訳じゃないんだよ? わたし、足のサイズ小さくて、ぴったり合う靴がないの。だからブカブカの靴を履かないといけなくて、その……」

はいはい、そういう事ですか。
俺は必死にドジっ娘否定をするSAYAを見て頷き、しっかり理解した事を伝える。……まあしっかり者でも、超が付くほどのドジっ娘でも彼女は彼女。俺はどっちでも大丈夫だ。

「それにしても200倍かー。それってかなりの数字だよね」

「たぶんな。数値化したら何万とかいう世界じゃね?」

「うわ、そんなに……」

「弁当系イベント最強だからな、米粒ゲットは」

「そうなんだ」

「そうなんです。……で、その後に「アーンして食べさせてもらう」辺りが続くのな」

「あ、それなら今すぐ出来るね」

「……へ?」

いいこと聞いちゃった、早速やってみよー! と言わんばかりのSAYAに対し、アホ顔丸出しの俺。……そうですか、やっちゃいますか。

「ええっと、それじゃあこのオムレツを2つに割って、と。……はい!」

「……」

マジっすか、こんなトコでやりますかお嬢さん。結構な勇気と行動力じゃないっすか。
この人通りの中、臆する事なく自分の箸で摘んだオムレツを俺の口の前に差し出すSAYA。……いや、「臆する事なく」というのは多少語弊があったようで、微妙に箸が振るえ、顔が赤かったりする。
何だ、俺と同じくらい恥ずかしがってるじゃん。

「……ん」

「どーぞ」

……んぐ。……あ、美味い……

口を開け、受け入れ態勢を整えた俺の元にオムレツが運ばれる。絶妙な味付けを施されたそれは、恥ずかしさなど吹き飛ぶくらい美味かった。

「どうかな?」

「うん、美味い。普通に美味いとしか言えない」

「ありがと」

「……ええっと、次は俺の番なのかな?」

「へ?」

「お返しにアーンってやつ。いる?」

「い、いいよぅ。それにこういうのって女の子がやるものでしょ……」

SAYAはブンブンと首を振り、「もう……」と言いながらお茶の入ったペットボトルに口をつける。拗ねてる感じも可愛かった。

「……それにしてもマジで料理上手いね」

「そうかな?」

「俺、こんな気合入った手作り弁当初めて食った」

「……よかった。ちょっと心配だったんだ」

「え? こんなスゲー出来なのに?」

「うん、味の好みとか、あまり聞く事なかったし……。それにこうして実際に会う事なんか、ないと思ってたから……」

「……そう、だな」

改めて実感するこの現状。確かにSAYAの言う通り、こうやって2人並んで弁当を食べる日が来るとは思わなかった。
でも、こうしてSAYAの料理を褒め、恥ずかしがりながらもおかずを食べさせてもらっている今の状況は紛れもない事実であり、リアルでの出来事。
不思議な感じもするが、俺は嫌いじゃない。むしろ変に安心出来る部分もあるくらいだ。

「……ん、肉団子美味い」

「ありがと」

「……うん、鶏そぼろも美味い」

「ふふっ、ありがと」

「……おっと、米粒付けないようにしないとな」

「えー、付けてもいいのにー」

「いや、今日はいいよ。アーンして食べさせてもらったし、それで満足。……その、なんだ、米粒の件はまた後でお願い、という事で」

「……」

一瞬の間。そしてその直後、SAYAはへにゃっと笑い、大きく頷いた。

「うんっ」

頭の中でその光景を思い描いたのか、そう言って俺を見つめるSAYAの顔は幸せそうな、その日が早く来るのを待ち遠しがっているように見えた。

……まいったな、超期待されてんじゃん。
俺はそんなSAYAの視線に耐え切れず、照れ隠しのために弁当の高速食いを始める。思いっきりバレバレの行為だが、相手の反応お構いなしで箸を動かし、一気に米を平らげる。そして残ったおかずも……という所で喉が詰まり、俺は慌ててお茶に手を伸ばす。

「ああっ、まだ開けてないよ、それ」

「むっ、もじで(訳:えっ、マジで?)」

「いいよ、とりあえずわたしの飲んで」

「もんきゅ(訳:サンキュ)」

……んぐ、んぐ……

「……ふう」

「もう、ダメだよ、そんなに急いで食べちゃ」

「すまん……」

「……でもまあいっか」

SAYAはそう言うと、俺に向かって何か思わせぶりにウインクをしてくる。
何だろう、どの辺が「まあいっか」になるのか、さっぱり判らない。

「あ、判らないって顔してる」

「うん、お手上げ」

渡されたお茶を飲みながらそう答え、俺はSAYAが答えを教えてくれるのを待つ。するとSAYAは少し恥ずかしそうに自分の唇に人差し指を当て、続いて俺の顔……というか口元付近をじぃっと見つめる。

「間接キス、しちゃった」

「……っ」

そ、そういう事か……
俺は直前まで口を付けていたペットボトルとSAYAの唇を交互に見て赤面。それまでとは少し違い、ジワジワくる恥ずかしさに悶絶してしまいそうだった
……って、俺もSAYAも中学生カップルじゃねえんだからさ、そのくらいで照れたり喜んだりするなよな。……そ、そりゃあ嬉しいけどさ。

「わ、わたしも喉渇いちゃったな。そ、そのお茶、返してもらっていい?」

「あ、ああ……」

SAYAに言われるがまま、ペットボトルを渡す俺。
おそらく、いや、きっとSAYAはそんなに喉が渇いている訳ではない。きっと目的は……

……ちびちび、こくん。

「うん、おいしい。……それにこれで相互間接キス、嬉しいな」

両手で大事そうにペットボトルを持ち、ゆっくりとお茶を一口飲むSAYA。中身は普通のお茶なのだが、とても美味しそうに飲む仕草が可愛すぎた。そしてやっぱり目的は俺→SAYA間の間接キスだった。

「そ、そうか……、よ、よかった……な」

「うんっ」

よかったな、と俺が言うのも何かおかしいが、まあSAYAが笑顔でいてくれるなら何ら問題はない。
それにしてもSAYA、最初から飛ばしまくりだな。この短時間で何回恥ずかしがったのか、そして何回俺を照れさせたのか判らない。とりあえず普段の数ヵ月分はドキドキした事だけは確かだ。

「……なあ」

「なに?」

「い、いや、やっぱ何でもない」

どうしてそんなに……と、言いかけた口が止まり、言葉を濁す。
聞きたくない、とはまた少し違う。その答えを知らなくはない、というのも事実。

……どうしてそんなに明るく振舞う?

少なくとも俺の前で無理はしなくていい、不必要に自分を演じる必要はないんだ。俺は彼女の弱い部分や脆い部分も全て含めて、好意と愛情を持っているのだから。

……だから、だから……

俺は何を言いたいのだろうか。それを言ってどうなるというのか。
彼女が望んでいるとでも思っているのか? そんな言葉を聞きたいとでも思っているのか?

「……大丈夫、だよ」

「え……」

「無理とか、してないから。本当に今がすごく楽しいんだ」

「……」

嘘ではない。本心からだ。そう直感的に察した。
疑う余地も、その必要も無い。
彼女は、笑っていた。

……こうして俺とSAYAの旅は始まった。
少し混み始めた駅のホーム、そこが出発点。
その時はまだ次の行動は決まっていなかったが、格段気にする事ではなかった。

時間はたくさんある、それに腹も膨れている。
そして、俺の隣にはSAYAがいて、SAYAの隣には俺がいる。
それだけで十分だった。

……この後、2人に待っている結末は、決して誰もが認めるハッピーエンドではないだろう。それはよく判っていた。
しかし、今は結果など考えないし、求めない。

今の2人にとって何より大切なのは、行動を起こした事。こうして会いたくて会いたくて仕方なかった、大切な人と一緒にいる事。

そして、大事なのは結果ではなく、そこに至るまでのプロセス。
それが楽しければ、常に2人で笑い合えていれば、例えその時間が永遠でなくとも、近い未来に終焉を迎えようとも、今こうして2人でいられる事が全てだった。




第2章「逃避行の始まり」

 1

「あー、美味かった。ごちそうさま」

そう言って俺は紙皿をくしゃっと折り曲げ、コンビニ袋に放り込む。
本来であれば料理を作ってくれた沙夜を労い、「皿洗いは俺に任せろ!」とか言うべきなのだろうが、使っている食器の類は全て紙製のため、洗う事が出来ない……というか洗う必要がなかった。あとそれに水道使えねえし。

「残さず食べてくれて嬉しいな」

「あれだけ美味けりゃあと2人前は食えるって」

「え? 少なかった? だったら食べかけだけど、わたしの分も――」

「違うって、そういう意味じゃねえって」

俺は急いで自分の皿からおかずを取り分けようとする沙夜を止め、ツンと額をつつく。

「ひゃっ」

「どうしてそういう解釈になるんだ? あれだけ美味けりゃ、って言ったろ」

「あ、そっか……」

なるほど、と言った感じでポン、と手を叩く沙夜。さすがはネガティブっ娘、まだ褒められるのに慣れていないようだ。

「ったく、……ああもう、可愛いなあ」

その仕草もそうだが、沙夜の持ついじらしさとか、こんなに出来る子なのに控え目すぎる部分とか、俺の事を第一に考えてくれているのが見え隠れする部分とか、そういった要素が重なりに重なり、俺は思わず本音を漏らす。
……もっと上手い事は言えんのか俺、とも思わなくもないのだが、まあそれはそれで。

「わ、いきなり可愛いって言われた」

「すまん、ガマンできんかった」

「い、いいよ、そういう事はガマンしなくても……」

くっ、何て大胆発言。そんな事言われたらこれから毎日、何回も言っちまうじゃねえか。もう会話とか成立しねえくらい頻繁に言うぞ? ……って、それはやめろよ。

「……」

「……?」

「ダメだ! 沙夜可愛い!」

連呼はしまいと思っていたが、その我慢は5秒で見事に崩れ去る。
頭上に「?」を浮かべて首を傾げる沙夜とか可愛すぎるから! 「どうしたの?」と言いたげな目とか最強だから!

……ああ、俺かなりアホになってる。

自覚はあるのだ、しかし自制が出来ないのだ。俺はリビングにちょこんと正座し、くみくみと米を噛んでいるだけの沙夜に第一リミッターを解除。撫で回したい衝動に駆られ、思わずダイブしそうになる。

……と、その時だった。

――ザッ

窓の方向、閉め切ったカーテンの向こうから物音が聞こえた……ような気がした。
確かあの窓の外は砂利が敷かれていたはず……。俺はこの別荘に忍び込んだ時の事を思い出し、今聞こえたのが人の足音でない事を願う。
そしてそれと同時に……

……スッ

「え? どうしたのアキヒ――」

「……」

俺は素早く、それでいて物音を立てないように沙夜の傍に駆け寄り、非常事態である事を目で伝える。すると沙夜もすぐにその意図を理解したらしく、俺にぴたりと寄り添い、不安そうに周囲を見渡す。

『……誰かいるの?』

『……わからない、でも微かに物音が外から聞こえた』

『どどどどうしよう!?』

『大丈夫、慌てるな』

そう言いながら俺は物音がした窓の方向を、続いて部屋の反対側の窓、キッチン脇の勝手口……と、外に通じる全ての経路を見渡す。

……窓には全てカーテンが閉められ、ドアはしっかり施錠されている……
もしこれでこの中に入ってくるようであれば、それは別荘の持ち主か管理業者、もしくは泥棒か、異変に気付いた近隣住民が警察に通報した……のどれかだろう。

……ちっ、どれも勘弁だぜ。
この選択肢の中なら、まだ泥棒の方が助かるぜ……。俺はそんな事を考えながらも、逃走ルートの確保など、各種対策を練る。

『……』

『……』

ぎゅっと腕を握られる。沙夜は相当不安なのだろう、ガチガチに震えている。
こうして2人の旅を始めて最初のピンチが訪れた訳だが、幸いな事に誰かが家の中に入って来たとかいう展開にはならなかった。

俺と沙夜はしばらくの間、一切物音を立てずに周囲に気を張っていたのだが、やがて俺が「もう大丈夫だろう」と大きく息を吐くと、隣にいた沙夜もぺたりと床に座り込み、ほっと胸を撫で下ろす。

「ふう、助かった……」

「気付かれなかった、って事かな?」

「判らない、もしかしたら猫が歩いてただけかもしれないし、たまたま近くの人が通りかかった、って事も考えられる」

「そっか……」

「まあ近くの人って言っても、周りはほとんど別荘だからな。正直わからないよ」

「これからどうするの?」

「そうだな、ここが安全なのかどうかも判らない以上、あまり長居はしない方がいいかもしれない。どこか遠くに動くのもいいかもな……」

そうだ、何も俺達は隠遁生活ばかりをしなければいけない、なんて事は無い。2人の財布の中にはまだまだ結構な額が入っているし、観光名所巡りをしたって問題は無いのだ。

「なあ沙夜、どっか行きたい場所とかある?」

「え、行きたい場所……?」

「テレビで見て「いいな」と思った場所とか、ここの名物料理が食べたいとか、そういうのがあったら行ってみようぜ」

こういう時は思いつくままに行動しよう。そう考えた俺はすぐさまここを離れる事を決意、例え行き当たりばったりでもいいから、色んな場所を旅していこうと思った。

 2

……そして1時間後、俺達は2泊ほどした別荘を後にする。
ここに来た時と同様、堂々と観光客を装い、途中で土産屋に寄って地元の銘菓なんかを買い、駅へと向かった。

沙夜との協議の結果、次なる行き先は「海のキレイな南の街」という、微妙に絞り込めていない曖昧なもの。
でもかえってそれでよかったような気がする。海岸線をずっと南下し、2人が気に入った場所、沙夜が「ここがいい」と言う場所を見つけ、そこでゆったり出来れば本望だった。

……次はホテルなんかに泊まったりして、美味しい料理を食べたり、温泉に浸かったりするのも悪くないな。そんな事を考える俺。

あ、でも沙夜の料理も食べたいし、温泉っていったらやっぱり混浴だよな……と、早くも現地についてからの心配をしたり、妄想を膨らませたりする辺り、俺も相当この旅を楽しんでいるようだった。

「ねえねえ、この際もうダーツの旅とかやろっか? それともサイコロツアー? どうしよう、連続で深夜バス移動とかになったら?」

しかし、やはりというか何というか、この旅を楽しんでいるのは沙夜の方。聞く所によると沙夜は今まで「楽しい旅行」というものに縁がなく、今の状況が本当に楽しくて仕方ないらしい。……何よりである。

「とりあえず長時間の深夜バスは勘弁だな。それよりだったらレンタカーで移動した方がいい」

「レンタカー!」

「お、何か食い付いた」

「いいね、それ。レンタカーで移動、楽しそう……」

「そうか? じゃあそれで行くか。電車乗り継ぎより安上がりかもしれないしな」

……それにいざとなったら車中泊も出来るしな。
俺は狭い車内で沙夜と2人、窮屈ながらも顔を近付けて眠る様子を想像し、「それはそれでアリだな」と、またしても妄想を膨らませる。
過去に車中泊の経験があり、あの眠れなさと疲れの取れなさと腰の痛さ、そしてやけに結露が起きる空気循環の悪さ、意外と朝夜寒いという事実を知っている俺だが、沙夜と2人ならそれらもネタに、笑い飛ばせる自信があった。

どうしよう、少しでも快適さを求めるならワゴンタイプのファミリーカーだよな。でも移動時の快適さを求めてカッコいいスポーツタイプを、っていう手も捨てがたい……

と、車種をどうするか真剣に考え始める俺。
しかし一方の沙夜は大きな間違い……というか凄まじい勘違いを、俺の考えているレンタル候補にはない車を思い描いていた。

「レンタカーって乗ってみたかったんだ。あれなら料理も出来るし、テレビも見れるし、ゆっくりくつろげるもんね」

「……」

「でもあれって普通免許で大丈夫なのかな? すごく大きなイメージがあるんだけど……」

……あー、なるほど。そういう間違いをしてましたか。
俺はここで沙夜の勘違いを完全に把握する。まあ判らなくもないが……

「沙夜、それはキャンピングカーな。まあレンタルもしてるだろうけど、俺が借りようと思ってるのは普通車だ」

「……あ」

「オッケー?」

「う、うん……」

そう言って恥ずかしそうに頷く沙夜。完全に素で間違えたのだろう、「うう、よく考えたらわかる事でしょ……」と呟いていた。

……と、まあ沙夜の勘違いはあったが、とりあえずレンタカーを借りる事は決定。駅前で店を発見すると、すぐさま来店&手続きを済ませ、俺は手頃なスポーツワゴンタイプの車を借りた。
完全に俺本人の名義で借りたため、今後何かあったら間違いなくここから足が付くとは思うが、すぐに居場所がバレる訳ではない。それでも一応の対策として沙夜は店に入らず、少し離れた所で合流する事に。あまり効果はないかもしれないが、とりあえずこの手の身バレが生じるケース、特に手続き関係は交互に名義を使う事で多少は霍乱出来る……と思う。

ブオォォッ、ブオオオオン

「……運転、久し振りだな」

車に乗り込み、まずは座席を調整。そしてシートベルトを締めた後、軽くアクセルを踏み込み、運転の感覚を思い出す。
家に自分の車はあったが、バイトをクビになってからは全く運転していなかった……というか外に出る事自体なくなっていた俺。別に高級外車を運転する訳でも、カリカリにチューンナップされた車を運転する訳でもないのだが、少しだけドキドキしていた。

「……よし、行くか」

少し走れば緊張も収まるだろう。俺はそう考え、ハンドルを切って道路へ。幸い交通量は少なく、道幅もそれなりに広いため、俺はすぐに緊張がほぐれ、沙夜と合流した時にはもう全然余裕になっていた。

……バタン

「わー、何か新車って感じの匂いがするね」

助手席に乗り込んだ沙夜はそう言いながら、持っていたコンビニ袋から地図を取り出す。確かに車内は普通の家庭にある車と違い、新品っぽい匂いがした。
沙夜と落ち合ったのはレンタカーを借りた店からすぐのコンビニ。とりあえずここで地図と食料の買っておくように頼んでおいたのだが……

「悪ぃ沙夜、何かカーナビ付いてた」

「えー、そんなあ……」

地図を広げ、ナビに徹する気満々だった沙夜が批難の目で俺を見る。
……うっ、何だこの罪悪感。っていうか全車種カーナビ照準装備してるとは思わなかったんだって。レンタカーなんか借りるの初めてなんだからさ。

「……その、なんて言うか、スマン」

「せっかく買ったのにー」

「俺も沙夜のナビで運転したかったよ」

これは本心。沙夜の機嫌取りでも何でもなく、本当に沙夜には地図を広げて道順を教えて欲しかった。例え道を間違えようとも、2人で何かする、という行為に俺は憧れていた。途中で車を停め、2人で地図を覗きながら道順を設定したり、何か面白そうな場所が近くにあれば少し寄り道したりとか、そういう事がしたかった。

「じゃあナビは使わない方向でいくか」

「うん、カーナビは困った時の最終手段にしよ」

「そうだな」

俺は店の人が電源を入れてくれていたカーナビを消し、代わりにラジオを付けて音楽を流している番組を探す。
ニュース、人生相談、民謡……と、あまり聞きたいと思わない番組が続いた後、ようやくそれっぽい番組に行き着いた所で車は発進。勿論音楽を聞くのがメインではなく、沙夜とのお喋りがメインのため音量は低めにしている。

「それじゃあ沙夜、道案内は頼むぞ」

「うん、任せて。……ええっと、まず駅前を過ぎるまで真っ直ぐ。その後に橋があるんだけど、そこを左ね」

「了解」

「曲がったらもうずっと道なりでいいから」

「おう」

「以上、ナビ終了っと」

「早っ!」

「だってもう国道出たらほとんど一直線なんだもん。……てな訳でわたしは買ってきたお菓子を食べまーす」

沙夜はそう言うと、コンビニ袋をガサゴソと漁り、中からたくさんのお菓子を取り出す。超激辛で知られるスナック菓子や昔からある駄菓子、カカオ含有率の高いチョコなど、特に統一性が見当たらないラインナップ。おそらく沙夜が食べたいと思ったものを手当たり次第カゴに放り込んだ結果だと思うのだが……

「えへへ、まずはコレー」

嬉しそうな顔で最初に取り出したのは、1袋4枚入りのポテトチップスフライ。確か30円くらいだったと思うが、俺も結構好きな駄菓子だった。

「あ、それうまいよな」

「もしかしてアキヒトも好き?」

「うん、かなり」

「じゃあ1枚あげる。はい」

「ん」

ハンドルを握ったまま、少しだけ顔を沙夜の方に向けて口を開ける俺。するとそこにポテトフライが差し出されるのだが、とりあえず咥えて自分のペースで食べたい俺に対し、沙夜は1口で完食出来るようにと口の中に入れようとしてくる。

「ちょっ、押し込むなって」

「あ、ごめん……」

慌てて手を引っ込めようとする沙夜。その時ちょうど俺の唇に沙夜の指が当たり、甘噛みするような状態になってしまう。

「ひゃっ!?」

「……わ、わりぃ。大丈夫か?」

「う、うん。全然痛くはなかったけど……」

「けど?」

「ちょっとドキッとしたかも」

「う……」

「アキヒト君に食べられそうになっちゃった。ふふっ」

「その言い方は激しく誤解を招くからやめてくれ……」

「はーい」

赤面し、思わず手で顔を隠してしまう俺。一方の沙夜はしてやったり顔を浮かべながら元気一杯な返事。確信犯的な匂いがした。

「あ、でもでも」

「?」

「……別にいつ食べられちゃっても私はいいよ?」

「ぶっ!」

予想外の大胆発言。そして飛び散るポテトフライ。
俺は沙夜の言葉に大いに慌てるも、なんとか冷静さを保とうと必死になる。そして落ち着いたところで説教開始。まあ本当は俺も少なからず妄想を膨らましていたりするのだが、ここはお兄ちゃんとして接する事に。……そうしないと理性が……

「あのなあ、そういう事は軽々しく口にしちゃいけません」

「ぶー」

「膨れんな膨れんな」

「……魅力、ない?」

口を尖らせていじけたと思いきや、今度は急に上目遣いで質問。その聞き方は正直ずるいと思う。

「んな訳ねえだろ」

「うわ、即答」

「ったく、何を決まりきった事を聞いてくるんだか」

「決まりきったって……」

わ、この人すごく恥ずかしい事言ってる……という目で俺を見てくる沙夜。
さっきのお返しのつもりで言ったのだが、あまり効いていない様子。逆にこっちが恥ずかしくなってきた。う〜ん、墓穴。

「まあアレだ、そういう話はまた今度な」

「……はーい」

何か言い返そうとしているようにも見えたが、沙夜はそう言って持っていたポテトフライをパリパリ食べ始める。同意までの間がかなり気になるが、ここは触れないでおこう。

「……アキヒト君だって健全な男子なのになー」

独り言のような、正確には「独り言に見せかけて俺に喋っている」セリフを口にする沙夜。……だめだ、ここで反応したらそれこそ沙夜の思うツボだ。

「……旅を始めてからずっと一緒にいるのに、全然襲ってくる気配とかないしー」

……何も言うな何も言うな。スルーするんだ俺。

「……性欲とかないのかなー」

あるよ。普通にあるよ。
そう言いたい所をぐっとガマン。もしかしてこれは新手のプレイか?

「……はっ! もしかして私が寝てる時に……」

ちょっ、何を言い出すんですかお嬢さん! 確かに寝顔を見て悶えた事はあるけど(それもどうなんだ)、手は出してないって! 信じてくれよ!

「……1人でしてるのかなあ?」

してませんしてません。そこまでガマン出来ない子じゃないって。

「……溜めすぎはよくないって聞いたけど、その辺は大丈夫なのかなー?」

「いいよ、そんな心配しなくても……」

ここでとうとう返答。
……ええ、俺の負けです。っていうかこれ以上好き勝手に言われてたまるか。

「そう? 別に私は構わないよ? それに例え私より右手を取っても泣いたり軽蔑したりしないから安心してね」

「笑顔で言うなよ、そんなこと……」

くそう、完全に乗せられてる。普段は基本的に俺が会話をリードしてるのに、たまにこうやって沙夜のペースに飲み込まれるんだよな……
もしかしたらこの小悪魔的な部分が沙夜の本性かも。俺はそんな事を思いつつ(でも心の中では「そんな事はない! 沙夜は純情ないい子!」と信じながら)、横でうまそうに駄菓子を頬張る彼女を見る。

……正直どうなるんだろう。

それはふと出てきた、無意識の内に浮かんだ言葉。
今まで沙夜の事をそういう目で見ていなかったのは偶然か、それとも考えないようにしていたのか。俺はそこに疑問を抱いてしまい、自分で出した答えの出ない問いに戸惑いを感じてしまう。

これからもずっと、こうして2人きりの旅は続くだろう。今はまだ障害も問題もなく、お互い楽しくやっている。しかしそれが何らかの契機を経て一転する事だってある。沙夜はもちろん、俺だってまだまだガキな部分はたくさんある。若気の至りとか、若さゆえの過ちとか、そういうので良好な関係を壊したくはない。

……でも。

沙夜も言っていたように俺も健全な男子(まあ「男子」と言う歳でもないが)、そして相手は思わず寝顔を見て悶えてしまうだけの容姿の持ち主。いつしか理性が飛んでしまう事だって考えられる。そこまで自分が性に貪欲だとは思わないが、こればっかりは確実とか絶対なんて事はない。
さらに冗談かどうか、本心かどうかは別として、沙夜の口から「いつでもいい」的な言葉が発せられ、それを聞いてしまった事がまた問題となる。

だって沙夜がいいって言ったから。
それを良い訳に、免罪符にしてしまう可能性がある以上、そういう選択肢が増えてしまった以上、俺は本気で色んな事を考えなければいけないだろう。
こういう時はどうする、こうなった場合はどうする……、きっと役に立たない、その時になったら忘れてしまっているだろうが、それでも決めておかなければいけない。

今はこうして絶えず笑顔を見せ、冗談を言ったり感情を素直に出したりはしているものの、沙夜がこの旅をする理由は1つだし、その理由は今も変わっていない。
最後に待っているもの、どんな結末が待っているのかは沙夜だって知っているだろうし、それ相応の覚悟だってあるはず。この旅は自暴自棄になった人間が起こす、考えのない行動ではない。お互いにしっかり考え、その上で出した「答え」だ。
他人が見たらどう思うかは知らない。それと一緒だと言われるかもしれないが、少なくとも俺は違うと言いたいし、違うと言える自信がある。
この旅は決して後ろめいたものではない。むしろ前向きである。俺はそう思っている。
しかし沙夜がその答えに対して、結末に対して不安を覚え、以前のような錯乱状態に戻る可能性は否定出来ない。そのためにも俺は色々と考えておかないといけないし、俺が何とかしないといけない。

……矛盾。言い訳、言い逃れ。
そんな言葉がぐるぐると頭の中を回り、正しい解答を見失う感覚に陥る俺。
……まずいな、極力ネガティブな発想はしないように、楽天的な人間で行こうとしていたのに……

沙夜と会う事が決まってから、旅をする事になってから、俺はそれまでの無駄に考え込む性格を、後ろめたいと捉えられても仕方ない言動なり考えを止めた。
本当に強い意志というのは人を変えれるもので、最初は意識的に抑えよう、出さないようにしようと心がけていたのだが、沙夜としばらく一緒にいると、それが自然なものになっていた。まるで以前からそうしていた、そうだったかのように振舞える自分はとても新鮮で、これも全て沙夜のおかげであると心の中で思っていた。

しかしそれを口にする事はなく、おそらくこれからもないだろう。
俺は沙夜の前で、決して弱い部分を、悩んでいる姿を、苦しんでいる様を見せないと誓っていた。例えそれが沙夜の望まない事だとしても、意味のない自己満足の我慢でしかなくとも、そうするつもりでいた。

……まやかしでも、偽りでも。俺といる時は、2人で旅を続けている間は。
世界は楽しい事しかなくて、その中に自分達は居て、それが当然あり必然である。そう思わせたかった。沙夜にはもう厳しくて汚くて辛い現実世界の光景は見せたくなかった。俺はそれら全てのものを吸収し、フィルターを通すように不要なものを取り除き、その結果残ったものだけを沙夜に触れさせようとまで考えていた。

果たしてそれがいい事なのか、沙夜が望んでいる事なのかは、判らない。
正直自分の中でも迷っている部分は、ある。
所詮俺一人では、個々の人間の力ではそれら全てを除去しきれない。中途半端はかえって相手を傷付ける。ならばやらない方がいい。ましてや相手は心に大きな傷を負った少女。些細な事がきっかけとなり、それが致命傷にもなりかねない。

だとしたら……何が出来るのだろう。

どうしたら……彼女を守れる騎士でいられる?

沙夜が眠っている時、沙夜が何らかの理由で近くにいない時、俺の頭の中では常にこの問題が渦巻いていた。気持ちが悪くなるまで考えた。でも何も変われないでいた。
そして沙夜の前ではそんな素振りは微塵も見せなかった。勘のいい沙夜を相手に自然体の装うのは難しかったが、沙夜と一緒にいる時は不思議と問題を忘れる事が出来た。もしかしたら沙夜はそんな人の不安を吸収、もしくは削除する不思議な力を持っているのかもしれない……
そんな事を考える自分が、いた。

「――? ねえ、アキヒロ君ってば」

「……」

ハッとする俺。そして意識は現世へ、駄菓子を頬張る沙夜の横でハンドルを握ぅっている状況がメインの意識世界に変わる。
俺はすぐにどのくらいの時間を考え事に費やしていたのかを調べようと、車内にある時計に目を向ける。

……よかった、時間は全然経過してない。これなら「ぼーっとしていた」で済まされる。
そう考えた俺は頭をポリポリ掻きながら、普段の表情で沙夜に向かって喋り始める。

「あー、悪い。ちょっと運転に夢中になってた」

「えー? こんな一直線の道でー?」

「そういう事もあるんだって。変に平坦な道だと「逆に集中しなきゃ」っていう意識が生まれたりするんだよ」

「ふーん」

信頼度60%、という感じの目つきで俺を見る沙夜。……かなり微妙なパーセントではあるが、とりあえずこれ以上の追求はない模様。一安心である。

「……で、俺を呼んでた理由は?」

「んー、そんな大事な話でもないからもういいや」

「なんだよ、気になるなー」

「さ、お菓子食べよっと」

あれ? もしかしてお怒りになられてる?
表情は普通、言動にもトゲがないのだが、何となくツンツンしている感じがある沙夜。果たしてこれは俺の思い過ごしか、それとも……

「アキヒト君も何か食べる?」

「そうだな、もらおうかな」

「じゃあ私が選ぶね」

「頼む」

……何だ、普通に機嫌いいじゃん。
俺は鼻歌交じりにコンビニの袋を覗き込み、何がいいか選んでいる沙夜の姿を見てほっと胸を撫で下ろす。

「はい、徳用ジャンボわたあめ!」

「……」

「これね、たくさん入ってて安い以外だけで全然美味しくないの。はいどーぞ!」

うわー、怒ってるー
しかも爆発系の怒り方じゃなくて、じわじわ来るタイプのしつこい怒り方だ。これはマズい。非常によろしくない。

「……すいません色々考え事してました」

「はい、たくさんあるからどんどん食べてね♪」

「……」

「さ、私は今日買ってきた中で一番高かったチョコをひ・と・り・で! 食べよっと」

「……ひでえ」

何て陰湿、何て凶悪な……
と、俺はこの旅始まって以来最大級のピンチを迎える。よくこういう状況を「針の筵(むしろ)」と表現しているのを目にするが、何とまあ的確な言葉だろうか、と思う。……っていうか助けて。

「あれ? 食べないの?」

「ごめんなさい。もう許してください……」

こうして謝り倒す俺。その甲斐あってか、沙夜の機嫌の悪さは数十分で収まってくれた。
後でお怒りの原因を聞いてみると、誤魔化した……というかウソがいけなかったとの事。「……信じてたのに」という言葉と視線が痛かった。痛すぎた。
そんな訳で俺は今後一切沙夜を悲しませる&怒らせるウソは吐かない事を宣言させられる事に。
だが全てのウソを禁止にしたのではなく、条件付きだったのが少し面白く、また沙夜の優しさや考慮が見てとれた。
つまり相手を想ってのウソ、俺にしてみれば沙夜を守る・庇ってのウソならセーフという事であり、その手のウソは気付いても言及しない取り決めが行なわれた。

……こんな私達だから、ちょっと複雑な事情を抱えた私達だからさ、ウソはやっぱり必要になってくると思うんだ。

……だから、本当は全部ダメにしたいんだけど、そうもいかないから条件付きで、ね?

……判ってる。私だってそこまで子供じゃない。でもそれでアキヒト君が逆に困るのを見るのはイヤだし、せっかく今まで明るく楽しく振舞ってくれた意味がなくなっちゃう。

……大丈夫だよ。私、そこまで弱くない。だからさ、アキヒト君はもっと普通にしてて、楽にしてていいと思うな。

……あ、ありがとうね。これでも感謝してるんだから。こ、こんな性格の私に付き合ってくれて、本当はすごく嬉しいんだよ。

これは全て沙夜の口から発せられた言葉。誇張もしていなければ付け加えも取り外しもしていない言葉。
どうやら沙夜はまだまだ多くの部分が、俺が知らない側面や「顔」があるようだった。
別に悔しくはないし、意外とも思わない。確かに最初に会った時とは印象が少し違っていたが、ああいった部分も今も沙夜は沙夜であり、そこはこれからも変わりはしない。むしろこれからもたくさんの沙夜を見れると考えれば、それはとても楽しい事。

……まあ最初の頃に見せていた、いじらしさのある沙夜が今のところは一番好き、とか言ったらやっぱ怒られるかな? とか考える俺。
でもこんなちょっと意地悪な、拗ねている様子の沙夜も悪くない。極端に素直でいるか、極端に素直じゃなくなるのか、そんな不器用な部分も含めて沙夜は沙夜。どんな人間にも複数の「顔」が、幾つかの「人格」があり、それは俺達も例外ではない。多重人格なんて言うと大袈裟に映るが、絶対的単一人格でいる人間の方が特殊なんじゃないかと思う。俺だって明るく振舞おうとする自分と、今みたいに色々考え込む自分がいるんだ、何も不思議な事じゃない。

……大事なのはそれら普段は現れない、表に出てこない、意識的に出そうとしていない部分が出てきた時に上手く付き合えるか、という事。

……大丈夫。俺なら、きっと大丈夫。
だって相手が沙夜だから。彼女だったら全て受け止めてみせる。そして俺には受け止める責任が、義務がある。
勿論そんなものがなくても、自分で勝手に使命だと思って守るのだろうけど、それとこれとは別。少し違う事。

「……あのさ」

「ん?」

と、沙夜が話しかけてくる。
俺はそれまで考えていた事、頭の中で延々と、悶々と考えていた事を全て切り離し、沙夜との会話に全ての意識を向ける。やっぱり俺は小難しい事を考えているより、沙夜との会話を、やり取りを、心のふれあいを楽しむ方がいい。断然いい。全然いい。

「そのわたあめ、少し食べたいな」

「別にいいけど……、量と値段以外にいいとこ無いんだろ、これ?」

「う、うん。それはそうなんだけど……」

「けど?」

「実はそのわたあめ、私にはいっぱい思い出があるんだ」

「……思い出」

「うん。今よりも全然小さい頃、よくこのわたあめを食べてたんだ」

……その話は初耳だな。
俺は沙夜と知り合ってから、つまりこうして直に顔を合わせてからではなく、ネット上だけの付き合いの頃から通して初めて聞く話に興味を覚える。
きっとそれは遠い昔、今となってはいい思い出とか、そういった感じの話。全てに不信感を抱き、生き方のバランスを崩し始めるずっとすっと前の話だろう。

「私、子供の頃から甘いものが好きでさ。甘いもの=美味しいもの、っていう構図が出来てたくらい、毎日のおやつを楽しみにしてた」

「……」

「お母さんはちゃんと毎日おやつを用意してくれた。たまに作ってもくれた。でもいつもちょっぴり足りなかった。本当はちょうどいい量だったんだろうけど、あれ以上食べてたらきっと晩ご飯が入らなかったと思うけど、その時の私はそんな事に気付ける訳もなくてさ」

「……まあ子供なんてそんなもんだろ」

頷く俺。
何も話を無理矢理合わせているのではない。俺にも近い話が、似たような思い出があった。
大きな袋に入っているお菓子は2日で1袋。俺の家ではそんなルールがあり、それに従っていた。しかしどうしてもたくさん食べたい時というのは出てくる訳で、「明日ガマンするから今食べたい」とかよく言っていた。

「でもこのわたあめがその日のおやつだと、少ないっていう文句は言わなかった。……だってたくさんあるし、それに甘いし」

「確かにチャイルド沙夜にしてみれば条件を満たす完璧なおやつになるな」

「そうだね。……で、わたしは喜んでわたあめを食べていた。当然それを見たお母さんはわたあめをおやつに用意する事が多くなった」

「ウハウハだな」

「うん、最初の頃はすっごく嬉しかった。お母さんが大好きだった。……でも」

「……続きすぎた、か?」

「そう」

短い返事、そして注意していないと判らないくらい小さく頷く沙夜。
……俺は何となくではあるが、途中から話の結末が読めていた。いくら子供とはいえ、好物とはいえ、あまりに連続されて出されたら飽きもする。しかし親は意外とそういうのには疎く、「子供が好きだって言ってたから」と、同じものを買い続け、与え続ける。そうなると当然、大好きだったものも鼻に付くようになる訳で、好物が一転して嫌いになってしまう。皮肉なものだ。

「わたあめなんて飽きやすいお菓子の代表格でしょ? お祭りの時も最初は喜んで食べるけど、だんだん嫌になってきて捨てる友達とかいたし」

「そうだな、原料が砂糖オンリーだから味の変化がないんだよな」

「最初は本当に嬉しかったんだよ? でもそれが毎日のように続くと……ね」

「お母さんには言ったんだろ?」

「うん。……わがままな子だね、って言われちゃった」

「……チッ」

思わず舌打ちが出る。子供にしてみれば当然の要求なはずなのに、それを子供特有の駄々と区別が出来ないで片付ける……
これまた俺にも同じような経験があるので、当時の沙夜の気持ちはよく判る。
……あれは、ショックだ。

「あ、でもねでもね、そこまでヒドくは言われなかったんだよ? 「もう、仕方ないわね」くらいな感じで……」

「……悪ぃ、気を遣わせちまった」

「ううん、いいよ。気にしないで」

……それに私のために怒ってくれたんでしょ? だからいいの。
沙夜は小声でそう付け加え、そして「嬉しいな、今までこんなことしてくれる人、いなかったから……」と言う。胸が痛かった。締め付けられる思いだった。もう少し、もう少し早く出会えていれば、と思えてならなかった。悔しかった。

「ダメだよアキヒト君、顔が怖くなってる」

「……わ、わり――」

「謝らなくてもいいよ」

「……そ、そうか」

「十分、伝わってるから。……アキヒト君と一緒にいると、いろんな気持ちが伝わってくるの」

「……」

「私を楽しませようとしてるな、とか、私を気遣ってくれてるな、とか、いつも私の事を考えてくれてるのがよく判る。それはすっごく嬉しい事だよ」

「……」

「でもね、やっぱりアキヒト君には笑っていてほしいの。私の事で悩んでほしくないんだ」

「そんなことは――」

「あるよ」

遮られる言葉。沙夜の瞳は強く、そして何をもってしても曲げられないような力が宿っていた。

「私の事を考えてくれての事だもん。私が気付かない訳ないよ。……そこまで、鈍くないよ」

「……」

「だから、だから……」

ぐっと自分の服の胸元を掴み、懇願するような顔で俺を見る沙夜。本当はもっと別の何かを掴みたかった、繋ぎ止めておきたかったのだろう。しかし今は自分の胸元に手を宛てるだけ。それはとても悔しく、またやり切れない事。そう思えてならなかった。

「……あーもう!」

「え……?」

ぐしゃ。そしてぶんぶんぶんぶん。
俺はおもむろに手を伸ばし、沙夜の頭を掴んで大胆にシェイクする。ふわりと沙夜の髪からいい匂いがした。

「沙夜も俺も生き方下手すぎ!」

「はにゃあああー」

ぶんぶんぶんぶん!

「そのくせ相手のことばっか考えるのな。あーもう!」

「めがーまわーるー」

……ぴた。
頭を振る手を止める。ちらりと横を見ると、沙夜はぐわんぐわん揺れていた。そして「ふぎゅー」と言っていた。抱きしめたくなる可愛さだった。

「……吹き飛んだか?」

「へ?」

「余計な悩みとか、俺へのいらん心配とか、そういうヤツだよ。……どうだ、吹き飛んだか?」

「……」

くしゃくしゃになった髪に手をかけていた沙夜の動きが止まる。そしてしばらく固まった後、今度は顔がくしゃくしゃになる。沙夜は笑いながら泣いていた。

「……ありがと」

「いえいえ」

「ほ、ほんとうに、あ、ありがどう……ぐすっ」

そう言ってさらに顔をくしゃくしゃにする沙夜。それは今まで抑えていたもの、塞ぎこんでいたものを一気に放出するような、ダムが決壊するような勢いで諸所の感情を吐き出していた。

「お、おい、泣くなよ……っ」

「だって、だって……」

「笑っとけって。同時に泣いて笑ってだと大変だろ? だから沙夜は笑っとけ」

「う、うん……ぐすっ」

「……ふう」

よかった。これでストックされていた負の感情は幾らか減ったな。
沙夜みたいに何でも内に溜め込むタイプは、こうしてガス抜きをしないと参ってしまう。……ま、それは俺も同じ事なんだけど。

「ほら、ティッシュ。涙とか鼻汁とか拭いとけ」

「鼻汁なんて出てないもん……」

ぷくっと頬を膨らませ、むーと口を尖らせつつも、沙夜は素直に俺からテッシュを受け取る。
本当は素直なのに、他人との関わりや触れ合いを心の奥底では望んでいるのに、何かが引っかかり、結局感情を内に篭めてしまう。
それはある種当然の流れであり、俺にしてみれば痛いくらいに判る行動。

……そう、同じだから、俺も本質的な部分は沙夜と同じなのだ。
ただ、俺には少しだけ逃げ道が、それらを分散させる手段を幾つか知っていた。その僅かな差が、こうして同じような性質を持つ沙夜の気持ちを掬うだけの差になっていた。それは本当に紙一重、ほんの少しベクトルが別方向に傾いただけ。しかし今はその差が大きく顕れ、結果として2人を好転に導いたのだ。

「……どう、スッキリした?」

「うんっ」

すっかり調子も戻り、くしゃくしゃだった顔も髪も普段のそれに戻った沙夜。
……何よりだ。勝手な願いだが、沙夜は常にこうであって欲しかった。

「じゃあ次はアキヒト君の番だね」

「……は?」

……ふぁさっ

俺が聞き返した瞬間、何かが俺の頭に乗った。
そのとても柔らかく、優しく触れてくるものは沙夜の小さな手。
沙夜の手は俺の頭をゆっくりと、まるで傷付いた箇所を癒すように撫でていた。
それはどこかに頭をぶつけて泣き叫ぶ子供に対し、早く良くなるおまじないをするよう。俺が力一杯ぶんぶんと頭を振ったのに対し、これが沙夜のやり方。余計な悩みとか、自分に対する心配の気持ちを緩和させる手段だった。

「本当は私もぶんぶん振り回して髪をぐしゃぐしゃにしたいんだけど、アキヒト君は運転中だし、今はこれで許してあげる」

「……そらどうも」

素っ気無い返事。でも最大限の感謝を込めたそれは、きっと沙夜に伝わっているはず。
……ほら、その証拠に――

「うんっ!」

こんなにも素晴らしい笑顔を見せてくれる。
……俺は、沙夜と出会えて本当によかったと心から思う。

「わたあめ、食うか?」

「うん。……出来れば食べさせてくれると嬉しいな」

「了解」

そう言って俺はわたあめを袋から適量摘み、そのまま沙夜の口元に運ぶ。
沙夜は躊躇う事なくそのわたあめに舌を伸ばし、俺の指先を少し舐めつつわたあめを食べる。指まで咥えたのは偶然か、それともわざとかは判らない。
えへへへ……と照れ笑いを浮かべる沙夜の顔にはそのどちらとも取れる反応があり、またそのどちらでもいいやと思ってしまうだけの魅力があった。

 3

車を走らせて5時間、俺の運転する車は海岸線沿いを走っていた。
時刻は午後4時過ぎ、周囲は夕日で赤く色付き、とてもキレイな風景がどこまでも続いていた。

「うわー、海がすっごくキレイだねー」

「……眩しい」

窓を全開にして潮風を浴び、キラキラ光る海を見ている沙夜の横、俺は容赦なく差し込んでくる日光に大苦戦。サングラスでも持っていればよかったのだが、そんな便利なアイテムは持ち合わせておらず、俺は常にどちらかの手で日光を防いでいた。

「ほらほら、あそこにある岩、ネコみたいに見えるよ!」

「運転者に脇見を強要しない」

「えー、見ておいた方がいいよー。……ほら」

グキ

「うおっ!?」

突然沙夜の手が伸び、両手を頬から後頭部に回されたと思った瞬間、視界が道路から沙夜に変わる。その笑顔の奥には確かにキレイに光る海と、まあネコに見えなくもない岩があった。
しかし俺は今それを見ているヒマはなかった。首を曲げられる間際、正面に見えていたのは急な曲がり角。つまりこのタイミングで脇見をするのは非常にデンジャーな事であり、俺は一刻も早く正面を向く必要があった。

「……!!」

グンッ、キキッ!

急で荒いハンドリングにタイヤが鳴り、ワンテンポ遅れでやってくる横からの負荷に身体が揺れる。
だがあまりスピードを上げずにいた事が幸いし、車は無事に急カーブを抜け、再度訪れた直線道路を無事に走っていた。

「さ〜や〜」

「……ごめんっ」

自分でもうっすら額に汗をかいているのが判る中、こればっかりは少しキツめに注意しようと、俺は沙夜の名前を恨めしそうに口にする。そして顔は前を向きながらもワナワナと手を伸ばし、謝って小さくなっている沙夜の頭に軽めのアイアンクローをお見舞いする。

「このっ!」

「いたっ、いたい! 割れる、割れるから! 伸びるから〜!」

「……割れねえし伸びねえよ」

そう言って俺はアイアンクローを解き、代わりに髪をクシャクシャと触る……というかシェイクする。……実はこういうじゃれ合いに近いお仕置きに憧れていたり。うん、これはいい。もう俺はこういう事をしているバカップルを笑えないかもしれない。……っていうかさっきも同じような事をしたような……

「むにゃ……」

「どうした? 車に酔ったか?」

「揺らしたのはそっちでしょ〜」

目を豪快にグルグルと回し、握られまくってボサボサになった髪の沙夜が涙目で俺を見ながら口を尖らせる。
まあアイアンクローに対する不満はあるだろうが、とりあえず反省はしたようだし、この辺で意地悪は終了。沙夜だって俺に景色を見てもらおうとしての行動だったろうし、あれだけキレイな海を見ればテンションが上がるのも当然だろう。それに実を言えば俺だって沙夜と一緒にじっくり海を見たいと思っていた。
……

「……お」

するとちょうどいい事に「前方に展望ポイントあり」の看板が登場。俺は迷う事なく立ち寄る事を決意。沙夜の了解も撮らずにウインカーを出し、駐車スペースへと向かう道に入っていく。

「あー、もう入っちまったけど、よかったよな?」

「うん」

完全なる事後報告にも関わらず、沙夜は笑顔で承諾。「もしスルーしてたら怒ってたよ」とまで言ってくれた。
展望ポイントは世辞にも立派とは言えず、景色を見るためのちょっとした建物があるだけ。食堂や露店の類もなく、あるのは数台の自販機のみだったが、そのチープさがかえってよかったように思える。
これから夕日が海に沈む絶好の時間帯だと言うのに先客はゼロ、俺達は完全に貸し切り状態となった建物の中に入り、一番眺めがいいと思われるベンチを占領。2人並んで潮風を浴び、波の音と海鳥の鳴き声を聞きながら、赤く染まる海を眺める事にした。

「うっわー、キレイだねー!」

「たまらんものがあるな、この画は」

少し強めの風が吹き、沙夜はしきりに髪を手で押さえている。その様子を横で見ていた俺は沙夜に色っぽさを感じ、思わずドキっと胸を高鳴らせていた。
それは髪をかき上げる仕草なのか、風を受ける横顔が大人びて見えたからか、それとも夕日を浴びて紅に染まった全身が幻想的に映ったからか。とりあえず俺は景色に見とれている沙夜に見とれてしまい、しばらく黙ってその横顔を眺めていた。

「ううっ、ちょっと冷えるかも」

「風、強いもんな。……少し奥に移動するか?」

「そうだね、何かジュースでも買おっか」

沙夜はそう言ってベンチをひょこっと立ち上がり、自販機が並ぶ方に駆けていく。俺はその後をゆっくり追おうとするのだが、何やら先に付いた沙夜が両手を振って呼んでいるので小走りに。何事かと思って沙夜と自販機に近付くと、面白いものを発見した目つきで自販機を指差す。そこにあったのは明らかに俺達より年上と思われる、レトロ(というか単に古いだけ)の自販機が現役で稼動していた。

「うわ、ハンバーガーの自販機か」

「すごい年代モノの匂いがプンプンだね」

「それに隣は瓶コーラの自販機……」

「私、これ初めて見た……。栓抜きが付いてるんだね」

「コーラにスプライトにハイシーオレンジ……、こりゃ買わずにはいられないな」

「あ、私も私も。瓶コーラって飲んだ事ないんだ」

「いいのか? よけい冷えるぞ?」

「……う」

暖かいコーヒーかココアを買うつもりで自販機に向かったのだが、ここで結構な選択を求められる沙夜。まあコーラは買うだけ買って後で飲めばいい……と思いきや、栓抜きがないと開けられないという罠が。さあどうする沙夜?

「どうしよう、悩むなあ」

「別にコーラでいいんじゃね? 一緒にこの味が価格に見合わないハンバーガーも食べれば身体は暖まるだろ」

「そ、そうだね。じゃあハンバーガーも買おうっと。……実はこれも初めてだったりして」

「マジ?」

俺は結構目にする&実際に食べる機会も何度かあった自販機ハンバーガーだが、沙夜は食べた事がないと言う。……これが俗に言うジェネレーションギャップというヤツなのだろうか。それとも沙夜の地元が超都会だったとか? っていうかこの自販機って全国にあるのか?

「あ、見た事はあるんだけど、「美味しくない」とか「ボッタクリだ」っていう話を聞くから……」

「なんだ、そういう事か」

「?」

安心する俺を見て首を傾げる沙夜。一方の俺はギャップの差が生じていなかった事にホッとしていた。……よかったよかった。

「確かに美味くはないな。あとやっぱ高い。でも何とも言えない「味」があるんだよ、コレには」

「そうなんだ……」

「ボタンを押して暖め時間が表示されるんだけど、これがアナログな造りでさ。ここが15秒おきにパタパタってめくれていくんだよ」

「へー、おもしろそう」

「そしてもう1つの目玉はツッコミポイント満載のメニューな。ケチャップバーガーなんて言い方するの、この自販機くらいじゃね?」

「ほんとだ、普通のハンバーガーがなくて、ケチャップバーガーになってる」

と、沙夜は興味津々といった様子で年代モノの自販機を覗き込み、感嘆に近い声を上げる。
……まあここであまりテンションを上げられて、出てきたハンバーガーにしょんぼり、とかいう事にならないで欲しいのだがどうだろう。普通に考えればマックの方が全然美味いのだが、はてさてどうなることやら。

「どうする? 沙夜が先に買うか?」

「あ、そっか。すぐ出てくる訳じゃないもんね」

そう、このハンバーガー自販機は先に少し触れたように、1コ買う毎に45秒の暖め時間が必要となる。したがって食べるスピードが遅い沙夜が最初に買うのが好ましい。

「じゃあ私から買うね」

「そうしとけ」

「ええっと、ケチャップとチーズとテリヤキかー。悩むなー」

……実際そんな味に大差ないぞ、と言いかける俺。しかし「むう……」と言いながら迷う沙夜があまりにも可愛かったので黙って見ている事に。……あ、チーズ選んだ。

ウィーン……

商品の決定と共に聞こえてくる低い音。そしてパタパタと動き出す時間表示。うーん、懐かしい。

「……先に言っておくけど、紙箱とかメチャクチャ熱いから気をつけろよ」

「うん、わかった」

俺の注意にコクリと頷き、沙夜はハンバーガーが出てくるのをウキウキしながら待つ。……だからこれに過度の期待は禁物だってば。

「それじゃ俺は先に飲物でも買うかな。……沙夜はコーラでいいのな?」

「あ、お願い」

俺は……スプライトにしようかな?
そんな事を考えながら財布から小銭入れを取り出し、自販機の前に。大きさは現行のサイズと大差ないが、ボタンは3つだけ。その中から俺はコーラとスプライトをチョイス、1本ずつ取り出して栓を空ける。プシュッという小気味よい音がした。懐かしかった。

「……栓、空けたかったとか言うかな?」

ハンバーガーを待っている沙夜の元に戻る時、手にした2本の瓶を見ながらそう呟く俺。……まあその時はもう1本買えばいいか。このサイズなら2本一気飲みとか全然平気だし。

「ほい、コーラ」

「ありがとー」

「瓶は美味いぞ?」

「それ、よく聞くけど本当なの?」

「どうだろうな。気分の問題かもしれんけど、俺は美味く感じる」

「ふーん」

……ゴト

と、その時ちょうどハンバーガーが落ちてくる。
……ああ、変わってないな、このパッケージ。

「あ、でてきた」

沙夜はそう言うと、片手にコーラを持ったまま受け取り口にしゃがみ込む。
さっき「箱は熱い」と注意したから大丈夫だとは思うが……

「熱っ!」

「だから言ったろ……」

これもお約束、というヤツなのだろうか。沙夜は熱々の紙箱を掴んだと同時に手を離し、受け取り口に激しくぶつけてしまう。……このコンボは痛いかも。

「うううう……、まさかこんなに熱いとは」

「自販機ハンバーガーはナメたらいけない。開けると判るけど、中は湯気でもっとヒドイぞ」

「そうなの……?」

ふーふーと息を吹きかけ、コーラの瓶で指先を冷ましながら聞き返してくる沙夜。先にコーラを渡しておいてよかった。

「ああ、その湯気でパンがぐちゃぐちゃになってる事も珍しくない。だから食べる時は少し風通しのいいトコに置いて水分を飛ばす事をお勧めする」

「えー、なんか美味しくなさそう……」

「実際そんな美味くねえよ」

「え? だって220円もする……」

「正味50円くらいの味だと思って食え」

「そんなあ」

食べる前からガッカリ顔になる沙夜。……いいんだ、そのくらいのテンションで食べるのがいいんだよ。

「さ、俺も買うかな」

散々マズイと言いながらも、普通にハンバーガーを買おうとする俺。隣では真実を知ってしまった沙夜が「おいしくないんでしょ? どうして買うの?」という目で俺を見ている。……だからクオリティは求めてないんだって。

「テリヤキ、だな」

そう言いながら俺はボタンをプッシュ、程なくして待ち時間表示がパタパタと……って、動かねえ!?

……ゴト

「へ?」

「今、ゴトッて鳴ったけど……?」

予想外のテリヤキ即放出に、呆気に取られる2人。何だこの凄まじいクイックリーさは。っていうか暖まってねえだろ。

「もしかして……故障?」

「おいおい、勘弁してくれよ……」

それでも俺は一抹の期待を胸に、取り出し口に手を伸ばす。
しかし俺の指先が感じたのは残念ながらひんやりとした空気。どうやらテリヤキは選んではいけなかったorちょうど俺の番で壊れてしまったようだった。

「どう、アキヒト君?」

「超クール」

「あはははは……」

乾いた笑いを浮かべる沙夜。そして落ち込む俺に「……コレ、半分こしよ?」と優しく声をかけてくれる。……ありがとう沙夜。さすがに俺もアイステリヤキは食べたくない……

と、こうして俺達は瓶のジュースに自販機ハンバーガー半分というチープ極まりない軽食を摂る事に。キレイな夕焼けを見ながら、大事な人と一緒に食べるそれらメニューは1人で食べる時と……同じ味。
自販機バーガー初体験の沙夜は「うわー、ビミョー」と、正直な感想を口にしながらも、「これも貴重な体験だね♪」と笑顔を見せてくれる。
一方の俺も「これはチーズじゃないんじゃね?」という怪しさ炸裂のチーズバーガーをスプライトで流し込みつつ、まあ沙夜と同じもの食べれたからいいやと考え、自販機の不具合をあっさり許していた。
全て食べ終えた後、俺は半解凍状態のテリヤキバーガーを取り出し、その辺で羽根を休めていた海鳥に向かって放り投げる。今はまだ冷たいだろうが、しばらくすれば何とかついばめるレベルになるだろう。存分に食べてくれたまえ。

「うーん、食べるのかなあ?」

「食うだろ。……多分」

「うーん……」

沙夜的には今の俺の行動はゴミの投げ捨てに近いらしく、納得していない模様。……きっと食うと思うけどなあ。

「ま、包み紙とかビンはしっかりゴミ箱に捨てたんだし、そんな心配すんなって」

「……そうだね、うん」

完全に同意、とまではいかないものの、沙夜はそう言って頷き、俺の横にちょこんと付いて歩いてくる。既に俺達は展望ポイントを後にし、車に戻ろうとしていた。

「さて、中身はどうであれ多少は腹も膨れたし、次は今日の宿探しだな」

「もう少し先に行くと、ちょっと大きな町があるみたいだよ?」

「ふーん、じゃあまずはそこに行くか」

「うん。……何か温泉があるみたいだから、泊まる場所はたくさんあると思う」

「温泉か、いいな」

「忍び込んだ別荘は水が出なかったもんね」

「初日は近くの風呂に行ったけど、次の日はレンジで暖めた水にタオルを浸して身体拭くだけだったもんな」

「まあアレはアレで貴重な体験だけど、やっぱりお風呂でさっぱりしたいな」

沙夜はそう言うと、少しだけ恥ずかしそうな顔を見せる。やっぱり女の子に風呂抜きは例え1日でも酷だったようだ。

「……それにしてもアレだな、何か沙夜の言う「貴重な体験」って、微妙なヤツが多いな」

「そう?」

「タオル行水も自販機ハンバーガーも、しなけりゃしないで全然いい事だろ」

「……うーん、そうかもしれないけど、やっぱり貴重だよ。それに楽しいしね」

「そんなもんか」

「そんなもんです」

何故か堂々とした様子で、何なら少し誇らしげにそう言って笑う沙夜。確かに籠の中の鳥のような生活を強いられるよりなら、こういった適当で大雑把な自由な生活の方がいいのかもしれない。
俺は改めてこの旅の良さや醍醐味を、そして沙夜にしてみればいかに有意義で貴重な体験かを実感。もっともっと楽しくてドキドキした旅にしようと強く思った。

「……あ、町が見えてきたよ」

「おお、いかにも温泉地、って感じだな」

走っている道の先、沙夜は指差したのは海岸線沿いに建物が固まっている場所。旅館らしき大きな建物、やたらと目に付く温泉マーク付きの看板、それはどう見ても温泉地の光景だった。

「時間は……5時過ぎか。満室じゃなければまだ部屋も取れるな」

「温泉宿かー、いいなー」

「よし、今日は少し豪勢に行くか?」

「うん!」

大きく頷き、にこっと笑う沙夜。既に頭の中は温泉と食事とふわふわの布団を描いているようだった。

「刺身とか食いてえな」

「うんっ」

「思い切って船盛とか頼んでみるか?」

「うんうん!」

「露天風呂、混浴だといいな」

「え、それはちょっと」

「そこは否定っすか……」

くそう、流れで「うん」と言ってくれると思いきや、そう簡単には引っかからないか。……って、別にそこまで期待してた訳じゃねえけどさ。
と、1人で誰にするでもない弁解を始める俺。……なんだかなあ。

「うーん、楽しみだなー。……ねえ、アキヒト君はどんな宿がいいの?」

「俺か? そうだな、ホテルよりはちょっと古めの旅館がいいかな」

「わ、いいねそれ。じゃあそういうトコにしよっか」

「了解。そんじゃ街中入ったらスピード緩めるから、沙夜はよさげな宿を探してくれ」

「うん、任せて!」

今日の寝床の決定権を得たのがよほど嬉しかったのか、沙夜は全身から張り切りオーラを出し、まだ温泉街に入っていないのにも関わらず、窓の外を真剣に眺め始める。

「……おいおい、まだ早いよ」

「ううん、いい宿は少し離れた所にあるんだよ」

「まあ確かにそういうケースはあるけど――」

「……あ!」

俺の言葉を遮るように大きな声を上げる沙夜。

「どうした?」

「違った、お寺だった……」

どうやらよさげな建物を見つけたと思いきや、宿ではなく寺だった模様。
沙夜はそこまで落ち込まなくてもいいだろ、というくらいションボリしていた。

「宿はたくさんあるんだ、もっと余裕をもってだな――」

「あ!」

またしても俺の言葉を遮るように声を出す沙夜。今度は本当に宿だろうか。

「ねえ、あそこって旅館かな? だとしたらかなり雰囲気よくない?」

「ん、どこだ?」

「ほら、山みたいになってる所の少し上。あれは旅館でしょ」

そう言って沙夜が指差したのは、小高い丘の上にある建物。景色もよさそうだし、旅館のように見えなくもない……というかありゃ旅館だ。

「ああ、それっぽいな。ちょっとお高い感じの宿に見えなくもないけど」

「やっぱりそう見える?」

「スゲー格式高い系の宿の可能性があるような」

「う、うん。確かに」

「……ま、一応行ってみるか。ダメならまた探せばいいしな」

もしかしたらハイグレード? という感のある宿に少し躊躇い始めた沙夜だが、俺は「気にすんな」テイスト満載でそう言うと、迷わずその宿に向かって車を走らせる。
幸いな事にかなり前から案内看板が出ていたので、俺達は迷う事なくその旅館へと進む。そして海沿いの大きな道から1本入り、結構な登り道を経て目的地に到着。宿は一目で「こりゃアカン」と思うような高級極まりない造りではないものの、安宿とまではいかない感じ。
……これは中に入って料金を聞くまでは油断出来ないな。
そう考え、ちょっとだけ緊張の面持ちで俺は車を降りて入口へ。沙夜も同じような心境らしく、「うう、大丈夫かなあ……」と小声で呟いていた。

 4

「いらっしゃいませ、お客様は2名でよろしいでしょうか?」

「は、はい……」

「あの、予約とかしてないんですけど、その、部屋空いてます?」

やや緊張気味で受け答えをする俺と沙夜。入った宿はかなりの歴史を持っている感がひしひしと伝わってくる佇まいだった。もしかしたら知る人ぞ知る系の宿かもしれない。宿泊料金が激しく気になる……

「はい、大丈夫で御座います。それではお客様、まずはフロントで記帳をお願いできますでしょうか?」

入口に立っていた仲居さんはそう言うと、横に待機していた別の仲居さんに目で合図を送り、俺達の案内役に就かせる。こんな本格的な接客をする宿は初めてだった。

「……」

横には無言のまま、落ち着かない様子の沙夜が。……どうやら沙夜にとっても初の体験のようだ。

「お客様、お荷物をお預かりいたします」

「お、お願いします」

あたふた、という表現はまさにこの事。そんな感じで存分に慌てながら沙夜は仲居さんに持っていたバックを手渡す。

「ではこちらへ……」

「は、はい」

柔らかい物腰と喋り方、これが正しい接客スタイルなのだろうが、俺が今まで泊まった宿はこんな事はしてくれなかった。また少し宿泊料金を気にする値が上昇した。

『……ねえアキヒト君』

『どした?』

仲居さんの後を付いて歩いている途中、沙夜が小声で話しかけてきた。
まあ話の内容はだいたい予想出来るのだが……

『どうしよう、高級っぽいよ?』

『わかってるよ、俺だって少し引いてるもん』

『ホントにここに泊まるの?』

『わかんね。とりあえず幾らかかるか聞いてみないと』

っていうか沙夜がこの宿を見つけたんじぇねえか、と言いそうになる所を何とか止め、俺は何とか払えるレベルの料金である事をひたすらに願う。

「それではお客様、記帳とお部屋をお選び下さいませ」

……と、ここでフロントに到着。くるりと仲居さんが振り向き、チェックインを済ませるようカウンター内に控えしナイスミドルに俺を導く。

「いらっしゃいませ」

「ど、ども」

うわー、何か渋いボイスだし。姿勢とかメチャクチャいいし。
俺はいかにもフロント係といった感じのナイスミドルに萎縮気味。ええい、俺は客だぞ! と思いたいのだが、料金次第では逃げ帰る可能性があるため、大きな態度は取れないでいた。

「……2名様ですよね。それではこちらからこちらまでのお部屋からお選び頂けますか?」

「……は、はい」

ゴクリと息を飲み、示された部屋の料金表を見る俺。横では沙夜がじぃっと見つめていた。

「……」

……あれ? 意外と安い……?

最初は見間違いかと、○を1つ見落としているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。宿の料金表に書かれた金額はどれも普通に払えるレベル、やる気になれば数日滞在も可能な範囲だった。

「わ、思ってたより安いね……」

「ああ、これなら全然泊まれるよ」

いつの間にかすぐ隣に来ていた沙夜も、リーズナブルな価格設定に意外そうな声を上げる。俺も安堵の表情を浮かべていた。

「ふふっ、助かった〜って顔してるわよ、2人とも」

そんな俺達のやり取りを見ていた仲居さんが笑いながらそう言い、「よかったわね」とウインクをしてくる。見るとカウンターのナイスミドルもにこやかな表情を浮かべていた。

「いい宿は高い宿、という考えが嫌いでしてね、ウチの社長は。……サービスは一流でも料金は非一流、それがこの宿の方針なのです」

「うわー、いい方針ですねー」

「ありがとうございます」

ぱっと表情を輝かせる沙夜。おそらく料金がどうこうではなく、宿の理念に感激&賛同をした模様。それまでの借りてきた猫状態から一転、いつもの元気な沙夜になる。

「……あらあら、元気ねえ」

「えへへへ」

「いい娘じゃない、ちゃんと大事にしないとダメよ、彼氏君?」

「え、ええ。善処します」

「こら、少し喋りすぎだぞ」

「はーい、すいません」

軽く怒られた仲居さんはそう言って小さく舌を出し、とても人懐っこい顔を見せる。
そこに今まで感じていた嫌な高級感はどこにもなく、アットホームな雰囲気さえ感じるこの宿。打ち解けてみれば……というか、こっちが変に緊張さえしていなければ、意外と敷居や垣根は高くなかった。……超安心した。

 5

その後、俺は沙夜との相談を経て部屋を決定。ちょっとした見栄から1番安い部屋ではなく、その次のグレードにしてみた。その結果、部屋が2畳広くなり、夕食のメニューに海鮮網焼きがプラスされた。そして船盛の有無を聞き、これまたナイスな料金だったので追加で頼んだ。

案内された部屋は海を見渡せる、とても景色のいい部屋。荷物を運んでくれた仲居さんに聞くと、全部屋オーシャンヴューとの事。これであの値段なら全然安いと思う。

そして俺達は食事が用意されるまで時間があったので、先にこの宿自慢の温泉に入る事に。一緒に部屋を後にし、「大浴場」と書かれた暖簾の前で沙夜と別れる俺。やっぱりというか何というか温泉は混浴ではないらしく、露天風呂も完全に別々。冗談で案内してくれた仲居さんに「出来れば2人で入りたいんですけど」と言ってみたところ、料金別途の貸し切り風呂がある事を教えてくれた。
その言葉を聞いて「おお!」と喜ぶ俺だったが、沙夜に思いっきり頬を抓られた上、怖いくらいの笑顔で「アキヒト君?」と言われたので、貸し切り風呂は丁重にお断りした。……仲居さんは終始笑いながら俺達のやり取りを見ていた。

……ざばあっ

既に俺は服を脱ぎ捨て、浴槽に向かって一直線。掛け湯もそこそこに湯船に飛び込んでいた。

「……ふう」

沙夜の前では何も言わなかったが、長時間の運転で俺の腰は結構な疲労を抱えていたりする。一応ちょこちょこ背を伸ばしたり、上身体を捻ったりしていたが、やはり温泉には敵わない。俺は肩までどっぷり……どころか口元まで湯船に浸かり、極楽気分を存分に味わっていた。

「いーきーかーえーるー」

観光シーズンから外れているのか、今日が平日ど真ん中だからかは判らないが、広い浴場にいるのは俺を含めて数人。誰にも気兼ねする事なく足を伸ばし、こうして大きな声を出してもいい、というのは非常に嬉しい。普段はあまり長湯する事はないのだが、今日はじっくりこの温泉を堪能しようと思う。

……そして40分後。倒れる直前まで湯に浸かり、向こう一週間分の入浴欲求を満たした俺は満足気に浴場を後にする。
ふらふら歩きながらも何とか部屋に戻ろうとするのだが、牛乳の自販機を見つけたところで足がピタリと止まる。
風呂上りに牛乳を飲まずしてどうする! と思いながら俺は迷う事なく牛乳を購入。コーヒー牛乳やフルーツ牛乳もいいが、やはり王道は牛乳だと思う。

「あ、いたいた」

と、そこに沙夜が登場。浴場がある方から来たという事は、どうやら俺が少しだけ早く風呂から上がったらしい。

「よう」

「いいお風呂だったねー」

「そうだな。特にこっちは全然人がいなくてさ」

「へー、女湯は結構混んでたのに」

「何だ、残念だったな。のびのび浸かりたかっただろ?」

「ううん、そんな事ないよ。地元のおばあちゃん達と楽しくお喋り出来たし」

そう言うと沙夜は「ほら」と、部屋を出る時には持っていなかったビニール袋を俺の前に突き出す。見ると飴やせんべいが入っていた。

「えへへ、もらっちゃった」

「へえ、よかったな」

嬉しそうな表情を見せる沙夜に合わせてそう言うものの、俺の反応は正直微妙。
……もしかして思いっきりお子様扱いされたんじゃね? っていうか沙夜も飴とせんべいでそこまで喜ぶなよ。

「……嬉しいんだ。この旅が始まってから、こうしてアキヒト君以外の人と触れ合えたの、初めてだから」

「……そう、か」

確かに今まで、なるべく人との関わりはしないようにしてきた部分はある。まあ別荘に忍び込む&居座るのには全く必要としない事だし、人が多く集まる場所に好んで向かう事もしなかったので、仕方ないといえば仕方ない。
でも知らない土地への旅というのは、その先々での出会いや会話も醍醐味の1つ。特に沙夜は今までこういった旅行の経験がないため、嬉しさもひとしおなのだろう。
……今後の事を考えると、あまり目立ってはいけない。でも序盤からあまりそこにこだわりすぎても面白くはない。……これからはそういったバランスも考えないとな。俺はそう考えていた。

「このお菓子、後で一緒に食べようね!」

「それは構わないけど……沙夜が貰ったもんだろ。いいのか?」

「うん! だっておばあちゃん達も「連れのお兄ちゃんにも食べさせろ」って言ってたし」

「は?」

どうしてそこで俺が出てくる? 俺はそんなばあちゃんの集団になんか会ってねえぞ?

「ふふ、お喋りの流れでアキヒト君の話もしたんだ」

「あ、なるほど……」

ようやくここで納得する俺。
……でも一体どんな話をしたんだ、沙夜とそのばあちゃん達は?

「それじゃあ牛乳と一緒に頂こうかな。……沙夜も牛乳でいいか?」

まあどうせロクな事ではない……というか、内容を訂正したくなるような恥ずかしい事を喋ったに違いない。俺はあえて話を掘り下げず、そう言いながら自販機に金を入れる。

……が。

「え? 何で牛乳? アキヒト君って牛乳好きだっけ?」

「いや、何でって言われても……。風呂上りは牛乳だろ? そりゃあコーヒー牛乳とかフルーツ牛乳派もいるだろうけど」

「お風呂上りは牛乳……なの?」

「まあ温泉とか銭湯じゃお約束だろうな」

「そうなんだ」

え、マジ? もしかして沙夜、風呂上り牛乳の習慣を知らない?
俺は沙夜の反応を見てそう思い、やんわりと聞いてみる事に。するとやっぱりというか何というか、返って来た言葉は「初めて聞いた」との事。

銭湯に行った事もなければ瓶牛乳を見るのも初めて、というのは彼女が今まで幽閉に近い生活を送っていたのか、それとも実家が超が付くほどの金持ちで世俗を知り得なかったのか……
しかし手作り弁当のおかずであったり、駄菓子を好んで食べていたりした事などから、俺は今まであまり生活レベルの差を感じた事はなかった。それにもし沙夜が箱入りのお嬢様ならこんな生活には耐えられないだろうし、ワガママとはまた違った金持ち特有の言動が出てくるはず。

それらの事柄から判断するに、これはおそらくバランスの悪さから来る歪み。
知っている部分、知らなくてはいけない事、普通に生活していれば嫌でも身に付く事……
沙夜はそういったものの一部がすっぽりと抜け落ち、怖いくらいに無知な部分があった。
過保護で勝手な親が悪いのか、自分から触れようと、求めなかった沙夜が悪いのか、それとも双方が複雑に絡み合っての事か、俺には判らない。

しかしこういった部分が今の沙夜を作ってしまった要因、ひどく現実離れした脆さを持つようになってしまった事は紛れもない事実。俺はそういう沙夜の部分を直せばいいのか、それとも全て目を瞑り、横で俺が全て問題を解決していけばいいのだろうか……

そのどちらが正解なのか、沙夜にとっていい事になるのか、今の俺には判らない。悔しい事に全く答えが見えてこない。
……ただ、この問題に限らず、これから2人で旅を続けていく中、同じような疑問に対面する事はきっと起こるに違いない。

今すぐに、とは言わない。
でも、いつかは問題に直面する度に正しい答えを出し、沙夜の力にならないと……

俺はそう考え、湯上りの旅館の浴衣というフランクな姿に似合わない真剣な表情になる。

「……あれ? どうしたのアキヒト君?」

「ん? いや、何も。ただ……」

「ただ?」

「どうやって風呂上り牛乳の良さを沙夜に伝えるかで悩んでた」

……嘘だった。とっさに出た良い訳、真意を濁す言葉としては上手い方だとは思うが、嘘は嘘だ。
本当は結構真面目な事を、沙夜の事を思って色々考えていた、なんて言えない。
……そして、その先のビジョンに得も知れぬ不安を抱いていた、自信を失いかけていた、などとはとてもじゃないが言えなかった。




第3章「非日常の中での日常生活」

 1

一見高級そうに見えて実はリーズナブル、という旅館を出て2日が経とうとしていた。
あの宿は全て当たり、部屋から見える景色も良ければ風呂も申し分なし、料理も大満足……と、本当に選んでよかった、泊まってよかったと思える宿だった。
そのため、俺も沙夜も事ある毎に、宿を後にしてしばらく経った今でも宿の事を口にしては「また2人で泊まりたい」という話をしていた。

「うう、美味しくなかった……」

「そんな落ち込むなよ、まだ沙夜の方がマシだって」

「……そうだね、アキヒト君のに比べたら……って、アレはないよー」

「ないな。ありえないってレベルを越えてるよ」

はあ、と大きくため息を吐き、握っていたハンドルにガクリと力なく額を付ける。ちょうど赤信号に捕まり、俺はそのままうつ伏せの状態でギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを引く。……かなりダラけているのが自分でも判っていた。

現在、時刻は午後1時半。いい感じの昼下がりである。
実は俺と沙夜の2人はつい先程、昼飯を済ませたばかりだったりする。
本来であれば……というか理想としては適度に腹も膨れて満足、天気もいいしどこか寄り道でも、という展開であって欲しい所なのだが、どちらも口数は少なめ。さらにどこかグッタリというか、ガッカリとした雰囲気が存分に漂っていた。

その理由は2人の昼食。
俺達は走っていた国道沿いにある、見た目はそれなりにいい感じのドライブインに立ち寄り、食事を摂る事にした。
民宿も兼ねているらしいその佇まい、何となくではあるが地元では有名っぽい空気を感じ、かなりの期待を胸に暖簾をくぐったのだが……

「はうっ……」

「もう落ち込むなよ」

「う、うん」

「……はあ」

落ち込むなと言った矢先、本人がため息を吐いてはいけないのだろうが、どうしてもこの脱力感には勝てない。それだけのショックを、絶望にも似た感情を与えるだけのパワーが、あのドライブインにはあった。

まず入口。建て付けが悪いのか、引き戸が上手く開かない。まるで客を拒むかのような開き難さだった。

そして店内に踏み入れた瞬間。何とか戸を開けて入った後に飛び込んできたもの、それは奇妙な置物の群れと、どう表現していいか判らない混沌とした店内だった。

とりあえずダルマが、いや、ダルマであろうブツが数体転がっていた。
……そう、転がっていたのである。どんな状態からでも起き上がるはずのダルマが横を向き、倒れたまま鎮座していたのである。しかも片目に眼帯を嵌められて。これはなかなかに病んだ……というかブラックなユーモア満載である。
しかし、それらはまだほんの序章でしかなかった。恐怖はまだまだ奥に鎮座していた。準備万端で待ち構えていた。

店に入り、その異様な雰囲気に飲まれまくりの2人。立ち去ろうかと沙夜にアイコンタクトを送ろうとしたのだが、ある意味ベストな(俺達にしてみれば最悪の)タイミングで店の奥からバアサンが登場。「いらっしゃいませ」以外の言葉を口にしながら水の用意を始めた。

小声の上、あまり舌滑のよくないバアサンはさらに何か口を動かしながら、俺達をチラリと横目で見る。
そんなバアサンに対し、俺と沙夜は仕方なく……というか観念した感じで適当なテーブルに座わる事に。……イスが不自然なまでにガタガタと動いて危険極まりなかった。

そして差し出される水。コップは不揃い、そして水の量も不揃いだった。
と、ここで俺はテーブルの脇にあったメニュー、本のようなめくるタイプではなく、三角のプラ板に挟まったメニューを手に取り、沙夜と一緒に覗き込む。

……ここで再び2人は絶句。目に飛び込んできたのはあまりに脈絡の無い、節操がないのにも程があるジャンルの料理名が並んでいた。

無国籍料理というか、様々なジャンルの料理を出す店というのはハズレ率が往々にして高い。勿論中には美味しい店もあるのだが、ほとんどがプロ崩れの創作料理、普通に食べれたらよかったね、程度のものが多い。
それが飲食店激戦区、周囲にたくさんの店がある街中であれば、多少の期待も出来る。しかし世辞にも都会とは言えない、街道沿いのドライブインで無国籍料理チックなラインナップを出させるとなると正直厳しい。ひのきのぼうで大魔王を倒すくらい厳しい。

……というかこっちは丼ものや定食類を頼む気で、そういう料理を出すだろうと思ってこの店に入ったのだ。それなのに……

普通に考えておかしいだろ、肉うどんの横がラザニアって。それに刺身定食の並びにある「チーズフォンドゥ定食」ってのは何者だ?
他にも「目玉焼き定食」と「ハムエッグ定食」と「ベーコンエッグ定食」が独立してメニューにあるし。統一しろよな。
あと明らかに誤字だろ! と言わずにはいられないメニューの数々。まあこの手のものはよく雑誌やTVでネタにされているのを見るが、この店はそれらの比ではなかった。ちょっとヤバすぎて笑えなかった。

「ハンバグー」や「チャッシュメン」は序の口、「メンチカッ」(←明らかに「ツ」の字が小さい)や「チャハンー」(←チャーハンと思われる)といったものから、「洋風肉じゃが ポロバンシュ風」(←プロヴァンスではないかと予想)や「アラブ風酢豚」(←アラブで豚は食べない)、「スラブラーメン」(もはや推測不能)という危険な香りのする料理が名を連ねていた。

……と、まあそんなマッド極まりないメニューが並ぶ中、俺達が注文したのは比較的安心出来る……というか、被害が少ないであろう普通の料理。
俺はミックスフライ定食、沙夜は親子丼とソバのセットと、それなりに無難なチョイスをしたつもりでいたのだが、頼んだ料理が目の前に運ばれた瞬間、その目録は大甘だったと思い知らされた。

「……まさかあんな具材をフライにしてくるとはな……」

「そうだね、あれには私も驚いて何も言えなかった。だって全部初めて見るフライだったんだもん」

俺が頼んだミックスフライ定食、その構成はまあ普通と言えるものだった。
ご飯、味噌汁、漬物、煮付けの入った小鉢、そしてメインのフライが盛られた皿。……うん、ここまではいい。
しかし、いくら構成がよくても、その皿に乗っているものがおかしければ何ら意味はない。

……まさか千キャベツの代わりに生の白菜を刻んだものが乗るとは。
しかも普通であればレタスであろう部分も白菜の先、緑になっている部分を切らずに添えたものである。つまりフライ以外は全て白菜である。まずこれにビックリする俺。だが次なる衝撃は意外と早く……というかすぐ来やがった。

ミックスフライの具、これがまた壮絶な組み合わせだったのである。素人目でも「これはミックスしてはいけないだろ」と思わずにはいられなかった。
……っていうか大根って揚げ物に使うか? それもイカの塩辛を挟んでるんだぞ?

皿に乗っていたフライは全部で4つ。まず箸を付けた、いや、付けてしまったのがスライス大根の塩辛挟みフライ。そして残る3つはというと……

豚肉とアジの干物を組み合わせたフライ、はんぺんの中に梅干とトマトを詰めたフライ、そして茹でたソバを味海苔で束ねたソバフライだった。……全て相当な独創性と作り手のモラルを問わずにはいられないブツではあったが、とりあえず最後のソバフライは沙夜の頼んだメニューのついでに作ったであろう匂いがプンプンしていた。というか明らかにそうとしか思えなかった。

……で、気になる味の方はというと……
まあ言わずがもな的な部分もあるが、まあ普通に不味かったとしか言いようがなかった。
半端に火が通った事でベチョベチョの大根フライ、肉と魚の脂が見事にマッチしない豚鯵フライの2つは論外、残る2つも「無理すれば食べれる」レベルでしかなかった。辛うじて味噌汁と小鉢の煮物はそれなりに食べれるクオリティだったので、それで米を食ったという感じである。自家製と思われる漬物は見た目こそ期待大だったが、かなり前の物なのか、変に酸味がきつく完食は断念。
ちなみにこれでお値段は880円。定食の値段設定としては的確かもしれないが、やっぱりどう考えても暴利だと俺は思う。もし自分で価格設定出来るなら80円くらいだろうか。内訳は勿論それなりに食べれた小鉢と味噌汁が9割を占める。

「でもよく半分食べたよね、すごいよ」

「まあかなり腹減ってたからな。っていうか食べた割合なら沙夜の方が多いんじゃね?」

「う、うん……。わたしもすっごくお腹空いてたから」

そう言って沙夜は少し恥ずかしそうに俯き、伏し目がちに俺を見る。なかなかに破壊力のある可愛い素振りだった。

「でも沙夜の頼んだヤツだって結構なナニ具合だったろ? 俺も一口もらって食べたけど、あれはもはや和食のレベルを超えてたぞ?」

「あはははは……」

俺の言葉に対し、沙夜はもう何度となく見せたであろう乾いた笑顔を浮かべる。
沙夜が頼んだ親子丼のソバセットは(いや、ソバセット「も」と言った方いいか)先のミックスフライ定食で多少は耐性が出来たと思われた俺も驚くブツだった。

まずメインの親子丼。あるべきはずの鶏肉は……2切れ。しかも極小サイズ。後はチクワとタマネギで誤魔化し&量増し、という「99%卵丼」(沙夜命名)だった。
で、気になるお味はというと、砂糖を入れすぎたのかこれがこの店の仕様なのか、並みのスイーツ並の甘さ。ご飯との相性最悪の一品の出来上がりである。
そしてセットで付いてくるソバ、これも特筆すべき……というか見てみぬフリは出来ないというか、まあそういう出来の料理だった。

……ソバまで甘いってどういう事だ。
いやはや、まさかカツオの香りが漂い、色だけ見れば「これぞソバ!」というものが糖分たっぷりとは思わなかった。
っていうか普通におかしいだろコレ。

「あーもう!」

「うわ、思い出し怒りだ……」

ブンブンと首を振り、乱暴にハンドルを握り直す俺を見て沙夜がそう呟く。
その顔に批難の色はなく、むしろ「よく判るよ、その気持ち」という意味合いが強く見て取れた。

……と、こうして珍妙なフライと甘い×甘いの組み合わせ定食を食べさせられた2人。既に店を出て結構な時間が経っていたが、あの店の中で起きた出来事のインパクトの強さはそう簡単に拭い去れる訳でもなく、快適に走っているのにも関わらず、車内は微妙に沈み気味……というか盛り上がれない空気になっていた。

「う〜ん、口直しに何か食べる、って言ってもな……」

「何か食べるって気にならないよね」

「ああ。……それにこういう口直しに食べるのって普通は甘いものなんだろうけど……」

「甘いものはイヤ〜、もう食べたくない〜」

「……だよな」

俺的にはその辺でソフトクリームなんかを食べたいな、という思いがあったりするのだが、ちょっと前まで糖分満載のメニューを目の前にしていた沙夜にしてみれば、それは拷問に近いだろう。

「……次、自販機見つけたらウーロン茶でも買って飲むか」

「……そだね」

そう言うと俺と沙夜は揃ってしょんぼり気味に肩を落とし、2人同時に「はあ」とため息を吐く。

「一昨日の宿で食べたご飯、美味しかったね……」

「そうだな。特に夕飯のタラチリ鍋なんか最高。あれは忘れられない味だな」

「あと朝ごはんに出てきたコンブの佃煮とひじきの煮物、あれも美味しかったな〜」

「うんうん、あれだけで白飯3杯いけるよな」

「っていうか実際に3杯食べたし」

「はははは」

「……はははは」

「……はは、は……」

「……はあ」

「……ふう」

あの宿で食べた最高の食事を思い出し、盛り上がる2人。
しかしその直後、同時に先の悪夢の如き食事を思い出し、一気に落ち込んでしまう。インパクトや瞬間的な破壊力も相当なものだったが、あのドライブインで出された食事は継続性も恐るべき凶悪性を秘めているようだった。

「……ねえ?」

「ん?」

「あのドライブインと一緒になってる民宿に泊まらなくてよかったね」

「……怖い事言うなよ」

「そ、そうだね」

確かに泊まらなくてよかったとは思う……が。
そんな事言われたら「もしあの民宿に泊まったらどうなっていたか」を考えちまうだろ。
……怖っ、考えるだけで怖っ!

「ああもう、あのドライブインで食べた料理は……いや、あのドライブインの存在から何から全て記憶から消し去ろう! 沙夜も早く忘れる!」

「う、うんっ」

俺の勢いにつられ、力強く首を縦に振る沙夜。その表情は「よ〜し、忘れるぞ〜」という意気込みが強く表れていた。……まあ全力で忘れようとする、というのもおかしな話なのだが。


 2

「うう……」

「もしかして……眠い?」

「面目ない……、目がショボショボしてきた……」

「そんな、謝る事なんかないよ。今日はずっと運転しっぱなしだもん、アキヒト君が疲れるのも無理ないよ」

「そう言ってくれると……助かる……」

気を抜くとまぶたがどんどん落ちてくる中、それでも俺は何とか意識をハンドルと前方の道に集中させ、安全運転を心がける。
別に急いで先に進む必要はないのだが、地図を見る限りこの周辺に目ぼしい観光地はなく、そのままスルーする気でいた俺。それが自分でも気付かない内にペースを上げる事に繋がり、これまた自分でも知らない間に疲れが溜まっていたらしい。さすがにこの眠気は我慢出来なかった。

「悪い沙夜、この先どこか休める所があったら寄らせてもらうよ」

「うん、そうして。……別にちゃんとした休める所じゃなくても、車を停めれる場所ならそこで休んでいいから」

「……ありがと。優しいな、沙夜は」

「も、もうっ、急に何言い出すのよっ」

「ははは、照れてる照れてる。……ああもう、可愛いなあ」

「うう、からかわないでよ〜」

「心外だなあ。俺は本気で言ってるんだぜ?」

普段は恥ずかしくて口にしていない、面と向かって喋れない事を口にする俺。
こういう事を何の躊躇いなく言えるというのは、思考回路が相当単調になっているのだろう。

「……アキヒト君、早く休んだ方がいいよ。うん」

「ああ、じゃあそうしようかな……って、頼むからその哀れみの目で俺を見るのはやめてくれ」

「えー、だってアキヒト君、明らかに普段と違うんだもん。心配にもなるよ」

「そうか……、そんなに今の俺はおかしいのか……」

「うん。だから早く休んで欲しいな」

素直に自分の考えを俺に伝えようとする沙夜。ここまで直線的な言い方をするのは珍しい。……それだけ疲れるように、普段と違うように見えるって事か。

「わかった。……それじゃあすぐそこの路肩に止まるよ」

そう言って俺はウインカーを出し、軽くハンドルを左に切る。
移動した先は少し広めの路肩、その隣は防波堤と思われるコンクリートの壁があり、車はちょうどその日陰に入る形になった。今日は天気が良く日差しが眩しいので、直射日光を遮る場所で休めるというのは嬉しい。

「……ふわ」

エンジンを切ると同時に出るあくびをかみ殺しつつ、俺は現在の時刻を確認しようと沙夜の手を取り、腕時計に視線を移す。

「も、もう……」

恥ずかしがる沙夜。勿論こうしなくても時間を見る事は出来るのだが、何となく彼女に触れてみたい、スキンシップを取りたい衝動に駆られ、さも普通の動作のように手を握っていた。

「ア、アキヒト君って眠くなると少し人が変わるよね……」

「ん、そうか?」

「うん……、何か積極的になるというか、遠慮がなくなるというか……」

「そっか。じゃあ普段はかなり感情を押さえつけてるんだろうな」

「え……?」

「こんな可愛い女の子を連れてて、手を握ったりしたくない訳ないじゃん」

……うわ、何言ってるんだ俺。
そう心の中で、まだ疲れていない普段の俺が騒ぎ立てる。しかし悲しいかなその声は届かず、今俺の身体を支配している「疲れて遠慮がなくなった俺」は言葉を続ける。

「わわわわわ、そんな可愛いとか……っ」

「本当は髪の毛とかも撫でたい。ふざけあう感じでほっぺもむにむに揉みたい。でもやっぱ普段の俺は……」

「ふ、普段のアキヒト君は……?」

恥ずかしさ7割、その先の言葉が気になって仕方ない感が3割、そんな感じで沙夜が聞き返すのだが……

「普段のおれ、は――」

ぱたり

「え? へ?」

ここで俺の意識は完全に消え、また記憶も途切れてしまう。
どうやら疲れが最高潮に達していた事に加え、安心して眠れる場所に着いたと身体が察したのだろう。一気に眠気が襲ってきた。そして俺はその眠気に完敗し、そのまま運転席のシートに向かって倒れ込む。

意識が消える間際、俗に言う「落ちる」直前に見た時間、沙夜の白く細い腕に巻かれた腕時計が差していた時刻は午後3時半。暖かい日の昼下がりだった。


 3

「……ん、んん」

爽やかな風が、吹いていた。
いや、正確には吹き込んでいた、になるのか。

とりあえず俺は空いた窓から、5センチ程の隙間から入ってきた風に頬を撫でられて目覚めを迎えていた。
ちなみに俺は車の窓を開けた記憶はない。おそらく沙夜が気を利かせて開けてくれたのだろう。
日陰とはいえ、暖かい昼下がり。車の中は温室のような状態となり、かなり温度が上昇していたと思われる。その証拠に首筋には寝汗の後、服を掴んで胸元に空気を入れると、やけにひんやりとした部分があった。

「……ううう、よくねた〜」

背中を曲げ、両腕をやや後ろに伸ばす。パキポキッという音が鳴った。気持ちよかった。

……一体どのくらい寝ちゃったんだろ?

俺はまだ眠い目を擦りながら、自分の身体をペタペタと触ってはどこかにある電話を探す。

「……あ、そっか」

ズボンの前後、シャツの胸ポケットを存分に詮索した後、俺はそう言いながら後部座席に手を伸ばす。
昼飯を食べる時、それまで着ていた上着を脱いで車から降りた俺。その上着のポケットに電話を入れていた事を思い出し、俺は何とか時間を確認する事が出来た。
……まあキーを回してエンジンをかければ車に備え付けられていた時計が見れるのだが、それをしなかった辺り、俺はかなり車を運転する生活から遠ざかっていたんだなと自覚する。

「……あれ、まだ30分くらいしか経ってない……」

感覚的には、そして疲れの取れ具合から逆算するに、2時間は寝ていたと思っていたのだが、実際は1時間も眠っていなかったようだ。
とりあえず俺はポリポリと頭を掻くと、おもむろに手を伸ばしてドアを開けようとする。……助手席は誰も座っていなかった。

――バタン

「……」

車を降り、周囲を見渡す。沙夜の姿はない。

「……沙夜?」

急に不安になり、その大事な人の名を口にする。
寝起きだからか、まだ少し疲れがあるのか、頭の回転が鈍っている自覚があった。
そんな中……いや、そういう状態だからこそ、になるのか。俺は本心というか自分の一番奥底にある感情、シンプルで余計なものが一切ない感情が全面に出ていた。

……沙夜。

もしかしたらいなくなったのかも。
そんな不安がよぎる。

……沙夜に会いたい。

この旅が始まってからあれだけ一緒の時を過ごしていたのに、俺はもっと沙夜を欲している。自分でも驚くほど、俺の中の沙夜が占める割合が高まっていた。

ずっと一緒に。

最後まで。

そう願ったのは確かに2人共。
しかしその思いの強さは、求めている度合いは沙夜の方が強いと思っていた。

でも、それは違った。全然違った。

「……さ……ううっ」

もう一度、その名前を、大事な人の名前を口にしようとした。
しかし喉の渇きが、寝起き時特有ともいえる粘性の強い唾液がそれを拒む。
そして俺は何度も咳き込む。なぜか悔しさを感じながら。どうしようもない不安を抱きながら。

……沙夜、沙夜っ!

辺りを見渡す。右、左、右、左……と高速で。
だが沙夜の姿はない。普段であれば心地よいと思う風が吹いているだけ。
しかし悲しいかな、今の俺に風の心地よさを味わっている余裕はなかった。

……タッ

あてもなく歩き出す。その足取りは情けないほど弱々しい。
両足に力が入らない。理由は……よくわからない。こうではないか、という仮説は幾つかあるが、どれも確証はなかった。というか確証など求めていなかった。正解が出ては、答えを導き出してはいけない気がした。……本当にそうなりそうだったから。

……おいおい、何をそんなに不安になってるんだ?

ようやく普段の俺が、理詰めで物事を考えれる冷静な俺が目覚め、口を開く。

……そんな心配しなくても沙夜は俺の前からいなくならない。そんな素振りも見せなかったし、第一沙夜はそんなヤツじゃない。それはお前もよく判ってるはずだ。

「……」

確かに正論だ。俺が今まで考えていたネガティブな思考、沙夜がいなくなったら……とかいう考えにはない、事実に基づいた確かな根拠があった。

……ったく、いくら寝起きで頭が回ってないからって、自分が今誰よりも大事で、信じないといけない相手を疑うなんざ最低だぞ?

「……」

それは心の中にいる「別の俺」が喋っているのか、それとも自分自身に言い聞かせようとしているのか。途中からそれが判らなくなってきた。

「……」

しかし、それとは異なり、1つだけ確かなものが、とてもとても大事な事が判った。

「……ふっ」

……そうだ、それでいい。心の中は同であれ、沙夜の前では余裕たっぷりに振舞え。常に冷静に、それでいて優しく笑ってろ。

「ああ」

空を見上げ、俺はそう呟く。
その空は、俺の目に飛び込んできた空は高く、どうしようもなく綺麗だった。

「……あ、起きたんだ」

と、その時だった。
空を見上げた俺のさらに上から沙夜の声が聞こえてきた。

「……沙夜?」

「こっちこっち」

声に導かれるままに視線を動かすと、俺の背以上に高い防波堤の上に沙夜の顔があった。

「……沙夜」

「やっほー」

そこにはいつもの、それでいて俺が求めて止まなかった沙夜の笑顔があった。
撫でたいと思っていた髪を風になびかせ、触れたいと思っていた頬をほんのり赤く染めながら。

「どうして……そこに?」

我ながらピントのズレた問いだと思う。
海が見たいのだろう、風を浴びたいのだろう、日光の下にいたいのだろう。そんなの判りきった事じゃないか。

「アキヒト君もこっちにおいでよ。少し先に階段があるから」

「……あ、ああ」

「すっごい海がキレイだよー? はやくはやくー」

「……」

言われるまま、誘われるままに俺は歩き出す。
確かに最初の数歩は半ば強制的というか、「来いと言われたから歩く」的な意味合いが強かった。しかしそれはすぐに変わり、「向こうに行きたいから歩く」になる。
……それは当然の事。だってそこには沙夜が、常に隣にいたいと思う唯一の存在である沙夜がいるのだから。

……よかったな、いなくなってたりしなくて。……って、まあ沙夜が急にいなくなるなんて事はないんだが。

皮肉という名のスパイスを適度に効かせつつ、普段の俺が祝福にも似た言葉を俺にかける。

……ああ。

俺は素直に頷く。そして感謝の気持ちを自分自身に向ける。
それは傍から見ればとても滑稽な光景に、不可解なやり取りに映るかもしれない。でもそれでいい。いや、これでいい。

「わかった、今行くから」

そう言って俺は歩き出す。沙夜に向かって。
もう眠気はない。そして得も知れぬ不安もない。あるのは普段の光景、日常とも言うべき何気ない生活の一部分。

……確かに今の生活は世間一般で言うところの「日常」ではない。どちらかと言えば「非日常」に近い生活を俺達は送っている。

家を捨て、申し訳ないと思いながらも友を捨て、家族の縁も切り離した。
帰るべき家はなく、働きもせず、金が尽きるまで気ままな旅を続ける今の生活。
それはとてもじゃないが褒められたものではなく、真似していいものでもない。

しかし、そんな生活の中でも幸せは存在し、こんな生活の中でしか得られないものもある。
何が良くて、何が悪いか。それは簡単に答えを出せるものでもなく、また二元一次論で片付く問題でもない。

得るもの、失うもの、思い知らされる事、忘れてしまう事、限りなき自由、厳しい現実、追い求める理想、追いかけてくる問題……

そのどれもが表裏一体であり、自分達にとってベストと呼ぶに相応しい位置、適度なバランスはそれぞれ大きく異なる。

そんな中、俺と沙夜にとってベターだったものが、与えられた選択肢の中には存在せず、自分達で導き出した答えが、今の生活なのだ。

考えたくないが、この旅はいつか終わりが来る。そしてその旅の終焉が意味するものも痛いくらい判っている。
そして、この旅が次第に終焉に向かっている事も、悔しい事に、残念な事に、これでもかという勢いで自覚が強まっていた。

……でも。

「風が気持ちいーよー」

「だから今行くって」

「ははは。早くー」

後悔はやっぱりなくて、今がとても楽しくて。
沙夜といる事、一緒にいれる事が、楽しい事や嬉しい事やびっくりする事の全てを共有して、お互いの事をもっと分かり合って、この恒久であり有限な旅を続けていく事が――

「……俺の、全てなんだよ」

俺はそうポツリと呟く。勿論沙夜には聞こえていない。

……タタッ

防波堤の上に上がるべく、階段を登る俺。
鉄製の手すりはボロボロに錆びていて、これを掴んで進もうものなら、手が赤茶色に染まってしまうような状態。

――

「……うわ」

思わず声を上げてしまう。
登りきったと同時に、それまでとは比べ物にならない強さの風が俺の全身を包み込む。

寒くはない。むしろ気持ちいい。そして風もさる事ながら、目の前に広がる海が最高によかった。逆に思わず「何だコレ?」と言ってしまいそうなくらい、綺麗な景色が広がっていた。大パノラマとかいう言葉じゃ説明出来ないレベルだった。

――

風の音が聞こえてくる。それも絶え間なく。
力強く、まるで全力で駆けていくような風音。だが決して暴力的なだけではなく、どこか優しさが、何かを運び届けているような印象を受けた。

……そっか。

風も、旅をしてるんだな。

「……」

何となく俺達の旅に似てるかも。
俺はそんな事を考える。ふと気付くと、自分でも知らない間に右手を差し出し、その手のひらに風を集めていた。そして存分に風を感じ取っていた。

――

ひときわ強い風が吹く。
まるで俺の思いを、まとまりきれず、消化不良で燻っていた思いを奪っていくように。

「……くん、アキヒト君ってばー」

向こうからは俺を呼ぶ沙夜の声。風で少し聞き取りにくいが、俺を待っているのは間違いないようだった。

……この声も、沙夜が発した声も、風が運んでくれているのかもしれないな。

確かに少し途切れてはいる。しかし確かに沙夜の声は俺に届いた。ならばそれはやっぱり風のおかげ。あてなき旅を続けながら声や思いを運び届ける、風のおかげだ。

そう思えるようになった途端、俺はすっと軽くなった気になった。
軽くなったのは心か、それとも何か別のものか、それは判らない。
だが、非常に気分がよかった。

……沙夜も、同じなのかな。

この風を俺より長く浴びていた沙夜なら、きっと俺と同じ事を考えているはず、同じ考えに辿り着いたはず……

そんな事を考え、期待に胸を膨らます俺。

……行こう。沙夜の元へ。沙夜の隣へ。

ちょっと待たせすぎたかもしれない。もしかしたらちょっと怒ってるかもしれない。
あの柔らかい頬を膨らませ、謝りの言葉を述べるように見つめてくるかもしれない。

でもいい。それがいい。

……そう、それでいいんだ。

「いやー、スゲーなこの景色。風も最高」

「でしょでしょ? こんな綺麗な海があるのに、地図には何も書いてないんだもん。みんな損してるよねー」

「ははは、そうだな」

……いや、見つからなくてよかったよ。俺と沙夜だけのものにしたいじゃん?

そんな歯の浮くようなセリフを口にしかけ、寸前で止める俺。
もし言っていたらどんな手痛い反応が返ってくるか判ったものではない。くわばらくわばらである。

「……隣、座ってよ」

「ん」

言われなくてもそうするよ。
そんな表情を沙夜に向け、俺は沙夜の横に腰を下ろす。

「……いいねー」

「いいな」

沙夜と同じ視線で、同じ瞬間に、同じ景色を見て、同じ事を思う。
意外とそれは贅沢な事ではないのか、なかなか出来ない事ではないのか。ふとそんな事を考える。

「……何か、ちょっとおかしな言い方かもしれないけど、贅沢だね、こういうのって」

「……ああ」

何だ、沙夜も同じ事を考えていたのか。
そう思うと、何故かとても安心出来た。そしてこの上ない充実感と幸福感を得る事が出来た。

「実は俺も全く同じ事を考えてた。……だから全然おかしくない。沙夜の言ってる事は正解。少なくとも俺達の間ではそれ以上この状況を表現する言葉はない」

「……そっか、同じか」

「よかったな」

「うん、よかった」

すっ……とお互いの距離が縮まる。
どちらから、という事ではなく、本当にお互いが同じ距離だけ相手に近付いていた。

距離にして10センチ弱。決して遠くはないが、密着と言うには難のある幅。
しかしこの微妙な間隔、当人達にしてみれば意外とベストな距離だったりする。
その証拠に……

「あ……」

「……」

2人の間、微妙に出来たスペースの中で、お互いの手が重なる。
いや、正確には俺が意識的に沙夜の手に自分の手を乗せた。そして多少強引にその手を握り、ぎゅっと俺の手で包み込む。

「……もしかしてまだ半分寝てる?」

「いや、完全に起きた」

「そ、そっか……」

「……手、しばらくこのままでいい?」

「うん、いいよ。……って、そんな事いちいち聞かなくていいのに」

「ご、ごめん」

「うわー、そこで謝るー? ダメだよ、もっと堂々としてなきゃー」

「そ、そうか……。難しいもんだな」

「あはは、困ってる」

おかしそうに笑う沙夜。本当に楽しそうだった。
……くそう、俺をからかいやがって。

ぎゅっ

「あ、え? そ、その……?」

「ん? どうしたん?」

「い、いじわる……」

それまでとは一変、沙夜は顔を赤らめながらそう言うと、もじもじと身体を揺らし始める。メガトン級の可愛さだった。

ぎゅっ

だから俺は何も言わず、にぃぃと歯を見せて笑う。そしてもう一度、沙夜の手を握る力を強め、その反応を楽しむ。

「うううう……」

恥らいつつ、批難の目で見つつ、それでいて微妙に嬉しさも見せつつ……と、なかなかに忙しい反応を見せる沙夜。これまた可愛さメガトンクラスだった。

「……ははっ」

そんな沙夜の姿に思わず笑みがこぼれる俺。
だがそれは純粋に楽しさや喜びの感情から出たものではなく、先の自分が抱えていた……というか勝手に思い込んでいた不安に対して漏れたものでもあった。

どうしてあんな事を考えていたのか、焦燥感に駆られていたのか、今となってはよく判らない。というか終始判らず終いだったような気がする。
でもそれはもういい。今は安堵感に包まれ、そして沙夜の手を包んでいる。それでいいじゃないか、と思っている。

「……ふう」

自然に漏れるため息。しかしそれは決して後ろめたいものではなく、何度も言うように安心感から来るもの、それまで無駄に張り詰めていたものが抜けていくような、そういう意味合いから来るものだった。

「うー、何か1人で笑ったりため息ついたり……」

「ごめんごめん」

「また変な事しようとしてるんじゃないよね?」

「しないって。それに「また」ってどういう事だよ」

「だ、だって急に手を掴んできたりとか、そういう事今までなかったし……」

「イヤ?」

「い、いやな訳ないでしょ」

「……素直だなあ」

自然に伸びるもう一方の手。俺は無意識の内に沙夜の頭に触れ、そのまま優しく後頭部を撫でていた。

「ひゃっ」

「あ、くすぐったかったかな?」

「ううん、そういうんじゃなくて……その、驚いたというか、何というか」

「安心して。ただ撫でるだけだから」

「……うん」

コクリと頷く沙夜。どうやら俺の言葉を信じてくれたようだ。その証拠に強ばっていた肩も普段のそれに戻り、表情も髪を撫でられて気持ちよさそうに笑っている。凄まじく嬉しかった。

「……でもどうしたの? 何かアキヒト君らしくないような……」

「ん、まあ色々と思うことがあってさ。1人で暴走して、1人で勝手な決め付けをして、そのまま訳がわからなくなって……って事が今さっきまでの短い間にあった」

「……」

「でも解決した。っていうか沙夜が解決してくれた」

「え、わたし?」

少し目を大きく開き、意外そうな顔をする沙夜。
しかし俺の顔を、そして目をしばらく見つめると、何かを理解したように軽く頷き、ちょっとだけ誇らしげな表情を浮かべて笑いかける。どうやら自分で答えを出し、その答えに満足しているようだった。……きっと沙夜が出した答えは正解だろう。俺と同じ事を考えてくれているに違いない、そう思えてならなかった。

「……嬉しいな、初めてアキヒト君の役に立てたような気がする」

「おいおい、何を言い出すんだよ。沙夜はずっと前から俺の――」

「違うの」

「……」

強めの口調で俺の言葉を遮る沙夜。別に悪気がある訳でもなければ、必死に止めようとした訳でもないだろう。ただ、どうしても先に言っておきたい事があったのだろう。この後続くであろう俺の言葉を察し、否定したかったのだろう。
……沙夜の口調、そして目は、思わず喉を鳴らしてしまいそうになる程険しく、また凛々しくもあった。

「忍び込んだ別荘でご飯を作ったとか、地図を見ながら道案内をしたとか、私が言う「役に立てた」っていうのは、そういう事じゃないの」

「……」

「支えに、なりたかった……」

「ささ……え?」

「なくてはならないものに、アキヒト君の中にずっといられるような、大事な役割を果たせる人に、なりたかった」

「それは――」

「ダメ」

冷たく、いや、これは冷たい反応なのか?
沙夜の反応は非常に判り難く、それでいて本人も取るべきスタンスを探っているように見えた。
跳ね除けるような冷たさではない。きっと今何か言われると、沙夜の過去を肯定するような事を言われると、固まっていたものが揺らいでしまう……
そう思ったのかもしれない。沙夜は相当悩んでいた。とりあえずそれだけはよく判った。痛いくらい判った。

「……今まで、私はずっとアキヒト君に支えられてきた。こうして私が楽しく生活していられるのも、こんなに充実した毎日が送れているのも、全部アキヒト君がいたから、アキヒト君が私のために色々してくれたからなの」

「……」

「……迷惑かけっぱなしは、痛いよ。胸がズキズキするよ……」

「沙夜……」

「ずっとしてもらうばっかりは、悪いよ。どんどん甘えちゃう自分が怖いよ……」

「……」

ああ、そうだったんだ。
と、思った。最初に浮かんだ感情はそれ。
そして次の瞬間には「……ったく、バカだな、沙夜は」という言葉を、普段であれば山盛りで添えるはずの毒気が全くない言葉を心の中で口にしていた。

ぎゅっ

「……あ」

「……」

ぎゅ〜〜っ

「ア、アキヒト……君?」

「……」

俺は何も答えない。口を開く代わりに掴んでいる手を握るだけ。
何かすぐに言葉を口にしてはいけないような、何かを喋るだけ野暮のような気がしてならない空気と空間が、そこにはあった。

「……」

「……」

「……喋っても、いい?」

「う、うん」

「よかった」

しばらくの沈黙の後、極力優しく話しかけた俺の言葉に沙夜が反応してくれる。
もう口を開いた瞬間に否定の言葉を吐かれる事はないように思えた。だから俺は安心して言葉を続ける。

「……お互い様、だと思う。そういうのは」

「え……?」

「俺も、その……相当助かってるから、さ」

「……」

「だからあんま1人で深く考えるのはやめなよ。そういう時って、どうしても後ろめた〜い考えに陥りがちになるから」

「……うん」

「そ、そんな時は、遠慮せずに俺に喋って欲しい。何も役に立てないかもしれないし、アドバイスなんて偉そうな事も出来ないかもしれないけど、それでも一生懸命話を聞く事は出来るから。悩みであったり不安であったり、そういうのは一緒に共有して、1人の負担を減らしていく事が出来るからさ」

「うん……、うん……」

少し泣きそうな顔で何度も何度も、俺の言葉の節々に合わせて頷く沙夜。
その表情は確かに瞳に涙を溜めていたが、悲壮感は微塵もなかった。……うれし泣き、だった。

「いい事、楽しい事は共有しても減らない。でも辛い事、大変な事は共有すると負担が減る。そういうものだと俺は思ってる」

「うん」

「俺は沙夜の負担を全て抱えたい。沙夜にはずっと笑っていて欲しい。その笑顔さえあれば、俺はどんな重さだって耐えられる。耐えてみせる」

「うん」

返って来る言葉はずっと「うん」の一言。
しかしその全ての「うん」には異なる感情が、その時その時で感じた想いの全てが込められていた。俺はそれを存分に感じ、察し、理解する。
……ああ、俺は今、沙夜と本当に判り合えている。そう思えてならなかった。そしてそれが嬉しくて仕方なかった。

「俺は沙夜が望む事の全てを叶えたいと思ってる。だから沙夜は遠慮せずにお願いしてくれていい。頼ってくれていい。甘えてくれていい。おねだりなんかしてくれると相当嬉しい」

「お、おねだりって……もうっ」

「報酬はその照れた表情、恥ずかしそうな笑顔、満面の笑顔、それで十分だから。「ありがと」って軽く言ってくれるだけで、手を握ったり腕を組んだり、そ、その……ほっぺでも口でもいいから、キ、キスなんかしてくれると、スゲー嬉しい」

「は、恥ずかしい事を言うんだね、アキヒト君も……」

どうやら俺は思った事をストレートに、包み隠さず正直に言いすぎたようだ。沙夜は顔を真っ赤にして俺を見る。それもやや伏し目がちに。
ちなみに手はまだ握ったままの状態。2人の距離は……結構近い。かなりのドキドキものだった。というかよくあんな事を言えたな、と今になって自分の言動の恥ずかしさに気付いた。……うわ、ヤベ。俺の顔も赤くなってるっぽい。

「あはは、照れてる〜」

「う……」

やっぱりバレるか。まあそりゃそうだろうな。
俺は特に良い訳もせず(言葉には詰まったが)、バツの悪そうな顔を浮かべながらも視線は沙夜から外さない。というか外したくなかった。

……が、何というかその恥ずかしいのはやっぱりある訳で、俺は照れ隠しの意味も含め、話題を変えてみる事に。

「……まあしかしアレだな」

「?」

「今日は普通の、それこそこの旅が始まって一番変化のない日になると思ってたのに、かなり色々あったな」

「そ、そう、だね……。あははは」

「ただの移動日、ひたすら車を走らせれるだけ……だと思いきや、結構な非日常っぷりを発揮したというか、恥ずかしイベントをこなしてしまったというか……」

「うん、まさかこうなるとはね。私も予想外」

「っていうかその「恥ずかしイベント」、今も思いっきり継続中だったるすんだけどね」

そう言って俺は握ったままの手を沙夜の視線まで上げ、ここでまた少しぎゅっと掴む。

「〜〜ッ」

ボボン! という効果音が聞こえそうな勢いで顔を真っ赤に染める沙夜。
別にそこまで反応せんでも……という気も少なからずあるが、まあここはスルーの方向で。

「……ま、今の俺達にしてみれば「平穏無事な1日」なんてのは無いからな。毎日が普通の人とは違って、日常の概念もちょっと違う」

「確かに」

おかしそうに笑う沙夜。きっと今までの生活を思い出しているのだろう。
まあ普通に生活してるヤツは別荘にも忍び込まないだろうし、こんなアテのない自由極まりない旅も出来ない。

俺達の今いる位置……というか立場的なものはあやふやだったりする。存在が稀薄とも言えるだろうし、脆いとか危ういとかいう言葉で表現されても仕方ない。

それが俺と沙夜の「今」であり、「日常」であり、「全て」でもある。
この全てが非日常の内で展開する、たった2人だけで構成された世界。それは狭く、ひどく閉鎖的なものかもしれない。しかし、それでもこの生活が、こんな日常が、今の俺と沙夜の居場所であり、唯一の存在意義や価値を見出せる場所なのだ。

後ろめたさはまだ感じない。息苦しさもまだ感じていない。
今はまだ楽しい。楽しくて仕方ない。沙夜だってきっとそう思っているだろう。

その訳は、そう思えてならない理由は――

「……風、気持ちいいね」

「ああ。それに沙夜が隣にいるってのがまたいい」

「も、もう、アキヒト君ったら〜」

こんなにも近くに、とびっきりの笑顔がある。
疑う理由も、必要性も、そこには微塵も存在しない。

こうして、手を繋いでいるから。お互いの気持ちや考え、息遣いまで感じられる距離にいるのだから。

……そう、俺達は解り合えているんだ。
そしてもう後戻りも出来ない。その先に何が待ち構えていようが、もう前に進むしかないんだ。

「いい風だね」

「ああ」

ふわりと2人を撫でる風が吹く。まだ肌寒さは感じない。

「……でもやっぱ1人だったら、ここまで気持ちいいとは思わないんじゃないかな?」

「……そう、かもね」

ぎゅっ

「やっぱこうして2人でいるから、一緒に風に吹かれて、一緒に風を感じて、それ以上に相手の温もりを感じていられるからこそ、こんなに気持ちいいと思うんだ」

「うん」

す……ぱたっ

それは沙夜が頷くとほぼ同時の事だった。
俺はタイミングを見計らっていたかのように、その時を待ち構えていたように身体を倒し、そのまま沙夜の元へともたれかかる。それは俗にいうところの膝まくらというヤツだった。

「え? えええ〜〜っ!?」

ぱふっという軽い音。そしてふぁさっという髪の音。俺は沙夜の許可も取らず、彼女の太もも付近への潜入を行い、見事ミッションを遂行する。
初めての膝まくらだった。気分は……言うまでもなく最高だった。

「……う〜ん、やってみたかったんだよね、これ」

「そそそ、そんな、いきなりだよ……」

「じゃあ前もって宣言してたらしてくれた?」

「ううう、それは……」

「でしょ? だから奇襲をかけてみた。そして作戦は成功しました」

「き、奇襲って……」

そう言うと沙夜は「恥ずかしいよぅ」と小声で呟き、さらに何かを口にする。
残念ながら何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、とりあえず照れてはいるが悪い気はしていないようだった。

「あー、風と沙夜の太ももの感触が気持ちいいなー」

「ちょっ、そんなこと言わないでよぅ」

すりすりすり……

「やんっ、ダメだってば、暴れないでよぅ〜」

……ぴた

「暴れなければしばらくこうしてていい?」

動きを止め、下から覗き込むように沙夜の顔を見つめながらそう聞く俺。
自分でもかなりズルい事を言っているな、意地悪な質問だな、とは思う。でも言ってしまったものは仕方ない。こうなったらもうとことんやるしか!

「……もう、ずるいよ……」

そんな否定とも肯定とも取れる言葉を口にする沙夜。しかしその言葉と共に、すっ……と手が伸ばされ、その指先が俺の髪の毛に触れる。
沙夜は照れ笑いを浮かべながら、そしてぎこちない手つきながらも、俺の頭を優しく撫でてくれた。これには俺も思わず身体がビクッと動いた。予想外の展開だった。

「……どう? 気持ちいい?」

「お、おう」

「よかった」

そう言って微笑む沙夜の顔には「もう、仕方ないなあ」という諦めにも似た感情が、そして聞き分けのない子供をあやすような表情でもあった。何かちょっち恥ずかしいぞ。

「そっか、気持ちいいんだ。ふ〜ん」

ふふっと笑う沙夜。今まで見たことの無い視点から見る彼女は……やっぱり可愛かった。風にたなびく髪がさらに高ポイントだった。そして何より、太ももが柔らかくて暖かくて最高だった。

「……で、前からしてみたかった、と」

「まあな。膝まくらは男のロマンだからな」

「へ? そうなの?」

知らなかった、といわんばかりの表情を見せる沙夜。
まあ確証はないが、きっと相当な支持や賛同を得れると俺は思っている。……だってマジ気持ちいいし。

「膝まくら+耳そうじとか、膝まくら+そのまま昼寝+起きたら笑顔で「おはよう」とかは全部男のロマンだ……と俺は思う」

「うわー、なんかやらしいなあ」

「どこがだよ」

「直接エッチじゃない所が逆にいやらしい、みたいな?」

……う〜む、鋭い。
俺は沙夜が口にした言葉に対し、何も言い返せずに黙ってしまう。
まあ確かにフェチズムというか妄想の産物というか、今俺が挙げた行為なりシュチュエーションは少なからずそういう部分はある……かもしれない。
でもそこがいいのですよ、とか思ってみたり。

「……ま、そういうのがいいんだろうね、男の人って」

「……よくわかってらっしゃる」

「うふふっ」

なでなで、さわさわ……

沙夜は強弱をつけながら、そして微妙に場所をずらしながら、俺の頭を撫で続ける。願わくはいつまでもしてもらいたい気分だった。

「本当に気持ち良さそうだね、アキヒト君」

「ああ、たまらんのうって感じだ」

「うわー、おやじだ……」

ジト目で俺を見る沙夜。しかしそれは冗談……というかすぐに終わり、再び優しい目に戻っては俺の髪を手ぐしでとかす。

「でも嬉しいな、こんなに気持ちよさそうにしてくれるんだもん。ちょっと恥ずかしいけど……膝まくらっていいかも」

「じゃあ……」

「うん、アキヒト君が満足するまで膝まくら、してあげる」

そう言って沙夜はまるで子供を寝付かせるように、とん……とん……と、優しく頭に手を乗せてくる。超和んだ。

「ありがと。……今度お返しに俺が膝まくらするよ」

「うん、その時はお願いね」

照れも恥じらいもなく、笑顔でそう答える沙夜。どうやらする側ではなく、膝まくらをされる側にもなってみたいようだった。……その気持ちは判らなくもない。というか今なら誰よりも判るような気がする。

――と、こうして俺は地名も判らない、何の変哲もない防波堤の上でしばらく過ごす事に。勿論その間はずっと沙夜に膝まくらをしてもらいながら、心地よい風を浴びながら、だ。

綺麗な景色を俺と沙夜で独占し、まるで世界にはこの2人しかいないのでは? という錯覚に陥りそうになる俺。
確かに後ろを振り向けば道路があり、決して台数は多くないが車も走っている。
しかし、海から吹く風は背後の雑音を俺達から遠ざけ、振り向きさえしなければ世界は俺と沙夜のものだった。

それがどうしようもなく気持ちよくて、誇らしく思えて、それでいてほんの少しだけ切なかった。

「……」

「……」

さわさわ、なでなで……

「……」

「……」

ぎゅっ

「……なに?」

「なんでもない」

膝まくらをしたまま、でもお互い片手は握り合ったままで。
頭を撫でてもらいながら、時折どちらからとなく繋いだ手に少し力を入れて、言葉少なめに会話を交わして……

それはこの旅が始まってから、一番時間の流れがゆったりと進んでいるように感じた瞬間だった。
こんなにもゆっくりとした時間の流れがあったなんて、こんなにも穏やかに進む世界があったなんて俺は知らなかった。

……そして俺と沙夜は空が赤く染まるまで、海が真っ赤に色付くまで、防波堤の上で過ごした。

無駄な時間だとは思わない。思える訳もない。
こんなに充実した時間はなかった。得るものはたくさんあった。

普通に過ぎ去っていくと思われた時間、そして道。しかしそのどちらも俺達にかけがえのないものを与えてくれた。

……そう、やはり俺達には「退屈な日常」など、「普通の生活」など存在しなかったのだ。あり得なかったのだ。

嫌な気持ちはこれっぽっちもない。怠惰に過ぎ去る時間や変化のない生活に未練はない。懐かしさを感じる事もない。

今が、最高だった。
沙夜と2人で、2人だけで形成して創造する今の生活が、今の世界が、俺には最高に思えてならなかった。

恒久を望んではいけない世界ではある。いつしか劇的な幕切れを迎える世界ではある。

……しかし、この世界こそが、俺の居場所であり、沙夜の居場所であり、俺がその存在意義を見出せる場所であり、沙夜が笑っていられる場所であり、2人の全てだった。

願わくはこのまま、そんな事を考えずにはいられない……

今日という日は、この防波堤で手を繋ぎ合い、膝まくらをした日は、そういう事を強く思わせ、考えさせる1日だった。

……それはまるで、これから訪れる暗転の日々をある意味予測していたように。
悪戯に束の間の幸せを与えたのか、それとも立ち向かうだけの強い繋がりを与えたのかは判らないが、とりあえずこの日が大きな転機だった事は間違いなかった。




第4章「月の満ち欠け、潮の満ち引き」

 1

――旅を始めてから1ヶ月以上が経過していた。

俺と沙夜の失踪はさすがに社会的にも問題……というか話題になり始めているらしく、まだ1回だけではあるが昼のワイドショーで取り上げられていた。

事件? 事故? 本人の意思? 誘拐?

そんな憶測だらけの構成は、まさにショーと呼ぶべき無責任と興味本位と煽りに満ちていた。最初は怒りもあったが、最後にはそれを通り越して笑えてきた。
やはりこの国は平和で、俺達の失踪もそんな退屈を紛らわせすだけの1要素でしかないようだった。
……まあその方が助かるのだが。

ちなみにテレビに取り上げられたといっても、俺と沙夜はそれぞれ別件として、である。たまたま同じ時期に失踪した、というだけで一括りにしていたのだが、当の本人達にしてみれば「まさかバレてる?」と、多少焦ったりもした。

しかしさすがに……というか当然というか、年齢も住む街も異なり、ほとんど共通点も無い俺と沙夜を結び付けて喋るコメンテイターはおらず、俺達の安全度はまだまだ高いと思われる。

さらに運のいい事に、公開された2人の写真は結構前のもので、今の俺達を見てすぐにピンとくる人は少ないように思えた事。
あの写真では実際に並べて見るでもしない限り、バレるとは思えなかった。そして何より、そんな失踪した2人が一緒になって旅をしているとは誰も考えないだろう……
そういう決め付けにも似た自信、根拠はないが大丈夫、という思いが俺と沙夜と中にはあった。

……そう、テレビで取り上げられた事はまだ大した痛手でも、悩みのタネでもない。
だが、今の俺達には……いや、俺には、これとは比べ物にならないだけ大きな問題が、忌々しき事態と言うに相応しい問題が起きていたのだ。

「……」

「……」

快適に道を走る車。今日も天気はいい。
しかし、そんなドライブ日和な中にあって、車内は妙に静まり返っていた。というか息苦しさのようなものすらあった。

「……あ、あの」

「ん?」

沙夜の言葉に極力優しい反応を見せる俺。それは懇意の人間に対するものではなく、どちらかというと腫物を扱うような感じだった。……本当は俺だってこんな事はしたくないのだが。

「申し訳ないのですがその……少し休める場所があれば寄って頂きたいのですがよろしいでしょうか?」

「……わかった。ええっと、喉でも渇いたのかな?」

「い、いえ、そうではなくて、ちょっと……」

「……あ」

しまった、と思った。
妙にモジモジした態度、歯切れの悪い言葉……。それは単に話しかけにくい、という理由の他に、言い出しにくい内容である事が伺い知れた。……まあそれに気付くのが少し遅くなってしまい、余計に気まずくなってしまった訳だが。

……トイレ、か。

少し前の沙夜なら、多少の照れや恥じらいはあったものの、普通に「ゴメン、ちょっとトイレ」と言っていたのだが……

いや、それは違うな。
と、俺は自分の心の中で呟いた事に対し、自身で修正を入れる。
……正しくは「この状態」の沙夜でなければ、と。

 2

あの防波堤で夕日を見た日から数日後、沙夜の身にちょっとした事件が起きた。
それはいつものように適当な店を見つけ、昼食を摂ろうとした時だった。
いつもは混雑する時間帯を避け、2時近くになってからランチタイムにしていたのだが、その時はちょうど2人共空腹で、さらに「ここを過ぎると食事が出来る店がない」という感じの道を走っていたため、ピーク時である事を承知の上で店に入った。

まあ当然店の中は結構な混雑っぷりで、俺達は大きなテーブル席に座り、半ば相席のような形で食事が運ばれてくるのを待つ形に。
その間、俺は沙夜と一緒に週刊誌やマンガを読んでいたのだが、その中の大衆紙に沙夜の記事が載っていたのを発見してしまう。記事は小さく、ページを埋めるために書いたとしか思えない適当な内容、テレビでやっていた事をそのまま移し書きしたような文面だったのだが、無駄にご丁寧な事に写真を数枚掲載してやがった。……しかもどこから手に入れたのか、テレビで流れていた写真ではなく、「この写真と見比べられたら一発で判るよね」レベルの写真が載っていた。

それを見た俺は当然驚き、大慌てでその雑誌が他の人の目に触れないよう、別のページを開いたまま手元に置く事に。
しかし一番驚いていたのは俺ではなく、勿論の事ながら沙夜本人。まあ未成年である事、そしてまだ事件と認定された訳ではないので本名までは掲載されていなかったのだが、それでも誌面に自分の事が書かれ、さらに写真まで載っていたのはかなりのショックだったようだ。
以降、沙夜は終始怯えた様子で店内をしきりに見回すようになり、俺が小声で必死に「大丈夫」と言い続ける事で何とか落ち着く、という状態に。

もうこの時点でかなり精神的にヤバイのだが、さらに追い打ちをかける事態が起きた。どうやらその雑誌は最新の号らしく、テーブル席の向かい側に座っていたオッサンが「読み終わったなら貸せ」と言ってきた。
さすがに数分間ページをめくらず、ほとんど誌面を読んでいない状態で「まだ読んでます」とも言えず、俺はバレない事を願いながらその雑誌を渡した。

その瞬間、「……どうして渡すの?」という声が、狼狽したまま俺の服の裾をグッと握ってくる沙夜の姿があったのだが、俺はこれが最良であると言い聞かせつつも、顔をあまり見せないよう常に横を見るように言った。

雑誌を渡して数分で頼んだ料理が運ばれたのだが、俺はこんなに長い数分を体験したのは初めてだった。本当に長く感じた。そして沙夜は俺以上に長く感じているのだろうと思った。不憫で仕方なかった。

こうして俺達は急いで店を出るべく、それでいて店の人や客に不審に思われない程度に時間をかける、という矛盾に近い条件を課し、パパッと食事を終えようとするのだが……

「……はあ」

と、ここで回想を一旦止め、思わず大きなため息を吐いてしまう俺。
隣に沙夜がいなくてよかったと思う。

「……ジュースでも買うかな」

そう言って俺はドアを開け、自販機を探して適当に歩き出す。
……ここは沙夜に言われ、偶然立ち寄った道の駅。地名は覚えていないが、そこそこの大きさだった。沙夜は車を止めるなりすぐにトイレに向かい、周囲に今いるのは俺一人。やはり平日というのは人が少なくていい。……特に沙夜があの状態の時は。

「……ったく、あのオッサンさえいなければ……」

チッと舌を鳴らし、どうしようもない感情を表に出してしまう俺。こんな態度は沙夜の前では見せられない。……自分でも知らない間にストレスが溜まっているのかもしれない。

 3

――沙夜が載っている週刊誌を見つけてしまったあの日、あの食堂の中。
俺は運ばれてきた熱々の料理を必死に、舌が火傷しても構わない勢いで平らげていった。そして完全に食欲の失せた沙夜の分も食べた。最低でも半分は食べないと不審に思われる……、そんな考えが俺の中にあった。

するとそんな俺達の様子に気付いたのか、問題の週刊誌を読んでいたオッサンが何回かこちらに視線を向けてくる。
勿論それはアホのような勢いで食事を平らげていく俺を見ていたのだろうが、周囲の動きに過敏になっていた沙夜は自分が見られているものだと、完全にバレたと思い込み、ますます気が動転してしまっていた。
結局俺は周囲にどう思われようと、早々に店から出た方がいいと考えを変え、早々に退散。何とかバレずに済んだのだが、この時に沙夜が感じた焦りや恐怖は相当なもので、車を走らせてからもしばらくはブルブルと震えていた。

……そしてその日から、沙夜は明らかに変わった。言葉は悪いが、おかしくなったと言っても過言ではなかった。

まず突発的にその時の恐怖がリフレインするようになり、急に取り乱すという症状が出た。……また、あの時と似た状況、混雑している飲食店に入っても同じように取り乱してしまう事が何回か起きた。

勿論俺も何とかしようとしたし、取れる限りの対策も施した。必死に安心させ、何度も「大丈夫」と言い聞かせ、日々の行動もそれまで以上に混雑を避け、人の多い場所には立ち寄らないようにした。

……しかし、それでも駄目だった。
沙夜の様子は僅かずつではあったが、それでも日を追う毎に確実に悪化の一途を辿っていた。

そして今、沙夜は俺と最初に会った時のような振る舞いと、しばらく経って仲良くなった時に見せる振る舞いを繰り返すようになった。

どこか他人行儀というか、遠慮がちな行動なり言動が目立つようになったかと思えば、元気と笑顔を振りまきながら甘えてきたり意地悪してきたり……と、極端な変化を見せていた沙夜。その周期は不定だが、明らかに別の性格に切り替わる様子はさすがに見ていて不安を覚える。

そりゃあ俺にも少なからず気分のいい日と悪い日というのがあり、他人状態となった沙夜の相手をするのが辛いと感じる時もある。外見は全く同じでも、前に話していた事を「覚えていない」と一蹴され、「あまり話しかけられても……」という目で見られると正直堪える。

さらに問題はそれだけではない。今後の事で選択を迫られる場面、少し前までなら一緒に考えて決めていた事を全て自分1人で決定しなければならないというのはなかなかに厳しいもので、それまでは相談してお互いが納得して決めていたものが、後になって「そんなの聞いてないよ」とか「あっちの方がよかった」と言われると、思わず言い返してしまいそうにもなる。

選択を迫られる場面において、常に沙夜の状況が「普段モード」だと助かるのだが、そうは上手く行かない。
「他人モード」もしくは「初期モード」の沙夜は基本的に自分から意見を述べない。そして俺の決めた事に対して賛同も反対もしない。これは厳しい。というか虚しくなってくる。

「……」

何か楽しくなくなってきたな、最近……

金を入れた自販機の前、俺は全点灯しているランプをぼんやり眺めながら、ふとそんな事を考えてしまう。

……ダメだ、ここで俺が弱気になったらお終いだ。きっと沙夜は元に戻る。……いや、俺が元に戻してみせる!

ブンブンと首を振り、弱気になっている自分を戒め、ネガティブな思考を捨てようとする俺。

「みーつけた!」

「うおっ!?」

……と、その時だった。俺は両肩にズシリと負荷がかかり、思わず前のめりになってしまう。

振り向くとそこにいたのは沙夜。それもさっきまでの沙夜ではなく、いわゆる「普段モード」の沙夜だった。

「もう、探したんだからね。車に戻ったらアキヒト君がいないんだもん、ビックリしちゃったよ」

「……」

「あれ? 無反応……」

不思議そうに俺の顔を見つめる沙夜。「見つめる」というか「覗き込む」に近いその仕草は、俺と一緒に旅を続けてきた沙夜そのもの。俺が常にこうであって欲しいと望んでいる沙夜だった。

「あー、ごめんごめん。何かボーッとしちゃってさ。……う、うん、コーヒーでも飲もうかなー?」

「大丈夫? 眠かったらここで少し休んでもいいんだよ?」

俺の事を気遣い、沙夜は心配の眼差しで見つめてくる。ちょっと前なら当たり前の反応、それが自然であり普通だった事を考えると、思わず涙が出そうになった。喉の奥が妙に熱くなった。

「……ううっ」

「ちょっ、どうしたのアキヒト君!?」

「だ、大丈夫だから。ちょっと……ううんっ!」

不自然な咳払い、そして不必要なまでに目を逸らし、何事もなかったかのように自販機のボタンを押そうとする俺。
しかしコーヒーを選ぼうと指がボタンに触れた所でランプが突然消え、直後に「カシャンカシャン」という音が。金を入れてから時間が経ちすぎ、自動的に落ちてきてしまった。

「おっと……」

ったく、何をやってるんだ俺は……
そんな愚痴とも自嘲とも取れる言葉を心の中で呟きながら、釣銭を取ろうと腰を曲げる。
そして小さな取出し口に指を入れようとした瞬間、横からサッと腕が伸び、俺より先に小銭を取る。勿論その手の主は沙夜だった。

「おいおい、何してるんだよ。そんな事しなくてもジュースくらいおごる――」

「何してるの? それはこっちのセリフだよ」

俺の言葉を遮る、とても強い口調。
沙夜の顔は、真剣そのものだった。そして何かしらの強い意志が見て取れた。

「どうしたの? 何かおかしいよアキヒト君、変だよ……?」

「……」

黙ってしまう俺。
いや、黙るしかなかった、と言うべきか。

……一瞬、ほんの僅かだが、カッと頭に血が登りそうになった。

『変なのはどっちだよ!?』

思わずそんな言葉が脳裏をよぎった。しかしそれは口を動かす前に止める事が出来た。俺はまだギリギリの所で正気を保てていた。「言ってはいけない事」を、「発したら全てが終わってしまう言葉」をしっかり判っていた。

……本当にギリギリではあるが、まだ俺は足を踏み外していない。崖に転落はしていない。それが唯一の救いだった。

「ねえ、もしかして私のせいなの……?」

「そ、そんな事は――」

「嘘」

「……っ」

「こういう時、アキヒト君はためらう事なんかなかった。詰まる事なんか、なかった……」

「……」

痛かった。沙夜の口から発せられる全ての言葉が痛かった。
そして何より、自分に腹が立っていた。あまりの不甲斐なさに、覚悟の悪さに、大切な事を言い淀んでしまった事に怒りすら感じていた。

……クソッ、この大馬鹿野郎!!

心の中でそう叫んだ。顔面を殴った。
でもそんな事をしたからといって何かが変わる訳もなく、目の前にいる沙夜は……震えていた。

「ごめん、ね」

「……どうして、謝る?」

「わかんないよ、わかんないけど……」

「理由もないのに「ごめん」なんて言うんじゃない」

「違うっ、理由がないんじゃない、私が判らないだけで理由はきっと――」

ガバッ

「……え?」

一瞬の出来事。沙夜は何が起こったのか判らない様子で、間の抜けた声を上げるだけ。

……俺は、沙夜を抱きしめていた。

まず手を取り、乱暴に引き寄せ、力一杯両腕で沙夜を抱きしめる。
これ以上言葉で何を言っても無駄、余計に不信感を募らせてしまうと思った。このままでは不用意な言葉で沙夜を傷付けてしまうと思った。

だから、俺は全ての感情を込めて、沙夜への想いの全てを込め、沙夜に抱きついた。

「……」

「……」

チャリ、チャリン……

沙夜の手からこぼれ落ちたであろう小銭の音が聞こえる。
突然の事すぎて思わず手の力が抜けたのだろう。

ぎゅううう

「……」

「……」

強く、強く抱きしめる。
その中には「ごめんよ」という気持ちもある。心配させちゃったね、不安だったよね、という気持ちは強く、俺はそれらの思いを払拭させようと抱きしめる。

……でも。

真意は別にあった。確かに申し訳ない気持ち、謝罪ともいえる気持ちはある。しかも相当に強く。

でも、それ以上に、俺の中にある気持ちは……

「……アキヒト君……」

「……沙夜……」

お互いがお互いの名前を呼ぶ。沙夜の声は少しくぐもっていた。

「……ごめん、苦しい?」

「ううん、大丈夫」

「そっか」

「うん、ちょっと驚いただけ。……こんなに強く、ぎゅっと抱きしめられた事なかったから」

「そ、そうか……」

ここでようやく俺は少し冷静さを取り戻し、少し両腕の力を抜こうとする。
だがその動きを察したのか、それより先に沙夜が俺の背中に手を伸ばし、逆に抱きついてくる。
それは俺に「力を抜くな」と、「このままの状態でいて」という意思表示を何よりも強く伝えてくるものだった。

「……」

「……うん、わかった」

俺はそう呟き、緩めかけていた両腕を再び強く沙夜に巻きつける。
すると沙夜はそれに答えるように、呼応するように俺に回す腕の力を強める。

「……」

「……」

しばらく続く沈黙。しかしそれはさっきまで車内に漂っていたものとは違い、息苦しさはどこにもなかった。むしろ気持ちよかった。言葉を交わさなくても肌で判り合える、それを俺達は実践して実感していた。

「……あはは」

「ん? どした?」

ようやく沙夜が口を開く……というか恥ずかしそうに笑い出す。

「さすがにちょっと照れ臭いね、この体勢は」

「……まあ周りに誰もいないとはいえ、少し恥ずかしい感はあるよな」

「しかも抱き合う場所としてはビミョーだし」

「ああ。なんてったって自販機のドまん前だからな」

「あはははは……」

本当に楽しそうに、心の底からおかしそうに笑う沙夜。
そこにはさっきまでの他人行儀な、違和感で俺が狂ってしまいそうな沙夜ではなく、俺が好きになり、自分の全てを捨てて助けようと、一緒になろうと思った沙夜がいた。旅をしていく内にもっともっと惹かれ、好きになり、全ての後悔を消し去ってくれた沙夜がいた。

ぎゅっ

……ぎゅっ

俺が沙夜を強く抱きしめると、その後を追うように沙夜が俺を強く抱きしめる。
最高に幸せな気分だった。さっきまであった不安はもう無かった。どこかに飛んでいってしまっていた。

「……ごめんね、アキヒト君」

「何を謝る事があるんだよ」

「……私、最近おかしいんだんよね? アキヒト君がおかしくなってたのは、私がおかしくなってたからなんだよね?」

「……」

どう言えば、どう答えればいいのだろう。
俺はその核心を突く沙夜の問に戸惑いを見せてしまう。

本当の事を言うべきなんだろうとは思う。
「うん、そうだ」と言う事が逆に沙夜のためになるのでは? と考えてしまう。
そして俺も、その場凌ぎの偽りの言葉を吐くより、本当の事を言ってしまった方がいいと思う。その方が誠実で、後悔もないと思う。

……でも、俺は言葉に詰まってしまった。

もし本当の事を口にし、沙夜が余計におかしくなってしまったら。
あの時の食堂で起きてしまった出来事が、もしくはそれ以上の出来事が起きてしまったら、沙夜をもっと苦しめる事になったら……

そんな事を考えてしまった。そうなるくらいなら俺が悪者になろうと、俺が罪の意識に苛まれるだけで沙夜の負担が減るなら……と考えてしまっていた。

「……あはは、やっぱり悩ませちゃったね」

「え……?」

やっぱり……?

「あのね、何となくだけど判ってたんだ。どんな事になっても、やっぱり私は私だし」

「……」

「確認、しておきたかったんだ。もしかしたら違うかも……っていう淡い期待もあったんだけど、しちゃいけない期待なら打ち砕いておいた方がいいと思ったし」

「……」

「でも打ち砕くなら、自分じゃなくてアキヒト君に打ち砕いて欲しかった。……私、怖がりだから」

「……」

「……あはは、私ずるいね。いつの間にか嫌な事はアキヒト君に任せてる。そんなのダメだよね」

「そんなことは――」

「ありがと」

……つん、という感触が、唇から伝わってきた。
沙夜の言葉を否定しようと、「そんな事はない」と言おうとした口が、沙夜の唇で塞がれる。

……俺達は、キスをしていた。

それも突然に。その素振りも見せず、突発的に。
きっとそれは沙夜からしてみても同じ。身体が勝手に動いたように思えた。

……でも。

唐突でもいい。予期してなかった事でも全然構わない。

……とてもいいキスだったから。
本当に、本当に気持ちが伝わってくるキスだったから――

 4

「……本当の事を言うか言わないか、悩んでくれてありがとう」

「……」

まいったな、そこまでお見通しか……
俺は返す言葉もなく、これといった反応も見せれず、思わず黙ってしまう。

自販機前での突然のキスから数分後、俺達はその近くにあったベンチに腰掛けていた。

あの後、俺達はとてもいいムードでさらに抱擁とキスを繰り返し、まるで映画のワンシーンのようなセリフを口に……という展開にはならず、お互い色々と冷静さを取り戻し、恥ずかしくなって離れた。そして落とした小銭を2人で探した。かなりカッコ悪かったけど、この方が俺達っぽいなと思った。そしてそれは沙夜も同じ事を考えていたらしく、「やっぱりそうだよね」と言って2人で笑い合った。とてもいい空気が流れていた。

「……きっと私、それを望んでたと思う。即答じゃなくて、本当の事を言うでもなく、嘘を吐くでもなく、どうするか悩んでるアキヒト君を望んでた」

「……」

「だから今悩んでたのは正解。アキヒト君がしてくれたのは私にとって一番の答え方だよ」

「そう、か……」

「悩んでくれて嬉しかった。簡単に答えを出そうとしなくて嬉しかった。苦しそうにしてるのは見ていて辛かったけど、私って嫌な女だなって思ったけど……わたし、は……わたし、は……」

安心感からか、今まで気を張っていた部分が緩んでしまったせいか、沙夜は急に言葉を詰まらせ、瞳に大粒の涙を浮かべては頬を伝わらせる。

「……泣くなよ」

せっかくいい感じに、元の2人に戻ったんだからさ……

俺はそんな事を心の中で呟きつつ、顔をそっと沙夜に近付ける。

「……泣くなよ」

そして同じ事をもう一度、耳元で囁くように言うと……

ぺろっ

「え……」

固まる沙夜。何が起きたか判らず、それまで流れていた涙も止まってしまう。
実はそれが狙いだった。

「……ん、やっぱしょっぱいな」

「……え? ちょ、ちょっとアキヒト君、今何を……?」

「あれ? わかんない?」

わざと答えをはぐらかし、意地悪そうな笑顔を沙夜に向ける俺。
きっと沙夜も何をされたかは勘付いているはず、予想は付いているはずだ。
ただ、どうしてそんな事をしたのか理解出来ていないだけ、予想出来る範疇を大きく越えていた行動だったのだろう。
そして何より、かなり恥ずかしい……というか、ある種変態行為じみたものだったため、頭がその答えを導き出さないようにストップをかけたのかもしれない。

……俺は、沙夜の頬を伝わる涙を舌ですくっていた。通り道となっていた頬を舐めていた。

「……なめた?」

「正解」

「……」

沙夜、沈黙。
そしてこの沈黙は結構な時間続く。

「……」

「………」

だから俺も沈黙。沙夜が反応を示すまでこっちも黙ってみる事にした。
理由は……面白そうだから。きっと嬉しい反応を、俺にしてみれば楽しい反応をしてくれると判っていたから。

「………」

「…………」

「……い」

「い?」

「いやあああぁぁぁぁ、ちょっと何してるのアキヒト君!? どうして舐めるのよ!? あーもう信じられない!」

……う〜ん、予想通り。
あははは、慌ててる慌ててる。可愛いなあ沙夜は。

俺は真っ赤になって大声を上げ、俺に向かって烈火の如く批難(?)の言葉を口にする沙夜を見て頬を緩ませる。

「この変態! 超変態! エッチ! バカっ! ……うわわあぁぁぁぁん、恥ずかしいよ〜〜!!!」

「いてててて、やめっ、やめろって」

ぽかぽかぽかぽかっ

沙夜の恥じらいパンチ(勝手に命名)が連続で俺のボディにヒットする。
反射的に「痛い」とは口にしたが、どちらかというとくすぐったい。

「ばかばかばかばかっ! 泣いてる子の涙を舐めるとかおかしいよ! 変態変態変態変態っ!!!!!」

ぽこぽこばきぽこぽこどがぽこっ

「いてっ、何か強いのが混じっ……いてててっ!!」

次第に強くなる沙夜の恥じらいパンチ。当たり所の悪さもあるだろうが、ちょっとマジで痛くなってきた。

「だって本当に恥ずかしかったんだからっ! っていうか信じられない! 普通こんな時に舐めたりする!? 変態変態ド変態超変態!!」

「ぐがっ、そこはみぞおちと言ってだな、急所のひとつで……はがっ!?」

……と、こうして俺は連続で繰り出される拳を存分に、それこそ一生分程ボディに喰らいつつ、沙夜からの批難と誹謗中傷を浴びに浴びた。

まあその後は普段通り……というか、防波堤で膝まくらをしてもらった日に近い感じになり、自分で言うのもなんだが、かなりいちゃいちゃした。傍から見ればバカップルそのものだろうが、気になんかするもんか。

――こうして俺にしてみれば悪夢のような、沙夜であって沙夜ではない彼女との旅はこの日で終わる事に。一週間弱という比較的短い期間ではあったが、それでも俺にしてみれば狂気や狂乱といったものと隣り合わせな日々。相当に長く感じたし、かなりネガティブな思考になっていたのも事実。もしかしたら沙夜が元の状態に戻るのがもう数日遅かったら持たなかったかもしれない。今ある関係には戻れていなかったかもしれない。

まあ何にせよ、俺は……いや、俺達は最大の危機を乗り切ったと言っても過言ではない。それにもうお互いが苦しむのは嫌だ。特に沙夜の悲しんでいる顔は見たくない。
だから俺は今まで以上に強くなり、気を配り、沙夜を守る。
沙夜も取り乱す事のないよう努力すると、気を強く持つと言ってくれたし、俺としっかり約束も交わした。

きっとこれから、テレビや雑誌で報道される機会なり時間は多くなっていくだろう。もしかしたら2人の関係性がどこからかバレるかもしれない。俺と沙夜が家を出る前に行なった隠滅作業など、本気になったプロにかかれば簡単にバレてしまうだろう。

だが、それでも俺達はこの旅を続けてみせる。何者かに強制的に終わらされる訳にはいかない。それでは何ら意味が無い。

……ヘビィな展開になるかもな。

その覚悟は出来ている。ここまで来て弱音を吐いたり、臆病風に吹かれたりする訳にはいかない。

……俺と沙夜は、自分達の手で、自分達が心から納得の行く旅の終わり方をしてみせる。

そう強く心に誓い、俺は目の前にいる大切な存在を、手を握り、心を確かめ合い、唇を合わせた大事な存在を守るべく、そして楽しい生活を送るべく、再度覚悟を決める。

……さあ、行こう。
このどうしようもない自由の中、必ず訪れてしまう終わりを目指して。

恒久ならどれだけ楽しいか判らない。しかし今でも十分に楽しいし、充実している。

……ならば、だ。

この旅を、今の俺と沙夜にとって全てであるこの旅を楽しむ。それだけだ。




第5章「終焉の道」

 1

――沙夜との旅を始めてから数ヶ月。季節は2つほど変わり、過ごしやすかった秋から凍える冬になっていた。

ガタンゴトン、ガタンゴトン……

「……」

「……

そんな中、俺達は電車を乗り継いで一路北へと向かっていた。
目指すは雪深い事で知られる山。樹氷を見るために冬場でもロープウェイが運行されているらしい。

「……寒い?」

「ううん、全然大丈夫」

俺と沙夜は真新しいコートに身を包み、俺はマフラーを、沙夜は暖かそうな手袋をはめている。共にコートは黒、マフラーと手袋は赤を基調としたチェック模様。それは目的地を決めた後、2人で選び合って買ったものだった。

旅を始めて数ヶ月、それなりに潤沢にあった資金はこの防寒具と切符代に消えていた。
……もう2人の財布には僅かな金額しか残っていない。それは暗に旅の終わりを、次の目的地が最後の場所になる事を意味していた。

果たしてこれは迎えるべくして迎えた結末、になるのだろうか。
……わからない。俺には答えを出せない。出す必要も無ければ出す資格も有していない。
ただ、1つだけ言えるのは、俺は沙夜と一緒に旅が出来て本当によかったと、幸せだったと胸を張って言える事。それだけ。
……出来れば、願わくは沙夜も同じ気持ちでいてくれると嬉しい。

「ん、どうしたの? 私の顔をじっと見て?」

「何でもない」

「へんなの」

「まあ、しいて言えば見飽きない顔だな、って思ってた」

「なにそれ?」

「俺なりの褒め言葉。今までたくさん見てきたのに、全然飽きない。もっともっと見ていたい」

「ちょっ、いきなり恥ずかしい事言わないでよ……」

「ははは」

俺は謝るかわりに沙夜の頭をぽんぽんと撫で、そのまま腕をそっと腰元に回す。
それはとても自然な動作。この旅を続けているうちに無意識に行なうスキンシップのようなものだった。

「……ん」

すると沙夜もスッ……と寄り添うように身体を動かしてくる。当然俺はそんな沙夜を受け入れ、胸元に顔が来るように密着させる。どこからどう見ても俺達2人は恋人のそれでしかなかった。

「あやま、にいさんがた仲ええこと」

ふいに聞こえてくる北国訛り。見ると車両の反対側に座っていた老婆が目を細めて俺達を見ていた。

「あ、どもです」

「えへへへ」

軽く会釈をする俺と、恥ずかしそうに舌を出す沙夜。しかしお互い身体は密着
したまま、特に離れる気もなくそのままの体制でいた。

「にいさんがだどごから来たね?」

「あ、やっぱり他所から来たってわかります?」

「わがるよ、それぐらい」

濁点の多い言葉遣い。北国に親戚のいない俺にはそんな老婆の言葉が妙に優しく、そして暖かく聞こえた。

……旅を始めてしばらくは南下していた俺達だが、秋になる頃にはあらかた南下も完了し、今度は別ルートで北を目指した。
この国は意外と広く、また知っているようで知らない事が多い。俺達はその間にたくさんの土地を訪れ、様々な体験をしていた。

「私達、ずっと2人で旅してるんですよー」

「あや、それはええごと」

「ほら、この辺りに樹氷が見えるトコ、あるじゃないですか? それを見に行きたいね、って話になって来ちゃいました」

「こったら寒いながを見に行くだが。風邪ひがんようにせんとだぁめだよ?」

「ええ、その辺は大丈夫です。かなり厚着してきましたから」

と、俺は雪国の冬をナメていないアピールをするのだが、老婆はおかしそうに笑うばかり。どうやらこの程度の防寒対策では手ぬるいようだった。

「……もしかしてもっと着ないとダメですかね?」

「どうだべ、まあにいさんがだならまだ若いし、だいじょぶだどは思うげどな」

「そんなに寒いとこなんだ……」

この汽車に乗るまでは「これでバッチリだね!」と自信ありげに言っていた沙夜だったが、ここにきて少し不安になった様子。まあ俺もそうだが、雪が積っている光景を見る事が珍しいという土地で生まれ育ってきたため、本当に勝手が判らないのだ。

「まあまあ、そごまで気にするごとでもねえよ。……それよりほれ、ミカンっこ食わねえが?」

そう言って老婆は手にしていた巾着袋からミカンを取り出し、俺達に勧めてくる。少し小さめのミカンはとても瑞々しく、口の中に頬張るイメージを思い浮かべただけで涎が出てくる。それは沙夜も同じだったらしく、ちらりと俺を見てニコリと笑うと、席を立って老婆の元へと歩き出す。

「あ、俺も行くよ。どうせだったら一緒に座ろう」

「そうだね」

と、こうして俺達は座席を移動し、老婆の隣に腰掛ける事に。
ミカンを2つ貰い、それを仲良く食べる様子を見ていた老婆は終始笑顔で接してくれ、色んな話をした。
中には少し判らない、聞き取りにくい言葉もあったが、前後のやり取りやニュアンスで大体理解出来た。しばらくすると北国の訛りにも慣れ、沙夜に至っては少し喋り方が移っている程。……まあ俺も語尾のアクセントが少し変わってきていたりするのだが。

 2

「それじゃあね、おばあちゃん」

「ああ、おねえちゃんもげんぎでね」

「ミカン、ごちそうさまでした。おいしかったです」

「にいさんもげんぎでな。こんなババの話さ聞いてくれてありがどうな」

「そんな事ないです。楽しかったです」

「そうですよー、こっちこそ話しかけてくれてありがとうございました」

「……あんたがだ、ええ子だがねや」

そう言うと老婆は顔をくしゃくしゃにすると、その深いシワの間に少しだけ涙を貯える。とても暖かいものを感じた。この人と出会えてよかったと思った。

「うう、おばあちゃん……」

「バカ、ここで沙夜まで泣いたら余計名残惜しくなるだろ」

「だ、だって……」

俺だってこらえてるんだよ! と言いたくなるのをグッとこらえ、俺は老婆に近付く。そして腰を折り、相手の視線に自分の顔を合わせ、お礼の言葉を口にする。
すると老婆はこの寒い中、手袋を外して俺に握手を求めてきた。……ここで俺はやられてしまった。涙をボロボロこぼしてしまった。

その直後、「わたしもわたしもー!」と言いながら駆け寄ってきた沙夜も加わり、3人で手を取り合い、挨拶を交わした。

……こうして目的地となる駅の2つ前、そこで降りるという老婆と別れの言葉を交わす俺達。
それはとてもとても微笑ましい光景だろう。素晴らしい人と人の係わり合いだろう。

……しかし俺は知っていた。痛感していた。
もうこんな出会いをする事はないだろう、こうして人の温もりを感じる事はこれが最後になるだろう、と。

きっとそれは沙夜も判っていたと思う。だからあそこまで名残惜しそうにしていたのだろう。涙を流したのだろう。

「……おばあちゃん、行っちゃったね」

「そうだな」

「ミカン、おいしかったね。甘かったね」

「ああ。甘すぎるミカンは好きじゃないんだが、あのミカンは美味かった」

2人きりになった駅の前、俺と沙夜は吹雪の中に消えて行った老婆がいた方向を見ながら、そんな会話を交わしていた。

「……さて、俺達も行くか」

「そうだね」

ぎゅっ

俺は沙夜の手を握り直し、強風に向かって歩き出す。なるべく沙夜に風が当たらないように、自分の身体を盾にしようとするのだが、吹雪は一定の方向からではなく、様々な方向から吹いてくる。

「ぐっ……」

「す、すごいね……」

「ああ、さすが雪国だな」

吹雪とは無縁の街で生まれ育ったため、俺も沙夜もこの状態に苦笑い。
雪に慣れた人や、この環境で暮らさないといけない人には億劫で仕方のない吹雪も、初めての体験となる俺達にしてみればテンションを上げる要因になっていた。
別に寒さでおかしくなった訳ではないのだが、一際強い風が吹く度に髪の毛やまつ毛に雪が付着し、歩くのも一苦労という状態があまりに非日常的すぎて、ありえない感が規定値を大きく越えてしまい、もう笑うしかない状態になっていた。

「アキヒト君、ほっぺ真っ赤だよ?」

「ああ、沙夜もな」

「え? わたしも?」

「ったりめーだろ、何で俺だけ赤くならないといけないんだよ」

おそらく自覚がない、そして経験がないのだろう。
ここまで寒い風に吹かれると顔が赤くなる事を沙夜はまだ判っていない。
というかあまりの寒さで肌の感覚が鈍っているのだろう。

「風が強い時は手で顔を押さえとけよ?」

「う、うん……」

「大丈夫、確か歩いて数分の所に専用のバス停があるらしいからさ。まずはそこまでのガマンだ」

「まずは?」

「バスを降りてロープウェイに乗るまでの間はまた吹雪の中だろうからな」

「あ、そっか」

ポンと手を叩き、納得した表情を浮かべる沙夜。
しかしすぐに手を頬に当て、さらに風から身を守るため、俺の背中に密着してくる。

「うわっ、押すなよ! 風除けに使うのは構わねえから、頭で押してくるんじゃねえよ!」

「だってー」

「あぶねえだろ、バス停までもうすぐなんだ……って、うおっ!?」

「きゃっ!?」

普通に歩いているつもりだった。
多少押されはしたが、まだ平気なレベルだった。
しかし雪国というのは怖いもので、地面がやけに滑りやがる。というか俺も沙夜も普通の革靴なのがいけないのかもしれない。

と、なぜかそんな事を冷静に考える俺。……2人で盛大に転んでいるというのに。

「……いたたたた」

「おいテメー」

俺の身体を下敷きにしたため、ほぼノーダメージで済んだ沙夜。しかし一方の俺はと言うと、頭から雪に突き刺さってしまい、沙夜に乗られているため、今もそのままの状態。とりあえず頭が突き刺さった場所が踏み固められていないフワフワのゾーンで助かった。

「ご、ごめん……」

「悪いと思ってるなら早くどけてくれ」

「……え? うわっ!? 地面が黒い!?」

「……それは俺だ」

地面に広がったコートの黒、その上にいた沙夜が驚きの声を上げる。
……だから早くどけてくれ。顔面が冷たい。というか凍る。

「だ、大丈夫……?」

「まあ……なんとか」

沙夜に手を引っ張ってもらい、何とか起き上がる俺。
ここで沙夜がバランスを崩し、手を掴まれていた俺も一緒に転ぶ……みたいな事が起きるかと思われたが、何とかそれは回避出来た。危ない危ない。

「……さ、行くか」

「うん」

こうして俺達は全身を真っ白にしながら(特に俺に至っては黒のコートが白のコートになったかの如く雪にまみれてしまった)、目的地である樹氷が見える山へ向かうバス停へと向かう。
幸い……というかこういう街では当たり前というか、バス停はかなり立派な屋根付きのもので、吹雪から俺達を守ってくれる、頼もしいヤツだった。

そのため、バスが来るまで結構な時間があったのだが、凍える事も自分自身が樹氷になる事もなく、暖かい缶コーヒーの助けもあり、俺達は楽しく雑談をしながらバスを待つことが出来た。

 3

――そして30分後、待望のバスが到着。
結局その間、俺達以外に乗客は現れず、さらにバスの中にも客はゼロ。完全に貸し切り状態で目的地へと向かうのだが……

「……揺れるね」

「ああ」

運転手を含めて3人しかいないバスの中、小声で話をする俺と沙夜。
一応かなり後ろの方の席に座ったのだが、聞かれていい気分にはならないであろう話題が続いていたので、極力ヒソヒソ話で会話をしていた。

「……ちょっと怖いね」

「ああ。かなり不安だ」

雪道だからなのか、それとも別に原因があるのか判らないが、バスはかなり揺れていた。運転が超乱暴、という感じでもないのだが……

「ッ!?」

「わっ、滑った……」

そして今後は横滑り。一瞬「バスでドリフト?」とも思ったが、そんな事をする訳がない。……不安だ。

「……」

怖がる沙夜を、気を抜くと転がっていきそうな沙夜の肩をぎゅっと掴みつつ、俺は運転席に目を向ける。乗車った時はそれなりに愛想の良さそうな印象を持った運転手だったが、斜め後方から僅かに見える彼は相当焦っているように見えた。というか混乱一歩手前だった。

「……ねえアキヒト君……」

「ああ」

おかしいよ、何かあったんだよ。
沙夜の目はそう言っていた。不謹慎というかこんな時に何を……と自分でも呆れてしまうのだが、一定以下のスピードになるとバスが爆発してしまう映画のテーマ曲が頭の中で流れ出す。……意外と俺はまだ余裕があるのかもしれない。

「……っと」

そんな事を考えてる場合じゃないな。
俺は次第に怯えの度合いが増しつつある沙夜の顔を見ると、せめて何が起きているのかは知ろうと、少しでもこの状況を知ろうと、運転手に向かって声をかける。

「すいません! 何かあったんですか!?」

「……いやっ、それが私にもさっぱり……クッ!」

大きなハンドルを豪快に、まるで加減を知らない子供が悪戯しているかのようにグルグルと回す運転手。
次の瞬間、バスは車両後部をズルズルと滑らせ、俺達はかなりの力で横方向に身体を持っていかれそうになる。これが横Gというものなのだろう。

「ううう、アキヒト君……」

「……」

怖がる沙夜を今まで以上に強く抱き寄せる。そして俺自身も前の席に付いていた手すりを力強く握り、再度運転手に声をかける。

「一回止まった方がいいんじゃないですか!?」

「し、しかし運行ダイヤが……」

「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!! 周囲を走ってる車にも迷惑ですって! 事故になる前に止まりましょうよ!」

ここで停車して運行ダイヤを乱すのと、周囲の車を巻き込んでの事故……
そのどちらがより大変な事になるのか、錯乱している運転手は理解出来ていないようだった。

「は、はいっ!」

しかし俺が強く提言したのが効いたのか、運転手は左右に暴れるバスを何とか制御しつつ、何とか車体を路肩に持って行こうとする。

「あああああアキヒト君、横よこっ!!」

「ん……って、うおおおっ!?」

一瞬自分の目を疑った。というか目の前にある現実を受け入れたくなかった。
沙夜の視線の先には窓、それも今車体が寄ろうとしている方向の窓。その先にあったのは白い壁だった。

「このままじゃ雪にっ!!」

「いやあぁぁぁッ!!」

ギシギシギシッ……ギシッ

悲鳴と共に抱きついてくる沙夜、そして足元から聞こえてくる新雪を踏み固めているであろう音。まあ雪の壁ならぶつかっても衝撃はあまりない……というかむしろクッションになるのでは? と俺は思っていたため、意外と冷静に周囲を見る事が出来ていた。

ギギギシッ……ギシ、ギシ……

弱まるスピード、そして間隔が遅くなる雪を踏む音。どうやら運良く壁に激突する前に止まれたようだ。
運転手が肩で息をしながら「……助かった」と呟いている。……あ、今ハンドルに倒れこんだ。

と、俺は風船がしぼんでいくように身体を情けなく畳んでいく運転手を見ながら立ち上がる。ようやく暴走を止めた車内は特に目立った変化はなく、乗り込んだ時と同じ状態。大きなショックもなかったので、おそらく外側も無事だろう。

「……ふう」

大きく息を吐き、まだ力一杯俺の腕を掴んでいた沙夜の頭に手を乗せる。
そして軽く数回撫で、耳元で「もう大丈夫だ」と囁いて安心させる。数秒ほどすると沙夜は恐る恐る頭を上げ、ようやくここで無事だった事を実感。胸を大きく膨らませ、大きく息を吐く。

「たしゅかった〜」

「情けねえ声出すなよ……」

今にも泣きそうな、そして鼻水を流しそうな顔の沙夜。……端整な顔立ちが台無しである。
とりあえず彼女は無意識でやっている事なのだろうが、俺のコートに顔を押し付けるのはちょっと勘弁して欲しい。

「たしゅかった〜」

と、向こうでも全く同じ事を喋っている人物が1人。
オメエもかよ……と思わず心の中でツッコミを入れてしまう俺。まあ実際に口に出し、ハリセン的なもので頭を小突いてもいいのだが。

「ったく、何だかなあ……」

俺はそう言うと、そっと沙夜の頭を身体から離し、運転手の元へと歩き出す。まずは原因究明を、そして必要があれば手助けを、もしくは恫喝の1つでもしなければ。

「……で、これは故障っすか?」

「い、いや、それがさっぱり……」

「エンジンのトラブルではない、と?」

「はい、機械系等は定期的に入念なチェックを行なってますので……」

「じゃあ足回りかもしれないっスね。……見てみましょうよ」

「は、はい……」

運転手は俺に言われるがまま、手元のボタンを押して昇降口のドアを開ける。そして運転用の薄手の手袋を外し、軍手を装着。脇に置いていたコートを羽織り、外に出る準備を整える。

「さて、と」

俺は運転手より先に外に降り、近い場所から車輪を見て回る事に。
別に車に詳しい訳ではないが、まだ軽くテンパってる運転手1人に任せるのは不安が残る。というかこんな所で立ち往生などしていられない。今の俺達にはもう宿に泊まるだけの金は無いのだ。それにもしかしたら宿泊施設の類にはもう俺達の顔写真が警察から配られている可能性もある。……最近では俺達の行動を好き勝手に予想し、適当な目撃情報を流しては興味を煽ろうとするワイドショーも増えてきた。既に警察が動き出している可能性も否定出来ない。上手く捲けたと思っているのは俺達だけで、実は捜査の手が身近なところまで……というケースだってあり得る。可能性はゼロじゃない。
……要はそれだけ、あれだけ飽きっぽくて無責任な世間も興味を覚えるだけの長さを俺達は旅していた。

ギッ、ガタガタ……

「どう? アキヒト君? 何かおかしなトコとかあった?」

と、凍り付いて開けるのも一苦労、といった感じの表情を浮かべた沙夜が顔を出し、早くも全身を真っ白な姿に変えようとしている俺に話しかけて来る。

「んー、まだわかんねえ。っていうか寒いから閉めとけー」

「はーい」

おそらく1人でバスの中で待っているのが退屈なのだろう。沙夜はそう返事はするものの、とても不服そうに俺を見る。しかしそんな退屈も寒さには敵わないようで、しばらくすると自主的に窓を閉める。どうやら指先で絵を書く遊びで時間を潰す事にしたらしい。

「……さ、俺は原因解明、と」

困ったカバの少年に自身の顔を摘んで渡すキャラクタを書き始めた沙夜を見ながら呟く俺。するとちょうどその時、車両の向こう側から運転手の声が聞こえてきた。あまりハッキリとは聞き取れなかったのだが、何か「ああ! これか!」みたいな意味合いの言葉を口にしていた。

「……どうしましたー?」

俺は大きな声でそう聞きながら小走りで声のした方向に駆け寄る。そしてぐるりと回り込み、タイヤの前でしゃがんでいる運転手に近付くと……

「原因、わかりました?」

「……」

「……? あの……」

運転手は俺の問いかけに答えず、じっとタイヤを見つめているだけ。おかしいなと思い、俺もその視線を追ってみると、そこにはあるべきはずのチェーンがなかった。……というかタイヤがヘコんでいた。完全に空気が抜けていた。

「うわ……」

チェーンが外れたのが先か、それとも空気が抜けたのが先かは判らない。しかし1つだけ確定している事がある。……この状態で運転を続けるのは非常に危険であるという事だ。

「……」

まだ無言の運転手。よく見ると肩が少し震えている。そして顔も心なしかさっき以上に青ざめているように見えた。

「……お」

「お?」

「……おっかね〜」

そう言うとゾクゾクゾクッと背筋を震わせ、運転手はへなっと地面に膝を付く。どうやら俺が思っていた以上に危険な状況だったようだ。

「これって……相当ヤバかったんですか?」

「ええ、ヤバイなんてもんじゃないですよ。本当に危なかった……」

マジかよ……
何が整備は万端だよ、一番大事なタイヤ周りが超おろそかになってんじゃん。
俺はそんな事を考えながら、普段は硬いバスのタイヤに触れようとする。どのくらいベコベコなのか、ちょっと触ってみたくなった。

ぐいっ

「……うっわ、へこむへこむ」

空気が抜けているとはいえ、バスのタイヤなら相当にゴムも厚いはず……
そう思っていたのだが、タイヤは手で押すと意外なまでにへこんだ。……さすがにちょっと背筋に寒いものを感じた。

「いやー、大変でしたねえ。こんなに空気が抜けてる状態で走ってたら、他のタイヤも異常が出てたかもしれませんもんね」

「……いえ、実はそれ以上に怖い事が……」

「……へ?」

予想外の言葉に固まる俺。どういう事だ? 空気が抜けてチェーンが外れてる以上に怖い事って何だ?

「……チェーンが外れているのはあっちのタイヤも同じなんです。向こう側はまだ見ていないので判りませんが、こちら側は前後輪共にチェーンが外れていました……」

「マジっすか……」

じゃあ片側は滑りっぱなしの状態でずっと……?
いやいや、怖ぇって。

「……でも本当に怖いのはチェーン外れなんかじゃないんです」

「え?」

マダアルンデスカ?
心の中で呟いた言葉なのに思わずカタコトになってしまう俺。恐怖のインフレが某少年漫画誌の格闘モノ並の速さと高さで押し寄せてきていた。

「ここ、ちょっと触ってみてください」

「ん、ナットのとこですか?」

「ええ」

「はあ……」

何だろう、別にヒビが入ってる訳でもないの……にぃぃぃ!?

怪訝そうな顔でナットに触れたその瞬間だった。ぽろりとナットが外れた。全く捻ってないのに。回そうともしていないのに。

「……ぽろりって」

いやいや、言われるままに触っただけですよ? 引っこ抜こうともしてませんよ?
なのに何でぽろりって…… 一昔前の芸能人水泳大会じゃねえんがからさ。「ぽろりもあるよ」じゃマズイだろ。

「……」

「……」

「……こわっ、めっちゃ怖っ!」

「……ね?」

ね? じゃねえよ!
普段ならきっと運転手にそう突っ込んでいただろう。しかし今はさすがにそんな気にはなれない……というかそこまでの余裕はなかった。

もしかしたら走行中に脱輪していたかもしれない。それもただでさえ滑りまくりな雪道を。

……

………

じわじわと高まりつつある恐怖感。「もしかしたら……」という言葉を頭につけての状況シミュレーションは全てバットエンドな展開になってしまっていた。
というか本当に脱輪する前にバスを止めてよかった。

「……とりあえず何とか無事だったんで、まずは人を呼びましょ? こういう時はバス会社に専門の係がいるんですか? それとも一般車両と同じで業者を?」

「ええ、対応は契約している一般の業者が行ないますが、社の方にも連絡を取らないと……」

「じゃあすいませんけど連絡取ってください。俺達もこの後用事があるんで」

「は、はいっ、ただいま!」

ようやく頭が正常に回り出したのか、運転手は微妙に敬語とタメ口が入り混じったそれまでの喋り方から一転、営業中(勤務中?)の礼儀正しい言葉遣いに戻る。……まあ慌てているのは変わっていないが。

……こうして九死に一生を得た俺達。
まずはこの事を報告し、しばらくここで足止めを喰らうであろう事を沙夜に伝えないとな……

俺はそう思いながら、戯れにもう一度ナットに手を伸ばす。やっぱり触れただけでぽろりと落ちた。……コワ。

 4

――10分後。
車内は相変らず俺と沙夜だけ。
運転手は外に出て、問題のタイヤの前で電話片手に何やら喋っている。状況の説明や報告だろうか。

「……ヒマだね」

「ああ」

「それにしても予想外な展開だね」

「そうだな」

最初に座った席の1つ前に座り、曇った窓に落書きを続ける沙夜と、それに付き合うように座席を移動し、横でぼんやり外を眺めている俺。完全なる待ちぼうけ状態だった。

「……ふわ」

「眠い?」

「ん、ちょっと」

車内はこれでもか! と言わんばかりに暖房が効いていた。俺たちに対する運転手の心遣いなのだろうが、さすがにちと暑すぎる。
……が、その運転手が外に出てしまい、さらにすぐ戻ってはこれなそうな雰囲気が存分に漂っている以上、もうしばらくはこの過剰暖房の中にいなければいけない。……っていうかこの暖房は戻ってきた運転手が暖まるために付けてるんじゃね?

「コート、脱ぐか?」

「そうしよっかな……」

少し目がとろんとなり始め、小さなあくびをしながら沙夜はそう言ってごそごそとコートを脱ぎ始める。袖から腕を抜くのにちょっと手間取った辺り、すでに身体が眠る体勢に入りつつあるようだった。

「……」

「アキヒト君は眠くないの?」

「ああ」

「そっか。……じゃあ何かあったら起こしてもらっていいかな?」

「任せとけ」

「ありがと。ごめんね」

「……謝るか感謝するかどっちかにしろ」

「うー」

相変らずのとろんとした目で俺を見る沙夜。本人は批難の目で見ているつもりなのだろうが、俺にしてみれば可愛い上目遣いにしか見えない。
う〜ん、そういえば眠る間際の沙夜を見るの、久し振りかもな……

「ったく、いいから寝とけ」

「ふぁ〜い」

沙夜はそう言って頷くと、頭と身体をふらふら左右に揺らしながら、眠るのに最適なポジションを探そうとする。

「……あー、あとそれから」

「?」

浅く腰掛け、背もたれに頭を預けるもイマイチしっくりこない……
そんな試行錯誤を隣で繰り返していた沙夜を見て、俺はたまらず口を出す。

「肩でも膝でも好きに使ってくれていいぞ。もたれかかるなり頭を預けるなり寝転んでくるなり、沙夜のしたいようにして構わない」

「はーい。……あはは、恥ずかしい事を言うんだねえ、アキヒト君も」

「うっせ」

……まあ何かしら冷やかされるとは思っていた。これも想定の範囲内。
でもやっぱり微妙に恥ずかしいのでこんな反応になってしまう。これも想定の範囲内。

「……うん、それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」

「ん、そうしとけ」

……ぱふっ

そう言って頷いたのとほぼ同時、俺の肩に適度な重みが伝わってくる。見るとすぐそこに沙夜の顔があった。超目前だった。

「んみゅ、じゃあおやすみなさい……」

「ああ、おやすみ」

俺は振り向けばぶつかりそうになるくらい、息遣いまで聞こえるくらいの近距離にいる沙夜に向かって優しく呟く。そして肩に心地よい重量感と温もりを得つつ、再びぼんやりと外を眺めながら考え事を始める。

「……」

……確かに驚いたよな。まさかたまたま乗ったバスが脱輪一歩前なんて。

と、俺は今さっきまで起きていた……というか今も継続中と言えば継続中なのだが、とりあえずこの一連のトラブルについて考える。

もしあの時バスを止めていなければ、もし何も言わずに黙っていたら、きっと大変な事になっていただろう。カーブを曲がっている時に脱輪なんかしたら、おそらくそのまま転倒、そして大惨事……という流れになっていたかもしれない。というかその可能性は非常に高い。おそらく俺も沙夜も無事では済まなかっただろう。

全身打撲、骨折、もしかしたら最悪な展開だって考えられる。この場合で言う「最悪な展開」とは勿論……

「……ふっ」

思わず鼻で笑い飛ばしてしまう俺。
確かに最悪な展開として、『死』という結果もあるだろう。事実「もし走行中に脱輪していたら死んでいただろう」という思いは確かにあった。

……が。

それが「死ななくてよかった」だとか、「いやー、死ぬかと思ったよ」という考えも同時に生じていたとなると話は変わってくる。

何を生き長らえた事を喜んでいるのか、どうして「よかった」になるのか。
俺達がこれから向かう、もう目前まで来ている結末も同じ『死』であるのに、何故にこの場での延命をいい事だと思うのか。

「……未練、なのか?」

ふいに声になって出る、そんな迷い。もしかしたらこれは考えてはいけない、冷静になってはいけない、してはいけない自問自答……なのかもしれなかった。

「……」

いや、違う。
結果としては同じものだとしても、そこに至るまでのプロセスが違う。
しっかりとその時を見据え、準備も覚悟も出来ているそれと、今のような突発的に訪れる事故とは毛色が全く異なるのだ。……いや、異なると思いたい。

違う、断じて未練ではない!

髪を乱暴に掴み、自分自身に言い聞かせるよう、心の中で強くそう叫ぶ。

確かに沙夜との旅は楽しい。楽しかった。もしこの生活が何の制限もなく、恒久的に続くのであれば、延々とループを繰り返してくれるのであれば、俺は迷わず続行を決断するだろう。そしてきっと沙夜もそうするはずだ。

しかし、この旅は永遠でもなければ恒久でもない。始まりがあるからには終わりもある。……そしてその終わりは刻一刻と、確実に迫ってきているのだ。もうすぐそこまで、終焉の足音はもう空耳では済ませれない程大きくなってきているのだ。

日々の報道に気を張り、人の目に細心の注意を払い、常に何かから遠ざかるように、避ける事を余儀なくされる生活。最近はそんな状態で過ごす時間がより多くなってきた。もう大きな街には立ち寄れないし、立ち寄りたいとも思わなかった。

そして経済的な問題。もしかしたら実際問題としてこっちの方が大きいのかもしれない。
旅を始めた当初はそれなりにというか、年相応ではない額の所持金があった俺と沙夜だが、既にその金銭は底を尽きかけていたのは前述の通り。
それはもう俺と沙夜も十分に自覚があり、お互い口にこそ出さないが、今2人が着ているコート及び防寒具を買った時点で、ある種の覚悟は決まっていたように思える。

……そう、もう俺達は限界なのだ。色々な面で、様々な観点で、もう限界が来ているのだ。破綻しているのだ。

「……ふっ、はははっ」

滑稽。あまりに滑稽。
俺は自らを軽蔑するように、呆れ返る様に笑う。

しかしその行為自体が虚構、本心は別にあり、この行為は何者かに対するパフォーマンスでしかない事を、俺は知っていた。

だが、それでも自嘲を止める事はなかった。止める気もなかった。

……何だよ、もうわかんねえよ。これでいいんじゃねえのか? オメエは何をしてえんだよっ!!!

迷いも後悔もない。そしてもう帰る場所もなければ、もう現実世界に居場所もない。そう考えていたし、今もその考えに揺らぎはないと俺は思っていた。

だがどうした事だろう。ここにきて、最終局面を間近に控えておいて、バスのトラブルという予想外の出来事で微妙に狂い始めている。それまで完全に繋がっていた幾つかのピースが外れかかっている。……どうしてこんなに事に……

それはまるで完成直前のパズルを自ら壊そうと、バランスよく積み上げたジェンガを自分の手で悪戯に崩そうとする行為に酷似。何が不満なのか、そのフラストレーションの発生場所も原因も把握出来ず、また真剣に特定する気も起きず、ただひたすらに揺れる心を誤魔化すだけ。嘘に嘘を上塗りし、自分の心に鍵を掛けては偽物の心を探す……

俺が今しているのは、陥りそうになっているのは、そんな非生産的で理に適わない事以外の何者でもない……。そんな風に思えてならなかった。そう考えずにはいられなかった。

「……」

ぎゅっ

拳を握る。同時に歯を噛み締める。
大きく息を吸う。そして吐く。

……落ち着け。深く考えるな。そっちの方向に意識を向けるな。

自分自身への説得、言い聞かせは続く。

……考えを変えるな。迷うな。今まで信じてきた理論を捨てるな。正解はそっちだ。

論理的に、そして時に感情論で。
俺は俺を正当化し、俺の考えを躍起になって肯定し続ける。それはそれで虚しい行為なのかもしれない。

「……アキヒト……君?」

「沙夜……」

自分の名前を呼ぶ、大切な人の声。
耳元から聞こえたその声は優しく、それでいてどこか遠慮がち。かなり迷った挙句に声を掛けた、という印象を受ける声だった。

沙夜は眠ってはいなかった。……いや、もしかしたら一度は眠りについていたのかもしれない。しかし今は完全に目を覚まし、しっかりとした眼差しで俺を見ていた。

「……」

……いつからだろう、全く気付かなかった。

俺はそんな沙夜の視線を、澄んだ瞳を正面から見る事が出来ず、少し焦点をずらしてしまう。沙夜はそれを見逃さなかった……というか見逃すはずもなかったのだが、何も言及はしてこなかった。俺が目を逸らした先に再度視線を合わせる事もしなかった。

「……アキヒト君」

「ん」

もう一度、自分の名前を呼ばれる。
責められている感覚は微塵もなかった。むしろ名前を呼ばれると気が楽になった。もやもやしていたものが晴れていくような感じがした。

「……顔、怖いよ」

「そうか、すまん」

素直に謝る。燻っていたもやもやがさらに晴れていく。

「……事故、起きなくてよかったね」

「ああ」

「痛いのはイヤだもんね」

「……ああ」

「ふふっ、何かおかしいね」

「……そうだな、これから死のうとしてるヤツが「痛いのはイヤ」、「事故が起きなくてよかった」とか言ってるんだからな」

沙夜も判っていた。知っていた。同じ考えを持っていた。

「でもさ、やっぱり違うよ」

「ああ」

「事故じゃ自分の意思なんて関係ないもん。奪うと奪ったは違うよ」

「……そう、だな」

同じだ。沙夜も俺と同じだ。
それが判っただけでも相当嬉しい。やはり俺と沙夜は判り合えている。繋がっている。

「今死ぬのはダメ。……そうだよね?」

「ああ、その通り」

「……うん」

俺の回答に沙夜は満足そうに頷くと、それまで以上に密着しようと顔をすりつけてくる。そして身体も大胆に寄せてくる。

「この寂しがり屋」

「それはお互いさまだよ」

「このエッチ」

「それはアキヒト君だけー」

「何でだよ、こんな公共の乗り物内で胸を腕に押し付けてきてだな――」

「ていっ!」

「……ひひゃい(訳:痛い)」

俺の言葉を遮るように沙夜の手が伸び、頬をつままれる。そしてぐにっと捻られる。それは怒りというよりも恥じらい、「胸」というワードを起点とする複雑な乙女心の顕れのようだった。

「……いひゃいひゃ、ひひゃいって(訳:いやいや、痛いって)」

「うー」

俺の言葉、沙夜に届かず。というか跳ね除けられた感アリ。
別に小さいとか揉みたいとか舐めたいとか言った訳じゃないんだからさ、ここまでやる事ねえじゃねえか……とか言ったら多分もっとやられるんだろうな。

ぐににににに……

「……」

「ううー」

やられっぱなしの俺。まあ原因はどうやらこっちにあるっぽいので止める訳にもいかず、沙夜にされるがままの状態で、この状況を上手く回避する手段を考える。

と、その時だった。

「すいませんお客さん、代車が来ましたんでそっちに乗ってもらっていいですかね?」

「あ、はい」

普通に受け答えをする俺。
昇降口の方から運転手の声が聞こえた瞬間、沙夜の手は俺の手からパッと離れていた。そしてあれだけ密着していた身体も適度に離れていた。早業である。

「……」

急にしおらしくなりやがって……って、何だ、照れてるだけか。
まあ確かにあんま人には見られたくないもんな。

「……だってさ、沙夜」

「え? あ、へい?」

よく判ってないのに返事をすると失敗する、の典型的パターンを見せてくれる沙夜。慌てて喋ったため、「はい」が「へい」になっている。……江戸っ子?

「とりあえずコート着ろ。そしたら荷物持ってバスから降りる!」

「う、うん。わかった」

俺に言われるがまま、沙夜は腰元に置いていたコートを着始める。一方の俺もすっと立ち上がり、コートに袖を通しながら先に歩き出す。
幾つか運転手に確認したい事、そして見ておきたい事があった。

「あの、すいません」

「はい、なんでしょう?」

「俺達これから樹氷を観に行くんですけど、あとどのくらいで着きます?」

「そうですね、あと15分くらいでしょうか。……ご安心下さい、まだ十分時間はありますよ」

「ロープウェイの最終運行時間は?」

「ええっと、確か夕方の5時半……だったと思います」

「5時半っすか……」

ちらりと時計に目を向けると、現在の時刻は2時半を少し過ぎた辺り。運転手は「まだ十分時間はある」と言うが、そこまで十分な時間でもないと思うのは俺だけだろうか……

「……判りました、どうもです」

「いえいえ、こちらこそ長い時間お待たせしてしまい、申し訳ありません」

「そういや代車が来たんですよね? ……別のバスかな?」

そう言って俺は外に目を向けるのだが、どこにもバスは見当たらない。近くに停まっているのは作業関係、修理をしたり運んだりする車ばかりのように見えた。

「いえ、幸いお客様は2名だけでしたので、ハイヤーを手配しました」

「あ、そうなんですか」

「勿論お金はいりませんので安心してください」

やった、タクシー移動か。
俺は運転手の言葉に心の中で小さくガッツポーズ。
まあ乗客をあんな危険な目に遇わせた上、足止めまでしてきたんだ。ここはもっと強気に運賃以上の金銭を請求してもいいのだろうが、さすがにボロが出るとバットエンド直行なのでヤメ。俺は素直に頷き、後ろを振り返る。そこにはようやく準備を終えた沙夜の姿が。

「おまたせ、アキヒト君」

「いや、ベストなタイミングだ」

「ほへ?」

俺と運転手のやり取りが聞こえていなかったのか、沙夜は頭上に「?」を浮かべながら首を傾げる。

「喜べ、これからの移動手段はタクシーだ」

「え、ホント?」

パッと明るくなる表情、そして喜びの感情を全面に出し、俺に「いえーい♪」と言いながらハイタッチを求めてくる。……恥ずかしいっての。

パチンッ

それでも俺は手を伸ばし、運転手の目の前で2人仲良くハイタッチ。
……うわ、笑われたし。何か「はいはい、ごちそうさま」みたいな目で見られてるし。

「……ええっと、まあ、そんな訳で行くぞ沙夜」

「うんっ」

歯切れの悪い俺と、思い切りのよい返事をする沙夜。ここだけ見れば仲がいいのか悪いのか微妙に映るのだろうが、運転手は相変らず微笑みながら俺達を見ている。何か癪だ。

「それじゃあ俺達はもう行きますね」

「どうもでした♪」

「ええ、どうかお気をつけて。そしてこの度は本当に申し訳ございませんでした」

そう言って深々と頭を下げる運転手。さすがにこの時ばかりは真剣な表情になり、存分に申し訳ない感を発揮。見せ掛けの誠意ではないマジ謝罪だった。

「……いや、まあ事故にならなかったからいいじゃないですか」

「そうですよ、お互い無事で何よりですって」

「ありがとうございます。そう言ってくださると助かります」

ここで再び頭を下げる運転手。これから色々と質問されたり会社に報告したりと、色々大変な事は待っているのだろうが、とりあえずこれで客からのクレームは回避出来た訳だ。多少はホッとしている部分もあるだろう。
まあ今の沙夜の言葉にあった通り、お互いに無事だったのだから何よりである。

……と、こうして俺と沙夜は運転手に軽く頭を下げ、バスを後にする事に。
さっき車内から見渡した時は確認出来なかったが、運転手の言葉通りタクシーが1台近くに停まっており、俺達が降りて来たと同時にドアが開く。

「……うわ、何か事故現場みたいだね」

「まあ被害は出なかったけど、もし事故になってたら全国ニュースものだったろうからな。これくらい大掛かりにもなるだろ」

「そうだね」

バスの周囲には数人の作業服を来た人が何かを調べ、その奥ではバス会社の社員らしき人物が話をしている。一応警察にも連絡したのだろう、パトカーの姿もあった。

「警察に止められると厄介だからな。さっさと行くぞ沙夜」

「うんっ」

沙夜が頷くのと同時にタクシーに向かって走り出す俺。この時点でかなりのタイムロスをしているのだ、この上警察に事情を聞かれたりなんかしたら面倒な事この上ない。

「すいません、ロープウェイ乗り場までお願いします」

「はい、わかりました」

タクシーに乗り込むなり、俺はすぐさま行き先を告げる。早くここから立ち去りたい雰囲気を察してくれたのか、運転手は2つ返事で車を発進。特に何か聞いてくるでもなく、そのまま目的地まで俺達を運ぼうとする。

「……ふう、これでやっと行けるね」

「ああ、そうだな」

沙夜の言葉に素直に頷く俺。しかし目的地であるロープウェイ乗り場に近付くという事は、俺達の旅が終わりに近付く事でもあるため、沙夜のように笑顔ではしゃく事は出来なかった。……というか沙夜はどうしてこんなに楽しそうなんだろう?

……すっ

と、そんな事を考えていた時だった。俺は太もも付近を触られる感触を覚え、すぐさま触っている張本人、つまり沙夜の顔を見る。

「……」

するとそこにはさっきまでとは違う、真剣かつ思い詰めたような目をした沙夜がいた。
顔は普段のまま、おそらく運転手に悟られないように表情やキャラを作っているのだろうが、目だけは違った。

……そっか、そうだよな。

沙夜も俺と同じ心境にあるんだよな。何を当たり前な事を……
俺はその沙夜の瞳を、全てを理解し、この先に何があるかを把握し、後に待ち構えている結末を知っている瞳を見て色々と思い知らされる。

ある種達観したような沙夜の瞳、そして心の内を垣間見てしまい、一気に顔から明るさが消えていく俺。鏡も無いのにそれが判るという事はきっと相当なのだろう。

……ぎゅっ

それまで「触る」程度だった沙夜の手が「抓る」に変わる。
伝わってくる「そんな顔しちゃダメ」という注意、そして「最後まで楽しく楽しく……ね?」という優しい意識。……やはり沙夜はよく判っていた。というか俺がバカだった。軽率だった。知慮が浅かった。

「いやー、それにしても雪、すごいですねー」

「あれ? お客さん他所の人?」

「そうなんですよ、普段は雪とは無縁の生活を送ってるんで、真っ白な街並みが新鮮に見えちゃって」

「ははは、そりゃあよかった。まあ地元の人間からしてみれば鬱陶しいだけなんだろうけど、見る人によっちゃキレイに見えるんでしょうねえ」

「確かに雪はキレイなんですけど、やっぱり寒さがキツイですぅ。……頬とか真っ赤になっちゃうんですよ?」

と、俺と運転手の会話に沙夜も混じってくる。
何かを誤魔化すように、空気を変えたいがために仕掛けた会話だったのだが、どうやら上手く行った……というかいい方向に転んだようだ。

 5

「はい、お待たせ」

「ありがとうございました」

「どうもですー」

その後、俺と沙夜はタクシーの運転手と簡単な世間話を、言うなれば当たり障りの無い話題で目的地までの時間を潰し、ようやくロープウェイ乗り場に到着。
バスだと停留所から結構歩かないといけないのだが、その辺りはさすがタクシー。建物の入口前に着けてくれた。

「それじゃあな、お2人さん。樹氷、仲良く見なよ?」

「はーい♪」

「ええ、そのつもりです」

運転手の言葉に対し、俺と沙夜はそれぞれ自然な受け答えをする。そしてしっかりと手を振ってタクシーを見送り、俺はもう乗る事は無いであろう「自動車」というものを感慨深く見つめる。

「……自分で運転したかった?」

「んー、どうだろ? 雪道はやっぱ慣れてる人に任せるのがいいじゃね?」

「それもそうだね」

ここに向かう途中で車を滑らせて事故を起こしてしまう……
そんなお粗末な結末はご免被りたい&先のバスの一件で起きかけていたため、俺は素直に運転手役を辞退。さすがに凍結した山道を走らせる自信はあまりなかった。

「……さ、乗るか」

「うん、せっかくだからちゃんと見ないとね」

「そうだな」

俺はそう頷くと、軽く左腕を曲げて腕と身体の間に適度な隙間……というか円を作る。するとそこに沙夜の手が伸び、しっかりと自分の腕を組ませてくる。
これが俺達2人の歩く時の基本形。建物内に入り、滑って転ぶ可能性がなくなったため、俺はいつものように「指定席」を作り出し、沙夜もその所定の位置に落ち着いていた。

「すいません、2人です」

「いらっしゃいませ。それではお2人で料金の方、1100円になります」

「ええっと……はい、これでちょうどですね」

「ありがとうございます。それでは次回のロープウェイ到着時間まで3分程ありますので、それまでお待ちくださいませ」

「あ、はい」

慣れた手つきで手を動かし、マニュアル通りの対応を気だるそうに行なっている売り子さんからチケットを受け取る。そこには晴れた日、それも超晴天時に撮ったと思われる写真が載っていた。どうせなら最後にこういう青空を見たかったな、と思う俺。

「ん、切符」

「はーい」

「あと3分だって」

「じゃあ飲物でも買う?」

「俺はあんま喉渇いてねえぞ」

「じゃあちっちゃい缶を半分こね!」

沙夜はそう言うと自販機に向かって歩き出す。
……う〜ん、半分こか。俺的にはお茶やコーヒーの類が嬉しいのだが……って、なんでここまで来てアセロラジュースとか買うんだよ。どんだけ短期間にビタミンCを補給したいんだ。

「はい、アキヒト君先に飲んでいいよ」

「……いや、沙夜が先に飲んでくれ。ほぼ全部飲んでくれても構わない」

買ってきたばかりのジュースを笑顔で差し出す沙夜だったが、俺はその気持ちだけありがたく頂戴し、中身の大半を沙夜に任せる。

そして言葉通り最後の一口だけ飲ませてもらい、間接キスを済ませた所でロープウェイが到着。俺は少し離れたゴミ箱に向かって缶を投げ入れ、改札に向かう。
天気はあまりよくないのだが、客の数はそれなりに多いように思えた。乗り込んだロープウェイは定員50人程度の広さだったのだが、山の上を目指して動き出す頃には結構な数の客で埋まっていた。もしかしたら俺達が知らなかっただけで、ここはかなり有名な観光地だったのかもしれない。

「うわー、キレイだねー」

「ああ、あの中に凍死した人間がいないかどうか、思わず探しちまうよな」

「……全然同意してないじゃん。「ああ」って頷いておいて凍死とか言うんだもん、ひどいよー」

「悪ぃ悪ぃ、つい素直にキレイって言えない癖が……」

「そんな癖、ないでしょ?」

「……すいません嘘吐きました」

「もー、どうしてそんな嘘言うかなー?」

この旅を始めてから、沙夜と一緒に行動を共にするようになってから、俺は全国各地でたくさんの素晴らしい景色を、思わず見とれて動けなくなるほど綺麗な景色を見てきた。
今見ている樹氷もそれらに負けないくらい美しく、また幻想的でもあった。しかし俺はその樹氷よりも、それを見て表情を輝かせている沙夜に、ガラスに額を付けながら景色に見とれている沙夜に見とれていた。沙夜の方が綺麗だ、なんて事を考えていた。……さすがにそんな事をこんな人がたくさんいる所で口にするのは恥ずかしすぎる。それにもし喋ろうものなら、照れて加減が効かなくなった沙夜からビンタ、もしくはボディーブロー気味の強烈な一撃が飛んでくる可能性が高い。出来ればそれは勘弁被りたい。

……ポーン♪

『お疲れ様でした、間もなく山頂乗り場に到着いたします。お疲れ様でした、間もなく――』

しばらく樹氷を、そして沙夜の横顔を堪能した所でアナウンスが流れ、ロープウェイはゆっくりと減速を始める。

……着いたか。

いや、心境的には「着いてしまった」という意味合いの方が大きいのかもしれない。……おそらく再びロープウェイに乗って下山する事はないだろう。

「とうちゃくー」

「……」

沙夜も同じ事を考えているのだろうか? それを判った上でここまで底抜けに明るく立ち振る舞っているのだろうか?
だとしたら沙夜はすごい。そして強い。俺は今日になって何度目かの、この旅を始めてからで換算すれば相当な回数となる、沙夜の芯の強さを実感する。

……この強さがもっと前から、過去の生活の中で上手く作用していたら……
思わずそんな事を考えてしまう俺。沙夜と出会ってから半年弱、俺は少なからず沙夜の事を理解し、判り合える存在になったと思う。

そんな俺がふと考えてしまう、沙夜の「if」。
もし、もしも、もしかしたら……
それらの言葉が無数に俺の頭の中を飛び交い、心に決めていた、決して揺らぐ事はないと思っていた部分に揺さぶりをかけいてくる。

考えたくはない。考えると出てくるのはネガティブな、望んでいないものばかり。
……くそっ、どうしてここまで来て! そこまで往生際が悪いのか俺は!?

「……ほら、アキヒト君早く早くー!」

「……っと」

何をしてるんだ。また沙夜に抓られるぞ。
俺はまたしても沙夜に、沙夜の笑顔と俺を呼ぶ声に助けられる。

……よし、もう迷わねえ。脳裏をかすめる事さえ許さねえ。
俺は沙夜との決まりを、約束を、誓いを守るんだ。果たすんだ。

そう言い聞かせ、俺は特別な一歩を踏み出す。

……もう、前に進む意外にないのだから。

……もう、後ろを振り返る必要はないのだから。

この先にあるのは、この先にある結末は、決して逃げでもなければ後ろめたいものでもない。

……俺達は、これ以上ない前向きな終り方をするんだ。

そう俺は心の中で呟く。

気のせいだろうか、沙夜が「うん」と言ったような気がした――




終章「旅の終わり、終わりの旅路」

 1

「……」

「……」

息を潜めていた。そうする必要があった。

『……大丈夫? 体勢、キツくない?』

『……うん、何とか。アキヒト君は?』

会話は出来ない事はないが、聞こえるか聞こえないかのギリギリで話す必要があった。しかも常に周囲に気を配りながら。

『こっちも何とか。……ただ』

『ただ?』

『沙夜の髪がいい匂いでさ。ちょっとドキドキしてる』

『ば、ばかっ! こんな時にそんな事……』

『それと沙夜の綺麗なヒップラインが見放題なのもたまらないものが……』

『……』

ぎりぎりぎりぎりっ

「……ッ!?」

あまりの痛みに思わず声が出そうになるが、何とか気合で声を飲み込む。
まさか内股を抓られるとは思わなかった。しかも相当股間に近いし。

……って、そんな事言ったら今度は急所蹴りとか飛んできそうだな。
この身動きすら満足に取れない状況でその攻撃は危険すぎる。避ける術がない。そして攻撃を受けても我慢出来る自信もない。

『……反省した?』

『うん、一生分はした』

『……それはしすぎ』

呆れたような、それでいてどこか可笑しそうな声の沙夜。
密接したままの会話というのは今までなかったような気がする。

――ここは山頂にあるロープウェイ乗り場のトイレ内、物置の中。
俺と沙夜はそこに隠れ、完全に人がいなくなるのを待っていた。

時刻は……そろそろ6時半、という所だろうか。既に営業は終了しており、建物内は次第に肌寒くなってきている。まあ暖房を切ればそうなるだろう。

……山頂のロープウェイ乗り場に着いた俺達は他の客同様、展望フロアで周囲の景色を楽しんだり、土産物屋を物色したり、たいして美味くもないくせに割高なレストランで軽食を摂ったり……と、観光客丸出しの行動を取っていた。

勿論それは本当の目的を悟られないため、カモフラージュの意味合いもあった。
だがそれ以上にお互い楽しもうと、せっかくなんだから望遠鏡を覗こうと、樹氷パフェなるブツを拝もうと、存分に建物内を回って遊んだ。

そして本日最後のロープウェイが出る時間が近付き、BGMが「蛍の光」に変わった直後、俺達は本当の目的を果たすべく行動を開始した。

事前に隠れるのに適した場所はないかと探した結果、この場所が候補に上がった。
場所は2階にある資料館近くの男子トイレ。まず人通りが少なく、2人で中に入っても見つかりにくい事。そして物置の広さ。快適な広さとまではいかないが、何とか隠れるだけのスペースはあった。

だがこれだけで候補として決定する訳にはいかなかった。営業終了後に行なわれるであろう掃除、そして戸締り等の各種点検が一番の問題だった。

俺はこの物置に目を付けた時、真っ先に扉の裏側を調べた。こういう場所には清掃チェック表が張られている場合が多く、それを見る事でかなりの情報を得る事が出来る。
何時と何時に掃除をするのか、営業時間外の掃除は閉館後に行なうのか、それとも次の日の開館前に行なうのか。それらが判ればこの場所は安全なのかどうかが判る。……以上、その昔短期のバイトでデパートの掃除をしていた経験を生かした俺の目算終わり。
何か沙夜には「すごーい、アキヒト君頭いい!」とか大絶賛されたのだが、忍び込む術を持っていてもあまり嬉しくなかったりするのはナイショだ。

……こうして観光&楽しむモードの傍ら、やる事はしっかりとやっていた俺。その甲斐あって俺達2人は誰にも見つからずに営業時間の終了を迎え、今は用心のため様子見を続けていた。

『……ねえ、もうそろそろよくない?』

『いや、まだ待った方がいいかも』

『どうして?』

『確かにロープウェイの最終運行は5時半だ。でもそれはあくまで客が乗る便であって、ここで働く人を乗せる便があってもおかしくない。というか無い訳がない』

『そっか……、ここには車じゃこれないもんね』

『そゆこと。だから営業終了後、もう1回はロープウェイが来ると思うんだ。……でもまだロープウェイは来てない』

『……』

コクリと頷く沙夜。俺は薄暗い物置の中、沙夜の反応を確認しながら言葉を続ける。

『人もいなくなったし、音楽も鳴ってない今だったら、きっとロープウェイの音がここにも聞こえてくると思う。だから動き出すのはそれから。……オッケー?』

『うん、わかった』

沙夜はそう言うと、それまで以上に聞き耳を立てる。足音だけでなく外から聞こえてくる物音も漏らさず聞き取ろうとするその姿勢、その意気込みは頼もしいの一言だった。……実は俺、あんま耳よくないんだよね。

『……』

『……』

こうしてしばらくロープウェイ音待ちの状態が続き、その間は基本的に無言な俺と沙夜。それでも途中で何回か言葉が交わしたのだが、どれも一回の受け答えで会話は終わっていた。

そして待つ事15分……

……ブイィィィィン……

「……あ」

「ん」

2人同時に気付く、低く唸るようなモーター音。それは間違いなくロープウェイ到着を意味する音だった。

「やっぱりな」

「さすがだねアキヒト君!」

ここまでくればもう館内には誰も残っていないだろう。今頃は全員乗り入れ口付近にいるはず……
そう判断した俺達はようやく普通のトーンで喋り始め、お互いに大きく息を吐く。どうやらかなり緊張していたらしく、反動で一気にダラけてしまう俺がいた。

「んっ、んん……っ」

背伸びをする沙夜。同時に伸ばした腕が俺の鼻先をかすめる。ちょっとビックリ。

「おい、そういうのはここから出てやれ」

「あ、そっか」

てへへ、と言いながら沙夜はノブに手をかけ、そのまま物置の外に。
それまでも肌寒さは感じていたが、さらにひんやりとした空気が頬を撫でる。館内は俺が思っていた以上に冷え込みが激しいようだった。

「……さて、と」

「うん、いよいよだね」

「ああ」

「……緊張、してる?」

「いや」

ぐっと背筋を伸ばし、ボキボキと首の骨を鳴らしながら俺は鞘の問いかけに答える。この普段と変わらない仕草からも判るように、俺はとてもリラックスしていた。……これから2人でこの世を去ろうとしているのに、である。

「私も緊張はない、かな」

「そっか」

「多分アキヒト君もそうだと思うけど、もう怖さとは感じてない。旅を続けていく内にその辺は自覚してた」

「うん、俺も」

そう、死ぬ事に恐怖はない。感じようがない、と言った方がいいのかもしれない。
旅を始める時から、いや、旅をしようと考え、その計画を伝えた時から、俺は半ば恐怖心を捨てていた。切り取っていた。それは計画を聞き、同意した沙夜も少なからず同じ気持ちだったと思う。

そして旅が始まり、色々と経験していく内に、時間の経過と共に死への恐怖感は薄れ、ある種の覚悟が出来ていった。

勿論全ての恐怖が消え去った訳ではない。今言ったように、欠落していったのは「死」への恐怖感のみ。他の恐怖は普通に感じたし、だからこそ正体がバレそうになった食堂やバスの一件では存分に恐怖感を覚えた。

「……さ、行くか」

「……うん」

ぎゅっと握り合う手と手。
どちらかが差し出したでもなく、要求したでもない。自然に2人の手が伸び、どちらからともなく握り合ったのだ。

……もう、俺達の心は決まっていた。固まっていた。これ以上ない堅固なものになっていた。そう思えてならなかった。

 2

ギィィィィ、バタン

静かに閉めたつもりだが、無人の建物内ではやけに大きく聞こえるドアの音。
しかし誰かが出てくる事はなく、懐中電灯の明かりを向けられる事もなく、俺達はそのまま入口を目指して歩く。警報機の類がどうなっているかまでは知らないが、まあ作動したところですぐには来れないだろう。既にここは陸の孤島と化していた。

外部からの邪魔は入らない。内部にいるのは2人だけ。そして外は木も凍る氷点下の世界。さらに今日は風も雪も強い。

……ある意味、最高の環境だよな。

俺はそんな事を考え、少しだけ口元を緩ませる。
一方の沙夜も余裕しゃくしゃくといった感じで、暗闇の施設内を楽しく見渡していた。

「ねえ、ちょっとレストランに寄ってオリジナルパフェとか作ってみよっか? さっき食べた樹氷パフェなんか目じゃないヤツ」

「やめとけー」

「じゃあお土産屋さんでおまんじゅうを2、3個ほど……」

「やめい」

「うううー」

心底残念がる沙夜。
まあやってもいいが、その後で恥をかくのは俺達の親族なんだぞ、と。
普通に自殺ではなく、散々飲み食いしてから自殺だと悲壮感が伝わってこねえじゃねえか。
……って、別に悲壮感は元からないか。

「あ、でも最後に暖かい飲物くらいは欲しいな」

「そうだな。小銭くらいならまだ残ってたし、1本ずつ買うか」

「やっぱ買うんだ。売店から取ってこれるのに」

「まあな」

「変なところで真面目だよね、アキヒト君は」

「うっせ」

そう言うと俺は財布を取り出し、自販機の前に。そして「随分軽くなったなあ……」と呟きながら、まずは自分が飲むコーヒーを購入。次に沙夜にリクエストを取り、ご希望のココアを購入。冷えた手に心地よい暖かさを感じつつ缶を取り出し、俺達は外へと向かう。

ふと近くの窓を見ると、外は真っ暗。たまに吹き付ける雪の白が見えるも、基本的には闇が広がっていた。

……ガチャ

ドアのカギを開け、取っ手に指をかける。開くまで少しだけ間があったのは気のせいか、それとも寒いのが嫌のか、はたまた強風に吹かれて純粋にドアが開きにくかったのか……
まあこの際どうでもいいや。理由なんか何でもいいよ。どうせ意味ないし。

ぐいっ

力を入れて押した瞬間、それまでとは比べ物にならない程の冷気が2人を包む。
これが雪国の夜、氷点下の世界なのか……と思った。

「こういう場合、レディーファーストはおかしいよな」

「そうだね」

「ん、それじゃ俺が先に……と」

そんな普段と変わらないやり取りを挟み、最初に俺が、続いて沙夜が外に出る。
冷気はかなりのものだったが、風はそこまで強くないように思えた。……それは今だけかもしれないが。

「ううっ」

「本当に寒いと足元からくるんだな」

「そうだね……」

前に数歩進んだだけなのに、早くも体温が奪われつつある2人。
しかし俺は臆する事なく歩き、階段がある所まで進む。そこはちょうど麓の景色(といっても今は小さな明かりがちらほら見えるだけだが)が見渡せるポイントで、日中に通った時、「……ここが最後ってのも悪くないな」と思った場所でもある。

「……うん、いいね」

「沙夜もそう思うか?」

「うん」

それまで少し後ろを歩いていた沙夜がすっと俺の横に並び、風に髪をなびかせつつ、寄り添ってくる。

「さすがにここに直接座るのは抵抗があるな……」

「あはは、確かに」

「……ま、こうするつもりだったんだけど」

俺はそう言うとコートを脱ぎ、2人並んで座れるように敷く。

「さ、どうぞ」

「ありがと」

ここで「寒くない?」とか「大丈夫?」と言わなかった辺り、沙夜は俺がこうするであろう事を知っていた、察していたのかもしれない。

だから……

「んしょ、と」

沙夜もコートを脱ぎ、両手に持って広げる。どうやら俺と並んで座った後、ひざ掛けのように使うつもりらしい。

「ったく、健気な事をしてくれるなあ」

「それはお互い様。ね?」

「……だな」

沙夜の言葉にふっと笑い、俺は自分で敷いたコートに腰を下ろす。そして先に座っていた沙夜のすぐ隣、完全に密着するように身体を寄せ、膝に沙夜のコートを掛けてもらう。実際の防寒効果はどうか知らないが、俺にはとても暖かく感じられた。最高の温もりだった。

「……ほい、ココア。早く飲まないと凍るぞ」

「あはは、この状態だと冗談に聞こえないね」

そう言いながらココアを受け取り、早速口を付ける沙夜。缶の中から白い湯気が、そして沙夜の口から白い息が一気に立ち込め、ふわっと上がった所ですぐに消える。

……プシュ

せっかくなので俺も暖かいうちにコーヒーを飲む事に。普段はブラック派なのだが、何故か少し甘めのものを買っていた。寒いからだろうか。

「ん、おいし」

「……甘い。でも美味い」

それぞれ普通の、本当にごくごくありふれた感想を口にする。

そして俺達はここから他愛もない話を、それこそ雑談と呼ぶに相応しい会話を始める。
内容はさっきまでいた物置の狭さに対するグチから始まり、土産物のセンスのなさは異常だとか、バスの話、汽車の中で出会った老婆の話……と、どんどん時間軸を遡っていった。

夕焼けが綺麗だった話、大失敗だった食事の話に大正解だった宿の話。
旅の途中で出会ったいい人の話、運転中に2人で盛り上がった話、道を間違えた話、思わず照れてしまった話、料理を作ってくれた時の話、別荘に忍び込んだ時の話……

旅の途中で起きた出来事は相当な数があり、それこそ語る気になれば一晩や二晩は簡単に明かせるだろう。それだけ俺と沙夜がしてきた旅は充実していて、実りのあるものだった。

「……で、あの日のレスがちょっと遅くなったんだよ」

「そうだったの? 早く言って欲しかったなー」

「いやいや、言ったから。ちゃんと説明したから」

「えー? 聞いてないよ?」

「ずりぃ……」

と、話の内容は2人がまだ直接出会う前、PC間でのやり取りしかしていない時期にまで戻っていた。
もうかなり昔の事のように感じるが、実際にはまだ1年も経っていない……
その感覚が不思議で、どことなくおもしろかった。

 3

「……」

「ま、そういう事がありましたよって話なんだけどね」

「……そっか」

「でもそれなら沙夜だった同じような経験あったんじゃなかったっけ?」

「……え、あった……かな?」

「……沙夜?」

「……」

寒空の下での他愛のない会話から数十分、沙夜に少し異常が現れ始めた。

……反応が遅い。寒さで身体が冷え込み、上手く呂律が回らないのか、それとも眠気が襲ってきたのか……

「……あっ、ご、ごめん。何の話だっけ?」

「ん、ああ、アレだ。俺が2日間寝込んだ時の話」

「はいはい、ちゃんと覚えてるよ。確かあの時って――」

……後者、だな。

俺は再び普通に喋り出した沙夜を見ながら、彼女の言葉に頷きながら、いよいよその時が差し迫ってきた事を悟る。……というか俺もさっきから眠気が……

「……で、私はそこでこう思ったの……って、アキヒト君?」

「……う、大丈夫、聞いてるから……」

嘘ではなかった。気を抜くとすぐさま夢の世界行き、つまりあの世行きという状況下の中、俺は何とか意識を保とうとしていた。……まあ発した言葉はかなり眠たそうに映っただろうが。

「……眠い、んだ?」

「少しな」

「そっか……」

「沙夜もさっきヤバかったぞ」

「ホント……?」

「ああ」

どうやら落ちかけていた記憶もないらしい。
……これは……本格的に……や、ば……

「クッ!!」

意識が遠のく間際、ギリギリの所で俺は目を見開き、一気に意識をこっち側に持ってくる。今のでかなり眠気は収まった。……おそらく一時的だろうが。

「大丈夫……?」

「おうよ! ……と自信たっぷりに言えたらどんなにいい事か」

「あははは……」

笑う沙夜。その顔は以前に徹夜で移動をしていた時、運転席から見た事がある顔だった。目がかなり細く、ちょっと口を開けている。その時は普段のキリッとした表情とのギャップに悶えたのだが、さすがに今は「うひょー、たまんねー」とは言えなかった。

「……なあ沙夜」

「うん?」

「もしこれから先、どっちかが眠ろうとしてたら、寝そうになってるを見たらどうする? 何とかして起こすか? それとも……」

「……そっとしておこうよ」

「……」

少しは悩むかと、どちらがいいか考えるかと思っていたのだが、予想に反しては沙夜は即答。しかも起こさない方向で行くと言う。これも少々予想外だった。

「……ん、りょーかい」

「本当は2人一緒に、ってのがいいんだけどね」

「そうだな」

またしても朦朧とし始める意識。さっき回復したばかりだというのに……
恐るべし睡魔。恐るべし冷気。

「……なあ沙夜」

「……」

「沙夜?」

「……違うの」

……?

違う? 何が違うんだ?

俺は沙夜のその反応に、睡魔に負けそうな状態による意味不明な言動ではなく、しっかり意識がある状態にも関わらず理解出来ない事を口にする沙夜に驚く。一気に眠気が吹き飛んだような気がした。

「違うって……何が?」

「……私の名前、私の本当の名前……」

「!!」

……そうか。俺はここでようやく彼女の言葉が意味するものを理解する。

「沙夜」という名はあくまで通称。元は英語表記のハンドルネームである「SAYA」を便宜上漢字に替えたもの。本名ではないのだ。

俺はずっと沙夜、もしくはSAYAで呼んでいたため、それに気付くのが遅くなってしまっていたようだ。……そうか、そうだった。

「アキヒト君は本名なんだよね」

「ああ。漢字表記にすると年号の昭和、あれの「ショウ」にジンで昭仁な」

「そうなんだ。明るい人って書く方だと思ってた」

「漢字で昭仁って書くと、結構「ショウジ」って呼ばれる事があってさ。訂正すんのが面倒だから普段はカタカナにしてる」

「そっか、昭仁君、か……」

「……じゃあ沙夜は? 沙夜の本名は?」

と、彼女の本名を聞きだそうとする俺。
聞くタイミングとしてはここしかなかった。流れとしてはこれ以上ないタイミングだった。

……しかし、どこか不安だった。何か聞いてはいけない気が少しあった。聴き終えた瞬間、チクリと胸が痛むのを感じた。

「……私の名前、か」

「……」

俺のようにすんなりと、「私の本名は○○っていうんだ」と言って欲しかった。
……が、それは俺の希望でしかなかった。願望でしかなかった。

「……はあ」

ため息。それは落ち込んでいる時とは違い、悩んでいる時に吐くため息のように思えた。

「……うん、言わないとね。昭仁君にはちゃんと教えないとね……」

「い、いや、何か特別な理由とかあれば無理しなくてもいいん――」

「ユウキ」

「……え?」

「だから、ユウキ」

無感情、無表情でそう繰り返す彼女。

……ユウキ。それが沙夜の本名である事を理解するまで、少し時間がかかってしまった。

別におかしいとは思わない。世辞抜きに素敵な名前だと思う。
でも本人は言うのを躊躇った。そして今まで全く別の、関連性も無ければアナグラムでもない、沙夜という名を使った。それはどうしてなのだろう?

「ええっと、漢字表記だと勇ましいの「ユウ」に希望の「キ」で勇希、でいいのかな? それとも……」

「勇ましいの「ユウ」に空気の「キ」、それで勇気」

「そっか、勇気か」

……へえ、勇気か。
名前のヨミとしては同じ「ユウキ」って知り合いはいるけど、この漢字は初めてかも。
と、てっきり「勇希」か「祐樹」だと思っていた俺は感心交じりに頷く。
……全然いい名前じゃん。

「……おかしいよね」

「え? なんで?」

「おかしいよ」

「……」

もしかして男の名前にも女の名前にも両方あるからそう言ってるのか?
確かに子供の頃ならそういう理由でからかわれる事はあるかもしれない。それがトラウマになっている……のか?

「あれ、もしかしておと――」

「ううん、違う。性別は関係ない」

「……」

言い終える前にピシャリと否定される。
何か普通に不正解を出してしまったのではなく、NGワードを出してしまった気分だった。

「……おかしいよ、本当におかしい」

「そんなこと……」

判らない。とりあえずおかしい事はないと思い、否定はするのだが……

「……私に勇気なんてないのに」

「……え?」

「どうしてこんな弱虫に勇気なんて名前を付けるの? どうしてこんな臆病者に勇気なんて名前を付けるの? どうして……」

じわっと溜まる涙。震える身体。それは決して寒さからくるものではないだろう。
そして悔しそうな声は嗚咽混じりとなり、沙夜は……いや、勇気は泣き崩れる。溜まっていた感情を全て出すように、我慢していたものを全部吐き出すように。

「……ど、どうじでわたしが、ゆうき、なの……ううっ」

「……」

痛かった。彼女が発する言葉の全てが痛かった。そして重かった。

彼女は自分の名前に相当なコンプレックスを感じ、生きていた。それは相当に辛い事だろう。

学校の成績が悪ければ勉強すればいいだろう、歌が下手だったら練習すればいいだろう、背が低ければ牛乳を飲んでたくさん寝ればいいだろう。
コンプレックスと呼ばれるものには頑張り次第で解決出来るものが、克服出来るものが多い。

しかし、名前は変わらない。変えれない。

それは名前にコンプレックスを抱いてしまう人には相当辛いと思う。
例えば身体的な部分にコンプレックスを感じている人であれば、その部位なり特徴を言わないようにする事が出来る。周囲もそう接せば問題はない。
だが名前は呼んでしまう。そして呼ばれてしまう。さらに便宜上どうしても名前を口にしないといけない時だってある。

きっとそれは名乗る度に無条件で「自分は勉強が出来ません」「自分は人より背が低いです」と抱えているコンプレックスを自己申告しているのと同じ。
それは辛いだろう。名前を変えたくもなるだろう。

「……わたしなんか、ぜんぜんゆうきなんかないのに、なまえがゆうきって……」

「……」

とん、とん……

「わたしなんか、わたしなんか……」

「……」

とん、とん……

俺は何も言わず、ただ沙夜であり勇気の言葉を受け止めては、優しく背中をさするだけ。
しっかりと身体を密着させ、もう泣かなくていいと、安心してくれ、と伝える。
名前にコンプレックスを抱いた事のない俺に、残念ながら彼女の気持ちを完全に理解する事は出来ない。軽々しく「わかるよ」なんて言えない。口が裂けても言えない。もしそんな事を平然と言えるヤツがいたら、そいつはゲスだ。偽善者の面を被った畜生だ。

「……うううっ」

カラン、カラカラカラ……

ちょうどその時、彼女がそれまでずっと持っていたココアの缶が手から抜け落ち、そのまま風に吹かれて転がっていく。
ココアは完全に空ではなかったらしく、口が下を向く度に少し中身が外に出る。
その形状は完全な液体ではなく、少しシャーベット状になっていた。

あれだけ暖かかったココアが……

と、俺は改めてこの環境を、自分達が置かれている状況を思い知らされる。

俺も彼女も、かなり危険な所まできているに違いない。
その証拠に俺はもう寒いという感覚がほぼなくなり、彼女はほとんど空になった缶すら握れなくなっている。

……もう、立ち上がるのも厳しいかもな……

別に実践する気はさらさらないのだが、おそらく立ち上がれないだろう。それに立ち上がったところで何が出来るというのだろう。

「アキヒト君……」

「ん? どうした……沙夜?」

自分の名前を呼ばれ、俺は悩んだ末に呼び慣れた方の名前を、彼女を「沙夜」と呼んだ。
理由は……俺の事を「昭仁」ではなく「アキヒト」と呼んでくれたような気がしたから。例え読み方は同じでも、声に出すのは同じ音でも、それでも感情の込め方、寄せる想いによって差はあると俺は思う。確実にあると思う。

「ありがと、アキヒト君」

「何言ってんだよ沙夜、別に普通に受け答えしただけじゃねーか」

「あはは、そうだね。……あははは」

「ったく、何をいきなり感謝してくれてんだよ、この……」

と、ここで俺の視界が揺らぐ。いや、正確には何かで滲んではっきり見えなくなる。

最初は雪が目に入ったと思った。
でも違った。おかしくなったのは目だけでなく、鼻も喉の奥も変だった。

「う、ううんっ」

わざとらしい咳払い。
……俺だってその可能性くらい気付いていた。
そうだろうな、という予想は付いていた。

「どうしてアキヒト君が泣くの?」

「……しらねえ、よ。何か嬉しい事が、んんっ、あったからじゃねえ……の?」

頬が熱い。しかも一部分だけやたらと。
それは瞳の下、一本のライン上だけ。

「……そっ、か。嬉しい事が、あったんだ…… よかった、ね……」

「ああ、よかった。よかったよ。ほ、ほんどうに、よかっ……」

最後の方はもう言葉にもならない。喉がしびれて上手く声が出なかった。

……そして、頬に伝わる熱いラインは2本3本と増え、やがて頬全体が熱を持つようになってきた。

もう、寒さは完全に感じていなかった。

そして、代わりに俺は暖かさと嬉しさを感じていた。

 4

「……眠い?」

「うん、少し」

「そっか」

「アキヒト君は?」

「微妙に」

劇的なまでに泣き、涙を流した俺と沙夜だったが、それも落ち着き、今は2人肩を並べて寄せ合い、一緒に空を眺めていた。

いつのまにか風は止み、ちらついていた雪も消えた。空を覆っていた雲も消え、俺達の頭上には星空が広がっていた。

月はあまり満ちてはおらず、三日月と半月の中間くらいだったが、それでも優しい光で俺達を照らしていた。

黒だけで構成されていると思われた外の世界はその姿を替え、月の光を浴びた雪はコバルトブルーに、空は黒一色から濃紺へと変わっていた。

「手、握ってる?」

「もちろん」

「そっか……」

「感覚、ない?」

「うん」

「実は俺も」

「え、そうなの?」

「ああ。見ないとわからん」

いつものように沙夜の手をぎゅっと握ろうとするも、手は何も反応しない。
実はさっきから何度となく試みているのだが、悲しいかな一度も動いてはくれなかった。

「……残念だな」

「ん、何が?」

「せっかくアキヒト君に手を握ってもらえってるのに、その自覚がないなんてさ」

「何言ってんだ、ずっと握ってきただろ? もうそんなレア度はねえぞ」

「ううん、レアだよ。私にしてみればずっと変わらない」

「恥ずかしい事言いやがって」

気分的には額でも小突いてやりたい所だが、もう片方の腕も自由が効かなくなってしばらく経っているため断念。もしかしたら今現在、問題なく動くのは目と口くらいなのかもしれない。

「……」

「どうしたの?」

「ん、額でも突いてやろうと思ったけど、もう腕が動かねえ。実に残念だ」

「あはは、それは残念だね」

くすくすと笑う沙夜。腕が動かない事に対してはもう完全スルーである。おそらく沙夜の身体もロクにいう事を効かなくなっているに違いない。
その証拠にかなり前から膝にかけているコートが捲れてスカートが見えているのに直そうとしていなかった。

「……もうそろそろだな」

「そろそろだね」

近付きつつある最後、迎えつつある終焉。もうその足音は俺達の真後ろまで到達し、足踏み状態を続けていた。

……本当に、もうそろそろで俺達は終わるのである。
何度も言うようだが恐怖はない。後ろめたさも感じない。罪悪感はない事もないが特に後悔はない。
もう俺の中では「一眠りするか」程度の感覚でしかなくなっていた。そしてそれは沙夜も同じ感覚で接してると思われる。彼女から悲壮感は全く感じられなかった。とてもリラックスしていた。

「……ねえ?」

「ん?」

「すっごいおかしな質問していいかな?」

「どーぞ」

「……あのさ、もし今日ここに来なくて、そのまま旅が続いて、色々あって落ち着く事が出来て、家庭なんか持っちゃったりしたらどうなってたかな?」

「……」

「ええっ、無言!?」

「……ぷっ」

さすが先に「すっごいおかしな」と付けただけの事はある。もう終点が見えているというのに、こんな豪快なもしも話を振られるとは思わなかった。

「あはははは、面白いなあ、その質問」

「うううっ、だから前置きを入れたのに……」

恥ずかしそうに弁解する沙夜。こんな状況においても沙夜は存分に可愛かった。

「うーん、家庭か。さすがに考えてもなかったな……」

「あ、別に後悔してる訳じゃないからね?」

「わかってる。もし本気で後悔してるならこの状況でこんな問いはしない。というか出来ない」

「あははは、確かに」

「……だから余計に質問の意図が掴めない。今になって俺の甲斐性でも試す気か?」

「ち、違うよぅ。そんな事しなくてもアキヒト君の事はよーく判ってるもん!」

「うっわ、恥ずかしいセリフと堂々と……」

そんな事言われたら俺も照れちゃうじゃねえか。っていうか何か頬がぽーっとしてきたじゃねえか。

「もうっ、何てコト言わせるのアキヒト君!?」

「悪いのは俺っすか……」

へいへい、もうどうにでもしてください。
……と、半分いじけモードに入る俺。うーん、ガキっぽいぞ。

「……もう、誰も悪くなんかないよ」

「そうか、それは助かる。……で、なんであんな質問をしてきたん?」

「……やっぱり私も女の子だもん、少しは結婚とか子育てに憧れたりするんだよ?」

「そ、そうか……」

うっ、可愛い。殺人級のセリフ&表情じゃねえか。
俺は慌てながらも何とかそう答え、冷静を装うとする。……ちなみに「どうせ死ぬなら可愛さで悶え死ぬのもアリだな」と思ったのは内緒の方向でお願いしたい。なんだそりゃ。

「でもその場合、子供に私達の馴れ初めとか聞かれたら答えに詰まっちゃうよね」

「まあ、確かに逃避行してましたとは言いにくいよな」

っていうか一番先に出てくる問題点が2人の馴れ初めってのもどうなんだ?
もっと他にないのか沙夜……

「あー、また笑ってるー」

「すまんすまん、ちょっとな」

「ちょっと何?」

「ん、新婚生活とか色々考えてた。そしたら自然と顔がにやけた」

「う……」

「笑ってしまってすまん」

「い、いいよ、それなら許しちゃうから……」

「ははは、サンキュ」

ああもう、可愛いなあ沙夜は。
こんな子と一緒に旅が出来た事、これはもっと誇ってもいいだろう。
そして色んな体験、経験を経て、一緒に最後を迎える事、これも存分に誇っていいように思える。

……ああ。

甦る記憶、さっき沙夜と2人で喋った思い出話よりも鮮明に浮かぶビジョンの数々……、これが俗にいう「走馬灯のように記憶が……」ってヤツなのか。

俺は自分でも知らない間に目を閉じ、その回り巡ってくる懐かしい出来事を思い出していた。それと同時に、比例するように意識が薄れ、とうとう首がカクンと倒れてうな垂れてしまう。

……このまま、後は落ちるだけ、か。

うん、悪くない。

痛くないし苦しくもない。もう寒くもないし、何よりすぐ隣に沙夜がいる。

……そういや最後に沙夜の顔、見ておきたいな。

完全に意識が途切れる間近、ふとそんな事が頭によぎる。
出来れば最後の最後に好きな子の顔を見ておきたいというのは当然の願いだろうし、あわよくば最後っぽい言葉の1つでもかけてあげたい。そして自分の気持ちを伝えたい。耳元で囁きたい。

……そうだよ、まだ死ねねえよ。やらなきゃいけない事、まだあったじゃねえか。

俺は瞑っていた目を開け、完全にいう事を聞かなくなった身体に「もう一度だけ動け」と心から念じる。既に足や手の先は凍傷によると思われる変色を始め、青紫色になりつつあった。

普通なら動かない。微動だにもしない。
確かに身体はそんな感じだった。

……でも。

最後の最後くらい、おまけで動いてくれてもいいじゃん。

そんな思いが俺の中にはあった。

自分でも軽いノリだなと、こういう場合は何か神にでも誓って「この身体を動かしてください」とか祈るべきだろ、とか思わなくもない。

しかし、最後の最後でそんな奇麗事を言ってハッピーエンド、というのも何かご都合主義臭くて嫌だ。

だったら同じご都合主義でも、いかにも俺っぽい自分主義な感じでエンディングを迎えたい。そう思えてならなかった。

「……だからさ、頼むから動いてくれよ」

呟くように、僅かに動く唇から漏れる、ゆるい願い。

……ずずっ

「……は、ははっ」

笑いがこぼれる。かなり弱々しい笑いだが、それでも笑いは笑いだ。

……身体が、少し動いた。

こんな事があるんだな、と思った。願ってみるもんだな、と思った。

……何だ、まだ動くじゃねえか。やるなあ俺。見直したぞ俺。

と、普段はまずしない自画自賛をする俺。
しかし動いたといっても上半身が僅か、あとは首周りが少し動いただけ。
これでは沙夜の顔は何とか見れても、耳元で囁くまでは出来ない。

……ま、そこまで上手くは行かんか。だって俺だし。

いいんだ、最後に顔が見れれば。それだけで十分、本望ってヤツだ――


むに


……へ?

予想外の感触。
何か俺の唇に柔らかいものが当たったような……

俺はその眠い目を、気を抜くと落ちてきそうな瞼を何とか開き、唇に触れたものが何なのかを確認しようとする。

するとそこにあったのは……

「……さ、や……?」

「あき、ひと……くん……」

驚いた。
俺の顔のすぐ前には沙夜の顔があった。
マジで驚いた。
沙夜だって俺と同じでもう身体は動かなくなってたはず。
それなのに……

「おなじ、だよ……」

「おな、じ……?」

沙夜の唇が微かに動き、これまた微かなボリュームで声が聞こえる。

……ああ、そうか。

……同じなのか。

……俺と同じで、沙夜も最後に俺の顔を見たいと思ってくれたのか。

嬉しいじゃないか。こんな幸せはそうそう味わえないぞ。

俺はそう心の中で呟くと、おそらくまだほんのちょっとは残っている力で顔を沙夜に近付ける。

もう一回、キスしよう。

そして、キスしたまま、一緒に……

「……」

「……」


ちゅっ、という音が、聞こえたような、気がした。

詳しくは判らない。もう唇にも感覚はないのだから。

……でも。

きっと俺と沙夜はキスしてると思う。

だって、俺はこんなにも幸せな気分でいられるのだから。







                               「終わりの旅路」  END







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