「階段を数える」



ホームズを読む度、いや、読み返す度、しばらくは名探偵気取りで立ち振る舞ってしまう事がある。
自分でも子供だなと思わなくもないが、「それはホームズの面白さがそうさせるのだ」と、「きっと多くの人が同じ気持ちになっているに違いない」と言い聞かせ、勝手に納得しては名探偵気取りを続ける。

こうしてホームズに感化された自分はまず家の階段を数え、よく遊びに来る友人にその数を問う。そして答えられないと得意気に正解を言い、「ただ見る事と観察する事は違うのだ」とホームズの受け売りを始める。

ひとしきり喋り終えた後、続いて始まるのは遊びに来た友人の観察。
普通に会話をしながら、いつものお喋りを続けながらも、着ている服に何か付着物はないか、手に小さな傷や何かの切れ端、塗料の類は付いていないかを調べる。
が、どれだけ入念に調べようとも、ホームズばりの冴えた推理は働かず、結局自分が確信を持って言えるのは、さりげなく近付いた時に感じた「コイツ牛丼食ってきたな」という、正常な嗅覚を持つ者なら誰もが気付く事程度。
しかも相手に「さっき牛丼食って来たんだよね」と、こちらが聞いてもいないのに喋り出し、唯一掴んだ情報は何の意味もなくなってしまう。そして自分はこう痛感する、「やはりホームズのようには上手くいかないものだ」と。

だが自分はまだ諦めない。まださっき読んだ謎解きの余韻が、事件解決後にホームズの口から発せられる小粋なセリフが頭の中にあり、それらセリフを自分も言いたいと、的確な場面で自分も使いたいという気持ちが強く残っているから。

そして、自分の中にあるシャーロッキアン魂をそれまで以上に燃やし、ホームズっぷりを如何なく発揮すべく、再び自分を名探偵と重ね合わせ、頭を推理一色に染めては日常に戻る。

どこか外に出かけるとなると、そこに着くまで通った階段の数を記憶する。
そして買物であれば無駄に産地を当てようと推理を始め、食事であればその店の料理からシェフの人物像を推測する。
その最中、料理の中に珍しい宝石が何かの間違いで入っていないかとも思うが、それはホームズ本人の考えではなくホームズ好きの考え。「それは違うぞ」と自分に言い聞かせ、出てきた料理に使われている食材に推理の目を向ける。

そうこうしているうちに名探偵流の観察は意外と大変だと、これは面倒だぞと思い始め、適当な所でそれまで熱心に行なっていた観察をやめる。
だって事件など起こらないのだから、もし起きたとしても自分の元に依頼は来ないのだから、そもそも自分はホームズではないのだから。それら言い訳を考え、誰に言うでもないのに用意する自分。この部分だけ完璧でも何ら意味はないのだろうが、こうして自分内で展開していた名探偵モード、名前を付けるのなら「ホームズ・ビュー」は終了。自分の脳内は通常のそれに、これも何か名前を付けるとしたら「ワトソン・ビュー」とでも言うべきものに戻る。

だが、それでも階段だけは数える自分がいる。
そこで自分は思う。「やはりホームズは偉大だ」と、「やはり自分はホームズを愛し、憧れているのだ」と。
そして同時にこうも思う。「自分は何と感化されやすいのだろう」と。

この階段を数えるだけのシャーロック・ホームズ、おそらくかなりの人数がいると思うのだがどうだろう。願わくばお会いしたい所である。









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