「One Lovers Story 〜君のとなり、君の笑顔〜」
-I wish always for your smile and your side-
序章「はじまり」
物事の始まりというのはいつ唐突にやってくる。
少なくとも俺の場合はそうだった。
それは10年前。
確か俺が部屋でゲームをしていた時だった。
「敦史(あつし)、ちょっといいか?」
と、親父が部屋に入ってきた。手には折りたたんだダンボールを抱えながら。
「急な話で悪いんだが、明日ここを引っ越すことになった。今日中に荷物をまとめておいてくれ」
「…え?」
親父はそれだけ言うと、俺の部屋にダンボールとガムテープを置いて出て行った。
そして次の日、本当に引越しをした。
それは7年前。
珍しく早く起きてきた親父と一緒に朝食を食べている時だった。
「敦史、父さんは今日からアメリカに行かなきゃいけないんだ。な〜に、心配はいらない。おばさんやお手伝いさんが来てくれるから大丈夫。いい子で留守番しててくれよ?」
「う、うん…」
戸惑いながら、そして曖昧な返事をする俺。一応頷いてはみたものの、さすがに状況を把握するのにしばらくの時間を要した。
そして俺はその日から1年半の留守番をすることになった。
それは3年前。
俺が学校から帰ってくると、ちょうど家の電話が鳴っていた。
「もしもし、柊(ひいらぎ)です」
『おう、敦史か?』
電話の声は親父。どうやら外からかけているらしく、雑音が混じっていて少し声が聞き取りにくい。
『今から南アフリカに行くことになった。悪いが夕飯は一人で食べてくれ』
「…わかった。気をつけてな」
『ああ、それじゃあな』
そう言って電話を切る親父。とりあえず夕飯以上に大事な話があるだろ、と切れた電話に向かってポツリとつぶやいた。
そして今日。
俺の18歳の誕生日の前日の事だった。
「…んん」
目を覚まし、枕元の時計を見る。
「…10時半、か」
今日は日曜日、休みの日にしては早く起きた方だった。
俺は再び眠りにつく事もなくベッドから起き上がり、腹が減っていたので、とりあえず階段を降り、台所へと向かう。
「ん?」
台所の手前、リビングに入ると電話が光っているのが見えた。どうやら留守電にメッセージが入っているようだ。
「…」
俺は仕方なく、といった感じで電話に近付き、点滅を続ける再生ボタンを押す。
ディスプレイに表示された時刻は今日の午前3時、電話をかけてきたのは親父のような気がした。
ピーッ
『もしもし、父さんだ』
…大正解。まあこんな時間にウチに電話をかけてくる人物といったら彼くらいだろう。
俺の親父は大学の教授をしていて、民俗学の世界ではかなりの有名人らしい。
しかし大学にいる事は少なく、いつも世界中を飛び回っては調査や研究をしている。
そのため、家に帰ってくる事は大学にいる以上に少なく、「日本に帰ってきていて、なおかつ大学にいない時間=家にいる時間」という状況。
どうせこの電話もどこか遠い国からかけてきているのだろう。
…ったく、少しは日本との時差を考えろよな。
『今、パキスタンから日本へ帰るところだ。到着は午前中なんだが、大学やら何やら寄らないといけない場所がある。…ま、それでも昼過ぎには家に着くと思う』
「…パキスタンっすか」
また微妙に治安の悪い国にいらっしゃること。
『さて、電話の用件だが…。敦史、お前に1つ頼みたい事がある。悪いが聞いてくれ。実は今日、家に客が来ることになってるんだが、どうやら俺より先に着いてしまいそうなんだ。すまないが俺が帰ってくるまで家にいてくれないか?』
「…」
…何だ、それだけか。
どんな面倒な事を押し付けられるかと思ったら、そんな簡単な事か。
俺はホッとしたのが半分、どこか肩透かしを食らった感が半分、といった感じで、ふうと大きく息を吐く。
『それでだ、もし俺より早く客が来たら―』
と、ここで親父の声が急に途切れ、代わりに電話の呼び出し音が鳴り出した。
どうやらメッセージ再生の途中で電話が来たらしい。俺は少し驚きながらも、そのまま受話器を取った。
ガチャ
「はい、柊です」
『おう敦史、おはよう』
「親父…」
何というタイミング。親父からのメッセージを聞いている途中で親父から電話が来るとは…
『ん?どうした?寝起きか?』
「いや、実は―」
と、俺は今起きたサプライズな出来事を説明し、その後どこまで電話のメッセージを聞いたかを親父に話す。
『…そうか、ちょうどいいタイミングだったという訳か』
「まあそうなるわな」
『それじゃあ敦史、さっきの件は頼まれてくれるな?このままだと間違いなく俺の方が遅くなりそうだ。とりあえず客が来たら茶でも出してやってくれ』
「ああ、わかった」
『こっちも何とか早く帰って来る。…それじゃあな』
ガチャ
電話が切れる。最後の辺りは少し早口だった事から考えるに、かなり忙しいのだろう。親父も帰国早々大変だな。
「…さてと。まずは朝メシでも食うか」
大体の用件を理解した俺はそう言って受話器を置き、正規の目的である朝食を摂るため、台所へと向かった。
そして20分後。
俺はトースト2枚とハムエッグという簡単な朝食を済ませ、部屋に戻って服を着替える。
特に汚れてはいないが、一応リビングの掃除くらいしておくか…。そう思って再度下の階へ降りようとした時、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえてきた。
時計を見ると時刻は11時20分、おそらく親父の言っていた客が来たのだろう。
「…あ、ヤベ」
そう言って俺は慌てて走り出す。
そういえば玄関の鍵を開けておくのをすっかり忘れていた。俺は勢いよく階段を駆け降り、玄関へと急ぐが、廊下に出た辺りで再度チャイムが鳴ってしまう。
「すいませんっ、今開けますから!」
裸足のままドアに近付き、急いでカギを開ける俺。
ガチャ…
少し遠慮しているのか、ゆっくりとドアが開けられる。そしてそのドアの向こうから姿を現したのは自分の予想していた来客、大学関係者や関連研究施設の人ではなく、1人の女の子だった。
「あ、あの、柊教授のお宅はこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ、そうですけど…」
もしかしてこの女の子が親父の言っていた来客か?
「ええっと、今日のお昼頃にお伺いする事になっていた高梨(たかなし)という者ですが」
…間違いない、よな。
「それじゃあ親父が言ってた客っていうのは…?」
「はい、私の事だと思います。…あの、柊敦史さん…ですよね?」
「あ、はい」
「挨拶が遅れました。私、高梨早苗(さなえ)って言います」
そう言ってペコリと頭を下げる高梨さん。それにつられて俺もペコリと頭を下げる。
「ええっと、とりあえず上がってください。もう少しで親父も帰って来ると思いますから」
「はい、それじゃあお邪魔します」
俺は高梨さんが靴を脱ぎ終えたのを確認すると、リビングへと案内する。
「適当に座ってて下さい、今お茶を入れますから。…あ、それともコーヒーの方がいいですか?」
高梨さんをリビングに通した後、俺はそう言いながら台所へと向かう。
するとなぜか高梨さんはソファーに腰を下ろす事無く、俺の後をついて台所へと入ってきた。
「あの、私がやります」
「え?」
「お茶の用意、私にやらせて下さい」
「いやいや、お客さんにそんな事させられませんよ。それに俺、こう見えて結構―」
この後、『こういうの得意なんですよ』という言葉が続くはずだった。
…が。
「柊さん」
高梨さんが強い口調で俺の話を止める。
「今日から一緒に暮らす人に”お客さん”はないと思います」
「…は?」
この時、俺はかなり間抜けな顔をしていたと思う。それだけ彼女の口から出た言葉は衝撃的…というか、すぐに理解出来るようなものではなかった。
…一緒に暮らす?
「ダメですからね、そういう特別扱いみたいなのはやめて下さい」
…え、何だこの展開?俺が?彼女と?
「私だって料理とか得意なんですから。ちゃんと考えてきたんですよ、役割分担とか」
「ゴメン、ちょっといいかな?」
たまらず高梨さんの言葉を遮る俺。これはちょっと確認を取った方がよさそうだ。
「はい?…あ、もしかして柊さんも色々と考えてたんですか?」
そう言って笑顔で聞き返してくる高梨さん。どうやら彼女の中ではもう完全に2人で暮らすことが確定しているようだ。
しかしそれはあくまで彼女の中での話。共同生活のルールで盛り上がり気味の高梨さんには悪いが、ここはストレートに質問させてもらう。
「あのさ、さっきから全然話が見えてこないんだよね。…一体どういう事?」
「え…」
今度は高梨さんが言葉に詰まる&キョトンという顔に。
「あの…、もしかしてお父さんから何も聞いてないんですか?」
「俺は昼に客が来るって事しか聞いてないんだ。だからその”一緒に暮らす”っていうの、説明してくれると嬉しいんだけど…」
「…」
完全に言葉を失う高梨さん。…まあ彼女にしてみれば想定外の展開なのだろう。
しかし想定外の出来事で言えば俺だって負けていない。いや、むしろ俺の方がより想定の範囲外だろう。
「…とりあえずコーヒーでも入れるから。高梨さんはリビングで待っててよ」
「う、うん…」
その後、2人は結局コーヒーを後回しにし、お互いの状況や知っている情報を交換。
そして今、俺と高梨さんは2人並んで電話の前に立っていた。
ピーッ
『もしもし、父さんだ』
話し合いの結果、俺達は親父からの留守電をもう一度再生してみることに。
高梨さんの話によると、今日の朝に親父から直接電話があったとの事。時間的にウチに電話をかけた後だと思うのだが、その時親父は高梨さんに”話はしっかり伝わっているので安心してくれ”と言ったらしい。
確かに親父の中ではしっかり伝えたかもしれないが、それが留守電で一方的に喋ったものだとしたら話は変わってくる。なにしろ当の本人、つまり俺には何ら情報が入ってきていないのだ。
『それでだ、もし俺より早く客が来たら―』
「あ、さっきはここで親父から電話がかかって来たんだ」
俺はそう言って高梨さんに説明を入れる。
『その時はお茶でも飲みながら待っててくれ。客の名前は高梨早苗ちゃん、お前と同い年だ。…それでだ、急な話で悪いんだが、しばらくの間、その子と一緒に暮らしてもらいたいんだ。まあ詳しい事は後から、直接会って話をする。それじゃあな』
ピーッ
「…はあ。これで親父はしっかり伝えたつもりでいたのかよ…」
さすがは親父、ナイスやっつけ仕事だな。
「これじゃあ私の説明も必要になるわね」
隣では高梨さんも納得顔の様子。
「うん、本当に助かったよ」
親父に代わりにしっかりと説明をしてくれた高梨さんに感謝する俺。
…彼女、高梨早苗さんは俺と同い年なだけでなく、非常に俺と生い立ち…というか、生活環境が似ていた。
彼女の母親は何と俺の親父と同じ大学に勤めている教授で、2人はかなり前からの知り合いらしい。さらに今は仕事のよきパートナーとして一緒に世界中を飛び回っている…との事。
高梨さんの父親は彼女が小さい時に他界、父と母の違いこそあれ、同じく幼い時に母親を病気で失った俺と同じような境遇だ。
…で、どうして一緒に暮らす事になったかと言うと、何やら2人が今現在手がけている仕事(研究?)が長引いてしまい、向こう数年は日本に帰って来る事が難しい状況にあるらしい。
まあ俺にしてみればこういう事は以前から何度もあったので問題は無かったのだが、彼女の家では今まで数年という長期で家を空けた事がないらしい。
そこで親父がウチで一緒に暮らすことを提案、普通なら同い年の、それも年頃の男女が同居するなんてとんでもない、みたいな事になると思うのだが、彼女の母親もなかなかに器の大きい人物のようで、すんなりとその案にオーケーを出た…という訳だ。
「全く、親父も相変わらず唐突だな…」
と、呆れ顔の俺。一方の高梨さんはそんな俺の様子を不思議そうに見ている。
「そう言う割にはあんまり驚いてないね?私なんかこの話を聞いた時、すっごくビックリしたのに」
「う〜ん、まあ慣れってヤツだよ。小学校の頃からこんなカンジだったからね」
…そう、本当に今まで全てがこんな感じだった。
『急な話で悪いんだが』
これまで何度も聞いた親父の話の切り出し方。
昔はその後に続く言葉にいちいち驚いていたが、さすがにもう慣れてしまっていた。
勿論今も唐突だとは思うが、慌てるまでには至らない。例え南極や月に行くと言ってもあまり驚かないだろう。
「…もしかして常にこんな感じなの?」
「うん、そういうコト」
「すごいお父さんだね。私のお母さんも結構すごいと思ってたんだけど…」
「へ〜、高梨さんのトコもすごいんだ?」
「うん。でも柊さんのお父さんにはちょっと敵わないかな」
「いやいや、それでいいって。あんなのに太刀打ち出来る方がおかしいって」
「そうだね」
そう言って2人は同時に笑い出す。
「…お互い大変ですな」
「ホント、その通りだよ」
クスクス笑いながらそう答える高梨さん。これは同じような境遇の者同士でしか判り得ないものだろう。
「…さて、そんじゃまあ事情もよ〜く分かった事だし…と」
俺はそこで一旦言葉を止め、改めてといった感じで高梨さんを見る。
「そういう訳で今日からよろしくね」
「うんっ、こちらこそよろしくお願いしま〜す」
と、お互いにフランクな挨拶を交わす2人。
するとその直後、高梨さんがまたクスクスと笑い出す。
「柊さんってすごいですよね。さっきまで私と暮らす事なんて全然知らなかったのに、もう『そういう訳でよろしく』って…。普通そんなに早く適応出来ませんよ〜」
「そうだな…。まあこれも慣れかな?」
そう言って俺はソファーに座り、さっきは淹れずに終わったコーヒーセットに手を伸ばし、手早くパパッと2人分のコーヒーを淹れる。
「あ、そうだ。砂糖とかいるでしょ?」
カップにコーヒーを注ぐ間際、俺は砂糖が無い事に気付く。
いつもブラックで飲んでいるため、すっかり忘れていた。
「いいですよ、私はいつもブラックで飲んでますから」
「そうなんだ。…もしかしてコーヒー好き?」
「はい、紅茶も好きですけど、やっぱりコーヒーかな」
「よかった、俺も好きなんだよね」
「そうなんですか〜」
高梨さんはそう言いながら、俺が差し出したカップに口を付ける。
「あ、おいしい…」
「でしょ?近くにある喫茶店のブレンドなんだ」
どうやら気に入ってくれたようだ、本当においしそうに飲んでくれる。
「…」
俺はついそんな彼女を見つめてしまう。よく見ると(いや、よく見なくてもか)高梨さんはメチャクチャ可愛い。
大きめの瞳、白い肌、ちょっと長めのキレイな髪…。そしてコーヒーを冷まそうと息を吹きかける仕草、カップの持ち方や服装に至るまで全てが『これだ!』と叫んでしまいそう(叫ぶな×2)だった。
…それにしても。
今日から本当に一緒にこの家で暮らすんだよな?
改めて考えるとすごい事だよな、これって。
「…?」
そんな事を考えていると、ちょうど高梨さんと目が合ってしまい、俺は慌てて視線を逸らす。
するとその瞬間、手にしていたカップが反動で大きく揺れ、中に入っていたコーヒーがこぼれてしまい、ポタポタとズボンに染み込んでいく。
「熱っ!」
ガバッ、ガツンッ!
あまりの熱さに立ち上がる俺。しかし今後はテーブルにすねを強打してしまう。
「〜っ!」
劇的にカッコ悪い状況だが、あまりの痛さに声も出ない。
「だ、大丈夫っ!?」
そんな俺を見て、高梨さんが心配そうに駆け寄ってくる。
「ダ、ダイジョウブデス…」
建前というか礼儀上、一応そう答えるのだが、思いっきり大丈夫じゃないのが見え見えだった。
「痛っ!」
と、今度は高梨さんが悲鳴を上げる。涙目になっていた俺には一瞬何が起こったかよく見えなかったが、どうやら近付いてきた時に足の小指をテーブルにぶつけたようだった。
「ううう…」
足の先を手で押さえ、床に崩れ落ちる高梨さん。
俺も十分に痛かったが、それ以上に彼女の方が痛そうだった。
「大丈夫?」
まあ今の俺が言えるようなセリフではないが、間接的な原因は俺にある。
俺はうずくまる高梨さんが心配になり、覗き込むように顔を近づける。
「う、うん。私は何とかだいじょ―」
ガチンッ!
次の瞬間、勢いよく顔を上げた高梨さんと覗き込むように顔を近づけた俺、2人の頭が見事に、そして激しくぶつかり合う。
…この時、俺には本当に星が見えた…ような気がした。
「〜っ!!」(×2)
こうして2人揃って床にのたうちまわる事となった俺と高梨さん。
するとちょうどその時、ガチャリとリビングのドアが開く音が。
「ただい…うおっ!?」
と、リビングに入ってくるなり驚きの声を上げたのは親父だった。
さすがはマイファザー、ある意味グッドタイミングでの登場である。
「ど、どうしたんだ2人とも!?」
慌てて近付いてくる親父。基本的に動じることの少ない親父でも、この異様な光景には驚いたようだ。
―数分後。
何とか痛みも収まり、2人は平常さを取り戻しつつあった。
「ゴメン…」
「ううん、こっちこそ…」
と、双方の謝り合いが続く。その横では親父が半分呆れた様子で俺達を見ていた。
「まったく、何をやっているんだか…。ま、その様子だと、もうすっかり打ち解けてはいるみたいだな」
「まあ…それなりに。っていうか親父、それより何より、あの留守電の説明はいくらなんでも適当すぎるぞ」
俺はそう言って事態を厄介にしてくれた張本人に非難の目を向けつつ、高梨さんが来てから今までの経緯を説明する。
「…そうか、電話をかけた時、お前はまだ最後までメッセージを聞いてなかったんだったな。悪かった」
「あの時、ちゃんとどこまで聞いたか話したはずだぜ?」
「すまんすまん、朝から色々と忙しくてな」
「…まあいいや、親父も大変みたいだからな」
「そう言ってくれると助かる」
「はいはい」
そんな俺の反応に親父は苦笑いを見せつつ、今度は高梨さんの方を向く。
「早苗ちゃんにも謝らないといけないな。面目ない」
「そんな…、いいですよ」
「いやいや、本当に申し訳ない。俺が先に家に着いていればよかったんだが…」
「お仕事ですから仕方ないですよ。その辺りのことはよく判っているつもりですから」
ニコリと笑って答える高梨さん。親が同じ職業に就いているだけあって、この仕事の大変さは十分知っているようだった。
「高梨教授も忙しい人だからな…」
と、親父も納得顔で頷いている。
「これからさらに忙しくなるんですよね?」
「そう、もしかしたら今までの比じゃないくらい慌しくなるかもしれない。だから早苗ちゃんにはウチで暮らしてもらう事になったんだ」
そう言って親父は少し真剣な顔になり、言葉を続ける。
「…早苗ちゃん。信じてもらえないかもしれないが、コイツは意外としっかりしたヤツだ。急な話で大変かもしれないが、何とかコイツと仲良くやっていってほしい。…一緒に暮らすなら楽しい方がいいからな」
「は、はいっ」
「…敦史も頼んだぞ。それと早苗ちゃんがいくら可愛いからといって、手を出すのは厳禁だからな?」
「なっ、何言ってるんだよ親父」
「そういう訳で早苗ちゃん、何かあったら遠慮なくコイツに言ってくれ。きっと力になってくれるはずだ。…少し長くなりそうだが、2人で仲良く、楽しく暮らしてくれ。これは俺と高梨教授、2人からの共通のお願いだ」
…親父と高梨さんのお母さん、2人のお願いか…
俺は親父の言葉を頭の中で反芻させ、静かに頷く。
「はいっ、わかりました」
一方の高梨さんも大きく頷き、元気に返事をする。
「まあ任せておけって。親父達も心配しないで仕事の方、頑張ってくれよな」
「うむ、2人共いい返事だ。敦史を心配した覚えはないが、これで安心して日本を離れる事が出来る」
…親父らしい物の言い方だな。俺はそう思いながら何か言い返す言葉はないかと考えていたのだが、それより前に玄関のチャイムが鳴った。
「ん?早苗ちゃんの荷物が届いたのかな?確か今日の昼過ぎに着くよう頼んだと聞いてたんだが…」
ソファーから立ち上がり、親父が玄関へと向かって歩き出す。
「そうか、荷物か…」
俺はリビングを出て行く親父を見ながら、思い出したようにそうつぶやく。
よく考えれば当然の事である。何と言ってもこれから数年はこの家で暮らすのだ、色々と荷物も必要だろう。
「やっぱり早苗ちゃんの荷物だったよ。すまないが2人共少し手伝ってくれないか?」
と、すぐに戻ってきた親父が顔だけ出してそう言ってくる。その手には早くも引越し会社のロゴが入ったダンボールを抱えてた。
「おう」
「はい、今行きます」
そう言って俺達も立ち上がり、荷物運びを手伝うべく玄関へと向かった。
「…で、親父。この荷物はどこに運べばいいんだ?」
玄関に次々と置かれていく荷物から、大きめの箱を選んで持ち上げる…ところまではよかったのだが、肝心の運び先が判らず、親父に声をかける。
「ああ、全部上に持ってきてくれ。確か使ってない部屋があっただろ?」
親父はそう言うと、荷物を抱えて階段を上がっていく。
「了解」
俺もその後を追い、2階の奥にある部屋へと進む。
ちなみにこの部屋の1つ手前にあるのが俺の部屋なのだが、親父の言う通り、奥の部屋は全く使われていない状態だった。
「ほいっと」
今日から高梨さんの生活場所になる奥の部屋に入り、運んできた荷物を適当な場所に置く。
部屋は長い間使われていなかった割には埃っぽくもなく、意外とキレイだった。
「…よいしょっと」
と、後ろから荷物を抱えた高梨さんが入ってくる。
「早苗ちゃん、今日からここが自分の部屋だ。元々何も使ってなかった場所だ、好きに使ってくれ」
「はいっ、ありがとうございます」
そう返事をすると、高梨さんは嬉しそうに部屋の中を見渡す。
俺もそれにつられて周囲に目を向けるのだが、よ〜く見るとやはり少し埃が溜まっている箇所があった。
「ゴメン、少しは掃除しとけばよかったんだけど…」
「そんな気にしなくていいよ。だって私が引っ越してくるなんて知らなかったんでしょ?それにこうして荷物を運んでもらってるだけで嬉しいよ」
高梨さんはそう言ってニコリと笑ってくれる。
…と、その時、部屋の入口からひときわ大きな荷物が業者の兄ちゃん2人と共に姿を現す。
「すいませ〜ん、通りま〜す」
「あ、はい」
2人は邪魔にならないよう壁際に寄り、荷物の通過を待つ。
「…さ、俺達も残りの荷物を運ぼうか」
「そうだね」
コクリと頷き合い、再び玄関へと向かう俺と高梨さん。
…こうして何往復かすると、何もなかった部屋にも相当数の荷物で埋まっていき、何となく賑やかになってくる。
「ええっと、これで荷物は全部ですね。…スイマセン、ハンコかサインをお願いします〜」
「ああ、ご苦労さん」
手渡された書類にサインを済ませ、業者の兄ちゃんに手渡す親父。
「はい、確かに。…それでは私達はこれで失礼します。どうも、ありがとうございました!」
そう言って頭を下げ、兄ちゃん2人は帰っていった。
「さて、後は荷解きか。もう一息ってトコだな」
よし、と気合を入れ、階段を上がっていく親父。2階の奥の部屋ではすでに高梨さんが全部の箱を開け、荷物の整理を始めている。
後は俺と親父が重い物を動かせば、引越しはあらかた終了となる。
「…なあ親父、時間は大丈夫なのか?まだやる事があるならもう行ってもいいぜ?」
おそらく親父にはまだやるべき仕事が残っているはず、力仕事は残っているが、ここからは俺1人でも何とかなるだろう。
「ん?そういえばもうこんな時間か…。そろそろ大学に戻らないとマズいな」
「やっぱりな」
「…う〜ん、それじゃあ敦史、すまないが一番重いベッドを動かしたら行かせてもらえるか?」
「ああ、ベッドさえ手伝ってもらえれば後はもう俺だけでも何とかなるからな」
「悪いな」
「気にすんな」
そう言いながら俺と親父は部屋に入り、高梨さんから希望の置き場所を聞き、ベッドをそこへと運ぶ。
「よ…っと。早苗ちゃん、これでいいかい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
ベッドを部屋の角にピッタリ合わせ、確認を取って移動は完了。これでかなり部屋らしくなってきた。
「さて、それじゃあ申し訳ないが、俺はそろそろ仕事に戻らせてもらうよ。…悪いね早苗ちゃん、最後まで手伝えなくて」
「いえ、本当に助かりました。もう私1人で大丈夫ですから」
作業の手を止め、立ち上がってお礼を言う高梨さん。
そして俺達はそのまま玄関まで向かい、親父を見送る事に。
「…敦史、後は頼んだぞ。…早苗ちゃんも早くこの家に慣れてコイツを助けてやってくれ」
「ああ、それじゃあなあ。…っていうかさっきと立場が逆になってね?」
「はいっ、頑張ります」
一応頷くものの、その後に非難めいた言葉を付け加える俺と、素直に頷く高梨さん。
親父は2人の返答に満足そうに頷くと、そのまま玄関のドアに手を伸ばす。
「じゃあ行って来る。…元気でな」
最後にそれだけ言い、親父は家を後にする。
そして少しすると、道路の方から車のクラクションが鳴る。
短い間隔で2回、それは昔から俺が親父を見送る際にする合図のようなものだった。
「…さ、戻ろうか。まだ重い荷物も残ってるし、2人で一気に片付けよう。…頼りにしてくれよ?」
「うん、ありがと」
俺の申し出に対し、素直に頷く高梨さん。
こうして俺達は再び2階の部屋に向かい、引越し作業を再開する。
「…あ、このコンポ、俺の部屋にあるのと同じだ」
作業再開から5分程経っただろうか。俺は適当に開けたダンボールの中身を見てそう言うと、馴れた手つきで後ろの配線を繋げていく。
「え、本当?」
「ああ、色も一緒」
「へ〜、そうなんだ。…あ、じゃあ聞くけど、このコンポって…」
「すっごい使いにくくない?」(×2)
全く同じタイミング、そして一字一句異なる事無く2人の言葉が重なる。
「…」
「…」
「…ぷっ」
「…あはは」
そして一瞬の間の後、2人で大笑い。
「やっぱりね〜。使ってていつもそう思ってたもん」
「特にMDの編集、タイトルを入力するのがもう面倒で面倒で…」
「そうそう、あれってどうしてリモコン入力を受け付けてくれないんだろうね?」
「買ってから結構経つんだけどさ、今だに説明書を見ないといけない時があるんだよ」
「あ、わたしも。別に機械に弱いって訳じゃないんだけどなあ」
と、こうして2人が使っているコンポの悪口(?)で話が盛り上がる俺と高梨さん。
だが2人が同じく使っているものはこれだけではなく、荷物が入ったダンボールをあける度、俺の部屋にあるものが次々と出てきた。
目覚まし時計やCDを収納するタナ、その中に入っているCDも同じアーティスト、同じタイトルがたくさん入っていた。
その他にもペンケースや文房具といった小物や本、さらには使っている携帯電話も同機種&同色だった。
これにはさすがに2人共ビックリである。
…が、この後さらに驚く事が。
「すげえな…」
それは全ての荷物を整理し、だいたいの物を置き終えた時の事だった。
俺はその高梨さんの部屋を見ながらそれだけ言うと、後に何も言葉が続かず、そのまま黙ってしまった。
何と高梨さんの部屋と俺の部屋、タンスやベッドといった家具の配置がほぼ一緒だったのだ。…勿論高梨さんに俺の部屋は見せていないし、配置は全て高梨さんによるもの。さらにこの配置は前の家でもこうだった、と言うのだ。
「どうしたの?」
と、何も知らない高梨さんが不思議そうな顔をして聞いてくる。
「…いや、その…、とりあえず何も言わずに俺の部屋に来てくれる?」
「ええええ?そんな、いきなり…」
「ああっ、違う違う!そういう変な意味で言ったんじゃないって!」
とんでもない勘違いをされ、慌てて弁解する俺。
…そうだよな、いきなり俺の部屋に来い、はないよな…
「あのさ、実はこの高梨さんの部屋、物の配置が俺の部屋と似てる…っていうか、ほぼ一緒なんだよ」
「え?」
「同じ物がたくさんあるから、自然にそうなるかもしれないけど、配置までほぼ同じっていうのはそうある事じゃないでしょ?だからスゲー驚いちゃって…」
「そうなんだ…。あのさ、柊君の部屋、見せてもらっていいかな?」
「いいよ。…多分ビックリすると思うよ」
そう言って俺は自分の部屋を高梨さんに見せるべく、隣の部屋に移動。
そしてドアを開け、部屋の中を見せる。…改めて見ると本当によく似ていた。
「すごいね…」
部屋を見るなり、俺と同じ感想を漏らす高梨さん。
しばらく入口から見ていたが、やがて中に入り、自分の部屋にもある物を探し始める。
「うわ、CDも同じのがたくさんある…」
「そうそう、俺もそれにはかなりビックリした。結構マイナーなバンドも入ってるじゃん?それまでかぶってるんだよね。…もしかしたらタナの中身を全部交換しても気付かないんじゃね?」
「ははは、そうかも。っていうかさ、ここまで部屋が似てたら、間違って入っても気付かないでそのままいるかもね」
「お願いです、それくらいは気付いて下さい…」
家に帰って自分の部屋に入ったら高梨さんが普通にくつろいでいた、なんて事があったら驚くって。
「で、柊君もそれに気付かないで、部屋を間違えたんだな、とか言って私の部屋に行くのね」
「ないない」
「あはは、やっぱり?」
そう言ってクスクスと笑う高梨さん。
…ああ、この人は明るい性格の持ち主なんだな、と思った。
それから俺達2人は十分すぎる程俺の部屋を見た後、高梨さんの部屋に戻って細かい物の整理や後片付け作業に入る。
「じゃあ俺がダンボールをつぶしていくから、小さいゴミはお願いね」
「うん、任せて」
「あ、そうそう。まだ外も明るいし、これが終わったら少し家の周りを案内するよ。夕飯の買物にも行かないといけないしね」
「は〜い。…それじゃあ急いで終わらせないとね」
別に急がせるつもりで言った訳ではないのだが、高梨さんはそう言って気合を入れ、それまで以上にテキパキと動き出す。
「…よし、俺もやるか」
そんな高梨さんの勢いにつられ、俺も気合を入れて近くにあるダンボールをかき集め、手当たり次第につぶしてはビニール紐で結んでいく。
…この調子だと5分くらいで終わりそうだな、そう思いながら少し離れた場所にあるダンボールに手をかけると、箱の底に何かが引っかかっているのが見えた。
「ん?何だろ…う゛」
よく見るとそれは女性モノの下着(パンツ?ショーツ?呼び方の違いは判らないが、とりあえず下の方だ)、色はちょっと薄めの青色で、意外とセクシーなヤツだった。
…うわ、布の面積、全然ないじゃん…って、そんなコト考えてる場合じゃねえか。
「あれ?どうしたの?」
と、ダンボールの底を見たまま固まっている俺に気付き、高梨さんが近付いてくる。
「あ、あのさ…。これ、なんだけど…」
この距離では隠す事は不可能、それにヘタに誤魔化すのは往々にしてよろしくない状況を生む…、そう考えた俺はかなり挙動不審ではあるが、正直に箱の中にあるブツを見せることにした。
「え?…う゛っ」
一瞬にして凍り付き、そしてこれまた瞬間的に顔を赤らめる高梨さん。そして慌ててダンボールごと奪取すると、中に入っていたお宝(俺は下着マニアか)を凄まじいスピードでタンスにしまう。
ちなみにお宝(どうやら俺は変態かもしれない)の場所はタンスの上から3段目の左側。下着を入れておく場所まで俺と同じだった。
「あ、あの…」
そう言って高梨さんは真っ赤な顔のまま、それでも何か弁明しようと必死に両手をパタパタと振る。…とっても可愛い。
その後、しばらくすると高梨さんも落ち着きを取り戻し、ようやくちゃんとした会話が出来るようになった。
「…ええっと、とりあえず落ち着いた?」
「う、うん…」
「じゃあ1つ聞くけどいいかな?」
「は、はい…」
「青、好き?」
「っ!?」
俺の問いに対し、ボボン!という効果音がつきそうな勢いで再び顔を真っ赤にする高梨さん。…うわ、可愛いなあ…って、さすがにこの状況でこの質問はよろしくないか。
「ゴメン、ちょっと気になったんで…」
「バカッ!」
…やっぱり怒られてしまった。
これはヘタにフォローするのは逆効果だな。俺はそう思い、素直に謝る事にした。
それから5分後。
俺は意外と早く(?)機嫌を直してくれた高梨さんと一緒に玄関前にいた。
あの後、必死に謝り倒したのが功を奏し、何とか後片付けを再開、そしてすぐに終わらせ、さっき話した家の周りの案内をする事になったのだ。
「…あ、そういえばさ、今日ここに来る時ってタクシー使った?それともバス?」
「タクシーだよ」
「そっか。…それじゃあしっかり道案内しないと。ウチって大通りまで結構離れてるんだよね」
そう言って俺はゆっくりと歩き出し、分かれ道に差し掛かる度に細かく説明をしていく。
この辺りは小高い丘の上にあるため、比較的新しい住宅地にも関わらず、微妙に道が曲がっていたり、行き止まりがあったりして厄介なのだ。さらに大通りに出るまでの間、特に目印になるような物も無いため、しっかりと説明しておく必要がある。
高梨さんもそれを察したのか、しっかりと俺の説明を聞き、よく通ることになるであろう道を頭に叩き込んでいた。
「…で、ここを曲がるとこの辺で一番大きな通りに出るんだ。ちなみにあそこがウチから一番近いコンビニで、同じく一番近い本屋があそこね。それとこの道をもう少し進むと、さっき飲んだコーヒーを挽いてくれた喫茶店があるんだ」
「なるほど…。うん、だいたいの道は覚えたよ」
「よし、それじゃあせっかくだし、その喫茶店に寄っていこうか?」
まだ時間もあるし、買物だってすぐに終わらせれる。俺は一休みするのも悪くないと思い、高梨さんを行きつけの喫茶店に誘ってみる。
「うん、私は構わないけど…。でもいいの?晩ご飯の買物とかあるんじゃない?」
「大丈夫、全然間に合うって」
「そう?それならちょっと入ってみたいな」
「オッケー、じゃあ行こうか」
そう言って歩き出す俺と、その後をついてくる高梨さん。
ゆるやかな坂道を下り、大通りに出ると、すぐに目的の喫茶店が見えてきた。
ガチャ、…カランコロンカラン
思いドアを開けると、乾いた鐘の音と共に焙煎したコーヒーのいい匂いに包まれる。そしてその奥、カウンターの中にはすっかり顔を覚えてくれたマスターの姿があった。
「いらっしゃい。…おや?敦史君に彼女さんがいるなんて聞いてなかったぞ?」
「いやいや、違いますから…」
と、店の中に入るなり、すぐさま事情説明をする事になる俺。結局そのせいでテーブルに座るまでかなりの時間を費やしてしまった。
「それにしても柊教授、思いきった事をしたなあ」
水の入ったグラスを俺達の前に置きながら、感心した口調でそう言うマスター。
「まあ思いきりの良さにかけては定評のある人ですからね」
俺がそう答えると、隣で高梨さんがクスクスと笑う。
「さて、と。ご注文はお決まりですかお嬢さん?」
「あ、はい。ブレンドをお願いします」
「俺も同じので」
「かしこまりました。それでは少々お待ち下さいませ」
マスターはそう言ってメニューを下げ、カウンターの中へと戻る。
やがて俺達が頼んだコーヒーが運ばれ、2人はそのコーヒーを飲みながら今後の事を色々と、時折雑談を交えながら話していた。
「あ、そういえば高梨さんの学校ってどこなの?」
会話の内容が明日の事になった時、ふと疑問に思った事を聞いてみる。
「うん、前まで通っていた学校はさすがに遠くて通えないから、近くの学校に転入したよ。明日から琴丘学園に通うんだ」
「マジ?琴丘に?」
琴丘学園というのは俺の学校からすぐの所にある女子校だ。
「そうだよ。確か柊君の通う学校とすごく近いんだよね?」
「近い近い。だって教室から琴丘のチャイムとか聞こえるもん」
「そうなんだ…。あ、でね、明日の朝なんだけど、一緒に家を出てもらいたいんだけどいいかな?私まだ学校の場所とかしっかり覚えてなくて…」
「ああ、別にいいよ」
まあ一緒に登校している姿を知り合いに見られるのは少し恥ずかしいが、こればっかりは仕方ないだろう。
「ありがと」
安心したような表情を見せながら俺に礼を言う高梨さん。
こんな顔を見せられたら断れないよなあ…と思う。
しばらく雑談を続け、手元のカップが空になった頃、ふと時計を見るとちょうどいい時間になっていた。俺達はマスターに別れを告げ、店を後に。
そして近くのスーパーに寄って夕飯の材料やお菓子なんかをを買い込み、家へと帰る。
夕焼けの中、長く伸びた影を作り出しているのはネギの飛び出た買物袋を手にする俺と、その横をぴったり並んで歩く高梨さん。
まさかこんなシュチュエーションを味わえるとは思っていなかったので、ただ並んで帰るだけなのに少し恥ずかしかったりする。
ガチャ
「ふう」
「ただいま〜」
家に着き、すぐに買ってきたものを冷蔵庫の中や戸棚にしまう俺と高梨さん。
時刻は午後5時半を少し過ぎた辺り。普段であればまだ夕食の準備に取りかかるには少し早かったのだが、朝に軽く食事を摂って以降、何も食べ物を口にしていなかったため、すぐに夕食を作る事に。聞くと高梨さんも昼食を摂っておらず、実はかなりおなかが空いていたらしい。
「よし、それじゃあ今日は俺が作るから。何かリクエストとかある?」
「ううん、何でもいいよ」
スーパーで買物をしている時、食べ物や料理の味付けの話をしていたのだが、どうやら2人の好みはかなり似ている、という事が判明した。
家具や部屋の配置に続き、まさか食べ物の好みまで…とは思ったが、もうここまできたらどうでもいい。生活環境が同じなら全部同じになる、という根拠のない理屈で2人は納得していた。
ちなみに俺と高梨さん、肉は牛より鳥が好きで、キノコが苦手。中でもエノキは「食べるのは拷問」と自信を持って言えるだけ嫌い…という所まで一緒だった。
「わかった。そんなに時間はかからないと思うから。それじゃあ出来たら呼ぶね」
そう言って俺はキッチンに立ち、いつもより多少は豪華な夕食を作ろうと、食材を入れたばかりの冷蔵庫を開いた。
そして30分弱程して夕食が完成。
今日のメニューは中華3品。マーボー豆腐とカニ玉(正確にはカニカマ玉だったり)、そして中華風ワカメスープを作ってみた。
「メシ、出来たよ」
俺はリビングに顔を出し、テレビを見ていた高梨さんに声をかける。
「あ、は〜い」
そう言ってすぐにキッチンのテーブルに座る高梨さん。そして席に着くなり並んだ料理を見て嬉しそうな声を上げる。
「うわ、おいしそ〜」
「さ、早く食べようぜ。あ〜、腹へった」
「うん、それじゃあいただきま〜す」
手を合わせたのも束の間、高梨さんはすぐさま料理に箸を付ける。俺も軽く手を合わせ、1品ずつ味を確認しながら食べ始める。
気付かれないよう、チラリと高梨さんを見ると、とてもおいしそうに料理を口に運んでいた。
久し振りに誰かと一緒に食べる夕食は作った料理が得意なものだった事に加え、かなりの空腹だった事もあり、いつもよりおいしく感じた。
時刻は午後7時前。
早々に夕飯を食べ終え、俺達は2人並んで食器を洗いつつ、高梨さんに台所のどこに何があるのかを教える。
話し合いの結果、明日の朝食は高梨さんが作る事になったのだ。
大体の説明を終えた頃にはちょうど洗い物も片付き、俺達はリビングに戻ってまったりとした時間を過ごす事に。
「あのさ、お風呂とかはどうしよっか?」
何気なく見ていたテレビ番組で温泉に入るシーンが流れた時、高梨さんが思い出したように聞いてきた。
「ん〜、やっぱりそっちが先に入った方がいいんじゃない?今さっきお湯を入れてきたから、入れるようになったら呼ぶよ」
「うん、わかった。それじゃあ私は一旦部屋に戻るね」
そう言って高梨さんはソファーから立ち上がり、自分の部屋へと戻っていく。
「…」
高梨さんがリビングを出て行った後、俺はぼんやりと天井を眺めながら考え事をしていた。
途中、高梨さんの入浴シーンを想像したりもしたが、基本的にはそれなりに真面目な事、これからの生活について考えを巡らせていた。
…やっぱり相手は女の子だし、こっちが気を遣わないといけない事がたくさんあるだろう。具体的にどんなことが挙げられるかはまだよく判らないが、とりあえず2人の関係がギクシャクするような事態だけは避けないとな…
特にお風呂でバッタリ、みたいなお約束イベントは何としてでも回避したいところだ。
「風呂か…、そういやそろそろお湯が溜まってもいい頃だな」
時計を見ると、お湯を入れてから結構な時間が経っている。俺はお湯の量を確認するため、風呂場へと向かう。
脱衣所を抜け、浴槽の中を見てみると、お湯の量はちょうどいい状態。俺はすぐに高梨さんを呼ぶため2階へと上がり、高梨さんの部屋のドア越しに用件を伝え、しっかり返事があった事を確認して自分の部屋に戻った。
そしてしばらく本を読んだり、音楽を聴いて時間を潰していると、遠慮がちにドアをノックする音が。返事をするとドアが開き、いかにも風呂上りといった感じの高梨さんが顔を出す。
「お待たせ、お風呂空いたよ」
「あ、うん…」
まだ乾いていない髪の毛と、自分のではないシャンプーの匂いにドキドキしてしまい、ぎこちない返事になってしまう俺。
とりあえずその場は何とかやりすごし、着替えを持って風呂場へ。そしてすぐさま湯船に浸かるのだが、ここについさっきまで高梨さんが入っていたかと思うと、どうにも落ち着かなかった。
そんな訳で俺は普段から早い入浴時間をさらに短縮させ、さっさと風呂場を後にして自分の部屋に戻った。
バフッ
部屋に入るなりベッドに倒れこみ、しばらくボケ〜っとする俺。
「…眠ぃ」
今日は色々あったので少し疲れたのだろうか。そんな事を考えながら俺はゆっっくりと身体を起こし、部屋の窓をガラリと開ける。
高台に位置するウチの窓から見える景色はなかなかにキレイで、街を一望することが出来る。
「ん〜」
部屋に入ってくる秋の風の心地良さに思わず声を上げる。もう少しすると一気に寒くなるのだが、今日の風はちょうどいいカンジだった。
…コンコン
と、その時、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「あ、私だけど、入ってもいいかな?」
「どうぞ〜」
「お、おじゃまします」
そう言って少し照れくさそうな顔で部屋に入ってきたのはパジャマ姿の高梨さん。
こういう何気ない表情、格好の1つ1つが可愛いな、と思う。おそらく本人は意識していないのだから俺が慣れないといけないのだが…正直しばらくはドキドキしっぱなしの状況が続くだろう。
「どうしたの?何か家の事で判らないことでも?」
「ううん。まだ少し早いけど、おやすみって言いに来たんだ。さすがに疲れちゃったみたいで、いつ眠っちゃうか判らなかったから今のうちにって思って…」
「そっか。実は俺も同じだったりして」
と、軽く微笑みながらそう答える俺。
するとちょうどその時、さあっと心地良い風が吹いてくる。その風を受け、窓が開いている事に気付いた高梨さんが俺に近付き、並ぶような格好で外の景色を見る。
「キレイだね」
「うん。俺もそう思う」
それだけ言うと2人はしばらく夜景を眺め、お互いに今日起きた出来事を振り返る。
「何かすっごく長い1日だったような気がするな」
「同感」
「ふぁ…。あ、ごめん。あくびしちゃった」
目をこすりながらそう言って謝る高梨さん。おそらくかなり眠たくなってきたのだろう。
「そろそろ部屋に戻るね。…ええっと、明日の朝って7時くらいに起きれば大丈夫なのかな?」
「うん、俺はいつもそのくらいに起きてる」
「わかった。それじゃ私はもう寝るね。…おやすみ」
「おやすみ〜」
こうして挨拶を交わし、自分の部屋に戻っていく高梨さん。
眠気で少し足元がふらついているが、まあ隣の部屋まで歩いていくくらいなら大丈夫だろう。
「…さて、俺もそろそろ寝るかな」
つぶやくようにそう言うと、俺は窓を閉め、部屋の明かりを消す。
まだ日付も変わっていない時間だが、横になるとすぐに瞼が重くなってくる。
…やはり思っていた以上に疲れていたようだ。
第一章「初々しき共同生活」
翌朝。
早く床についた事もあり、目覚まし時計が鳴る少し前に目が覚めた。
ぐっすり眠ったおかげでとても気分がいい。俺はすぐに起き上がり、階段を下りてリビングへと向かった。
「おはよ〜」
ドアを開けた瞬間、台所から高梨さんの元気な声が聞こえてくる。
見ると高梨さんはすでに制服に着替え、朝食を作っていた。
「おはよう。…早いね」
「あはは。昨日は7時でいいよねって言ってたけど、やっぱり少し不安で…。初日から遅刻はしたくないもんね」
「なるほど」
「そうそう、今ちょうどご飯が出来たところなんだ。一緒に食べようよ」
そう言って高梨さんはテーブルの上に完成したばかりの料理が乗った皿を置いていく。
俺はもちろん!と言わんばかりに頷き、すぐさまイスへと腰を下ろす。
「もしかしてパンの方がよかったかな?」
と、少し心配そうに俺の顔を見る高梨さん。
テーブルの上に乗っているのはご飯と味噌汁、玉子焼きとほうれん草のゴマ和え…といった和食メニューが並んでいた。
「大丈夫、米の方が好きだから」
「よかった。私もパンよりお米が好きなんだ」
「まあパン嫌いって訳じゃないんだけどね。時間がない時はいつもパンだし」
「…まさか1枚くわえて家を出るとか?」
「しないって」
俺がそう答えると高梨さんはクスッと笑い、エプロンを外しながらイスに座る。そして2人は一緒に「いただきます」を言い、出来たての朝食をおいしく食べた。
「そういや今日から新しい学校なんだよね。どんなカンジ?」
玉子焼きを箸でつまみながら、ふと思った事を口に出してみる。
「うん、制服がちょっと着づらかったかな」
不安をもらすでもなく、そう答えてテヘ、と笑う高梨さん。
前の学校の制服を見たことが無いので何とも言えないが、確かに高梨さんの言う通り、琴丘の制服は俺から見ても少し着づらそうな印象があった。
…なんでそんな場所にファスナーが付いてるの?みたいな作りの琴丘の制服。聞くところによると、何でもどこぞのデザイナーが作ったものらしい。
朝食を食べ終え、準備を済ませて玄関へと向かう俺。
すでにドアの前には高梨さんが待っており、すぐさま合流して学校へと歩き出す。
昨日も通った坂道を下り、大通りに沿って歩くこと10分弱でお互いが通う学校が見えてくる。向かって手前が俺の通う学校、そしてその少し奥にあるのが高梨さんが通う琴丘学園だ。
「うわ、転入届を出しに来た時は気付かなかったけど、本当に近いんだね」
「ああ。…さて、そんなこんなで校門の前まで来ちゃったんで、俺はここで」
「うん。それじゃあね」
「頑張ってな〜」
「は〜い。行ってきま〜す」
そう言って俺と高梨さんは手を振って別れ、俺は校門をくぐって自分の学校へ、高梨さんも自分が通う校舎へと歩いていく。
「おう柊」
「よう」
靴を履き替え、教室に入るところで俺はクラスメート会い、いつものように挨拶を交わす。ちなみにコイツの名前は渡部(わたべ)といい、クラスの中で一番仲のいいヤツだ。
「このやろ!」
「!?」
挨拶を終え、隣に並んだ瞬間だった。いきなり渡部が飛び掛り、俺の首を絞めてくる。
「ど、どうした!?」
「それはこっちのセリフだ!…おい、誰なんだあの琴丘の子は!?テメーいつの間にあんな可愛い子と仲良くなってるんだよ!」
「…く、苦しいって…」
ヤバイ、何かしらんがコイツは本気だ。
と、まあ不意打ちを食らったような形の俺だったが、すぐに渡部の手を振り払って距離を取り、冷静になるのを待って説明を始める。
だがいくら親友と呼べる間柄の渡部であろうとも、本当の事を全て話すと襲い掛かってくる恐れがあったので、とりあえず重要なワード(同居とか)や危険なワード(やっぱりこれも同居とか)を使う事無く、適当に誤魔化しながら説明していく。…勿論後でしっかりと話そうとは思うが、今はさすがに危険だ。いやいやマジで。
が、極力オブラートに包んで話したつもりの説明も、その日の内に話は広がりに広がり、さらには余計な尾ひれが付いてクラス中に知れ渡る事に。放課後になると周囲のクラスにまで噂と憶測が飛び交い、噂の中で語られる俺はそれはもう大変な事になっていた。
…まあみんな俺のことをよく理解してくれているので、それらの話はあくまでからかい半分、ほとんどネタのような形で話されているだけだったりする。
…ホント、みんないいやつで助かった。
そして夕方。
朝からずっとネタ提供者となっていた俺だが、さすがに帰る間際になる頃には事態は沈静化し、何とか冷やかし集会から抜け出す事が出来た。
「それじゃあ俺はもう帰らせてもらうぜ」
「おう、カノジョによろしくな」
「今度会わせろよ〜」
「私の柊君を取らないで、って伝えておいてね〜」
と、好き放題言ってくれるクラスメート達に別れを告げ、俺は1人で帰る事に。
当初の考えでは真っ直ぐ家に帰るつもりでいたが、少し腹が減っていたので、大通りにある店でハンバーガーを食べていくことにした。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
「え〜と、チーズバーガーとコーラのM。それと…」
手元のメニューと自分の空腹具合、そしてサイフの中に入っている小銭達と相談しながら、注文する物を決めていく。
そして少し悩んだ結果…
「あ、それじゃあポテトのMも」(×2)
と、隣で注文していた人と全く同じタイミング、同じ物を注文する声が重なった。
「…え?…あ」
振り向くと隣のカウンターで注文をしていたのは何と高梨さん。そしてあっちも俺を見て驚きの声を上げていた。
「もしかして…全部一緒?」
その後、2人は同じ席に座り、お互いに相手のトレーに乗っている物を見比べていた。
チーズバーガー、コーラのM、そしてポテトのM、以上。つまり俺と高梨さんは全く同じ物を注文していたのだ。
「そう…みたいだね」
何度も自分のトレーと俺のトレーを見ながら、確認するような口調でそう答える高梨さん。
「いくらなんでもこれはスゴイだろ?最後のポテトに至っては注文のタイミングまで一緒だったぞ?」
と、まずありえないであろうタイミングの一致に少々興奮気味の俺。
…ちなみにこの見事に重なった注文、店のお姉ちゃん達もビックリしていた…というか注文を通す時に戸惑っていて、バックにオーダーを伝える際、『違います、繰り返したんじゃなく、同じ物を2コずつです〜』と言っていたのが面白かった。
「うん、ホントにすごいよね。でも隣に柊君がいたなんて全然気付かなかったよ〜」
「俺もだよ」
そう言いながらハンバーガーの包みを開けていく俺。それを見た高梨さんも続くようにハンバーガーに手を伸ばす。
それから2人は学校での話や雑談なんかをしながら空腹を満たし、一緒に店を出て家へと帰る。
その途中、今日は誰が夕食を作るか?という話になり、協議の結果俺が作る事に。
まあさっき間食をしたばかりなので、少し遅めに食事を作る、という話でまとまった。
帰宅後、まずは自室に戻って着替えを済ませ、リビングへ。その手には今日クラスメートから借りたライブビデオが握られており、俺は夕食の準備を始めるまでそれを見ようとしていた。
…実は俺の部屋にテレビは置いておらず、何か見たい番組やビデオがある時はいつもリビングに降りていた。
元々あまりテレビを見ないため、不便さは感じていなかった俺。なのでもし今後、高梨さんと見たい番組が合わなかった時はすんなりチャンネルを譲ろうと思っている。
「…あれ、ビデオ見てたんだ。私も一緒に見てもいいかな?」
ライブも中盤、これから盛り上がりは最高潮…という所で高梨さんが登場。さすがに持っているCDがほぼ同じだけあって、高梨さんもこのバンドがお気に入りの様子だった。
それからしばらくの間、2人でビデオを見た後で食事の準備に入る。
昨日は中華だったので、今日は洋食にしよう。俺はそう思い、冷蔵庫を開けて食材を物色。ちょうどエビがあったので、フライとグラタンを作る事にした。
どちらもよく作るものなので、特に問題も無く料理を完成させる俺。
出来もまあまあ、とりあえずは合格点をもらえる程度で、この日も俺と高梨さんは楽しく会話をしながら夕食を済ませた。
「ごちそうさま。…あ、お皿は私が洗うから、そのままにしていいよ」
夕食を食べ終え、食器を片付けようと立ち上がった俺を高梨さんがそう言って止める。
「そう?じゃあお願いしようかな?…グラタン皿、まだ熱いから気をつけてね」
俺は高梨さんの申し出をありがたく受け入れ、後片付けをお願いして自分の部屋へ。
さっき見たビデオは次に貸す人が決まっており、明日には返さないといけないので、今のうちに忘れずカバンの中に入れておく。
「…ん?」
ちょうどその時、家の電話が鳴っている事に気付く俺。
急いで階段を降りて電話の元へと急ぐが、廊下に出たところで呼び出し音が鳴り止んだ。
…高梨さんが取ったのだろうか?それとも間違い電話?
そんな事を考えながら一応リビングを覗いてみると、高梨さんが受話器を手にしていた。
見ると電話の相手と親しげに喋っていたが、俺に気付くと『あ、今降りてきました。…あ、はい。代わりますね』と言って俺に受話器を渡す。
「もしもし?」
『おう敦史。父さんだ』
電話の相手は昨日の夕方に日本を発った親父だった。
『今やっと目的地の空港に着いた所だ。いや〜、飛行機の中でお前に言い忘れた事があったのを思い出してな』
言い忘れた事?何だ、まさか同居人が増えるとかじゃねえだろうな?
俺はそんな危惧を胸に、どうか面倒な事ではないように、と思いながら親父の言葉を待つ。
『今日はお前の誕生日だったろ?一言くらい祝ってやろうと思って電話をかけたんだ』
「…へ?」
誕生…日?
何を言っているのか理解するのに少し時間がかかってしまう俺。そして微妙な間を置き、頭上で豆電球が点等する。
…そうだ、昨日から色んなことがありすぎてすっかり忘れていたが、今日は俺の誕生日だった。
『18歳おめでとう。…いつもこんな形でしか言ってやれなくてすまないな』
「いや、気にすんなって。こうやって毎年遠い国から祝ってもらうのも悪くないぜ?」
確か去年はペルー、その前は南アフリカから電話がかかってきたハズだ。さすがにこれはそうそう経験できることではないだろう。
『…そうか、そういう考え方も出来るな』
と、感心したような口調の親父。
こういう物事を違う角度から見ることが出来るのも親父のおかげ、受け売りと言ってもいいかもしれないな、と思う。
『おっと、そろそろ移動しないとマズイようだ。…それじゃあ敦史、後は可愛い可愛い早苗ちゃんに祝ってもらえ』
そう言って親父は最後に「元気でな」と付け加え、電話を切った。
「ったく、マメなんだか適当なんだか判らねえ親父だぜ…」
グチをこぼしながら受話器を置く俺。するとそれを待っていたかのように、ソファーに座っていた高梨さんが小走りで近付いてくる。
「柊君、今日が誕生日だったんだね。おめでと」
「どもです」
今まであまり誕生日を祝ってもらった事が無いので、少し照れてしまう。
その後、自分がすっかり誕生日を忘れていたことを話すと、高梨さんは「今からお祝いをしよう!」と言い出し、結局2人で買物に行く事に。
すでに近くの店はあらかた閉まっていたのだが、それでもコンビニでケーキとジュース、それにちょこちょことお菓子を買い、ちょっとしたパーティーの準備が整った。
高梨さんは少し不満そう(誕生日のケーキは自分達で切り分ける大きさじゃないとダメらしい)だったが、俺はこれで十分満足だった。
家に帰ると高梨さんは俺をソファーに座らせ、さらに準備が出来るまで動かないよう指示を出し、台所に入って色々と支度を始める。
高梨さんいわく、例えコンビニのケーキでもそれに合った皿に盛り付ければ見栄えが変わるし、ジュースもグラスに注げばちょっとイイカンジになる、との事。
そして待つこと10分弱、俺は晴れて高梨さんから行動の自由を与えられ、同時に誕生日のお祝いパーティーが開かれる。
「ありがとう、メチャクチャ嬉しいよ」
リビングのテーブルに並べられたケーキやグラスを見ながら、精一杯感謝の気持ちを伝える俺。本当に嬉しかった。
「出来れば後でもう一回やりたいんだけどな…」
しかし高梨さんはやっぱり少々不満顔。
どうやら自分でケーキを焼いて俺に食べさせないと気が済まないようだ。まさに光栄の極みである。
結局、日を改めてもう一度パーティーを開く、という約束(まあ約束と言うには少々一方的ではあるが)を交わしてから乾杯。それからようやく俺達はグラスに口を付け、ケーキを食べ始める。
「あれ?このケーキ意外とおいしいんじゃない?」
「そうだね」
1個180円のケーキはそれなりにおいしく、俺は十分すぎるほど誕生日というものを満喫させてもらった。
高梨さんの言う通り、いつも飲んでいるジュースもキレイなグラスに注いで飲むと普段よりおいしく感じる。不思議なものだ。
その後、もしかして高梨さんも同じ誕生日か?と思い、本人に聞いてみたのだが、さすがにそれは違った。
それにしても…。
会話の途中、ふと俺は今日これまでの事を思い出す。
放課後のハンバーガーショップ、夕食時、そして買物から今に至るまで、俺と高梨さんはずっと会話をしているのだが、一向に話題がなくなる気配は無い。
別に喋るのが苦手な訳ではないが、これだけたくさんの時間を、それもまだ出会ってからそれ程時間の経っていない人と話が続くというのは自分でも不思議だった。
…おそらく相当に2人は相性がいいのだろう、なんて都合のいい事を考えてしまう俺。用はそれだけ高梨さんとのお喋りは楽しいのだ。
誕生日パーティーはその後2時間程続いた所でお開きとなり、昨日同様まず高梨さんが先に風呂に入ることに。
そしてやっぱり…というか何と言うか、今日も自分の部屋に来て、お風呂から上がった報告をしてくれた。そして今日も俺は風呂上りの高梨さんにドキッとした。
「でも…」
その日の深夜、俺は暗い部屋の中、そう呟きながら天井を見つめる。
パーティーの最中にも少し頭をよぎった事だが、高梨さんとはまだ出会って2日である。
それがまさかこんなに仲良くなれるとは思ってもいなかった。それはとても嬉しい事、そう、嬉しい事なのだ。
「…ふう」
と、軽く息を1つ。そしてガラにもない事を考え始める。
…もしかして俺は彼女に好意を抱いてるのかもしれない。
急に俺の前に現れた、きっと誰が見ても可愛いと感じるであろう高梨さん。勿論それは俺も例外ではない。
自他共に認めるひねくれ者が、彼女の前では自分でも驚くほど素直でいられるのだ。しかもごくごく自然な感じで、とても心地良く、だ。
…まあそれでも好きになるのは早すぎる、俺はこんなにも惚れっぽい性格だったのか?と思ってしまう訳だが。
「…ふう」
と、もう一度息を吐く。
それはため息ではなく、頭の中に浮かんだ考えをまとめ、1つの決心の現れとして。
…難しく考える事は無い。いつもと変わらないようにしていれば、普段通りに振舞っていれば、きっと何か答えは見つかるさ。
これが俺の出した結論…のようなもの。
そう、彼女との生活はまだ始まったばかりなのだ。
第二章「冬の始まり、恋の始まり」
季節は移ろい、それ程寒くないこの街にも雪が積もるように。
「ただいま〜」
「おう、寒かっただろ?」
顔を真っ赤にした早苗が震えながらリビングに入ってくる。
いつからだろうか、俺は彼女の事を早苗、もしくはサナと呼ぶようになっていた。
「寒いなんてもんじゃないよ、も〜」
そう言って早苗は頬を膨らませ、何も悪くない俺に非難の目を向ける。
「はいはい、とりあえず暖まっとけ〜」
女子高生というのはつくづく防寒性に乏しいな…と、ニーソックスで最大限の防御となる両足を見ながらそんな事を考える。
「う〜、また雪が降ってきたよ…」
早苗はその両足を手でさすりながら俺の隣に座り、巻いていたマフラーをほどき始める。
…リビングにあるソファーは3人用、それがテーブルを挟んで2つ置いてあるのだが、こうしてどちらかが座っている隣に腰を下ろすのも、いつの間にか普通の事になっていた。
「もうね、風が強くて、雪がバシバシ横から当たって来るんだよ?すっごく痛いの」
「…大変だな。そういや俺のクラスの女子に「恥を捨て、スカートの中にジャージを穿いて通学しよう!」って言って同士を募ってるヤツがいたぞ?」
「女の子にとっては究極の選択かもね」
「そんなもんなのか?」
まあ早苗がそう言うのだから間違いではないのだろう。やっぱりあの格好は相当な抵抗があるようだ。
「あ、そうだ。なあサナ、晩メシなんだけど肉ジャガとカレー、どっちがいい?」
と、急に話題を変える俺。
それというのも、今日は俺が夕食を作る番になっていたのだ。
「う〜ん、カレーかな?敦史の作るカレー、おいしいもん」
「了解」
早苗もいつ間にか俺のことを敦史と名前で呼ぶようになり、俺達は完全にこの同居生活の適応を果たしていた。
「さて、やりますか」
台所に移動した俺はそう言いながらフライパンを取り出し、肉を炒める用意を始める。
するとその時、戸棚に並んでいる2本のオリーブオイルが目に入った。
「懐かしいな…」
ふと手を止め、そのオリーブオイルを懐かしそうに眺める俺。
…そう、確かあれは一緒に暮らし始めてから半月程経った時の事だった。
その日の朝、俺が起きて台所へ入ると、先に起きて朝食の用意をしていた早苗が何かを探していた。
声をかけると、早苗はオリーブオイルはないか?と俺に聞いてきた。
「サラダに使いたいんだけど、どこにもないんだよね。…もしかして柊君の家ではオリーブオイルって使わないのかな?」
と、少し困った顔でそう聞いてくる早苗。
どうやら彼女にはこだわりがあるらしく、サラダにはオリーブオイルをかけて食べるのがベストだと言う。
「ごめん、ちょうど切らしてるんだ」
俺は謝りながらそう答え、「実は俺もサラダにはオリーブオイルをかけて食べる人なんだよね」と言葉を付け加える。
まさかこんな所まで好みが一緒だとは思わなかった。
そしてその日の放課後、俺はオリーブオイルだけを買いに近所のスーパーへ。
食材はまだ冷蔵庫の中にたくさん入っているし、他に無くなりそうな調味料もなかったので買っておくことにした。
会計を済ませ、家に戻ると、何と台所には俺が買ってきたものと全く同じオリーブオイルの瓶が置かれていた。
その後、自分の部屋から降りてきた早苗に俺が買ってきたオリーブオイルを見せ、2人で大笑い。
それ以降、1人で買物に行く際は一応電話で確認を取り合う事になった。
ちなみにその日は仕方がないので、オリーブオイルをたっぷり使ったパスタとサラダが夕飯の食卓に並んだ。
「そろそろ1本目が無くなりそうになってきたな…」
そう言いながら俺はさらに回想を続け、この数ヶ月に起きた数々の出来事を順番に思い出していく。
それは2人での生活にも慣れてきた時の事だった。
俺はその日、学校の体育の授業がマラソンだったので、珍しく早苗より先に風呂に入ることにした。
時刻は午後7時、いつも早苗は10時を過ぎないと風呂に入らないため、特に断りも入れる事も無く俺は風呂に入った。
まあ今になって思えばそれがよろしくなかったのだが、その時の俺は早く汗まみれになった身体をスッキリしたいという思いが強く、そこまで頭が回らなかった。
こうして風呂から上がり、脱衣所で気分よく身体を拭いていると、廊下側のドアが勢いよく開かれ、洗濯物を持った早苗が入ってくる。
その時、俺はちょうど髪を乾かすためにバスタオルを頭から被っていたため、早苗が入ってきた事にも気付かなかったし、どのくらいその場に立っていたのかも判らない。
「…ん?」
ドアが開いた音は聞こえなかったが、急に入ってくる冷たい空気を感じ、俺はタオルの合間から廊下の方に目を向ける。
ガラッ、バタン!
「ゴ、ゴメンっ!」
「…え?」
と、間抜けな声を上げてしまう俺。
ちなみにこの時、俺が見たのは凄まじいスピードで閉まるドアだけ。さすがに与えられた情報がこれだけでは瞬時に状況を把握するのは難しい。
「あの、その、柊君が入ってるなんて知らなかったから、だから、その…」
ドアの向こう側から聞こえてくる、やたら慌てた様子の早苗の声。
そして俺はここでようやく何が起きたのかを察し、もうこれしかないであろう結論を導き出す。
「…見た?」
「ゴメンっ!」
俺のあまりにもストレートすぎる聞き方に、早苗はそう言って大声で謝ると、その場から走り去っていった。
…ああ、こりゃモロだな。
と、1人脱衣所に残された俺は早苗の反応から全てを理解する。
確か早苗と一緒に暮らす事になった初日辺り、俺は『風呂場での覗いた/覗かれた系のイベントは起こさないようにしよう』と思っていた。
しかしそれがこうして逆の状態で起きるというのは想定の範囲外…というか考えてもいなかった。
さらにその後の俺のフォローが最悪で、とりあえず「気にするな」と言いたくて走り去っていった早苗の後を追うのだが、あまりにも急いでいたため、半裸のまま脱衣所を出てしまった。
結果、その日からしばらくの間、早苗は俺を見る度に脱衣所での光景がリフレインしてしまうらしく、俺をしっかりと見てくれない状態が続いた。
それは秋の終わりの事だった。
お互いテストが近かったので一緒に勉強していると、珍しく玄関のチャイムが鳴った。
「あ、私が出るね」
位置的にも近かったため、そう言って早苗がリビングを出て行く。
その後、少ししてから早苗は玄関から戻ってきたのだが、その手には何やらケーキのような箱があった。
そして…
「おじゃましま〜す」
と、見た事の無い、でもどこかで見た事のあるような女性が1人、早苗の後からリビングに入ってきた。
「紹介します。私のお母さんです」
そう言って早苗は突然の来客に驚く俺に説明を入れてくれる。
「初めまして敦史クン。早苗がお世話になってます」
笑顔で挨拶をしてくる早苗のお母さん。そのとても明るく、元気そうな印象はまさに早苗そのものだった。
「初めまして。いつも親父が世話になってます」
…ああ、こりゃあどこかで見た事があるなとも思うわ。
心の中でそう呟きながら早苗ママに挨拶を返す俺。…しかしそれにしてもよく似ている。
「いえいえ、お世話になってるのは私の方ですから」
そう言ってニコリと微笑む早苗ママ。
…まあ形式上そう言うしかないのだろうが、おそらく世話になっているのは九分九厘ウチの親父の方だと思う。
「親父は元気でやってますか?」
「ええ、やっぱりあの人…じゃなくて柊教授は研究室にこもっているより、外に出て動き回っている方がいいみたい。毎日元気に頑張ってるわ」
「ねえ、お母さんは帰ってきても大丈夫なの?」
と、早苗が会話に混じってくる。
確かに言われて見ればその通り、一時的にしろ日本に戻ってきても大丈夫なのだろうか?それに親父もパートナーがいないと大変だろう。
「う〜ん、本当はあまり大丈夫じゃないんだけどね。柊教授に「一度2人の生活を見て来い」って言われたのよ。…本格的に研究が忙しくなるのはこれからだからって、柊教授が気を遣ってお休みをくれたの」
…へ〜、意外とそういう所はちゃんと配慮してるんだな。俺は感心すると共に少し安心した。
「そうだ、お母さん晩ご飯まだ食べてないよね?」
そう言っていきなり話題を変える早苗。
「よかったら一緒に食べて行って欲しいな。今日のはすっごくおいしいんだよ」
ああ、と俺は納得顔で頷く。
今日の夕食のメインは昨日から2人で仕込んだタンシチュー。自分で言うのも何だが、かなりいい出来に仕上がった。
「あの、俺からもお願いしていいですか?…勿論時間があれば、の話ですけど」
2人で作った自信作なんですよ、と理由を付け加え、お願いしてみる俺。
「あらあら、それじゃあ食べて行かない訳にはいかないわね。喜んでごちそうになります」
すると早苗ママは嬉しそうに頷き、俺達の提案を快く了承してくれた。
聞くと時間もまだあるし、どのみち夕食は済ませないといけなかったらしい。
それを聞いた俺達は、さらに何品か料理を作って早苗ママをもてなそうと、意気揚々と台所へ向かった。
「よかったな」
「うん」
そう言葉を交わし、ニコリと笑い合う2人。
俺は魚を捌き、早苗は野菜を切っていたのだが、どちらもいつも以上にテンポよく包丁が動いていた。
程なくして白身魚のムニエルとサラダが完成。全ての料理を盛り付け、リビングで待っていた早苗ママの前に皿を並べていく。
そして食事開始。この家に引っ越してきてから、3人以上で食事をするのは本当に久し振り…いや、もしかしたら初めての事かもしれない。
「2人共やるわね〜。本当においしいわ」
と、作った料理を褒めてくれる早苗ママ。残さず食べてくれたのが嬉しかった。
そして食後、おみやげとして持ってきてくれたケーキを食べながら、話題は俺と早苗の生活についての事になる。
今まであった出来事、特に俺と早苗の共通点の数々を話すと、早苗ママもただただ驚くばかりだった。
やがて時間も過ぎ、早苗ママの帰る時間に。
玄関の前で早苗にかける言葉が、先日親父が俺に喋った言葉と酷似していて少し笑ってしまった。
たまらずその事を早苗ママに話すと、「私も柊教授もよく似てるから。…まああなた達程じゃなけどね」という言葉が返ってきた。
そしてこれまたウチの親父同様、挨拶やら注意事項を一通り喋った後、最後に「元気でね」と付け加え、待たせていたタクシーに乗り込で家を後にする。
「…なあ、俺らの親って…」
「うん、すっごく似てるね」
玄関の前、早苗ママを乗せたタクシーを見送りながら交わす2人の言葉。
そして俺と早苗は同時にわざとらしいため息をつき、お互いの顔を見て笑い合う。その一連の所作はとても自然なものに感じた。
また、その日の深夜、またしても微妙な時間に親父から電話があった。
内容は「早苗ママが俺らを訪ねにやってくるので、2人揃ってしっかりもてなすように」というもの。
どうやら時差の計算を間違えたらしく、俺がもうとっくに来て帰った事を伝えると、驚いてこっちの時刻を聞いてきた。その後の会話で親父は日本との時差を8時間程間違えていた、という事が判明。
…この人は本当に一年の大半を海外で過ごしているのだろうか、と疑問を抱いてしまった。
それは早苗ママが家を訪ねて来た数日後、テスト週間の出来事だった。
俺達は少しでも効率を上げて成績向上を計るため、どちらかの部屋に集まって勉強する事が習慣となりつつあった。
その日は俺の部屋が開催場所になっていたため、夜の9時になった辺りで勉強道具一式を抱えた早苗が部屋に入ってきた。
テストが始まるのはどちらの学校も今週末、俺たちに残された時間はあと3日しかない、という状況。そのため、今日はお互いに得意な教科を教え合い、解らない箇所をなくしていこうという話になっていたのだが…
「ねえ、ここの訳ってどうすればいいのかな?」
そう言って早苗は開いていた問題集を俺に近付け、そのページの一部分を指差しながら聞いてくる。
しかし、その問題は今まさに俺が早苗に聞こうと思っていた場所だった。
今2人で解いているのは英語の長文問題。かなり難度が高く、序盤から相当の苦戦を強いられていた。
「…なあ、もしかして次の行の最初も解んねえだろ?」
「うっ、どうしてそれを…」
痛い所を突かれた、と言わんばかりの表情を見せる早苗。
…ちなみにその答えは次の通り。
「だって俺も解んねえもん」
そう、一緒に勉強を始めた時から何となく感じていたのだが、俺と早苗は得意教科も苦手とする教科も同じなのだ。さらにその教科の中、問題のジャンルまで好き嫌いが一致している、という徹底っぷり。
例えば現代文であれば、文章問題が得意で漢字の書き問題が苦手…と、ここまで細かい場所まで同じである。
…これでは今日のような共同作戦は全くメリットが無い。
「仕方ない、とりあえず解らない問題は一緒に考えていこう」
「…そうだね」
ここまで同じであれば、いくら2人で考えたとしても、解らない問題は解らないままでは?と思わなくもないのだが、それでも1人で解いていくよりは多少マシだろう…という結論に達し、2人は一緒に勉強を続ける事に。
「…この問3だけどさ、答えはBだよな?」
「うん、私もそうなったけど…」
「よし、じゃあいいや」
「え〜、適当すぎない?」
…と、まあそんなやり取りが大半を占めてしまったのだが、しっかりやるべき事はやり、机に向かう時間も1人で勉強していた時よりかなり長くなった。
こうしてテストが始まるまでの間、俺と早苗は毎日楽しく、そしてそれなりに効果的に勉強をしていった。
その甲斐あってか、2人とも今回のテストは何とかいけそうな手応えを感じていた。決してそれは根拠の無いものではなく、練習問題の結果とトータルの勉強時間を考慮したもの。
俺も早苗も普段のテストの点数は平均70点に届くかどうか、という辺り。しかしそれはあくまで平均化したもので、実際には教科毎にかなり点数のばらつきがある。
その激しすぎるメリハリは俺と早苗の共通の悩みであり、最大の課題点。2人は過去のテストで一番いい点数と悪い点数の差が51点(!)という大差を叩き出した事があるのだ。
一番点数のいい教科は学年トップに迫る勢いだというのに、悪いものになると赤点ラインを越えるので精一杯…、俺も早苗も今までのテストは大体そんな感じだった。
…ちなみに2人の好きな教科は科学と歴史、苦手な教科は数学と英語である。
「…うん、今回は頑張った分、英語の点数はかなり上がるような気がする」
「そうかなあ?英語の訳文なんか問題だらけだと思うんだけど…」
「まあな。確かにあの長文だけは出て欲しくないよな」
テスト前日、俺達は「やる事はあらかた済ませた」と判断し(無理矢理言い聞かせたとも言う)、軽くテストの出題範囲を見ながら、雑談混じりに傾向と対策を話し合っていた。
初日のヤマは英語、この教科に限りどちらの学校も使っている教科書が一緒なので、範囲もほぼ同じだった。
英語はお互いにとって苦手No1の教科。しかし一番時間をかけて勉強をしたのもこの英語、2人は微妙ではあるが、ちょっとは自信をつけていた。
「でもまあアレだよ、その他はちゃんとやったし、きっと大丈夫だと思うよ?後はケアレスミスに気を付けるだけだよ」
そう言ってわざとらしく俺を見てくる早苗。
この数日間のテスト勉強で俺は大きな弱点が判明した。
それはあまりにもくだらない凡ミスが非常に多い、という事。英語なら中学で習う簡単な単語のスペルを間違えたり、数学なら1と7を見間違えて計算してしまったり…といった具合。
これらのミスを早苗の前で何度もやらかしているため、俺は何も言い返せず、ただ苦笑いで誤魔化すしかなかった。
「明日の本番ではああいう事がないようにしないとね」
「了解」
「…ほんと、あれがなかったら私よりずっといい点数が取れるのに…」
と、早苗は勿体なさそうな顔でブツブツと文句(?)を言いながら、最終確認がてらにノートをパラパラめくっていく。
…そう、今日の勉強はごくごく軽めで終わるはずだったのだ。
が、早めに切り上げる予定がなかなか区切りが付かず、結局このテスト勉強が始まって以来の長丁場になってしまった。
そして時刻は深夜3時。
「…なあ、そろそろ…寝よう、ぜ…」
と、そう言って早苗の肩に手をかけた所までは覚えている。そしてこの時にはすでに早苗が熟睡していた事も、だ。
しかし俺もかなり眠くなっていた…というか半分眠っているような状態だったため、そこで力尽きてしまい、意識は完全に眠りの世界へ。
そして俺は早苗同様、ガクリと机に倒れこむような形で眠ってしまった。
…数時間後。
「…ん?」
俺はいつもと違う感覚、何かが額に当たっている違和感で目を覚ます。
とりあえず時間でも…と目覚まし時計を探すも、手が届く範囲には時計はおろか、枕も毛布もなかった。
…あれ、おかしいぞ…
ここで俺はようやく自分がベッド以外の場所で寝ていた事に気付き、慌てて目を覚ます。
そして身体を起こそうと頭を上げるのだが、正体不明の何かが顔にまとわり付いてきた。
「髪の毛…?」
まだしっかりとしない意識の中、俺は自分の顔に付いていた物を振り払い、これまたしっかりと機能していない目で確認を行う。
…って、髪の毛!?
やっと回り始めた頭が出した「何か」の正体、それはとても長い髪の毛だった。
驚いて周りを見ると、そこには開きっぱなしのノートやシャーペン、そしてテーブルの向かい側に眠っている早苗の姿が。
「…あ」
初めはこの状況が理解出来なかったが、寝てしまう直前までの記憶を辿っていく事で、曖昧ながらも色々と思い出していく。
「そうだ、時間は…?」
今日からテストのはず、そのために昨日は早く切り上げようと言っていたのに…
幸い、カーテンの隙間から見える空はまだ薄暗く、遅刻という最悪の事態だけは避けられたようだ。
時計を見ると時刻は朝の5時、遅刻より2度寝の方が心配な時刻だった。
とりあえず俺はもう起きる事にしたのだが、問題は目の前でいまだ熟睡している早苗である。
起こすには早すぎるし、まだ寝せておいた方がいいのかもしれない。
俺はそう思い、早苗がいつも起きる時間までこのままにしておく事にした。
「…それにしても」
開いたノートの上に顔を付けながら微かに寝息を立てている早苗を見る。
「…寝顔、可愛いな」
正確には”寝顔『も』可愛い”になるのだが、それでも起きている時とはまた違った可愛さというのはある訳で、俺はその普段とのギャップめいたものに心を大きく動かされつつあった。
「…ん、んんっ」
と、ちょうどその時、早苗が声を漏らす。
やっぱりこの態勢は少し寝にくそうだ。早苗は身体をもぞもぞと動かし、ベストなポジションを探している。
その仕草も非常に可愛らしいのだが(俺は寝顔フェチか?)さすがにこれは何とかした方がよさようだった。
俺は床に枕をセット、早苗の頭がちょうどそこに来るよう身体をゆっくり倒し、さらに上から毛布をかける。
直接床に寝るのは硬くて嫌かもしれないが、そこは何とか我慢してもらおう。
勿論ベッドに寝かせるのが最良の手段だという事は判っている。しかし早苗はテーブルの奥まで足を伸ばして寝ているため、運ぶには早苗の身体をズルズルと引っ張り出した上、横から抱えてお姫様だっこをするしか方法が無い。さすがにそれは躊躇われる&恥ずかしい事この上ない&自分のキャラに合わない&その他諸々の理由(どんだけあるんだ)により、仕方なく床に寝てもらうことに。
「…さてと」
さっきよりは寝やすくなったであろう早苗を部屋に残し、下へと降りる俺。
まだ時間はかなり早いが朝飯の用意でもしよう、そう思いながら俺は台所へ向かい、おもむろに冷蔵庫を開ける。
とりあえず時間だけはあるのでいつもと違う、手間のかかる料理にしようと思い、たくさんの食材を少しずつ取り出していく。
まず一口大に切ったナスをさっと揚げ、余分な油を沸騰したお湯で洗い流した後、水気をしっかり取る。その間にペースト状にした梅干しをメインとした和風タレを作り、それらと並列して塩茹でしておいたアスパラにカリカリのベーコンとレタスを加え、マヨネーズで和えてサラダを完成させる。
「で、後は…と」
続いてフライパンに細く切った玉ネギとピーマンを入れて炒め、塩コショウでオーソドックスな野菜炒めを作っていると、階段を下りてくる音が聞こえてきた。
「おはよう…」
程なくしてガチャリとドアが開き、台所に立つ俺の背後から眠そうな声が。
「ん、おはよう」
俺は軽く片手を挙げ、もう片方の手でフライパンを振りながら挨拶を返す。
「…昨日、あのまま眠っちゃったんだね」
ガタッという台所のイスを引く音。見ると早苗がイスに座って俺をじっと見つめていた。
「毛布、ありがと。…もう、起こしてくれてもよかったのに…」
「いや、夜中に一回起こそうとしたんだけど、ちょうどそこで俺も力尽きて眠っちゃってさ。布団をかけたのはさっきなんだ」
「そう…」
何だか早苗の言葉の歯切れが悪い。
「…まだ眠い?」
と、俺が聞くと早苗は首を横に振る。
「ううん。…ただちょっとね」
そう答え、照れくさそうに少し顔を赤らめる早苗。
「寝顔、みられちゃったな〜って思ったら、少し恥ずかしくて…」
「ふ〜ん、判るような判らないような…」
可愛かったのになあ、と心の中でボソリと呟く俺。
さすがにこのセリフを口に出して本人に言うのはちょっと恥ずかしかった。
「…おっと。炒め物の途中だった」
1人で勝手に恥ずかしがった挙句、野菜炒めを失敗する…というヘマをやらかす訳にはいかない。
俺は慌ててコンロの方に向き直り、手早く朝食を完成させる。
出来上がった料理は少々ヘビィなメニューもあったが、2人とも空腹だった&半徹夜明け独特のテンションにより、『テストを乗り切るにはカロリーが必要だ!』と適当な事を言いながら全て平らげ、そのテンションを維持したまま学校へ。
カロリー摂取が関係したかどうかは知らないが、その日のテストはどの教科も往々にして好感触、それなりにいい点数が狙えそうなカンジだった。
数日後。
その日でテストは全ての教科が返却され、長かったテスト週間も終了。
肝心の結果だが、平均点を出してみると、まさかのアベレージ80オーバー。
どうやら勉強の成果は存分にあったようだ。
…まあクラスメートからはあらぬ誤解や疑いの眼差しで見られる事となったのだが、それは予想の範囲内。
ただ、担任にまで「どうした柊?」と言われたのには少なからずヘコんでしまった。…今までどういう目で俺を見ていたのか、今日はそれがよ〜く判ったような気がする。
そして放課後、学校を出て少し歩いた所で早苗を発見。
隣に友人と思われる同じ制服の子がいたため、少し話しかけにくい感もあったのだが、テストの話をしたいという思いの方が強く、普通に声を書ける事にした。
「よっ」
「あ、今帰り?」
と、特に驚いた様子も見せず、ごくごく普通の反応を見せる早苗。
その後、しばらく雑談を交わした所で早苗は一緒にいた友人と別れ、俺と帰る事になったのだが…
早苗の友人の去り際の様子から察するに、どうやらいらない気遣いをされたようだった。う〜ん、ちょっと照れくさい。
とりあえず経緯はどうであれ、一緒に帰る事になった俺と早苗。
家路に着くまでの間、話題は今晩の夕食についてだったり、昨日見たテレビの内容など、色々なお題に花を咲かせるも、やはり本題はテストについて事だった。
「そうそう。テスト、返ってきた?」
いつもの大通り、よく立ち寄るハンバーガーショップの前で早苗が立ち止まり、笑顔を見せながらそう聞いてくる。
「ああ、今日で全部返ってきた。…楽しそうに聞いてくるって事は、サナはかなりいい点数だったんだな?」
「ねえ、敦史はどうなの?」
質問を質問で返す早苗。何となく考えが読めてきた。
「いつもより全然よかったぜ。…で、サナは俺とテストの点数で勝負したい、と」
「うんっ、ここのおごりを賭けてね」
「やっぱりか…」
自分から仕掛けてくる辺り、相当な自信があるのだろう。しかし俺だって自信が無いわけじゃない。
「いいぜ。先に言っておくが、俺は世界史で93点を取ったぞ?」
「う…、いいもん、私だって苦手な数学で78点も取れたし」
「何っ!?」
悔しいが俺の数学の点数は71点、これはどうやらかなりの接戦になりそうだ。
しかし勝負はお互いの力が拮抗している方が楽しいし、何より勝った時の達成感が違う。
以上の理由により、俺は早苗が提案したテスト勝負を受けて経つ事にした。
こうして俺達はお互い意気揚々と店の中に入り、最初に注文を済ませる。協議の結果、精神的なダメージが大きい後払い方式が採用されたのだ。
そしてお互いに別カウンターで注文した品を受け取り、前もってキープしていた席に座った所で初めて双方のトレーを見る。
「うわ、テリヤキが3つもある…」
「サナだって普段は頼まねえナゲットが入ってるじゃねえか」
2人共負けた時の事を考えず、勝利を前提に注文をしたため、相当な金額になっていた。これはどうしても負けられない。
「よし、それじゃあ最初は現代文からいくか」
「うん…」
ファーストフード店には似合わない、妙に緊張した雰囲気が流れる中、俺と早苗のテスト点数対決が始まる。
ルールは簡単、一教科ずつ点数を発表していき、総合得点の高い方が勝ち。当初は全教科通して最高点を取った方に5ポイント、最低点にはマイナス3ポイント…といったボーナス加算方式を取るつもりだったのだが、色々と面倒なのでヤメ。
と、まあこうして純粋な得点数のみでの対決となったテスト対決は予想通りの大接戦、得意教科の点数がいつもより高い俺と、苦手教科の点数がいつもより高い早苗、その2人の点数分布に差異はあれど、勝負は完全に五分だった。
そして最後の教科、勝負はどちらも一番の苦手とする英語を残すのみ。
ちなみにここまでの戦歴は何と全くの互角。トータルの点数は1点の差も無い状態だった。
しかし、得意/不得意な教科で明らかな差が出ているという先の傾向を考えると、戦局は俺の方が不利になる。…実は英語の点数はかなり微妙なラインなのだ。
「…後は英語だね」
「…英語だな」
テスト用紙を裏返し、テーブル上でそっと交換する。俺はゆっくりと角からめくり、早苗は目をつぶって一気に点数を見る。
「…69点」(×2)
向かい側で同じくテスト用紙をめくっていた早苗と声が重なる。
「え〜っ!?」
「マジかよ…」
結果は何とまさかのドロー。それまで同じ点数の教科は無かったため、2人共こういう結果になるとは思ってもいなかった。
当然、おごりはナシである。
「…ねえ、ナゲット食べる?」
「食い切れないなら頼むなよな…」
「う〜」
俺は仕方なく早苗のトレーに手を伸ばし、完全に冷めつつあるナゲットを口に運ぶ。
「ありがと」
「…今日は晩飯は作らなくていいな?」
「うん」
「いや〜、それにしても助かった〜。ラスト1枚を残して同点って時は正直負けると思ってたからな」
「今回のテスト、基本的に苦手教科の点数が高かったんだけど、英語だけは例外だったんだよ…」
そう言って「うう〜」と悔しがる早苗。一方、おごりを覚悟していた感もあった俺はホッと一安心、という状態だった。
「しっかし、まさか引き分けとはな…」
ナゲットを口に入れたまま、もう一度お互いのテスト用紙に目を通す俺。
よく見るとどの教科も同じ問題が幾つかあり、その問題に関しての2人の回答内容と正解率は全く同じ…という中々にサプライズな結果。
特に英語は使用している教科書が同じこともあってか、テスト用紙の右下1/4は全く同じ問題だった。
「…ん?」
と、ここで俺はとある事に気付き、その2枚の解答用紙を並べてみる。
それは英文の並び替え問題だった。
○、○、×、○、×…って、おいおい。
「…サナ、ちょっと見てみろよ」
「え?なになに?もしかして採点ミスで私の勝ちとか?」
「いやいや、負けを自己申告するほど出来た人間じゃねえよ、俺は」
俺はそう言いながら、正解のみならず、不正解の問題の並びまで一緒になっている解答欄を指差す。
「うわ、同じ並び替えミスしてるよ…」
「こりゃあアレだな、もし同じクラスで席が近かったら完全にカンニングだと思われるな」
「うん、さすがにこれは弁解出来ないかも…」
「ま、カンニングの疑惑をかけられてもお互い0点だから勝負はドローのままだけどな」
そう言って俺は最後まで残っていたナゲットを口に入れ、そのまま席を立つ。
「…さ、テストも終わったし、腹も十分膨れた。…どっか遊びに行くか?」
「うん。じゃあボーリングがいいな。…そうだ、テストの代わりにボーリングで勝負しようよ?」
と、どうしても俺と勝負がしたい…というか何かで俺に勝ちたい様子の早苗。まあその気持ちは判らなくもないのだが…
「おいおい、そんなに俺におごりたいのか?」
「違うよ〜」
やや拗ねた口調で反論する早苗。しかしその表情に怒りの要素は見られない。
その証拠に早苗は俺の隣にぴょこんと並び、いつもの笑顔を武器にお願いしてくる。
「ボーリング、したいな」
「…」
残念な事ながら俺はこの笑顔に滅法弱い。
「…手加減はしねえぞ?」
「いいよ、そのかわりハンデは50ね」
「いやいや、いくら何でも勝てねえよ…。せめて20にしてくれ」
「え、いいの?20も貰って?」
「う…」
結局俺はそのハンデのせいで負けてしまい、2人分の料金とシューズ代、そしてゲーム後のジュースまで払うことになった。
その他にもたくさんの出来事があった。
2人揃って寝坊をして遅刻しそうになった。
2人で歩いている所を双方のクラスメートに見つかり、街中で盛大に冷やかされた事もあったな…
と、早苗がこの家に来てから起きた印象深い出来事を思い出す俺。
いつの間にかカレーも完成し、後は盛り付けをするだけになっていた。
リビングにいた早苗を呼び、一緒に食べる。
「そうだ、さっき思い出したんだけど…」
カレーの皿が半分近く空になった辺りで早苗が思い出したように口を開く。
「明日で私がこの家に来てからちょうど3ヶ月になるんだよ」
…3ヶ月、か。もうそんなに経ったのか…
「早いな」
「ね。…でね、敦史が晩ごはんを作ってる間、ず〜とその事考えてた。色々あったな〜って」
「俺もサナと同じ事を考えてたかも」
「え、本当?」
「ああ。明日でちょうど3ヶ月、ってのは気付かなかったけど、台所の棚にあるオリーブオイルを見て色々思い出してさ、晩メシが出来るまでずっと考えてた」
そう言ってまたしても早苗と同じだった事を話す俺。
その後、俺達はそれぞれ思い出していた出来事をお互いに1つずつ話していく。
やはりというか何というか、ほとんど同じ事を思い出していた。
「…そうそう、あの時は敦史が前を見てなかったからぶつかったんだからね」
「頼む、あれはもう忘れてくれ」
今早苗が話しているのはいつも利用しているスーパーで買物をしていた時に起きた俺の失敗(失態?)談。
俺が横を見ながらカートを押していると、通路を少し塞ぐような形で置かれていた箱売りのジュースの山に追突してしまったのだ。
幸い、積まれたいた箱は全て無事だったのだが、一番上に置かれていたバラ売りの缶は全滅。大きな音をたてて床に落ち、至る所に転がっていってしまった。
「あれはすっごく面白かったな〜。私が買う物を持って敦史の所に戻ったら、慌ててジュースを拾ってるんだもん」
落としてしまった缶はどれも相当なヘコみが生じてしまったため、俺は仕方なく全部買う事に。
その結果、家の冷蔵庫には相当数のおいしくない外国産ジュースがしばらく並んでいた。
「あれを飲み切るのに半月もかかったんだぞ?…サナは結局2本しか飲まなかったし」
「だって全然おいしくなかったんだもん」
「ったく、そういう事はさっさと忘れてくれよな…」
俺がそう言うと早苗は少し照れた様子で反論してくる。
「私だって忘れて欲しい事はたくさんあるんだからね」
「別に俺は何も言ってないぞ」
「でもしっかり覚えてるでしょ?」
「う…」
早苗の言う通り、恥ずかしいエピソードの数なら断然早苗の方が多かった。
そしてそれをほとんど全て俺が覚えているのも事実だったりする。
「ほら、やっぱりそうだ。嫌だな、敦史は記憶力がいいから忘れないんだもん」
…そりゃ覚えてますって。と心の中で反論する俺。
この3ヶ月間、俺は事ある毎に早苗にドキッとさせられていたように思う。
初日のセクシーショーツを発見してしまった事に始まり、風呂場での一件もあった。
寝ぼけてパジャマが半分脱げかけているのに気付かず、リビングに降りて来た事もあった。
早苗の洗濯物の中に俺の下着が混じっていて騒がれたり、転びそうになったのを助けようと抱きかかえると胸を掴んでいた(いくら不可抗力だと言っても聞き入れてくれなかった)、なんて出来事もあった。
突然の大雨に降られ、下着が透けて見えているのを見てしまったり、花屋の前で水をかけられて下着が透けて(下着がらみの話ばっかだな)見えたり…と、青少年に悪影響を与える事間違いなしの出来事がたくさんあった。…これでは青少年ではなく、性少年になってしまうではないか(われながら上手い事を言ったと思う)
「本当に恥ずかしい出来事だらけだったな…」
「しみじみ言わないでよ〜」
と、真っ赤になる早苗。
…ああ、俺は何回この顔を見たんだろう。
相変わらず感情がストレートに顔に出る早苗を見ながらそんな事を考える俺。
…その答えは簡単、正解は数え切れない程、である。
「さてと。メシも食ったし、さっさと片付けるか」
俺は目の前で不満そうにこっちを見ている早苗に最大限の笑顔を振りまき、話の流れを変えようと皿洗いに誘う。この話題は自分にとって都合のよろしくない&往々にして弱い立場にあるため、何とか早苗の追求が激しくなる前に話を断ち切りたかった。
「うわ、勝手に話を終わらせてるし〜」
が、早苗は俺の天使のような笑顔(自称)には一切触れず、まだ話は終わってない!と言わんばかりに口を尖らす。
…どうやら俺のエンジェルスマイル(まだ言うか)に特別な力は宿っていないようだった。
その日の夜。
俺は自分の部屋にあるイスに座り、机の上に足を乗せて身体を揺らしていた。
「…」
ギシ…、ギシ…
重心を前後に移動させる度に音を立てるイス。俺はその音を規則正しく鳴らすべく、一定のリズムで揺れながら考え事をしていた。
『最近考える事まで一緒になってきたね』
それは夕食の後片付け中に早苗が俺にもらした一言。
おそらく深い意味は無く、早苗はただ思った事をそのまま言っただけなのだろうが、俺はその言葉を違う意味として捉えてしまっていた。
確かに最近は行動だけでなく、考えている事まで同じである事が多い。今日もそうだし、確認こそしていないが普段の何気ない生活の中でもかなり同じ事を考えていたように思える。
「だったら…」
考える事が一緒だと言うなら、早苗は俺の事が好きなのだろうか?
さすがに嫌いではないだろうが、俺が抱いている感情の「好き」とは別物なのではないかと思ってしまう。
何と表現すればいいのだろう、もっと深い…というか複雑というか…
「あ〜、スッキリしねえ」
この掴み所のない、もやっとした思いに頭をボリボリ掻いてしまう俺。
前にもこうして早苗の事を考えた事があったのだが、今回はそれ以上に内容が重かった。
…早苗は俺の事をどう思っているのだろうか。もし俺と同じ気持ちでいてくれたらこれ以上嬉しい事はない。
「…」
もう一度俺の頭の中にさっきの早苗の言葉が流れる。それはとても自然に、何気なく発せられた一言。
『最近考える事まで一緒になってきたね』
…じゃあ早苗は今、俺の事を考えてるのだろうか、俺と同じ事で悩んでいるのだろうか。
ギシッ、ギシッ…
少しテンポアップするイスの音。
その小気味よい音と適度な揺れの中、俺は自然と早苗の部屋の方を見てしまう。
この壁の向こう側で早苗も俺と同じようにイスを揺らしているのだろうか…
「まさかな」
自分で思った事に声を出してツッコミを入れたその時だった。
グラッ!
「うおっ!?」
どうやら俺は知らないうちにイスを傾ける角度、触れ幅を大きくしすぎていたらしく、今までバランスよく身体を支えていたイスの足がズレてしまった。
危うく俺は後頭部から床に落下する所だったが、とっさに伸びた腕が運良く机の横を掴み、何とか落下を回避する事が出来た。
「…ふう」
ゆっくりと身体を起こし、安堵混じりのため息を漏らす俺。
さすがにすぐ元の体勢、足を机に置いてゆらゆら揺れる…というのには戻れず、普通に腰掛ける事に。そして俺がイスに座り直すため、一旦立ち上がろうとした次の瞬間…
ドスン!
「!?」
と、大きな音が壁の向こう側、つまり早苗の部屋から聞こえてきた。
俺は何があったんだろう?と壁に近寄る。
『〜っ』
壁越しから聞こえてくる早苗の声。しっかりとは聞き取れなかったが、「痛い」という言葉が聞こえたような気がした。続いて「頭」という単語と、もう一度「痛い」という言葉が今度はしっかりと聞こえてくる。
「…バーカ」
俺はボソっと壁に向かって言う。
おそらく早苗は俺と同じような状況になり、頭から見事に落ちたのだろう。
…訂正。
今のはおそらくではなく、間違いなく、だ。
とりあえずこの事は明日の朝に会った時にでも軽くツッコんでおこう。俺はそう思いながら壁を見つめる。
早苗の部屋からはまだ「いたい…」という声が聞こえており、涙目で頭を押さえている姿が容易に想像出来た。
「…ったく、ヘンな所でドジをやらかすんだよな…」
と、1人でツッコミのようなものを入れる俺。しかしその声は自分でも不思議に思うくらい穏やかで優しいものだった。
そして俺はこの一言で楽になった…というか、それまで重かった気分が少し軽くなった気がした。
「…ありがとな。これでも色々と感謝してるんだぜ?」
早苗の部屋に向かってつぶやく。
もう今日は何も考えず、ゆっくり眠ろう。
気が楽になったせいか、俺は急激に眠気に襲われ、そのままベッドにもぐりこんで寝る事にした。
第三章「暗転、その先」
それから数日後、とても寒い雪の日の事だった。
俺はその日あった体育の授業でバスケを選択、仲のいい友人とチームを組み、ゲームを行っていた。
タンタンタン…キュッ、キュキュッ!
「渡部、高橋にパスだ!」
「わかった!」
シュッ!
「うわっ、このバカ!パスが高けえよ!」
パシィ!
渡部の放ったパスは高橋に通らず、相手チームに取られてまう。
「ちっ、速攻かよ!」
ダダッ!
俺は舌打ちと共に全力疾走、すぐさまゴール前に戻って守りに入る。
キュッ、タタン!
何とかボールを持った相手に追いつき、動きを止める事に成功した俺。しかし目の前にいる長田というヤツは現役のバスケ部、確かレギュラーではなかったと思うが、それでも巧みなフェイントとフットワークを使って俺を翻弄してくる。
「おいバスケ部、素人相手にそこまでマジになるなよ、少しは手加減しろって」
「断る!チーム全体の能力はそっちの方が上なんだから、俺が真面目にやらないと勝てねえんだよ。それに今は柊のチームが勝ってるじゃねえか!」
タンタン…スッ、タタン!
そう言いながら長田は素早いドリブルとフェイクを使っい、突破を仕掛けてくる。
「くっ、抜かれた!」
さすがはバスケ部、素人ディフェンスでは歯が立たない。
「悪いな柊、後片付けはお前らにやってもらう!」
シュッ、スパッ!
「やった!」
「いいぞ長田!」
「おう!…っていうかオメーらも少しは頑張れよ!昼メシ食えなくなってもいいのか!?」
と、味方チームに激を飛ばす長田。う〜ん、運動部ってアツイ。
「…なあ柊、この際長田を止めるのは諦めて、取られたら取り返す作戦でいこうぜ?」
ゴール前まで戻ってきた渡部が作戦を提案、他のメンバーも「それでいこう」という目をしていた
「そうした方がいいな」
「…1人で頑張ってる長田には悪いが、後片付けはあっちのチームにやってもらおう」
「ああ」
「勿論!」
俺の言葉に大きく頷くチームのみんな。
…ちなみにさっきから双方の会話に出てきている「後片付け」という言葉だが、実はこのゲーム、負けた方が授業で使った全ての用具を片付ける決まりになっているのだ。
しかもこのルールは基本的に毎回採用、ゲーム開始直前に先生が対象競技を決めるというスタイルを取っているため、いつもこうしてそれなりに白熱した展開が繰り広げられていた。
俺達がここまで真剣になっている一番の理由、それは女子のバレー用ネットとポールの後片付けの面倒さにあった。
長いネットをキレイに折りたたむのは意外と面倒で、いつも上手くいかずにやり直しをさせられるのだ。
ポールはポールは純粋に重いし、またかなりの年代物のため、持つと手に赤サビが大量についてしまう。
さらに今は4時間目、ここでのタイムロスは昼食戦争の敗北を意味する。
以上の理由等により、俺はどうしてもこのゲームに負けたくはなかった。
「よし、確実に点を取っていこう!」
シュッ!
試合再開、俺はすぐさま素早いパスを高橋に渡し、そのまま相手ゴールに向かって走り出す。
「渡部、頼む!」
その動きを見ていた高橋は一旦渡部にパスを回し、相手ディフェンスの注意を俺から逸らす。
当然渡部もこのパス回しの真意に気付いており、ボールを受け取ると間髪入れずに俺にパスを出す。
「柊だ!アイツをマークしろ!」
相手チームの中で唯一その作戦に気付いていた長田が声を上げる。するとその指示に従い、長田を含めた3人が俺の前に立ち塞がり、進路方向を全て絶つ。
「くっ!」
さすがバスケ部だぜ、俺はチッと舌打ちをしながら数歩下がる。距離的には十分だが、この囲まれた状況からシュートを打っても入る確率は低い。
こうなったら一度外にボールを…、そう思った時だった。
「てい!」
ここで相手ディフェンスの1人がボールを奪おうと飛び出し、手を伸ばしてくる。
「おっと」
俺はその動きに素早く反応、ドリブルを止めてボールをしっかりキープする。
そのため、相手が伸ばしてきた手は空を切ることになるのだが、勢い余ってその手が俺の身体に当たってしまう。
パシッ!
「…あ」
やっちまった!という顔をする相手ディフェンス、そして当然の如くホイッスルが鳴る。
「やった!」
こうして俺はフリースローのチャンスをゲット、
「柊、頼むぜ。俺はネットをたたむのが嫌いなんだ」
「任せとけ。俺もあんな面倒なのは嫌だ」
渡部からボールを受け取り、俺は数回ボールを握り直した後、ゆっくりと構えに入る。
そして…
ヒュッ…パスッ!
「よし!」
思わずガッツポーズ。俺の放ったシュートは理想的な放物線を描き、キレイにネットを揺らす。
これで相手チームとの差は5点。何とか逃げ切れそうだった。
だがその直後、残り時間あとわずかという所で長田のスリーポイントが決まってしまう。
「くそっ、渡部!速攻で返すぞ!」
「おう!」
間髪入れずにゲーム再開、全力で走る俺に渡部から絶好のパスがくる。相手チームはまだ誰も戻りきれていない中、そのままゴールへと向かう俺。
…いけると思った。
が、その時―
「!?」
トン、トントントン…
目の前にバレーボールが転がってきた。
俺はシュートを決めようと大きく踏み出していたため、足元にきたボールを避ける事が出来なかった。
そして俺はそのまま床を蹴ろうとしていた左足でバレーボールを踏みつけてしまう。
次の瞬間、まずグキッという鈍い音が鳴り、続いて痛みがやってくる。
反射的にその痛みの発信源に目を向けると、そこには不自然な方向に体重をかけられ、普段の生活ではあり得ない角度に曲がっている足首があった。
そして俺はバランスを失い、体育館の床に全身を叩きつけられる。
「痛ぇ!!」
「柊!おい、大丈夫か!?」
ゲームは中断され、みんなが俺の周りに集まってくる。
俺は心配させまいと立ち上がろうとするのだが、全く足に力が入らず、近くにいた渡部の肩に掴まってしまう。
「おい渡部、それから高橋、柊を保健室まで連れて行ってくれ」
駆け寄ってきた先生が俺の足を軽く触りながら指示を出す。
「…どうやら骨に異常はなさそうだ。捻った痛みだけならいいんだが…」
「ほら柊、手出せよ」
「ああ、悪い…」
「それじゃあ先生、ちょっと行って来ます」
「頼んだぞ」
こうして俺は友達2人の肩を借り、保健室へ。
しっかり観てもらった所、体育館で先生が言っていた通り、骨に異常は無い事が判明。筋や神経にも無事のようだったが、一応念のためにと数枚の湿布を張られ、足首を固定する包帯をきつく巻かれた。
「何かコレだけ見ると大ケガしたみたいっスね」
「仕方ないでしょ、しっかり固定しないと痛むんだから。柊クンもそれは困るでしょ?」
「そりゃそうですけど…」
「最低でも今日一日はこのまま包帯を巻いておく事。あと大きな負担をかけるのもダメ、激しい運動は避ける事。…いい?」
「はい」
その他にも色々と注意され、保健室を出る。
すると廊下には俺を運んできてくれた2人が待っていてくれた。
「その足じゃ階段の昇り降りはツラいだろ?教室まで肩を貸してやるよ」
と、渡部。
「右に同じ。今日のバスケは柊の活躍がなきゃ負けてたからな」
と、こちらは高橋。どちらもこの言葉だけを聞けば友情パワー炸裂な話なのだが…
「その代わり…」
ホラきた。まあこんな事だろうとは思っていたのだが…
「はいはい、みなまで言ってくれるな。購買で何かおごるよ」
そう言って俺は2人の肩に掴まり、教室へと戻った。
放課後。
さすがに帰る頃になると足の痛みはだいぶ収まり、普通に歩ける程度になっていた。
学校を出て歩いていると、信号待ちをしている早苗の後姿を発見。俺には気付いていないようなので、少し驚かせようと背後に回る。
「よっ」
「え、敦史……ッ!!」
一瞬驚くも、声ですぐに俺だと判ったのか、笑顔で振り向こうとする早苗。しかし身体を半回転程させたところで急に表情が曇る。
「いたた…」
「ど、どうしたサナ?」
反射的にそう聴くも、すぐに俺は「まさか」と思う。
「今日さ、学校で少しケガしちゃって」
「…足、ひねっちゃったんだな?」
早苗の足を見ると、左足の靴下が少し膨れていた。
「うん、でもそんなに大した事はないんだ。…だからそんなに心配そうな顔しなくていいよ?」
俺の顔を見た早苗は慌てたようにそう言うと、大丈夫だとアピールするように笑顔を見せる。
「そうか…。あんまり無理すんなよ?」
と、一応頷くものの、残念ながら俺の表情はあまり変わらない。
勿論早苗の足の具合も心配なのだが、それ以上に俺は「まさかケガをするまで一緒だとは…」という気持ちの方が強かった。
「ありがと。…それにしても足を見ただけでよく判ったね。そんなに目立たないと思ってたんだけど…」
早苗はそう言って自分の両足を見比べ、ちょっと不思議そうに聞いてくる」
確かにこのくらいの膨らみをすぐに見分けるのは難しいだろう。
「い、いや、何となく足かな〜と」
「…もしかして」
さすがに「俺も足をケガしたからそう思った」とは言えず、適当に誤魔化そうとしたのだが、どうやら気付かれてしまったようだ。
「…」
早苗は無言で俺に近付き、すっ…としゃがみ込む。
「お、おい…?」
まさか俺の足を確認しようと、道の真ん中でズボンの裾を!?
そんな思いが頭をよぎり、反射的にバックステップをしてしまう。
「くっ」
その結果、身体の動きに左足がついていけず、さらに体重をかけてしまったため、ケガをした箇所に痛みが走る。
「やっぱり敦史もケガしてたんだね」
「…まあな」
「私と同じ左足?」
「ああ、体育でバスケをやってた時に捻った」
信号が青に変わり、俺はいつもより少し遅めに歩く。
「…ありがと」
「ん?」
「私に合わせて歩いてくれてるでしょ?さっきから歩幅が合ってないよ」
早苗が少しイジワルそうに笑い、俺の足元を見る。
「ああ、わかった…」
…う〜ん、バレていたか。
一応何か言われた時のため「自分も足が痛いから歩幅を狭めた」というウソ言い訳も用意していたのだが、おそらくこれもバレてしまうだろうと思い、何も言わないことに。
…さり気ない気遣いというのは本当に難しい。
「敦史も足をケガしてるんだから無理しないでね。自分の事も考えないとダメだよ?」
そう言って早苗は急に俺に近付き、さらに顔を耳元に接近させてくる。
「…敦史ってさ、いつも私の事を先に考えてくれてるよね。でもね、私も…」
と、そこで言葉が止まり、早苗はパッと俺から離れてしまう。顔を見ると今までで一番真っ赤になっていて、完全に1人で舞い上がっているように見えた。
「サナ、今なんて言おうと…」
「ああっ、敦史、私先に帰ってるから!」
俺が話しかけようとすると、早苗は大慌てでそう言い、走り去っていく。
「足、大丈夫か…?」
どんどん姿が小さくなっていく早苗を見ながらそう呟く俺。
本人の言う通り、大したケガではないのかもしれない。
「…」
1人になった俺は家までの帰り道をゆっくり歩いていた。
それは足の具合を考えての事でもあったが、それよりもっと大事な事を考えていた。
頭の中にあるのは真っ赤になって走り去っていく早苗の顔と、あの時言おうとしていた言葉の続き。
『でもね、私も…』
出来ればあの時、この後に続く言葉を聞きたかった。
早苗が俺の耳元にまで顔を近づけて言おうとした言葉を考えてみる。
思いついたものはどれも口に出すのが恥ずかしすぎる物で、もしこの中に正解があるのであれば、慌てて走り去っていく早苗の気持ちは十分に理解出来た。
…でも。
「あれって告白しようとしてたのかな…」
これでも俺は早苗の事をよく知っているつもりでいる。あんなにすぐ恥ずかしがって顔を赤くする早苗が、あそこまでして言おうとしていた言葉だ。
自惚れになるかもしれないが、もしかしたらあれは俺に告白しようとしていたように思えてならない。
そして頑張って自分の想いを伝えようとしたものの、結局恥ずかしさや不安が勝り、ああなったのではないだろうか。
その気持ちはよくわかる、とてもよくわかる。
「…俺も、同じだからな…」
それはボソリと呟くように、そして自分の気持ちを確認するように。
…俺もいつか、願わくばごくごく近い内に、自分の想いを伝えたいと思っていた。
でも俺は今の生活、一緒に暮らしている今の状況が楽しくて、その状況を維持するため、自分でも知らない間に後回しにしていたのだ。
「早苗…」
出来れば俺の方から先に伝えたかった。ストレートに「好きだ」と、大声で「好きだ」と言いたかった。…いや、言うべきなのだ。
「…」
ギュッと手を握り、よしっと心の中で気合を入れる。
…行こう。
早苗はまだ最後の言葉を、伝えたかった内容を最後まで言っていない。
少し先を越された感はあるけれど、きっと追いつける。
「…訂正」
こればっかりは「きっと」なんて曖昧な事ではいけない。
「…絶対、追いつける」
俺はそう言い、足の事などお構いなし、全力で話し出す。
目的はただ1つ、早苗に会って自分から想いを伝えるために。
…物事の始まりというのはいつも唐突にやってくる。
少なくとも俺はそうだった。
それは今日。
とても寒く、朝から雪が降っていた。
雪は学校が終わる時間になってもやまず、街は真っ白になっていた。
俺はそんな白一色に染まった街の中、同じく真っ白な息を吐き出しながら全力で走っていた。
ただでさえ滑りやすい道を躊躇いも無く、ただひたすら全力で走る。
時々バランスを崩しては転びそうになるものの、それでも俺は決してスピードを下げることはしなかった。
…少し、いや、かなり左足が痛かった。実は足首を捻ってしまい、俺は絶対安静を言い渡されていた。
だが、俺は走っていた。
理由は1つ。
好きな人を、どうしようもなく好きになってしまった人に会い、自分の想いを伝えるため。
彼女の名前は高梨早苗、色々と複雑な事情により、現在一緒に住んでいる、たくさんの「同じ」を共有している彼女。
「…」
吐く息が次第に大きく、そして乱れてきているのが判った。
だが、俺は走る。まだ彼女に会っていないから。
少しでも早く彼女に、早苗に会いたい。俺はその事だけを考え、ただひたすらに走り続ける。
不思議な事に疲労感の類は全く感じなかった。
『絶対に追いつける』
俺はそれだけを心の中で繰り返していた。
「…ッ!?」
左足が急激に痛み出す。それは今までとは何か違う、異質な痛みだった。
…後になって思えば、この痛みは警告のようなものだったのかもしれない。
嫌な予感はしていた。
しかし、だからと言って俺は走るスピードを落とす気は微塵もなかった。
多少雪が積もっているものの、ここは通り慣れた道だ。どこに不安要素がある?俺はそう自分に言い聞かせ、いつもの曲がり角へと入っていく。
そして…
…どうして、悪い予感に限って当たってしまうのだろうか。
確かに不安となる要素はしっかり存在していた。
それは今日のこの天気。そして日当たりが悪く、見通しの悪いこの曲がり道。
気付くと目の前に車があった。しかもかなりのアップで。
まずバンパーに、そしてボンネット、フロントガラスと続き、最後は盛大に地面に。
車体はかなりへこんでいたが、衝突の瞬間は何ら痛みを感じる事はなかった。まだ左足の方が痛かったくらいだった。
そして何度か目の前に映る映像が切り替わり、最後には空が見えた。
『青、好き?』
そういえば以前、早苗にそう聞いた事があったな…。ふとそんな事を思い出す。
ちなみに俺の答えはもちろんイエス。中でも今日のような厚い雲の合間から見える空の青が一番好きだった。
…早苗も青、好きだったよな…
身体はすでにいくら力を入れようとしても動かなくなっていたが、それでも意識だけはしっかりしていた。
その意識だけはしっかりしている中、考えるのは、頭の中にあるのは早苗の事ばかり。
一緒に食事を作った事、一緒に出かけた事、一緒に勉強した事…。
俺はいつも早苗と一緒だった。好みも、考えも、そして行動も。
…マズいな。
これはもしかして走馬灯というヤツだろうか。
俺はそんな事を思い、今まで気持ちよく流れていた数々の回想シーンを自分で止める。
今のでどうしても気になる事があった。
それは勿論早苗の事。さっき最後に感じた、「そして行動も」という所だ。
…そうだ、そうだよ。
早苗は、早苗は大丈夫なのか!?
今まで何度となくあった2人の同じ行動。
今日だって俺と早苗は共に足を捻り、ケガを負ってしまった。
…まさか、今頃早苗も俺のように車に…?
俺が最後に見た早苗の姿、それはついさっき、この曲がり角に差し掛かるまでの俺と同じ、全力で走っている姿だった。
…頼む、それだけは…
さすがに意識もだんだんと薄れてきた。
だが、それでも俺は強く、強く思う。
…例え俺が大怪我をしても、最悪死んでしまっても、早苗だけは無事でありますように。
もし、俺が身代わりになれるのであれば、本来であれば早苗が負うべき不幸を自分が肩代わり出来るのであれば、喜んで俺は盾となり、早苗を守る。
…そう、早苗のあの笑顔を、守りたいのだ。
だから。
だから。
お願いだ、もし早苗の身に俺と同じ事が起きるのなら、起きようとしているのであれば、どうかその災難を俺にまとめて、全て背負い込ませてくれ…
…涙が流れている。もう感覚は完全に麻痺しているはずなのに、それだけははっきりと自覚する事が出来た。
ああ、俺は泣いているんだ。そう思える事がなぜか少し嬉しかった。
勿論この涙は痛みによるものではない。
それは誰よりも、何よりも大切な人を案じ、必死に懇願した結果、自然と流れてきた涙。
俺のような人間の涙に特別な力は無いだろう、俺がいくら必死に願った所で叶うものなど無いのかもしれない。
でも、それでも。
どうか、早苗だけは無事で…
…、…!
俺の周りで何かを叫んでいる人がいる。それは何となく判る。
が、その人の顔や言葉の内容までは判らなかった。視界はひどく狭く、聞こえる音もまだひどくぼんやりとしか聞こえなくなっていた。おそらくぶつかった車の運転手だろう。
…すいません、悪いのは俺です…
遠く、本当に遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
そして音の大きさが一定になり、少しの間の後、身体を抱きかかえられて運ばれる感覚が。
…救急車に乗るの、初めてだな…
全然痛みが無いせいか、自分が置かれている状況をひどく冷静に見ている自分がいた。
もしこの場に早苗がいて、今俺が思った事を聞かれたらメチャクチャ怒るだろうな…
…ん?
その時だった。俺は右手を誰かにぎゅっと強く握られた…ような気がした。
しかしよく考えてみると、今の俺の身体に感覚はない。
どういう、ことだ…?
「敦史…」
今度は早苗の声が聞こえてくる。
…まさか隣にいるのか?
俺は急激に薄れていく意識の中、必死で声のした方向を見ようとする。
動け、頼むから動いてくれ、脳はそう命令を出すも、身体はピクリとも動いてくれない。しかし…
ほんの一瞬だけ目に映る映像が切り替わり、早苗が見えた…ような気がした。
だが次の瞬間、全てが真っ暗になり、俺の意識もここで途切れてしまった。
…後から聞いた話だと、それから俺は丸3日間ほとんど身動きすることも無く、昏睡状態が続いていたらしい。
骨は全身合わせて12本も折れていたのだが、運のいい事に臓器や呼吸器官は無事だったらしい。
終章「いっしょ」
「…ん」
間の抜けた声と共に目を覚ます俺。
そして見慣れない部屋の中、とりあえずいつもの癖で時刻を確認しようと周囲を見渡す。…何だかやけに動きにくかった。
「5時…」
壁に掛かった時計と、その横にある窓から見える風景から察するに、どうやら今は夕方の5時のようだ。
赤く染まったカーテン、そして部屋の中にまで差し込んで来る冬の太陽がとてもキレイだった。
「…あ」
太陽はおまけに自分の身体にグルグル巻かれた包帯まで赤く染めてくれていた。
そして同時に俺はようやく現状を把握、ここが病室である事、どうしてこうも動きにくかったのか、全てを理解する。
…やっぱり包帯グルグル、ギプスだらけ状態か。
俺は少しだけ自由のきく首を曲げ、自分の身体を見る。
とりあえず自分の力だけで上半身を起こる事くらいは出来そうだった。
「…ま、1人でメシを食うのは無理だけど」
両手にはズッシリとした、そして固められた感覚。シーツ越しからでもギプスを装着させられている事が容易に想像出来た。
…この両手でも食べられるものと言ったらドーナツくらいか。
そんな事を考えるのは空腹感があるからだろうか。とりあえずそのドーナツは腕にはまる程度の大きさ、直径にして25cmは必要だろう。
さすがにそれはいくら俺が空腹でも食べきれないし、この状態ではのどに詰まったら水が飲めなくて死んでしまう、かなりの危険フードである。
…危険フードって何だ
「敦史…?」
両腕にドーナツを装着し、水を欲している自分の姿を想像している時だった。
俺のすぐ横、ベッドに倒れこむように頭を埋めていた早苗が顔を上げ、おそるおそるといった感じで俺の名前を呼ぶ。
その顔は疲労感で一杯、よく見ると目から頬にかけ、涙が大量に流れた跡があった。
…ああ、早苗はずっとここにいてくれたんだ、ずっと俺のために泣いてくれていたんだ。
そう思うとメチャクチャ申し訳ない気持ちになる。
でも、その申し訳ない気持ちの中に、ほんの少しだけ嬉しい気持ちが混じっているのも事実。…本当に俺は困った人間だ。
「敦史…だよね?」
「サナ…」
こういう時は何と言うべきなのだろうか?
いつもの俺なら「そんなに顔が変形したのか?」みたいな事を言えたのだろうが、あいにくそこまでは頭が回らなかった。
「ああ、俺だ。間違いない。ここにいるのは、俺だよ」
…だから、俺は素直に早苗の言葉に答える。
「よかった…」
早苗の目から涙があふれ、頬をつたってシーツに落ちる。
また一粒、また一粒と零れ落ちる涙はやがてシーツも吸収しきれなくなり、その染みを大きく広げていく。
「…サナ」
出来ればその涙流れる頬を自分の手で拭いてあげたかった。しかしこのギプスで固められた状況ではただの顔面パンチ、しかもダブルで決めてしまうことになる。
「悪いな、俺のために泣いてくれてるってのに、拭いてやる事も出来ないなんて…」
「い、いいよぅ。そんなコトされたら、嬉しくてもっと泣いちゃうよ…」
何て健気な事を言ってくれるのだろうか。
「…サナ、本当はこんな場所で、こんな状況で言うべきセリフじゃないんだけど、サナに言いたい事、どうしても言わなきゃいけない事があるんだ…」
「うん」
早苗は涙を流すのを止め、そう返事をして俺の顔を真っ直ぐ見つめる。
その顔は笑顔。お世辞でも何でもない、どんなものよりキレイで可愛い笑顔だった。
俺はそれが、この笑顔が自分に向けられている事が嬉しくて、嬉しくて嬉しくて…
「ゴメン、ちょっと…待って…」
涙で視界がぼやけ、声も思うように出ない俺。
せっかくの早苗の笑顔が見えないじゃないか、しっかりしろ…。
泣くな、えずいて声が思うように出ないなんてカッコ悪すぎるじゃねえか…
「敦史、泣いてる…よ…」
と、早苗が言う。しかしそう言った当の本人はもっと泣いていた。
俺はそんな早苗をゆっくりと、そしてしっかり見つめ、ストレートに自分の想いを口に出そうとする。
今度は自分から、自分が先に想いを伝えようと。
しかし、どうやらその想い、考えは向こうも同じようだった。
「大好きだよ…」(×2)
今までで一番キレイに2人の言葉が重なる。
当然、それは一字一句、イントネーションもアクセントも全く同じ。
そして次の瞬間…
「サナ…」
動けない俺に代わり、早苗が勢いよく抱きついて来る。というか気付いた時にはもう胸元に早苗の顔があった。
そんな早苗に応えようと、俺も必死に腕を動かし、しっかりと抱きしめる。
そしてもう一度、今度は耳元で大好きな人の名前を口にする。
「…」
早苗は返事の代わりに顔を上げ、一定の距離まで近づけた後、すっ…と目を閉じた。
「…んっ」
初めての、そして初めてにしては長いキス。
「顔、赤いぞ」
「…バカ」
その何とも言えない、幸せと恥ずかしさと喜びがごちゃ混ぜになった感覚に耐え切れず、そんな軽口を叩き合う俺と早苗。
やっぱりこの2人はこういう関係、仲のいい友達を劇的に発展させたような関係がいいんじゃないかと思う。
「…」
と、無言で俺を見つめる早苗。
「…」
と、同じく無言で早苗を見つめる俺。
ちなみにさっきから2人はベッドの上で抱き合ったままである。
「…敦史、何か言いたそうだよ?」
「サナもな」
共に相手の出方を伺うような口調の2人。
「えへへ…」
「何だよ、笑うなよ」
こんな至近距離で何をやっているんだろう、おそらく早苗はそう思って笑ったのだろう。俺もそう思っているのだからきっとそうに違いない。
「え〜、どうして?」
「…可愛いすぎるんだよ」
「うわ、ハズカシー」
「うるせえ!いいじゃねえか、本当にそう思ったんだから…」
「う〜ん、敦史って赤面ワードを平気で言える人だったのか…。新発見」
「そういうサナはどうなんだよ?」
「え…。そりゃあ私だって、その、敦史の前でなら、基本的にどんなことでも、言えちゃう…かな」
「マジか…」
こうして俺達は抱き合ったまま、とりとめのない話を延々と繰り返す。
その甘すぎる会話の中、俺はふとこう思う。
…今こうして話をしている途中、何の脈略もなく、いきなり言ったとしても、きっとまた重なってしまうんだろうな。
俺はそんな事を考えながらも、再度この想いを、自分が彼女に抱いている気持ちを声に出そうと口を開く。
きっと早苗も同じタイミングでこう言っちゃうんだろうな。
…大好き、と。
「One Lovers Story 〜君のとなり、君の笑顔〜」
-I wish always for your smile and your side- <END>
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