・登場人物
植草 慎一(うえくさ しんいち)
少々ひねくれた言動が目立つが、根は真面目で真っ直ぐな性格。
普段は周囲への気配りを欠かさないが、思い立ったら一直線な面も。


永野 紗枝(ながの さえ)
慎一の中学時代のクラスメート。明るく、非常にノリの良い性格。
端正な顔付きでスタイルも抜群なのだが、本人にその自覚はない。








カタカタ…タン

カチャッ、カタカタカタ…

…タン

慎一
「…ふう」

大きく息を吐き、キーボードを打つ手を止める。
そしてゆっくりまぶたを閉じ、ガクリとうながれる。

慎一
「やっと終わった…」

口から何か魂的なものが出てきそうな情けない声を上げ、
俺は再び大きく息を吐き、同時に大きく背中を伸ばす。

ボキゴキボキ…

慎一
「オーウ、オオーウ。…イエス、イエース!」

豪快に鳴る骨の音、そして同時に訪れる心地よい痛みに、
思わず声をあげてしまう。

ちなみに今のは以前よく流れていたシャンプーのCMのマネ。
…アレ、結構好きだったなあ。

慎一
「さて、一人芝居はこの辺にしといて…と」

そう言って俺は今まで向き合っていたモニタに視線を戻し、
出来上がった書類にミスがないか、軽く目を通していく。

慎一
「…うん、大丈夫だな」

パッと見たところ、誤字や脱字の類は見当たらない。
俺は満足そうに頷き、文書データを保存してファイルを閉じる。

慎一
「はい、これにてお仕事終了。お疲れ様でした〜」

ペコリと頭を下げ、誰に向けられるでもない挨拶をする俺。
この一言で完全に頭の中は休息モードへと切り替わる。

慎一
「あ〜あ、結局いつものように仕事を家に持ち帰っちゃった…って、
うわ、もうこんな時間かよ」

ふと時計を見ると、時刻はもう少しで11時になろうとしていた。
…ええっと、確か帰ってきてからすぐ机に向かったから…

慎一
「今日も1日の半分以上を仕事に費やした、ってことか。
別にオレ、そんな仕事大好き人間って訳でもないんだけどなあ…」

俺はそうグチをこぼしながらイスの背にもたれかかり、
そのままボケ〜っと天井を見上げる。

目に映るのは蛍光灯と明るい光、
そして視界の隅にはハンガーに適当にかけられたスーツがあった。



…俺の名前は植草慎一、歳は今年で21になる。
で、先のやり取りを見てもらえばわかるが、これでも一応社会人だ。

まあ社会人と言っても、入社2年目のまだまだ新人。
ちなみに職業は小生意気にもデザイン系の仕事をしていたりする。

職場の雰囲気は悪くないし、基本的に仕事は楽しいものが多い。

だが…

慎一
「…ったく、だから『俺に書類作成は無理です』って言ったんだよ。
こっちは感性とアドリブで勝負する人種だっちゅうハナシで」

最近はいつもの仕事に加え、
色々と雑務を押し付けられることが増えてきた。

先輩達はそれを「頼りにされてる証拠だ」と言うのだが…

慎一
「頼りにするのは得意分野だけにしてくれると助かるんだけどな」

と、またしてもグチがポロリ。
それだけ俺は書類作成…というか文章を考えるのが苦手なのだ。

慎一
「…ま、今回は無事終わったんだし、グチはこの辺にしとくか」

ギシ、ギシッ…

俺はそう言って椅子に深くもたれかかり、ゆらゆらと揺れる。
そして気分転換にTVでも…と、リモコンに手を伸ばした時だった

ピーッ、ピーッ、ピーッ

それまで静かだった部屋が一転、突然鳴り出した電子音に包まれる。

慎一
「ありゃ、灯油切れか…」

音の正体はストーブの燃料切れ警告音。
最近寒くなってきたので先週の終わりから部屋に置いたのだが…

慎一
「そういやここ数日、寒い日が続いてたからなあ」

…ピッ!

そう言って俺はストーブのスイッチを切り、
ポリポリと頭を掻きながらゆっくり立ち上がる。

さすがに今から寝る時間まで暖房無し、というのは少し厳しい。
俺は部屋の温もりを維持するため、給油に向かうことにした。

慎一
「…あ〜あ、こればっかりは仕方ねえもんな」

ま、外の冷たい空気を吸うのも気分転換になるさ。
そう自分に言い聞かせ、俺は灯油タンクを手に部屋を後にした。




ガラガラ…

慎一
「うわ、結構寒いな」

玄関を出た途端に感じる、ひんやりとした空気。
風が吹いていないのがせめてもの救いだった。

慎一
「それにしても…」

…う〜ん、やっぱり何か着てくればよかったな。
俺はそう思いながら改めて自分の格好を見る。

部屋着に裸足、そして履いているのは親父のゲタ。
それはどう見ても11月の夜をナメきったスタイルだった。

慎一
「やっぱ下駄は失敗だったな…」

と、少し後悔する自分。
しかしわざわざ戻って靴を履き替えるのも面倒臭い。

俺は足早に灯油のポリタンクが置かれている車庫の中へと入り、
さっさと給油を済ませることにした。


慎一
「ええっと、確かこの辺に懐中電灯があったハズなんだけど…
お、あったあった」

カチッ

暗い車庫の中、手探りで探し当てた懐中電灯を点け、周囲を照らす。
そしてすぐにポリタンクを見つけ、俺は給油を始めた。

慎一
「…」

そういやコレがこの冬最初の灯油補給になるんだな…
俺はそんなことを考えながら、ぼんやりとタンクを眺める。

聞こえてくるのはチョロチョロ…という灯油が溜まっていく音だけ。
それはそれでどことなく風情があるように思えなくもないのだが…

慎一
「…寒いって。風情なんか感じ取ってる場合じゃねえって」

ここでとうとう本音がポロリ。
それまでジッと黙っていたが、たまらず声を上げてしまう。

慎一
「ダメだ、何でもいいから動いてないと、どんどん寒くなる…」

俺はそう言ってなかなか溜まってくれない灯油タンクの前を離れ、
車庫の中をグルグルと歩き、寒さを誤魔化すことにした。



―そして数分後。

慎一
「よし、これで満タンだな」

程よい重量になった灯油タンクをポンポンと叩き、
俺は満足そうに頷く。

慎一
「さ、部屋に戻って暖まりますか」

しっかりとフタを閉め、足取りも軽く鼻歌混じりで車庫を後にする。
この頃にはもうすっかり寒さにも慣れ、外に出ても全然平気だった。

慎一
「いや〜、よく見ると今日は月が出てキレイですなあ。
このまま散歩でもしちゃおうかな〜?」

と、無駄に上機嫌な俺。
家を出た時は寒々しく感じたゲタの音も気にならなかった。

慎一
「♪〜」

鼻歌も最高潮、何ならこのまま熱唱したって構わない。
そんなノリノリな状態で玄関の前まで来た時だった。

??
「あれ、もしかして慎一クン?」

慎一
「はい?]

全くの予想していなかった背後からの声に、
思わず声が裏返ってしまう自分。…正直これはかなりカッコ悪い。

…誰だ?

情けない声はさておき、
俺はすぐさま振り返り、声がした方向を見る。

??
「やっぱり慎一クンだ。やっほ〜、久し振り〜♪」

慎一
「サエ…」

そこに立っていたのは見覚えのある…というかよく知った顔、
中学時代のクラスメート、永野紗枝だった。

紗枝
「あ、覚えててくれたんだ。嬉しいな〜」

慎一
「いやいや、そりゃ結構久し振りだけどよ、
顔を見忘れるくらい会ってない訳じゃねえだろ」

紗枝
「あはは、それもそうだね」

ニコッと笑い、イエーイと言わんばかりに親指を突き出すサエ。
それは中学の時から変わらない、喜んでいる時に見せる仕草だった。

…懐かしいな。
そういえば昔からよく笑ってたよな、コイツ。

俺はサエに合わせ、親指を突き出しながら中学の頃を思い出す。
そう何年も前のことではないが、とても懐かしい感じがした。



…永野紗枝、年齢は勿論俺と同じ21歳。
先にも言ったように、彼女は中学の頃のクラスメートだ。

サエとは中学の2年、3年と一緒のクラスになり、
その時から結構仲良く喋っていた記憶がある。

残念ながら中学卒業後はお互い別の高校に進んだため、
以降あまり交流は無かったが、それでも会えばこうして話している。

確か最後に会ったのは1年くらい前だったと思うのだが…

慎一
「っていうかサエ、こんな時間に何してんの?」

と、まず先に疑問に思っていたことを聞いてみる。
家は近所なので、ここを通ってもおかしくはないのだが…

紗枝
「お仕事です〜」

俺の問いに対し、そう言って頬を膨らませるサエ。
よくわからないが急にご立腹モードに移行したようだ。

慎一
「ん?仕事って…
ああ、そうか。もう学生じゃねえんだな」

紗枝
「そゆこと。ワタクシ永野紗枝、この春に短大を卒業して、
今はOLとしてバリバリ働いております」

慎一
「へ〜、そうだったんだ」

そう言って素直に頷きつつ、よ〜くサエを見てみる俺。
なるほど、確かに着ているのはスーツだし、足元もハイヒールだ。

紗枝
「えへへ、こう見えて化粧品の開発なんかやってたりして。
…普段は全然お化粧なんかしないんだけどね」

ペロリと舌を出し、ごまかし笑いをするサエ。
まあコイツならスッピンでもそれなりに見れるかもしれないが…

慎一
「おいおい、そんなんでいいのかよ?
よくわかんねえケド、色々と問題あるんじゃねえの?」

紗枝
「大丈夫だよ、営業や販売みたいに外に出る仕事じゃないからね。
それに普段お化粧しない人の意見って、すごい貴重なんだってさ」

慎一
「ふ〜ん、なるほどな。そういう考えもアリだな」

紗枝
「そんな訳で入社1年目、ピチピチの新人として頑張ってますデス。
…あ、もし女装に目覚めたら言ってね。キレイにしちゃうから」

慎一
「や、キレイにしちゃわなくて結構ですから」

紗枝
「そっか、残念」

いやいや、何をマジで残念がってるんだコイツは。
前に1回でも女装に興味ある、とか言ったか?

慎一
「まあ女装はさておき、こんな時間まで仕事なんて大変だな。
…もしかしてもう年末商戦が始まってるとか?」

紗枝
「うん、だからここ最近からすごく忙しくなってさ、
今週に入ってからはずっと遅くまで残業だよ」

サエはそう言って口を尖らせ、またしても頬を膨らます。
…そうか、だからさっき急に不機嫌になったのか。

慎一
「…」

紗枝
「あれ、どしたの?」

慎一
「うん、何か励ましの言葉でも…と思ったんだけどさ、
悲しいかな上手い言葉が出てこない」

紗枝
「あはは、そんな気にしなくてもいいよ〜」

両手をパタパタと振り、いつもの笑顔を見せるサエ。
どうやら怒り爆発、という状況ではないようだ。

紗枝
「それにさ、なんだかんだ言って今の仕事、結構楽しいんだよね。
やりがいもあるし、自分に合ってると思うし…」

と、ここで急にサエの言葉が止まる。
そして俺を少し見つめた後、どこか遠慮がちに口を開く。

紗枝
「…あのさ、私から話しかけておいて言うのもおかしんだけど、
その格好でずっと外にいるの、寒くない?」

慎一
「…ん、まあちょこっとは」

サエの問いかけに素直に頷く俺。
確かにさっきまでは平気だったが、今はさすがに少し肌寒かった。

紗枝
「も〜、気付かずにいた私も悪いけどさ、
そういうのはしっかり言おうよ〜」

慎一
「いや、寒さより会話の楽しさの方が強かったからさ。
…でもまあこんな格好で話し込むのはよろしくないよな」

紗枝
「うん、なんてったって足元はゲタだもんね」

慎一
「しかも手にはストーブのタンクだしな」

紗枝
「そうだね」

そう言ってサエはクスクスと笑い出す。
多少控え目なのは彼女なりの配慮だろう。

慎一
「…で、どうするよ?
もしまだトークに花を咲かせる気なら着替えてくるけど…」

紗枝
「あ、いいね。久し振りに会ったんだし、もう少しお話したいな〜
…そうだ、ねえ慎一クン、お散歩しながらお喋りってのはどう?」

慎一
「散歩?」

紗枝
「うん、懐かしの通学路を歩きながら色々お話する…みたいな」

慎一
「いいんじゃねえの?
…じゃあ悪いけど、着替えてくるからちょっと待っててくれ」

紗枝
「うん、わかった」

自分の提案が受け入れられたのがよほど嬉しいのか、
サエはコクリを頷き、小さくガッツポーズまで見せる。

…あんな喜ばれるとこっちも楽しくなってくるな、
俺は早足で玄関に向かいながらそんなことを考える。

ガラッ、ピシャ!
…トントントントントン…

慎一
「通学路を散歩、か…」

俺は階段を上がり、自分の部屋に。
そしてまず靴下を履き、続いて適当に着替えを済ませて準備完了。

一応鏡で髪型なんかも軽く整え、急いで玄関へと向かう。
要した時間は3分弱、これはなかなかのタイムだ。

慎一
「…う〜ん、もしかして俺、結構楽しみにしてる?」

サエの前では普通にしていたが、
夜の散歩と聞いて少しテンションが上がったようだ。

まあ昔から喋っていて楽しかったサエと一緒なんだ、
これも当然のことかもそれないな…

俺はそう思いながら素早く靴を履き、
玄関先で待っているサエの元へと向かう。

慎一
「お待たせ、それじゃ行こうか」

それでもサエの前ではいつもの調子で立ち振る舞う俺。
これも中学時代から変わっていないことだ。

…どうしてだろう、
昔からコイツの前ではイマイチ素直になれないな…

紗枝
「ううん、全然待ってないよ…って、
何だかカップルの待ち合わせみたいだね」

慎一
「そうだな〜、今の格好なら見た目も不自然じゃないし、
結構カップルっぽく見えるんじゃね?」

…こうして軽口は叩けるのに、楽しく喋れるのに。
どうして変なところで気負いや遠慮が出るんだろう…

ズキリと心が痛む、とかではない。
が、しかしどこか釈然としない。

そんな感情が急に現れ、瞬時に消える。
だが完全には消えず、また気を抜くと現れそうな感じ。

…ああ、この感覚、
そういえば中学の頃も…

紗枝
「…あれ、どうしたの?
カップル宣言しておいてそのまま放置?」

慎一
「あ、悪ぃ。ちょっと部屋の電気を消したか考えててさ。
…っていうかさっきの、カップル宣言になるのかよ?」

サエの言葉に対し、とっさに出るそれらしい理由。
そしてそれを悟らせないよう、素早く話を切り替える。

紗枝
「うん、少なくとも私はそう捉えちゃったけど」

慎一
「スゲーな、そう捉えちゃったか…
なあ、もしかして想像妊娠とか頻繁にするタイプ?」

紗枝
「ていっ!」

ポム、というショボイ音。
見るとサエは俺のみぞおちに突きを繰り出していた。

慎一
「…相変わらずいきなりですな。
しかも正確に身体の中心を突いてくるし」

紗枝
「相変わらずは慎一クンの方でしょ!
普通そんなこと聞く?想像妊娠よ?しかも頻繁って!」

慎一
「いや、世の中にはだな、それを趣味としている人も―」

紗枝
「…慎一クン?」

慎一
「…スイマセン。もう言いません」

おおっと、危ねえ。
こめかみがピクリと動いたら危険信号だ。

…もうこのネタは使うまい。
俺は長年の経験からそう察し、素直に謝った。

紗枝
「さ、お散歩しようか」

慎一
「…ハイ」

何やら一瞬緊張が走ったが、
こうして俺達は夜の住宅街、元通学路を歩き出す。

その距離は付かず離れず、ちょうどいい間隔だった。




―歩き出して数分後。

紗枝
「何か不審人物みたいだね、私達」

何度か道を曲がった辺りでサエが話しかけてくる。
すでに道は普段通らない、懐かしいゾーンに入っていた。

慎一
「その自覚があるならそんなにキョロキョロすんなよ」

紗枝
「は〜い」

しっかり返事はするものの、変わらず周囲を見渡すサエ。
まあ久し振りに歩く道だ、気持ちは分からなくもない。

慎一
「それにしてもアレだな、
結構街並みが変わってると思ってたケド…」

紗枝
「意外とそうでもないね」

慎一
「だな」

紗枝
「でもさ、あまり変わってない方がいいよね。
全然違ってたらちょっと寂しいもん」

慎一
「ああ、そうだな。…って、おお!」

紗枝
「え、なになに?」

突然大きな声を上げ、会話をブチ切ってしまう俺。
しかしそれにはちゃんとした理由があった。

慎一
「うわ〜、この自販機、まだ残ってのか…
『スイカソーダ』、ここにしか売ってないんだよな」

俺の視線の先にあるのは古ぼけた駄菓子屋の先にある、
これまた年季の入ったジュースの自販機。

その自販機には当時と変わらない、
俺達の中でレアとされていたスイカソーダが並んでいた。

紗枝
「へ〜、慎一クン飲んだことあるんだ。
私は気になってはいたんだけど…」

やはり性別は違えど同じ学校の同じ学年。
サエもこの希少ジュースの存在は知っていたようだ。

慎一
「飲まなくて正解だぜ」

紗枝
「そうなんだ。ははは…」

あえて多くは語らない俺に、乾いた笑いを浮かべるサエ。
その顔は「あ、やっぱり?」と言わんばかりの表情だった。

慎一
「う〜ん、しっかし懐かしいなあ。
どうだサエ、飲んでみるか?おごるぞ?」

紗枝
「いい。エンリョしときます」

慎一
「そうか、残念だな。
…あ、じゃあ暖かいコーヒーなら飲むか?」

紗枝
「え?」

慎一
「いや、もしかしたら寒いんじゃないかな〜と思って。
だってお前、スカートじゃん…って、生足!?」

と、ここでようやくサエが生足だということを知る俺。
さっき足元を見た時に気付けよ…

紗枝
「うん、何かストッキングって慣れなくて…
今まで履いたことなかったからかな、変なカンジがするんだよね」

慎一
「寒くね?」

紗枝
「ううん、平気。これでもずっと部活やってたし」

慎一
「…」

紗枝
「私、高校に進んでもテニスを続けてたから…
って、何ジロジロ見てんのよ」

慎一
「…目の保養?」

紗枝
「半疑問系で言われても…というか恥ずかしいんですけど」

慎一
「いいよね、生足。
スーツ姿でビシッと決めてるのに生足、非常によろしい!」

紗枝
「…聞いてないし」

慎一
「う〜ん、今までは二の腕が一番のフェチポイントだったけど、
こりゃ生足も捨てがたいな…」

紗枝
「うわ、何かフェチとか言ってるよ。
しかも二の腕が一番って…」

慎一
「何だよ、その得体の知れない生物を見るような目つきは」

紗枝
「だって実際そうなんだもん。
理解出来ないよ、二の腕ってそんなにいい?」

慎一
「おう、たまんねえな。
もし二の腕だけを写した写真集があったら間違いなく買うね」

紗枝
「…」

慎一
「あの柔らかい感じが何とも言えないんだよ。
もうずっと見ていたいね。そして隙あらば揉みほぐしたい」

紗枝
「…」

熱弁を振るう俺と、そんな俺の様子を冷ややかに見るサエ。
…あれ、何だこの温度差?

慎一
「…もしかして引いてる?」

紗枝
「引いてる」

慎一
「うわ、即答だ」

紗枝
「もう、せっかく久し振りに会ったのに…
どうして想像妊娠とか生足の話になるかなあ」

慎一
「まあまあ、そう悲観するなって。
考えようによっては素晴らしい会話じゃないか」

紗枝
「え〜?」

どこがよ、と今にも言葉を付け加えてきそうなサエ。
まあ確かにこれだけじゃ説明不足だよな…

慎一
「久し振りなのにこんな話が出来る…、
言い換えればそれは俺達の間に時間の壁がないってことだろ」

紗枝
「…」

慎一
「確かに今のは俺が悪ノリした部分も多々あったけど、
変に改まったり、上辺だけの会話よか全然マシだと思うぜ?」

紗枝
「う〜ん、それはそうだけど…
出来れば思い出話とかしたいなあ」

慎一
「ああ、さすがに俺もこんな話ばかりしたい訳じゃねえからな。
今までのはちょっとしたおふざけ、ということで」

紗枝
「全然”ちょっとした”じゃないよ、もう」

慎一
「ははは、スマンスマン。
…でもあの自販機の話は思い出トークになってただろ?」

紗枝
「その後あんな話に逸れなきゃね」

慎一
「はいはい、すいませんね脱線させちゃって。
…そんじゃま、気を取り直してお散歩再開といきますか」

紗枝
「うんっ」

サエはそう言って頷くと、いつもの笑顔を見せる。
どうやら機嫌は元に戻ったようだ。



…そしてここから俺とサエの思い出トークが始まり、
中学時代の懐かしい面々が話題に登場してくる。

紗枝
「あ、そうそう。
この前さ、駅前で小林クンに会ったよ」

慎一
「小林って…、あの修学旅行の時、
土産屋で木刀をバカみたいに買い込んだ小林か?」

紗枝
「あはは、あったね、そういうこと」

慎一
「う〜ん、懐かしいな〜」

紗枝
「小林クン、アーケード街でギター弾いてるんだって」

慎一
「ふ〜ん、そういやアイツ、メチャクチャ歌上手かったからな」

紗枝
「結構人気あるみたい。このまま有名になってくれるといいね〜」

慎一
「ああ、小林ならなれるかも。
…でもアレだな、ウチのクラスって有名人候補、結構いるよな?」

紗枝
「そうだね。小林クンの他にも大渕クンとか三浦クン、
それに橘さんとか…」

慎一
「お、これまた懐かしい名前が連続で…
大渕か〜、理科室のアルコールランプを盗んだこと、あったよな」

紗枝
「うんうん、確か理科室から持ち出すのは成功したんだけど、
カバンに入れてたらガラスが割れてバレちゃったんだよね」

慎一
「そんな実験器具オタクだった大渕も今は大学の研究員だからな。
ホント、世の中どうなるか分かんねえよ」

紗枝
「三浦クンも頑張ってるみたいだしね」

慎一
「プールの塩素を海パンに入れて炎症起こしたヤツが国体選手か…
ええっと、平泳ぎでいい記録出したんだっけ?」

紗枝
「うん、もう少しで大会記録だったみたい」

慎一
「オレは忘れねえぞ、海パンに塩素入れた理由が、
『…巨根』っていう一発ギャグを言うためだった、って事を」

紗枝
「三浦クンにとっては忘れ去りたい過去だろうね」

慎一
「…で、残るは橘ちゃんだけど、
確か彼女ってプロのモデル目指してるんだっけ?」

紗枝
「うん、高校の時にファッション雑誌の読者モデルになって、
そこから本格的にプロを目指すことにした…って話だよ」

慎一
「まあ確かにキレイだけど、あいつの口の悪さは犯罪級だからな。
オレも1回ボロクソに言われたよ…」

紗枝
「ええっと、『このゴミ虫の糞が!』って言われたんだっけ」

慎一
「正解。…いや〜、ゴミ虫の時点で相当な言われようなんだけど、
さらに一歩進んで『糞』だからな」

紗枝
「さすがの慎一クンも言い返せなかったよね」

慎一
「無理無理。あの女と正面きって口論するのは自殺行為だ。
気の弱いヤツなら軽く鬱になるからな」

紗枝
「毒薔薇のあだ名は伊達じゃない!って感じだね」

こうして立て続けに出てくる味のあるクラスメート達。
もうここまで来ると『味』とかの言葉じゃ括れないよな…

慎一
「う〜ん、俺も色々思い出してきたぞ…
ああ、バカやってたヤツがどんどん頭の中に…」

紗枝
「誰が出てきたの?」

慎一
「まずピンポン球で海ガメ産卵ショーをやった井上だろ、
それに学校内でエロ本のレンタルをして稼いでた松原に…」

紗枝
「松原クン、そんなコトしてたんだ。…ちょっとショック」

慎一
「あと何と言ってもこういう話に欠かせない存在なのが…」

紗枝
「もしかして高橋クン?」

慎一
「そ。アイツはもう別格だからな、バカの度合いが」

紗枝
「あはははは。確かに。
う〜ん、私が知ってる中で一番はやっぱりアレかな、台風の話」

慎一
「ああ、勝手に『明日は台風なので休校になりました』って、
ウソ情報をクラスの連絡網に流したヤツだろ?」

紗枝
「そうそう。確かクラスの半分以上は騙されちゃったんだよね〜」

慎一
「オレはやっぱアレだな、
体育の岡田のズボンを下ろした事件がスゲー印象に残ってる」

紗枝
「それって英語の美香子先生の前でパンツごと下げちゃった話?」

慎一
「おう、それそれ。いや〜、あの時はメチャクチャ笑ったよ。
…卒業文集には載ることのない、負の歴史ってやつだな」

紗枝
「確かあの後、すっごい怒られてたよね」

慎一
「ああ、頭が変形するまで殴られてた」

紗枝
「変形って…」

慎一
「今だったら大問題だよな」

紗枝
「当時でも十分に問題アリだよ…」

慎一
「それと有名な話と言えばアレだよな、
テレビに出て学校をサボったのがバレたやつ」

紗枝
「それってゲームの発売日に並んでるのをテレビに撮られた話?」

慎一
「そうそう、インタビューに笑顔で答えてやんのな。
…で、当然バレて、次の日生徒指導室で6時間のお説教、と」

紗枝
「もうここまでくるとちょっとした伝説だよね」

慎一
「ああ、そこいらの芸人より笑えるしな。
…う〜ん、高橋のネタは出したらキリがないなあ」

紗枝
「あはは、言えてる。
他にも面白い人、たくさんいたはずなのに出てこないもん」

慎一
「おっと、忘れちゃいけないメンツはまだまだいるぜ?
例えばお年玉でぶら下がり健康機を買った仲居とか…」

紗枝
「ああ、エマニエル君!」

慎一
「うわ、女子はそんな名前で呼んでたのか。
ストレートだな〜」

紗枝
「え?男子は違う呼び方してたの?」

慎一
「俺らの間では『豆』だったな」

紗枝
「それもどうかと思うけど…」

慎一
「あと他に面白いヤツ…って、思い出した!
そうだ、アイツがいたか!」

紗枝
「え、誰のコト?」

慎一
「ホラ、校庭に入ってきた野良犬を―」

…一度思い出のスイッチが入ると止まらなくなり、
次々と面白い人物、エピソードを思い出す俺。

サエもそんな俺の話に乗り、
時に激しく同意、そして時に大笑いを繰り返す。

そんな感じで散歩トークは大盛り上がり。
知らない間に俺達は結構な距離を歩いていた。




慎一
「…でさ、相原のあだ名が『いぶし銀』だったよな」

紗枝
「そうそう、先生たちも普通に呼んでたよね」

慎一
「だってあの顔は『いぶし銀』以外呼びようがねえもんな。
…って、ありゃ。もうこんなトコまで来てたのか」

俺はそう言って足を止め、
すぐ先にある曲がり角を見つめる。

紗枝
「うわ、もう学校の前じゃん」

…そう、あのカーブを曲がるとすぐに俺達の母校。
もう少しで校門が見えてくる、という場所まで来ていた。

慎一
「ってコトはもう20分以上喋ってたのか…
う〜ん、思い出トークってすげえな」

紗枝
「そうだね〜。
まさか私も学校まで歩くとは思ってなかったよ」

慎一
「まあいいんじゃね?楽しかったしさ。
…よし、そんじゃ校門の前まで行くか」

紗枝
「うん」

サエはそう言うと、すっ…と俺の隣に並び、
少し大きめな俺の歩幅に合わせて歩き出す。

が、それも束の間。
何かを見つけたのか、急に立ち止まって俺を見る。

紗枝
「…あそこの角の家、知ってる?」

慎一
「ん?あの青い屋根の家か?」

紗枝
「そう」

慎一
「いや、分かんねえ。…誰の家なんだ?」

紗枝
「佐々木美和ちゃん。覚えてるかな?」

慎一
「あ〜、あの大人しくて声の小さいコね」

紗枝
「うん、その美和ちゃん。去年結婚したんだってさ」

慎一
「へ〜、知らなかったな。
じゃあこれでウチのクラスの既婚者は2人目か」

紗枝
「だね」

慎一
「そっか、結婚か…
俺にはまだまだ先のことってカンジだけどな〜」

紗枝
「そういえば慎一クン、
昔から恋愛話にはあまり登場してこないよね」

慎一
「ああ。それは今も変わってねえな」

紗枝
「え、そうなの?」

慎一
「俺はまだ仲のいい連中とバカやってる方が楽しいんだよ
…こればっかりは全然変わってないな」

紗枝
「ふ〜ん」

慎一
「何だよ、腑に落ちないって顔だな」

紗枝
「ううん、別にそんなことはないよ。
やっぱりそうなんだ〜って感じのほうが強いくらい」

慎一
「何だかんだ言ってやっぱ楽しいんだよ、
昔っから仲のいい友達と遊ぶのって」

紗枝
「…羨ましいな、そういうトコ」

慎一
「いやいや、いつまでもバカやってる訳にはいかないって。
俺ももう少し大人にならないと」

紗枝
「そうかな、結構大人だと思うよ、慎一クンは」

慎一
「や、それはないだろ」

紗枝
「またまた、謙遜しちゃって」

慎一
「う〜ん、じゃあ聞くけどさ、
俺のどういうところが大人だと思うんだ?」

紗枝
「しっかり自分を持っている…そんな感じかな。
慎一クンって周囲に流されない部分、あるじゃない?」

慎一
「まあ…多少はあるかも」

紗枝
「それだよ、私が慎一クンを大人だと思うのは」

慎一
「う〜ん、そう言われるとちょっと嬉しいなあ」

紗枝
「あ、照れてる」

慎一
「うっせえ!」

…ったく、もし本当に俺が大人なら、
こんなことで照れたりしねえっての。

俺はそう心の中でツッコミを入れ、
いつのも調子に戻ろうとする。

…が。

慎一
「…」

…何だろう、また”あの”感覚だ。

ズキリと心が痛む、ではないものの、
どこかスッキリしない、原因不明の感覚。

…いや。

違う、原因不明なんかじゃない。
ただ、気付かないフリをしていただけだ。

今さっき、照れてサエに悪態をついた時、
あれが決定打となり、全てを理解した。

…いや。

理解、ではないな。
自覚を持った、という方が正しいだろう。

…どうして、
どうして俺はこうも素直じゃないんだ。


そう、俺はずっと前からサエが好きだった。
そして、そのことから逃げるように立ち振る舞ってきた。

”しっかり自分を持ってる”だって?
違う、そんなんじゃない。

…俺はただ、踏み出せずにいただけなんだ。


慎一
「…」

紗枝
「…慎一クン?」

急に黙ってしまった俺を見て、
サエが心配そうに見つめてくる。

…ああ、やっぱりそうだ。
俺はこの瞳に弱い。どうしようもなく弱い。

…ダメだ、
やっぱ俺、大人には程遠いな…

慎一
「…オレ、お前のこと好きだわ」

紗枝
「え!?」

慎一
「多分中学の時からずっと好きだったと思う」

…それは突然、
そしてタイミングを一切無視した告白だった。

慎一
「…でも、何か恥ずかしくて、
わざと避けてきた。わざと考えないようにしてきた」

紗枝
「…え、え?」

戸惑いを隠せないサエ。

…すまない。悪いとは思っている。
でもダメなんだ、こうなったら止まらないんだよ、俺は…

慎一
「でも、今になってやっと気付いたんだ。
オレはずっとサエが好きだった、って」

紗枝
「…あ」

目が合う。
それは俺から、しっかりと見つめようとしたから。

サエは驚いたように短い声を上げるが、
目を逸らしたりはしなかった。

…そういえばこうしてしっかり見つめたこと、
今まで一度もなかったな。

ふとそんなことが俺の頭をよぎる。

そしてここで俺からの一方的な告白は終了、
本来であればサエの返事を待たなければならないのだが…

紗枝
「…」

サエ、あまりにも突然のことに言葉が出ず。
まあ仕方ないと言えば仕方ないか…

慎一
「やっぱいきなりすぎたな、スマン」

紗枝
「…そ、そんな謝らなくても…」

慎一
「悪い、せっかく久し振りに会えたのに」

紗枝
「え…」

慎一
「でもな、今言っておかないとダメだと思ったんだ。
変に気持ちを隠したりするのはもう嫌だ、そう思ったんだ」

紗枝
「…」

慎一
「だから今だけ、あの瞬間だけ、
自分の気持ちをストレートに口に出した」

紗枝
「…っ」

慎一
「多分初めてだと思う。
こうして相手の気持ちも考えないで喋ったのって」

紗枝
「…」

まだサエは口を開かない。
しかし、それはかえって好都合だったのかもしれない。

慎一
「…でさ、いきなりついでなんだけど、
出来れば返事を聞かせて欲しい」

紗枝
「…!?」

慎一
「勿論今すぐにじゃなくていい。
でも、俺も結構テンパってるから早く返事を聞きたい」

紗枝
「あの、その…」

慎一
「…もしOKなら、明日のこの時間、校門前に来て欲しい」

…我ながら勝手だな、と思う。
やはり大人とは程遠いな、と思う。

でも、ここは強引にでも自分の想いを伝えよう。
根拠はないが、俺は変な自信に後押しされていた。

おそらくそれは玉砕覚悟、
例えダメでも構わない、そんな気持ちがあったのかもしれない。

それだけ俺の中では”今のままではダメだ”という気持ちが、
好きな人の前だけでは自分を偽りたくないという気持ちがあった。

それは暴走、感情に流された愚行かもしれない。
だが俺はそれでも構わなかった。

…そして、これまた勝手ながら、
心のどこかでサエなら分かってくれると思っていた。

慎一
「…それじゃ俺は行くから」

紗枝
「え、ちょっと…」

サッ…

サエが何かを言いかけた瞬間、
俺はその言葉を遮るかのように歩き出す。

本当は全力で走り去りたかったが、
それではあまりにもサエに悪い。

今まで散々勝手に喋っていたのに、
別れ際だけ配慮すんのかよ。

…そう思いながら、俺はその場を後にした。
当然、後味は最悪の部類だった。





…そして次の日。

慎一
「…」

時刻は昨日サエと出会った時刻を大きく過ぎ、
既に日付が変わって結構な時間が過ぎていた。

慎一
「…今日も冷えるな」

気分的なものもあるかもしれないが、
今日の風は昨日よりも冷たいように感じた。

慎一
「…はあ」

と、ため息を1つ。
その息は白く、一瞬視界を覆う。

…あ〜あ、やっぱ昨日のは暴走だよなあ。
ホント、何やってるんだろ、俺。

そう心の中で呟き、頭をポリポリと掻く。

慎一
「…」

チラリと時計を見て時刻をチェックするも、
さっき見た時から5分も経っていなかった。

慎一
「熱くなると周囲が見えない…、
そういうトコは全然成長してねえな」

チッと舌打ち。
そして自己嫌悪、ひたすら自己嫌悪。

慎一
「あ〜、もう!」

今になって昨日の言動、立ち振る舞いを悔やむ俺。

もう過ぎてしまったものは仕方ない、
そう思えるだけの余裕があればよかったが…

慎一
「そこまで大人じゃねえよ、俺は」

吐き捨てるようにそう言うも、
残るのは虚しさだけ。

慎一
「…」

そしてまた黙り込み、
来るかも分からない待ち人を待つ。

それは今日一日だけでもう何回も繰り返された行動。
…つくづく自分は子供だな、と思う。

慎一
「12時50分…か」

なかなか進まないと思っていた時間だが、
所詮それは錯覚でしかなかった。

早く進んで欲しかったのか、
それとも時が止まって欲しかったのか。

待ち続けていたい?
それとも早く帰りたい?

繰り返される自問自答、
答えの出ない、そして明確な答えなどない自問自答。

そして…

慎一
「…ふう」

大きく息を吐き、目を閉じる。

その吐息はそれまでのものとは違い、
何か決意のような気持ちが込められていた。

慎一
「…帰るか」

タイムアップ、ゲームオーバー、
そんな言葉で頭が一杯になる。

慎一
「…」

長年くすぶらせていた想いに気付き、
その気持ちを伝えるべき相手に伝えた。

…ならばそれでいいじゃないか、
少なくとも悔いは残らないじゃないか。

そう言い聞かせ、俺はその一歩を踏み出そうとする。
だが…

慎一
「…嫌だ」

ボソリと、しかしどこか力強く。

慎一
「…そう、簡単に、諦められるかよ…」

グッと拳を握り、歯を食いしばり。

慎一
「割り切れるかよ、そこまで大人じゃねえよ、俺は…」

情けなさ、幼さ、やりきれなさ。

…そして、敗北感。

それは決して外に向けられた感情ではなく、
自分に向けられたもの。

…俺は、まだまだ子供だ。
ただ、ひたすらに駄々をこねる子供だ。

慎一
「少しは成長したと、思ってたんだけどな…」

始まる嗚咽、そして流れる涙。

慎一
「クッ…」

悔しかった。
よくわからないが、とにかくやるせなかった。

でも…

慎一
「…もう、行こう」

ここにいるのは、もう耐えられないから。
どんどん自分が弱く見えてしまうから。

慎一
「情けねえ…」

…つつ、と涙が頬を伝わる感覚。

俺は泣いているのか?
もう、それすらわからなくなっていた。

慎一
「…」

帰ろう。
もう、帰ろう。

帰るんだ、俺は。
もう行くんだ、諦めるんだ。

…スッ

一度は止まりかけた、その一歩が再び動き出す。


その時だった。

紗枝
「このバカ!最近メチャクチャ忙しいって言ったでしょ!」

慎一
「…え?」

…サエ?
確かにこの声はサエだ。

俺は何度もまばたきを繰り返し、
目に溜まった涙を押し流す。

すると見えてくるシルエット、
その人物は確かに俺の前に立っていた。

紗枝
「もう、これでも急いで走ってきたんだからね」

そう言って大きく息を吐き、呼吸を整えようとするサエ。
しかしその息はまだまだ荒く、肩を大きく上下させている。

慎一
「…あ」

ふとサエの足元を見ると、
そこにはハイヒールではなくスニーカーが。

…まさかこのために、少しでも早く走ろうと?

慎一
「サエ…」

紗枝
「勝手に告白して、勝手に場所指定して、
勝手にタイムリミットまで決めて…」

怒っている…のか?

紗枝
「勝手に諦めるなんてヒドイよ…」

慎一
「…え」

紗枝
「私だってずっと、ずっと前から好きだった!
…だから、好きだったから、嬉しくてすぐには喋れなかった!」

それまで内に秘めていたであろう感情が一気に放たれる。
彼女の口から発せられる言葉は重く、俺の心に突き刺さる。

慎一
「サエ…」

紗枝
「昨日の夜、慎一クンに好きだって言われた時、
嬉しくて言葉が出なかった。身体も動いてくれなかった!」

小刻みな震えから、やがて大きな震えに。
サエは…、サエは泣いていた。

紗枝
「だから…、だから…」

震えは全身だけでなく、言葉にも。

だが、次の瞬間、
サエは俺をしっかりと見つめ、言い放つ。

紗枝
「勝手に諦めるな!」

慎一
「…ッ!」

力強く、内面をえぐるかのように響くサエの言葉。
だがそこに怒りの感情は見受けられない。

あるのは自分を想ってくれているゆえの叫び
彼女の本気がそこにあった。

いつも気丈に振る舞い、笑顔を絶やさない。
しかし本当は結構弱くて、甘えたくて。

そんな彼女に、俺は惹かれていたのかもしれない。
そんな彼女だからこそ、好きになったんだと思う。

…今、その彼女が自分のために泣いてくれている。
大好きだと言ってボロボロ涙をこぼしている。

だったら。
俺に出来ることは1つ。

…そう、たった1つ。

慎一
「サエ…」

ダッ!

地面を蹴り、その場から大きく踏み出す俺。

それはさっきの”逃げ”ではなく、
紛れもない”前進”だった。

向かう先は当然、目の前にいる愛しい女性。
ずっと、ずっと前から好きだった女性。

慎一
「サエっ!!」

ガシ…ッ

それは半ば強引に、
力強くも精一杯の優しさを込めて。

俺はサエを抱きしめていた。
…いや、思いっきり抱きしめていた。

紗枝
「…慎一…クン?」

驚いた、というより、
虚をつかれた、に近い声を上げるサエ。

だがすぐにこの状況の全てを察し、
顔を、そして全身を俺に密着させてくる。

紗枝
「…身体、少し冷えてるよ」

少し震えた声でそう言うと、
サエは俺の腰に手を伸ばし、ギュッと抱きしめてくる。

慎一
「…ああ、結構待ったからな」

負けずにギュッと抱きしめ、
そう言ってサエを包み込もうとする俺。

さっきまで全力で走ってきたであろうサエは暖かく、
出来ればずっとこうしていたいくらい心地よかった。

慎一
「…あ」

紗枝
「どうしたの?」

慎一
「そういやオレ、今日はまだしっかり言ってなかったな…」

紗枝
「…?」

慎一
「あ〜、その、何だ。
順番はちょっとおかしいかもしれねえケドさ」

紗枝
「…」

どこか落ち着きのない俺の言葉にピンときたのか、
サエは黙って俺を見つめる。

慎一
「…オレはサエが好きだ。
ずっと、ずっと前から好きだった」

紗枝
「うん…」

慎一
「…オレと付き合ってくれ」

抱きついてしばらく経ってから言うセリフじゃねえよな、
そう言葉を付け加えようとしたが、やめておく事に。

やっぱここはシンプルに、
照れ隠しのための余計な言い回しなどせず、直球勝負で。

こういう場面くらい、ビシッと決めないと。
…それに、これで十分伝わるさ。

紗枝
「…はい、喜んで」

サエはそれだけ言うと、ニコリと笑う。
そして、一粒だけ涙を流し、また笑う。

俺はそんなサエが可愛くて、
たまらなく可愛くて…

慎一
「…サエ」

紗枝
「…慎一、クン…」

俺達は名前を呼び合うと、
そのまま引き寄せられるように唇を重ねる。

慎一
「…んんっ」

紗枝
「んっ、んん…」

柔らかい感触、漏れる吐息、
そして少し甘い匂いと味。

…こうして俺とサエは唇を合わせたまま、
お互いの唇の感触を味わい続ける。


それは時間にしてどのくらいだったのか、
正直全然分からない。

だが、お互いに唇を離した時、
その時にはもういつもの2人に戻っていた。

慎一
「…ありがとう。嬉しいよ」

紗枝
「…うん」

またしても順序は逆だが、
まずは何より、サエに感謝の気持ちを伝える俺。

慎一
「そしてゴメンな。
その…、勝手に突っ走っちゃって」

続いて昨日のこと、そして今さっきのことを詫びる。
…サエの目を正面から見つめながら。

紗枝
「そうだよ、ヒドイよ…」

慎一
「悪かった。もうあんなコトはしねえ」

紗枝
「うん」

慎一
「お互いの気持ちが分かったんだ、
もう昔みたいな気持ちのすれ違いは起きないさ」

紗枝
「…うん」

慎一
「…サエ、大好きだ。
ずっと前から、そしてこれからも」

陳腐な台詞かもしれない、
使い古された言葉かもしれない。

でも、その言葉に偽りはない。
本当に、自然に出てきた言葉だった。

告白のようで、
それでいて誓いのようで。

紗枝
「うん、私も同じだよ」

サエはそんな俺の言葉に笑顔で頷いてくれた。
それはもう、とびっきりの笑顔で。




…11月。
もう少しで本格的な冬がやってくる季節。

きっとこれからどんどん寒くなってくるだろう。
でも、俺は全然構わない。

だって、今の俺には温もりをくれる人が、
温もりを共有出来る人がいるのだから。

そんな歯の浮くような、ガラにもないことを、
平気で言えるシアワセ。

それは全て、俺の隣で微笑んでいるサエのおかげ。

少し…、いや、かなり遠回りしてしまったけど、
こうして俺とサエは一緒になれた。


それはある日の夜、肌寒い通学路で。

思い出と共に蘇った恋心が、
ずっと想い続けてきた相手に伝わる。

その時、その瞬間、
2人は時間の壁を越え、心の垣根を越えて。


それはある日の夜、思い出の通学路で。

1度は離れそうに、諦めそうになったけど、
それでも俺とサエと一緒になれた。

今こうして抱き合い、
お互いの顔が近くにあるという事実。

それが全てであり、
それ以上もそれ以下もない。


…11月。
寒空の下、懐かしい場所で。

俺とサエはお互いの想いを伝え、
通じ合い、そして最高の形で

そう、
それはある日の夜、思い出の通学路で―




            「ふたり歩くは夜の道 〜肌寒さと思い出の通学路〜」 END








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「ふたり歩くは夜の道 〜肌寒さと思い出の通学路〜」
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