「羽虫」



一般的に羽虫と呼ばれる小さな虫は光源が複数ある場合、クルクルと回りながら飛ぶ。
夏場、部屋の中に入ってきた虫がおかしな動きを見せる場合がそうで、蛍光灯やテレビ、もしくは同等の光量を持つものが部屋にある時、虫は自分の意思とは関係なく舞い続ける。

…そう、体長が数ミリもない羽虫ですら舞えるのだ。
例えそれが望まないもの、己の意思とは別であっても、クルクル、クルクルと舞えるのだ。

それなのに私は…



3年前、私はその当時自分の全てだと思っていたものを失った。幾つかあったそれらのものを同時に失った。
最初は何てことのない、些細な違和感。ごく稀に太ももがチクリと痛み、筋肉の張りを感じた。
だがそれも一晩寝るか、しばらく休んでいれば治っていた。だからその時はちょっとした疲れ、もしくは少し身体に無理を強いた反動程度のものだと捉えていた。
しばらくそんな状態が続いたある日、私は目覚めと共に違和感を、そして今までに感じたことのない種類の痛みを感じる事となる。

認めたくない…とも少し違う、目の前で起こっている事、自分の身体の異変を信じたくないという気持ち。現実から目を背ける、という行為はまさにこういう事を言うのだろう、と後になって実感した。

左足が死んでいた。
付け根部分から赤黒く変色し、思うように動かせない。
それどころかつま先の感覚は無く、触ってもそれが自分の身体の一部であることを感じることが出来なかった。

頭では判っている。
目からの情報により、今自分が触れているのが紛れもなく自分の足であるという事、それは自覚することが出来た。
しかし、感覚として、同じく自分のものである手から、指からその情報を引き出すことは出来なかった。
そして何より、その自分の足のようなものは温度を失い、ひどく不自然な程に冷たくなっていた。

原因は不明。
おそらく、という枕詞が付き、多くの医者は過度の運動、負担により筋肉の断裂が複数箇所で起こり、その筋肉ゆえに必要とする酸素及び血液量が常人より多く、普通では考えられない速度で足の壊死(えし)が起きてしまったのでは、と自分に告げた。
それは言い換えると私には治せない、原因は不明にしろ悪いのは身体の持ち主、つまり自分にあると言いたげ、責任転嫁以外の何者でもないように当時の自分は感じた。
そして私はその不自由な身体で暴れ、その行為がさらに多くのストレスを与え、さらに暴れた。

この時にはもう周囲は自分を一流のバレエダンサーとしてではなく、厄介な病人として、過去の栄光を盾に傍若無人っぷりを遺憾なく発揮している邪魔者として見られていた。
そして実際その通りだった。

自分で思うように動けない事の苦しさ、もどかしさというのはここまで大変なものなのか。それまで大きな怪我も病気も経験していなかった私は少なからずこのことでショックを受けた。

朝、ベッドから起きるのも一苦労。運悪く立てかけておいた松葉杖を倒してしまった日にはそこまで這っていかないといけない。
また、大した段数でもない階段が脅威となった。身体を横に向け、一段ずつ、ゆっくりと。以前は駆け上がるように、もしくは滑り降りるように昇り降りしていた事を考えると、その自分の姿が酷く情けないように思えてならなかった。

そして1週間後、私の左足は腐食が始まり、やむを得ず切断する事となった。手術は自分の意思により部分麻酔にしてもらい、文字通り自分を支えてくれた左足が身体を離れる瞬間を見ることにした。
医療器具とは思えない、工具のような刃で切られる自分の足。それはやはり見るものではなかった。
肉体的な痛みはある程度上限があり、また自分でも大体の予測が付く。
しかし、精神的な痛み、ダメージというのは読めないもので、私は予想を遥かに超えた計り知れないショックを受ける事となった。

それは妙な生々しさだけはある3流のホラー映画。
悲鳴は情けなく、吐く言葉も陳腐なもの。
血が噴出すでもなければ、断面から蛆(うじ)が沸くでもない、娯楽性に欠けた淡々としたもの。
私はこの時、作り話におけるこういったシーンは往々にして過剰演出、実際は興奮すら覚えない実につまらないものだということを知った。

それは冷静という概念では括ることの出来ない、恐ろしく突き放した見方。
まるで他人のプレイしているゲームを録画で見せられているような、現実感のひどく薄れた映像のよう。

…結果、この手術の後、私は人として持っておかねばならない、本来捨て去る事など出来ないはずの感情を失った。
いや、自ら破棄した。

そうしないと自我が崩壊する、そう思ったから。
精神衛生上の正当防衛、そう自分に言い聞かせていた。

だが、それは違った。
本心は、自分の奥深くにある心は、自分ですら気付いていない内に腐食していた。
それは自分の左足など比べ物にならない程に腐っていた。

…私は、自分でも気付かない内に人の心を捨て去り、人間の外見だけを残しただけの姿になっていた。
陳腐な表現を使うのであれば悪魔、もしくは鬼、畜生。

…私は、この理不尽でどうしようもなく納得のいかない感情を、負の感情を、自分が知っている、知らないを別に、年老いている、若いを別に、1人でも多くの人間に味わせようと考えるようになっていた。

それは悪魔の囁き?
いや、断じて否。
それは神からの啓示?
違う、この世に神などいない。

そう、それは全て自らの意思。
この腐食を始めた心が、今までひた隠しにしていた負の心が、私をそうさせたのだ。

次から次へと、誰かを自分のように。
休むことなく、誰かを自分のように。

そのためだけに、このことだけを糧に、私はリハビリを行い、義足を付け、以前と何ら変わらないまでの身体能力を手に入れた。
それらの努力を真っ当な事に使う、宛がうなどという事は微塵もなく、ただただ、ひたすらに本能の赴くがままに、私は自分以外の全てに「同じ」を求めて動いた。

…ただ、心のどこか、一部だけ腐食していない心の中で、この愚行を止めてくれる人間の存在を、そんな人間が現れるのを待っていながら…



…グシャ、という音。そして直後に漂う血の匂い。
もう幾度と無く聞き、幾度と無く嗅いだ、「事の最中」における感覚。
すでにそれらの事柄にいちいち反応することは無くなっていたが、それでも少なからず心臓の鼓動が大きくなり、瞳孔が開き、全身を打つ脈拍はその速さを上げていた。

…ここからだ、私はそう心の中で呟き、対象者へ一歩近付く。
踏み出す足は左足、それは自分の中で決めた数少ないルール、制約のようなもの。今から対象者はこの左足のように、自分がそうであったようになるのだ。
…さあ、私の想像を越える、今までなかった仕草を見せろ。聞いた事の無い叫びを、許しを乞う言葉を口にしろ。
もはや楽しみはこの一瞬、それまでのプロセスなど格段どうでもよくなっていた。
花は散り行く間際が美しい、蝋燭は消える瞬間に一番大きく火を上げる、要はそれと同じだ。
違うのはその対象が花でも蝋燭でもない、私と同じ人間だということ。
…そう、違うのはただそれだけだ。

…さあ、早く。さあ!
一歩、また一歩と対象者に近付く。
名前は知らない、勿論年齢も性格も出身も、自分を知っているかどうか、面識があるかどうかも知らない。知りたくもない。
また一歩、ここで私と対象者の距離はゼロになる。
…無言、か。
つまらない。実につまらない。
もう恐怖で言葉を失う姿は見飽きた。というかむしろ退屈を通り過ぎ、不快以外の何者でもなくなっていた。
…私は無言のまま、おもむろに手を伸ばす。
その先にあるのはすでに傷付き、その機能を失った左足。もはやこれ以上は何も生み出すものはないだろう、私はそう判断を下し、対象者の左足、付け根部分を掴んでは指を食い込ませる。

…悲鳴も実に陳腐、ありふれたもの…か。
つまらない。本当に不愉快だ。
自分がそうであった事を棚に上げ、私はそのままグッと力を入れ、「辿り着いた」事を確認して手を離す。
…もうこれでこの足は完全に死んだ。私と同じように壊死したのだ。
違う事と言ったら原因が不明ではない、くらいか。
私は自嘲気味に口元を緩ませ、そして今さっきまで対象者だった人間…今回は若い女性に顔を近付ける。

……、………。
そして耳元で一言二言囁き、相手が気を失った、もしくは精神が崩壊したのを確認してその場を立ち去る。
証拠はいくらでも残している。もしかしたら一部始終を目にしていた目撃者がいるかもしれない。実はすでに操作網が張られていて、路地を出たら完全に包囲されているかもしれない。
それでもよかった。それでも何ら困ることはなかった。
…だが今日もそれらの事柄は起きず、街は何事も無かったかのようにいつもの下らない喧騒に包まれていた。



翌日。
別に自分の行動を確認したい訳でも、何か優越感に浸りたい訳でもなかったが、自然と昨晩の事が記事なっていないか、新聞に目を通していた。
テーブルには安物の食パンと少し焦げ目のある目玉焼き、そして黒いだけで味も香りもないコーヒーのようなものがカップに入って載っていた。

特に食欲はない。が、日々の習慣というものはどんなに環境が変わろうと急にはなくならず、私の前には気が向いた時だけ口にする朝食が並んでいた。
確か昨日はパンを一口だけ、一昨日は目玉焼きの黄身をフォークで潰すだけ潰して終えた。それでよかった。完食する事など滅多に無い、それでも何ら困る事は無かった。

…見出しも、内容もつまらない。実に単調な作文だ。
私は自分が書かれた記事を一通り読み、いつもと同じ感想を抱いて新聞をたたむ。
…犯人は被害者を殴打した後、左足を…か。
それは間違いだ、正確には「被害者の左足のみを殴打」だ。
と、訂正。
そして誰に向けられるでもない嘲笑を一瞬浮かべ、すぐにいつもの表情へ。

…昨日で14…、いや、15人か。
大戦中の戦闘機乗りであればその数を愛機にでも記していただろうが、生憎私には愛機など持ち合わせていない。
かと言って腕に刺青のようなものを入れて数をカウントする気もさらさら持ちあわせていない。何よりそんな数などに興味は無かった。

…指紋採取、DNA鑑定、その他諸々の現場検証さえしていれば逮捕も不可能ではないはずなのだが。
ふとそんな事を考える。

捕まえて欲しい?
いやいや、まさか。
私は別に警察に挑戦状を叩きつけている訳でもないし、この一連の事件に感化された模倣犯の発生を望んでいる訳でもない。
どうでもいい、それが本音だろう。
例え今この瞬間、ドアを蹴破られて警官隊が突入してこようと構わない。
だからといって自らの存在を誇示する気は微塵もないし、今後盛大に事を起こす気もない。
全てを含め、どうでもいい。そんな感じだ。

…末期、だな。
両手を見つめ、次に左足を見つめる。
何かしら特別な感情は抱かない。そこにあるのは自分の腕と自分のものではない足があるだけ、それだけだ。

それにしても…
珍しく私は先の事を思い返し、しばし考えに耽る。
それは現場検証について、自分が残したであろう証拠の類についてだった。

私は決して小柄な体格ではない。だが非常に軽い。そして不当に足のサイズが小さい。
ダンサー、その中でもバレエダンサーに大足の人間は少ない。
基本的に幼い頃から習うことになるバレエというのは往々にして身体に優しくない事柄が多く、特に足に関しては自分も首を傾げざるを得ない点がある。
あのトゥシューズというのは非常に窮屈で、中国の纏足(てんそく)を髣髴とさせる歪んだ美意識が存在している、と自分は考える。
足が小さい事がイコールで美しいと結ばれる風習、習慣は当時から納得出来なかったが、それでも自分の意思とは別に、そしてその意見を尊重される事も取り合って貰う事も無かったため、私の足は成長を止められ、身長に対して歪な程小さいものとなってしまった。
恐らくこのサイズから推測されるであろう犯人の身長は、少なく見積もって私より20センチは背の低い人間。重心のかけ方や歩き方からも色々と推測出来るだろうが、バレエダンサーの歩き方は普通の人間と大きく異なるため、これもまた絞込み、推測を困難にするだろう。
そして対象者…、警察側は被害者と言うだろうが、それらに付けられた左足の傷及び握り潰した跡も頭を悩ませているに違いない。
ダンサーという職業に就いている人間は一見華奢なように見えるが、実は腕力にも筋力に優れている事が多い。
無駄に筋肉をつけるような真似はしないだけであって、握力を始めとする身体能力は並のプロスポーツ選手と比べても何ら遜色は無いのだ。

…以上の事を踏まえ、再度考察してみると、ここまで時間が経過しているのにも関わらず、犯人像がしっかり把握されてあらず、その証拠にニュースや新聞でも取り上げられていないのにも頷ける。
意図も打算も無かったが、結果として捜査陣を混乱させているのか…

因果なものだ、そう思う。
今、このような状態になって何もかもが有利に働く…、この世の中は何と上手く出来ているのだろう、そう感じずにはいられない。

絶対的なバランスの元、私達は生きている…いや、生かされているのか。
では私はそのバランスの中に、範疇に納まっている存在なのだろうか?
そんな事を、考える。
イレギュラーな存在、それも悪くない。
この世の摂理にすら縛られない道化もいいだろう。また、気付かずに生かされているだけであっても、それはそれで道化。私には相応しい姿ではなかろうか。

…さて。
滅多に起こさない回顧、特に何も生み出さない考察はこのくらいにして、と。
私はゆっくり立ち上がり、ほとんど手を付けていない朝食をシンクに捨てる。
そして盛大に、ざあざあと水を流し、虚ろな目でその水の行方を、時折跳ね返る水滴を見つめ、しばらくした後、蛇口を捻ることでその行為を終わらせた。

…さて。
もう一度、同じ言葉を繰り返し、私はキッチンを後にする。
近くにはやけに大きなゴミ袋。中にはこの部屋の正式な住人…と言えばいいのだろうか、とりあえず数日前まで私が座っていた場所で朝食を摂っていた男性がそこにいた。
…勿論左足を殺し、命は残したまま。



ギイィィィ。
私はわざと玄関のドアを開けたまま、全開にした状態でその場を後にする。
こうすれば数日中には異変に気付き、中の住人はギリギリの状態で発見されるだろう。
そのためにわざとテレビを付けっぱなしにした上、微かに動きのあるゴミ袋を外から見えるように置いたのだ。
これで生きている間に発見されなかったら運が悪かった、という事で彼には納得してもらいたい。
…彼もまた、つまらない反応とありふれた言動しか吐かなかったのだから。

そして私は数日間過ごした部屋を離れ、新しい仮住まいを、そして新たな対象者を探しに街へと消えていく。
…今回は少し離れた、馴染みの無い街で物探しをするのも悪くない、そう思いながら。



ガタンゴトン、ガタンゴトン…
電車の窓から流れる景色はもう都心のそれではなく、田舎と呼ぶに相応しい、緑色を基調とした色合いへと変わっていた。
…もう1時間も揺られれば多少大きな街に停まるだろう。そこで降りて適当にぶらつけば何か見つかるかもしれない、私はそんな楽天的な考えの下、これから降りるであろう名も知らない駅を目的地と決めた。
と、その時。

……。
ふと車両内の他の乗客に目を向けると、行儀よく座っている客の中に1名、やけにマナーの悪い輩が目に入ってきた。
両足をだらりと伸ばし、身体はそのまま床に滑り落ちるのではないかと思う程傾いけているその客は見た瞬間に社会不適合と判断されてもおかしくない、無駄に着飾った若者だった。
あちこちから見え隠れするアクセサリーの類は決してそれ単体では悪趣味ではないものの、その数と組み合わせは一般の人間にある種の嫌悪感を与えるに十分な視覚効果を与えていた。

…ピクリ、と眉が動く感覚。
もう一声、あと何かしら自分にとって気に食わない行動を取れば「対象者」だな。
私はその若者を横目で、しかし全く逸らすことなく凝視を始める。
この視線に気付き、私に対して何かアクションを起こせばそれはそれで、気付かなくとも目に付く動きがあれば捕捉。どちらにせよ私にとって不利益を被る事は無い。
…そう、相手にしてみれば不利益極まりないが、私にとっては何ら失うものは無いのだ。

何と自分に有利な状況なのだろう、と思う。
この生活を始めてからというもの、私に巡ってくるのは絶対的優位な条件、そして覆ることの無い結果のみ。
…ああ、どうしてこうも世の中というものは上手く出来ているのだろう。追う時には辿り着かず、立ち止まると向こうからやってくる…。
本当にこの世界は上手く出来ている。気が狂いそうになるくらい、よく出来ている、私はそう思わずにはいられなかった。

…っ、…!!
若者が急に大声を上げた。周囲に会話相手とおぼしき人間はいない。
…電話、か。
それにしても愚かな光景だ。無駄に大きな相槌、どうとでも取れる返答、等間隔で発せられる「マジで?」と「ヤバくね?」連呼。
それはまるで反芻(はんすう)のよう。だがその反芻は言葉を噛み砕き、消化することもなければ、何かしらの進展を見せることもない、誰がどう見ても非生産的なものだった。

…もう滑稽、では済まされないな。
私はポケットからゆっくりと左手を出し、何回か握っては開き、握っては開きを繰り返す。
準備は整った。後は何かしらのきっかけと同時に動き出す。
別に今すぐこちらから、相手が何もしなくとも行動を開始してもよかったが、それでは面白くない。
不意を付かなくとも達成出来るのだ、せめて理由の一つでも作ってやろう、またそれも一興だ。…まあ理由と言っても正当なものではないのだが。

…次の駅を告げるアナウンスが流れ、次第に電車はスピードを緩める。
そして車両はさほど大きくもないホームに停まり、さほど多くもない客を乗せ、再び走り出す。
私が乗っている車両にも数人の乗客があり、空いている席におのおの腰を下ろしていく…そんな時だった。

…、…!?
対象物の男がそれまで以上に騒ぎ出す。
見ると今乗って来た客が男の足につまずいたらしく、床に膝を付いていた。
この場合、どちらかが完全に悪いとは言えないが、やはり非は足を延ばしていた男にあるだろう。
しかし男はつまづいた客、サラリーマンらしき中年男性に罵声を浴びせ、散々脅し文句を吐いた後、侘びを言うよう迫る。そして「踏まれた足が痛い」を連呼、大して意味も判っていない「責任」やら「保障」という言葉を口にする。

…もう、いいだろう。
私は十分すぎるきっかけに立ち上がり、そのまま対象者と男性の元へと歩き出す。
電車は小さい駅ながらもまだ停車しており、発車する様子も見受けられない。

…好都合だ。
つかつかと歩きながら私はそう呟くと、わざともめている2人の間を通り抜け、その去り際に対象者の左足を踏みつける。
さりげなく、自然を装い、対象者が噛み付いてくるよう、あえて軽く。
そして案の定、対象者は怒りの矛先を私に向け、大声を上げながらすぐさま駆け寄ってくる。

…釣れた。
耳元で愚かな言葉を吐き続ける男の存在を確かめ、私はほんの少しだけ口元を緩ませる。
…別に正義の使者を気取ろうとは思わない。しかし、こういう愚物を捕捉すると何となくだが気分が良くなる。
罪滅ぼし、とはあまりにもかけ離れ、静粛、と言うにも語弊がある。だが、目障りな存在をこの手で沈静化するのは普段とはまた違った感情を抱くのも確か。
…対象者をこういった輩に絞るのも悪くないな、私は今にも殴りかかってきそうな、それでいて実際に手を出す勇気もない男を横目でチラリと見ながら車両を降り、無人となったホームに出る。
幸い、車両を待っていた客は全員乗り込み、さらに駅員の姿も見えない。
またしても私にとって有利な条件、そしてこの男にとっては絶望的な状況に。

…これで何人目か。いや、そんなことはどうでもいい。私は久し振りに加減も容赦もなく対象者を壊す事を決め、ここでようやく男の顔を見る。
昨晩とは少しだけ違う感情を胸に秘め、勤めて冷静で狡猾な印象を与えるべく、ゆっくりと、そして恐らくこの男が今まで味わった事のない畏怖の感情を与えるように。

……。
当然、男は無言に。
それもそのはず、今の私の目には普通の人間を萎縮させるに十分な凄みと威圧感が兼ね備えられている。
そこらの半端な極道よりも、訓練に毛が生えた程度の経験しかない軍人よりも、今の私が持つ眼力は鋭い。
目は死んでいる、しかし睨みを利かせる時に見せる眼力は逆に相手の目を殺す。

…どうした?
と、それだけ口する。
距離はそのまま、十分に時間を置いて。
その効果は覿面(てきめん)、先程までの威勢は消え失せ、男はわなわなと震え出す。その様子は「関わってはいけないものに関わってしまった」、「触れてはいけない領域に足を踏み入れてしまった」、そんな心境がよく判るものだった。

…つまらない。
この恐怖に慄き(おののき)、出来れば逃げ出したい、だが身体が思うように動かない…、そんな状態の人間はこれまで何回も見てきた。
…目新しさが無いのであれば、僅かな可能性に賭け、それを引き出すだけ。

…、……。
私は視線を一切逸らす事無く、男に向かって幾つかの「条件」を提示する。
それは強制、そして、絶対。
断る事を禁止したりはしない。だが、そんな注釈を入れずとも、今まで相手から拒否されることは無かった。
私が提示した条件はそれ程難しい事でもなければ、決して無理難題を強いている訳でもない。何てことのない、至って普通のお約束…、私の中ではその程度でしかない。

……。
ガクガク、そしてコクン。
男は青ざめながら、脂汗を流しながら頷くので精一杯。
先とは性質の異なる愚かさに多少愉快な気分になるが、それも瞬時に消えてしまう。飽きというのは非常に怖い物だ。
そして入れ替わりに訪れるはドス黒い感情。早く壊したい、すぐに事に移したい、そんな思いが私を支配する。
…だが、所詮その感情も一時的なもの。すぐにまた私の心は虚無に、がらんどうに。
判っている、十二分に判った上でこの身体を委ねているのだ、と。



…!!!!
押し殺した、いや、押し殺された悲鳴。そしてひしひしと伝わる恐怖感、絶望感。
もう彼も察しているのだろう、終わりだ、という事を。
…さあ、何を思う?
私は無表情のまま、何か考えがある訳でもない蹴りを数発、脛(すね)に連続して入れる。
…さあ、何を思う?
私に関わってしまった事に対する後悔か?それともこの不条理な状況を必死に整理しようとしているのか?
どちらにしろ、またそれ以外の思いを抱いているにしろ、そのお粗末な頭では到底この状況を理解するだけの回答には辿り着けまい。
…さあ、それでも考えろ。何かを感じ、その頭に問いかけろ。
また何発か蹴りを入れる。今度は踵(かかと)で、男の膝の皿を割らんと連続で。
…この世は不条理で構成され、人はその不条理にいつ巻き込まれるかも判らずに生きている。…それを知れ、そして壊れろ。
蹴りは続く。
何度目かの蹴りで乾いた音が鳴り、その直後、男は今まで上げたことのない滑稽な叫び声を上げる。

…さて、と。
私はここで一旦足の動きを止め、男の瞳を覗き込む。
既に焦点は定まっておらず、目は不自然なまでに充血していた。
顔は涙と唾液、そして胃からの逆流物にまみれ、まるで…というか完全に先程まで電車に乗っていた時とは別人になっていた。

…、……。
許しを乞う声が、微かに聞こえた。
では逆に問おう、何に対してそんなに必死に謝っているのだ、と。
…、……。
しかし男は私の問いかけに答えず、同じく許しを乞う言葉と泣き言を繰り返すばかり。

…つまらない、何てつまらないのだ。
私は無人の、薄汚れた便所の中で壊れゆく男を冷ややかに見つめ、珍しく感情を顕(あらわ)にして舌打ちをする。
…ッ!?
その私の様子に過剰反応、男はビクリと身体を震わせ、壁にぴたりと張り付いて距離を取ろうとする。

…もう、いい。
これ以上は何を望んでも無駄、私が求める反応を見せる事は無いだろう。
それは十分に判り切っていた事。それでも淡い淡い期待を込めていたが、もう限界だ。

……。
すう…、と手を伸ばし、私は男の左足付け根を掴む。そして躊躇いも無く、むしろ早くそうしたいと言わんばかりに太腿に5本の指を食い込ませていく。
…!!!!!!
悲鳴。
もう枯れ果てたと思っていたが、まだこれだけの声を出せたのか…
そんな予想外の反応に、私は指が「辿り着く」直前で動きを止め、一瞬だけ力を緩める。
…が、男が痛みの緩和に気付くか気付かないかの間に私はすぐさま力を入れ、そのまま一気に握り潰す。

ブチ、ブチ、という音。そして指に伝わる腱が切れる感覚。
それらはやはり私にとって珍しくもなければ、新鮮味にも欠けるもの。
もはや日常、と言えばいいのだろうか。
予想外の事に少しだけ反応を見せた私だったが、その熱はすぐに消え失せた。

…ずるずる、べたん。
泡を吹き、全身を痙攣させながら汚い床に落ちていく男。おそらく糞尿も漏らしているに違いない。
…よかったじゃないか、いい場所で壊れる事が出来て。
意識も、人として持たなければいけない何かも失ってしまった男にそう言い放ち、私は何事も無かったかのようにその場を離れる。
…小さくても駅は駅、この元対象者もすぐに発見されるだろう。
それまで少し眠っていればいい、見る夢はどんなものか知らないが、目覚めと共に訪れる現実より悪い夢はそうそう見れるものではない。

次の電車が来たのか、遠くから汽笛の音が聞こえてくる。
私はその電車に乗るべく、つい数十分前は2人で歩いてきたホームへの道を今後は1人で引き返す。
…私の見た目には何ら変化は無い。衣服の乱れも、汚れも見当たらない。
ホームに戻ると、そこには数人の客が電車を待っていた。
当然、というべきかどうなのか、とりあえず私の存在に対し、怪訝な顔つきをする者はいない。この時、私はすでに完全な一般人と化していた。

…いや、もしかしたら同類には判るかもしれないな。
そんな事を考える。
まあこの数人の中に私と同じような人種がいるとは考えられないが。
…そういえば。
車両がホームに姿を現し、減速に減速を重ねて停車。そしてワンテンポ置いた後、ドアが開く。
……。
降りてくる客はゼロ。私は数少ない他の客と同じように車両に乗り込み、腰を下ろすべく席を探す。
あまり混んではないが、出来ればなるべく他人と離れて座りたい。
そう思いながら素早く視線を左右に散らし、適当な席を見つけては確保する。

…やはり、そうそういるものではないな。
座るべき席は見つけた。しかし、先の私の行動、車両内を見渡すという行為は別の意味合いも持ち合わせていた。

それは私が乗車する間際にふと生じた疑問、「同類」の存在。
ホーム内ではその存在を確認出来なかった。
だが、もしかすると車内には…。そんな興味本位の元、私は席を探すのと同時に乗客全員の顔を、目を、そして周囲に纏う雰囲気を探っていた。
結果、該当者及びその疑いのある者はゼロ。
やはりこの特異な、特異と呼ばざるを得ない人種はそう簡単に見つからない。

…それにもしこの中にいたとしても、私に判別する能力があるかどうか…
私はそこで考えるのを止め、流れ始めた景色に意識と視線を移す。
所詮、今のは興味本位、暇つぶしの一環でしかないのだ。
…下らない。
先程の男もつまらなく、また下らないものだったが、それと何ら差がないではないか。

…それに、だ。
もし同種を発見したところで、その存在が明らかになったところで何が出来る?
握手でも求めるか?お互いそれまでの経緯を話すか?苦労や悩みでも共有するのか?

……。
フッ、と笑う。
それは自嘲にも似た、何かを払拭するような笑い。

どうでもいいのだ。
もう、何度と無く呟いた言葉。

何か未練があるでもない、守りたい人間も、信念めいたものも、今の私には無い。
そして、これから持つ事もなければ、自ら進んで望むような事態にもならないだろう。

望んだり、守ったり、突き通すといった所作は”生きた”人間のする事。
…いや、すべき事、と言えばいいのか。
どちらにしろ、死んだも等しいと自らをそう思っている私には関係の無い、接点すら無い事。

……。
私はそこで目を閉じ、規則正しく揺れ、同じく規則正しく鳴るガタンゴトンという音に聞き入る事に。
…意外と心地良いもの、かもしれないな。
今まで電車の揺れやレールの継ぎ目を通過する音、そして時折聞こえる汽笛の音など気にも留めた事が無かった私だが、こうして生活環境が、価値観の類が一変してからは捉え方が変わったように思える。

……。
フッ、と笑う。やはりその笑い方は自嘲。
おかしなものだ、と思う。
普通であればこういう感情、心変わりはもっと穏かな変化を見せた時に感じるものではないか。
それがどうだ、私は人であることを捨て、ある種否定し、無計画で非生産的な破壊活動としか映らないであろう日々を送っているというのに、このような感情を抱いてしまっている。

それは私が今こうして送っている生活こそが安息、本質に近いから思える事なのか。それともこの腐食の進んだ頭が、脳がそう思わせているのか。

…。
……。
ふう、と息をひとつ。

結局、考えているな。
どうでもいい、そう何度も言ったではないか。
答えなど出ない、そもそも出す気など無かったではないか。
それなのに何故、こうして考えを巡らせ、何かしらの回答めいた物を出そうとする?

あまりに滑稽ではないか、それは私が望んだ、甘んじた道化ですらないではないか。
私はただ、単調な行動を繰り返し、必要最低限の行動理念の元、ひたすらに目に入った気に食わぬ存在を、時としてそれすら関係なく、この手で壊しさえしていればいいのだ。
どうして、それが判らぬというのだ私は。
そこまで私は頭が不自由な存在だとでも言うのか。
まだ、今の生活において不必要でしかない人間としての何たるかを持ち合わせているとでも言うのだろうか。

…。
繰り返される、望みもしない自問自答。
しかし不思議と嫌な気分にはならない。
何かドス黒いものが込み上げようとも構わない、むしろそうなると思っていたのだが、それは無かった。

不思議なものだ。
全く持ってよく判らない。
頭が良くなりすぎた狼は、こんな事を思うのだろうか。
頭の良くなりすぎた鮫は、そんな事を思いながら泳ぎ続けるのだろうか。

それとも。
頭の悪くなりすぎた人間は、こんな事ばかり考えるのだろうか。
頭の思考回路どうしようもなくおかしくなってしまった人間は、一体どんな事を考えれば「正常」なのだろうか。

…電車は変わらず走り続け、規則正しい揺れと音を変わらず私に提供している。
それはどこか、ひどく奇妙で不自然な。
規則正しさの中にある、何とも言えない違和感。そして一定の旋律の中にある不協和音。
そう表記すればいいのだろうか、私はこの短い間に先程とは全く違う印象を、真逆とも言える思いをこの揺れと音に感じずにはいられなくなっていた。

…いいのだ、と。
これでいい、この得体の知れない変化こそ、何とも言えない不快感に絶えず付き纏われる感覚こそ、私にとってお似合い。おあつらえ向き。

…ガタンゴトン、ガタンゴトンと鳴る電車の中、私は次第に高い人工物が目立つようになった外の景色を確認し、次の駅で降りる事を決めた。
…この街では、少し派手にやろうか。
そう、思いながら。



喧騒は大きく、そして厚く。
私が降り立った街は思っていた以上に大きく、またそろそろ夕方を迎える時間帯という事もあり、周囲には人やら何やらが溢れていた。

その中にある歪な存在、それが私。
…さあ、そのひねくれた存在、イレギュラーな者よ、存分に周囲を壊すがいい。
私は私が無理矢理創り上げた神気取りな私を前面に出し、操られている様態で街の中を歩き続ける。
「対象者」は誰でもいい。選り好みは無い。
周囲に悟られないよう、最低限のカモフラージュを施し、私は目つきを捕食者のそれに移行する。
しかし、発する雰囲気はあからさまに、ひしひしと。
その効果は意外と大きく、私の放つ異常な空気は不思議と周囲から一定の距離を生んでいた。

…面白い。
人間も動物、まだ何か異常なものを察するだけの本能は持ち合わせていたのか。
私は正確とも思える、異質を避けるために生じた円を感じながら薄ら笑う。

…さて、歩きやすいのはいいが、これでは何かと支障がある。
あまりに露骨な空気を発するのはやめにしよう。
そうだ、そこの路地に入ると同時に気配を絶とう。そうすれば一気に周囲は対象者候補だらけだ。

私は見るからに怪しげな、どこかしら負の匂いが漂う路地を見つけ、迷わずその方向へと進んでいく。
一見すると暗く、寂れた印象。だがそれは見せかけ。そんな印象を受ける路地は思った通りの店があり、思った通りの人種が闊歩(かっぽ)していた。

自ら、己の意思により、あえてこの形態を選んだであろう路地。
気配を解いた私の周りには早くも数人の人間が近付いていた。

…、…?
……、……!
吐く言葉は違うが、大筋の内容はどれも同じ。
お兄さん、1人?
いい娘、揃ってるよ。
聞こえてくるのはそんな言葉。しかも卑しい顔と息遣い付きで。

…まさかこんな誘い文句がまだ使われているとは。
過去の私はこういった通りを歩く事が無かったため、先の言葉は作り物、ブラウン管やスクリーンの中、もしくは舞台の上で使われているものだとばかり思っていた。
しかし現実は非現実よりも白々しく、ひどく薄っぺらなものだった。
……。
当然、私はそれらの言葉を受け流し、ただ正面を見据えたまま歩くだけ。
…ッ!…!?
するとその中の1人が態度を豹変させ、その顔と同等、いやそれ以上に醜い言葉を浴びせかけてくる。

…まさかこんなベタな脅しをかけてくる輩がいるとは。
もはやここまで来ると怒りの感情など沸かず、ただただ呆れるばかり。私は早々にこの愚物から離れようと、少し歩く速度を上げる。
その時だった。
…ッ!?
怒鳴り声。そして直後にバシッ!という音。
見ると愚物は私の左足に蹴りを入れていた。そして逃げるな的な言葉を立て続けに並べ、顔を近づけて睨みを利かせてくる。
……。
本人としては威圧しているつもりだろうが、この程度の眼力では私を止める事は出来ない。
だが、私は立ち止まる。
決して萎縮した訳ではない。その証拠に私はゆっくりと相手の目を見返し、瞬時に視線を鋭いそれに変え、ドス黒い負の感情をぶつける。
…そう、この愚物はやってはいけない事をしてしまったのだ。

…ッ!
その瞬間、愚物は大きく後ろに腰を逸らし、そのまま後ずさり。そして無様に尻餅をつき、口元をわなわなと震えさせる。
…ッ?
…、…!?
愚物のただならぬ様子に周囲の連中が騒ぎ出す。しかし、今の段階では何がどうなったのが判らず、中には薄ら笑いを浮かべているもの、続いて私に喰ってかかろうとする者もいた。
…数は…全員で4人か。
十分に可能な数だ、私はそう判断し、周囲の人間全てを対象者に決定。
場所が場所だけに人通りも多いが、恐らくこの手の揉め事は日常茶飯事だろう。
ならば配慮は無用、さっさと片付けてしまおう。

…。
私は蹴られた左足を軽くさすりながら倒れている輩の前に立つ。
そして相手が立ち上がろうと腰を上げた瞬間、素早く手を伸ばして胸元を掴む
…ッ!?
ダダダダダッ!
愚物が驚いた表情を浮かべ、悲鳴を上げようとする。しかしそれより早く、私は相手の身体を宙に浮かべたまま全力で走り出し、そのまま勢いを付けて近くの電柱に叩きつける。
ドムッ!
……ッ!!!!!
鈍い衝撃音、続いて大きな叫び声。
おそらく今ので背骨が数ヶ所折れたはずだ。叫び声を上げるのは逆効果、自分の声でさらに激痛が走るだろう。
……。
しかし、私はその手を、その動きを止めようとはしない。
…ガシッ、ダダダダダダッ!
今度は電柱ではなく、道沿いにある店の壁目がけて。
ドムッ!!
…ッ!!!!
先は背中を中心に狙ったが、今度は後頭部を的確に。
…大声を上げるのは得策ではないのだが。
私はそう呟きながら愚物に目を向ける。
すでに人としての覇気、生命力のようなものは感じられず、吐く息もどこかおかしい。
…肺に損傷、折れた背骨でも刺さったか。
それでは十分に呼吸も出来ないだろう。…さあ、無様で滑稽な姿を晒すがいい。
……。
私は愚物を掴んでいた手を離し、それまで奪っていた動きの自由を解く。
…どうした、これで自由に動けるはずだ。立ち上がるもいいだろう、殴りかかってくるもいいだろう。…さあ、早く動け。
睨むとは違う、ただただ冷徹な眼を向ける私。だが、その先にある愚物は私の意向とは裏腹に、一向に動こうとしない。

…。
軽く舌打ち。…実に不愉快だ。
……ッ、……!
愚物は泣き叫ぶばかりでその場から動こうとしない。肉体的なダメージによって動けないのか、それとも精神的なものか。
…まあどちらでもいい。動かないにしろ動けないにしろ、もうこの対象物には飽きた。
さて、左足を壊すか。
私はゆっくり愚物に近付き、す…っと腰を下ろす。そして怯える目と息遣いをしばし堪能した後、左足に手を伸ばす。
…私の足を蹴った分、いつもより念入りにやらねば。
ボキゴキ…と指を鳴らし、さらに相手に恐怖心を与える。
引きつる表情、異常なまでの脂汗、震える口から漏れる意味不明の言葉…、少しの素振りで効果は絶大だった。
…何をそこまで怯えているのだ?私はただ拳を握る動作を取っただけではないか。
心の中で大きく、実際の表情としてはごくごく小さく、私は冷酷かつ卑下た笑いを浮かべ、対象者の左足にそっと触れる。
あえてゆっくり、まるで大事なものを扱うかのように手を付け、ゆっくりと握るはアキレス腱。いつもであれば太腿付近から一気に壊すのだが、今回はそれ以上に時間をかけ、より多くの苦しみと痛みを与えてから壊そうと考えていた。

グイッ、…ミシミシ、ギリギリ…
肉が、そして筋が軋み、普通に生活していればまず聞くことの無い音が鳴る。
…。
私は握る力を維持したまま、これ以上食い込ませるでもなく、かと言って緩めるでもなく、しばらく動きを止める。
…ッ!!、ッ!!!!
悲鳴を上げ、もがき苦しむ対象者。左足を押さえられ、不自由な状態のまま地べたをのた打ち回る姿はなかなかに無様で、短い時間ではあるが視聴に耐え得るだけの面白さがあった。
…が。
まだ周囲には私が「対象者」と定めた人間が残っている。出来ればこの愚物だけは時間をかけて壊したいのだが、この状況でそれを行うのは得策とは言えない。
…どうやら少し視野が狭まっていたようだ。
私は先程まで描いていたプランを改め、この場にいる全ての対象者を手早く、そして効率的に片付けていく事にした。

…残念だ。
幸いにも残りの対象者は全員、この異様な状況に正常な思考が働かず、ただただその場に立ちすくんでいる。
しかし、この状況がいつまでも続くとは限らない。誰か1人が我に帰り、そのはずみで散り散りに逃げられたりしても厄介だ。
…残念だ。
私はもう一度そう呟き、握っていた腕に力を込める。
ググ……、パキィン!
乾いた、例えるならガラスが割れたような音が周囲に響く。そして次の瞬間、狂ったような対象者の悲鳴が。
…アキレス腱が切れた、か。
いい音だ。私はわずかに瞼を閉じ、その音の余韻に浸り、そしてその音を奏でた部位を改めて握り潰す。
当然そこからはもう何も音は出ない。しかし腱を切断され、異常なまでに柔らかくなったその部位は、あの脆くも儚い音と同様に、余韻に浸るだけの価値があった。
…〜ッ!!!!
腱は切れていようと、まだ一部の神経は通っていたらしく、私の指の動きに合わせ、さらに大きな悲鳴を上げる対象者。

…握り心地は申し分ない。だが、悲鳴は耳障りだ。
私は珍しく拳を対象者の顎に繰り出し、強制的に沈黙させる。
普段であれば左足以外にはまず手を出さないのだが、今は雑音を大音量で聞く気分ではなかった。

…さて。
脛から下はもう十分に壊した。後は腿を数ヶ所分断させて終わりにしよう。
そして残りの対象者は一気に片付けてしまおう、私は軽く周囲を見渡す動作と腿を握り潰す動作を同時に行い、この状況が異常であることを改めて残り対象者の脳内に植え付ける。
…よし、これでもう正常な思考は働かない。彼らは生きながらにして糸の切れた操り人形と化したのだ。
私は静かに立ち上がり、まず一番近い位置にいた中年の男に向かって走り出す。
…ッ!?
新たな対象者は自分に矛先が向けられた事を察し、その醜く弛んだ身体を萎縮させる。
が、男が見せた行動はそれだけ。恐らくこの後しばらく時間を与えても行動に変化は無かっただろうが、私は一切の時間を与えず、そのまま男の足先を全力で踏みつける。

ダンッ、そしてグニッ。続いてグリグリ…という音。
私の踵(かかと)は的確に男の足を、靴の中心を捉える。
鋭く、そして早く繰り出された踵は男の革靴を歪に変形させ、足の肉と骨を見事に潰す。
……。
あまりの痛さに、もしくはショックで声を上げることすら出来ない男。
だが革靴からじんわりと液体が滲み出し、それが赤黒い血であることが見て取れた瞬間、男は地鳴りのような声を上げた。
…ほう、珍しい反応だな。
低い音域での悲鳴というのはあまり聞いていない。私は興味を示す合図である眉が動くのを自覚し、さらに連続で同じ箇所を同じ力量で踏みつける。
…、……。
今度は歯をギリギリと食いしばり、男は首に青筋を立てて声を押し殺す。
これもまたあまり前例のない反応。何に対しての我慢、意思表示なのかは知らないが、少なくとも先の愚物より楽しめることは確かだった。

スッ…、ビュンッ!
私はその場から半歩下がり、上体を低く構えて男の脛を蹴り付ける。
横へ薙ぎ倒すでもなく、そのまま上方へ蹴り上げるでもない、体重を乗せた正面から押し出す形の蹴りが当たる。
するとそのインパクトの刹那、脛の骨が打点を中心に複雑に砕けていくであろう音が鳴り響き、男はそのままグラリと横に倒れていく。
…ガシッ
しかし私はそのまま安易に倒れる事を許さず、首元を掴んではその場に立たせる。そして今度は後方から、脹脛(ふくらはぎ)を潰すように素早い蹴りを数発入れる。

シュッ、バシッ!
ヒュンッ、バチィィ!
蹴りが一発入る毎に内出血が広がり、その度に全身を痙攣させる男。
だがここでも大きな悲鳴を上げることは無く、異様な息遣いのまま、涙と脂汗を流すだけだった。
……。
私はその男の反応を冷静に見つめつつ、打点を脹脛から少し上げ、今度は膝の真裏に爪先を差し込むように蹴り付ける。
そしてそのまま太腿へとシフトしていき、最後に左足と上半身を切り離さんとする勢いで斜め上方から全力で蹴りを入れる。

…、……。
男は短く、吐き出すように声を漏らし、地面に倒れていく。
ピクピクと全身を小刻みに痙攣させる様子を見ながら、私は一時的に昂ぶっていた感情が次第に醒めていく感覚に身を委ねていた。

……。
私はこの醒めていく過程で感じる何とも言えない感覚、全身から何かが収束していく状態が好きではなかった。
まやかしなれど、自らが差し向けたものなれど、あの狂気こそ正常な世界に、私はずっとその身を置いていたかった。

…ッ、
と、その時、後方から漏れるような声が聞こえ、己の内側に向けられていた思考が外側に向けられる。
…そうだ、まだ対象者は残っていたのだ。
なるべく手早く、効率的に。何度もそう思っていたはずが、どうしてこうも忘れてしまうのか。私は完全に抵抗する気の失せた、ただただその場で怯えるだけの残り2人の対象者を見据えながら、そんなことを考える。
…答えは簡単、例え時間がかかり、状況が好ましくない方面に展開しようとも、困るという感覚がひどく薄れているからだ。

どうでもいい。
何度も、何度も心の中で呟き、実際に声に出しても言っているが、それが今の私の全てだった。
存在も、目的も、主義主張も、決して何も無い訳ではないが、どうでもいい。
無気力世界においての興味本位の気力、とでも言えばいいのか。マイナス域におけるプラス寄りの座標など、所詮マイナスでしかないのだ。

…さて。
私は思考を切り替え、残りの対象者を壊す事に意識を向ける。
まずは私から見て右側、2人固まっている内の手前に位置している方に焦点を定め、拳を振り上げながら一気に近付く。
タンッ、という軽快な地面を蹴る音が鳴り、瞬時に対象者の目の前に立ち塞がる私。
…、…!!
ワンテンポ遅れで発せられる、悲壮感と絶望感が混じった悲鳴。
その行動を、そしてその行動が意味するものを認識するまで少し時間を必要としたのだろう。

…残念だな。
もう少し思考能力が落ちていたら、正常な状況判断が出来なくなっていたら、これから己の身に起こるものがどういうものなのか、気付かずに済んだのに。
悪戯に、中途半端に覚える恐怖感ほど嫌なものはないだろう。私はそんな事を思いながらも、だからといって何をするでもなく、そのまま拳を振り下ろす。

ズバン!
まずは足の付け根、ズボンの前ポケット付近に重いストレートを一発。
そして続けざまに短い間合いからラッシュを浴びせる。
ドムッ、ズガッ、ミシッ…!
対象者は特に筋力に優れている訳ではなかったが、打点はどれも身体の硬い部位のため、鈍く重い音が鳴る。

…ッ!!、…!!
重い打撃音に反し、対象者の上げる悲鳴はやや甲高いものだった。
しかし、その苦痛に満ちながらも、必死に耐えている素振りが見て取れる反応はなかなかで、私は拳を打ち込む度に口元が釣り上がっていくのを感じていた。

バシッ!、ゴガッ!
先の対象者とはうって変わり、一点のみを集中して殴りつける私。
身体の他の部分は何ら損傷していないが、唯一の損傷部分は見るも無残な状態に…。今回の対象者にはそういう壊れ方を与えるつもりでいた。
そして20発近くも殴っただろうか、とうとう両足のバランス感覚がおかしくなり、対象者は上体を維持することが出来なくなり、斜め後方にバタンと倒れていった。

……。
私は追い討ちをかけるでもなく、すぐさま次の対象者に目を向け、つかつかと近付いていく。
特に威圧感を与えるでもなく、相手に何かしらのミスリードを誘発するでもなく、ただ普通に歩いていく私。
…ッ、〜ッ!!
だが対象者は恐怖のあまりか自己防衛の本能が働いたのか、珍しく対峙するという選択肢を取り、狂ったようにではあるが、私に向かって殴りかかってくる。

…この状況において刃向かうだけの気力、精神力があるのか。
スッ…
私は対象者の拳を軽くかわし、冷静にそう判断する。そして今の一撃で相手の力量をあらかた把握し、反撃に転じる素振りを見せる。
…ッ!!
すると相手はそれまでの拳を主体とした構えを変え、多少は間合いを取れると踏んだのか、蹴りを繰り出してきた。
ヒュンッ、ガチッ!
…ッ!?
しかしその判断は間違い、浅はかなものでしかなかった。
私は相手のミドルキックを難なく掴み、その足が左足であることを確認すると、そのまま両手で抱え込み、腰を鋭く、そして全力で振り切る。

ブンッ、ゴキバキボキィ!!
その瞬間、対象者の左足各所から異常な音が鳴り響き、少なくとも踝(くるぶし)付近と脛、そして腿と足の付け根の4箇所は骨がバラバラに砕けた感触が伝わってくる。
振り切る力だけでなく、捻りの力も加えられたため、足にかかる負担が倍増したのだろう。その結果、対象者の足はその様々な力に耐え切れず、各所で複雑骨折、筋肉及び筋の分断を引き起こしてしまったのだ。

…ッ!!!!!、〜〜〜〜ッ!!!!
複数の箇所から、複数の異なる痛みを同時に受ける対象者。その声は叫びというよりも嗚咽に近く、すでに目の焦点は定まっていなかった。
〜、〜ッ
世辞にも綺麗とは言えない地面に倒れ、対象者は呻き声を上げながら無様に転がり続ける。
それはもう立ち上がることはおろか、痛みのショックで精神を正常に保つことすら危うい状態になっていた。

……。
私は眼下に転がる対象者を、そして近くで倒れている他の対象者に目を向け、ふうと息を吐いては軽く頷く。
すでに周囲は一定の空間を置いて人ごみに包まれていたが、私がおもむろに視線をそちらに移すと、その視界に入った部分だけは誰もいなくなり、見事に道が形成された。
…まるでモーゼの十戒だな。
その光景に思わずそんなことを考え、半ば呆れたように鼻を鳴らして笑う。

……。
私はその自然と出来た道をつかつかと歩き、そのまま何事の無かったように、通りの奥へと進んでいく。
しばらくしたところで背後から慌しい喧騒が聞こえてきたが、私の後を追ってくるような輩はいなかった。



2週間後。
あれだけ多くの人がいる前で事を起こしたというのに、私は以前と変わらず、普通に街を歩ける身のままだった。
勿論ニュースや新聞では大きく取り上げられ、私の背格好から服装、そして似顔絵までもが公開されたが、それでも私は未だ逮捕という形で自由を奪われる事は無かった。

…が。
あれは歓楽街の件から3日程経った辺りだったろうか、その日も私は適当に対象者を定めては壊す行為をしていたのだが、事の最中の動きにどこか違和感があるのを覚えた。
それは初めての感覚でなく、以前、それも結構前に一度体感していた。
思い出したくもないその以前の体験、それは私が全てを失い、今の姿となる直接のきっかけとなった左足の痛みの前兆そのものであった。

初めは些細な、それでいて気に留める必要も無い程度の痛み、そして筋肉の張り。
いくら以前と同じように動けるからといっても、さすがに義足であれだけの運動をすれば、当然右足には相当の負担がかかる。
恐らくそうなるであろう、という予感めいたもの、本能がそう察している部分はあった。だが、それでも私はあえて以前と同じ動きで、左足を庇うような動きを取ること無く生活することを選んだ。
その事について後悔は一切無い。そして今こうして動けなくなり、やり残したと思う事も、無い。

…さて、どうしたものか。
視線は正面を向いたまま、意識はどこかに飛んだまま、漠然と先の行動について考える。
すでに右足は赤紫に変色し、筋肉は異常な弛緩を見せていた。
当然痛みもあったが、今はもうその感覚はない。元々身体が発する痛みというのは警告のようなもので、痛みを感じさせる事でその箇所の異常に気付かせたり、休ませたりさせるための信号である。
その信号が機能しなくなった、身体が痛みを発しなくなったと言うことは、もうその箇所は切り捨てられたも同然、復帰や回復の望みは無いと判断したからに他ならない。
己の身体だけあって、その判断は実に的確だった。事実、痛みを感じなくなった翌日からは立つことすら厄介になり、また血流が止まったことにより、足の先から細胞が死んでいくのが見て取れた。

…そう、私は逮捕という形で自由を奪われることは無かったが、こうして残った右足が死につつある事で、結果的に自由を奪われた身となっていた。

皮肉なものだな、と思う。
別に掴まることに対しては何とも思っていなかったが、まさかこれほどまでに早く右足が死ぬとは思っていなかった。
少なくともあと半年、それくらいは持ってくれるだろう…と考えていたのだが、それは何の根拠も無い計算に基づくものだったと気付かされた。

結局、私が左足を失い、今に至るまでに壊した、「同じ」にした人数は50人強。それが多いと考えるか、それとも少ないと考えるかは私以外の誰かが、客観的に見れる誰かがそれぞれ答えを出せばいい。
私は何も人数にこだわって動いていた訳ではないし、ノルマを課して動いた日は一日として無い。
何度も言うが、それらは全てどうでもいいのだ。
社会に対して訴えることも無ければ、私の主義主張を対象者に押し付ける気もさらさら無い。自己の存在を誇示するでもなく、狂気を演じるという思惑もそこには無かった。
そもそも今の私に大義名分や必要性などは無用、ただただ湧き出した欲求とドス黒い感情に身を任せるだけが全てだった。

……。
ふと周囲を見渡してみる。
そろそろ夜明けを迎える街は少しずつその機能を果たそうと動き出していた。
今、私は大きな街の中、大きな駅の裏手にある公園にいる。
本来であれば入っていけない芝生の中、大きな木にもたれかかり、通りかかる人間からは極力両足は見えないように。
空腹感はそれほど感じず、そして今までの事に対する達成感も、満足感も感じることはなく。
ただ、淡々とこれから訪れるであろう、間違いなく忍び寄ってきている己の死を考えながら、私は大きく息を吐いては空気を肺へと送り込む。

…。
と、その時、かすかな音が私の耳に入ってきた。
ごくごく近い距離から聞こえてくるその音は格段珍しいものではなく、聞き覚えのあるもの。
……。
ああ、虫か。
私はその小さな音を耳で、そして目で追い、その音の正体を突き止める。
視界に入ってきたのはとても小さな虫。公園の茂みにいれば嫌でもまとわりつかれる羽虫だった。

……。
その微かながらもしっかりと聞こえる羽音は不思議と心地良く、また妙な力強さを感じた。

羽虫はしばらく私の周りを飛んでいたが、やがて少しその高度を上げ、近くの街灯へと飛んでいく。
すでにその街灯には無数の羽虫が群がっており、私の周囲を飛んでいた羽虫もその中へと混じっていく。
ふと視線を羽虫から街灯に向けると、その街灯は光源を2つ持ち、無数の羽虫はそのどちらかの光源を中心に飛び回っていた。

が、中には中途半端な位置で飛び回っている羽虫の存在もあり、どちらか一方の光源に向かうでもなく、その両方の光に誘われ、惑わされるようにクルクルとその場を飛んでいた。
それはまるで踊っている様。しかしその踊りは自らの意思とは別の、半ば強制的なもの。

………。
ふと気付くと、光に翻弄されて踊る羽虫の姿に以前の自分を重ね、投影している私がそこにいた。

光源に向かって飛んでは踊り続ける羽虫、それは言い換えるならば、置き換えるならば、私によく似たものだった。
…が、私は私であり、同じく羽虫は羽虫でしかない。
その羽虫を見て、クルクルと踊る様を見て、私はそれまでの行動を正しいや間違いのような言葉で括ることはしなかった。

光源に向かって飛ぶ事が正しいことなのか、光源を失い、異常とも取れる行動に身を任せたことが正しか。
光源、私、羽虫、踊り…、全て置き換えて例える事が可能な語句なれど、やはり正解や間違いという概念が入ると括ることは叶わない。そして意味がない。

私は私でしかなく、いくらその状況が、与えられたか落とされたかは知らない状況が、光源に向かって飛び、踊るように見える羽虫と似ていようと、それは全くの別物。
私は羽虫ではなく、羽虫になりたいとも思わない。

この短い間、左足を失ってからの生活はどんなものだったか。
それは考えるだけの意味もなければ、必要性も無い。
私がそう感じるのだ、そう思ってしまっているのだ。
楽しいや虚しい、悲しいといった感情はあったが、それは一瞬、わずかな時間だけ現れるもの。決してそれらの感情に染まる事はなかった。

そして同じく、同様に。
何が正しくて何が間違っているか、そんな事を考えた時間は一瞬たりとも存在しなかった。

それでいい。
そう、それでいいのだ。

……。
意識が薄らぐ中、それでも私は羽虫になることは無く、私のままを維持していた。

一般的に羽虫と呼ばれる小さな虫は光源が複数ある場合、クルクルと回りながら飛ぶ。
夏場、部屋の中に入ってきた虫がおかしな動きを見せる場合がそうで、蛍光灯やテレビ、もしくは同等の光量をもつものが部屋にある時、虫は自分の意思とは関係なく舞い続ける。

…そう、体長が数ミリでしかない羽虫ですら舞えるのだ。
例えそれが望まないもの、己の意思とは別であっても、クルクル、クルクルと舞えるのだ。

だが、それだけの話。たったそれだけの話。

それなのに私は…、そう付け加えていた以前の私はもういない。
今ここにいるのは、己の命を終えようとしつつも確固たる我を形成し、それでいて正否を求めぬ存在。

短かくも突飛、非日常を日常的に過ごした事は無駄ではなく、むしろ私を私として捉える事が叶う結果に至った。

得てして人生は、などと言う気は毛頭無い。
ただ生きて、ただ死んでいく事に美徳や美学を感じることも無い。

それでも、そんな中でも私が唯一、この身を挺して言えるのは。
私は私であり、羽虫ではなかった、それだけかもしれない。




                                              「羽虫」 END






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