「自棄のエチュード」



 1

「……」

……はあ、こりゃ本格的に参ったな。

手にした2通の封筒を見ながら、安河内宏は参っていた。そして存分に困っていた。

……さて、どうしたものやら。

んー、と考え込むような仕草を見せる宏。その表情は決して困っていないという訳ではないが、あまり切羽詰まっているようには見えなかった。
宏はよく「何を考えているか判らない」「真剣になっているのを見た事が無い」と言われていた。
それは先天的なポーカーフェイス、一見飄々としているように映る宏のそれは、今までほとんど良い結果を生む事なく、損ばかりの人生を歩んでいた。
まあ人生と言っても彼はまだ若く、今年で「四捨五入で三十路」という歳、つまり25になったばかり。

とりあえず今は彼の不幸と曲解のヒストリーよりも今現在の状況、どうして存分に困っているのかを説明しよう。
彼が今手にしているのはカード会社からの請求書。実はこの安河内宏、決して少なくはない額の借金を抱えていたりする。

それは半年程前の事、宏は軽い接触事故を起こしていた。
経緯はよくある事例、所謂「サンキュー事故」と呼ばれる、善意による道の譲り合いから生じてしまった事故。
宏が合流しようとしていた相手の車を入れようと停まり、向こうも礼をしながら発進したのだが、自分が走る車線に来るとばかり思っていた宏に対し、相手はさらに奥の車線に入るつもりでいたらしい。その結果、宏の前には相手の車が遮るように横たわり、てっきり進むと思っていた宏の車が激突。これは宏の不注意、誤った判断も往々にしてあるが、一番の理由は隣の車線で信号待ちをしていた車が前に入られるのを頑なに拒もうと、極端にスペースを詰めた所為。しかも宏が道を譲った車のドライバーもかなり優柔不断な部分があり、車線を跨いで進む意思が見えなかった事も起因している。

だが事故は事故であり、どういう経緯があれ追突したのは宏本人。ぶつけられた車の運転手も彼に悪意は無く、自分の運転に非があった点については認めるものの、修理費等の保証云々は普通に支払い請求をされる事になった。

この一見すると宏が最たる被害者、とばっちりを受けた形に捉えられる事故だが、宏は完全に納得する事はなかったが、素直に支払いに応じる姿勢を取った。

例え全面的に非が相手にあろうとも、責任の所在は100対0にはならない。現行の法律上、互いに運転している車が動いている場合、それが時速60kmと1kmだったとしても両者に責任が生じてしまう……
その事を知っていた宏は特に異議申し立てをするでもなく、恩赦を請うでもなく、修理費の支払いだけで解決するのであれば……と、その場でぶつけてしまった相手と一緒に修理工場に足を運び、そのまま見積もりを出してもらい、その額を自分が支払う旨を示した証書にサインをして帰って来た。

ちなみに相手は車両保険を適用する気はあまりなく(このような小さい事故で保険を使うと、もしその後すぐ大きな事故を起こした場合、支給される額が少なくなる可能性がある上、積み立て料金や運転者の等級付けにも響くため、簡単に保険を申請するのは得策ではない。この相手もそういう意図があったように思える)、宏もその辺の事情は察せたので、こうして警察も保険屋も使わず、完全に個人同士の示談という形を取っていた。

先に述べた法律上の責任所在、そして保険適用時の事情等、なかなかに詳しい知識を有している宏。
実はこの安河内宏という男、数年前にも似たような経緯の事故に遭遇し、その処理の過程で色々な仕組みを説明され、身をもって経験していた。

ただその時と決定的に違うのは、立場が全くの逆という事。
宏は後方を確認せずにバックしてきた車に横からぶつけられ、完全に相手の非に巻き込まれた形にも関わらず、普通に数割の自己負担を保険会社から求められていた。

それは今回の事故より善悪の所在が明確、法廷速度を守って直進していた宏には何ら不備も落ち度もない中、それでも結構な額の修理費を自己負担した彼。
過去にそのような苦い経験を、願わくは遭遇したくない出来事を経験しているため、宏は事故を起こしても特には慌てずに淡々と話し合いを進めた。

……が、一見冷静に振舞う宏ではあったが、決して内心までもが平然という訳ではなかった。
それは事故とは直接関係ないような、そうでないような、とても曖昧なもの。
宏はこの事故処理の過程において、1つの隠し事をしていた。

事故を起こしてしまった事、結構な修理費を必要とする事、宏はそれらの事を誰にも喋ってはいなかった。
仲のいい友人は勿論、同居している両親にも事故の事は何も言わず、普通に日々の生活を送っているように見せた宏。そこには少なからず事情が、失敗を隠したい気持ちからなどではなく、色々と配慮があっての事だった。

実は宏、自身が事故を起こした半年前に弟が事故を起こしていた。しかも宏が起こしたような接触事故ではなく人身事故、弟本人も入院を必要とする怪我を負ったが、相手にも怪我を負わせていた。
その事で宏は動けない弟の代わりに警察に出頭したり、必要となる書類を集めたり、廃車処理の絡みなどを行なっていた。当然それら処理には結構な金額が必要となり、また新たな車の購入もあった。そして何より両親の精神的負担が大きかった。

間の悪い事に、宏が事故を起こしたのは弟の件があらかた終わり、怪我を負わせた相手との絡みも決着が付いた辺りの事。そこに再び事故の話が舞い込むのはよろしくないだろうと踏み、また事故の度合いも軽いものだったので、宏は1人で全てを穏便に解決まで持って行こうと考えていた。

確かに修理にかかる費用は手痛いものがある。大した収入額でもない上、別にローンを組んでいた宏にとって、請求された額はポンと払えるようなものではなかった。
そうなると当然金を借りる必要があり、宏はカードを持っていたクレジット会社から必要額を借り入れ、何とか生活していけるだけの支払額で返済プランを組んだ。

……と、これが半年近く前の話。順調にいけば、何事もなければ残り返済額は減っていくはずだったのだが、色々と事情が重なり、当初考えていた返済プランは少々難航していた。いや、かなり難航といった方がいいかもしれない。

まずギリギリではあるが生活していけると思っていた計算が狂っていた。減る事はないだろうと踏んでいた給料が微妙に少なくなっていた。これが第一の予想外。
そして次なる打算の要因、それは完全に宏の考えの甘さが招いた自業自得ともいえるもの。
この借金返済期間中、宏は借り入れ限度額が上昇していた。そして金利も半分近くまで低い優良ユーザになっていた。
どうやら入会から一定の期間、特に滞納や未納がない場合は自動的に優良ユーザとなるらしく、それを知った宏は修理費とは別に幾らかの金銭を借り入れてしまっていた。
数ヶ月ほど切り詰めた生活を送っていた宏は、その反動で諸所の購買欲が上昇。その結果、微妙に支払いバランスが崩れ、カードを持っていたもう一社からも借り入れをしてしまう。

まあこのまま雪だるま的に借金が……という事態には陥らず、その分の借り入れはすぐに返済出来たのだが、ここで宏の頭の中に安心感と言うか妥協、まだ幾らかであれば引き出せるという思いが生まれてしまった。これが第二の予想外。

こうして多少借入額と支払い額が増え始め、多少返済が遅れ始めた宏。だが冷静に考えれば普通に完済は可能、もし何らかの理由で金銭が必要となっても、また少し我慢の生活を送れば取り返せると考えていた。
そして実際、特に大きな問題もなく月日は流れていたのだが、秋の終わりを迎えた辺りで宏は致命傷になりかねない事をやらかしてしまう。

それはふらりと立ち寄ったパチンコ屋、そこで宏は一度大勝を収め、一気に借金を減らす事に成功する。
……が、それがいけなかった。微妙に金銭感覚という名の歯車を狂わせていた。

何とか今年中に完済したい。
今日みたいに上手く立ち回れば、少なくても確実に勝ち額を積み上げていけば全然難しくない。
換金所から出た宏は、久し振りに相当な枚数の福沢諭吉が財布に入っている事に高揚、一気に勝負を付けようと考えてしまっていた。

確かに宏はパチスロの知識を多少は要し、楽しさを度外視して勝負に徹するスタイルを続ければ収益をプラスに出来るだけの立ち回り技術を持っていた。
しかし、普段であれば薄利でも切り上げられた所を無理して勝負続行をかけて負け……という失敗を何度か繰り返した挙句、ほぼ間違いないであろう落としてはいけない勝負所で運に見放され、収支がマイナス領域に差し掛かっていた宏。

……このままではいけない、年末は店側が相当に出玉を締めるため、何としてでも今の内に勝っておく必要がある。
そう考えた宏はより危険な橋を渡るべく、慣れない一発逆転台を打ち倒し、本来のスタイルではない浮き沈みの激しい収支グラフを描く事に。
そして数日前、宏は通りがかった客が思わず足を止めて見てしまうような出玉推移を見せ、完全に爆死。
描いていた餅は所詮絵でしかなく、結構なピンチを自らの手で招いてしまっていた。

「……マズいなあ」

宏はそこで一旦息を吐き、この1ヶ月あまりの生活を、狂っていたとしか思えないギャンブリングな日々を思い返すのをやめる。
もう十分に反省はしていた。人間躍起になっていい事とそうでない事があり、過度の期待と獲らぬ狸のなんとやらは厳禁である事を痛感していた。

「……何とかなる、よなあ?」

手にしている2通の封筒に入っていたのは、今月の請求支払い額と先月の領収証明。とりあえず今月分の支払いは大丈夫なのだが、完済までの道程は結構な延長を見せ、宏はより過酷な耐久レースが始まる覚悟をしていた。

もう不確定要素が大きい賭けに出る事は出来ない。
その枷は宏に大きく圧し掛かり、日々の生活リズムをも狂わしていた。
別に普通にしていれば、それまでの生活に戻ればいいだけの事。頭の中ではそう判っていても、何かがあればどうしよう、もしこれ以上負債を増やすような、予想外の出費が発生したら……
元々考え込んだら止まらない性格の宏はそういった負の思念に苛まれ、常に不安と背中合わせ。睡眠時間は短くなり、寝ても何ら疲れが取れない状態にまで追い詰められていた。
しかし人前ではそういった素振りを見せず、いつものように仕事に向かい、いつものように同僚とコミュニケーションを取りつつ勤務に就き、いつものように家族と食事を摂り、いつものように世間話をした。
そしてその心境とは裏腹の振る舞いが、事実を隠すような生活が、より自分を追い詰めるようになる。

この時期、宏は生まれて初めて睡眠に苦痛を感じた。眠ろうと布団に潜るも、目と頭が妙に冴えて眠気が生じない。身体は疲れているはずなのに、勿論頭だって諸所の心配事でまいっているはずなのに、心が睡眠を許さない。
そうしているうちに身体に異常が、全身が急に痒くなったり、急に不快感が高まって布団を蹴飛ばしてしまったり、何の前触れなく呼吸が乱れたり……と、さらに不安と焦燥感を増すような症状が現れ、宏は1人でずっとそれと対峙していた。

……そして宏は現実逃避に走る。程度こそ軽いものの、それはもう完全に病気の域。仕事を仮病で休み、何をするでもなく流れる人を眺め、気付いた時には散財していた。

「……失敗、したな」

現在は正気を取り戻した宏。今はこうして自分の取った行動の愚かさを十分理解し、普通の生活を何ら支障なく行なえている。
だが借り入れ金額が増えたのは紛れもない事実であり、事故の修理費の返済に宛てる金額を別の機関から借り入れる、という状況からはもう戻れないでいた。

……こういうのを転落人生、っていうんだろうな。
まさか自分がなるとは思わなかった。もうモザイク入りで泣きながらテレビのインタビューに答えてる多重債務者を笑えない。
宏はそう思いながら、改めて入金カバンに入っていた書類に目を通す。当然ながら金額は変わらず、見間違えようのない数字が請求欄に印刷されていた。

「……ふう」

大きくため息を吐く。そして空なんかを見上げてみる。1週間ほど前に初積雪を記録した街の空は世辞にも綺麗とは言えず、厚いグレーの雲が覆いかぶさっていた。
風は冷たく、厚着しても袖の隙間から凍えるような空気が入ってくる。これから年末にかけ、さらに寒くなるだろう。

「……こりゃ年を越せないかもな」

そう呟く宏。それは少々大袈裟、まだ生活が破綻するレベルにはなっておらず、また幾つかの救済手段なり方法があるにも関わらず、宏はまた少し思考をネガティブ寄りに、そして自暴自棄気味になっていた。

……成長しねえな、俺。

考えの甘さや意思の弱さ、そういったものに我ながら呆れ返る宏。
周囲からはそれなりに冷静な人物だと、間違いを起こすような人物だとは思われていなかった宏だが、それは勘違いでしかなかった。
彼は年相応の人生経験しか送っておらず、多少の危機管理対処能力は有しているものの、それも汎用性のあるものではない。
まだこれが誰かに、1人でも年上の有識者に相談していれば、また結果は違ったものになっていたかもしれない。

しかし、残念な事に今回は間が悪かった。悪すぎた。
両親に心配をかけたくない気持ち、何とか支払えると思われた請求額、その他諸々の細かい要因が複雑に絡み合い、そこに不安定な精神状況が加わり、宏は常軌を逸した計画を立て、行動に移そうとしていた。

……もう、こうなったら戻れない。

本当はまだまだ戻れるのに。

……もう、長引かせたくはない。

一見遠回りでも、地道に返済するのが正攻法なのに。

……大丈夫、バレなければいいんだ。

大甘。あまりに知慮の欠けた、稚拙な考え。

「……よし、やってみるか」

間違った自信を抱いてしまった宏は、そう言って大きく頷く。
それはあまりにも危険な、あまりにも勝率の低い賭け。安河内宏の人生に置いて最大最高のギャンブル。そして完全なる違法行為。

……彼は背負った借金を帳消しにするため、手段や方法を問わず、手っ取り早く完済する道を選んだ。

そのあまりに短絡的な思考は彼の幼さか、それとも追い詰められた者にしてみればある種正常な思考か。

何にせよ宏はもう止まらない。友人の誰にも、家族にも兄弟にも黙ったまま、彼は持てる全ての知識を駆使し、非合法の金策に走る。

まだ支払いが滞り、こっぴどく叱られながらも援助を受けた方がよかっただろう。普通に考えれば当然な事である。
だが何度も言うように、追い詰められた人間は、それが周囲にしっかりとした人物と捉えられている人間は、こういう時に何をやらかすか判らない。

自暴自棄というのは恐ろしく、また理解者も協力者もいない場合の危険性はさらに危険の度合いを高めていく。

宏はそれにすら気付かない愚か者なのか、それとも薄々でも破滅の道を歩み始めている事を自覚しているのか。または危険に身を晒す事に快感を覚えてしまったのかは定かではない。
しかし、彼の中で決定してしまった、計画を実行に移す事が確定してしまった今、例えその心の内が判明していようと関係はない。

……この日の夜、安河内宏は普通に家族と夕食を摂った後、何ら変化のない自分を装った後、計画を実行する。
既に幾つかの手段は頭の中にある。それは以前にふと考えた事、思い付いた日常レベルでの犯罪金策行為。まさかそれを実行に移す日が来るとは本人も思っていなかっただろうが、様々な経緯を経て今それが現実のものへと変貌を遂げる。

彼が手にしなければならない、調達すべき金額は約30万。
それは何ら大した額ではなく、わざわざ犯罪に手を染めてまで得る金ではないだろう。
しかし、根本から狂ってしまった彼の思考に他の手段はとうになく、視野狭窄の中で残った唯一の手段がこれだった。
選択肢の無い、いや、一択問題と言ってもいい問を前に、宏は決めなくてもよい覚悟を決め、通らなくてもいい道を歩もうとしていた。

もう止まらない、止まる気もない。そして誰も止められない、彼の心境なり現状を知る者は、だれもいない。

「……やってやる、この勝負、俺が勝つ!」

本質的な感情はひた隠しにし、表に出すのは常に偽りの感情だった宏。
しかし今、覚悟を決めた彼が浮かべる表情はむき出しになった本性のみ。

不気味に笑い、目には生き生きとした負の感情を芽生えさせる宏。
矛盾は重々承知、愚行も重々承知、自ら後戻りの道を絶ちながらも笑う彼は、もしかしたら遅かれ早かれ日常の世界を踏み外す宿命の元にあったのかもしれない。




 2

……バタン

宏は車を降り、ぐっと背中を伸ばす。
時刻は午後8時半、彼は自宅から離れた一軒のパチンコ屋に来ていた。
市内にあるホールにはあらかた行った事のある宏だが、このホールは少し遠い場所にあるため、しばらく足を運んでいなかった。
しかし出玉状況が割といい事、店側の管理の甘さ、そして出玉共有可能という情報を知っていた宏は、計画の第一歩をこの店で行う事を決めていた。

勿論遊戯を愉しむためにこの店に来た訳ではない。目的は別にある。
まずはここを足がかりに、一晩で決着を付ける。宏はそう考えていた。

おそらく現行犯で捕まる事はないだろう。今まで同じような事件が発生した事はあったが、それらは全て事が終わった後に判明していた。

「よし、やりますか」

……上手くやれば大丈夫、そして俺には上手くやれる自信がある。

そう心の中で呟き、宏はホールの中に入る。
念のため、普段とは大きく異なる服装にした。普段はモノトーン系の格好でいる事が多い宏だが、今は赤のパーカーにダウンベストという服装。どれも自室のクローゼットの中から引っ張り出したものだった。
さらにそこに帽子と眼鏡が加わり、簡単ではあるが変装が完了。効果は監視カメラの精度次第だが、身体的に大きな特徴のない宏にしてみれば、このくらいでちょうどよかったのかもしれない。

――

店の中に入るなり包まれる喧騒。時間帯的にも混雑のピークに近く、それに伴ってか出玉状況も良好。宏は満足そうに頷くと、そのままスロットコーナーのシマへと向かう。

「……」

時折立ち止まっては空き台のデータグラフを見つめ、首を傾げてはまた別の台へと移動する宏。それは完全に目ぼしい台を探している客のそれで、怪しい点は何一つなかった。
しかし宏は何も打つ気はなく、表示されたデータも見ているフリをするだけで、視線はその左右で箱を積んでいる客を見ていた。

狙うのは1人で打ちに来ている、あまり気の強くなさそうなタイプ。出来れば常連ではなく、来店頻度のあまり高くない客がいいのだが、さすがにそればかりは一目では判らない。
だがそれでも宏は同じ打ち手として相手の雰囲気を掴み取り、また行動の節々から慣れの度合いを鋭く見抜いていく。

……5箱積んで連荘中、か。

あ、ダメだ。仲間が2人いる。しかも常連臭いし。

……こっちは4箱、見たところ1人で来てるみたいだけど……

うわ、こりゃ話しかけにくいな。コーヒー売りの姉ちゃんに対する態度悪すぎ。そこまで邪険にすんなよ。あーあ、姉ちゃん笑顔引きつってるし。うわ、去り際に睨んだ。

「……ふむ」

何だろう、これだ! ってのがいないな……

台探しに見せかけた標的の特定を始めて数分、大量のコインを積んでいる客の大半をチェックした宏は人差し指を唇に当て、どうするか考え込んでいた。

するとその時、自販機でジュースを買っていた客が自分の台に戻るのを見つける宏。その様を何気なく目で追っていると、客が座ったのは優秀札が刺さった台だった。

……あ、足元にも置いてたんだ。って事は計7箱か。

普通であれば死角になる場所にドル箱は置かない&店側も置かせない(出玉を他の客にアピールするため、ドル箱は目立つように台の上、もしくは椅子の後ろに専用の台座と出玉アピールの札を刺すのが一般的)のだが、その客は4箱のドル箱を自分の足元に置き、両足で挟むようにして遊戯を行なっていた。

別積みを拒否したのか、それとも何か別の意味があるのかは判らない。
しかし、宏にとってこの客は狙い目だった。

常連は基本的にスタッフと仲がいい場合が多く、別積みも断らない場合が多い。
だがこの客は特に店員と話すでもなく、1人で黙々と打っているだけ。しかも店で一番出しているにも関わらず、また両隣が空き台になっているのに、妙に肩を狭めてせこせこと打っている。

「……」

決まり、かな。

10ゲーム程遊戯しているのを見た宏はそう判断し、にやりと笑う。
この客は初心者とは言わないが、打ち手のレベルとしてはかなり下。止めるべき箇所もバラバラ、早くも子役の取りこぼしが2回発生している上、ストップボタンを押したりコインを投入したりする仕草もどことなくぎこちない。

どうやらこれはコインを「出した」ではなく「出てしまった」に近い状況、ここまでコインを出した経験があまりないに違いない……

と、これが宏の出した客の打ち手レベル及び経験値。そして実際、この見解は当たっていた。この客は何の考えもなしにこの台に座り、たまたま高設定台を引き当て、運を味方に大爆発していただけ。そのあまりの出玉に戸惑っている部分もあり、このまま打ち続けていいものかどうか、それすら判らずにとりあえず打っている状態だった。

「……悪いけどキミで決定だ」

ここまで好条件が揃った相手もいないだろう。宏は完全にターゲットをその客に絞り、偶然を装って隣の台に腰を下ろす。

「……」

別に威圧した訳でも、大きな態度で腰を下ろした訳でもないのに、客は宏が隣に座った途端、さらにスペースを空ける。見ているこっちが窮屈になりそうなその所作に、思わず宏も「……もっと堂々とせえよ」と苦笑い。これでは換金所を出た途端にカツアゲ、という事も起き兼ねないだろう。

……ま、いいか。
それに今からこのコインを奪う俺がどうこう言う事じゃないし。
宏はそんな可哀相なターゲットを横目で見ながら、とりあえず千円札をサンドに入れ、コインに替える。さすがに何も打たずに行動を起こすのは不自然すぎた。

……チャリチャリ、トン!

タン、タン、タン

隣の男に負けず劣らず、たどたどしい手つきで打ち始める宏。勿論それは演技でしかなく、本当はもっと高速かつ正確な打ち方が出来るのだが、今は対象となる男に「コイツは自分よりヘタ」と思わせる事が目的。それがこの計画の最初のステップだった。

チャラリラリン♪

通常とは違うスタート音。すると同時にリール上部の液晶画面が動き出し、この台の主役と思われるキャラクタが黒いボールを手にして掲げる。

タン、タン、タン

しかし止めたリールの有効ライン上には何ら絵柄は揃わず、液晶画面もそれっきり動かない。
まあそれもそのはず、今の演出はほぼノーチャンスの一番期待出来ないパターンだった。

……勿論それも宏は知っている。だがそれでも何も揃わない事に不思議がる素振りを見せ、納得しないまま次ゲームへ以降、という演技を見せる。

「……」

そんな宏の様子をちらりと見る隣の男。その目は初心者を温かく見守ろうとする上級者の目つき……を模したもの。宏にはそれがたまらなく滑稽に映り、笑いを堪えるのに一苦労。そして「……釣れた」と心の中でガッツポーズを取り、実際に拳をグッと握っていた。……勿論隣の男はそれに全く気付いていない。男は宏の見立て通り、大した技術も知識も持たない、運だけで出玉を増やして調子付いているだけの人物だった。

その後、宏は千円分のコインがなくなるまで初心者打ちを続け、何か演出が起こる度に備え付けのガイドを読み、リーチ目表と目の前にあるリールを見比べていた。
子役告知でベルやリプレイが揃う度に一喜一憂、取りこぼす可能性がある子役は全て取りこぼし、その度に首を傾げては次のゲームで7絵柄を狙う……

男はそんな宏を見ては得意気にふんと鼻を鳴らし、自分はこの台を熟知しているんだとばかりに淡々と遊戯を消化している。
……が、相変らず子役はこぼしまくり、ただ闇雲に消化スピードを上げているだけだった。

「……う〜ん」

と、ここで初めて声を出して悩み始める宏。
もう十分に餌は捲いた、後はきっかけを作って話せる間柄になればいい。そう判断した宏はひとしきり考え込む演技をした後、意を決して的な雰囲気を出しつつ、男に話しかける。液晶画面には主人公が赤と緑のボールを持ち、リール上には見事にチェリーとスイカが無い箇所が止められていた。

「あ、あの、すいません」

「はい?」

ホラ来た、ようこそ初心者さん。何でも聞いてくださいな。
そんな感じでわざとらしい反応を見せる男。

……話しかけてきそうな空気をこれでもか! と言わんばかりに出しておいてこの反応、やっぱコイツ救えねえ。心おきなくやれるわ。
宏はそう思いつつも、男のチンケな自己顕示欲を満たすべく、あえて男の望む反応と言葉遣いで質問をする事に。

「これって入ってるんですか? 何も揃わないんですけど……」

「ああ、多分取りこぼしですよ」

「そうなんですか……」

……多分じゃねーよ。確実にこぼしてんだろボケ。

「残念でしたね。でもそういう熱めの演出が出る台は高設定の可能性、高いっスよ」

「ホントですか?」

……んな訳ねーだろ。自信満々にオカルト披露してんじゃねえよ。

「まあ俺の経験上、ですけどね」

「へー」

……出た! 初心者がよくやる玄人っぽい発言! 何が俺の経験上だよ、コイツかなりのバカじゃね?

心の中で吐くセリフと実際に口に出す言葉に著しいギャップを生じさせる宏。もうこのやり取りは彼にとってギャグ以外の何者でもなかった。

「……あの、俺この台打つの初めてなんスけど、何が熱い演出なんですか?」

「そうだねー、ガイドには『第2消灯が激アツ!』とか書いてるけど、それよりなら白玉+カットインの方が上だね。信頼度にして80%オーバー、みたいな?」

「うわ、かなり熱いじゃないですかー」

「まあ俺は今日一日でもう6回出してるけどね」

と、それ以降も会話を続ける宏と男。
ちなみに彼があまり期待してはいけないと垂らしていた第2消灯演出は、子役のこぼしがなければボーナス確定となる熱い演出。それを期待出来ないと言い切る辺り、相当な回数の取りこぼしをぬか喜びをしているようだった。
……そして白玉+カットインはボーナス確定演出。それも確定後数ゲーム回さないと出ない、出したら恥ずかしい系の演出である。
そんな演出を何回も出した事を自慢し、さらに信頼度を80%オーバーと言ってしまう事からも、この男の程度の低さを存分に伺い知れるだろう。

それを一番に、誰よりもウザく感じていた宏の心境たるや想像に耐え難いが、それでも目的を遂行するため、彼は耐えに耐えていた。そして心の中では毒を吐きまくっていた。

……あー、コイツ殺してー。ボッコボコに殴った挙句、瞼と口を接着剤でくっ付けて、裸にした上で街中に放してー

イライラが頂点に達し、いい加減話に合わせてやるのも我慢出来なくなってきた宏。
……もうこの辺でやっとくか。彼はそう判断するなり、適当にリールを止めて席を立とうとする。

「……おっと、そこは押しちゃダメ。チャンス目成立を見逃すよ」

「あ、どうもです……」

……この台にチャンス目なんかねえよボケ。

ああもう、いちいちツッコむのも嫌になってきた。
宏は奥歯を噛み締めながら、睨み付けたい衝動を何とか押さえ、立ち上がりながら男に向かって口を開く。

「すいません、ちょっとトイレ」

「はいはい」

どうぞいってらっしゃい的なノリで手を振る男。まるで全ての行動に対して報告が必要なその勢いに、さすがの宏もキレそうになる。

……決めた。1箱だけ盗るつもりだったけど、2箱にしよ。天誅を下してやる。

席を離れ、舌打ちをしながら歩く宏。頭の中は横取りする箱数の変更と、男に対しての殺意しかなかった。

……おっと、いたいた。

と、そこで足を止める宏。実はトイレに行くと言ったのは真っ赤な嘘、彼は次なるステップを踏むべく、その下準備に取り掛かろうとしていた。

「あ、すいませーん」

「はい、なんですか?」

宏が探していたのは、そして愛想良く話しかけたのはこの店のスタッフ。それは事を実行する前に必要なある確認。勿論宏はそんな事を聞かなくても知っていたのだが、自然な流れを装うためにはやっておくべき事だった。

「この店って出玉共有オッケーですか?」

「はい、大丈夫です」

「会員カードとかなくても?」

「ええ」

「じゃあ持ち球台移動もいいんスか?」

「あ、どうぞー」

「わっかりました、どうもです」

まるでこの店に来たのが初めてかのような質問をする宏。その後もスロットコーナーを回っている店員に同様の質問を行い、次のステップへと移行する準備を完了させる。

……後はもうヤツからドル箱を奪い、さっさと換金して消えればいいだけ、と。

これであの馬鹿げたスロトークから開放、オカルト打法と攻略誌の丸写し説明を聞かなくて済む。
宏は今まで興味があるようにそれら与太話を熱心に聞いている演技をしてきた自分を労い、男の失意に暮れる顔を想像する事で何とかキレるのを押さえつつ、席に戻る。

「ども、戻りました」

「おかえりー。ほら見てよ、君がいない間にまた出しちゃったよ」

「うわ、またビックですか。スゴイっすねー」

……何? わざわざ俺に見せるために7揃えたまま待ってたの? コイツやっぱキモいわー

表情は笑っていながらも、目は完全に捕食者のそれを崩さない宏。
だがそれでもすぐに行動には移さず、まだ入念に準備を行なう辺り、彼は相当な役者の素質があるのかもしれない。

まあ演技技術云々はさておき、その後宏は店員が後ろを通る時を見計らい、男と楽しく話をしているように、通りかかるスタッフ全員にノリ打ちをしているように見せかけ、交換時に疑惑を持たれる可能性を出来る限り低くしようと立ち回る。

そして10分程経過しただろうか、今度は男が席を立ち、トイレへと向かう。
……しかもわざわざ宏に断りを入れ、さらに大の方だという情報まで添えて。

「……ふん」

トイレに向かって歩き出す男を見ながら鼻を鳴らす宏。
……何を汚ねえ事を言ってるんだ、テメエがクソをひねり出そうがションベン垂らそうが、こっちには関係ねえんだよ!
そう悪態を吐く宏だったが、よくよく考えてみると今の情報は彼にとってかなり有益とも言える。小ではなく大という事は、それだけ席に戻ってくるまで時間がかかる、という事。それはつまり宏に時間的優位を与える事となり、何ら慌てずにコインを流して換金が可能、という事になる。

「ラッキー」

ひゅうと口笛を吹く宏。そして次の瞬間、彼は男の椅子の下に置かれていたドル箱を2つ、さも男から了承を得たかのように自然な素振りで持つと、そのまま計量器に向かって一直線。先程出玉共有は可能かどうか聞いたスタッフにコインを流してもらい、談笑しながらレシートを渡される。完璧すぎる流れだった。


「それではコチラ、大が11枚、中が2枚になります。余りでおタバコ取れますがどうしますか?」

「あー、ジュースにしま……いや、じゃあラーク下さい」

「はいかしこまりました。……お待たせしましたどうぞ!」

「どもです」

「ありがとうございましたまたお越し下さいませ!」

レシートを手にした宏はそのままカウンターで景品と交換。本当はタバコを吸わないのだが、こういう所から足が付いてはいけないと思い、手前にあった銘柄を指差して貰っていた。

――

自動ドアを通り、店の外へ。
一瞬にして静かになる周囲、そして冷たく澄んだ空気が心地よかった。

「……まずは金策その1、楽勝っと」

宏はそう言いながら、今さっき渡された景品の束を見つめてにやりと笑う。
彼が流した……というか奪ったコインは5万7千円分の景品になり、現金に姿を変えようとしていた。怪しまれないように宏が使った金額は2千円、差し引き5万5千円のプラスになっていた。
ちなみに彼がこの店に入ってから出るまでに要した時間は1時間、単純に換算すると時給5万5千円という、非常に美味しいバイトをした事になる。……勿論思いっきり犯罪行為なのだが。

「いやいや、ちょうどいいカモがいてよかったな」

この計画を立てた当初は、目星を付けた相手が例えおばあちゃんでも、好みのタイプの女性であっても実行するつもりだった宏だが、やはりそれには少なからず躊躇いの気持ちが生じていた。
しかし運のいい事に、今日彼が見つけたターゲットは何ら罪悪感の生じない愚かな男。宏は何ら気兼ねする事なくコインを持ち出し、こうしてそこそこの金額を手にする事が出来た。これはなかなかにいい形でスタートを切れていた。

「この調子でいけたらいいんだけどなあ……」

ぼそりと呟く宏。相手はどうであれ、犯罪は犯罪という事は彼も十二分に判っていたのだが、それでも後味の悪い思いはしたくない、というのが正直な気持ち。そういう意味ではこのパチンコ屋での獲物は絶好の相手だったと言えるだろう。

「……さて、次は……と」

換金所で景品を紙幣に替え、それを財布に入れながら、宏はさらなる金銭取得を目指し、次の移動先を考える。
しっかりと覚悟を決め、さらに既に大体のプランは練っていただけあって、宏の足取りと瞳に迷いは見られない。
本来であればもっと別の事をしている時に、仕事や夢に向かっている時に見せてほしいものではあるが、今の宏にはこれしかなかった。

まあ何にせよ、今回の一件で宏が得た金額は5万5千円。まだまだ借金完済までには遠い金額でしかなかった。




 3

「……」

トントン、トントンと指先でハンドルを叩き、流れる音楽に合わせてリズムを刻む宏。
……時刻は夜の11時前、行動を起こすには少し早い時間だった。

「……ふう」

予定より1時間近く早いけど、とりあえず出てみるかな。
そう言うと宏は助手席に置いてあったジャンパーを手に取り、車を出る。
ここは彼の住む街で一番の繁華街。飲み屋と食べ物屋、そして少し奥に進むと風俗店が軒を連ねる夜の街だった。
宏が車を停めたのは、そんな繁華街の入口付近にある100円パーキング。満車だったら路上駐車も辞さない覚悟でいたが、運良く1台空きがあった。普段はこういう時、ギリギリのタイミングで別の車に入られるのがお決まりのようになっていた宏だったが、どうやらここにきて全ての歯車が上手く噛み合ってきた模様。
だが悲しいかな、それら回り始めたギアで進んでいるのは犯罪の道一直線。そのあまりに皮肉という名のスパイスが効いた現実に、宏は少なからず自嘲気味に笑っていた。

「……ま、別にいいか」

ジャンパーを羽織り、半ば諦めたような口調でそう漏らす宏。しかし運勢の歯車に関しては文句の無かった宏でも、今袖を通したジャンパーのダサさには諦めがまだ付いていないようだった。

……確かにそれっぽくは見えるけどさ、この格好で色町歩くのはちょっとなあ。
こんなん罰ゲームじゃん。

と、宏は自分の格好をサイドミラーで見ながらボヤきを入れる。
実はこの服装、主に繁華街を回って歩くボランティアの格好を真似ていた。彼らは犯罪抑止や美化活動、それに路上で寝ている酔っ払いの世話などを主な役目としているのだが、宏はそこに目を付け、泥酔状態で意識の無い酔っ払いを介抱すると見せかけ、財布を抜き取ろうと考えていた。

これは以前、友人と飲みに出歩いた時に見かけた酔っ払いをヒントに考え付いたもので、今回の作戦の中で一番成功率が高く、一番リスクの低い手段だと宏は予想していた。
善人顔か悪人顔かと言われれば前者、そこにボランティアに近い格好となれば、怪しまれる可能性はかなり低いはず……。そう考えた宏はパチンコ屋での一件同様、堂々とした態度で酔っ払いが寝ていそうな通りを目指して歩き出す。

ちなみにさっきまで着ていたパーカーとダウンベストは証拠隠滅のため、ゴミ袋に入れて近くの川に投げ捨てていた。
多少勿体無い気もしたが、所詮は着ずにクローゼットの肥やしと化していた服なので、後生大事に持っていて動かぬ証拠になるよりなら……と、思い切って投げ捨てた。この安河内宏という人物、今回のような犯罪行為は初めてなのだが、意外と……というか何というか、抜かりがない。本人も気付いていないだろうが、これはなかなかの悪党素質である。まあそう言われて喜ぶかどうかは疑問ではあるが。

「……」

すれ違う人々に軽く会釈をしながら、「自分は見回りをしてますよ」オーラを存分に出して歩く宏。その自然な振る舞いは、毎晩ここで客引きをしているであろう店員も何ら疑問を持たず、また客と間違えて声を掛ける者もいなかった。

……うん、やっぱこのダサダサジャンパーがいい仕事してるな。あと手製の腕章も効いてるっぽい。

最初は着るのを嫌がっていたジャンパーだが、その効果は予想以上に高く、誰も疑いの目を向ける者はいない。宏が言うように、いかにもそれっぽく見せかけるため、光を反射する黄色の蛍光素材を切って腕に巻く……という小技が効いていたのかもしれない。
何にせよ宏は今や完全に夜の街を歩くボランティア、本物に出会わない限りバレる事はない状態になっていた。

「……さ、ちゃっちゃっとやりますか」

パン、と手を叩き、軽く気合を入れる宏。その目はいい感じの飲み屋を探すでもなく、お目当ての夜の蝶に会いに行くでもない、獲物を探す目。
宏は電柱の脇や店と店の間の壁、それに路地の隙間など、酔っ払いが潰れていそうな場所を重点的に見ながら繁華街を歩いていく。
時計に目を向けると、時刻は11時5分。時間的にまだまだの感はあるが、それでも周囲に目を向けると千鳥足で歩くサラリーマン、まるでドラマのように「もう1軒、もう1軒行くぞ!」「お付き合いします課長!」というやり取りをしている者もいる。これは意外とチャンスかもしれなかった。

……ん?

宏の足がピタリと止まる。その視線の先には飲み屋の裏口付近、店の壁に手を付きながら肩で息をしているスーツ姿の中年男性の姿があった。
はあはあという息遣い、そして時折ふいに訪れるビチャビチャという音。男は酔って吐いていた。

……どうなんだ、ああいうのを狙っていくのも悪くないかも。

よく考えてみれば、別に酔いつぶれて寝ていなくても、相手に気付かれずに財布を抜けばいいだけなのではないか。宏は苦しそうに口を拭う男を見ながら、そんな事を考える。

「……」

よく見ると男が着ているスーツはなかなかに良い仕立て、スーツに詳しくない宏でも「高いな」と判るものだった。さらに履いている靴や手にしたカバン、そして何より全体的な雰囲気が、どことなく金持ち臭を漂わせていた。

……あ、しかもこの店ってかなり高いって聞いたぞ。こんなトコで吐くまで飲めるって事は、かなり稼いでるか酒に思いっきり弱いかのどっちかだな。

宏の言う通り、男が手を付けている壁は、この繁華街の中でもかなり上のランクとされる高級クラブ。しかも今男がいる位置は通りから見にくく、宏が路地を塞ぐ形で立てば死角となる……とくればもう選択の余地はなかった。

「……よし」

やるか。
せっかくのチャンス、みすみす見逃す手はない。
それに今回の手段に関しては、絶対的な安全牌というのは存在しない。
相手にバレる可能性、誰かに見つかる可能性、その双方がゼロというケースはありえなく、運に依存する部分が大きい。
そういう意味ではこの作戦が、宏の考えた金策の中で一番ギャンブル要素が高かった。

……はっ、上等!

それは本心か、それとも自分を奮い立たせるために吐いた言葉か。
どちらにせよ宏は覚悟を決め、男に向かって歩き出す。
心境とは裏腹に、宏の表情はとても穏やか。いや、勿論それは穏やかに見せかけているだけなのだが、酔いに苦しんでいる者から見れば、その穏やかな表情は疑う事のない助けの手に映るだろう。

「う、ううう……」

「大丈夫ですか?」

「え? あ、はい……」

いきなり話しかけられ、戸惑い気味の男。しかし宏の格好を見るなり安堵の表情を浮かべ、ふうと大きく息を吐く。

……いや、別に俺が来たからって酔いが覚める訳じゃないし。辛いのは変わらないし。

そう心の中でツッコミを入れつつ、宏は相手を心配するような表情を作り、そのまま男の肩に手を伸ばす。

「動けますか?」

「も、もう少し休めば何とか……」

「背中、擦った方がいいですか?」

「い、いえ、もうあらかた胃の中に入ってたのは出しま――ううっ」

と、男は言葉を言い終える前に再度リバース。確かに口から吐き出したものは水っぽく、固形物は見当たらなかったものの、この勢いからするとまだ全てを吐き出したとは言えない状態だった。

「これ、使ってください」

「あ、ありがとうございます……」

そっとポケットテッシュを差し出す宏と、心から感謝するようにそれを受け取る男。2人の構図は完全に介抱する側とされる側となりつつあり、宏も手ごたえを感じていた。

「どうします? 水でも飲みますか?」

「そ、そうです……ね。ちょっと口の中をきれいにしたいです……」

「わかりました、ちょっと買ってきます」

「ご迷惑をおかけします……」

「いえいえ、いいんですよ。それが自分達の仕事ですから」

宏はそう言うと、すぐそこにあった自販機へと向かい、ミネラルウォーターを購入。そして丁寧にフタを取り、男に手渡す。
ちなみにこの時、宏は水の代金を支払おうと財布に手を伸ばそうとする男の仕草を見逃さず、財布がズボンの後ろ左に入っている事を把握。心の中で小さくガッツポーズを取っていた。

「あ、お金はいいですから」

「でも、それでは……」

「それより早く飲んでください。少しは楽になると思いますよ?」

「は、はい……」

何から何まですいません……と言いながら、男は手渡されたペットボトルに口を付け、ごくごくと音を立てながら水を飲んでいく。
半分近くは喉を通る事なく、口からこぼして地面に垂らしているその姿から、相当に酔っている事を再認識した宏は、ここで一気に行動に出る。

……すっ

さり気なく、そして静かに宏の手が男の肩に伸びていく。
いきなり財布は狙わず、注意を別の場所に向けておいた方が安全。そう判断した宏は手始めに男の肩に触れていた。

「ああもう、水こぼしまくりですよ? ホントに大丈夫ですか?」

「なんかもう手元が……。ははっ、面目ない」

苦笑いを浮かべる男。その足取りは未だおぼつかず、立っているのもやっとといいった感じ。宏はそんな男の状態を見逃さず、またそこを突いて事を起こそうとしていた。

ぐっ

それまで優しく、添えているだけのようだった手に力をかける。
すると当然男はそのまま後ろに倒れ掛かり、持っていたペットボトルを手放し、何かに寄りかかろうと必死に両手を動かす。

……今だ!

男に触れていた手とは別、空いていた左手を素早く伸ばし、宏は男のポケットからサイフを抜き出す。
今にも転んで尻餅をつきそうな男はそれに全く気付かず、慌てながら「あわわ」と情けない声を上げるだけ。宏は完璧に、何ら相手に勘付かれる事なく財布を抜き取る事に成功していた。

「だ、大丈夫ですか?」

「すいません、今度は急に足元がふらついて……」

財布を手にした宏はすぐさま自分のポケットにそれを入れると、それまで肩に触れていた腕で男をしっかりキャッチ、地面に倒れ込む前に上手く支えになる。

男は自分からバランスを崩したと思い、掴まえてくれた宏に謝り始めるのだが、
転ばせようと手に力をかけたのは他ならぬ宏本人。その犯人に向かってお礼を言う男があまりに滑稽で、宏は思わずにやりと笑い、本性を少しだけ表してしまう。

……あ、やべ。

だがそれも束の間、宏はすぐに偽りの笑顔を作り、男に対して誠実そうな言葉を向ける。

「無理はしないで下さいね」

「面目ない」

「……やっぱりここでもう少し休んだ方がいいかもしれませんね」

「そうですね」

「どうします? 一応休む場所なら提供しますし、必要ならタクシーや代行の手配もしますが……」

「いや、それくらいは自分で出来ますよ」

大丈夫だ、と言わんばかりの自信たっぷりの表情を浮かべる男。
……いやいや、全然大丈夫じゃないから。っていうか財布抜かれてるから。
と、宏は心の中でそう呟きながらも、「わかりました」と相変らずの優しくて使命感に燃えるボランティアの姿勢を崩さない。

その後、「大変ですね、こういう酔っ払いの相手をしないといけないなんて……」と言ってきた男としばし談笑。適当に昨日は喧嘩の仲裁に入っただの、道で寝ているOLを発見して対処に困っただの、いかにもそれっぽい話をして盛り上がった。

会話がひとしきり終わると、多少はミネラルウォーターの効果が出てきたのか、男は1人でも立って歩けるまで酔いが回復。それを見た宏は「これで自分の役目も終わりましたね」的な事を言い、適当に今後はあまり飲み過ぎないようにとかいう説教とも注意とも取れる言葉を吐いて男の前から立ち去る。

これでパチンコ屋に続き、宏の計画はまたしても成功。
完全に男の視界から外れた事を確認した宏は、早速財布の中に入っている金額をチェックする。

「……う〜ん、4万8千円か。もうちょっと持ってるかと思ったんだけどな」

おそらく男はあまり現金を持ち歩かない主義なのか、高そうな財布の割には意外と控え目な所持金。カード類はかなり充実していたのだが、暗証番号の割り出しも面倒だし、何よりカードは色々と危険が伴うので手を出さない事に。

宏は金銭だけを抜き出すと、カードやその他色々残っていた財布をたまたま目の前にあったポストに投函。
こうすればカードを悪用される事もないし、雨に降られて汚れる心配も無い。明日の午前中にはカブに乗った配達員が財布を見つけ、すぐに持ち主の元に届くだろう。

警察に届けるのは調書を取られたり住所を晒したりと厄介なので出来ない。でも財布は持ち主の手に戻って欲しい。そんな考えを持っていた宏にとって、このポストに投函という手段は最適なものだった。
これなら「酔っ払ってポストに財布を入れてしまった」とかいう推測が成り立つし、実際あれだけ泥酔状態にあれば、持ち主も「もしかしたらやってしまったのかも……」と考えるかもしれない。
まあ現金さえ奪えば後は用済み、むしろ財布を持ち歩くのは危険極まりない宏としてはどちらでもいいのだろうが、先のパチンコ屋の玄人もどきとは違い、相手の人間性がよかったがゆえの恩赦に近いものがあったのだろう。

「ええっと、これで計10万3千円か」

正確にはミネラルウォーター代130円が引かれる計算になるのだが、そこはまあ割愛。
何にせよ宏はこれで早くもノルマとして自身に課した金額の3分の1を手にした事になる。

夜はまだ始まったばかり。このまま順調に事が運べば、宏の思惑通り一晩でのノルマ達成も十分実現可能。
宏は「よっしゃ!」と気合を入れ、さらなる金策へと向かう。

当然、次の手段もしっかり頭の中でプランが練られていた。




 4

――午前1時半。

日付が変わり、時刻は深夜。
宏の運転する車は街中を抜け、明かりも道路沿いの街灯程度という道を高速で飛ばしていた。

「……」

車内は宏お気に入りの音楽が流れ、上着を脱いでも大丈夫なちょうどいい暖かさに包まれている。助手席にはさっきまで着ていたジャンパー、これも適当な場所で捨てるか燃やす処理を行なおうと宏は考えていた。

……さて、そろそろだったと思うけど……

今はジャンパーの処分より、もっと先にやるべき事がある。
宏は次なる目的地に、新たな金策を行なうべき場所に近付いていた。

「お、あったあった」

道沿いにある明かりと言えば、街灯と自販機がほとんど。たまにコンビニがある程度だったが、宏の目的はそのどれでもなかった。

カッチ、カッチ、カッチ……

ウインカーを出し、ゆっくりと減速。そして駐車場へと入り、もしもの事を考えて一番出やすい場所に車を停める。
宏が辿り着いたのは、24時間営業の牛丼屋だった。

「ええっと、まずは電話番号……っと」

車を降りた宏はすぐさま店内に……は入らず、窓に貼られたバイト募集のポスターからこの店の電話番号を調べ、携帯に打ち込む。
登録はせず、発信即キャンセルでリダイヤルの一番上にした所で宏は店に入り、店員が出てくるまでの間に店全体を見渡し、計画実行にベストな席を探して座る。

「……っしゃいませ」

席に座ってやや間が空いた後、そう言って宏の元に水を持ってくる店員。
その声からも判るようにやる気は全く見られず、いかにもダメバイトといった感じの空気を存分に発揮していた。

……う〜ん、いいねえ。普段だとイラッとするけど、今はキミみたいなバカが店員の方が助かるんだよねえ。

ぶっきらぼうにグラスをテーブルに置かれながらも、何ら不機嫌な素振りも見せずにいる宏。とりあえず計画実行はさておき、まずは注文を済ませる事にした。

「ええっと、キムチ牛丼の大盛りセットにマヨネーズで」

「……はい」

バイトはカリカリと乱暴にオーダー表に記入し、そのまま奥へと消えていく。今のところ接客態度は文句なしで0点だった。

「ふう」

それにしても腹減ったな……
宏は肉を煮る大きな鍋の前に立っているバイトをぼんやり眺めながら、自分の腹を何度かさする。家で夕食を食べてから6時間強、それ以降何も口にしていなかったため、宏は普通に腹が減っていた。

「……」

うわ、米盛るのテキトー。キムチも専用の小皿じゃなくてタッパから直で盛ってるし。
極力洗い物を増やさないようにしてやんがんな、あのクソバイト。

事を起こすのは頼んだメニューが届いてから、そしてそれを食べてからのため、宏はまだ普通の客モードでいた。
実は宏は以前、この牛丼チェーンでバイトをしていた経験があり、牛丼の盛り方や配膳の手順など、全てを把握していたりする。
まあ把握しているのはそれら接客面だけではなく、金銭の管理方法や店内部の構造とった部分にまで精通しており、だからこそこの店を、そしてこの時間帯を選んで来店していた。

幹線道路沿いにあるとはいえ、この辺りの店舗なら深夜枠のバイトは基本的に1人。次のシフトは明け方か朝の9時しかないため、他の客さえこなければ店の中にいるのは2人だけ、という事になる。

宏はその2人きりになった所を見計らい、先程控えていた店の番号に電話をかけ、一旦バイトを受話器がある店の奥へと移動させ、長々と持ち帰りの注文を頼みながらレジの金を抜こうと考えていた。

とりあえず今現在、宏以外の客はカウンター席にトラック運転手らしき男性が1人と、テーブル席に見るからに冴えないヒマ大学生っぽいグループが1つ。どちらも既に食べ終わり、特にトラック運転手の方は今にも会計を済ませようと立ち上がりそうな勢いだった。

バタン! ……ガチャガチャ、カチャ

乱暴に冷蔵庫の扉を閉め、同じく乱暴に味噌汁をお椀に注ぐバイト。
そして本来であれば軽く布巾で拭いてから配膳を行なうべきトレーをそのまま取り出し、漬物と卵の器をドン、ドンと置き、牛丼と味噌汁を並べる。ちなみに正規のルールだと丼もそれ専用の布巾で丼の周りを拭かないといけないのだが、このバイトはそれすらしていなかった。というか布巾そのものが置かれていなかった。

おいおい、今からあれを食わされるのか……
と、さすがに穏やかな心境ではいられなくなってきた宏。これで肉の煮方が悪かったり、時間が経ちすぎてグダグダだったりしたら承知しねえぞ……と思いながら、運ばれてくるキムチ牛丼大盛りセットを待つ。

「……どうぞ」

カチャ

相変らず無愛想な言葉遣い。そして荒いトレーの置き方。もう少し上から置いていれば、もしくはもう少しお椀の中の量が多ければ、おそらく味噌汁がこぼれていただろう。

……うわー、最悪だな。っていうかマヨネーズねえし!

「……いいや、もう」

怒りを通り越し、もはや呆れるしかない宏。
これでもう遠慮の必要は無し、容赦なく売上金を盗る事が確定していた。

「いただきます、と」

まあヤツには後で泣きを見てもらうとして、今はまず来たものを食べておくか。それにどのみち他の客が帰らないと計画は実行出来ないんだし。
宏はそう思いながらもしっかりと食事の挨拶だけは済まし、箸に手を付ける。

まずは肉を一口。
……うん、煮過ぎ。しかもタレが煮詰まってメチャクチャしょっぱいし。

続いて味噌汁。
……うん、ぬるい。つーか味噌がちゃんと溶けてなくね?

最後に肉とご飯とキムチ。
……米柔らかすぎ。キムチ少なすぎ。あと何勝手に汁だくにしてくれてんだこのクソガキ。

「……んー」

唸るような、それでいて怒りを顕にするような宏。どうやら運ばれてきたメニューは相当によろしくない出来だったようだ。

……ダメだ、耐えられねえ。完食は無理だ。

タン、と箸を置き、お茶に手を伸ばす宏。しかしそのお茶も気分を害する程のぬるさだった。

「あーもう!」

まさかトレーに乗った全てが自分を怒らせる結果になるとは。
宏はその生暖かいお茶を置き、今さっきトレーに叩き付けたばかりの箸をバキリと折る。
それは怒りに満ち満ちた「ごちそうさま」の合図。

……こうして安河内宏は生まれて初めて牛丼を残した日を迎えてしまう。
それだけ出されたメニューの全てが低クオリティーを誇っていた。当然、彼は存分に怒っていた。

「ごちそうさん」

と、その時だった。カウンター席の客が立ち上がり、会計を済ませるべく入口前のレジへと歩き出す。すると釣られるようにテーブル席の集団も「じゃあそろそろ……」と立ち上がる。一気にチャンス到来となった。

「……430円です……」

「……ありっしたー」

まずは運転手の会計。そしてテーブル席の集団。

「……別々っスか?」

「……680円、550円、380円、680円です」

ピピピピピピッ、ピピピッ!

やる気も誠意もゼロだが、レジ打ちのスピードと正確さはなかなかのバイト青年。これには宏も感心せざるを得なかったが、彼の目はそれとは別の部分を見つめていた。

……よし、俺がバイトしてた頃と同じレジだ。

それはこの作戦で唯一、宏が不安に思っていた点。もし自分がバイトしていた時とレジの機種が違っていたらどうしよう、というもの。
性質上、迅速な操作が求められる今回の作戦。レジを開けてドロアの下から万札を取り出して店を後にする……、その一連の動作に必要な時間は短いに越した事はない。そのため、レジが使い慣れたものであるというのは非常に重要なポイントだった訳で、その問題をクリアした宏は安堵の表情を浮かべていた。

「あっしたー」

ありがとうございました、という言葉を極力短くした挨拶に見送られ、店にいた客は宏を残して全員いなくなる。
宏は横目で外に出て行った客の動きを見ながら、車に乗って道路に出て行くまで黙って席に座っていた。
その間バイトは面倒臭そうにトレーを回収、適当にシンクに放り込んで適当に洗い始める。

……さて。

宏はポケットの中で携帯を開き、リダイヤル→発信という操作を行なう。
勿論その間は平然を装い、決して店員を凝視しないよう、それでいて行動の全てを把握する。

――ジリリリリッ、ジリリリリッ!

それまで小さな音量で有線が流れていた店内に鳴り響く電話の音。
すると店員は「チッ」と舌打ちをしながらも店の奥に向かって歩き、完全に宏の視界から消える。

「……」

それを待っていた宏はスッと素早く携帯をポケットから取り出し、手で覆うようにしながら耳に当て、静かに席を立つ。

『……はい』

テーブル席を抜け、宏がカウンターまで来た所でバイトが電話に出る。相変らずの愛想のなさだった。

「あー、すいません、持ち帰りの注文お願いします」

『……はあ。注文どうぞ』

何だよ、こんな時間に注文の電話なんかしてくんなよ。
そんな思いがひしひしと伝わってくるバイトの対応。
……普段からこの調子なのか? クレームとか来ねえの? と思わずにはいられない宏だが、ここは抑えて注文を始める。

「ちょっと聞きたいんですけど、肉単品で頼む場合ってどのくらい得になっていくんですか?」

『はあ?』

「だから300グラムを2つ頼むのと600グラム1つ頼んだ場合、値段に差は出るのかって事ですよ」

『あー、少しは安くなりますよ』

……うわー、適当な受け答えだなー。500グラムまでは100グラム増えるごとに80円ずつ得になります、が正しい返答だろうがよ。
宏はそう心の中で呟きつつ移動を続け、レジの前に。

「じゃあまず牛皿300グラムを4つ。で、200グラムを2つ。米は……大盛りが5つとミニが1つ。あとは……」

……さ、ここがヤマ場だな。
宏はわざと面倒なオーダーを通しながらレジを開ける両替ボタンに手をかける。
ボタンを押した時の操作音と、ドロアが出て来る時に鳴る小銭の音。それら2つの音は店の奥にいるバイトに聞こえる事はないが、電話越しに音を聞かれる可能性がある。

「それと卵4つ、おしんこも4つ。で――」

と、ここで宏は携帯を持っていた手を動かし、親指でマイクを抑える。
そしてその瞬間にレジを開き、ドロアを掴んで操作パネル脇に置く。これでもう音を立てるものはなくなり、電話をしながら金を手にする事が可能。宏は「そうだなー、サラダ2つ追加しよっかなー?」と言いながらまずは福沢諭吉を、続いて樋口女史、野口医師が描かれた札に手を伸ばし、ポケットに詰めていく。

「……うん、以上で」

『はい』

注文多いよ。わざわざ肉と米を分けんなよ。
そんな声が聞こえてきそうな返事。店員は完全に逆ギレしていた。

「それじゃあと20分くらいで行くんで」

『……はい』

ガチャ。

電話が切れる。本当は客の名前と、悪戯防止のために電話番号を控えておくのだが、そんな事はお構いなしだった。

「……ふん」

最後まで最低ラインの接客しかしなかった店員を鼻で笑う宏。
電話が切れた時、彼は既にレジに入っていた札をあらかた抜き取り、さらに500円玉を掴めるだけ掴み、そのまま店を出ていた。

「はい、今回もラクショーと」

宏はそう言うと、握っていた500円玉を札が入っているポケットとは別に入れ、ジャラジャラと音を立てる。
それは勝利宣言、しかも完全なる勝利を祝ってのもの。おそらく今頃あのバイトは宏が注文した品々を確認しつつ、面倒だと舌打ちでも打っているに違いない。……自分がシフトインしてからの全売り上げを盗られたとも知らずに。

ちなみに宏は席を立った時、オーダーシートの上に代金を乗せ、テーブルの中央にこれ見よがしにおいていた。
これで「会計を済ませて帰りたかったけど、電話中で出てこなかったので仕方なく代金を置いて店を後にした客」の出来上がり。きっとバイトもそう考え、疑いもせずにその金を持ってレジに向かうだろう。

「……ま、そこでビックリする訳なんだけど」

エンジンをかけ、車を発進させる宏。最初に一番出やすい場所に停めていた事が幸いし、宏は店員に見つかる事なく牛丼屋から脱出。去り際に一応店の窓から中を見てみたが、店員は何ら気付いておらず、ふてくされた様子で肉の鍋をお玉でかき混ぜていた。

「……よっし、完璧っ」

と、ここで宏は車のライトを点等。もし店員に気付かれた場合を考え、ナンバーを控えられないようにする策だったのだが、それも必要なかったようだ。

「さ、早く金勘定しないとな」

……それと夜食の食い直しもしないと。
金は奪えたが、空腹は何ら満たせなかった宏。ポケットにどのくらいの金額が入っているかも十分に気になっていたが、今はそれと同じくらい口直しに何を食べるかも気にしていた。

「……コンビニでいいか」

チャーハンかカルビ丼があればそれを、なければ最悪おにぎりと唐揚げでいいや。
そんな事を考えながら、宏はさっき来た道を走り、街へと戻る。

ちなみにこの牛丼屋で奪った金額、宏のポケットに入っている紙幣&貨幣の総額は10万7千5百円。本日のトータルで換算すると計21万5百円となっていた。




 5

その後、宏は道沿いにあったコンビニで夜食を買い込み、駐車場で先の牛丼屋で奪った金を数えながら食事開始。お目当てのチャーハンもカルビ丼も売り切れていたが、代わりに大盛りトルコライスがあったのでそれを買っていた。

「……ん、んん」

チュルチュルとナポリタンを啜りながら、本日奪った金を助手席に並べていく宏。

「……んんっんん、んんっんっん(訳:じゅうごまん、じゅうろくまんっと)」

唸りながら金勘定、万札を一枚一枚数えていく宏。ここまで大勢の福沢諭吉を見たのは久々らしく、微妙にテンションが上がっていた。

「ん……っと」

口の中を空にし、やっと普通に喋れるようになった宏。ちょうどそこで数えていた札も尽き、宏は感慨深そうな表情で並べられた金を見ていた。

……結構な額になったな。それも意外と簡単に集まったし。

確かにこの計画には少なからず自信があった。自信があるから、勝機があるから実行に移したのだが、正直ここまですんなり成功が続くとは思っていなかった。

万一の事を考え、足元は逃走用に紐をきつく結んだスニーカー。そして腰元には威嚇用&最終手段としてナイフが隠されていた。
しかし今のところ、それらのアイテムにお世話になるような事態に遭遇しておらず、これからも大丈夫なのでは? という思いが宏の中に生まれつつあった。

確かに次からの金策方法はこれまで以上に安全である可能性が高い。この後に控えている手段は、誰とも接触する事のない作戦ばかり。
客やら何やらを装って……というのは先の牛丼屋で終了していた。

……さて、次はどっちで行くか……

牛乳パックサイズのウーロン茶を飲みながら、宏は次なる作戦の実行に移ろうとしていた。
今までは条件に時間の概念が大きく絡み、順番を変える事が出来ない作戦ばかりだったが、残っている手段は比較的時間帯の制限が緩く、どちらから行っても大丈夫だった。

その手段とは「コンビニに弁当の配達に来る運送トラックに乗り込み、売上金の類をゲット」というものと、「銀行の夜間金庫に罠を張って待つ」という2つの作戦が残っていた。

しかしコンビニ弁当の配送に関しては、毎日現金支払いにて商品を卸しているとは考えにくく、まとまった金があるかどうか甚だ疑問。
また夜間金庫に関しても、おそらく今までの非ではないセキリュティーの高さがネックとなり、宏が今回考え付いた作戦の中で一番のハイリスク、そしてハイリターンであろう不安点があった。

「……コンビニ、ねえ」

別に次の事を考えた訳ではないが、ちょうど今宏はコンビニの駐車場にいる。
先程店内に入った時、弁当の棚はスカスカ。買ったトルコライスの製造日時を見ても、まだ新しい商品は入荷していないようだった。

時間を考えるに、そろそろ配送トラックが来る……かもしれない。
確か以前、このくらいの時間帯にコンビニに買物に行った時、ちょうど弁当やパンの入れ替えをしているのを見た事があったはず。
当然店の場所によっては配送トラックが来る時間に差があるとは思うが、ここで待つだけの価値はある……ような気がしないでもない。

「うーん……」

どうしても「かもしれない」という曖昧な言葉が最後に付き、そして希望的観点の多すぎるこの作戦。ここまで非常に順調な流れで来ていた宏だったが、さすがに慎重に構えてしまう。こういう状況において過度の自信は厳禁である事を宏は本能的に察知していた。

「こりゃヤメ、かな」

店内で買物をしたためカメラに映っている上、ここでずっと待っている間に店員がこの車に気付くかもしれない。
考えてしまう事、思い付く事の全てが肯定的、宏にとって喜ばしくない判断材料しか出てこない。

ここは無理せず、諦めた方が無難だな……
宏はそう判断し、サイドブレーキを戻して車を発進させる。
やめると決まった以上、こんな所に長居は無用。次なる作戦を実行するため、宏は作戦を思いついた時から目星を付けていた銀行へと向かう。

……こうして宏は残る1つの金策、最後となる作戦を実行させるべく、後部座席に積んだ「とっておき」と共に移動を始めるのだった。




 6

――ガサゴソ、ガサゴソ

目的となる銀行から少し離れた場所、距離にして数十メートルの位置に宏は車を停め、準備に取り掛かっていた。
人通りは全くなく、車が通る事もパトカーが見回りに来る事も稀な道のため、宏は堂々と後部座席から何かを取り出す。

それは宏手製の自称ハイテク装置、「入金ホイホイ」と名付けたアイテムだった。
この入金ホイホイ、形状は小さな穴を開けたプラ製の枠に両面テープを貼り、ビニール袋を取り付け、その先に糸を結んでプラ版の穴に通しただけというシンプルなもの。まるで小学生の夏休み工作のようなクオリティだが、実はなかなかに考えられたデザインフォルムだったりする。
まずプラ製の枠は銀行の夜間入金窓口のサイズと寸分違わぬ大きさで、さらに設置しても何ら目立たないようになっている。
そして気になる使い方だが、入金ホイホイは両面テープをはがして窓口の内側に取り付けるだけ。こうする事で投入された金銭はプラ版の先に付いたビニール袋に入り、それを取る時は糸を引っ張って袋ごと外に出す……という仕組みになっている。

ちなみにこの入金ホイホイが取り付け可能、効果を発揮する事が出来る夜間金庫は旧式の上から投入するタイプのみ。さすがに新しいものはこの原始的な手段は通用しないのだが、宏が目星を付けたこの銀行は人通りが少ないだけではなく、夜間金庫が旧タイプだった事から選ばれていた。
宏は今日の昼、この計画だけは実行に移す前に入念な下調べをしており、市内にある全ての銀行を見て回っていた。そして的確と思われる銀行を発見、投入口のサイズを測り、この装置を完成。後はもう取り付けて入金に来る者を待つだけだった。

「……」

ピリピリ……と両面テープをはがし、ずれないように金庫投入口奥に貼り付ける宏。入金ホイホイのサイズは完璧で、どんな荒い投入のされ方をしてもビニール袋が受け止めるように設置する事に成功。一応確認のため、宏はテスト用にと用意していた週刊誌を、札束を入れた入金カバンに見立てたそれを入れてみる。

……カサ

微かにビニール袋が音を立てるが、気になるような音量ではない。
それに例え不審に思っても、取り出す術がない以上、どうする事も出来ないだろう。何よりその程度で銀行の金庫を怪しむような者はいないはず。宏はそう考えていた。

「……うん、これでオッケーっと」

設置を完了させ、満足そうに頷く宏。何度か入口部分をパカパカと開けるも、プラ版は引っかかる事も隙間から見える事もなく、手を伸ばして口の下を触られない限り発見される事はなかった。

「さて、それじゃあ後は罠にかかるのを待ちますかね」

ぼそりと呟き、宏は夜間金庫の前から静かに立ち去る。そして銀行からは死角となる自分の車に戻り、息を潜めて入金に来る者を待つ事に。
宏が車を停めた場所はとてもいいポイントで、入金に来る者からは全く見えないが、宏からは上手く木々と建物の隙間から様子を伺い知る事が出来た。

こうして宏は眠りさえしなければ、そして入金に来る者が訪れれば完璧となる罠を仕掛け終え、計画の成功を待つ事に。

……時刻は午前3時過ぎ、外の冷え込みがきびしくなる時間帯。
用心のため車のエンジンを切って張りこんでいる宏としてはかなり厳しい状況だが、持ち込んだ毛布とカイロに助けられつつ、夜間金庫に金銭が投入されるのを待ち構える。

人通りは勿論、車の通りも今まで1台と無い道にある銀行に入金者が来るかどうかは甚だ疑問ではあったが、それでも宏には勝算があった。あったからこそこの銀行を選んでいた。

「……ううっ、寒いなー」

どうしよう、まだ時間はあるし、その辺で暖かいコーヒーでも買おうかな……
と、息を手に吐きかけながら、カイロを揉み解しながらそう呟く宏。

この「まだ時間はあるし」という発言、それが宏の頭にあった考えであり、勝算の理由がこの言葉の中に混じっていた。

実はこの銀行、周辺こそ夜中になると静まり返る地区ではあるのだが、少し車を走らせると深夜営業のレストラン、飲み屋、カラオケ店、ビデオ販売店、ゲームセンターが何件かあった。
それらの店から一番近い銀行はここ。したがって閉店後に入金をする店は必然的にこの銀行を利用する事になる。その売上金を頂戴してしまえばノルマ達成は一気に近付くに違いない……と、これが宏の自信の理由であり、理想というか願望でもあった。

「さあて、上手く行くか、それとも誰も来ないか……」

妙に興奮気味、まるで出走直前の競馬を見ているようなドキドキ感に包まれる宏。今までの作戦は全て自分からけしかけるものだったのに対し、今回は完全に人任せ……というか結果待ちを余儀なくさせられるもの。
本人が介入出来る範囲が決められており、既にそれも手を付け終わっているため、宏は今までにない心境になっていた。

「……」

そしてここからしばらく、宏は我慢の時間を迎える事となる。
先に挙げた店の内、現段階で閉店時間を迎えているのはレストランとゲームセンター、それにチェーン展開の飲み屋が数件。勿論閉店作業やその他の雑務があるため、すぐに入金に来るとは思えないし、そもそもこの時間に入金を行なうかどうかも正直判らない。
しかしあれだけの数の店が、それも複数の業種の店なら、どれか1件くらいはこの時間に来るだろう。っていうか来い。

宏はそう思いながら視線は銀行の駐車場、耳は周囲全体に聞き耳を立て、車が近付いて来ないかを探っていた。

……こうしてひたすら「待ち」の姿勢を取る事40分強、最初はあれだけ期待していた宏も少しテンションが下がり、「あれ? もしかして見当違い? 別の手段を考えた方がいい?」と思い始めた頃だった。

「……ん?」

暇つぶしに過去のメールを読んでいた手が止まり、宏は目を閉じて神経を耳に集中させる。
するとそれまで遠くから、それこそ主要幹線道路から聞こえる大型車のそれしか聞こえてこなかったエンジン音が近付いてくる事が判明。しかもこちらに向かって一直線、順調にその音が大きくなってきていた。

……来た? ねえ来ちゃった!? これは期待してよし? それともガセ?

宏は身を包んでいた毛布をガバッと脱ぎ捨て、極力自分の姿が見えないように背中を丸め、ハンドルとスピードメーターの間からようやく銀行が見えるくらいまで姿勢を低くする。この車自体銀行側から見えない事は知っていたが、それでも宏は用心のため、もし目の前の道を通って来たらどうしようと考え、車内で身を潜めていた。

……ブロロロ

どんどん大きくなってくる車のエンジン音。その低く唸るような音は高級車、もしくは多少手を加えた車のように思えた。
それは店長や社長クラスの人間が直接入金に来たのか、それともただの馬鹿が深夜徘徊にたまたまここを通ろうとしているのか……
少々大袈裟だが、この2択は宏にしてみれば天国と地獄、今後の明暗を分けかねない事だった。

「頼む、入金で。入金の車でっ!」

頭の中では某騒音おばさんよろしく、「入・金、入・金、さっさと入・金、しばくぞ!」とリズミカルに叫び続ける宏。
本人としてはこのようなベタなネタは決して望んではいなかったのだが、急に上昇してきた緊張感を解すため、あえて甘んじてこの「しばくぞリズム」を脳内で展開していた。

キキッ

車を停めているすぐ後方の交差点から、カーブを曲がる音が聞こえてくる。
少々スピードが出ているのか、それともハンドリングが荒いのか、軽くスキル音が鳴っていた。……少し深夜徘徊の輩の可能性が高まった。

ブオオオンッ

直線に入り、一気にアクセルを吹かす音。次の瞬間、宏はバックミラー越しにその車が発するライト光を確認。通常より白く強く輝くそれは、まだどういった車かを把握する材料にはならない。そして……

「……!」

頭が出ないよう隠しながら、それでも何とか必死に首だけ動かし、横を通り過ぎる車を見た宏。その顔は落胆でも怒りでもなく、思わず喚起の叫び声を上げたくなるようなしてやったり顔。
現れた車はあまり車種に詳しくない人でも高級車だと判る、特徴的で有名なエムブレムが付いた外車だった。

……キターっ!

その高級車は当然のように、さも毎日来ていますといった感じで銀行の中に入り、キキッ! と大きなブレーキ音を鳴らして停車。程なくしてバタム! といういかも重そうなドアの閉める音が聞こえてくる。

「……間違いねえ、こりゃ売上の入金だ」

暗くてほとんど見えないが、車から降りてきたのはスーツ姿と思われる男性。
そしてエンジンを切らずにそのまま夜間金庫に向かい始めた直後、運転手はライトに照らされてその姿をはっきりとさせる。
男はちょっと、いやかなり怖い系の顔つきで、スーツもビジネスマンが着るものとは明らかに仕様であったりデザインが異なった。

……ホスト? それとも高級なクラブの黒服か?

さすがに一瞬で得られる情報で判るのはこの程度。宏はちらりと見えた男の格好、そして雰囲気や歩き方等からそう予想し、夜間金庫から戻ってくるのをじいっと見つめる。
男は1分もしないうちに駐車場に戻り、車を降りた時は手にしていたはずの何かを持っておらず、手ぶらだった。

「よしっ」

この早さで戻って来たという事は、男は仕掛けられた入金ホイホイに気付く事なく金庫にブツを投入したのだろう。
宏はそう判断し、早く回収に行きたいと、最大限の「早く帰れ」思念を送りながら、男が車に乗り込むのを凝視し続ける。

……ブロロロロロッ!

現れた時以上にけたたましい音を出して消えていく黒塗りの高級車。宏はそれを完全に消えるまで見送った後で車を飛び出し、駆け足で銀行へと向かっていく。
そして入金ホイホイを仕掛けた金庫の前に立ち、そっと投入口を開けて手を伸ばす。するとそこにはしっかりとプラ版の感触があり、ビニール袋が切れて落ちている事もなければ、回収用の糸が解れたり切れたりしている事もなかった。
つまり後は宏がこの糸を引いてビニール袋を回収し、装置ごと取り外して立ち去れば作戦は成功。得た金額次第では完全なるミッションコンプリートとなり、家に帰って布団に包まる事が出来る。……是が非でもこれで片付けたいと宏は強く思っていた。

「……」

さ、ではこの成功に繋がる糸を引っ張らせてもらいますかね。
そう呟き、宏は揉み手をしながらゆっくりと手を伸ばす。そして糸を摘み、今まさに金を手に……という所までいくも、そこでピタリと動きを止める。

……聞こえる。
もう一台、さっきとは違う車がこっちに向かって来てる……

普通であれば、こういう事に慣れていない人間であれば目の前の事で夢中、周囲にまで注意を払えないものだが、宏は違っていた。

勝負は最後の最後まで油断してはいけない。それを肝に銘じていた宏は、さっきの高級車に比べて格段に小さいエンジン音も聞き逃さず、こちらに向かって車が1台近付いている事を察知。今から車の中に戻るのは見つかる危険性があると判断し、すぐさま建物の隙間に身を潜める。

「……」

宏が隠れた場所は銀行の建物と空調の室外機が置かれた間、もし見つかろうものなら脱出は不可、一切の言い逃れは出来ない位置ではあるが、その可能性は限りなく低い。それだけ宏の隠れた場所は金庫のある場所から見つかりにくい位置にあった。

……バタン

駐車場の方からドアを閉める音が聞こえる。あまり大きくなく、また重厚な感じもしない事から、車のグレードは普通車かそれ以下だと思われた。そして実際、その宏の推測は当たっていた。

黒塗りの高級車に乗っていたのは宏の予想通り、高級な飲み屋のマネージャー。そして今回入金に来たのは、ゲームセンターの雇われ店長だった。

「〜〜♪」

足音軽く、鼻歌交じりで金庫の前に現れたのは宏と同い年くらいの男性。ベストに蝶ネクタイ姿のそれはまさしくゲーセン店員の格好、しかも名札とインカムを付けたままで入金に来ていた。

……よかった、こりゃ気付かれる心配は無いな。

無防備極まりないゲーセン店員に、ほっと胸を撫で下ろす宏。
男は手馴れた様子で売上金が入っていると思われる包みを金庫口に入れ、そのまま車へと……

立ち去らないっ!?

その完全なる不意打ち、予想外の展開に宏は思わずビクッと身体を硬直させる。
男は一旦駐車場に向かって歩き出すのだが、数歩進んだところで足を止め、くるりと身体を反転させては宏が隠れている方向へと歩いてくる。

マジかよ、どうしてこっち来るんだよ。もしかして気付かれた!? 
まさか? あんなアニソン口ずさんでるようなヤツに俺の気配を悟られたと!?

……と、自分に向かって一直線に歩いてくる男に少々パニック気味の宏。
そして2人の距離はどんどん縮まり、宏が身を潜めている銀行と室外機の前……をスルー。

へ?

どうする? 最悪先手を取って殴りかかるか? そんなバイオレンスな事まで考えていた宏は、この展開に思わず拍子抜け。

「……」

だとしたらどうしてコイツはこっちに……?
と、首を傾げる宏。すると次の瞬間、その疑問に的確かつ完璧な答えとなる光景が繰り広げられる事になる。

「〜〜♪」

ジィィィィィ、ちょろちょろちょろ……

「!!」

ジッパーを下ろす音、そしてその後に聞こえてくる、とてもとても美しくない水音。
もう詳しい説明をするまでもないだろう。つまりはそういう事、男は何も宏に気付いたわけではなく、本能の赴くままに生理現象を、平たく言えばもようしていただけだった。

……コロス! てめえは俺を怒らせた! よって万死を持って償ってもらう!

どこかで聞いた事のある台詞を吐き、怒りを顕にする宏。歯を食いしばり、踏みたい地団駄を我慢しつつ、固く握った拳を空に向かって何度も突き出す辺り、相当に危機を感じていたようだった。そしてそんな怯えに近い心境を抱いた事が許せないようだった。

「〜〜♪」

そんなすぐ横に殺意をふつふつと煮えたぎらせている人物がいるとも知らず、男はこの上ないスッキリ顔で駐車場へと歩いていく。相変らず男は下手な鼻歌を、それも10年近く前の魔女っ子アニメの主題歌を口ずさみ、それがさらに宏を怒らせ、悔しがらせる。

くそっ、俺はこんなヤツにビクビクしてしまったのか……っ!
不覚、何たる不覚! 宏はバシバシと自分の太腿を両手で叩き、首をぶんぶん振り回す。そして壁に頭をぶつけそうになり、慌てて普段の冷静さを取り戻す。

「……何やってるんだ俺は」

はあ、と息を吐き、ひとしきり反省する宏。
とりあえずここでバカやってると、また誰かが来るかもしれない。金が増えるのはとてもいい事だが、見つかってしまっては何の意味もない。
宏はそう思い、2人の男が入れた金を回収するべく、夜間金庫の前へと急いで歩き出す。

「……」

カパッと入金口を開け、素早く手を伸ばして引っ張るべき糸を確認。宏は躊躇う事なくその糸をぐいっと引っ張り、金が入ったビニール袋をたぐり寄せる。

ガサガサ、ガサッ

「よし、取れた!」

投入口のすぐ前まで上がってきたビニール袋を掴み、そのままプラ版ごと剥がし取り、入金ホイホイを回収。宏はそれを手にするなり走り出し、自分の車へと戻っていく。
そして助手席にそれを投げ入れると同時にエンジンをかけ、超高速でハンドルとギアとアクセル操作を行い、その場を後にする。

……ブロロロロロッ、キキッ!

直線を抜け、最初に来た高級車もタイヤを軋ませたカーブを同じように曲がる宏。その後もしばらくはアクセルベタ踏み状態での運転は続き、あっという間に街の反対側へ。
ここに来て宏はようやく車を停め、ビニール袋の中を調べようと手を伸ばす。
中には最初に宏が入れた週刊誌、そして2つの入金カバンがあり、宏は迷わずカバンを掴む。

「ええっと、まずはゲーセンの方か」

宏はそう言いながらカバンを開け、そのまま逆さにして何回か振ってみる。するとそこからは数枚の書類と共に、数枚の万札が。どうやらこれは一日の売上金ではなく、何か経費的なものらしい。宏は同封された書類からそれら情報を得ると、紙幣だけ抜き取って残りはビニール袋に戻す。

この時点で総所得金額はまだ目標に到達していないが、残るはあと5万弱。いやがおうにも宏はもう1個の入金カバンに入っている金額に期待を高め、ゴールとなるかどうかに心を躍らせる。

「さて、次は……っと」

期待は相当に高いが、非到達だった場合の事を考え、宏は努めて冷静にその入金カバンを手にする。カバンは今さっき開けたものとは違い、今回は手に持った時点でズシリという重さがあった。ぬか喜びはいけないとはいえ、かなり期待出来た。

「……」

ストン、という音が鳴る。
そして宏の反応は驚くほど静か、ほとんど無反応に近かった。

「……」

最初は何かの間違いかと、それこそ見間違いだと思った。
まだ、宏は静かだった。というか何も言えない状態だった。

「……札束チョコ?」

確かにそんなチョコがあった。金塊バージョンもあった。10円とか20円とかいう金券が入っていた。駄菓子屋に売っていた。
しかし、宏の掌に乗ったそれはチョコではなく、裏返しても成分表示表やバーコードはなく、普通に「NIPPON GINKO」という印字が見えるだけ。
……紛れもなくそれは日本銀行券、つまり現金だった。

「……え、だって縦に立つよ?」

誰に言うでもなく、疑問をを口にするような、それでいて何かを発見したような口調の宏。彼の言う通り、掌の上では入金カバンから落ちたそれが垂直に立っていた。

「……ようかん?」

確かに重さと大きさは棒ようかんに近かった。しかしそれも違う。というか普通に福沢諭吉が見えている。
宏はまだそれをそれと認めようとしていなかった。いや、もしかしたら意図的にそう考える事を避けようとしていたのかもしれない。とりあえず確実な事として、彼は軽く混乱していた。そしてこの時辺りから震え出した。

「はははは、これは、ちょっと……多い、かな……?」

そして笑う。力なく。

「あははははは、これはさすがに、予想外の展開だよ……」

震えはより大きく、そして笑いはより不自然に、顔も引きつるように。

「ええっと……その……」

ようやく飛んでいた意識が、どこかに行っていた意識が現実に戻る。
そしてゆっくりと、目の前の事実を認め、把握。

「……さんびゃく、まんえん」

縦に立ったそれは3つの束に分かれ、それぞれ何か薄くて高級そうな紙で纏められていた。
しっかり枚数を数えた訳ではないが、おそらくその束は1つを百枚に区切っていると思われた。

「……これ1つでクリアじゃん。全然お釣りくるじゃん。っていうかあと10回同じ借金抱えれるじゃん」

まあ最後の発言は本末転倒というか今回の作戦が全く意味を成さないものになってしまうのだが、それは宏がまだ微妙に慌てているが故の言動。
しかし宏はすぐに「あ、最後のおかしいな」と自分で気付き、このセルフツッコミによって普段の調子を取り戻す。

「……ゴール、ですな」

目標額、達成。それも大幅に。
宏はあまり現実味を感じてはいないが、紛れもなく必要とする金額を獲得し、自ら挑んだ挑戦にピリオドを打つ。

総獲得金額、326万500円。そこから引かれる諸経費、微々。
残った金額は全て宏のもの。勿論合法で得た金ではない。というか思いっきり犯罪行為、言い逃れも弁解も出来ない完璧な窃盗罪である。

こうして宏は300万円を越える金額を手にする代わり、捕まる捕まらないを別にして犯罪者の烙印を押される事になる。
勿論それは最初のパチンコ屋での一件からなのだが、最後のは少し予想の範疇を越え、考えていた以上に大きな金額を得てしまった。

「……どうしよっかな」

その言葉の意味するものは複数。
まさかの大金を前に使い道を考えて出た言葉でもあるが、やはりそれより何より、今後の身の振りを考えての意味合いの方が強かった。

果たしてこれだけの額を手にしたのはラッキーなのか、それともアンラッキーなのか、宏には皆目見当も付かない。
しかし確実な事が1つだけあった。それは彼の心境に大きな変化が現れているという事。

「……何とかなんねえかな」

これぞ小市民というか、普通の反応と言うべきか。
宏はちょっとした辞書並の厚さを誇る札束を見て急にそれまでの、この計画を立案して実行に移した時の覚悟なり決意が揺らぎに揺らいでいた。

……マズイ。この額はマズイ。
これはいくらなんでも警察も本腰入れて動くに違いない。もしかしたら捜査本部とか出来るかもしれない。ニュースにも大きく流れるかもしれない。それも地方版じゃなくて全国版でも。

……あれ? もしかしてこれ、捕まるパターン?

当初、宏は計画を実行しても捕まらないものだと思っていた。もしくはそう思い込もうとしていた。そしてどこかに認知の甘さというか、自分だけは特別だという思いであったり、この国の警察機関の捜査能力を軽視していたりする部分が、もしくはこの程度の犯罪では警察は動かないという、高を括っている部分があった。
それはワイドショーなどでよく見聞きする、警察の職務怠慢や、ニュースで報道される犯罪検挙率の低下といった情報がそうさせていたと思われる。
実際に宏は「きっと被害届けが出されても書類を作るだけで終わるだろう」とか「手がかりを少なければきっとすぐに諦めるはず」、「忙しいとか適当な理由をつけて動かないのがこの国の警察」といった思いが無い訳でもなかった。

勿論それは大甘の考え、地に足が付いていない幻想や妄想の域でしかなく、おそらくではあるが警察も多少は動くし、もし本気になって捜査すれば宏が取ってきた対応策など容易く突破されるだろう。もし本気になれば、の話ではあるが。

……どうする安河内宏っ、どうする俺!?

本格的な逃亡生活は嫌だ、捕まるのは嫌だ、でも出来ればこの金は手元に置いておきたい……

と、本当に都合のよい事を並べ、それを願い始める宏。
そしてこれまた小市民にありがちな神頼み的なものが、「もうしません」とか「今回だけ助けてください」とか「(今回の件を)見逃してくれたら真人間になります」といった懺悔的なものが始まる。そしてしばらくした後で勝手に諦め、勝手にキレる。

「あーもう! 祈って解決するならとっくに世界は平和になってるんだよ! 戦争は起きないんだよ! 増税は先送りになるんだよ! 俺だって高給取りになってるんだよ! エチゼンクラゲは大量発生しないんだよ!」

……宏、壊れる。
というか駄々を捏ね出す。遺憾なく傍若無人っぷりを表に出す。

「……はあ」

そして落胆。何を馬鹿な事を言っているのだろう……と、余計に精神的ダメージを受けて沈む。

「……はあ」

繰り返されるため息。ちなみにこの自暴自棄とも自身への多大なる後悔とも取れるため息は以降小一時間ほど続く事となる。

――そして55分後。

「……よし」

何かを決め、この計画を発動する時のように頬をパンパンと叩き、気合を入れる。
宏はやる気だった。この絶望的とも言える状況を打破するべく燃えていた。計画もバッチリだった。

「……目指せ減刑! 勝ち取れ書類送検!」

と、声高らかに目標を口にする宏。
出てきた案は「捕まってもなるたけ小事で済むようにしよう作戦」、つまり金を盗んだ事を出来る限り無かった事に、戻せるものは戻してみよう、というもの。宏はお詫び行脚……ではないが、今一度事を起こした現場に赴き、状況を把握。その状況次第では復元作業に取り掛かり、何も起きていない事にしようと考えていた。……だったら最初からやらなきゃいいのに、である。

「行くぞ、栄光に向かって!」

そう言いながら宏は車を走らせる。その先に栄光など微塵もなく、あるのは証拠隠滅以外の何者でもないのだが、宏は何故か正義の使者気取りだった。義賊よろしく、奪った金を困った者に与えるかのような勢いだった。その困った者を生み出したのは他ならぬ宏本人だというにも関わらず、だ。

……ブロロロロッ

まあ何にせよ、こうして目的を変えた宏は深夜の街を疾走する。
己のため、もし捕まった時に少しでも被害が少なくなるように。

……その動機であれ目指すものは、情けないほどに小さく、また自己的なもの。
宏は相当にカッコ悪かった。




 7

――午前5時。

「……よし、誰もいないな」

一度車で通り過ぎ、周囲の状況を見た上で車を降り、再度その場へと戻る。
宏は静まり返った繁華街、酔っ払いから奪った財布を投函したポストの前に立っていた。

「ええっと、確か金額は……っと」

そう言って宏はポケットの中から小分けにした万札の束を1つ取り出し、奪った分の額を用意する。そして財布に入っていた額と同じ4万8千円をポストに投入。これであの酔っ払いは「空の財布をポストに入れた」ではなく「金が入ったままの財布をポストに入れた」になる。
勿論これだと財布と金はバラバラだが、相手が泥酔していた事を考えると、「ポストを何かと間違え、札を1枚1枚入れていった」と判断される可能性が出てくる。宏はそんなミスリードを狙っていた。

「……これでまずは1件完了、だな」

さ、すぐに立ち去らないと。
宏は誰かに目撃されるのを防ぐため、そして後の予定が相当押し迫っているため、急いで車に乗り込んでこの場を立ち去る。

次なる目的地は牛丼屋。さすがにあのバイトがいくらやる気のない馬鹿でも、レジの金があらかた抜かれているのには気付いているだろう。
それを何もなかった事にしようとは宏も考えてはいなかった。しかし、何も彼はそっとレジに金を戻すために牛丼屋に行くのではない。別の方法で事態を沈静化しようと、それこそ「何もなかったかのように」するつもりでいた。

……ま、あのバイトも金が戻ってくれば文句はないだろう。
どうせ普段からちょこちょこ売上金をちょろまかしてるに違いない、きっとそれが発覚するのが怖くて、まだ警察に連絡してないはず……

宏は同じバイトをしていた者の勘として、またあの接客態度やら何やらからそう決め付け、妙に自信ありげに牛丼屋に向かっていた。

……実はこの宏の推測、いや偏見に満ちた憶測は何と大正解。
金を奪った店にいたバイトは警察に通報せず、その前に様々なシミュレーションを、どう誤魔化すか、どう説明するのが適切かを、普段は使わない頭をフル回転で考えていた。

キキッ、バタン!

……と、そうこうしている内に宏は牛丼屋に到着。店内に客がいない事、店員があのバイト一人である事を確認すると、すぐさま考えていた作戦に移ろうとする。

「……」

サササッと物音を立てず、店の裏側に回る宏。そしてその辺から小石を1つ拾うと、スタッフ用裏口の奥にある物置目掛けて石を投げる。

ヒュッ…………ゴガーン!

放物線を描きながら飛んで行った石は見事物置のドアに命中。金属製のそれはかなり大きな音を立て、さらにドアに立てかけていた「新商品トマト牛丼380円」と書かれたのぼりを軒並み倒す。

「……さあ出てこい」

宏は裏口ギリギリまで、それでいて中から出てくるであろうバイトには見つからない場所に身を潜め、彼が出てくるのを待ち構える。
ポケットの中にはレジから奪った額と同じ金が入っており、宏はそれをレジとは違う、とある場所へ入れようと目論んでいた。

……ギイッ

「……??」

ドアが少し開き、怪訝そうに周囲を伺う顔が見える。その人物は宏に生まれて初めて牛丼を残させたあの態度の悪いバイト本人。
宏の計画通り彼は物音に気付き、ビクビクと警戒しながらではあるが、その音が鳴ったであろう物置方面に歩いていく。

よし、いいぞ。……今だ!

壁沿いを歩いていたバイトが店の角に差し掛かり、そこを曲がったと同時に宏が飛び出す。バイトは物置の方に全意識を向けており、宏の気配には一切気付いていない。その合間に宏は素早く、そして音を立てずにドアを開けて店内に侵入。そっ……とドアを閉めると、売上報告書や在庫一覧ファイルが並ぶ机に向かって一直線。その机の横に掛かっている鍵束を掴み、今度は金庫に向かって走り出す。チェーン店であるこの牛丼屋はどの店舗も基本は同じ造り、宏は昔取った何とやらで一切迷う事なければ戸惑う事もなく、金庫の前に到着。そして幾つかある鍵の中から金庫の鍵を取り、そのままガチャリと開ける。

……ええっと、昨日の売上金は……あった!

釣銭用の貨幣束が入ったカゴを寄せ、宏は各時間帯ごとに纏められた売上金が入っている袋を探し、見つけるやいなやポケットに入っていた金をそこに混ぜる。
レジと金庫の差はあるが、これでこの店の金は外には出ていない事に、つまり奪われていはいない事になる。

あのバイトが素直に警察に通報する/しないを別に、毎日の売上金を誤差なく集め、銀行に預けに行くのがこの店の決まりとなっている以上、少なくとも次のバイトがシフトインする時間帯には売上金の確認を行なわないといけない。
当然その作業を行なうのはそれまで店にいたあのバイト。おそらくレジの金の件で売上金の確認どころではないだろうが、それでも何万という額が合わなければ、しかもマイナスではなくプラスになっていれば気付くに違いない。万が一あのバイトが気付かなくても、「用紙に書かれた額と違う」と入金先の銀行で言われるはず。
そうすればバイトもその金をレジに入れ、何事もなかったように振舞えばいいだけの話。自分に疑いの目が向けられる事もなければ、警察に報告しなくてもいい……と、彼に取ってもメリットが多いため、理解や納得こそしないだろうが、レジから金がなくなった事に対して目を瞑るだろう。

と、これが宏の考えであり、また実際にバイト青年が取った行動&思った事。
さすがは元スタッフ、といった所だろうか。

「……これでよし、と」

大きく頷き、額の汗を拭う宏。
金庫への細工、売上金に奪った金を混入させる作業は無事終わり、後は逃げるだけ。宏はバイトが戻ってこない内に店を出ようとするのだが、侵入を試みた裏口ではなく、そのまま厨房を通って店内へと進んでいく。

「……」

そして宏はレジとカウンターの間、入口のドア付近にしゃがみこみ、気配を絶つ。
おそらくバイトは裏口から戻ってくるだろうが、バイトが警戒するあまり店の周りをぐるりと回って入口から来る可能性もゼロではない。
そこで宏は万が一の事を考え、正面からも裏口からも逃げる事が可能な上、発見されにくい場所で待機し、バイトが店に入ってきた逆の入口を通って逃げようとしていた。

「……」

用心しての事か、それともただ単に臆病で歩くスピードが遅いのか、バイトはなかなか戻ってこない。
時間にすれば数分も経っていないのだが、神経を集中している宏にしてみれば、この状況は結構辛い。

ギィィィ…………バタン!

「!!」

気を緩めてはいけない、気を緩めてはいけない……
そう自分に言い聞かせる事数十回、ここでようやくバイトが戻ってくる。予想通りバイトは裏口から店に入り、ガチャリとカギを閉める。ドアが開いてカギの音が鳴るまで若干のタイムラグがあったのは最後にもう一度顔を出して周囲を見たせいだろうか。

スッ、タタタタッ

どちらにせよ宏はそのちょっとした間を逃さず、無事に正面入口から店を出る事に成功。ドアの開閉にも全く音を立てず、バイトが厨房を抜けて店に出てくる前に車を発進させ、宏は牛丼屋を後にする。
繁華街のポストに続き、ここでも痕跡の削除は成功。こうして宏は順調に証拠隠滅を、もし捕まっても罪が軽減していく方向に事を進めていった。




 8

――翌日。

時刻はそろそろ正午、宏は自室にいた。

「……」

部屋の隅にある机に視線を向ける宏、その行為は帰ってきてからもう数え切れない程繰り返していた。
まあそれも仕方ないといえば仕方ない。机の引き出しには300万を越える金が入っているのだ、気にならない方がおかしいだろう。

「……」

宏は壁に掛けられた時計を見る。針はどちらもほぼ真上を刺していた。
……いや、「ほぼ」ではなく完全に真上にあった。

『12時なりました、お昼のニュースです』

TVから聞こえるアナウンサーの声。宏はそのニュースをぼんやりと、それでいてどこか緊張した面持ちで見ていた。正直、内心はかなりドキドキしていた。

――牛丼屋を後にし、次は銀行に……と向かうはずだった宏。
しかし彼は結局あの銀行に、入金ホイホイを夜間金庫に仕掛けた銀行には行かなかった。そして同様に、計画を最初に実行したパチンコ屋にも行っていなかった。

まあパチンコ屋に関しては営業時間外である事、そしてコインを奪った客がいないであろう事情から足を運ばなかったのも一応の納得が行く。
しかし銀行に関しては甚だ疑問、奪った金を入金カバンに入れ直し、そのまま投入するだけでいいはずなのにも関わらす、宏はそれを行なっていなかった。

……いや、正確には「行なえなかった」というべきだろうか。

一応宏は銀行に行く意思はあった。実際車内では2つの入金カバンに奪った金を入れ、元の状態に戻していた。

しかしあの銀行に付く前、街外れの牛丼屋を出てからすぐの所で宏は何と朝の通勤ラッシュに巻き込まれてしまった。彼が銀行に向かおうと車を走らせていた道は近隣の町から街に働きに来る車が多く通る道で、空が明るくなる頃には既に軽く混み始めていた。宏はその中に混じってしまっていた。

そして宏は渋滞の中で銀行の営業が開始される時間を迎え、仕方なくそのまま帰宅。眠る事もなくただただ部屋の中で黙っていた。

その間、やる事といえばTVを付け、チャンネルを普段は合わせる事のない国営放送で固定し、1時間ごとに流れるニュースをチェックする事だけ。

勿論それは自分の事が、自分が起こした事が事件として報道されてていないか調べるため。宏はキャスターが『次のニュースです』と言う度にビクリと緊張し、『本日、○○県○○市で……』と、自分が住んでいる街以外の名前が出る度に胸を撫で下ろしていた。

『では最初のニュース、一昨日から続いている九州を中心とした大雨ですが……』

「……ふう」

これも違う。

『では次のニュースです』

「……(ゴクリ)」

『国土交通省が発表した先月度の……』

「……」

これも違う。よかった。

『……それでは続いてお天気――」

「……」

結局12時のニューでもやらない、か。
いやいや、この後には地方版のニュースがある。まだ楽観視はよくない。

と、宏はTVに釘付け、それもニュースを食い入るように見つめ、一喜一憂を繰り返していた。一切睡眠を取っていない宏にこの作業は酷だった。しかしだんだんハイになっている部分もあった。

「……」

これで、次の地方版のニュースでも流れなかったら。
その時は俺の勝ちだ。何かしらの理由により、金が盗まれた事が発覚しなかったんだ。

そんな事を考える宏。そこに入金の不備が確認されるには結構な時間がかかる=まだ金を盗んだ先の人間が気付いていない、という考えはなく、本当に次のニュースで報道されなかった場合、宏は金を自分のものとして使うつもりでいた。

〜〜〜♪

と、その時携帯が鳴る。着信音は仲のいい友人から掛かってくる時に流れるように設定している曲だった。

「……もしもし?」

相手は気心知れた友人だというのに、少し緊張気味に電話を取る宏。
実は彼、この友人に1つ願いを、確認事を頼んでいた。

『あ、もしもし?』

「……どうだった?」

『それが全然。別にイベント告知をするでもなく、店中出まくってる訳でもなく、普通の日だったよ。あ、あとお前が言ってた台は取られてた。まあ出てなかったけど』

「……そう、か」

ふう、と大きく息を吐く宏。
何もそれは安心からのものではなく、これから本題に入るという緊張から。
表向きの理由、この友人に確認を頼んだのは「どうやら今日、あのパチ屋で大きなイベントが開催されるらしい。だから少し様子を見てくれ」という内容。
そして「実は昨日、少し打ちに行ったが、そこで高設定確定台があったので、もし空いてたら打ってみれば?」とも言っていた。

宏が連絡を取った友人はあのパチンコ屋の近くに住む、無類のスロッター。そんな彼の性格を利用し、宏は昨日何かトラブルはなかったか、例えば「コイン持ち去り事件があったから気をつけろ」とかいう張り紙がないか、また「この人物が犯人だ」的な監視カメラからの映像が張り出されていないかを探らせようとしていた。

「……あのさ、何か変わった様子とかあった?」

『はあ? どゆコト?』

「例えば店員の数が普段より増えてるとか、変に監視が厳しいとか」

『別にねえよ。……何かあったのか?』

「うん、昨日の夜「他県からゴト師の集団が来たっぽい」とかスタッフが言ってるのを聞いてさ。その時確かに「もしかして明日の下見も……?」って喋ってたんだよ」

『あー、なるほどなー』

宏の言葉を何ら疑わず、納得した様子の友人。
勿論それは作り話でしかないのだが、非常にリアリティのある話であり、イベントに関しても信頼に足り得る話だった。

「じゃあ何らかの理由でイベントは中止、もしくはガセか聞き違い……か」

『それっぽいな……ってお前、自分で確かめるのが面倒だからって俺に行かせたな!?』

「気付いたか」

『テメーこのやろ……』

「悪ぃ悪ぃ、埋め合わせに今度メシ驕るから」

『本当だろうな?』

「ああ。回ってない寿司でもカニ鍋でも、好きなものを驕ってやる」

『マジ!? ……さてはお前、ボロ勝ちしたな!?』

「さあね、どうだか」

……と、宏は含み笑いを浮かべながら友人の質問に曖昧に答え、「ま、そんな訳で」と言いながら電話を切る。

「……ボロ勝ちか」

確かに大金は手にしたけど、果たしてこれをボロ勝ちというのかどうか……

もう一度机の方を、札束が入っている引き出しを見る宏。
するとその時、TVから『では引き続き、地方ニュースです』という声が聞こえてくる。

「……」

『昨日の深夜から今日の早朝にかけ――』

「!?」

『県北部の漁港では今年初となる水揚げを記録した……』

「……ほっ」

何だよ、驚かすなよ……と言わんばかりの表情を浮かべ、安堵のため息を吐く宏。
その後もアナウンサーは何度か『昨夜……』から始まるニュースを読み上げたが、宏が起こした事件が伝えられる事はなかった。

『……以上、お昼のニュ――』

プツン

アナウンサーが頭を下げるのと同時に消されるTV。結局最後まで宏が恐れていた内容のニュースは流れず、そのまま次の番組に移行しようとしていた。

「……」

下を向いたまま、しばらく微動だにせずにいる宏。しかしその身体は次第に小刻みに震え、やがて彼は黄金のオーラでも放つように両手の拳を強く握り、何かの構えを取りながら叫び出す。

「うおっしゃー! 俺の勝ちィィ!」

グッと拳を突き上げ、宏は今にもエイドリアン的な名前を口にしそうなテンションで今の自分の感情を表現する。

「俺、勝つ。金、俺の。成功、作戦。俺、すごい!」

そして宏はなぜかカタコト日本語に。彼は一時的に言語能力を後退させるだけ興奮していた。そして喜んでいた。

……ちなみに宏は知らない、知る由もないのだが、あの夜間金庫に入れられた2つのカバン、ゲームセンターと高級飲み屋からの入金が事件として表に出なかった、警察の耳に入らなかったのにはそれぞれ以下の理由があった。

まずゲームセンターからの入金。宏は同封されていた書類に軽く目を通し、その金が経費か何かだと予想していたのだが、実はあの金は銀行に姿を現した人物、つまり店長が勘違いから入金したもの。
本人は過剰に余った釣銭の両替金だと思って送り返したものの、それは売り上げ上位店に渡される達成金。今まで一度も貰った事のない名目の金だったため、店長はその達成金という存在を知らず、間違いだと思って逆送金していた。
そのため、この金は宏が抜いたままにしていても気付かれず、ただ店長が損をしただけ。それも本人に損をした自覚がないため、実質的な被害者はゼロと言ってもいいだろう。

そして問題の高級飲み屋、300万円という入金が騒ぎにならなかった理由だが、あの金は出所が非常に複雑……というか、とても被害届けを出せるような綺麗な金ではなかったのだ。
実は高級飲み屋というのは表の顔、裏では宏が行なった作戦の非ではない犯罪行為に手を染めており、彼が手にしてしまった金は、社会的道義的に問題のある団体への上納金だった。
確かに300万というのは決して少ない額ではないのだが、この金を惜しむばかりに警察の介入を受け、知られてはいけない部分まで知られてしまうのは得策ではない。
この責任を取って高級車を運転していた男は身体の一部分を切ってしまう事になるのだが、これもまあ世間一般への被害や問題は生じない。

……以上の事から、宏は今回あれだけの犯罪を重ねたのにも関わらず、そしてあれだけの金額を手元に残したというのに、何らお咎めは無し。
まさに勝てば官軍、知らぬが仏である。

こうして宏は背負ってしまった借金を帳消しにするばかりか、今後の生活費の足しにするには十分すぎる程の金額を得た。
しかし何度も言うように、その金は決して褒められた方法で集められたものではない。
宏もそれは重々承知、「また金に困ったら入金ホイホイを……」という考えは捨て、決してもうこのような計画は立てないと心に誓う。

……本当によかった。

宏はそう思う。
勿論反省はしている。だが、もしあのまま借金を残したまま、誰にも言えずに1人で抱え込んでいたら、どうしようもない所まで追い詰められてしまったら、今回の非ではない凶悪犯罪に手を染めていたかもしれない。

その可能性を否定し切れない宏。だからこそ本当によかったと、金が手に入った事ではなく、人の道を完全に踏み外さなくてよかったと思っていた。

何も軽犯罪を容認する訳でも、窃盗行為を擁護する訳ではない。
しかし人を傷付るといった行為、その気があった/なかったを別にして命を奪うような行為に比べれば、まだ宏が今回やってしまった事は情状酌量の余地がなくもない。
今後一切の犯罪を行なわないという信念を得たのであれば、経緯は非常に問題があろうとも、人間のクズや畜生に成り下がるよりは断然マシである。

……そう、宏の運転する車にわざとぶつかり、前もって修理工場の人間と結託していた運転手に比べれば。

不思議なもので運や縁といったものは良くも悪くも巡り巡って来るもので、この数日後、宏に正規の倍額の修理費を請求した男は、とある事情により300万円の損失を出した男が運転する車にぶつかってしまう。
勿論それは修理費を請求するため、故意に起こしたものだったが、ぶつかった相手はそんな小悪党が相手にしていいような男ではなく、すぐに当たり屋行為である事を見抜かれた男は、然るべき報いを受けてしまう。

……それは宏が300万円を手にした日から一週間後のニュースである。
彼が住む街の埠頭から間違って転落したと思われる1台の車が発見され、中から1人の男性の遺体が発見されたのは――






                                    「自棄のエチュード」  END






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